あ、あと
そもそも肝心の本文は読ませていますか? 本文を読まないと、例えば「真冬の人物造形は書かれているのかいないのか」
がChatGPTには判断出来ないので、感想が適切かどうかの判断も出来ませんよね。別に本文読み込ませて構わないので
その上でもう一度同じことをしてみてくださいな。
なるほど
ここで人格攻撃をしているのは飼い猫ちゃりりんですから、あなたのことだったのですね、夏目胆石ってのは。
しかしまぁ、本当に終わってますねここは。悪貨は良貨を駆逐する、この格言通りになってますね。
偏差値45さん、生成AIはこれまでのやり取りなんか知りませんし、しいなここみが意図的に人の作品を侮辱して
自分の作品の感想に導くという事をしている、とか知りませんからね。その分析は参考にはなりません。
あと、それChatGPTでしょうけど、そんなものに頼らないでご自分の考えを述べたらいいですよ。
辟易してきました
このサイト色々終わってますね。
特定の個人というより、運営や、投稿サイトとしての機能面に問題があるのでは?と思います。
知りながら楽しんでた所もありましたが笑
こちらにももう顔は出しませんので、
どうぞ永遠にお気の済むまで、
無益な悪罵と創作をお楽しみください。
(これまで一般的なトーンのコメントをくださった皆様、どうもありがとうございました)
飼い猫がいう夏目胆石さんとは、
コメント欄で人格攻撃をする人のことです。平山さんは身に覚えがあるんですか?
平山文人氏の「 草いきれ」でのコメント欄の流れでしょうか。
AIに聞いてみましたよ。
なにか揉めているようです、なんですか?
このやり取り全体を読むと、作品そのものへの感想だけでなく、「批評とは何か」「純文学とは何か」「作者は批評にどう応答すべきか」という議論に発展しています。
大まかな流れを整理すると、
肯定的な感想
夜の雨、えんがわ、久々の男、めめくらげなどは、文章や空気感、主人公の内省、成熟した人間関係を評価しています。
特に「恋愛にしなかった終わり方」「神戸の風景」「静かな日常」が長所として挙げられています。
批判的な感想
青井水脈は「草枕」との距離やタイトルについて意見を述べています。
しいなここみ、塩瀬ヨリは、
真冬の行動のリアリティ
主人公の人物造形
他者性の不足
イノシシの扱い
ご都合主義
などを具体的に指摘しています。
作者(平山文人)の応答
自分の狙い(草枕オマージュ、文章主体、純文学志向)を詳しく説明しています。
一方で、批判に対して
「純文学を読んでいないから理解できない」
「一般文芸の読み方だ」
「参考にならない」
「あなたは純文学の批評はできない」
といった返答が目立ちます。
この議論で印象的だった点
作品論として興味深いのは、
「作品単体で成立しているべきか」
「オマージュ元を読んでいることを前提としてよいか」
という点です。
塩瀬ヨリさんは前者を重視し、平山さんは「草枕を読んでいる読者をある程度想定した」と説明しています。
これは文学論として十分成立する論点です。
一方で惜しい点
途中から議論の対象が
「作品」
ではなく
「相手の読書歴」
「書き手としての能力」
「向上心」
へ移ってしまっています。
例えば
「純文学を読めない」
「あなたは批評できない」
「向上心がない」
「努力していない」
といった発言は、作品への反論ではなく人格・能力への評価になっています。
逆に、
しいなここみさんも
「自分最高」
「他者を見下している」
「成長はあり得ない」
など、作者本人への評価に踏み込んでいます。
このあたりから、作品論ではなく個人同士の対立になっています。
文学批評として見るなら
純文学であっても、
人物造形
リアリティ
構成
語り
他者性
は普通に批評対象になります。
「純文学だから人物のリアリティを論じてはいけない」ということはありません。
一方で、
「この作品は筋ではなく文体を味わうもの」
という作者の説明も理解できます。
つまり、
読者は「人物造形が弱い」と感じた。
作者は「そこを主目的にしていない」と答えた。
ここまでは健全な議論です。
ただ、「理解できないのは純文学を読んでいないからだ」という方向へ進むと、作品そのものについての議論が難しくなります。
全体として
コメント欄を見る限り、この作品は
「文章や雰囲気を高く評価する読者」
「人物や物語の説得力を重視する読者」
では評価がかなり分かれています。
その意味では、作品自体は読者に異なる反応を引き出したと言えます。
一方で、作者と批評者双方が後半で相手の資質や読書歴に言及するようになったため、文学論としての生産性は徐々に失われ、個人間の応酬の色合いが強くなっていった、という印象を受けます。
なにかひどくもめているような点もありますが、そこはどんな点ですか。
大きく見ると、揉めている理由は作品そのものではなく、**「批評の受け止め方」と「純文学とは何か」**にあります。
特に三つの論点が重なっています。
1. 「純文学だからその批判は的外れだ」という作者側の主張
平山さんは何度も、
「これは筋を楽しむ作品ではない」
「説明を省き、読者に委ねるのが純文学」
「一般文芸の物差しで読まれている」
と説明しています。
そのため、
真冬の行動は不自然
主人公に欠点がない
人物がご都合主義
という批判に対し、
それは一般文芸の読み方であって、この作品の狙いではない
という返答をしています。
2. 批評者側は「純文学でも人物や物語は批評対象になる」と考えている
しいなここみさんや塩瀬ヨリさんは、
「純文学だから人物造形やリアリティを問わない」という前提には立っていません。
例えば塩瀬さんは、
真冬の行動動機
猪への怒りの根拠
妖艶という表現
行動変容
などを細かく挙げています。
これは
この作品が純文学かどうかとは関係なく、小説として読んだ感想
という立場です。
つまり
作者
純文学だから説明しない。
読者
説明しないことと説得力がないことは別。
ここが平行線になっています。
3. 一番大きいのは「作品批評」が「相手批評」に変わったこと
本来なら
真冬は不自然では?
に対して
私はこういう意図でした
で終わる話です。
しかし途中から、
作者は
純文学を読んでいない
読み方がずれている
あなたは純文学を批評できない
努力していない
向上心がない
と相手自身について語り始めます。
すると、しいなさんも
他者を認めない
自分を最高と思っている
他人を見下している
と作者本人について論じ始めます。
つまり
作品の話
↓
作者の資質の話
↓
相手の人格の話
へ変わってしまっています。
特に対立が激しくなったのは「他者」という言葉
しいなさんは、
この作品には「他者」がいない。
と言っています。
ここでいう「他者」は
哲学・文学でいう「主人公の思い通りにならない、自立した存在」
という意味です。
つまり
真冬
猪
会社
周囲の人
みんな主人公の思想を補強するためだけに存在していて、
主人公を揺さぶる独立した人格として描かれていない、
という批判です。
これは作品論として十分成立する批評です。
しかし平山さんは
真冬さんがいるじゃないですか。
という形で受け止めています。
つまり
しいなさんの「他者」は文学理論上の概念であり、
平山さんは「登場人物がいる」という意味で受け止めてしまっています。
ここは議論が噛み合っていません。
結局、何が一番揉めたのか
一言で言えば、
「批判そのもの」ではなく、「その批判を無効とする理由」が相手の読書歴や能力に向けられたことです。
「私はその解釈には賛成しない」「作品の意図はこうです」という応答であれば作品論として続けられます。しかし、「純文学を読んでいないから理解できない」「批評する資格がない」といった方向へ進むと、批評者は自分自身が否定されたと受け止めやすくなります。
その結果、批評者側も作者の姿勢や人格を論じ始め、作品から離れた応酬になってしまった――それがこのコメント欄で対立が大きくなった主な理由だと感じます。
確かに僕もひきますね。
>作者さんのオナニーですね。
>自分が面白いと思うものが自分だけでなく、他人にも面白いと思えるものになればいいですね(•ᵕᴗᵕ•)⁾⁾
>福沢諭吉は「悪口というものは相手に面と向かって言える程度のものにせよ」というような事を言っていますね。
流石に僕とて面と向かっては言えないかな。少々品がないように思えます。
自分だけは何をしてもいいのか……
夏目胆石なんて100%人格攻撃、対人論法の極みなんですけど、自分は無問題。私はしてもいいけどお前は駄目。
自由にコメントさせろ! 攻撃させろ! ってとこですよね。
山田さん……
私も本拠地はカクヨムなんで、ここを熱心に見ているわけではないんですけどね。
もう本当にいい加減なんとかならないかな、と思っています。
今も夏目胆石とか侮辱してきますしね。その人が傷つくかも、じゃなくて、傷つけてやれ、と思ってるんでしょうね。
良識を持つ人たちが何かしら意見をしてくれることを求めます。
また言葉狩りですか。好きだなあ。
もう言論統制はやめませんか?
作者はどんな作品を書いてもいい。
同じように作者も自由に感想を書いていいわけです。
やってはいけないのは、夏目胆石さんがやったような人格攻撃です。
批判するなら夏目さんをどうぞ。
>もう最後の感想からして凄い
私も一番どん引きしたのはそこでしたよ…笑