褒めることについて。
子供の教育においては、褒めることが大切だそうです。幼稚園児にスパルタなんて、正直狂ってると飼い猫は思います。
鍛錬場だから褒め禁止! なんて無茶は言いません。
『褒め』を薬にたとえましょう。
『褒め』で元気が出た! あり得ることです。ただ、薬には副作用があります。処方を間違えると死ぬことさえある。
さて、皆さんに『薬剤師の資格』はありますか? 胸に手を当てて考えてみましょう。
予想通り、陰湿な攻撃が始まりました。
ま、どうでもいいけど。
鍛錬場が鍛錬の場であってほしい。このサイトでは異端児の意見です。
みんなで作った馴れ合いクラブ、憩いの場を壊されたくないわけです。
野村監督の言葉を引用した意味も理解されない。
まあ、どっぷり浸かった老人は諦めましょう。若い人が、このサイトを良くしてくれればいい。
褒める
例えば、試作品をレビューしてほしいと依頼があるとして、
使いやすい、デザインがいい、色が好み、だとか、あるならば書きますね。
赤だけじゃなく、青も出してほしいとか。都会だけでなく、全国に展開して、とか。
個人的な不満だけでなく、欠陥があれば、それも言うし、作った工場や、経営者にも批判が及ぶのは当然、必然だと思います。
発火するとは何とけしからんバッテリーだ。だけじゃなく、誰が作った等々。
使いやすい、便利、量産してみては? 品評会に出したら? と言ったら褒め殺しで、
欠陥がある場合、製品だけを批判して、作り手には何も言うな、という実に斬新なご意見も
あるみたいですね。
褒めたら有罪、作り手を責めても有罪、そういう法律がある世界、想定できるかなぁ、と。
褒める資格を得るために、胸に手を当ててよく考える儀式とか、自分に厳しくなれる
オマジナイとか、謙虚になれる薬草が存在するとか。
褒める。
個人的には……。
小説の感想(コメント)について言えば、「褒める」という感覚はゼロですね。
なぜなら、思ったまま、感じたまま、言わば印象のようなものだからです。
たとえば、道路の隅っこで捨て猫が居てどう思うか? 程度の問題ですね。
ある人は、「かわいい」と思うかもしれない。
ある人は、「衛生的ではない」と思うかもしれない。
ある人は、「まったく関心がない」と思うかもしれない。
つまり、「褒める」という要素はないわけです。
そもそも「褒める」ことに意味はありませんからね。
小説もまた同じようなものでしょうね。
そして投稿をなさっている人も褒めてもらうことが目的ではないでしょう。
ある意味、姿見の鏡を見るようなものかな。
自分が書いた作品をどう思われるか。気になりますよね。
その一方で酷評を受けて感想者に対して
怒って罵倒、暴言をする人もいますね。実に面白い現象だな、とは思いますね。
むしろ、投稿した小説よりもそういう馬鹿げた反応の方が楽しませてもらっていますね。
「褒める」ということは、そんな人をなだめる為の方便かもしれないですね。
実際のところどうなんでしょうね?
7面から1面まで
某氏が落選して、揶揄された。
かばう方がいた。
↓
しばらくご無沙汰だった方々から近況報告。
やりとりが続く。
↓
唐突なデフォルメ短編。
それにまつわるやりとりが続く。現在にいたる。
↓
最初にかばった方が、下で
三流は褒める。
二流は無視する。
一流は罵倒する。
この言葉の核心は、「本気で期待している相手にしか、厳しい言葉は投げない」という指導哲学です。
という引用をなさっている方です。
落選した方をかばうより、どこがどういけなかったのか、指摘するのが持論に沿ってると
思うのですが、かばったり、けなしたり、忙しいですね。
ここは素人、つまりへたくそが集まる場所だから、褒めるなんて、そうそうありえないと
主張しながら、落選した人のことはかばう。
一方で、プロ中のプロ、つまり素人じゃない人同士の指導哲学を引用したり、
パロディ小説もAIに書かせたそうなので、AIに指定したキャラ設定、あらすじなどを
見せて欲しい、勉強したいと言ったらスルー。
落選を揶揄した発言には棘があるなあと思いましたが、かばうなら、
もっとまともなやり方があったはず。
無題
知らぬ間に、伝言板がすごいことのなってらぁ!(最近入ってきてなかった)
ここって、色々な人の意見がたくさん?集まる場所だから見てるだけでも楽しいんだ。
数ヶ月ほどの時代の流れ
前→作品のアイデアとか、作品に関する事色々。
まじでちょっと前→熊、体調、人に関することなど。(AIの話が入ってき始める。)
今→AIの話と作品の話を合わせたような?(語彙力皆無)
AIに野村監督の言葉の意味を聞いてみました。
野村克也監督の有名な言葉。
三流は褒める。
二流は無視する。
一流は罵倒する。
この言葉の核心は、「本気で期待している相手にしか、厳しい言葉は投げない」という指導哲学です。
各段階の意味
•
三流を褒める
まず自信を持たせないと、土俵にも上がれない段階。褒めるのは育成のため。
•
二流を無視する
ある程度できるが、殻を破ろうとしない。放っておくことで自覚を促す段階。
•
一流を罵倒する
すでに実力があり、限界を超えられると信じている相手。
罵倒=人格否定ではなく、思考と甘さへの挑発。
野村監督自身も
「罵倒は愛情がなければできない」
と繰り返し語っています。
創作や表現の世界でも同じで、
本気の批評ほど、時に痛く、厳しいものになります。
それは「伸びる可能性がある」と見抜かれている証拠でもあります。
上手く伝わらないのは、飼い猫の文章が下手くそだから。
リアルの世界でなら、【間違いなく、まつ毛は揺れています】、と200%の自信をもって断言できます。
台風なら当たり前だし、無風でも、この地球自体が微細に振動しているのだから、まつ毛が揺れていないわけがない。
なのに、飼い猫は、まつ毛が揺れる光景を見た記憶がない。なぜなら、飼い猫はそんなとこに注目しないから。まして相手が興味のある人物なら、その人の瞳に注目します。皆さんはどうでしょうか? 例えば、家族のまつ毛が揺れていた記憶ありますか?
ただし、飼い猫が、まつ毛美容の専門家であるなら、まつ毛が揺れる光景を思い浮かべれるのかもしれない。知らんけど。
で、作者様としては、まつ毛に揺れていてほしいわけです。ならば、小説世界において、揺れるまつ毛を描写しちゃえばいい。読者の脳内でまつ毛が揺れれば描写は成功。揺れなければ失敗です。
彼のまつげが揺れていた、という表記ですが
坪内逍遥が「小説神髄」で提唱した「写実主義」ありますよね。現実をありのまま客観的に書け、という。
近代小説では王道というか、小説の目的はひとまず置いておくとしても、大概の小説はこの写実主義を採用していると思います。
一方で、例えばカフカの「変身」ではザムザは芋虫になってしまいますし、円城塔の「オブ・ザ・ベースボール」では
毎年人が空から落ちてきますし、この手の不条理小説の頂点はジョイスの「フェネガンズ・ウェイク」だと思いますが、
小説はある意味でいろいろ自由な部分があって、今回話題になっている八代晴さんの「めぐる春」は、作者様も
仰っているように、ある種の実験的な小説ですので、写実主義的な物差しを当てはめなくてもいいのではないか、と
私自身は思うのです。なるほど、人のまつ毛は揺れません。扇風機を強にして目の前で回せば揺れるかもしれませんが、
めぐる春、の記述はそういう場面ではないですよね。心象風景を描いた物語だと思いますので、現実的にこうだ、とは
言わなくてもいいと思います。宮沢賢治の、これは詩ですが「春と修羅」ありますよね。心象スケッチと題された
この作品の冒頭はこうです。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
これに対し「うぉぉ人間は電灯ではない」と怒る人はいないでしょう。そういう考え方でいいのでは、と思います。
攻撃しているつもりはありませんが
まさに自分の人間性を表現する達人。
↓
もっと具体的にお願いいたします。AIにこう言って分析させたという結果でも。
猫を攻撃したくてウズウズしているわけですね。
↓
いえ、言いたい事は申し上げたので。
ハマっているtogetterに、「働いていると、だんだん、
体力でふるいにかけられていく」とありました。
年々、実感しています。体が資本と思い、お互いによき創作ライフを!