作家でごはん!伝言板
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ケアレスミスと言っていいのか

そうげん

>日本国憲法に贖い半ばに死んだ作家に謝れ。バカタレが。

出版にいたんですか。
それなのに、
日本国憲法に「抗(あらが)い」と打ち込もうとして
日本国憲法に「贖(あがな)い」と打ち間違えるってどういうミスですか?

日本国憲法 と 贖う をつなぐなら、日本国憲法「を」贖いにすべきだけど、
それも意味は通らないし、引き合いに出そうとした作家に謝るべきは、あなただと思いますけれど。

俺は何をしたいのか?

今晩屋

 馬鹿を駆逐する。

繰り返し繰り返し複雑に多岐化

今晩屋

 ってのは同じ形が地球48億年物語のナレーションにあるんだけど、48億年は我々からすれば無限だな。しっくりくるなぁ。
 宗教はそれより遥か浅いが、人間の数と知性。最小単位の家族と最大単位の国家。ルールと法と宗教。人種と言語。

 繰り返し繰り返し複雑に多岐化してお前も俺も日本に在住してる。

 わからんかw
 

こんなの問題外でしょ

今晩屋

 の俺に対するアンサーが無い。

 俺は宗教の「無限」を俺の文はどうでもいいから「文章」で「無限」を。

 他者を否定するなら「無限」を「文章」にと弁当わたしてますが。 俺の無限は中二病でええから、なら「お前」の「無限」を「文章」で書けよ。

 他人を中二病言うて見本みせんのは、お前が書いてる事に逆鞘やろ。
 主権者の俺が中二やら高校生くらいのみせろよ。

駆け込み寺

今晩屋

 暴力への逃避が宗教なのがまずいんだよ。この問題は日本の話ではない。
 恐怖。痛み。空腹。渇き。憎しみを「神」で癒す事が間違えている。
 その全ては対なる経験でしか癒せない。
 宗教を否定する事ではない「力」になる個人は沢山いる。だが、考えなければならないのは、山上容疑者が元総理大臣安倍晋三を「殺害」したから表面化した事実。
 取り押さえられてば、統一教会の問題は浮上していない。
 合理的なようで不条理な案件。死を持って案件化される。しかも安倍晋三。
 彼が助かっていたならば、奇跡の人。テロに決して屈しない。三度目の総理という世界線もあっただろうな。
 日本には、駆け込み寺は「福祉」って制度で充実してる。だが、被害が及ぶまで動けない警察の話なら、お前が代わりに殴ってやれよ。俺が駆け込み寺の住職で、DVに動けない警察の代わりにぶん殴ってやるよ。前科あり住職でいい。だが、「見極める」必要あるよな。
 困った人を宗教や神や信仰人は見極められるのか?
 日本人テロリストだったら?

 だからやめとけ。

先ず、ババアについて

今晩屋

 俺は母親を「うるせぇババアやな」と思った事が何度もある。口に出した事もある。
 父親を「はよ死ねジジイ」とも思った事がある。口に出した事もある。
 むしろ他人なれば、数は少ないだろうが、局面では何度もある。出版いたからな、上から下までそう思ってる。思いが溢れて殴り合いなんか普通にある。ブラックだからな。
 言い様?
 俺のそれにお前は俺を見てるのか?呑気な野郎だな。
 俺は正直に言うよ。それは内にあるババアにも外にるババアにも。お前みたいな綺麗な奴がいるから若者の自殺率世界ナンバーワンなんだろな日本は。
 有権者主権者? またずれてんな。

 物書きの軸が日本国憲法?

 日本国憲法に贖い半ばに死んだ作家に謝れ。バカタレが。

今晩屋氏へ

そうげん

>お前の「考え」は、悪いけど、そこらへんのばばあに聞いて出るインタビューや。

この言いざまに人間性が出るんですよ。
今晩屋さんは「そこらへんのばばあ」という言い方をするその方も、わたしたちと同じ一有権者であり、同じ主権者なんですよ。何をする人か何を考える人かはさておき、いわゆるばばあも一人の人間、わたしも一人の人間、今晩屋氏も一人の人間。ババアはババアの意見を述べる。わたしはわたしの意見を述べる。それでなにが不都合があるのか。ババアはババアの立場で物を見るし、わたしはわたしの立場で物を見る。わたしは話し言葉よりも書き言葉で物を考える人間なので、書物の上に現れた文字群が自分の世界の大部分を形作っています。

幼少期から人とほとんど話さず、ずっと周囲を観察しながら、本を読んでる子供でしたから。そこに見えることを口にしたら周囲はとにかく傷跡に触れるかのように反応してあたふたするものだから、できるだけ関係を持たないようにしていましたし。90年代にネット文化が到来してよかった。Eメール、Webサイト、BBS、チャット、SNS、文字で互いにやり取りできる文化が到来しましたから。

わたしはいまも話し言葉よりも書き言葉文化圏に属してますよ。仕事で作業に必要な言葉を交わすのと、気の合う人との料理話以外には休憩時間も携帯している本を取り出して読書しています。整理されない言葉による対話なんて、時間の無駄だと思ってます。それよりはいろんな作品に接してそれらを自分がどう捉えるか、自分のどの部分に突き刺さってくるかを点検することの方がより有益な時間を過ごせます。

今晩屋さんは何がしたいのでしょうか。
わたしはこれまでに信仰の道に志している人や、現実の生活で親族・配偶者とも心を通じ合わせることもできず、むしろ暴力を振るわれたり、裏切られたりした人が最後の駆け込み寺として宗教にすがってきた人たちともやり取りを重ねてましたよ。そういった宗教との接点は今晩屋さんにはありますか? 絶望の罠に落ちてしまって抜け出せなくなっている人に寄り添って、どうしたらいいかと真摯に考えた過去はありますか?

人の心底の悩みに接してそれを面倒がらずにちゃんと向き合って対応したことはありますか?
そういう体験がどうもないようにわたしには見えるのですが、それはわたしの誤認でしょうかね?

小林秀雄の、泉鏡花についての随筆

そうげん

今ある宗教の形が当然と思い込んでいるからそうなる。
孔子とかキリストとか仏陀とか、一宗の創始者がどのように自己研鑽したか、あるいはどのような諦念を持ちながら行動したか、そこに意識を向けるわけですよ。教団の成り立ちとか、歴史とか、そんなものは互助会の興亡の歴史でしかない。そんなものに用はないわけです。もう時代は21世紀で、すでに19世紀にドストエフスキーの文学をあいだにかませられてるんですよ。わたしたち現代人は神は死んだといわれた以後の世界を生きています。20世紀は科学が信奉されましたが、すでに信仰は妄信の域に進んで、似非宗教、巧妙なごまかし、それらしい理論をでっち上げてミスリードをさそって自己、あるいは自己が所属する集団に利益をもたらすことにあくせくとする人たちが、本来優れている思考法のはずの科学の権威を貶めている。そうしていま21世紀ですけど、さて、いまある現代人として、現実世界と精神世界をどのように自己の中で共存させるかってときに、神はいる、仏はいる、そこの立場に立つことで見えなくなるものが多すぎるし、わたしは神はいると信じた(仮定した)人の中でどのような精神構造の変革が起こるかのほうに関心があるのみ。高度なメタファーだと思っているから。上位概念を自身の側に引寄せるための道具立てとして神の世界を仮構してワンクッション置くというのが、民衆の行き方だと思っているから。日本国内で、自分は無宗教でございとか、宗教なんてそんなものは関係ないし知らないし、そんなものは自分の周りから遠ざけてしまえ消えてしまえと思っているような短絡人間なんてもっとお呼びでない。視るところ、思うところ、その現前に神(しん)は宿りますからね。

>繰り返し繰り返し複雑に多岐化

ほんとにさ。中二病じゃないんだから、
こんなの問題外でしょ。

きょうは小林秀雄の「鏡花の死其他」を読んだけどよかったよ。

《子供は、万人の言葉より自分の言葉の方が理解し易いことを疑わないであろう。誰にでも当て嵌まる言葉、つまり誰のでもない言葉の方が、自分の独白より理解しやすいと考える為には、教育による第二の天性を必要とするだろう。若しそういう子供の理解力の生ま生ましさを失わずにさえいれば、自分の言葉の確実さに比べれば、万人の言葉は皆疑わしいと断言する成熟人も可能なわけだ。良心の喪失が、人間をイデオロジストにするのかも知れない。》

《実証的事実というものが、万人の言葉で代置出来る事実というもの以外のものを指さない以上、自分の言葉が一番信じ易い作家にとって、これは、多かれ少かれ、疑わしいものたる事を免れまい。してみれば、実証的事実の検討によって、社会なり自然なりの本質を極めようとする仕事も、自分の裡に閉じ籠り、その表現作用に工夫を凝らす仕事に比べれば、何処まで歩けば安心がいくというものか、一向不確かな仕事に過ぎまい。》

小説を読んでリアリティがリアリティがとしきりに口をする人間ほど真を求めて嘘に流れ、
たくみに嘘を書きながら真を探り当てる書き手の文章の価値を見誤る。
鏡花の文章の評価。昨今のファンタジー小説批判と重ねて見ても面白そうだ。

中島敦も泉鏡花についてのエッセイを書いてましたなあ。

神がいてもいなくてもの立場で

今晩屋

 お前は礎を築く時点で、宗教とは無縁の無能なの。
 教義を教科書のように捉えるならば、それはお門違いのパンカパパーンw

それは、お前自体が神仏を「利用」してる。お門違い野郎なのよ。
 わかった?

解説

今晩屋

繰り返し繰り返し×2=強調と幹
複雑×無限(家族の数)
多岐化=枝

 マジ腹たつわ。