2021/01/19 12:58:16
・『おくのほそ道』は散文と韻文で構成されている
・ゆえに、散文と韻文を同列に語っても良いのである!
と思っているんだな、松尾鯛男は…
推論の仕方を知らないからまた生き恥晒しているとも気付かずに
哀れよのう
奥の細道
紀行文・俳句をあわせ持った、日本古典の最高峰、と中学で教わらなかったのか、習志野!
オレってグレート
って威張る人、オレ大好き。バカでも。
モハメッド・アリもアントニオ猪木も
天才でグレートだった。
亀田こうきや長渕剛、石田純一や
田原俊彦は「?」だけどやっぱりグレートさ。そんな彼らに、乾杯!マンセー!
思ったこと
>このままだといつまで経っても惨めな敗北者から抜け出せませんよ?
>暴言を言わないとか言いながら実際には暴言と偏見まみれなのも、自分自身を客観視する能力があなたに欠落していることの証左でしょう。
なんかのギャグですか?(笑えないけど)
【このままだといつまで経っても惨めな敗北者から抜け出せませんよ?】って、周りは惨めな敗北者だらけ……生きるのが大変そうな世界線ですね。
お世辞も暴言も言わない者さま
>>才覚の芽を摘み取りたいなどとはゆめゆめ思っておりません。どんな決め付けやねん?
もんじゃさんは激しく読み違えてます。
え?
ゆめゆめ思ってはなりません
――って書かれちゃったと読み間違えていませんか?
ゆめゆめ思っておりません
――って書いてあるでしょ?
そこんとこ読み間違えちゃってるからそのあとの長文がぜんぶあさってに向かってまっしぐらなんですよ。
お世辞も暴言も言わない者さまが、どなかの才能の芽を摘もうとしてるだなんて思ったこともないです。
主張されてもいないことに反論してるのは、お世辞も暴言も言わない者さまじゃないですか。
ぴーえす。俳句も短歌も詩も短編小説もテキスト表現です。どれも具体的な説明がえっせんしゃるなわけではありません。ヘルマン・ヘッセも詩と小説の間に垣根はないって言ってますしね?
誤解を解いとこうと思って、黙るって言ったのにまた書いちゃってすみません、もう黙ります。
Ravon(大カラス)
書いたのはエドガー・アラン・ポーで、「推理小説の元祖」をサー・アーサー・コナン・ドイルと
争っているけど、あの人は詩人ですぜ
日本では鮎川哲也先生ですかね
ホメロス「オデッセイ(または、ユリシーズ)」
あれは詩文なんだけど、今は冒険小説として語られてますよ
だから詩=小説=違う!ってのは、違いますってw
他にもエドワード・ブレイクとかトーマス・スターンズ・エリオット『荒地』とか
ジェイムズ・フレイザー『金枝篇』、アレン・ギンズバーグ『吠える』とか、ボブ・ディラン、
ルー・リード、ニール・ヤングetc
どうでもいいけど
「お世辞」さん。あなた、明らかに「ゆとり教育」以前・以前・以前の教育を受けた人でしょw
わたしは肯定も否定もしないけど、だいたい1980年、昭和51年直前・直後の教育を受けた人間は
スパルタ教育・戸塚ヨットスクール・体罰ってのが当たり前だったから今もそれを非難する人間を
非難する 過舌はちっとも不思議だと思わないw
平成期または「ゆとり教育」を受けた人間ってそれを「パワーハラスメント」って認識しているから
敏感で、人にしたら自分もされるって恐れるからあんまし他人攻撃はしないw
神戸の小学校で同僚に激辛カレー喰わせて、魔女狩りにあって、追放されたセンコーどもが居るでしょw
あなたに、それを感じちゃうんですw 頑張ってねw
説明不足だったので補足
>才覚の芽を摘み取りたいなどとはゆめゆめ思っておりません。どんな決め付けやねん?
もんじゃさんは激しく読み違えてます。憤慨する必要はありませんよ。主張してもない事に対して反論しても徒労に終わるだけです。
私は彼女になんの怨嗟もありません。彼女だって、私に怨まれる筋合いなどないでしょう。もし彼女が一連の荒らしだったとしても、私は酷評したりなどしません。
良い物は良いと言い、間違いは間違いであると言います。良文なら良文、拙文なら拙文、悪文なら悪文と言います。書き手のことがが好きだから良文と言ったり、嫌いだから悪文と言ったりはしません。
教員が生意気で反抗的な生徒の作文を「私、コイツ大嫌いだからボロクソにけなしてやろう」と思って酷評したりしないのと同じです。
私は想像力も共感力も持ち合わせているので、いじめ自殺や虐待事件のニュースを見ると胸が締め付けられる思いがします。主人公が学校で孤立していて家庭では母に虐待されて辛い事もわかります。
それを伝えたいという作者の意図もわかります。主人公が淋しくて悲しくて辛くて苦しくて死にたい事は読めばわかる事です。切々と綴られていますから。
彼女の作品の問題はいくつかありますが、最も問題なのは整合性がない事です。辻褄が合ってないから、「そうなのね。【だから】あなたは辛くて悲しくて苦しくて死にたいんだね。うんうん、わかるよ」とはならないのです。
悲惨な状況にある幼い主人公という設定と、「苦しい」「死にたい」という感情表現で、これは可哀想な物語であると理解できます。それで読者は「自分だけは主人公の理解者になってあげたい」と主人公の気持ちに寄り添おうとします。
それで辻褄の合わない事が書かれていても気付かず・気付いても気付かぬふりをして・気付いても目を瞑り、「まあとにかく、酷い目に遭ってるわけよね。ちゃんとわかるから良いよ良いよ」と好意的に解釈してしまいがちです。被害を訴える子供の話に耳を傾ける善良な大人のように。
ですが彼女は被害を訴える小学生の主人公ではありません。小説の書き手です。小説の書き手であるからには、きちんとした作品を書きたいことでしょう。それに役立つ助言を私はしているのです。
読者の好意的解釈に頼らなければ伝わらないような作品を書くべきではありません。←肝心な事
それから韻文と散文は別物です。短歌や俳句は短歌や俳句であって、小説ではありません。詩は詩であって、小説ではありません。だから同列に語るべきではないのです。
私が今後「お世辞も暴言も言わない者」名義で書き込みする事はありません。もし今後「お世辞も暴言も言わない者」名義で書き込みする者が現れたらそれは成りすましです。
無題
コロナ、本当に大変ですね。