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お前みたいのが、いや、お前等みたいのが、小泉進次郎を総理大臣にするんだろうなwww
勿論そんな自覚は無い。小さなところから、些細なところから、ゴミは自身をゴミと知らず、生態系だと勘違いしている。なぜなら、無知だから。
いっぱし気取って言葉は有能らしいが、実績は無知無能の足は遅く持久力も無い。有能を自覚だけしてる俺からするとただの公害。
がんばれよwww
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これはもしや、僕のののあちゃんへの愛が運営様の胸を打ったのだろうか。
鍛練場は解けてない。そこでmonogataryである。
怒涛の八題噺である。
そうげん先生をイメージしたよ☆
>「自己満足心」をベースにすると、誰も興味を持ってくれなくても書き続けられるし、真剣になれる。そして他人を喜ばせることが自己満足につながると、もう完璧です!
ということはあれだ他人を喜ばせられないうきりんこ一派は完璧には程遠いということだ。
キミには僕が別の悦びを教えてやる! えい!
ビシーン
ビシーン
それに今更ながらキミはとんでもない女だな。
>じつはリンゴを持っていることを隠す、が正解? 誰も傷つかないので。それとも二人の目の前で見せびらかせて食べていたぶる?
どんだけ性格ねじまがってんだお前というやつは! その性根たたき直してやる!
ビシーン
ビシーン
と、こういうこと書いてると僕とののあちゃんの夫婦漫才と言われるわけだが、それならキミはワイフだ。ワイフでありドールだ。もういかがわしいイメージしかわかない。
こら! 僕になんてことを言わせるんだ! 卑猥なやつめ。お仕置きだ!
ビシーン
ビシーン
そうか。7回も打ってしまったんだ……
残念です。御幸運をお祈りします。
無題
>「自己満足心」をベースにすると、誰も興味を持ってくれなくても書き続けられるし、真剣になれる。そして他人を喜ばせることが自己満足につながると、もう完璧です!
当たり前のことを今さら……
自己満足なくして誰が小説など書くものか。作家には必要不可欠な資質だ。問題は、他人を喜ばせることができるかどうかなのだよ。読者を意識するということ。
なぁ、浮離さん。
自己満と、承認欲求と、我が強く、自分以外の作品に賞賛を見出だせないあなたには、先などありはしない。
もう少し、自身を省みなければな。
これまでさんざん吠えてきたののあドール。お前の実力などすでに皆が見切っている。これ以上、ここで御託宣の如くかじり知ったことばかり並べたいのなら、先ずは実力を示せと何度言われておるのだ。
それが出来なければもうここに来るなよ。
「自己満足心」をベースにすると、誰も興味を持ってくれなくても書き続けられるし、真剣になれる。そして他人を喜ばせることが自己満足につながると、もう完璧です!
はてなさん、それは伝達の文章でしょ。小説の中に生きる人はそんなことは考えません。そういった意味で、それ、完璧な一人称ではないのです。もし完璧な一人称にしたいのなら、現実の世界で考えているように見せかけないと。視点を考慮するとこうですよ。
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ののあ流の完璧な一人称の作品を教えてと尋ねたら、聞いたことない作家の知らない作品を教えられた。しかも当のののあ氏は読んでないみたいだ。ひょっとしてののあ流の作品はののあ氏が目指してるだけで、まだこの世に存在していないのか。みんなが知ってるものの中から教えてほしいものだ。
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上の文章はちょっと言い回しを変えてるだけじゃないかと思われるかもしれませんが、それは私がはてなさんの言い回し、文体を知らないからです。だからあなたの書いた文章を基に、なるべくしぜんにあなたが心の中で思ったり考えてたりしているような文章に書き直しました。
たとえばあなたは、「謎が謎を呼ぶぞ。」とか、「教えて。」とか一人でいるときに考えたりしませんよね? また、もしあなたが小中学生だったら、考えそのものをもっと幼くしなければなりませんし、年配者なら語彙を難しくしなければなりません。
小説において作者は、一人称の主人公として設定した人物の、知性、感性を完璧にトレースして、書かなければならなくなり、難易度が上がるのです。
もし猫だと設定したら、ふてぶてしい猫が考えてるような書き方をしなくてはなりません。はてなさんは、「吾輩は人間である。名前はある。」なんて考える性格では、ないですよね? だから取ってつけたような一文を書いても、つまりその書き方だけを真似ても、一種独特な漱石の猫みたいにはなれません。だから冒頭にそれをつけると滑稽なんです。センスなし、となります。
完璧な一人称は要素としてはどんな作品にもありますよ。ラノベでも。ただし、都合のいい、嘘くさい思考をさせると「やっぱりラノベだな」と評価は低くなるのです。もちろんラノベの本質は、リアルかどうかにあるわけではありませんから、そこはべつにいいのです。たとえ語尾に「にゃ」とか「じゃ」をつけてもいい。「ござる」とか「やれやれ。〜かい?」とかやっても。
みんなが知っている作品というか、大きな全体の時代の流れでいうと、2000年以降の一人称の小説はまるっきり違うと私は個人的に思っています。具体的には、綿矢りささん以降ですね。あと村田沙耶香さんの『コンビニ人間』。臨場感を感じませんか? むかしのはほんと頭固すぎ。窮屈。やっぱり技術的に下手ではないかと?
私は古い小説をいくら読んでも意味ないと感じる派ですね。演歌を聴きまくって参考にしても、新時代の楽曲は作れません。
もちろん時代が変わっても、変化しないものはあると思います。たとえば「内省を書くもの」「物語を書くもの」「台本を書くもの」という区分けですね。それぞれどういうものか説明しませんが、ようは読者が求めるもの、興味を持つものの根本が違うから、それくらいの区別はできるようなっていたほうがいいと思います。
完璧な一人称
むしろ、完璧ではない一人称を考えてみよう。
(1)
吾輩は猫である。……(略)……。その後、僕は猫だった。
いつの間にか、主語が変わっているパターン。
素人小説にはありがちですね。
(2)
彼はきかんしゃトーマスと呼ばれている。……(略)……。
「きかんしゃトーマスさん」と呼ばれてぼくはへんじをした。三人称からの一人称へと変化。
これはあまり実例はないが、あり得るかな。
ほかにあるのか? しらんけど。
ちなみに、
僕の七年振りくらいの作品は、あと二、三枚で完成。
九月中には投稿しまーす。
ののあ氏が言う通り誰も興味を持ってなくても発表しまーす。
ののあ氏。
吾輩は人間である。名前はある。
ののあ流の完璧な一人称の作品を教えてと言うと、聞いたことない作家の知らない作品を教えられた。しかも、当の、ののあ氏は、読んでない。
ひょっとして、ののあ流の作品は、ののあ氏が目指してるだけで、まだこの世に存在してないのではなかろうか? 謎が謎を呼ぶぞ。
多くが知ってる作品の中から教えて。(漱石の猫以外で。漱石の猫は、ののあ流の完璧な一人称ですよね)
ちなみに、この文章は完璧な一人称になってます。(ののあ流)
青木さんて、
ふらふら道路に出てきちゃうお爺ちゃんみたいだね(笑)