独白
関東と言えど、都心ほどの栄えは見せていない立地に、ぎこちなく腰を据える住宅街。
多少の差異はあるものの——しかし横目で流すならば同じようにしか映らない、似たような背格好の家が遠慮し合うように肩を寄せてズラリと並んでいる。
一見すると何ら変哲のない——悪く言えばありきたりな、ごく普通の一軒家。そんな平凡極まる家では、陽が頭上を越える十二時過ぎにも関わらず、カーテンが全て閉ざされていた。
灯りはなく、室内の光源はカーテンの隙間から漏れる陽射しのみ。
だが変わったことはないだろう。家の全てを開放するのも当たり前ではない。出かける際にカーテンを閉ざしたのだろうと、そう思われるか——いや、たかが住宅街に並ぶ家の一つ如きに、そんな考察を巡らせることすらなかろう。
中に人がいようがいまいが、今を生きる人々にとっては些事だ。
無論、中に佇む彼とて、道行く人々からどう思われているかなど気にしようものか。
陽が僅かにも差し込んでいるにも関わらず、暗闇で閉ざされていると錯覚する沈むような空気。
閉ざされたカーテンのせいか、はたまた鼻腔の奥を裂くような異臭のせいか。鬱屈とした重い空間の中で、何に怯むこともなくその男性は椅子に座していた。
「はじめまして」開口一番に挨拶を飛ばす男性。察するに、彼が向かい合う者とは初対面なのだろう。「早速で申し訳ありませんが、僕の話を聴いてはくれませんか?」
眉を八の字に傾け、どこか調子を落とした声色で切り出す。さながら、懺悔室に赴く罪人かのように——
否。この例えは間違っていない。事実、彼は罪を告白すべく口を開いたのだから。
「僕はね、後悔しているのですよ」
居間に置かれた机を挟み、二人の男女が向かい合うようにして座っている。
普段は食事や談笑を楽しむ場であろうに、彼はここを教会か何かと勘違いしているのか。
男は足を組み替え、軽くため息。まだ躊躇いが見えた。こんな話を、それも初対面の女性に話していいものかと葛藤しているよう。
しかし語り出したからには仕方ない。迷うくらいならば初めから話すなというもの。
男は一つずつ言葉を紡いでいく。花を手入れするかの如く、柔らかで丁寧な作業だ。
「あなたに、全てを打ち明けようと思います。……ええ、言わんとしてることはわかりますとも」
ふふっ、と糸がほつれたような小さい微笑。
「迷っています。今も、まだ。けれど話さなくてはならない。……僕は、誰かに打ち明けなければならない」
あなたは後悔したことがありますか? ——と、単調な語り出しで思考を言葉に変える。
「僕はあります。……それも、つい先ほど」
返事を待たずして、続けた。相手方は話に聞き入ってでもいるのだろう。
肯定すら見せないその女性に対し、男はそれが当たり前だと感じているのか。不満の一つも抱かない。
「実は、僕に妻がいましてね。あなたには大切な人がいますか? 僕にとっては、それが妻でした」
当時のことを絞るように思い出しながら、その状況を説明する。
「両親よりも愛しい存在だったんです。そして三年の交際を機に、籍を入れました。三ヶ月ほど前だったでしょうか? ……ええ、結婚したんですよ」
そこでふと、相手を気遣うように顔を上げた。「何か飲みますか?」と、彼は提案を投げる。
休まずに口を動かしているからか、喉が渇いたのだろう。自分が何かを飲むついでに女性もどうかと提案した次第だ。
返事はない。否定と受け取ったようで、男は残念そうに肩を窄めながら言った。
「そうですか。いりませんか。美味しい茶葉を貰ったのですが……」
緑茶の葉を急須に入れ、熱湯でほぐしていく。その間も退屈させまいと思い、男は世間話を振った。
「僕の実家が緑茶畑でして、父の服には茶の匂いがついて落ちないんです。それほど父は仕事人でした。そしてそんな彼を、僕は尊敬しています」
体を包むような優しい香りが葉から浮き立つ。湯気に乗って流れるそれに身を預けながら、男はふぅ——と恍惚の表情を浮かべた。
この瞬間が至高だと言わんばかりの顔だ。よほどいい香りであろうに、女性は眉ひとつ動かさない。
無言の拒否から、おそらくは緑茶が苦手なのだろう。悪いことをしたな——と反省しつつも、しかし事前の断りもなしに察しろというのが無理な話。
「嫌なら言ってくれればいいのに」小言を漏らしながらも、彼は湯呑みに今しがた出来上がったばかりの茶を吹き込む。
片手サイズの小ぶりな碗に浮かぶ、緑の彩り。これも楽しみの一つだ。
先ほどよりも強く、それでいて尚も心を落ち着かせる暖かな匂いは、しかし部屋全体へ広がることはない。他の臭いが壁となり、緑茶のそれを鼻元までに留めていた。
「歳をとって体の自由が効かなくなったにも関わらず、今も彼は仕事を続けています。稼ぎは減りましたが、それでもこうして収穫の一部を僕に送ってくれるんですよ」
茶の匂いに当てられたようで、自分の身内話が長引いたことにハッと気づく。「ああ、すみません。少しくどかったですね」
謝罪を告げ、茶の入れられた湯呑みと共に彼はテーブルへと戻った。
懺悔するとは決めていたが、心のどこかでは未だに迷いがあるのだろう。身の上話が長引いたことにも起因しているに違いない。
どこか魂が抜けたような表情を見せる彼は、茶をひと口啜り、ポツリと呟く。
「僕には優柔不断なところがありまして、よく妻に叱られていました」何かを察したようで、向かい合う女性が口を挟むよりも早くに男は訂正する。「いえいえ、惚気てはいませんよ。他愛のない、日常の話です」
「そんな妻と、最近までは幸せに暮らしていたのですが……それも、長くは続きませんでした」
声色から、いよいよ本題に入るのだと頷けた。流石に呆れてしまったようで、女性からは「やっとか」という言葉もない。
待たせすぎた罪悪感に男は心を痛めながらも、しかしこれは必要な過程だ。覚悟を決めるための、時間だ。
真っ直ぐと前を見つめ、迷いを振り切った強い眼差しで男は発する。
「そんな妻と先日、喧嘩してしまいまして。理由は意見の行き違い——思想のすれ違いです。……それでも、僕は間違っていないと思っていますよ」
壁に掛けられた時計を一瞥。まだ時間に余裕があると安堵し、少し遠回りしながら説いていった。
「妻と出会ったのは四年前です。僕は実家を継ぐと言ったのですが、父に反対されまして。お前みたいな狂った奴には任せられない、ですって。心のどこかで妥協していることを見抜かれたのでしょうね。ほんと、今でも父には敵いませんよ」
本題に入ったのではなかったか? そんな疑問符が湧いてもおかしくないはず。
全く関係ないとも思える話だが、女性は文句を挟まずに黙って耳を傾ける。
「それから実家を出て、都会に来ました。都会と言っても高層ビルが並ぶような場所ではありません。首都圏という括りにされていれど、他から見ればここも田舎ですよ。知っていましたか? 都会はどこも栄えているわけではないんです」
過去の自分を思い出し、照れ隠しのついでに自虐的に笑った。
「恥ずかしながら、僕は神奈川や東京はどこも横浜や渋谷のような場所だと思っていたのですよ。しかし意外なことにも、神奈川や東京にも畑はあるのです。僕は驚きました。横浜に来ているつもりが、知らず知らずのうちに地方へ行ってるのではないか、と。方向音痴はないつもりでしたが、さすがに自分の頭を疑いました」
同情か。はたまた嘲弄か。
またしても女性に言葉はない。今回も聴きに徹しているようだ。
何とも聞き上手な人を選んだな——と、男は自分の人選を誇りながら話を続ける。
「しかし地図を見てもそこは僕の知る横浜なのです。いやはや、自分の目を疑いました。あの時ほど自分の目を信じられなかった時はなかったと思いますね。そこで出会ったのが彼女——僕の妻でした」
懐かしさ故、微笑が漏れた。
「彼女は困惑していた僕に真摯になって接してくれました。あれほど親切な女性は後にも先にも彼女だけだろうと確信したほどです」
そこでふと、説明不足に気づく。相手が聞き上手なあまり段取りを忘れていたらしい。「そういえば僕が実家を出て横浜に来た理由を説明していませんでしたね」
男は動揺を隠すように、会話の粗を取り繕う。
「実のところ、僕は職人になりたかったのです。茶を淹れる急須と湯呑みを作っている人がこの辺りにいるのですよ。実家で使っているのも彼の物でして。僕もそれを作りたい。そう思い至り、彼の工房に足を運んだわけです」
男は目の前に置かれた、緑を引き立てる美しい湯呑みを見据えた。
「実はこれも彼が作った物です。本当にいい仕事をする人だ」
見惚れながらも、心を抑えて説明を再開させる。
「そして彼女も、そんな僕の夢を応援してくれました。僕の憧れる職人は、それはもう偏屈な人なのですが、後継者がいないことにも悩んでいたようです。僕の弟子入りを渋りながらも了承してくれましたよ」
尊敬の念が節々から漏れていた。現に、その人を語るときはどこか誇らしいような表情を浮かべている。
「そんな彼ですが、もうこの世にはいません」
一転。
彼の顔は暗い室内を映しとるかの如く沈んだ。
「七十と決して若くはありませんが、それでもこの世を去るには少し早い歳でした」
学びたいことがまだあったと、そう男は悲壮感溢れる声で言葉を乗せる。
「僕の腕はまだまだです。それでも何とかやってますよ。父の育てた茶を、僕の作った急須で淹れることが今の夢です」
——当分先でしょうけどね。
そう、誤魔化すような笑みと共に付け加えた。当然のことながら、女性から返事はない。
「僕の夢を誰よりも応援してくれた彼女に、僕は惹かれていきました。そして交際を申し出たのです。あの時ほど緊張した日はないでしょう。今思い出してもドキドキしますよ」
気を伺うように相手の表情に目を配り、
「失礼。これは惚気話でしたね」と、申し訳なさそうに謝罪する。
「それから三年間の交際を挟んで、僕たちは無事に結婚しました。それから幸せな日常が続きましたよ。同棲は一年前から続けていたので、改めて不満に思うこともありませんでした。僕から言うのもなんですが、絵に描いたような新婚だったと思います」
忘れてはいないか。
彼は一度口にしている。愛する妻と、破局したことを。
気を病んでしまいそうな空気に負けない、重たいため息。
刹那、
男の目の色が変わった。
幸せを語っていたはずが——
しかし気づけば、その奥底に憎悪を覗かせている。
「そんな僕ですが、実はもう一つ夢がありまして」
夢——。人を殺す前触れのような低い声からは想像も付かない言葉だ。
「子供が、欲しかったんです。そしてそれを妻にも伝えました。勿論、子供を作ること自体は賛同してくれましたよ」
奥歯を噛み締めた。
当時を振り返り、怒りが煮える。
「しかし……ッ、しかし! 彼女は僕の夢を! 否定したのです⁉︎」
どこか落ち着いた語り口調の彼はどこへやら。今では全くの別人と思えるほどの豹変ぶりだ。
「……すみません。あなたに当たるつもりはなかったのですが、思い出せば出すほど、怒りが噴き出てしまって」
言い訳にはなりませんよね。そう微笑を浮かべながら、作ったような困り顔を見せた。
対する女性は何も感じていないのか、顔色ひとつ変えていない。
「先に、僕のもう一つの夢を説明すべきでしたね。これを言わなければ同情も何もないでしょう。これを聞けばあなたにも僕の気持ちがわかるはずだ」
男の言葉には自信で満ち溢れている。語り出す直前の迷いはとうに消えていた。
一体どんな非道を受け、そして理不尽に晒されたのだろうか?
掛け時計も期待に胸を膨らませ、急かすように針の音を奏でる。カッ、カッ——という一定のリズムを刻む時計の心音は、今ではうるさいくらいに大きい。
そして満を持して、男は核心となる言葉を告げた。
「僕は職人肌のようでして、何かを作りたいという欲求が強いのです。いつだったでしょうか。十三……四ほど。中学二年生でしたね」
若き日の夢。
どこかで薄れ、消えかけてしまえど——それでも、手放すことの叶わない、若さ故の至り。
夢を抱くことは若者の特権に非ず。
夢を忘れることは——大人の証明に非ず。
「その頃に自分の赤子を使って、『鞄』を作ってみたいと、そう感じたのですよ」
手放してもおかしくはないそれを、彼は今も尚、大事に抱えている。
「ああ、そうだ。あたなに見てほしいものがあるんです」
何かを思い出したようで、彼は勢いに任せて立ち上がり、真後ろに立つ棚へと手を伸ばした。
宝物を親に自慢する子供のような。そんな輝かしい笑みを浮かべている。
「あった、あった。……いやはや、いつ見ても不細工ですね。僕の腕では、やはり師匠には敵いません」
そう言って取り出したのは、話に出てきていた彼の師匠の——湯呑み職人の老人だった。
正確には、その老人の一部。
彼の骨と皮で作られた湯呑みを、誇らしげに女性へと見せる。
「実は我慢できなくなってしまいまして。僕の腕が未熟なのはわかっていましたが、しかし待ちきれなかったのです。これは師匠の腕——『茶腕』と言ったところでしょうか」
茶『碗』ではなく、茶『腕』。
上手いことを言ったつもりか。彼は鼻を鳴らしながら得意げに語った。
部屋に漂う異臭。その正体。
——否。この湯呑みを取り除いたとて、異臭は消えはしない。その原因となるだろう食器や家具の数々が、この家の隅々に置かれているのだから。
妻がいたときは置かなかった品々。借りていた倉庫に保管していたが——今は問題ない。
「実は一時期、シェフになりたいと思っていました。今はもう挫折したのですが、それでも料理には多少の自信があります。夕飯はいつも僕が作っていたくらいですよ。それで、妻を使ってシチューを作りたいと思ったのですが、やはり僕のイメージでは懐妊後じゃないとダメなんです。料理の完成度を大きく左右しますからね。妊娠前でも、妊娠中でもいけません。あなたにはどうでもいいことでしょうけど、僕には大事なことなんです。やはり、細部にはこだわりたいもので」
プライドというやつですかね——と、男はわかりやすく説明し直す。
「だから妻を殺してしまうのはまだ早かったのですが、しかし僕たちの赤子を鞄にすると言ったら妻はそれを冗談だと受け取ったのです。信じられますか? 僕の夢を、冗談だと笑ったのですよ。彼女ならわかってくれると思いましたが、僕が浅はかでした。……ショックだったんです」
相当根に持っているようで、男はこれでもかと言わんばかりに訴えかけた。
「そして……っ、僕の夢を否定したのです! 冗談だと笑うならまだしも——嘲るならまだしもッ!」
大声で、
吐くように彼は言う。
「人の夢を、それも夫の夢を⁉︎ 三年間歩んできた僕の夢を! 否定したのですよ⁉︎」
その最後。ついでと言わんばかりに、付け加えた。
「だから、殺しました」
やましいことは何もない。
そう、示すかの如く。
「本当に、何も言いませんね」
ひとしきり語り終えて胸の支えが落ちたようで、男は疲労をため息と共に吹きながら椅子へと腰を落とした。
「まぁ、当然ですか。もう死んでいるのですから」
彼はそう、目の前の女性に——自身の妻である————
否。
妻だった、『大本冬江』に対して放った。
いや。更に訂正。正確に表現するならば、『大本』という名は違うだろう。
彼女はつい三ヶ月前に籍を入れたのだから。
男の姓、『越前』と呼ぶ方が適切だ。
「それでも今は後悔しています」
ポロポロと涙を溢しながら、心中を吐露する。
この話をするきっかけとなった、懺悔の言葉。
「妻をシチューにするのは、もっと待つべきだった。今殺してしまうのは、いくらなんでも早すぎる。彼女だからこそ作れるシチューだったのです、他の女性では変わりになれない。あなたもそう思うでしょう?」
今が初対面であるかのような、どこか他人行儀な口調で尋ねた。
一貫して、彼はこの姿勢だ。
「僕は自首をするつもりです。人を殺してしまったのだから。殺人はいけないことだ。過ちは、償わなければならない」
今まで人を殺したことは一度もないと言いたげな口ぶりで、言う。次いで立ち上がり、固定電話に向かって歩みを進めた。
「もしもし?」
番号を押す。
無論、いちいちぜろ。百十番だ。
「はい。事件です。殺人です。……はい、僕の妻です。僕が殺しました。……ええ、その通りです。居間に僕の話を聞いていた女性もいますが、まぁ、些細なことでしょう。こちらの住所は————」
そうして一通りの懺悔を終えた後、男は自らの罪を白状した。
男の罪は殺人罪。越前冬江の殺害以外に、二十を超える余罪があるとして警察は調査を開始する。
後の事情聴取で、「なぜ越前冬江の死体を妻はでないと否定したのか?」と言う質問が投げかけられた。
その問いに対し、
「いやいや。だってそうでしょう? あれは僕の妻ではありません。あなたは死体と結婚する趣味でもあるのですか?」
当然だろうという態度で、嘲笑混じりに男は続ける。
「可愛らしい笑顔を浮かべる女性と、僕は結婚したのです。白目を剥いたまま動かずに、首から血を流す女性を、僕は知りませんよ」
執筆の狙い
友人から「サイコパス」というお題を出さらて書いたのですが、難しいですね。どうしてもわざとらしさが出てしまう。
参考になりそうな書籍などがあれば教えてください。