啓示
巡洋艦の上を呑気に飛び回るカモメの鳴き声に気を取られて、小松純二は妻の言ったことがよく聞こえなかった。眼前に停泊している巡洋艦から、妻へと視線を再び戻した。
「純二さん、待っているわ! 必ず帰って来てね」
妻幸子の言ったことが、今度はよく聞こえた。朝日が妻の平たい顔に陰影をつけている。光るものが流れたように見えたが定かではなかった。潮の薫りを含んだ風が吹き抜け、幸子の開いた口に髪の毛がかかった。和服姿の幸子の身体はしなやかで肌は若かった。純二は何かを必死に押さえつけているような表情の妻を抱きしめたかったが、船の前には見送りに来た家族らの姿でごった返していて憚られた。
「そのつもりだ。帰ってくる。絶対に」
表情を変えずに純二は答えた。海軍の制服を着込んでいると背筋がビシッとして気が引き締まる。同じ恰好をした仲間が大勢集まっている。隊においての盟友になる顔であり、みな凛々しい。海の向こう側では大砲が飛び交い、異国の戦闘機が空を旋回しているのが現実なのだ。
「約束よ!」
頭上に広がる呑気な青空に活を入れるように警笛が鳴り響く。
純二の首には双眼鏡がかかっている。海軍兵学校を優秀な成績で卒業し授与されたときのものだ。練習艦隊での実習は終えているので、今回の船出は本番となる。お守りのように思えた。
今朝は妻の幸子と二人で朝食を食べながら、食卓のラヂオから流れる日本軍の戦況や西洋国の情勢に、聞き耳を立てていた。味がまったくわからなかった。幸子は終始にこやかだった。あとでお腹が空くといけないからもう少し食べていったらと訊かれた。ああ、それじゃあと、純二は一旦口にしてから、慌てて自分で白米を取りに席を立った。そんな、大丈夫ですのよ、と、幸子は幸せそうな顔を浮かべた。椅子に腰かけたまま、下腹に手をそっと添える。あの幸せそうな表情があったから戦況を聞いても実感が湧かなかったんだと思えた。
別れの時間がきた。幸子の顔は今にも泣き崩れそうだ。純二は見るのが辛くなり、巡洋艦の方へ身体を向けた。戦地へ赴くのだとようやく実感が伴ってくる。武者震いに襲われた。震える身体を抑えつけ、入口で兵に敬礼をして、乗り込んでゆく。振り向けば妻の顔を見ることができただろう。しかし振り向かずに前へと進んだ。
新しい命をこの目で見ることができるのだろうか、と純二は思った。故郷へはもしかしたら、もう二度と戻って来られないかもしれない。いや、今からそんな弱気でどうするんだ。絶対に帰ってくるぞ。いろんな気持ちが混じり合っての旅立ちだった。
複雑な胸中の純二の頭上には、海鳥たちの大群があった。
純二は空を見上げる。
さっきまでは見えなかったはずなのに、いつの間にか空を覆い隠さんばかりに、何千もの海鳥の黒々とした塊が突如現れた。空をキャンパスにして何かの形を成していた。あれほどの数の海鳥が群れをなしているのを見るのははじめてだ。鯨の尾のように見えた。
武者震いは止まっていた。やれることだけを精一杯して、あとはすべてを天に委ねてもいいのではないかと思えた。戦争の行方など、誰にもわからないし、杞憂しても仕方がないのではないか、と。吹っ切れた気持ちになった瞬間、どこからか別の力が身体に漲ってくるのが感じられた。
水平線をじっと見据える純二の表情は、早朝の空気のように澄み切っている。巡洋艦が大海原の戦地へと向けて出航したとき、鳥の群れはもうなかった。あれは啓示だったのだろうか、と純二は思った。
執筆の狙い
久しぶりの投稿になります。よろしくお願いします。