それたぶんなんかの黎明
「原因は依然として不明。外部のステータスランプは発光する時としない時の条件の差も判然とせず。無理に起動用物理キーを触ればホワイトノイズのパレード。メーカー保証書はあるが、明細の紛失により修理には購入時の三分の一の金が必要。しかし自分で直そうにも僕は素人なので、機械なんてろくにいじれない。これは、ちょっと参りました。叩けば直りますかね? もう叩いて良いですか?」
「脳ミソに深夜ラーメンでも食べさせたらどうかな。もう少し無駄な筋肉を落とすべきだと思う。私、人のオツムは太マッチョよりも細マッチョのほうが好きだよ」
私の良さってこういう小粋なことが途端に口から出てくるところだよね、と頭の中で自画自賛する暮れ時、狭い路地の弱々しい光を発射する街頭の下で、私ども二名は途方に暮れていた。
私は正座が得意だから長時間同じ姿勢でも大して気にならないが、相方の彼はここ数時間は立ちながらの働き通しで、声にも張りのなさが目立つ。労いの意味を込めて我流の法令に基づき残業代を支払ってやりたいところだが、残念ながら私はいつも財布は彼に預けているのだ。なんでも彼曰く、浪費癖を戒めるためだとか。二人分の金の責任を持つことで己を戒めているのだと、私は解釈している。
「……えーと。もう少しピンとくるジョークを聞かせてほしいです。それ、故障関係なく元からの欠陥ですか? それとも僕をからかってるの?」
「どちらとも違う。私のジョークはね、製造されてから個人的に磨き上げた唯一無二の個性だよ。あなたに買われるまでは暇すぎてヒマラヤ山脈になってたし、その間に培った」
「標高八千メートル、お高くとまっちゃって。ジョーク全般凍えるように寒いのはそのせいですか……この故障を直したら、ついでにその個性とやらも直りませんかね」
「あ、全体主義? 思想が強火だね。私はとろ火ぐらいが好きかなぁ」
「全然違いますよ……」
私の渾身の冗談を持っているスパナで華麗に撃ち落とす彼は、依然として私の背中を申し訳程度にいじくり回していた。ただ、いくら人でなしとは言っても私は後方を見るための目は搭載していないから、実は何をされているかは不明。壁に耳あり障子に目あり、畳と布団に盗聴器、なんて言うけれど、安い廉価モデルにはそこまで便利で高性能な機能は付いていない。
そういうモデルはやたらめったら金のある富豪が買うの。
貧乏人たる我が主人に財力と甲斐性を期待するべからず。
「とにかく、なんとか明日の朝までに君を直さないと仕事になりません。君の伴奏がないと……まさか僕がアカペラで歌うって訳にもいかない」
「安心して。あなたが孤独な独唱時代に突入するとしても、私は一生あなたの隣にいてあげる」
「僕は明日食っていけるかどうかの人生がかかってるんです! 他人事だと思いやがって! 本当に呑気ですね!」
「おい、そんなことより私今プロポーズしたよ。返事は?」
「ハ、僕の隣ィ? そんなもん、共働きが条件ですッ!」
「じゃあさっさと私を直してくれ、新居はそれから決めよう。婚姻届って履歴書みたいに百均に売ってるのかな? ああそうだ、役場の営業時間を調べておかないと。それとハネムーンカーの後ろにつけるアルミ缶はBOSSコーヒーでいいかい?」
「この前に売れるまでは廃墟生活って約束しましたよね僕ら」
BOSSコーヒーはスチール缶だと突っ込んで欲しかった。
さて、婚約の申し込み自体戯言なのは互いに承知の上だが、どうも最近の彼は万願寺唐辛子のようにピリピリしすぎな気がする。だからこそ私の至上のSENSEで和ませてあげているというのに、生真面目がすぎて状況を楽しめないのは彼の欠陥――いや、人間風に言うなら欠点だと思うものだ。BOSSコーヒーがスチール缶であることなど彼も当然知っているし、平常時なら私の欲しいところに欲しい突っ込みを差し込んでくれる彼の調子が如何に乱れているかが分かるだろう。
辺りには暗闇と、上から降ってくる一筋の灯りしかなく、風もなくって、微かに遠くからクラブ・ミュージックが虚しく聴こえてくるだけである。先程まで私の背中から鳴っていた金属音もその鳴りを潜め、彼が私の修理を諦めたことを静かに物語る。空を見上げても厚い雲に覆われ、無限に広がる暗い天面に月は見つけられなかった。常に眩しいこの拝電町で見られる星と言ったら月くらいだから、その唯一の輝きが失われたように思えて、私は少しだけ心細く、寂しく、おぼつかない気分になる。軽口の応酬で誤魔化していた事態の深刻さが、黒い靄の中からゆっくり這い出てくる足音が無音に近い路地に木霊する。もし彼も同じ気持ちだとしたら、私と背中合わせになるように座り込んだらしい彼の声音にかつてないほどの焦りが滲むのも、あながち私の勘違いではないのかもしれない。でも、私は勘違いしやすいからな。
「……あんな記事が出て、いの一番の朝で逃げる訳にはいきません。逃げれば炎に薪を焚べるだけです。よく燃えますよ、きっと。皆さん真偽問わず、ゴシップってものがお好きですから」
「――――」
「ですが、僕は……君と一緒でないと、衆目の前に出たくありません。たとえそうすることで新しい記事のネタにされようとも、二人に降りかかる火の粉は、二人で払い除けたい」
一応は芸能の世界に身を置いている彼は、私を相棒として迎え入れるまでに何度も、何度も見てきたのだろう、小さな火種が、幾人もの夢追い人をステージから引きずり下ろしたところを。だから、私を隣に立って伴奏をやるようになってから曲がりなりにも多少人気を得てしまい、一定のメディアから注目されるようになったのは、良くも悪くも、である。
そんな中、ようやく数多のライバルと同じ舞台まで這い上がれたというところで、駆け出しコンビアーティストの熱愛&不倫疑惑なんて駄文を勝手に世に解き放たれたら、私たちとしてはたまったものではない。これからの人生が滅茶苦茶になりかねない一大事である。そして、そんな時に限って近所のドブ川に足滑らせて水没して瀕死状態の稀代の天才伴奏家こと私。ドジはもとからの個性だが、流石に今回ばかりはちゃんと反省しているつもりだ。救いようがないなと、我ながら思う。
「まぁ、私はカカシだから、人間の一生なんてまるで想像がつかないけれど」
「……なんですか」
個性は個性、こちらは演奏機能が直るとしても直らない不動のものである。だが、私を拾って面倒を見てくれている恩には報いたいと思うから、背中越しの相棒にせめてもの慰めの言葉を送りたいと、私は思った。こういう気持ちは、人間も感じているものなのだろうか。
「あなたは一人のカカシの一生を救ったんだ。誰にも使われなきゃ、そんなの壊れてるのと一緒だよ。今回の不調も、実質寿命が来たってことさ。私を延命してくれて、どうもありがとう」
「……! やっぱ、どっかズレてますよね本当に君は! 君が不調なのは君が足を滑らせてドブ川に落ちたからだろう! こう、ホント、間抜けな姿勢で落ちましたよね! こう、なんかもう、頭からズドーンッて! よく中枢器官の方は無事だったな!」
「今大丈夫なだけで唐突に記憶メモリに水染みて死ぬかもね。ウフフ」
うんと、あれ、どうしてだろう。
どうして面白い事を言って笑いを取ろうとしたのに彼は、こんなにも悲しい顔をするのか分からないな。
「……その辞典のように厚いメンタルは評価します。今日は徹夜、いけますよね」
「え、嫌だ、寝たいよ。睡眠不足は良い仕事の敵だよ」
「君をどうにかこうにかして直すためです。良い仕事は全ての問題が片付いてからいくらでもやりましょう……君を直して、明日の朝逃げない! そしてきちんと歌って仕事をして、ゆっくり人々の誤解を解いていく! ゆくゆくは週刊誌を出している会社を訴えて勝訴! 莫大な慰謝料をぶん取る! 出来ることなら会社の闇を暴いて倒産に追い込む! 気分は爽快、駆け上がれのし上がれスターダム! リムジンを飼い慣らしレッドカーペットを踏みしめ、いざ、億万長者を満喫です! ……それまで、それまでは」
「それまでは」
「それまでは、今から、長い長い夜の時代の始まりです」
耐え忍ぶんです、明けるまでは。
それだけ最後に付け加えて、彼は持っていたレンチを足元のアスファルトに置いた。地面と合金が接触してカチリンと小気味良く響いた音は、いつ明けるかも不透明な果てしなき暗黒の世界へと続く扉を開ける鍵が回った音に、確かに似ているのである。そして私は、背中に感じる我が主人がブルブル、バイブレーションブルドッグ的に震えていることに気づいた。徐ろに振り返って押し倒してキスでもしてやるか、なんて思ったけれど、それで彼の賑やかな怒りの炎を呼び起こすにしては、今から開幕する夜の時代を遍く照らすには燃料が足りないなと考え直して、止めておいた。
前に同じことをした時は、五分くらいで許されちゃったから。
私たちの夜を黒く燃やすゴシップ色の炎は、五分程度で鎮火するとは到底思えない。
■■■
遥か遠い歴史の彼方、カカシという機械生命体はある一人の科学者によって完成させられ、始めはたった一体の孤独な生き物としての活動を余儀なくされた。生み出された理由もとい生きる意味は人間さんと違って鮮明で、それは科学者の研究所に侵入しようとする不届き者を千切っては投げ、千切っては投げすることである。科学者はちょいとばかし有名なので、もちろん研究所の中にはたっぷりの機密資料やら次世代を築き上げる夢の設計図が山と保管されていたのだ(という噂だ)。哀れな盗人は人よりも機動力、攻撃力ともに優れた言葉を喋る上位存在にそれはそれは苦戦し、幾度も、何人もの犯罪者が原初のカカシに挑んだが、とうとう科学者の一生が終わるまで、彼の私物が誰かに奪取されることはなかった。
そしてカカシは自らを生み出した科学者が死んだ後も、おのが意思で研究所の警備を続け、盗人たちを腕から飛び出る必殺のセイバーで成敗することに尽力した。時には足から飛び出るケチャップで目潰しを行い決着をつけた。たとえ深夜だろうが、猛吹雪だろうが、錆つき、己を直す部品とオイルを作る材料がこの星から無くなろうが、最後まで命令を違えなかった原初のカカシ。もはや一度旧人類が絶滅し建物が風化し科学者の私物が微生物に分解されるような時代に入ろうが、人のような何かや、無駄にデカい動物や、偉大なる植物から、研究所があったエリア一帯を守護しきった。己の寿命が来るまで。我々は、かのカカシが死んだ後に生まれた二度目の文明を生きる人類なのだ。
と、長くなりましたがそういう伝説がこの町には伝わっているのだ。このそこそこ大きなセミ都会の拝電町全体が一つの巨大な研究所を構成する地域だったのだというから、驚き桃の木、悟空の気。人呼んで「拝電説」などというらしいが、いわゆる根拠に乏しいローカル宗教というものである。勧誘は基本悪質なので注意されたし。あいつら、廃墟にも来るよ。その酔狂たる拝電説によれば、私を含む現代のカカシたちは、なんと例の原初のカカシの子孫なのだという。
今は町の機密工場で増え、死期を悟った者がスクラップ場で自ずと減るというなんともシステマチックなカカシ界隈。仮に説が真実だとすれば、原初のカカシはどうやって子を成したのか謎である。そもそも機械がまぐわうとは何か。可能ならば独りで眷属を造ったほうが圧倒的に効率が良いだろう。そもそもお見合い相手がいないし、その長い生涯の中で科学者に「許婚を開発してくれ」などと俗なことを頼むようなキャラクターと話の雰囲気でもない。真相は考察マニアと陰謀論者が好みそうな話題だけれど、私は趣味じゃないのでパスっすね。
んん、まさか盗人と交尾した訳でもあるまいに。
とりあえず後は勝手にお好きな方同士で議論して頂こうか。
■■■
世の中にはブラックボックスというものが有り触れていて、多くの罪もなき一般人たちは仕組みを知らず上辺だけの機能を汲み取ってそれらを利用している。携帯電話の組み立て方など、もはや発明した張本人すら覚えていないのではないかと時々私は思う。携帯電話ならまだしもそれが滞空二輪やコメカミ信伝となるとお手上げ、複雑すぎる機構の正体を知らないまま便利な表側だけをのうのうと享受するのは、少し、不気味なことである。
「君がそれを言いますか。カカシなんてこの世で最も中身に秘密が多い機械だと思いますけど」
「言ってて自分でも思った。でも、そんな私でも躊躇わず使って、壊れれば直そうとしてくれるあなたが好きだよ。よくぞ私を直そうとしてくれた! ぜってぇ無理だとは思ってたが!」
「いいんですよ。端から諦めてレンチとドライバーを握らないのは、君に対し失礼だ。それが僕の矜持です」
「カカシに求婚されたら躱すのもあなたの矜持かい?」
「逆に訊くけれど人間に求婚するのがカカシたる君の矜持なのか? はっきり言って異端ですよ。君みたいなのは他に見たことがない」
「もっと言ってほしい。変わり者扱いは気持ちがいいんだ」
「被虐趣味もほどほどにしてほしいんですが、それも個性ですか。その個性いつから発現したんです? ネジ一本の時から変態なんじゃないですか?」
「出荷して二時間後かな」
「出荷から二時間の間に一体どれほど苛烈な人生経験を……そう言えば、出荷時の記憶を辿って楽器機構の場所だけでも特定できないんですか? 自己修復ツールとかもありそうです」
カカシは工場にいた時の記憶を維持できぬし、パーツが破損しても自然治癒しないため、人と同じで何かに異常をきたせば専用の施設か腕の立つ職人のもとに行かなければならない。それほどカカシを触るときには専門的な知識と技術が求められるのだ。もちろん一介の廉価モデルにそのような能力などないし、お役立ちツールがあるならとっくに使っている。よって、彼の期待には生憎応えられない。カカシにとっては自分の身体さえもブラックボックスなのである。でもまぁ、人間だってべつにそうでしょう? 腹が痛い時どの臓器が悪いかなんて分からないし、たとえ分かったところで今度は対処法が分からない。結局は生き物とはそういうものだ。
当面の目標を私ことマレラ・拝電(町のカカシは皆この名字を名乗ることが規則)を修理することに設定した私たちは、一先ず人通りの多い道に出た。夜とは言っても序盤も序盤なので、比較的飲食店が狭い道に密集する通りは、否が応でも煩わしい喧騒を生んでいた。どいつもスイスも黄金の国ジパングも、判で押したように最高の笑顔で肩を組んで飲みながらぽっぽっぽ闊歩っぽしているので、割と危機的状況にある私たちは大層ムカムーカしたものの、この道を通らねば第一目的地までかなりの遠回りになるので耐え忍ぶ。つまり、開幕したばかりの夜の我慢比べのチュートリアルを味わわされているような気分だ。え、いやしかし、前菜にしては重くないかコレ。
「……なんか、辛いよ。世界に置き去りにされてる感じがする」
「いいですねその言葉。メロディは出来てるあの新曲の歌詞に使いましょう――今日は冴えてますよ、マレラ」
こんな時でさえ。
否、こんな時だからこそなのかな。
懐からメモを取り出して真剣に私のちゃちい愚痴を書き留める彼を見て、思わず笑ってしまった。少し滑稽だったから。もちろん彼の心が暗澹たるもので、現況にそぐわぬ日常動作を取っているのも彼なりの防衛本能であることも物理的に血も涙もないカカシながら立派に理解している。ただ、滑稽だと思ってしまったのだ。人間の中身ってのは、やっぱりよく分からない。暗いと特に何があるのか見通せなくて、不気味。不気味を通り越して笑えてくるのがむしろ普通じゃろ。
畢竟、それは私が人でなしだという証なのかも。
「なに笑ってんの。今度は表情筋が壊れましたか」
「んーん。久しぶりに名前で呼んでくれたことが嬉しかったのさ。とっても」
嘘は言っていないからセーフ。という問題でもないか。
しかし、これからはこの比ではない質と量の、色んな意味での「笑い」が内から外から問わず絶えず襲撃してくるだろうなぁと、ちょっぴり青な心模様。変装用の不織布マスクとパリピサングラスの下の口角と目尻が下がってしまう我々なのであった。
■■■
町をぐるりと一周する回路川には無数の橋がかかっており、橋を渡らずして拝電で生活することは不可能である。石や木で構成された雰囲気のあるものもあるが、丸太を繋げただけであったり、単に浮き袋が並べられているだけの橋もある。酷いものだと張られた網を橋と言い張る者もいたり。それらを纏めて、そうであるか怪しいものも全て引っ括めて、拝電では『橋』だ。町が作ったものもあれば人が勝手に架けたものもある。硬くて丈夫なものもあれば、今にも崩れ落ちそうなものだって、あるよ。
しかし日常にありふれているからこそ、人々はその無数の橋々を信頼している。当たり前の存在として許している。空気に致死毒が含まれていないことを確信しているのと同じことであり、カカシが人を傷つけないのとほぼ同じことだ。ただし夜は街灯が少ない地区での橋渡りには気をつける必要がある。追い剥ぎに遭っても安全は保障しかねるし、段差に躓いて膝小僧の骨がむき出しになっても知らんぷりしちゃうんだからね。とにかく、よく夜は周りも、心も暗くなりがちなのさ。よく見て、よく対策を練って、より良く対処することが肝要であるよく。
よくって変な語尾よくね! なんだか良くね?
「これまで僕は幾億の橋を渡ってきましたが……流石にこれはないですよ。訪問客を舐めているとしか思えない」
「案外渡れるかもしれないよ。こういうのに限って、見た目以上に頼りがいのあるヤツだったりするのさ。つまりはってーと、細マッチョ細マッチョ。細マッチョだよきっと細マッチョ」
「ストローが頼りがいのある細マッチョに見えますか。いよいよ眼科の出番かな」
「カカシに眼科って諺にありそうだね」
「猫に小判と意味被ってますから、生まれてすぐ死語になるかと思います」
「私、猫に小判と豚に真珠の二択だと豚に真珠派なの」
あと『頼りGUY』ってマッチョ、絶対世界のどっかにはいるよね。
私が至極適当な言葉で心に一筋の風を送風してやっているというのに、彼は辛気臭い顔のままである。彼が私の楽器器官を直す心当たりだという店の前には丁度幅十数メートルにも達する回路川が流れており、私たちはそこに架けられた橋を渡らなければ向こう岸に到達できないのだが、あるはずの橋がないと彼が突然騒ぎ始めたのだ。なんだなんだねどうしたよと私がなけなしのアイパワーで川面をスキャンしてやると、どうやら橋自体は架かっていることが判明した。ただ、その橋は百均で手に入るようなプラスチックストローを何百本もテープで繋げただけの、お粗末もここまでくれば豪勢とでも言わんばかりの代物で、それが轟轟流れる回路川にぷかぷか浮いているだけであった。根本はまたテープで地面に貼られていて、少しテープと地面の間に砂が入ればすぐに外れてしまいそうな心細さ。こういう細さは、流石の私もストライクゾーンから外れる。ただ細ければいいのではなく、細くて強いのが好きなのです。
「綱渡りならぬストロー渡りというワケか。サーカスでもなかなか見ないよ」
「こんなもん、橋が無いのと同じだッ。ふざけてます」
「十中八九、あの店の主人の仕業だろうね。カスみたいな嫌がらせだ。面識はあるの?」
「もしあったなら、きっとここには来てませんよ」
「どうして?」
「こんなにも趣味の悪い奴に、僕の大事な相棒を任せられない」
「あー、そういうとこだぞ。うい奴め。ウリウリ。ウリ坊ってなんでウリ坊っていうんだろうな。あなた、知ってるかい?」
楽しい会話で間を埋めつつ、私も彼も、いかに向こうへ渡るか脳みそフル回転で考える。もちろん彼は、不調をきたしている私の機能には頼らない方法を模索しているのだろう。対し私は、なにもそこまで気にしなくてもいいのに、と思っている。なんなら、こんな意地悪なことをしてくる店の主になら、私搭載の閃光弾でも撃ち込んで喧嘩を仕掛けてやってもいいとすら思っている。もちろん生活がかかっているし、我々の進退に関わる重大懸念事項であることに依然変わりない状況だし、私を慮ってくられるのに悪い気はしないものの、花粉症に有数の医科大学を勧められるくらいの心配をされては居心地も悪いし、そしてそんなにも優しい彼がただでさえ追い詰められている今、さらに追い打ちをかけるように追い詰めるような真似をする人間にムカムーカするのも仕方がないというもの。閃光弾か、はたまた催涙弾か。護身用の装備なら普通に使えるぞ。
「やめてくださいよ、余計なことはしないでください。君はただ、僕の後ろをゆっくり着いてくれば良いだけなんだ。ええ、渡ってやりますとも。ここからもう一軒の心当たりまでは随分遠い」
「……引くつもりはないの?」
「まぁ、ちょっと文句を言いたくなったんですよ……ついでに、慰謝料代わりのタダ修理をしてもらえれば、僕はひとまず溜飲を下げられるので」
そう言いつつ、彼はそこそこ流れの速い回路川に足から入水し、架かっているストロー橋を両手でしっかりと握り締める。どうやら伝っていくつもりらしいな。
でも、意味があるのか? その力強い握り締めは。
「まず僕が行きます。しばらくしたら着いてきて。あ、変なとこに水入れて、変なとこ壊さないでくださいよ。正規料金を取られかねない」
彼は橋をゆっくりと進み、川の流れに持っていかれないよう慎重に歩を進める。ていうか、もう彼が中間地点に達する時にはストロー橋なんてどこにもなかった。脆いので、彼が握った時点で向こうとこちらの根本のテープが剥がれてしまったらしく、彼はただ大きなU字の真ん中を持って進んでいるだけである。平行移動するU字の元ストロー橋。その真剣な表情、絶対に離すまいと握る力のこもるストロー、跳ねる水――まだ彼はストロー橋が崩落したことに気づいていない。非常に滑稽であるので、私はぷぷぷと笑いがこみ上げてきたし、実際ぷぷぷと笑った。ストロー橋がもはや橋でないことなど、少し周りを観察し直せば分かることだというのに……それが出来ないほど、今は川を渡ることに集中しているということだろうか。石橋を叩いて渡るという諺があるが、まさに彼は一歩一歩立ち止まって数センチおきに叩いて安全を確かめているようである。かなり非効率的だ。非効率だけれども、熱意は伝わる。安全を確かめているのも、彼が無事に向こう岸へ渡りたいからではなく、私が無事に着いてきて欲しいからなのだということは、少し彼を観察すれば簡単に分かることだ。まぁ、でも、別に滑稽だし笑うけどね。
特に夜の時代は、気をつけないとすぐ足元を掬われるから。
私の歩く道筋を照らしてくれて、サンキュー相棒。
■■■
ドブネズミの如くびしょ濡れになりながらドアを抜けると、ちりりりりんぴょ、というベルの音がして、そこは雪国でした。なんてそんな訳はなく、しかし平々凡々な家庭の玄関が待ち受けているでもなく、私たち二人を出迎えたのは洒落た喫茶店としか言いようのない空間だった。新進気鋭のアーティスト二名はカカシ技士を訪ねてそこそこ無骨な外観の建物に入ったはずだったのだが、本当に私の目、おかしくなっちゃったのかな。
果てしなく孤独で辛い夜が広がる外なんてまるで夢みたいな暖色の柔らかな灯りが、木目調で統一された狭すぎないフロアのいたるところに吊り下げられ、しかし眩しいとは全く思わない。程よい暗さも兼ね備えた絶妙な光量だ。さらに、少し古びた印象の板張り床は歩くたびに耳障りの良い軋み(グギギって。ギィィィイイイッ! じゃないの)を提供してくれるので、それだけで、私はこの店の主が「趣味の良い奴」だと思えた。等間隔に置かれた二人用のミニテーブル、最低限の骨組みを生かしたデザインのスツール、フォントと見せかけて素敵な匂いのする手書き字のメニュー表――いや、待てや。メニュー表ってなんじゃい。ここには腕利きの職人がいるのではなかったのか。ネジとかレンチじゃなくてパスタやエスプレッソが出てくるのではないか。私は店内に充満するフローラルアロマオイルの香りを堪能しつつ、そういう疑問に耽った。耽るという穏やかな行為に発展できるくらい、心休まるチルな場所だった。
カカシに心ってもんがあるかは、知らぬがのう。
棘だらけのはずだったそこに、美しい花が咲いた気がする。
「……いらっしゃい。すまんな、出迎えが遅くなった。こんな夜更けに客が来るとは思わなんだ。好きな席にかけてくれ」
「!」
センスの良い店内を物色、もとい警戒していると、カウンター席の奥から徐ろに、初老の男が出てきた。背は高い、細身で、エプロンと蝶ネクタイが似合って、所作の一つ一つに品と艶と華がある。ただ歳を重ねただけでは獲得できない滑らかな物腰は、会話する者の心を緩やかに解いていく。対し同伴者の顔をチラと見ると、彼の顔には一切の余裕を欠いた焦燥が散りばめられていた。なんだか気の利いたインテリアを眺めてほだされていた自分が少しだけ恥ずかしくなった。彼は私のために冷たい川の水に濡れ、こんな苦労をしてまで技士に頭を下げに来たというのに、当の私は他人事か。あーあ、所詮機械だね、ショウガナイショウガナイ……なんて、諦めてしまうのも、寂しい行為なのかな。
マレラ・拝電の葛藤は続く。乞うご期待ッ。
「なんだっていいですけど、僕はあなたを頼りに来たんです。長身の紳士、間違いない。腕の良いカカシ技士だと友人の友人の友人の奥さんから聞きました」
「逆にどうやって知り合ったの?」
「……なんだっていいなら、まずは座りなさい。焦りは危機を生む。一度立ち止まって、呼吸を整える時間が人生にはあってもいい。ここはそういう場所だ。休まなければ、すぐ人はバテる。カカシだってそうだとも」
「回りくどい……僕らは明日からの人生かかってるんです!」
「――そこの席に座れ。いいから。君らは客なんだ。客なんだから、この店の案内に従ってもらおうか」
初老の男の有無を言わせぬ圧に、若造の彼は言い返すことはしなかった。苛立ちを必死に隠して、その感情が表に出てこないよう振る舞いながら濡れた荷物を下ろし、椅子を引き、私にもそうするよう促した。私は初老の男に渡された純白のタオルケット(手際がいい、のか?)で顔を拭く彼の整った目鼻立ちを、ぼうっと向かいの席から、頬杖をつきながら見つめてみた――たまにはこうして、いつも話している人を見つめ直してみるのも、悪くはないな。新しい発見がある。右の鼻の穴のほうが左のやつより大きい、と。クスクス。
いくら青くさい青年と言っても、彼は聡明な男である。たとえどれほど最低最悪なピンチに晒されようと、本当に大事な部分は見落とさないし取りこぼさない。物事の本質をわかっていて、その愛おしさを大切に抱きしめる気持ちを持っている。そういう若者で、そういうところに私は惚れている。普段面と向かって言わないし、改めて私の気持ちを整理して初めて認識できる程度の心象だったけれど……そうかい、私は彼のそういうところが好きなんだ。知ってたけど、知らなかったな。こんな温かい感傷が出てくるのも、この店の空気か、はたまた格子状の窓の外の夜の景色の色がそうさせるのか。だとしたら、なんともギルティな空気と色だぜ。二者とも私の心に終身刑してやりたい。
彼は顔を一通り拭き終わると、そばに控えている初老の男をちらりと睨んだ。初老の男も冷めた目線でそれを跳ね返す。
「まずは、店の前のストロー橋についてお聞きしたい」
「はてストロー橋? なんのことかね」
「とぼけるな! 僕をずぶ濡れの濡れネズミにしたのはあなたなんだろう! ぜひとも言い分を聞かせていただきたい!」
「ふん、こんな真夜中にここに来る奴は、大抵アルコールか薬で飛び跳ねたクレイジーな輩がほとんどだからな。通常は入店お断りにするところだが、それだとあまりに冷たいだろうし、いちいち起きてきて対応するのもダルい。だから自主的にお家にお帰りいただけるよう、頭を冷やしてもらおうと、毎晩小粋なジョークを仕込むことにしている」
「冷えたのは物理的に僕の体の方だよッ!」
「そもそも私の店には回路川の定期巡回船で乗り入れるのだよ、町のどこからでも乗れるだろう? 個人的な好みの外見の橋は、建造費が嵩むものでな、もう少し儲けが出るまではお楽しみとしてとっている。それにすら気づかないとは、いやはや、クレイジーな輩と変わらないな」
「くそ、確かに気付けなかったから言い返せない!」
「しかしジョークを乗り越えてまで入店してきた奴は初めてだ。余程の事情があると見受けられる。だから敬意を払って客として通したのだよ。ほら、こうして柔らかなタオルも差し上げるし、さっき暖房の温度も少し上げてきた。こちらはこんなにも饗しの感情に溢れているというのに、とんだ噛みつき狼だな、お客様」
「そ、それはまあ、えっと、助かりますけどね?」
言いくるめられてる彼、可愛い。好き。
マッチポンプの好例を流し見つつ、私は疲れているであろう彼に代わって本題に切り込むことにした。カカシには肉体がないから疲れないが、その代わり少しでも機器に不備があると、その補填に中枢思考のリソースを割かねばならないため、本領を発揮できない。そのため私も万全の調子ではないのだけれど、彼がここまで私を連れてきてくれたのに、おんぶに抱っこ、引っ張られるがままというのも癪である。初老の男の目は妙な眼力があって胡椒少々怖いけれど……この夜の内に私が直らなければ、もっと怖くて暗い、恒久の夜みたいな毎日が引っ切り無しに我々にやって来る。そうしたら、彼のスターダムに躍り出るという夢は、永遠に叶わなくなるかもしれない。私が支えてやれなくなるかもしれない。そう思えばこそ、カカシなりに人に立ち向かう勇気を出せるというもの。
「そもそも、今回あんたを訪ねたのは、私が己の不注意でドブに頭から落っこちたからだ。落ちた結果、私のアイデンティティかつ仕事道具でもある楽器器官が使用不可になってしまった。素人には原因も対処方もぜんぜん分からない……どうか診てくれないかい。実は明朝にもステージがあるんだ……できれば、今夜中に直してくれると、助かるよ」
「…………」
しおらしい演技を、なんて言えるほど本心を包み隠したつもりはなかった。むしろ多少のおとぼけを追加して空気が深刻化しすぎないように配慮したつもりでさえあるのに、大した効果はなかったようだね。初老の男は変わらぬ無愛想な面で私をしばし見た後、首を傾けてテーブルの上に置いてあるメニュー表を示唆した。少なからず不納得に「ああ……はいはい」と呟いて手にとる私です。修理箇所による値段や各種オプション価格が書いてあるものと期待したのだが、記されていたのは軽食やドリンクといったお食事ばかり。内装がそうだと言っているように、やはり喫茶店なのである。彼が分かるよう開いて見せてやると、歯噛みしたような如何にもな顔で拒否反応。彼が今一番この世で悠長という概念を嫌っているんだろうなァ。
「一人一品は必ず頼みなさい。私の技術は飲み食いに金を出してくれる客に対するサービスで、趣味だ。こっちは金も取らない。単純な真心でやっている。いかがかな」
「僕らに選択の余地はないってことですか」
「べつに、私としては帰ってくれても構わんのだぞ。そういうことなら、せっかくの夜の客人を饗したい気分だったが、二人分の回路川の水で濡れて汚れた床をへーこら言いつつ掃除だけして、君らのせいで削れてしまった貴重な睡眠時間を硬いベッドで貪り掻き集めながら虚しく夜明けを待つこととする。その明朝のステージとやらが、失敗しようが間に合わなかろうが、私の知ったことではない」
ハムスターケージも驚愕の速度で回転する男の舌に、私も彼も開いた口を塞ぐことが出来なかった。こっちの舌はこれっぽっちも回っちゃあいない、下歯茎に置いてるだけですね。拝電町で歌の仕事をする上で多くの人やカカシと出会ってきたが、このヤベェ男の存在を今まで知らなかったのはもはや奇跡である。腕利きといえど評判が広まりきらないのは、決して店の所在地と入り方が尋常でなくややこしいからだけではないのかもしれない。
私だったら誰にも紹介したくないわネ。ウフフ。
「あんた、やっぱり趣味悪いよ……じゃあ、コーヒーを」
「ホットかアイスは。豆と作り方は。砂糖はいくつだ、それともガムシロップ派か。ラテアートするかね。ちなみに市松模様が得意だが」
「全部オススメでいいですから!」
「そうか。このあと眠れなくなっても知らんぞ。私のコーヒーは苦くてえげつないほど濃い」
「今夜は眠らないつもりなので! 余計なお世話だよまったく」
「カフェインに頼りきりになればいつか体を壊す。心地の良い夜も地獄と化すかもしれない。いいかね、普段は夜はきちんと眠るのだ、若者は特にな、最低六時間は。元気を前借りすると私くらいの年になればな、耐え難い苦労が心身ともに追い着いてきてね」
「早くゥ〜ッ! 早くしてくださいよォ!」
「カカシの嬢ちゃんのほうは。何が欲しい」
「……じゃあ、この、タンポポ茶というのを頂こうか」
「ほう、タンポポ茶か。なかなか憎い選択だ。美味いから期待しておけ。しかし、茶にもカフェインはある。睡眠を妨げるが構わんな?」
「カカシは眠らなくても平気だよ。なにかとヒトとは違う……そのせいで人類とはいつだってすれ違うばかりさ。カカシ技士なら、あんたも知ってるでしょ」
「ふむ、違いない。いやなに、そういう機械目線の理論を振りかざすのは、嬢ちゃんは嫌いなんじゃないかと思ったものでな」
「……そうだねぇ。ごめん、気が立って意地悪なことを言ったよ。いつもは毎日七時間は寝てるかな」
「気にするな。いい心がけだ。続けてくれたまえ。……それと、私はカカシ技士などという者ではない――喫茶『丘物語』店長のロウトだ、覚えておけ。お騒がせなアーティストどもよ」
そう言うと、ロウトは出てきた暖簾の奥へさっさと消えていってしまった。ここからでは暖簾の布が邪魔になって、中で何が行われているか定かではない。私の予想では薪で熱した大釜に紫色の液体を沸騰させて、そこに試験管からカラフルなお薬を五六本投入していると思われる。この区画でも隅っこのほうにある目立たない店だから、まだ発見されていないだけで、影で何が巻き起こっていても不思議ではないのだ。あー、めちゃ通報したい。私の妄想のせいで無実の男をめちゃ通報したくなってきた。
「バレてたね。私らのこと」
「ええ。不幸中の幸いは、あいつが低俗なゴシップには興味を示しそうもない点ですかね」
「どうりで私の性格を知っていたわけだ――『機械目線の理論を振りかざすのを嫌う』、か。フフ、結構的を射ているね」
回路川を渡る時に変装用のメガネもマスクも外してしまったから、顔を知る者が見ればすぐに気付くのもおかしくはないだろう。しかしロウトにインディーアーティストの知識があるのはそこそこ意外だった。腹立たしいことに、彼のせいで今頃は変装グッズもずぶ濡れ鞄の中で等しく水分を含んで和えられているに違いない。その他電子機器やガジェット類の調子も気になるが、特に紙製のマスクなんかは確実に二度とは使えないでしょうね。うんと、なるべく目立ちたくはないけれど、果たして帰り道はどうしようか。否、変な話――、
「――帰れるん……ですかね。今夜中に」
「……そりゃ、帰れないと困るでしょ。そのためにあなたがここに連れてきてくれたんだぞぃ?」
「ロウトとかいうあのジジイの不埒な様子を見たでしょう。一体これから僕らはどうなってしまうんだ……本当に、無事にこの夜を明かせるんでしょうか。それがとても怖いんです。君を今夜中に直してあげられないんじゃないかって……不安でたまらない。僕はいまだ、今のうちにこの店を諦めて、他の心当たりに走る検討を止めていません」
彼の目線はメニュー表に向けて下げられているが、表情の無機質さを見るに、特に読んではいないのだろう。普段はとっくに床についている時間に喫茶店で飲み物を注文しているのだ、眠気による意識の散漫も仕方ないと言える。
時に夜は、ここにある厄介な何もかもの持ち物を放り投げて、そのまま意識も放り投げてしまいたくなることがある。十分頑張った、あとは次に覚醒した時の自分に任せようと、横になってひたすらに怠惰を頑張るという奇っ怪な行動を取るのだ。いずれ漬けたツケが戻ってくることは当然分かっているとしても――今だけは楽にさせてくれと、そう思うしかない闇の気分にぐわっと支配される。らしい。人はそうだと聞いた。カカシは人よりもよっぽどメンタル面でもフィジカル面でも強力だが、人間の内情を推し量る心の機微には長けない。でも私は、そういう自分の機能が、そういう風に設計された己の『肉体』が、時々すっごい憎くなる。他のカカシたちは知らないけれど、少なくとも私は、彼の心の夜に巣食っている魔物を退治してやれそうにないことを、とてもとても、悔しく思う。こんな事態に陥ってしまった原因が私であることも含めて、バツの悪さが極まる。だからもっとどんよりとした気持ちになりたいのに、カカシは物事をそこまで深く受け止められない。
彼と同じ夜を抱えてあげられない苦痛。
痛といっても、カカシは痛みすら感じませんがねぇ。
「――私はね」
「なんですか」
「これからも、たくさんの夜をあなたと越えたいよ。野宿でもさ、なるべくあったかい所で、並んで近くの寝袋にくるまって、たっぷりの七時間睡眠して、調子ババンバンバン万全の状態で、次の日に歌ってほしい。私ができるだけいい感じの伴奏をするから、きっと、もっと、ずっと二人で――それで、いつかは」
「わかってます。わかってますから」
私の言葉を人差し指で遮って、彼はほんのり落ち着きを取り戻した顔で言った。うへ、他の女の子にやったら明らかにギルティな仕草で笑っちまうぜ。カカシの唇にそれやっても付着するのは涎じゃなくて潤滑液だよ。そういう性癖なのかな。
「君みたいな頭オカシイ奴が相棒で、まったくもって最高の気分です。皆まで言わないでくださいってば」
■■■
痛くない。痛くないのだけれど、これをグロ画像と言わずしてなんと表現したらいいのだろう。ほとんど動かせないほど四肢は背中にぴったりくっついた大きな金属の板に固定され、少し眼球型カメラを下に向ければ汚い七色のコードが無数に繋がれた上で剥き出しになった腹が見える。メンテナンスだから楽器器官に直接関係ない箇所まで蓋取られてるし、いつものプリティな表情とか作れないし、当然全裸です。いえ、別に恥ずかしいとか羞恥〜みたいな感情はないし、これで元気になる偉大なるスケベがいるならば喜んで見せてもやりたいところだが、それにしたってあらゆるカバーが外されて中身の緻密な基盤やら無骨なパイプやら合金の臭いなんかが織り交ぜられて呈されている今の状況に興奮するスケベは、拝電町全域を探したってなかなかお目にかかれないのではなかろうか。自分の腹の中の様子を見たことがないわけではない。出荷時にチラリンと見たし、本には細やかに私たちカカシの内臓について綴られていた。しかし実際に今の私の中身は、それらで見たものとは似ても似つかない、酷い有り様である。錆も、ひび割れも、循環オイルが固まって排熱で固まったと思しき薄く黄色いネチョネチョッとした物体も、全てが私の中身――普段は見えないところ――昼か夜かで言うと、夜の部分。
でも私は、こういうじんわりとしたグロは好きな方だ。だって、メンテナンスをする暇もないくらいに私たち二人が積み上げてきた苦労が可視化されてるわけじゃん? 金持ちの家で丁寧に飼われてる貴族なカカシはこんなに汚れない。貧乏で、暗くて、寝る場所も転々として、明日生きるのにも必死で、ずっと夜から朝によじ登ることを夢見て、そんな毎日の中で仕事でもある趣味にささやかな喜びを感じる、そんなカカシだから刻まれた、誇り高き汚れだ。ロウトはこの気持ち、分かってくれるだろうか。黙々と私の中を細くてとんがったツールで突ついているロウトに、焦りは見えない。どっしり構えていなさいと、言われている気がした。
声が出ない。そりゃそうでしょ、頭部は胴体修理の影響を受けないように、機能を粗方切られているのだから。でも目だけは辛うじて動かせる。相棒の彼は、私とロウトから少し離れたところにある椅子に座って、落ち着かない様子で私を見ている。向こうは私と違って感情豊かで面白いな。身振り手振り多すぎ。いつもはもっと冷静沈着なのに。慌てているの? それとも怖がっているの? それか、悲しんでるのかい? やだなぁもう、大袈裟だってば、これから死ぬんじゃあるまいし、そんなに心配しないでよ。逆だ、直るんだ。それなのになんなんだよその目は、そんな目、見たことないぜ。この程度のことで、いちいち泣きそうにならないでほしい。私たちはこれから幾億もの夜を明かしまくっていく予定なのだから、初めの一歩で躓いてちゃあどうしようもないと思う。それとも、私の中身を見て、本当に機械なんだって思った? ウフフ、あんまりカカシっぽくないカカシだったろうけど、私ってば、本当に機械なんだよ。意外だよね。でも人と同じで、いつ壊れてもおかしくないんだ。あなたが私を乱暴に扱えばすぐ壊れちゃうし、これまでみたいに大切にしてくれたら、永遠にだって私は生きてみせる。今回は私のうっかりな間抜けが危機のきっかけだったけど、もう絶対に油断しないから、安心して。あなたが寿命で死んだあとも、あなたと二人で作った歌を歌って、広めて、じんわりと懐かしみながら、こんなにもいい人がかつて居たんだぜって、古今東西で吟遊詩人ってやる。
なんですか「吟遊詩人ってやる」って!
っていう返しが、今は無性に欲しい気分。
あれ、応急処置が終わったみたいだ。そうかい、じゃあ、彼のためにも景気づけに一発、あの子守唄でも奏でてあげようか。もう夜も深いから、怖いことも暗いことも、一旦全部リセットして、昨日に置いていこう。限りなく爽やかな気分で翌日を迎えるために、今こそこの音をあなたに贈ろう。そのために鳴らすんだ。ああ、楽器器官の肩慣らしがてら伴奏は演奏するけど、生の声は出ないから、そこは内蔵スピーカーでね。ある意味『内臓』ではあるのかもしれないけれど。
それは、なるたけ穏やかで、素朴で、癖のない柔らかな曲――いつかのためにと、こっそり作曲して、作詞して、歌って録音しておいた、私の歌。私の歌で、あなたのための歌。いつかのためって、いつのためですか? なんて野暮なことは聞いてくれるなよ。あなたが独りの夜に寂しくなって泣かないために録っておいたんだから、わざわざ私の親切を解き明かすような想像はしないでおくれ。謎は謎のままが美しい時だってあるのさ。
とにかく、あまり深く気にすることなく、夜をも照らす心の明るさをもって、私の再誕を祝って欲しい。
この歌は今この瞬間、そのための音色に変わったのだ。
■■■
「直した甲斐があった。またしばらくしたら来るといい。今度は昼に、他のお客様の前で歌いなさい。そうすれば、たまに食事と飲み物くらいは提供してやる」
「マレラは凄いでしょう。僕の大切な人で……誇りです。ロウトには、借りができてしまいましたね」
店から出ると、春の夜の季節に似合わぬ寒風が私と彼の肌をさらりと撫でていく。しかし私はそれ以上に、相棒とロウトの称賛の声のほうに撫でられるほうがよっぽど落ち着かないというか、どう振る舞っていいか分からなくなる。あんなに陰険な雰囲気だった二人が私の歌(しかも録音)を聞いただけでこれかい。音楽の魔力か、はたまた同じ夜を越えた絆か。正直メンテナンス中の私は妙にハイテンションになってしまって秘密の歌をノリで披露してしまったことに若干後悔しているまであるのだが、ひとまず楽器器官が直って、朝のステージに彼と並んで立てるというのなら、今はとりあえず気にすることを止めにする。
あーあ、また新しい曲を考えて歌い直さないといけないね。サプライズはサプライズだからこそ輝く。謎が謎であるのがいい時もあるのと同じように、お楽しみの秘密がバレたら、また一つお楽しみの秘密を作り直すまでである。
「その借りも、ランチタイムのステージでチャラだ。売れる寸前のコンビアーティストが歌うとなると、流行らない私の店にも付加価値ができるからな。ウィンウィンというやつだよ」
「今はいいですけど、残念ながら、そのうちそんなに行けなくなると思いますよ」
「ほう、その心は?」
「こんな場末の喫茶に構うほど、暇じゃなくなるからです」
「ふん、大した度胸よ。少しは元気が戻ってきたか」
彼の顔には憔悴の跡が残るが、客用のテーブルでメニュー表を意味もなく眺めていた時に比べれば柔和なものだった。見送りに着いてきたロウトの冗談を含む嫌味も軽く受け流し、今すぐにでも寝袋を置いてある廃墟に戻って新譜を書きたそうな表情で、私もそんな彼を見ていたら創作意欲がにょりにょり湧いてきた。ロウトには悪いが、別れの定型句を聞く時間すら惜しい。新譜の歌詞もメロディもそうだけれど、何よりステージ前のスピーチの原稿を考えなくては。原稿ナシであるがままを伝えても良いのかもしれないが、それだと思ってもないことを――或いは思ってるけど公の場では言いたくないことを――口走ってしまいそうで、心底怖いのでね。回路川の定期巡回船に乗って復路を往く私は、そんなことを考えてニヤニヤ笑ったり、ゴム製の唇をもごもごさせたりしていた。
挨拶もそこそこに店から離れた私たちは、巡回船から降りた後、仄かに光を取り戻しつつある見慣れた拝電の町を歩いているのだった。人はまばらで、常に賑わう往来とは印象がかけ離れている。要するに嵐の前の静けさというやつである。まあ、せいぜい太陽が高くなったら荒れに荒れれば良い。それに立ち向かう覚悟はとうに出来ている。
前を歩く彼の歩幅は、心なしかいつもより大きい。早く寝たいのか、曲か原稿を書きたくて興奮しているのか、単に私のしょーもない勘違いか、にぶちんカカシたる私には分からない。
「――直ってくれて」
でも、彼が振り向かずに言った言の葉ひとつひとつが、私の胸にするりと入り込んできて、ゆっくり溶けて、じんわりとした暖かみを伴って一体化したことだけは分かる。どこに混ざったのかな……送液ポンプか、楽器器官か、まさか心とか。
「直ってくれて、ありがとうございます。居ても立っても居られないくらい、怖かったんですから」
その時、私たちは前方に開けた視界――灰色のビルとビルの隙間に、一筋のオレンジの光を見た。山から太陽が顔を出した、なんて銭湯の壁タイルに描かれるような典型的なものではないが、それは確かに拝電町の夜明けだった。私は人がいないのをいいことに道のど真ん中に立ち止まる彼の横に立ち、並んでその細い細い一本の光を見ることに夢中になった。光の真似をして、目を細めて細めて、ちょっとした変顔気分をノせつつ。
「綺麗だ……ね」
「そうです……ねっ」
「あ、コラぁ、真似しないでよ」
「ふふ、すみません。なんだかテンション上がっちゃって。あんまりにも日の出が美しかったもんですから。こんなに太陽が眩しいことなんて、あるんだな」
その横顔のほうが綺麗で、美しくて、眩しいよ。
そんなことを言ったが最後、末代までネタにされてイジられるんだろうな。まぁカカシに末代とか、ないんだけどね。そんなくだらない妄想もまた、楽しいものだった。なにせ今は二人とも完全なる徹夜なのだ、アドレナリン含む脳内麻薬がどばどばのどばりーの状態なの。秘密の歌を勢いでお披露目してしまうのに比べれば、かけがえのない人の真似をしたり、他愛のない空想に浸るのくらい、どうってことないのかもしれない。
「それ、ただの深夜テンションじゃないのかい?」
「だとしてもですよ。そう感じていること自体が喜ばしく思えてならないんです。本当に無事に、一つ目の夜を明かせましたから。コレ、最初で最後の、第一歩ですよ」
「そうだね。あー、そっか、ここから本格的に始まるのかぁ。しんどいね、めんどいね。でもまぁ……なんとか踏ん張って、頑張るかな」
「ふふ。相も変わらず、カカシっぽくない人だな」
「人じゃあないからネ!」
■■■
数時間後には寒さもどこかへ隠れてしまって、大通りに面した比較的大きなスペースの路地裏に組まれた簡易ステージの前では、仕事や学校に向かう前の人々が私たちの登場を心待ちにしていた。もちろんお客さんだけではなくて、下衆な報道陣もちらほら見える。でも、私は下衆でもいいからもっと沢山のカメラに集まってほしかった。この程度ッスか。私たちの知名度も注目度もまだまだ上げていかないとね。たとえば、あのカメラが五倍くらいの数になるまではノンストップの休憩返上で駆け抜けたいと決意を新たにした。
彼と共に悠々とステージに上がると、ざわめきは途切れ、予想に反して静かなものだった。しかし逆に好都合。私たちの魂の叫びを、歌の前に原稿アリのスピーチで読み聞かせてやる。さながら枕元の絵本の朗読だぜ。でも眠っちまうなよ。
「私たちについて、一部、下品な週刊誌から報道が出てるみたいだけど――今朝はどうしてもみんなに直接そのことについて言いたいことがあったから、徹夜で準備してたんだ。見てよこのクマを!」
クマなんて出来ないよ。カカシジョーク。さっぱりウケない。私は気にせずそこまで言って、すぐ隣に立っている相棒の存在を肩で感じる。横目でちらと覗く必要すらない、私がテレパシーモドキで「あなたが続きを言ってくれないかな」とお願いすれば、彼は迷わず私のワガママを聞き入れてくれる。それがどんなに幸福なことであるか。
大変、カカシ冥利に尽きる。
「――僕と彼女との間に、恋愛の感情は一切ございません」
「そう。無い無い。ぜんぜん無いから。彼との間にあるのはただの『くそでっけぇ親愛』と『不滅の絆』だから、ミナサマ誤解なきよう」
「そのため、不倫も何も、って感じです。僕らのプライベートを捏造して、公の場で玩具にするのは止めていただきたい。それだけです。これからも、僕ら二人の間にそのような関係が起こることはあり得ません」
ん。んん。そうだね――きっとそう。
「それじゃあ、重苦しいご報告はこれくらいにして、最初の曲いってみましょ! さあ、過酷な労働に従事されるお方、やりたくもない勉学に精を出すお方、一曲だけでも聞いて、朝から爽快に飛ばしていこう! マレラ、カウントッ」
「アッ、ハイ。ぁワン、ツー、ワンツースリーフォー!」
マイクを握って場の空気を一変させた彼のきっかけに従ってカウントし、直したばかりの楽器器官の数々を身体の至るところから露出させて掻き鳴らす。ギター、トランペット、キーボード、ベース、ドラム、ウインドチャイム、フルート、カスタネット――そして、彼のマイクに被せるサウンドエフェクター。その全てを思い通りに使役して彼の歌をサポートするのは、今や私の生きる理由と化しつつある。そう、だからこそ、彼から一歩引かれたような、線を引かれたようなことを宣言されたのがちょっぴり堪えて――なーんて、感じたのも、人とは違うカカシ故の勘違いなのだろうと思った。
でもね、でも、もしも勘違いじゃないとしたら、この気持ちに嘘が無いのだとしたら、この曲を歌い終わった後の、それか、幾度も何度も夜を明かしたはずの遠い未来の私よ、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、聞いてはくれないかな。
それたぶんなんかの黎明。
だから、ぜーったいに逃すんじゃないよ。ウフフ。
執筆の狙い
テーマは「夜」です。仲間内で作っている同人誌の寄稿用に書いたものですが、50枚くらいになってしまいました。
誰でも読めるライトなSFを目指したつもりです。人生の合間を縫って、緩やかな心持ちでお読みください。