光の速さで
犬の唸り声みたいな音がする。だけど、数学の授業中に犬がうなるわけがない。謎の音は、考えている間も鳴り続けている。どこで、何が鳴っているのか。
「なんか変な音、鳴ってね?」
俺は音の原因が知りたくなってクラスのみんなに尋ねてみる。するとみんなは耳をすましはじめる。
「音なんて聞こえないけど」
やがて、立花が言う。
「いや、今も聞こえるから。なんか、ブーンっていう音がさ」
「いや、聞こえないって」
立花はもう一度、言う。
「はい、音の話はあとで、休み時間とかにしてね。今は授業中だから」
加藤先生は言う。
結局、音のことはうやむやになる。誰も、俺の聞いたような音は聞こえなかったみたいだ。あの音を聞いたのは俺だけらしい。
俺だけにしか聞こえない音なんて、変だ。音っていうのは、みんなに、平等に聞こえるものだ。そうじゃないとすれば、それは幻聴だ。でも、幻聴っていうのは、頭のおかしいやつにしか聞こえないものだ。しかし俺は頭のおかしいやつじゃない。
俺にだけあの音が聞こえたのはきっと、俺の耳が人並外れていいからだろう。そうやって考えたほうが怖くないし、むしろ自分に才能があるみたいでテンションがあがる。
そのあとは何事もなかった。変な音を聞いたからといって、体調不良になることもなかったし、普通に部活を終えて帰った。
部活を終えて家に帰る頃になると、猛烈に腹が減っている。だけど今日の腹の減り具合は尋常じゃない。いつものが五なら、今日の減り具合は十一だ。十点満点の十一。つまり限界を突破してるってことだ。
俺は家に帰ってすぐ、夕飯ができるのも待たずに、戸棚からポテトチップスを取り出す。普段ならそんなことはしない。けれども今は死ぬほどおなかが減っている。
ポテトチップスを一枚ずつ食べるのももどかしくて、まとめてつかみだしたものを一気に口の中にほおばる。
なんか変だ、という気がする。まる一日もごはんを食べなかった遭難者みたいに腹が減っている。
「雄太、そんなにおかしばっかり食べると、夕飯食べられなくなるよ」
母さんは言う。
「大丈夫、なんかすげーおなかすいてるんだ」
「それは夕飯食べてないからでしょ。もう少しでできるから待ってなさい」
母さんの言葉を聞いて少ししてから、ポテトチップスを食べ終えてしまう。それから少し待っていても夕飯はできない。
母さんのもうすぐ、は信用できない。特に夕飯の時のやつはそうだ。どれくらい信用できないかっていったら、母さんの言うもうすぐの間に短めのアニメを一本見終わってしまうぐらい、あてにならない。
死ぬほど待ちわびたところで、ようやく夕飯ができあがる。その日の夕飯はチャーハンと餃子だった。
ポテトチップスを一袋食べ終えたあとにもかかわらず、チャーハンを三杯おかわりして、餃子も十二個食べる。
夕飯を食べている途中で、強烈な睡魔に襲われる。おなかはいっぱいになっていなかったが、それ以上に眠くて、とてもごはんを食べ続けられそうにない。
俺は食器を片付けると、早々に自分の部屋に戻ってしまう。歯磨きをしたりとか、風呂に入ったりとか、いろいろやらなきゃいけないことがあるのはわかっている。しかし今にも倒れそうなほど眠くて、何もできそうにない。
俺はベッドに直行し、布団に入る。
目が覚めると、部屋の中が明るい。照明をつけっぱなしにして寝てしまったのかと思ったがそうでもない。部屋の中が明るいのは、朝日が差し込んでいるからだった。ほんの少し、仮眠を取るつもりだったはずなのに、どうやら朝まで眠りこけてしまったらしい。
俺は起き上がって時計を見る。時計の針は八時十一分を指していた。学校の始業時間は八時半。学校へ行くまでには三十分くらいかかる。完全に寝坊している。
俺は慌てて学校へ行く支度を始める。準備をするために予定帳を見て、一時間目が体育だと気づく。小野田の授業に途中から参加するなんて最悪だ。何を言われるかわからない。
朝からいきなり説教されるのは嫌だ、と思って死ぬ気で支度する。幸い、持って行くものはそんなにない。教科書は全部、学校に置いてある。
家を出るときに、テレビの画面を見たら、八時半を過ぎていた。間に合うとは思えなかった。しかし朝礼には間に合わなくても、一時間目に間に合えばいい。
とにかく死ぬ気で走らなければ、と思って家を出て走り始める。
全速力で走ろうと駆け出した瞬間、体がふわっと浮いたような感覚がする。それと同時に体の動きが止まる。
目の前の景色がおかしくなる。建物や空などの何もかもが、ぐっと俺のほうに向かって近づいて来る。目を向けていないのに、なぜか後ろにある建物も迫ってきているのが見える。まるで、この世界が紙箱の内側に絵を描いただけのものでしかなくて、それをぐしゃっと押しつぶしたみたいだ。
押しつぶされて、俺のすぐそばに来た場所は、俺の体に触れて、それから俺の内側へと消えていく。
消えていく景色を茫然と眺めていると、途中で学校の校門が見える。学校だ、と思っていると、学校の景色が急に、視界いっぱいに広がる。
気が付けば、俺は学校にある、校門の前に立っていた。校門はすでに閉められていて、誰もいない。
俺はあたりを見回してみる。体はふわふわしてないし、世界は押しつぶされてもいないし、俺の中へ消えていったりもしていない。世界は、いつもと変わらない様子を見せている。
しかしなぜ、俺は学校にいるのか。ついさきほどまで俺は、家の前にいたはずだ。家からここへ来た時の記憶もない。世界がおかしくなっている間に、勝手に学校に移動していた。
この世界がおかしいのか、それとも俺がおかしいのか、わからない。だけど、そんなことを考えている暇はない、ということを思い出す。俺は学校に遅刻しているのだ。
俺は肩にかけていたバッグから、スマホを取り出して時間を見る。八時三十三分。それを見て目を疑う。家を出てから、たった一分ぐらいしか経っていない。家から学校まで三十分かかる。それは間違いない。たった一分でここまで来られるわけがない。
時計が壊れていたのか。時計が進みすぎていて、本当は八時なのに、八時半になっていたのか。そんなわけがない。テレビに表示される時間が進みすぎるなんて話、聞いたことがない。
何が起きたのかはわからないが、とにかく遅刻であることには変わりない。俺は急いで歩き始める。走ることはできない。さっきは、走り出した途端に世界がおかしなことになった。また変なことになったら困る。
二階にある自分の教室へ俺は入っていく。みんなはまだ教室にいる。しかし全員着席している。朝礼の途中だったらしい。
「おい、雄太。遅刻だぞ」
「すいませーん」
俺はうわの空で謝りながら、自分の席に着く。先生の話を聞こうとするが、途中から来たのでよくわからない。わからないところを聞き流しているうちに、いつの間にかまた、さっきのことを考えている。
朝を出たときには間違いなく八時半を過ぎていた。そして家を出た直後に変なことが起きて、一分後には学校にいた。
俺はバカだから、あれがなんなのか考えても、答えはわからない。とにかくわかるのは、たった一分で、学校まで来たってこと。ぼーっとしてた時間とかをのぞいたら、ほぼ一瞬で学校まで移動したってこと。
多分、世界がおかしくなったんじゃない。俺がおかしくなったんだ。無意識のうちに、どうにかして、一瞬で学校まで来てしまったのだ。
でもいつからこんなことができるようになったのか。昨日、何かおかしなことがあっただろうか。特に、変わったことはなかったように思う。しいてあげるとすれば、授業中に変な音が聞こえたことぐらいだ。だけど、ただ音を聞いただけでこんなことになるとは思えない。
それよりも気になるのは、俺がもう一回あれをできるのかってことだ。家に帰ったら、確かめなきゃいけないことがいっぱいある。
「おーい、起きてるかー? おーい」
その声とともに、俺の視界の前で手が現れて、上下に揺れる。振り向くと、中也が俺を見ているのがわかる。
「起きた?」
「いや、寝てねえから」
「いや、どう考えたって寝てたでしょ。起立のときも座ったままだったし、見てて、めっちゃびびったかんね」
自分が朝、体験したことは中也にも話す気にはなれない。このことはまだ、自分だけの秘密にしておきたい。
「疲れてたんだよ。朝起きたら、残り時間に十分くらいだったからよ、間に合わねえつって、もう光の速さで走ってきたからね」
「黄猿かよ。もう、高校卒業したら海軍になれよ」
「やだよ、俺は海賊王になるんだ」
くだらない会話をしてやり過ごしたあとは、いつも通りを装った。割とうまくごまかせたと思う。それにみんな、俺が悩んだり考えたりするとは思っていないはずだ。なにしろ俺のあだ名はマッドハッター。アリス・イン・ワンダーランドに出てきたあのマッドハッターだ。でもジョニー・デップが演じたみたいにかっこいいっていう意味じゃない。マッドハッターの真似をしてたらそんなあだ名がついたってだけだ。とにかく、そういうくだらないことをするやつだと思われてる。
二時間目の数学が終わった後で、中也から、東京タワーに隕石が衝突したという話を聞いた。昨日の午前に、隕石が東京タワーのてっぺんあたりを直撃して、東京タワーのてっぺん部分が地上に落ちたらしい。東京タワーの壊れた破片がぶつかって、一人死んだらしい。
そのニュースを教えてくれた中也によると、隕石が東京タワーに衝突した時刻はちょうど、俺が変な音を聞いたと言い出した時刻らしい。
「もしかして俺が聞いた音って、その音なんかな」
俺は言う。俺の言葉を聞いた中也は爆笑する。
「そんなわけねーだろ。東京から静岡まで、どんだけ離れてると思ってるんだよ」
「どんだけ離れてるんだよ?」
「そりゃ、スーパーめちゃくちゃ離れてるんだよ。」
「なんだよそれ。全然わかってねえじゃんか」
中也はそのニュースのことをたいして深く考えていないようだ。しかし俺は真剣にならざるを得ない。二つのことが同じ時間に起きたということが、俺には偶然とは思えない。
その隕石と東京タワーのせいでおかしくなってしまったのか。その隕石はもしかして、なんかやばい石だったのか。
いくら考えてもわからない。そもそもバカな俺じゃ、どんなに脳みそをフル回転させたって正解にかすりもしないだろう。
だがそれなら、俺よりも頭のいいやつに考えてもらえばいい。それぐらいのことは俺でもわかる。
この学年で一番頭がいいやつといったら、牧野だ。去年の期末テストも学年一位だったようなやつだ。俺よりはだいぶましな答えを考え付くはずだ。
昼休み、俺は牧野のところへ行く。牧野は俺と同じクラスにいる。牧野はいつものように、一人で弁当を食べている。一人で弁当を食べていて寂しくないのか。それとも、友達がいないのだろうか。
「よお、眼鏡。元気か?」
俺はいつも、牧野のことを眼鏡、と呼んでいる。眼鏡ってなんとなく頭がよさそうな印象がある。それに牧野は眼鏡をかけている、というよりも、眼鏡に牧野がついている、というような気がする。眼鏡がなかったら、牧野だとわからないんじゃないかって気がする。
牧野は箸を止めて、俺のほうを見る。
「元気だけど。あと、眼鏡って呼ぶのやめてくれる?」
「おい、そんなに怒るなよ。知的でいいじゃん、眼鏡君って。それに俺は、ただ話を聞きたいだけなんだって。別にお昼の邪魔はしないからさ」
「話かけられてる時点で、すでに邪魔をしているってことがわからないの?」
「いや、食べながらでいいから聞いてほしい話があるんだよ。眼鏡の大好きな科学の話だぜ」
「あ、そう。もう勝手に話せばいいじゃん。僕は弁当を食べてるから」
「おう、そうするぜ」
牧野は宣言通り、再び弁当を食べ始める。俺は牧野の左の席から椅子を取ってきて牧野の前に座る。
「もし仮にだぜ、ある人がめちゃくちゃ急いでいたとするじゃないか。そして走り出した途端、急に体がふわーっとして、世界がぐしゃっとつぶされたみたいに俺に近づいてきて、うわーって思ってるうちに、いつの間にかブラジルにいたとしたらよ、何が起きたと思う?」
「ごめん、ちょっと何言ってるのかわからない」
「説明が下手だってことぐらいわかってるよ。でも、なんとか理解してくれよ」
「いや、それ以前に何を聞きたいのかがわからない。何が起きたのか、って言ったらそれは多分、言った通りのことが起きたんだと思う。本当に聞きたいのは、なぜそんなことが起きたのか、じゃないの?」
さすがは眼鏡だ。俺のへたくそな説明から、話の核心をしっかり掘り出してくる。
「おお、そうだ。なぜこんなことが起きたんだ?」
「その人は、ブラジル行きの飛行機の中で夢でも見てたんじゃない?」
「違うんだよ! そいつは、一瞬で日本からブラジルまで移動したの。飛行機になんか乗っていないんだってば」
「あのさ、どの漫画で読んだ話なの? それの原作を読んで考えるから、教えてよ」
「漫画じゃねえよ。俺の想像。フィクションってやつだよ」
「漫画でも想像でも両方、フィクションだけどね。まあいいや、一瞬でってことは、一秒とかそれぐらいってことだよね?」
「そう」
牧野は箸を止め、考え始める。
「この世界では、光より速く移動することはできない。もし、日本から地球の裏側まで、一秒以内に移動できるものがあるとしたら、それはニュートリノだけだと思う」
「おい、俺にわからない言葉を使うなよ。ニュートリノってなんだよ」
「ニュートリノっていうのは、光の速さで動ける粒で、地球を通り抜けられるし、今も僕たちの体を通り抜けてる。それだったら、ここから、地球を通ってそのまま、ブラジルまで行ける」
「ワープとかじゃねえのか?」
俺はどちらかといえば、あれはワープだと思っていた。なぜなら、どこかを通り抜けた覚えなどないからだ。それに、光の速さで動いた覚えもない。
「ワープだったら、日本のある場所と、ブラジルのある場所をくっつけて移動することになる」
牧野は両掌をくっつけながら、言う。
「くっつくわけねえだろ。何言ってんだ、お前?」
今、俺のいるこの場所と、ブラジルをくっつけようっていったって、どうやるというのだ。地球をぺしゃんこにすれば、くっつくかもわからないが、その代わり、地球が滅亡してしまう。
「仮定の話だよ。君のと同じ、想像だ。たとえるなら、どこでもドアでやってるようなことをやろうって話だよ。どこでもドアがあれば、一秒でブラジルまで行けるだろ?」
「ああ、どこでもドアか。確かにどこでもドアがあれば、行けるよな」
「だから、日本からブラジルまで行く方法は、二つある。一つは、光の速さで移動すること。もう一つは、どこでもドアを使うこと。この場合、どこでもドアみたいな何かを使ったと考えるほうが、まだ考えやすいと思う。ただしこれだと、世界が押しつぶされる様子を見た、とかそういうことは起こりえない」
「じゃあ、結局何が起きたんだよ?」
「その人は、日本からブラジルまで一瞬で来た、と思う程度には、麻薬でラリってたってことだと思う」
「結局、幻覚じゃねえか! 俺は麻薬なんかやってねえよ」
「想像の話だろ。なんで君のことになるんだよ」
「いや、そりゃおめえ、想像だよ。俺の話じゃねえよ。だからよ、それじゃ一瞬で、いけねえだろ」
「一瞬で移動するってことは、何かを見る時間もないんだよ。光の速さで動いたら、光が目に入る前にブラジルにいることになる。道の途中に何かあっても、何も見えないはずだ。どこでもドアを通っていったら、向こうに見えるのはブラジルだけ。あっという間にブラジルの景色を目にすることになる。君の話は実現しないんだよ」
実現しない、と言われても困る。今朝のようなことはありえない、なんてことぐらい、俺が一番よくわかっている。それでも間違いなく、あれは起きたし、俺は一瞬で移動した。
「わかったよ。要するに俺の話はめちゃくちゃだってことだな。作り話が下手くそで、悪かったな」
「そこまでは言ってない。それと、ありえないとは言ったけど、科学は絶対じゃない。科学にもわからないことは多くある。もし仮に、君の言ったようなことが実際に起きたのだとすれば、間違ってるのは君じゃない。間違っているのは科学の方だ。それだけは言えるよ」
科学が間違えることなんてあるんだろうか? アインシュタインとかエジソンとか、俺よりもずっと頭のいいやつらが考えた理論で、この世のすべては説明できるんじゃないのか。それらが間違っているっていうよりは、俺がラリってたっていう方がまだしもありえそうな気がする。
「よくわかんないけど、ありがとよ。昼飯の邪魔して悪かったな。今度なんかお礼するわ」
「別にいいよ」
牧野は言う。多分、こういうことを言うせいで友達ができないんだと思う。あと元気がない。俺と牧野を足して二で割ったらちょうどいいんじゃないだろうか。でも俺は牧野みたいに暗くなりたくないから、牧野を足したくない。牧野の知能だけ欲しい。
その日の夕飯は、うどんだけだった。
「母さん、おかずねえの?」
「あんたね、うちにはもうそんな贅沢してる金なんかないんだよ。あんたも節約、しなさいよね。小遣いもちょっと、減らさなきゃならないから」
「はあ? 減らすほど多くねえじゃんか、俺の小遣い」
「明日から、昼ごはん代しか出せないから。百円でどうにかして」
「百円でどうにかできるわけねえだろ。二百円にしろよ、せめて」
「購買のパンって百円で買えないの? それなら二百円出すけど、無駄遣いしないでね」
「おい、勘弁してくれよ。なあ、親父。二百円じゃパン一個しか買えないよ。なんとかしてくれよ」
俺はそれまで黙っていた親父に話を振る。
「ん、ああ、そうだな、悪い雄太、ちょっとだけ頑張ってくれ。仕事見つけるまでの間、辛抱してくれないか?」
「そりゃ待つけどよお、二百円は少ないぜ」
「ごめん」
父さんは机に両手をついて、深く頭を下げる。
「ちょっとだけ、我慢してくれ」
父さんにそこまでされると、何も言えない。父親が頭を下げる姿なんて見たくなかった。
「いいよ、我慢するよ。もういいよ」
「すまない」
父さんは再び頭をあげてごはんを食べ始める。
俺はさっさとご飯を食べ終えて、外に出る。父さんのあんな姿を忘れたくて外に出たのもあるが、別の目的もある。もう一度、あの時と同じことができるのか、確かめてみたい。あれは俺の妄想だったのかどうか、知りたい。
俺は家の外に出て、思い切り走ってみる。だが普通に走れただけで、ワープなどできない。すぐに俺は走るのをやめる。
やはり、朝のようにはできないらしい。家の前に変なものがあるわけでもない。学校に一瞬で行くことなどできない。
あの時は、とにかくめちゃくちゃ急いでた。早く学校に着かなきゃ、と思っていた。その気持ちが足りないのかもしれない。
俺は目を閉じて、学校を思い浮かべる。そこへたどり着きたいと願う。
すると体がふわっとしはじめた。あのときと同じだ。そして、目を閉じているにもかかわらず、世界が見えた。世界が俺に向かって迫ってくる。
学校が見えたと思ったら、すべては終わっている。気づけば、俺は朝と同じく、学校にいる。もっとも、今は夜で、暗いし、周りには誰もいない。
俺は、家の前を思い浮かべる。すると、再び同じことが起こって、終わったら家の前にいる。
今度は、ブラジルを思い浮かべ、新たに気づいたその能力を使う。
世界が通り過ぎていくが、どこがブラジルかわからない。だがそう思っているとふいに、一か所だけすごく気になる箇所が出てくる。ブラジルのことを知りもしないのに、なぜかそこがブラジルっぽい、と思う。それでそこに行ってみる。
そこは朝なのか知らないが、陽が昇っていて明るい。周囲を見渡してみて、俺のいる場所は、志摩スペイン村とかにありそうな建物がいっぱい並んでいる坂道だとわかる。そして、肌が黒く、髪も黒い、顔のほりが深い人たちが歩いている。ブラジルなのかどうかは、ちょっとわからない。
少しだけ怖くなってきて、すぐに家へ戻る。家の前に立っていて、俺はようやく、ワープができるのだということを実感する。現実に、感情が追いついて来る。間違っているのは俺じゃなかった。間違っていたのは、科学の方だった。
この能力があれば、どこへでも一瞬で行ける。旅行だって好きなところへ行ける。俺は早速、ちょっとした旅行へ出かけてみることにする。
中国、イタリア、ドイツ、フランス、イギリス。思いつく国の名前を思い浮かべて、全部行ってみた。
実際に行ってみて感じたのは、時差だった。日本が夜なのに昼だったり、逆に日本と同じように夜だったりする。
そして一つ気づいたのは、せっかく外国に行っても、通貨がないから、何もできないってことだ。お土産の一つも買えやしない。
明日、牧野に何ができるか聞いてみよう。牧野なら、この能力を生かす方法を思いつくかもしれない。
「よお眼鏡、ちょっと話を聞いてくれよ」
翌日の昼休み、俺は昨日のように牧野の前で座って話しかける。
「昨日といい、どうしたの? なんか変だよ。いつもはそんなに絡んでこないじゃん」
「いやなあ、俺、科学の間違いを発見したんだよ」
「何の話?」
「麻薬でラリってなくてもよお、現実に、一瞬で移動ができちまうんだよ。俺はそれができるんだ」
「頭でも打った?」
「打ってねえよ。見せてやろうか? いや、見せてやる。お前の自慢の科学をぶち破ってやるぜ。見てろよ、俺は今から焼きそばパンを買ってくるからな」
俺は能力を使って、購買室へ行き、そこで焼きそばパンを買う。そしてまた、教室へ戻る。
戻ってみると、目を丸くしている牧野が、目の前にいる。
「どうよ? 一瞬で、購買で焼きそばパンを買って来てやったぜ」
「まじか……」
牧野はそう言ったきり、何も言わない。
「ちょ、お前、今消えなかった?」
そこへ中也が話しかけてくる。
「消えた? ああそうか、消えたように見えたのか。違うぜ、俺は一瞬で移動ができるんだ。ワープってやつか、牧野? 俺のやったこれはよ?」
「た、多分」
「え、おま、もう一回やってみろよ」
中也は言う。
「いいぜ」
俺は再び購買室へワープし、今度は何も買わずにまた戻る。
戻るやいなや、中也は興奮して叫びだす。
「すげー、雄太、お前まじでワープできるんか!」
中也のでかい声に反応して、クラスの全員が俺の方を見る。
「おい、声でけーって。みんなびっくりしてるじゃんよ」
「いや、ぜってー声のせいじゃねえから。お前、いつからそんなことができるようになったんだよ?」
「昨日」
「え、なんで隠してたん?」
「昨日は、本当にワープしてるなんて思わなかったんだよ。あとちょっと怖かったし」
「へえ。ま、いいや。ほんとすげーな、まじ神じゃん」
「なんでもいいけどよ、話の邪魔すんなよ。俺は今、眼鏡に、この能力をどう使えばいいか教えてもらおうとしてるんだからよ。なあ眼鏡、お前だったらワープをどう使うよ?」
「ワープをどう使うって、ちょっと待ってよ」
「おう、いくらでも待つぜ」
牧野は長いこと考えていた。俺はその間、じっと黙ってそれを見守っていた。
「多分、僕だったら、研究機関に協力する、と思う」
「おお。なんだ、研究機関に協力するって、どうやるんだ?」
「簡単だよ、大学に電話すればいい。そしたら、物理学の教授に、ワープを実際に見せればいい」
「そしたら、どうなるのよ?」
「研究に協力する代わりにお金をもらう契約を、結べばいい。アメリカとかなら、全然お金を出すと思う。いや、引く手あまたじゃないかな。何しろこれは革命的な発見だし、もしワープのメカニズムを解き明かせたら、みんなワープができる未来が来るかもしれないからね。そう思えば、坂上が協力するっていうならいくらでも出すんじゃないかな」
「マジで? いくら出してくれるの?」
「それは、教授とかと相談してよ。欲しいだけ言ってみればいいんじゃない?」
「そんなことより、ティックトックやれよ! 絶対バズるだろ、これ」
中也が話に割り込んでくる。見ると、中也はスマホを手にもって俺を撮影している。
「いや、お前が早速ティックトックにあげようとしてるじゃねえか」
「いいだろ、お前は研究機関から大金もらえるんだからよ。そのおすそわけってやつをしてくれてもいいじゃんか」
「すねるなよ、好きなだけ見せてやるからよ。じゃあどこ行って何を取ってきてほしい? 変なのとか重いのはだめだぜ。あと盗みもやらねえからな。俺は犯罪だけはやらない主義なんだ」
「じゃあ、小野田のかつら取って来いよ」
「バカか! 犯罪よりやべえだろ」
「じゃあ、黒板消し取ってきてくれよ」
「なんで黒板消しなんだよ。まあいいや」
俺は黒板の前にワープする。そして黒板消しを手に取る。それから元の場所にワープして戻る。
「うええい! よし、オッケオッケ。撮れたよ」
「おう、バズるといいな」
朝、俺は家から出て、家の前から学校へワープする。三十分かけて歩いてこない分、楽だし、家を出る時間も遅くて済む。これはきっと、この世の学生のすべてが手に入れたいと望む能力なんじゃないか。
しかも俺が研究に協力すれば、みんなが同じことをできるようになるかもしれないのだ。下手をすれば俺は学生の救世主になれるかもしれない。
朝練を終えて校舎に入ろうとしてげた箱を開けると、中で白い便箋を見つける。俺は便箋を手に取って見る。差出人は書いていない。だが、ラブレターだってことは内容を見る前からわかっている。
俺はラブレターをポケットに入れて、トイレの個室に入る。そこで便箋から手紙を取り出して、手紙を読む。
「放課後の十七時、二年三組の教室で待ってます」
桜田さんからだろうか。わからないが、俺の想像の中で勝手に、屋上で待っている人は桜田さんになってしまっている。すらりとしていて、髪をボブカットにしていて、きりっとした目の彼女の姿を思い浮かべるだけで、胸が高鳴る。
俺は手紙をそっと便箋に戻す。それをバッグに入れて、トイレから出る。
だが、俺に好意を寄せているのは手紙の主だけではない。
「雄太、お前、ふざけんなよ」
中也が俺に絡んでくる。
「なんだよ急に」
「朝倉って女子がお前のこと、好きなんだって。急にモテやがって、コノヤロウ」
「あ、朝倉って誰だよ?」
「朝倉仁美。お前も知らないの?」
「知らないよ。つか、好きって言われても無理だよ、俺。好きな人いるもん」
「言ったんだよ、俺もそうやって。でも坂上君付き合ってる人いないよね、って言われてさ。とりあえず言ってきてよ、だって」
「そりゃ、まだ告白できてないから」
「さっさと付き合っちゃえよ、桜田と。俺は伝書鳩にされるのなんてごめんだぞ」
「お、おう。任しとけ。うまくいけば今日、決着つくかもしれねえ」
「頼むぞ、ちゃんと決めて来いよ。じゃないと俺が困るんだからな」
「わかってるよ」
十七時になる頃、俺はトイレに行くふりをして練習を抜け出す。ダッシュで屋上まで行く。
屋上で待っていたのは桜田さん、ではなかった。まったく知らない女子だった。そのことに気づいた時点で帰りたくなった。それでも、話だけは聞く必要がある。それに、まだ恋の告白と決まったわけじゃない。
「用事ってなに?」
俺は名前も知らない女子に尋ねる。
「坂上君ってさ、今、彼女いないよね?」
「うん」
「だったらさ、私と付き合わない?」
想定していた告白のされ方と、ちょっと違っていた。本当の告白って、こういう軽いノリなのか。
「ああ、ごめん。俺、好きな人がいるから」
「好きな人って誰なの?」
「ごめん、部活抜け出してきてるから、急いで戻らないと。じゃ」
俺は軽い胸の痛みを覚えつつ、立ち去ろうとする。
「どうせ桜田でしょ!」
俺は立ち止まり、振り向く。
「知ってたのか?」
「知ってるよ。なんであの子なの?」
「なんでって、関係ないだろ」
俺は今度こそ立ち去る。俺は内心で失望していた。待っていたのは桜田さんじゃなかった。でも、桜田さんから告白してくることを期待するなんて、いくらなんでも虫が良すぎたかもしれない。
「おい、桜田さんからオッケーもらえたのか?」
翌日の朝礼の前に、中也が尋ねてくる。
「だめだった」
「うわーまじ。ドンマイ」
「違う。昨日、ラブレターもらってたんだけど相手が桜田さんだと思ってたら、そうじゃなくて」
「は? いや、お前なあ。そういうのは、事前に確認しとけよ」
「なんだよ、確認って」
「つか、なんでそんなに桜田が好きなの? かわいいっちゃかわいいけど、なんか本ばっか読んでるし、性格きつくね?」
「中也、わかってねえな、おめえよ。桜田さんは、こんなバカな俺にも優しくしてくれたんだぜ」
そうして、桜田さんとあった出来事を語って聞かせる。
俺は去年の九月くらいに、図書館に行っていた時期があった。行き始めたきっかけは漫画を探すためだった。でも結局、漫画は見つからなかった。
それで図書室で受付をしてた桜田さんに、漫画があるかどうか尋ねたら、ない、と答えられた。
去年、俺は桜田さんとクラスが違った。だから桜田さんのことを知らなくて、ただ、結構かわいい女の子だなあ、って思った。せっかくだからちょっと口説いてみようかと思った。
「それならさ、君の好きな本を教えてよ。それ読んでみたい」
「いいけど、少し古いよ。千一夜物語っていうんだけど。アラジンと魔法のランプのお話とか、シンドバッドとか出てくる本なんだけど」
「え、いいじゃん、面白そう。どこにあるの?」
桜田さんは本のある場所へ案内してくれた。だが、俺は千一夜物語なるものを見てびっくりした。
古すぎて紙も表紙も黄色くなったような分厚い本が、十三巻もあるのだ。
「こ、これはすごいね。俺、バカだからこんなん読めないな」
「それは違うと思うよ」
桜田さんは言った。
「違うって、何が?」
「読めないかどうかは、読んでみなきゃわからないと思う」
桜田さんは千一夜物語の一巻を取り出して、ページをめくった。そして冒頭を声に出して少しだけ読んだ。
「続きが気になる?」
桜田さんは読み終えた後で尋ねてきた。俺がうなずくと、桜田さんはページをめくって、さらに少し読んだ。
「内容がわからないなんてこと、ないでしょ? 内容がわかったら、続きが読んでみたくならない?」
読み終わった後で、桜田さんはもう一度、尋ねてきた。
「読んでみるより、もっと君の声が聞きたいな。ねえ、名前なんて言うの?」
「ずっと読んでたら疲れちゃうから。あと、名前は桜田美穂」
桜田さんは俺の手に千一夜物語を押し付けた。
「続き、読んでみて」
「桜田さん、わかったよ。読んでみる。俺でも多分、読めるかも。少なくとも読んでもらってるときは、そんな気がしたな。ありがとう」
「こっちこそありがとう。好きな本を人に読んでもらえるのはとてもうれしいから」
一度も本なんてまともに読んだことがないのに、俺は毎日、千一夜物語を読み続けた。約束したというのもあるが、桜田さんと話すきっかけが欲しくて、毎日図書室に行っては、感想を言った。
千一夜物語を読み終えた後も、別の本で同じことをするつもりだった。ところが、それはできなかった。それどころか、千一夜物語を読み終えることすら、できなかった。
十月くらいから文化祭の準備が忙しくなってきて、図書室に行く余裕も、本を読む余裕もなくなってきた。それに正直、千一夜物語は現代の言葉とはかけ離れた言葉遣いをするから、文字を追うのが大変だった。それで毎日読むのもしんどかった。
一か月くらい、本を借りない期間が続いて、なんとなく気まずくなってしまった。それでとうとう俺は、図書室に通うのをやめてしまった。
正直、告白には、あのときの謝罪も含まれている。約束を守れなくてごめん、と言うつもりだ。
「ああもう、のろけ話がなげえよ。わかったから、今日行けよ。絶対行けよ。わかってるよな?」
中也は言う。
「わかったよ。行くから」
その日の授業がすべて終わって、終礼が終わったあとすぐ、俺は桜田さんのいるところへ向かう。
「桜田さん、ちょっと話があるんだけど」
桜田さんは俺を見る。
「ごめん、部活に遅れちゃうから。また明日ね」
なんとなく、桜田さんがそっけない気がする。あの時のことを、まだ怒っているのだろうか。
「待って、一秒で終わるから」
「ねえ、坂上君だって部活あるでしょ」
「すぐ終わるから。まじで一秒で終わるから。ついてきて」
「すぐ、終わらせてよね」
「ありがとう」
俺は静かになれそうな場所を探して教室を出る。そして学習室を見つける。そこは人気がなく、中に入れば声も聞かれなさそうだった。
俺は桜田さんと学習室に入り、ドアを閉める。それから桜田さんの方を向く。
「桜田さん、君のことが好きなんだ。付き合ってほしい」
「ごめんなさい」
桜田さんは断る。即答だった。考える間もなかったんじゃなかろうか。
「それって、無理って、こと?」
「私、坂上君のことが好きじゃないの」
「なんで? 俺がバカだから?」
「わからないの? 盗みはするし、暴力はするし」
「そんなことしない!」
でたらめだ。俺は犯罪は一度もやったことがない。喧嘩はするけど。
「他の女子を使って、自分と私を付き合うよう仕向けたりするし、そこまでやっておいて好かれると、本気で思ってるの?」
「そんなことしてないよ。誰がそんなこと言ったの?」
「言ったらあなた、その人を殴るでしょ」
「殴らないよ」
殴ってやりたいくらい怒ってはいる。だが、殴るつもりはない。俺が殴るのは、俺を殴る度胸のあるやつだけだ。喧嘩はするけど、いじめはしない。
「悪いけど、信じられない。もういい?」
「待って、誤解なんだよ。きっと何かの間違いだ。待って」
俺が止めるのも聞かず、桜田さんはドアを開けて出ようとする。
「千一夜物語、読み切れなくてごめん!」
桜田さんは止まってくれず、出て行ってしまう。俺はそのあとを追って話し続ける。
「また絶対行くから! それで、ちゃんと全部読むから」
桜田さんは返事をしてくれない。俺はそこで、これ以上声をかけても意味がないと理解する。
そこで人の気配を感じる。振り向くと、中也の他、数人の友達が教室の外側にしゃがんでいるのが見える。俺が告白する様子を見ていたのだ。
「な、ナイスファイト」
中也は言う。
盗み聞きされていた、と知っても怒る気になれない。普段の元気が全然でない。
「振られちまったよ」
「なんで振られたんだ?」
「俺が泥棒で、暴力的で、ほかの女子を使って工作するようなせこいやつだからだって」
「え、全部でたらめじゃん。大体、お前に工作活動なんてできるほどの知能なんかないじゃん」
「桜田さんはそういう風に思わなかったんだよ」
それ以上、話す気力もなくて、俺はその場から立ち去る。
結局、その日はずっと、桜田さんに振られたことばかり考えていた。部活に集中することもできなかった。そのせいで、部活中に何をしていたのか、ほとんど覚えていない。
学校から帰ってくると、家の前に知らない男の人がいる。スーツに身を包んでいて、髪の長い、中年の男だ。
俺は初めて、他人の前でワープをしたことになる。しかし、男は全然驚かない。何もなかったはずのところに突然、俺が現れたのにもかかわらず、だ。
「君が、坂上雄太君かな? 僕は、こういう者です」
男は名刺を差し出してくる。E.P.Pリサーチセンター教授、福本正人と書いてある。
「ちょっと、お話したいんだけど」
「親を呼んできた方がいいですか?」
「それはあとでいい。僕はね、ティックトックで君がワープする様子を見たんだよ。あれはどう考えても、加工動画なんかではなかった。もし加工でないとすれば現実であり、現実ならばとんでもないことだ。ところで君、お金が欲しくないかい?」
俺はこのとき、なんとなく嫌なかんじがした。なんか、見下されているというか、子供だからってバカにされているんじゃないかって気がしたのだ。
「お金は欲しいっすけど、でもこれから大学に電話して、研究に協力すればお金が入ると思うんで、大丈夫です」
「僕が、その教授だよ。僕の研究に協力してくれたら、君に今、降りかかっている重大な問題を解決してあげよう」
「問題?」
俺はワープできるようにはなったが、それから一度も、特別大きな問題にぶつかったことはない。
「その様子だと、知らないみたいだね。君のお父さんが借金してるのは知ってるの? その額は知ってる?」
「借金?」
「ああ、知らないんだねえ。君のお父さんはギャンブルで、およそ五百万円もの借金を作ってるんだよ」
そんなことは初耳だ。父さんも母さんも、そんなことは一度も言わなかった。
「僕がその借金を肩代わりしてあげよう。その代わり、研究に協力してくれ」
「やだ」
「なに?」
「もっと出してくださいよ。一億とか出してくれないなら、俺はアメリカとか、そういうところの、もっとお金を出してくれそうなところに協力します」
そう言っても、福本はまったく動じない。相変わらずにやにやと、見ているだけでいらつくような笑みを浮かべている。
「君がそうしたいならしてもいいけど、契約先が見つかるのと、家が破滅するのとでは、どっちが早いかわからないよね。たとえば、明日すぐ、借金取りが押し寄せてきて、借金を今すぐ返せって言ってきたらどうするの?」
「そんなの、返せないっていうしかないじゃないですか」
「それじゃすまないよ。子供の君にはわからないかもしれないけど、大人っていうのはちゃんと責任を取らなきゃいけないんだからね。返せなかったら、できるだけのことはする。この家も、家の中にあるすべてのものも、手放さなくちゃいけなくなる。差し押さえってやつだ。そしたら君も、君の父さんも、家から出て行かなくちゃならなくなる」
「明日、借金取りが来るとは限らないじゃないですか」
「来るよ。僕が差し向けるからね」
そこでようやく俺は、福本に脅されていることを理解する。協力しなければ家を破滅させる、とこの男は言っているのだ。
「あんた、最低だな」
「僕のことはどうでもいいでしょ。それより協力するの、それとも、ホームレスになって、電話もない状態で、協力者を見つけるの?」
俺は両手でこぶしをぎゅっと握り締める。できることなら、今すぐこの男をこてんぱんにしてやりたい。部活で鍛えている俺なら、こんなもやしみたいなじじいはすぐに倒せるだろう。
しかし殴るわけにはいかない。一発殴ればすっとするかもしれないが、その代わりに家を失うことになる。そうしたら、俺はよくても、父さんや母さんが困る。こいつがむかつくやつだとしても、俺の家を救ってくれるのはこいつしかいないのだ。
「わかりました、協力します」
「よし。じゃあ契約書を書かないとね。ちょっと来てくれる?」
福本が歩き始める。俺は、手に持っていた名刺をポケットに入れようとして、やっぱり嫌になって(こんなやつの名前を身につけたくない)家のポストに捨てておいた。そうすれば、明日ぐらいに母さんあたりが捨ててくれるだろう。
「なんかした?」
ポストに名刺が入った音を聞きつけたみたいで、福本は尋ねてきた。
「別に。なんの音もしなかったですけど」
名刺を捨てたとばれたら怒られそうなのでしらばっくれておく。
「そうか」
福本はそれで納得してしまう。こいつが間抜けでよかった。
俺は福本の車が止めてある駐車場に連れて行かれる。そこで車に乗る。契約書をそこで書く、ということはなく、そのまま車で連れて行かれる。これって誘拐なのでは、と思ったが、契約がなかったことにされるのが怖くて、何も言えない。
やがて、白い建物に連れて行かれる。俺はその建物の中にある、会議室みたいなところに通されて、そこでようやく、契約書とやらを書く。契約書には、難しい内容がいっぱい書いてあるうえに、じっくり読もうとすると福本にせかされるので、結局、内容は読まないでサインしてしまった。
それで家に帰れるかと思ったら、福本に小さな部屋へと案内される。
「しばらくの間、ここで寝泊まりしてください。あと、スマホなどの貴重品を渡してください」
これは監禁じゃないか、と思ったが、何も言わない。逆らっても無意味だ。それに、出て行こうと思えば、すぐに出て行くことができる。俺を鎖でつないでも、それは同じはずだ。
翌日から、研究が始まる。福本や、その他の研究員の指示に従ってワープし続ける。朝から晩まで。ワープするのに体力は必要ない。ただ、気力が消費される。何度も同じようなことを繰り返すことにうんざりしてくる。
その日の終わりぐらいに、福本は俺に発見したことを教えてくる。
「どうやら君はワープしているわけじゃないらしい。君は一度分解されて、別の場所で再び生成されているらしいのだ」
「どういうことですか?」
「バカでもわかるように言うと」
自然に付け加えられたバカ、という言葉にいらっとする。俺は福本をにらみつける。だが福本はそんな俺の視線には気づかない様子でにやにやしながら説明を続ける。
「君は消えるのではなく、分解されているんだ。分解された君は未知の物質、ダークマターになる。それが何かは聞かないでくれ。まだよくわかっていないんだ。で、それが光速で周囲に広がる。このとき、君だったものはばらばらに散っている。それなのに、君がワープした先で、どういうわけかばらばらになる前と同量のダークマターが集まり、原子や分子を形づくり、君になる。それらのプロセスが一秒にも満たない時間で行われている」
何を言っているのかわからない。そもそも、ダークマターというのがなんなのかわからない。なんかすごい必殺技みたいな名前のやつだ。だがわかる必要もない。別に理解しなくても、借金は返してもらえる。
外のほうがなんか騒がしい。俺のワープで研究がはかどったおかげで、喜んでいるのか知らないが、どたばたする物音や、人の叫んでいる声が聞こえてくる。でも、そんなことはどうでもいい。
「で、借金はいつ返してもらえるんですか?」
「借金は僕が肩代わりした」
福本は言う。
「へえ」
「ただし、もし君がこの計画から離れるというのなら、すぐにでも君の父親の顔に請求書を叩きつけるつもりだよ」
「はあ? 話と違うじゃないですか」
「なにも違わないよ。僕は君の家が破滅しないようにしてあげた。君が今後もここで働き続ければ、約束を守り続ける。だから君も、ちゃんと僕に協力し続けるんだ。逃げようなんて、思うなよ」
俺は福本に対して、殺意を覚える。犯罪だけはやらない、と自分の中で決めている。しかしこの男さえ殺せば、父さんはもう、借金を返さなくて済むかもしれない。俺だって、こんなところで働き続けるくらいなら、刑務所のほうがましだ、という気がする。
それでも、だ。福本は殺さない。そこは超えちゃいけない一線だ。そこを超えたら父さんと母さんが悲しむ。それだけはしちゃいけない。
「なんだよ、その目は。ずいぶん生意気な態度じゃないか。安心しろよ、君の仲間は世界にいっぱいいるんだ。君と同じように、謎の電波の影響で体に異変が起きた子供たちが大勢いる。君はそのなかの、実験体一号というわけだ。いずれ、他の子供も捕まえてくる。だからその時まで待っていろ」
俺がなんか答えようとする前に、ドアが開く音がする。振り向くと、ドアから大勢の人が入ってくるのが見える。入ってくる人は皆、白衣を着ていない。スーツ姿のいかつい顔をした、がたいのいい男たちがいっぱい入ってきている。
「警察だ!」
「いました、坂上君です!」
あっという間に、一人が俺を引き寄せて、二人で俺を守り、福本の前にブルドッグみたいな顔の男が立ちふさがる。
「け、警察」
「福本正人、誘拐罪および拉致監禁罪の容疑で逮捕します」
「いや、誘拐じゃないですよ。これはちゃんと本人の同意を得ています」
福本は言う。
「お話は署でうかがいます。ご同行いただけますか?」
警察の二人が福本の両腕を抑える。
「放せよ、自分で歩く」
警察は福本の言葉になんか耳を貸さない。俺もゆっくりと歩かされて、建物の外へ出ることになる。
結局、福本は逮捕された。最初は、契約を破ったせいで借金を返さなくちゃいけなくなるのかと思ったけれど、そういうわけではないらしい。
福本が俺に言ったことは、五百万円の借金があるということ以外は、ほとんどでたらめで、法的には破滅なんてありえないらしい。
つまり俺は、ゆっくりと協力者を探して、お金を稼いで、時間をかけて借金を返せばいいわけだ。さすがの福本も、檻の中から借金の請求には来られない。
俺の居場所がわかったのは、俺がポストに入れた名刺のおかげだった。名刺には施設の名前に、福本の名前も書かれていた。それを発見した両親が警察に渡したことで、俺の居場所もわかったわけだ。
学校に来ると、友達にめちゃくちゃ心配された。俺が誘拐されたことは学校中に広まっていたらしい。
誘拐事件のことを話してやると、友達は全員、驚嘆した。それでまた俺は、クラス中の注目を集めた。
そして昼休みになると、中也が話しかけてきた。
「なんかさ、雄太の変な噂が流れてたじゃん?」
「ああ、あったね」
「あれ、朝倉の友達が流してたらしい」
「朝倉って、誰?」
「だから、お前のこと好きだって言ってた女子だよ。お前が桜田のことを好きだってわかってたから、桜田がお前と付き合わないように友達に頼んだんだって、朝倉は。そしたら友達が桜田に、あることないこと吹き込んだらしい」
俺と付き合うためにそこまでしたのか、と俺は驚く。それと同時に、それだけのために平気で人と人の仲を悪くするようなことができるような人がいる、という事実に怖くなる。
「一応、桜田さんには話をして、誤解を解いておいたから」
「え、まじ?」
「ついでに、お前は恋人にするには最高のやつだとも言っておいた」
「おま、それは言い過ぎ。ハードルぶちあがってんじゃん」
「そのハードルを越えてくんだよ、びびってんじゃねえよ。ほら、今日の放課後、告白して来いよ。また変な邪魔が入らないうちによ」
「ありがとう、中也。ありがとう」
このとき俺は、持つべきものは友、という言葉の本当の意味を知ったような気がする。中也は間違いなく、最高の友達だ。
放課後になり、俺は桜田さんのほうへ行く。
「桜田さん、話があるんだけど」
桜田さんは俺の方を見る。
「いいよ。じつは私もちょっと、謝りたいことがあって」
「うん、じゃあちょっと、来てくれる?」
桜田さんはうなずく。俺は桜田さんを連れて、前に告白した時と同じ学習室に入って、ドアを閉める。
「桜田さん、えっと、どっちから先、話す?」
「じゃあ、私の方から。あの私、坂上君のことを誤解してたみたいで。周りからいろいろ言われたことを全部、うのみにしちゃって。でも本当はそれだけじゃなくて、坂上君がああいう人たちと関わっているなら、坂上君とも関わりたくないって思っちゃって。あの人たちと友達になれる気がしなかったから。ちゃんと確認もしないで、ひどい態度をとっちゃって、ごめんなさい」
「いや、全然。俺も悪かったんだ。俺がちゃんと千一夜物語を読み終えて、図書室に通い続けられていたら、こういう風にはならなかったわけだし……」
「それは、坂上君にも事情があったと思うし、いいよ。大丈夫。坂上君の方の話は?」
「あ、えと、俺、バカだし、千一夜物語も読み終えられなかったけど、今度からはちゃんとする。ちゃんと千一夜物語を読み終えるし、バカだと嫌だっていうなら、ちゃんと勉強する。悪いところは全部治す……できる限り。いや、絶対! 絶対治す! だから、俺と付き合ってほしい」
「いいけど、私なんかでいいの?」
「いや、桜田さんじゃなきゃだめなんだ」
「そうなんだ、ありがとう。うれしい」
「それって、オッケーってこと?」
桜田さんは小さくうなずく。
「よし、じゃあ早速図書室に行こう。そこで千一夜物語、借りてこよう」
「いや、部活行かないと。もう時間が」
「あ、ごめん、そうだった」
俺は慌てて教室を出ようとする。そのとき、桜田さんは手を差し出す。俺ははっとして、それから、桜田さんの手をとる。そして手をつないだまま、学習室を出る。
執筆の狙い
短編を書くつもりだったんですが、題材がでかすぎて持て余しました。特に、後半がひどいです。
文章を現在形にしてあります。理由は、主人公がリアルタイムで体験していることを追っている、という体だからです。そのため、正しい文法から外れてしゃべり言葉みたいにしています。