作家でごはん!鍛練場
きよしこ

記憶保存ファイルと忘れっぽいだけの私

 サザエさんの家より少し狭い。
 それが叔父の家に対する印象だ。瓦づくりの屋根や、障子で仕切られた部屋、庭にある小さな蔵などを見ているとますますそんな風に思えてくる。
 この家に来るのは初めてではないが、それでも四年ぶりなのだ。私の住んでいるようなマンション街ではまず見られないような古い家の作りにかえって目新しさを感じてしまう。たかだか四年で、という人もいるだろう。しかし私にとって四年と言えば、もう記憶もおぼろげになってしまうほど大昔のことだ。自分が最後にこの家に来たときの記憶すらろくに無く、教えてもらえなければ初めて来たんだと勘違いしてしまいそうなほどだった。
 あの頃の私は中学三年生。覚えていることと言えば、はじめての受験を前にして戸惑いながらも、ようやくこの芋っぽいセーラー服を脱げると奮闘していたことくらいか。何故ブレザーに対してあんな憧れを抱いていたのか、自分のことながらイマイチ理解できない。
 だがあの頃の自分でも、今の私には決して憧れないということはわかる。
 貴重な夏休みの昼間にこんなホコリにまみれた部屋の中で、捨ててもいいようなパーカーを着ているからといって、どうにかスチールラックに置かれた電子レンジを動かさずに雑巾で拭けないかと隙間に手を突っ込んで横着しようとしている姿に憧れる中学生はいない。いるのならこの後に控えている流し台の掃除を任せたい。かびたスポンジや洗剤で彩られ、洗面台としてもつかっていたのか青とピンクの歯ブラシが二本綺麗に飾られており、花の学生さんにもぴったりな環境だろう。私は触りたくないが。
 こんな面倒な掃除、ロボット掃除機にでも任せられたらどんなに楽かと思うが、あいにくそんな高級品うちには無い。あったとしても、こんなコードのこんがらがった旧式電子レンジの裏側まできれいにできるのかと言われたら疑問ではあるが。タンスの中まで綺麗にできるらしい最新式のやつならいけるかも。
「なんで棚ごと動かさないんだ?」
 不意に足元から届いた声に驚いた私は肘をスチールラックの柱に打ち付けてしまう。
 そこには膝を曲げてしゃがみこんでいるケイくんの後頭部があった。ケイくんは音に反応して顔をあげる。こんな場所でも、彼はその色白の顔に自慢のARグラスをかけていた。
 ケイくんは私と幼い頃から付き合いのある、父方のいとこだ。今は高校二年性になるはずだが、身長や童顔気味の顔のせいかもう少し幼く見える。この家の掃除においては唯一の協力者でもあり決して無碍にはできない。本当はもう一人、父も掃除にはずだったのだが、どうしても外せない仕事が出来てしまったとのことで私達をこの家に送ってすぐに帰ってしまった。遅れてやってくるとは言っていたが、それまではケイくんと二人でどうにか分担して掃除をしなければいけない。
 ケイくんのかけているARグラスは、スマートグラスとも呼ばれることのある、眼鏡にコンピューター機能を搭載したものだ。ずっと昔から存在自体はしており一般向けに販売もされていたのだが、実用的となったのはここ数年のことで、それまでは半分試作品みたいな中途半端な機能のものが高校生には中々手が出せないような高値で売られていたらしい。私も詳しくは知らなかったのだが、ケイくんにきいたら嬉々として語り聞かせてくれたのだ。半分も覚えていないが。ケイくんはそういったものを語らせるとうるさいことがある。
「せっかくキャスターついてんのに」
「キャスター?」
 部屋の不衛生さに気を取られ気が付かなかったが、アルミラックの根本には黒い車輪がついていた。
 ケイくんはキャスターのロックをパチリパチリと外すと、立ち上がってアルミラックを手前に引き寄せる。あまり重さは感じさせない。
 予想どおり電子レンジや、別の段に置かれていたトースターや炊飯器の裏にまで、びっしりと塊になったホコリがついていた。ひどい有様だが、当然だろう。なんたって四年放置されていたんだから。
 この家の主である叔父さんは、四年前から行方知れずになってしまった。
 叔父さんは私が小学生の頃に病気で死んでしまった母の弟であり、小さな頃は病床に伏せていた母に代わってよく私の世話をしてくれていたらしい。このらしい、というのは、このことは父に教えてもらったから知っているのであって、とうの本人である私にお世話になった記憶がほとんど無いからだ。自覚が無いわけでなく、ただ純粋に覚えていない。
 父が言うにはそれこそ毎日と言っていいほど顔を合わせていたこともあるそうだが、本当に記憶にない。そんなことすら忘れてしまう記憶力と恩知らずっぷりに我ながらに呆れる。
 しかし決して悪い人だったわけではないはずだ。母に変わって子供の世話をしていたという話だけでもそう感じるし、私の中にわずかに残る叔父さんのイメージにも悪いものはみじんもない。私自身がおじがいなくなるまでこの家に来ていたということからも、それはわかる。
 だからこそ、叔父が行方知れずになるまでの経緯を聞いたときは驚いた。叔父は行方不明になる直前まで、刑務所に入っており、その釈放と同時に行方をくらませてしまったらしい。捕まった理由は教えてもらえていないが、私と最後に会って間を置かずに捕まったのだとしても、一年立たずに釈放されていることになるので、殺人など重すぎる罪を犯したわけでは無いはずだ。 
 このことに付いて聞こうとすると父は決まって口を閉ざしてしまい、未だに私のもとにはろくな情報が入ってきていない。
「ケイくんは何か知ってる?」
 もしかしたらケイくんの方はもっと詳しく聞いてるかもしれないと思い、棚裏のホコリを取りながら叔父さんのことについて尋ねてみる。
「何も? ていうかナッちゃんが知らないなら俺が知るはずないだろ。尾道の叔父さんは、時岡のおばさんの弟だったんだから」
 時岡のおばさんというのは私の母のことだ。ケイくんはおじやおばを名字付きで呼ぶことが多い。
 確かにケイくんからしてみれば叔父さんは血縁が少し遠い。話したこともろくにない叔父さんのことなんてほとんど覚えていないはずだ。今が夏休みでなく、親から命じられもしなければわざわざこんなところの掃除になんて来ることもなかっただろう。
「あ、いや一つ知ってるわ。なんか叔父さん隠し財産持ってたっぽい」
「はー、隠し財産」
 聞きたかったこととは違うし、意味もわからないが、夢のある言葉だ。
 私達が知っている叔父さんの財産と言えばこの家そのものくらいであり、他に何を持っていたのかほとんど知らない。何が隠されたもので何が隠されてないものなのかわからないという点を考えなければ、隠し財産という言葉には興味をそそられる。
 この子もまだ男子高校生なんだなあなどと微笑ましく思っている気配を察されたのか、バケツから雑巾を取り出そうとしていたケイくんは少々動揺したように振り返る。
「いやいやマジだって。父さんが言ってたんだよ、本人から聞いたって」
「ケイくんのお父さんとこっちの叔父さんが会うっていうと、親戚の集まりくらいでしょ? あれはお酒入るからねえ」
 ケイくんのお父さんは結構な酒飲みなのだ。しかも酔うと陽気になりすぎるタイプの人。叔父さんとどんな仲だったのかはわからないが、酔った勢いでしつこく絡んで何かを無理に聞き出し、その上でろくに相手の話を聞かず残った記憶は徹底改ざん。そんなパターンが容易に想像できる。
「勘違いなんかもしれないけどさ、でもロマンはあるじゃん。美術部員的にはそういうのないの? 絵画に隠された暗号とかさ」
「今はもう部員じゃないし。まあ、ちょっと雰囲気あるのはわかるけど。脱出ゲームでこういう部屋あった気がする」
 電子レンジから手を離して部屋を見渡す。雑多で散らかっているように見えて意外と物の数は少なく、いかにも人の手の入っていなさそうな薄暗い雰囲気は、見ようによってはなにか謎が隠されていそうではある。
 美術部は高校の終わりまで私が入っていた部活ではあるが、あまり関係あるようには思えない。ゲームの影響で、手書きの絵に対して妙なイメージを持ってしまっているのではないだろうか。
「その手のゲームならだいたいどっかに金庫か鍵のついた引き出しがあるよな。この部屋にはなさそうだけど」
「飾られた絵の裏にパスワードが描かれてたりしてね。あとは鍵が隠されてたり」
 言いながら電子レンジを開けてみるも、もちろん中にはなにもない。 
「そんな露骨なトコにあったら手抜きじゃね。そうだな、こういうギミックの多いゲームなら、それこそ動かせる棚の裏とか……?」
 そう言いながらケイくんが電子レンジの裏を見るので、私も何かないか見てみるも、やはりホコリとコードの根本ばかりでなにもない。と思ったが、よく見るとホコリの塊に紛れる形で小さなマッチ箱が脇に挟まれていた。少し取りにくい位置なので、回り込んで手をのばす。
「あれ、マジであったの?」
 ケイくんは雑巾を流し台に置き、手の水気を払ってこちらに寄ってくる。
 ホコリにまみれたマッチ箱を手にとって見せると、なんだ、という顔をするが、私はこのマッチ箱に違和感を感じていた。振ってみても音は鳴らず、何も入っていないようにも感じたが、それにしてはやや重い。
 中箱をスライドさせて開けてみると、内側はすりガラスのようにざらついたアルミで覆われており、そこに細長いUSBメモリのようなものがハマっていた。長方形のマッチ箱の対角線とほぼ同じ長さで半ば無理やりに入っていたため、振っても動かなかったわけだ。
「うわっ、珍しい。Type-Fじゃん」
 ケイくんは中箱だけを私の手から抜き取り、ハマっていたUSBメモリを取り出す。
 USBメモリのキャップを外すと端子が露出するが、その形は私のよく目にするものではなく、もう少し小さな、なんだか見たことのない形状のものだった。
「なにこれ? 昔使われてたメモリとか?」
「逆。新しすぎて普及しきってないやつ。なんでこんな古い家にあるのか不思議なくらい。USBの端子じゃ一番新しいやつなんだけど、今までのUSB端子全部に対応して、オスにもメスにもなるってやつで……」
 イマイチ要領のつかめない話を始めながらも、ケイくんは携帯を取り出してUSBメモリと接続する。中のファイルを開くとプレイヤーが立ち上がったので、どうやら動画ファイルが入っていたようだ。
 「08112044-TNTM」とファイル名が表示され、再生が始まる。
 
 どうやら一人称視点の無音動画らしい。
 動画は視点の主が走ってるところから始まった。この家にある蔵と似た建物に駆け込んだにみえたが、あまりはっきりとはしない。
 というのも、カメラは激しく上下移動し、駆けている視点があまりにも忠実に再現されているのに、色はモノクロで、画質も荒い、というかぼやけているところとぼやけていない部分の差が大きい。画質の悪い動画はいくつも見てきたけど、こういう形で悪さが現れているものは初めて見た。しかし、建物とその扉は常に焦点が合っているかのようにはっきりしていたので、なんとなく駆け込んだんだなとわかったわけだ。
 視点の主が慌ただしく鍵を取り出して扉を開く。建物の中は物置のようになっていた。中に入った視点の主は一旦その奥に向かうと、下を向いて息切れを繰り返す。振り返ると入り口から光が差し込んでいるのが見える。
 そこに影が現れたかと思うと、影は視点の方に足早に近づいてくる。
 影の主は大柄の男のように見えたが、建物内が暗く、かつ男の周辺がぼやけているせいで、男の容姿ははっきりせず、妙につるの太い眼鏡をかけていることくらいしかわからない。
 視点の主は、男に対して明らかに怯えており、寄ってくる男から逃れようとして背後の棚か何かに体をぶつけてしまった。陶器のようなものが落ちて派手に割れる。
 男はそれに一瞬たじろいだようだが、構わずに進み、両腕を視点の主に伸ばす。
 視点は回転した後に上を向き、男から押し倒されていることがわかった。男の両腕は、未だ視点の下に伸ばされたままだ。
 これは、首を閉められているのか?
 視点が細かく震え、画質のムラが一層激しく移り変わる。
 しかしそれも秒数を重ねるごとに弱くなり、代わりにじわじわと画面の黒が薄くなって白みがかっていく。
 と、そこで覆いかぶさっていた男が横に吹き飛ばされた。
 画面の白さはそのままに、視点も男を追いかける。
 男は床に尻を付けたまま、別の男に首元を掴まれていた。どうやら吹き飛んだのではなく、引っ張られて無理やり引き剥がされたらしい。
 視点は影の男の姿を中心に捉えており、引っ張った男の姿は胸から下しか見えなかったが、何故か影の男よりもかなり鮮明に映し出されていた。顔こそ見えないものの、影の男と同じくらいには長身で、しかし線が細いせいで大柄とは言えないということまでわかる。
 引っ張った男が視点の主に何か語りかけたようで、視点がうなずいたようにゆっくり上下する。
 影の男は立ち上がらされ、半ば引きずられるようにして建物を出ていった。
 
 と、そこで画面が完全に白くなり、再生も終わる。
「……? なにこれ?」
 率直な感想だった。
 よくわからないが謎めいていて、面倒な掃除中の清涼剤のようなロマンを感じさせた物体は、よくわからないが故に清涼とは真逆のもどかしさを感じさせる物体へと変わった。
 ドキュメンタリー動画を作る際の素材というのが一番しっくり来るかもしれない。しかしそれが何故こんなところに隠されているのか、何故今でさえ新しい形式のメモリを叔父さんが持っていたのかといったとことは全くわからない。
「これ……」
 ケイくんが言葉を選ぶようにしながら、口を開く。
「これ、叔父さんの記憶だ」
 
   ○
 
 曰く、この世にはMMYファイルと呼ばれる、人の記憶をそのまま映した動画ファイルが存在するらしい。
 記憶のデータ化というのは脳科学の大きな研究テーマの一つで、どこかの研究チームがそれを部分的にではあるが実現させたというニュースが数年前に流れた。
 当時は大きな話題になっていたので、もちろん私も聞いたことがあるはずなのだが、私は相当に忘れっぽいのでそんな叔父がいなくなるよりもっと前の話なんて知るわけないと思えてしまう。
 実現時の華々しさとは打って変わって現在記憶データの研究は停滞気味で、時間がたった今でも可能なことと言えば記憶の一部を不鮮明な映像としてコピー、もしくはカットすることくらいらしい。
 というのも、このコピーやカットを行った際に人の脳に不具合が現れることがあり、命にかかわるような致命的な例こそ無いものの、コピーしただけで全く別の記憶が無くなってしまうくらいのことは何度も起きてしまっており、そちらの研究に時間を費やさざるを得なかったようだ。
 しかしその甲斐あってか、ここ数年では世界中で技術の実用化が行われ始めており、日本でも行政機関や一部の医療機関での研究や取扱いを認められているらしい。
 そんな目にするのも貴重なデータが、今私達の手の中にあるわけだ。
「別に見ること自体は簡単だよ。サイトにもアップされてるし。県内に認可を受けた病院もある」
 庭にある蔵に向う道すがら、ケイくんはMMYファイルについて語っていた。
 蔵に向かっていたのは、ケイくんが映像の序盤に出てきた建物を指して「これはこの家の蔵に違いない」「この記憶は隠し財産の大きなヒントだ」などと言い出したからだ。あの動画が叔父さんの記憶ならば確かにあの建物がここの蔵である可能性は高いが、隠し財産のヒントにはならないのではないか。そう言うとケイくんは「隠し財産を噂されてる人が襲われてるなんていかにも怪しい。あるって証拠みたいなもの」だとか言っていた。いかにも適当だ。しかし、私としてもあんな映像を見てしまい、その現場がすぐ近くにあるというなら、見に行っておく必要はある気がした。
「記憶データの映像は独特で見たことある人なら一発でわかんだ。エンコードを失敗したような部分とそうでもない部分が同時に存在するみたいな、あの質感だったりで。俺も前にサイトの動画見ただけだったけど、それでもひと目でこれが同じやつだってわかったし」 
 歩きながら、ケイくんはMMYファイルをARグラスに映して、再び叔父さんの記憶を再生しているようだった。
「でも、なんであんなに画質悪い感じになるの? 人の記憶なんだから、他にないくらい綺麗な映像でもおかしくないよね?」
「人の記憶なんて曖昧なもんってことじゃないの? よく知ってるものなら記憶に残りやすいし、逆に見慣れないものなら理解できないと覚えづらいし。勉強でも予習してる所としてない所じゃ覚えやすさ違うだろ?」
 なるほどと頷きそうになったが、そもそも私は予習なんてろくにやったことも無いことに気づく。
 ケイくんはそこそこ偏差値の高い学校に通っているので、予習なんかもちゃんとしているのだろう。とは言えあまり勉強熱心という話も聞かないので、やっていたとしても最低限といったところだろうが。
 外靴に履き替えて、庭に出る。蔵はすぐそこにあった。
「じゃあ動画ではっきり見えていたものは叔父さんにとってはよく知ってる物だったってわけだね。……っていうか何で叔父さんの記憶だってわかったの?」
「そりゃあ叔父さんしか住んでない家に隠されてたものだし、普通に考えれば叔父さんの記憶だろ。それにほら」
 ケイくんは蔵の扉を開こうとするも、ガツンガツンと錆びた金属音を鳴らすだけで開かない。
「倉庫の鍵を持ってるのは普通家の住人だけだろ。鍵預かってたっけ?」
 私は父さんから預かっていた鍵束を取り出す。父の仕事が終わるまでは私が持っているように、昨日のうちに預けられていたのだ。
「ええと、これだっけ」
 鍵束の中から特に古い鍵を手に取り、鍵穴に差し込んで回す。がしゃりと確かな手応えを感じた。
「よくわかったな」
 鍵のことを言われているのだと気づく。言われてみれば、父さんからどれがどの鍵だと説明を受けた記憶はない。まあ物覚えの悪い私のことだから、聞いていおきながら忘れているだけかもしれないが。
「なんだろ。勘かな」
 適当に返事をしながら、錆びのせいで重くなってしまった横開きの扉を開く。
 MMYファイルの映像ではあまり建物の中の様子はわからなかったが、それでもここで間違いなかったようだと確信をもてるほどには、映像で出た建物の中と蔵の内装は一致していた。つまり記憶に残った時と今の内装はほとんど変わっていないということか。
 蔵の中は薄暗く、草抜きや大掛かりな掃除につか様な道具、棚に並べられたよくわからない陶器などがひしめき合っているせいで、外から見るよりも狭く感じる。
 奥の方にははめ込み式の小窓もあるが、時間帯のせいかほとんど光は差し込んできていない。確か、記憶の主が男に襲われていたのはあの下のあたりだ。割れた陶器は流石に残っていない。
「ちょっと退いててくんない?」
 いつの間にやらケイくんは蔵から五~六メートルほど離れた位置に立っており、大きな声でこちらに指示を出してきた。
 一体何をしているんだろうと首を捻りながらも、私は言われたとおりに蔵から出る。
 ケイくんはARグラスのつるを触って何やら操作すると、急に全速力でこちらに駆けてきた。
 慌てて避けるとケイくんは開いた扉の前で立ち止まり、何やら手遊びのような真似をして、そのまま転がり込むように中に入っていった。奥で膝に手を付いて息切れをしている。
「良いって言ったら入ってきて!」
 異様な様子に心配になって声をかけようとしたところを制された。すぐに「いいよ!」と聞こえてきたので恐る恐る入ると、ケイくんは振り返ってびっくりしたように後ろに飛び退き、肩を棚にぶつけた。
 よく見ると、ケイくんのARグラスには先程の記憶データの動画が流れていた。蔵が暗くなければ気づけなかったが、そのおかげでケイくんが何をやっているのか理解する。
 記憶の再現をしているのだ。ARグラスで流す映像は半透明にすることもできるので、それを利用して現実の景色と重ね見ることもできる。何故そんなことをしているのかはよくわからないが、刑事ドラマで現場検証をする際に被害者と同じ視点に立つために、遺体と同じ格好をする刑事を見たことがある。その真似かもしれない。
 そして私を蔵に入らせたということは、私には記憶の主を襲った影の男の役をやれと言っているのだろう。気恥ずかしかったが、確か男は記憶の主を見つけ次第足早に近寄っていた。躊躇している暇はない。
 映像の通り、私はケイくんに両腕を伸ばすと、ケイくんは自分から私の腕を掴んで自らの首に持っていき、そのまま転がった。
 慌ててそれに付いていくと、自然とケイくんに覆いかぶさる形になる。この位置からだと、ARグラスに流れる映像がよく見えるが、タイミングとしてはほぼバッチリだったようだ。
 そのうち映像が白みだし、影の男が引っ張られて横に飛んでいく。それを真似するように。私も横に移動した。その後は引っ張った男に蔵の外に連れ出されるはずだが、その役はいないしそこまでやる必要もないだろう。そのまま立ち上がり、膝の汚れを払う。
「何かわかった?」
「わかった。ここは砂がすごい」
 ケイくんは体を起こし、髪や肩に付いた砂をうっとおしそうにバシバシと落とす。
 まあ実際に被害者になりきってみて得られる情報なんてそんな物なのだろう。本当に有用な方法なら、実際の警察も捜査に取り入れているはずだ。
「あと、映像の視点は結構ぴったり合わせれたけど、ナッちゃんと襲ってきた影の体格差が凄くて逆にびびった。あの感じだと、190cmくらいあったんじゃねえかな」
「へぇ」
 私の身長は約160cm。ケイくんも同じくらいだ。更に影の男は横幅もそれなりにあったので、きっと本当に大きな差があったのだろう。
「映像が白っぽくなってるのは何でかと思ってたけど、グラスで見てよくわかった。多分あれは意識が飛びかけてたんだな。ホワイトアウトって感じ? 首締めてすぐああなるんだから、結構怪力だったんだろうな」
「そういえばそんな使い方もできるんだね、それ」
 私は自分のこめかみあたりを指で叩いて示す。ケイくんはこめかみに手を添えて。すぐにARグラスのことを言われているのだと理解する。
「まあ仮にもARグラスだしな。もっと良いやつだと仕事風景を録画して、新人研修やら仕事の引き継ぎにも使えるらしいし」
「そのARグラスだとできないの?」
「できないことはないけど、微妙。ちゃんとしたやつに比べると機能もスペックも足りてないから。ただ良いやつは高いしデザインも良くなくて難しいとこなんだよ。テンプルが極太だったり、でかい水晶みたいなやつが付いてたりするしさ」
「ああ、何か見たことあるかも」
 グラス部分の前に、映像を投射する水晶体がついているARグラスが業務用として売られているのを広告で見た気がする。ただ、ああいったものは見るからに個人用として作られていないはずだから、それを比較対象として出しているということは、ケイくんのARグラスも私から見れば低い性能のものではないのだろう。
 そうやって話していると、そばにある駐車場から車が止まる音が聞こえてくる。
「あ、時岡のおじさんじゃね?」
 時岡のおじさんとは、私の父のことだ。蔵から顔を出してみると、ケイくんの言う通り父さんの車だった。仕事を済ませて返ってきたのだ。
「おかえり」
 車から出てきた父さんに声をかける。ここにやってくるとき父さんはスーツ姿だったが、今は何となく古臭いトレーナーを着ていた。家でも余り見ることのない格好だったが、丸いお腹と小さなシルエットのせいで、いつもより愛嬌があり似合っているように見えてしまう。
「ただいま。連絡は無かったけど、何もなかった?」
 父さんはここを離れて仕事に行く前に、何かあったらすぐに連絡するよう私に言いつけていたので、そのことを言っているのだろう。父さんは少々心配性なところがあり、平日でも出かけるときと帰ってきた後は必ず連絡の確認をしている。
「うん。別に何もなかったよ。キッチンの掃除が大体終わって、今は蔵を見てたとこ」
 本当はMMYファイルなんてもの見つけてしまっていたけれど、伝えるのは後でも良いだろう。あれだけケイくんが楽しんでいるのに、水を差すこともない。
「あ~蔵か。蔵は最後でいいよ。それよりも、居間や作業部屋がまだだったはずだから……そうだね、作業部屋を掃除してほしいかな。あの部屋は物が多いから、ケイくんと二人でやると良いよ。居間は父さんがやっとくから」
「作業部屋? 叔父さん家で何かしてたの?」
「知らないんだっけ? 賢二くんは美術家だったんだよ。いやイラストレーターだったか?」
 それは驚いた。賢二くんというのは叔父さんのことだ。まさか叔父さんが自分と同じように絵を描いていたとは。いや、それを職にしているのだから同じというのもおこがましいが。 
 私自身が意識していなかっただけで、もしかしたら私が美術部に入ったのも叔父さんの影響があるのかもしれない。しかしそうなると作業部屋とやらにどんな物があるのか俄然興味が湧いてくる。
 美術部で教わるのは、何も上手い絵の描き方だけじゃない。描かれた絵にどんな意図があるのか、どんな感情が乗っているのかといったことを理解する、美術鑑賞の心得も私があの部活で教わった大事なものの一つだ。もちろんそんなそんな余計なことは伝えず、そもそも顧問がほとんど部に干渉しないという部活も多いだろうが、私のいたところはそうではなかったのだ。
 まあ鑑賞と言うほど大それた絵を残してはいなかったとしても、単純に叔父がどんな種類の絵を描いていたのかというだけでも気になる。
「ていうか叔父さんってどんな人だったの? 私全然覚えてないんだけど」
 父さんは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「ああそうか」と柔らかく微笑む。
「もう夏美が会ったのも随分前だしなあ。そうだな、賢二くんはなんというか、クールな人だったよ。こだわりが強いというか、この家古いものばかりだったろ? 新しいものが好きじゃなかったらしいよ。それに口数も少なくて……夏美と遊んでるときは、そうでもなかったみたいだけどね」
 父の語る叔父さんは、なんだか私の抱いていた印象とは違った。よく世話をしてもらってたからだろうか、もっと普段から朗らかというか、人当たりのいい大人というのを勝手に想像していた気がする。
「あとは、そう、背が高かったな。顔も男前だったし、昔はよくモテてたんじゃないかな。礼儀のなった人だったし、捕まったって聞いたときは信じられなかったよ。それに……ううん、人を説明するのって難しいなあ」
「うん、まあいいや。あとは帰って聞くよ」
 父も、母の弟のことなんて紹介できるほど詳しいわけではないのだろう。聞いておいて何だったが、早く作業部屋を見てみたいという気持ちに急かされてしまった。
「それじゃあ何かあったらすぐに居間に来るんだよ。場所はわかるよね?」
「わかってるわかってる」
 振り返るとケイくんは蔵から出ており、扉のそばでなにやら携帯を操作していた。彼も学校では無愛想だとかクールだとか言われているのだろうか。 
 鍵束を父さんに返して戻ると、ケイくんは待ってましたとばかりに顔を上げた。
「なんか聞けた? 財産のこと」
 そう言えばそういう話だったか。
「聞けたよ。間違いなく値打ちものだね」
 嘘は言っていないだろう。多分。
 
   ○
 
 作業部屋というだけあって、そこはとにかく物が多かった。
 部屋の中心にはイーゼル、いわゆるキャンパス台と小さな椅子が置かれ、その脇にはパネルボードが重ねられている。
 奥の方では大きな本棚に絵を描く際の資料と思われる本がみっちり詰まっており、それでも入り切っていない本が雑多に積まれていた。
 手前の方は古いPCと省スペースデスク、そして周辺機器やコードでごちゃごちゃとしている。ペンタブレットもあるので一応デジタルでも描いてはいたのだろう。参考にしていたのか少数の漫画やイラスト集のような本も置かれてあった。
 余ったスペースも様々な画材や、資料なのかもよくわからないようなガラクタの類が埋めてしまっている。元々は大きな窓から日の差す木目の効いた洋間だったのだろうが、居間では舞っているホコリのせいも会って半ば廃墟のような様相となっていた。
 しかしそんな中でも特に目を引くのが、壁に飾られた絵画の数々だ。
 それぞれ画鋲一つか二つで壁にはられているだけであり、あまり大切に扱われていたようには見えず、おそらく叔父さん本人が手がけたものなのだろうが、その出来には思っていた以上に目をみはるものがあった。
 所詮学生の目ではあるが、それでも私達が描いていた絵とは比べ物にならないくらいよく作り込まれていることは一目でわかり、かといって技術だけの作品かと言えばそうでもない。工夫や表現といったものも一枚一枚しっかり施されているのが見て取れた。自分の家系に、個展なんかで見るようなレベルの描き手がいるということに興奮を隠せない。
 しかし、工夫や表現以上に目についたのがそれぞれの絵の、画風の違いだ。
 例えばこれは印象派風に描かれており、これはノワールっぽい。これはルネ・マグリットの描き方を参考にしたのだろうか。これなんて墨だけを使った水墨画だ。あまりにも違いが大きすぎるので、もしや別々の人の作品だろうかとサインを確認してみるも、大きさや微妙な違いこそあれどすべて同じものが描かれていた。
 正直、絵を見れば叔父の人柄もある程度読み取れる自信があったのだが、これでは無理だ。レベルが違いすぎて、表現しようとしているものの一貫性がまるで読み取れない。
 こうなると、叔父がどんな人物だったのか気になって仕方なくなる。もっと詳しく聞いておくんだった。今更ながら後悔。
「で、これが財産?」
 ケイくんは飾られた絵の一つをつまんで、つまらなさそうに尋ねる。
「そうかもね。今の所一番遺産らしい遺産だし。うまく売れたら何万かにはなるかも」
「いやあ確かに絵の暗号云々とは言ったし、身内に芸術家がいたってもちょっと面白いけどさあ、マジでそのオチありそうでやだわー」
 ケイくんはこの作業部屋に来て、財産探しへの気力を削がれてしまったようだった。絵画に妙なイメージを持っていたようだから、もっと楽しんでくれると思っていたが、何でだろう? 私の方は蔵を見るときの数倍楽しめているのに。
「でもケイくん的には、叔父さんが襲われた事自体が隠し財産の証拠になるんでしょ? 絵が財産なら説明つかないから、まだわからないんじゃない?」
「それもわからなくなってきた。よく考えたら叔父さんが何か隠し持ってて、そのせいで襲われたんだとしても、今もそれが残ってるとは限らないし。それにあのファイル……」
「まあ掃除してたら見つかるかもよ」
 適当なことを言って仕事を進めようとする。もう少し絵もじっくり見たいが、掃除すればもっと別の作品も見つかるだろうし、ひとまずそれからにしよう。
 まずはどこから手を付けるべきだろうか、と本棚の方を見て、最下段に本ではなく紙の束が置かれていることに気づく。もしかしたら金銭や権利に関わる書類の類かもしれない。だったらケイくんが誤って捨ててしまってはことだ。まずはそこから整理しなくては。
 そう思って手をつけるが、それは書類の類ではなく、様々なWEBページのコピーだった。絵画やそのモチーフに関するものが多く、これも一つの資料なのだろう。
 その束から漏れたように。数枚のコピーが脇の平たい箱の上に置かれていた。
「ストーカー?」
 明らかに紙束にあるコピーたちとは雰囲気が違う。そのコピーはストーカーの心理や対策についていくつかのページがまとめられているもののようで、ただそのまま印刷しただけであろう紙束のコピーとは違って、要点をまとめるように簡易な編集までしてあった。
 うまく絵とストーカーという要素が結びつかず、何でこんなものがあるんだろうと首を捻っていると、「うわっ」とケイくんの小さな声が聞こえてくる。
 ケイくんは隣の本棚を掃除しようとして、本を一旦まとめて下ろそうとしていたみたいだ。その中の一冊を手にとっていた。立ち上がってその表紙を覗き、私も引いてしまう。ケイくんが手にしていたのは成人向けコミック、それも幼い少女を題材としたものだった。
 よく見ればケイくんがおろした本は裸婦画やその手の資料ばかりであり、このコミックもそういった資料としてそこにあっただけなのだろうということは想像に難くない。ただわざわざコミックを資料にする必要があるかと聞かれれば疑問ではある。アーティストと呼ばれる人たちに同性愛者が多いように、絵描きに限らず芸術や創作に携わる人達は性的指向が多数派とはずれることが多いようなので、これも単純に趣味の産物だということもあるが、まあ何とも言えないところだ。
 結果、私は大したリアクションもとれず、何となく「ハハ」と引き笑いすることしかできなかったが、ケイくんは笑ってすらいない。むしろ神妙に、表紙を見たまま何かを考え込んでいた。普段のケイくんならもっとこういったものを恥ずかしがってすぐに手放すか、茶化そうとするかなので、この反応には何か不穏なものを感じる。
「……あの記憶は叔父さんのものじゃないのかもしれない」
 ひとしきり悩んだあとにケイくんはコミックを置いてそう言った。
 その可能性はもちろん普通に考えられたものだったが、ケイくん自身が否定していたものだ。成人向けコミックを見てどういう思考をたどればそこを改めることになるのだろう。
 ケイくんは携帯を取り出し、例の動画を再生する。
「忘れてたけどさ、たしか抽出した記憶データのファイル名にはルールがあるんだよ。記憶の日付と、記憶の主を示すものを必ず入れないといけないっていう」
 表示されているファイル名は「08112044-TNTM」。おそらく前半の数字が日付、後半が
 名前を示しているのだろうが、どうもじっても叔父さんの名前には繋がりそうにない。
「ん? TNTMなんて名前の人いたっけ?」
 おそらくアルファベットの頭文字を取っているのだろうが、そもそも四文字であてはありそうな名前が思い浮かばない。タノタモ? テニツマ?
 ケイくんは私の顔を横目で伺い、すぐに携帯に目を戻す。
「あと、叔父さんは背が高いんだったよな? そんな話してたよな」
 どうやら私と父さんの会話が聞こえていたらしい。確かに父は叔父のことを背が高くて男前だったと話していた。
 でもそれがどうしたと言うんだろう。それよりTNTMとは誰のことなのか教えてほしい。もしかして四文字の一単語ではなく、名字と名前の二単語なのだろうか。TN.TM、T.NTM、TNT.M。
「だったらやっぱりおかしい。俺が記憶の再現ができたのは」
 はたと考えを止める。ケイくんの身長は高校生男子にしては低い。それでも、蔵での記憶の再現と称したあの寸劇の後、ケイくんは「視点は結構ぴったり合った」と話していた。
 これは明確な矛盾点だ。かもしれないどことではない。確実に、あの映像は叔父さん以外の誰かの記憶だ。
 ケイくんと近い身長であり、TNTMにあてはまる誰か……。 
「ナッちゃんって、四年前何歳だった?」
 何故先程からケイくんの話は飛ばし飛ばしなのだろう。せっかく私も記憶の主が誰か考えているのに、これでは思考がまとまらない。私は短期記憶も得意ではないのだ。
「今が十九歳だから、四年前は十五歳だね」
 あの頃はギリギリ中学生で、受験勉強に奔走、してたのかな? してた気がする。
 ケイくんは聞くだけ聞いて、また黙り込んでしまった。また何か考えているんだろうかと顔を伺おうとして、視界の端に成人向けコミックが映った。
 ふと、つながってしまう。
 ケイくんの考えていることがわかってしまった。
 記憶の主を襲う、大柄な、背の高い男。
 襲われているのは、ケイくんと近い身長であり、TNTMにあてはまる誰か。
 T.NTM。時岡夏美。私のことだ。
 
   ○
 
 いつの間にか、ケイくんは作業部屋からいなくなっていた。
 私はあの記憶の主が自分だと悟ったあともケイくんにそれを言うこともできず、またケイくんもそれ以上何も言わなかったため、お互い無言のまま、気まずいのかそうでないのかもわからない空気で掃除を進めていた。
 流石に本棚に触る気にはなれなかったので、他の画材などの整理をしていたのだが、その間も自分ではあまり意識しないうちに考えが頭の中でグルグルと回っていたようで、ケイくんがいなくなっていたことにも全く気づかなかった。
 改めて整理していたはずの画材を見てみるが、本当に掃除しようとしていたのかと疑われても仕方ない適当さだ。どれだけ自分が心ここにあらずになってしまっていたのかよくわかる。もしかしたらケイくんから声をかけられても気づいていなかったのかもしれない。
 だが今は少し時間が立って落ち着いてきた。一度、例の記憶について簡単に整理する。
 まず記憶はこの家の電子レンジの裏から見つかった。その場所やマッチ箱に入っていたことからして意図的に隠されていたのだろうが、理由はわからない。これが叔父さん本人の記憶なら、他人に見られたくない記憶かつ厳重に保管しておきたかったのだろうとも思えるが、そうではなかった。
 叔父の記憶だと思われた映像は実は私の記憶であり、襲っていた人物こそが叔父だった。状況証拠ばかりの憶測にすぎないのかもしれないが、そう考えれば説明のつく事柄が多すぎる。
 ファイル名や視点の差など、映像に関することもそうだが、何より私の中に叔父さんに関する記憶があまりにも少ない。これまではあまり気にしていなかったが、毎日とは言わないまでも、もしかしたらケイくんよりも頻繁に顔を合わせていた人物のことをこんなにも思い出せないなんて、私の記憶力が低いことを差し引いても明らかに不自然だ。これはケイくんが言っていた、記憶をコピーするときの不具合で説明できなくもない。つまり、記憶を抜き取った副作用で、抜き取った部分に関する人や物事の記憶まで薄れてしまっているのだ。
 そこまで考えたところで、背後からのバサバサという紙の音が聞こえる。
 振り返ると、先程まで扱っていた本棚のコピーの束が手前側に倒れてきていた。離れるときにしっかり戻しておいたつもりだったが、不十分だったのだろう。
 ケイくんもいないので、仕方なく本棚に戻り綺麗に整えて最下段に重ね直す。そういえばこのストーカーに関するコピーは結局何なのだろう。束にされているコピーを何枚か見ても、特に関連しそうなものは無かった。
 この中にあったものを一時的に出していただけかもと下の平たい箱を手に取ると、案の定中からはカサカサと紙と気がこすれるような音が聞こえる。ホコリに気をつけながら、私は箱のかぶせ蓋を開いた。 
 中に入っていたのは、色鉛筆で描かれた女の子の絵だった。それも一枚ではなく、手にとって厚みを感じられるほど。十数枚ほどか。どれも同じ女の子を描いているようだ。
 この部屋の異様なまとまりの無さを味わった後だからか、どの絵も優しさが感じられるタッチで描かれているのがよくわかり、一貫して女の子の元気や活力といったポジティブな側面を映し出そうと表現されてある。見ているだけで、気づかぬ間に荒んでいたらしい心をじんわり癒やしてくれていた。とても叔父さんの描いたものとは思えなかったが、数枚には部屋に飾られている絵と同じサインが小さく描かれている。 
 順にめくると、描かれている女の子はどんどん幼くなっていくので、この絵たちは一人の女の子の成長を捉えて描いたものだとわかる。この女の子、どこかで見た顔、というか覚えてないほうがおかしいと感じるほど、すぐそこまででかかっているのだが……。 
「あ、私かこれ」
 過去に執着しない私は、当然自分の昔の顔なんて覚えてはいなかったが、この絵の女の子は、アルバムや写真で見た私とよく似ている気がする。というか全く同じだ。
 しかし写真の中での私が、こんなに元気だったり楽しそうにしているのは見たことがない。決して楽しい思い出無かったり、つらい過去を送ってきたということは無いはずなので、単に写真うつりが悪いか、もしくはいくら本人が楽しんでいても、その様を単に画像として残すだけじゃ中々伝わらないということだろう。
 つまり叔父さんは、そんな心情まで捉えて私を描いていたということだ。
 叔父さんに関する記憶がないのがもどかしい。今日一日で、叔父に対するイメージが何度も形作られては壊されている。
 あの記憶が本当に私のものなら、これは決して放置できない。私は叔父さんについてちゃんと知るべきだ。 
 父さんは居間にいると言っていたか。私は絵を持って部屋を飛び出した。
 
  ○
 
 居間のふすまは大きく開かれていた。換気を良くするためだろう。外の廊下には、ちゃぶ台や座布団などの家具が掃除のために居間から出されていた。
 中には父さんだけでなく、作業部屋から消えていたケイくんも一緒に立っていた。
 しかし、二人は分担して掃除しているわけでもなく、ただ向かい合って、無言でケイくんが手に持った何かを見ているようだった。ちょうど父さんの背中に隠れていて、何を持っているのかはよく見えない。
 ケイくんは私が居間の前に立っていることに気づいたようだが、すぐに視線をもとに戻してしまう。照れたり嫌がったりしたという風ではなく、あえて私をいないものとして扱おうとしているように見えた。
 そのせいで何となく居間に踏み込むのを躊躇してしまったが、私は私で父さんに用がある。ケイくんが今何をしているのかは知らないが、私が退散しなければいけないということはないだろう。そう考え声をかけようとしたときに、父さんが顔をあげる。
「それで、この人が叔父さんだったんじゃないかと……なるほどね」
 その微妙な動きでケイくんが手に持っていたものが見えた。携帯だ。父さんの方に画面を向けるようにして持っており、その画面は真っ白のまま右側に寄り切った再生バーを表示している。記憶を見せていたのだ。
「うん、この映像については知ってるよ。確かにこれは夏美の記憶だけど……この人は賢二くんじゃない」
 叔父は画面に指を滑らせ再生バーを左に数秒分動かし、出てきた影の男を指差す。
「啓くんは叔父さんとは会ったことないんだっけ? だったらまあわからなくても仕方ないかな。叔父さんはこんなに太ってなかったし、それに……」
「うん、私も叔父さんはそんなことする人じゃないと思う」
 私は父さんの言葉を遮りながら、居間に踏み込んだ。
 大体の状況は把握できた。つまりケイくんは父さんに、作業部屋で考えたことを全て話した上で、その動画を見せたのだろう。私を無視したのは、当人が居ることによって父さんの話すことに変化が起きないか判断に迷ったからだろうか。
 変化はするだろう。しかしそれはケイくんが思うような、口を閉ざしてしまう方向にではないはずだ。むしろ、本人のいないところでその人の話をするのは気が引けるというのが人情というものではないだろうか。
「夏美も来たのか。ケイくんの話はもう聞いた?」
「うん。知ってるけど……」
 聞いていないが、経緯はほぼ掴めている。十分だろう。
 それよりもまずは、何故ケイくんが一人でこんなことをしていたのかが知りたい。半ば怒りの感情を込めた視線を向けて問う。
 ケイくんはいたずらが見つかった子供のように、媚びた引き笑いを見せた。
「ドラマなんかでもさ、大掛かりな手術なんかをする前には必ず本人以外から許可取ってるだろ? だからおじさんなら知ってるかと思って」
 それだけのことで、私がいない中話を進めようとしていたのか。怒りが膨らみそうになるが、考えてみれば作業部屋での私はかなり参ってしまっていた。私の父さんなら真相を知っているだろうと考えついても、一緒に連れてくることは憚られたということなのかもしれない。
「ああ、そんなものまで見つけたのか」
 そう言う父さんの目は、私の持っている十数枚の絵に向けられていた。手渡すと、父さんはそれら一枚一枚の絵をゆっくりとめくりながらどこか懐かしそうな顔で眺めていた。
「この絵は賢二くんが母さんに見せるために描いたものでね……母さんがずっと病院にいたのは覚えてるだろう? 最初は夏美の成長を見せるために写真を撮って見せてたみたいなんだけど、せっかくだから賢二くんの描いた絵で見せてもらいたいって母さんにせがまれて、描き始めたらしいよ」
 父さんは叔父について、つらつらと話しだした。
「父さんも詳しくは聞いてないんだけどね。賢二くんは昔から絵のことばかりにかまけていて、家のことにはトンと無頓着だったらしい。それが病弱だった母さんを入院までさせることになったって、悔いてたよ。だからなんていうのかな、夏美の世話をしてくれるのも、その罪滅ぼしのつもりだったのかもね。それまでは絵の仕事もそれまで凄くこだわって選んでたらしいんだけど、夏美が生まれてからは本当にいろんな依頼を受けてたみたいだよ。そういえばよく夏美と一緒にお絵かきなんかもしてたなあ。中学生頃からは、夏美の方から賢二くんの方に遊びに行ったり、泊まったりもするくらい仲が良かったんだけど、まあ覚えてないかな」
 全く記憶にない。よく世話になっていたとは聞いていたが、まさかそこまでとは思っていなかった。そんなに人生に深く関わっていた人物であるはずなのに、どうしても未だに顔すら思い出すことができず、記憶のカットというものに恐ろしさを感じてしまう。
 しかしそうなるとなおさら残った謎が気になる。影の男が叔父さんじゃないなら、私は誰に、何故襲われたのか。そして、その記憶をカットしたのはなぜなのか。
「……記憶を取り除いた意味が無くなるといけないから、あまり話せないんだけど、夏美、君は昔ストーカー狙われてたんだ。それもかなり悪質なストーカーに」
 ショックは少なかった。私を描いた絵の上にストーカー対策のコピーが置かれていたことから、何となくではあるが予想のできていたことだ。しかしケイくんは当人である私以上に狼狽しているようで、目を丸くしてこちらを見つめていた。本当に何も知らなかったんだなとかえって安心する。
「賢二くんのもとに行くときに尾行されてたらしくてね、その記憶の事件が起こった。幸い賢二くんがすぐに助けてくれたから良かったものの、本当に、本当に危ないところだったんだ」
 父さんの声がわずかながら震える。穏やかだが感情を表に出すこともまた少ない人だけに、それがどれだけのことだったのか、記憶のない私にも伝わってきた。
「ただ、周りから見てもわかるくらい、賢二くんは本当に夏美のことを大事にしてくれていてね。それが裏目に出たと言うのも違うけれど、賢二くんは夏美を助けるときに〝やりすぎた〟んだ。誰が見ても、過剰防衛だとわかるくらいには」
「それで刑務所か」ケイくんがつぶやく。 
「賢二くんはひどく落ち込んでいたんだけど、まあ無理もない。自分との関わりのせいで、夏美に大きなトラウマを与えて、その上捕まったんだ。そしてこのトラウマというのも酷かった。いや、トラウマというと優しいね。あれは立派な心理的外傷だ。とてもじゃないけど、警察の事情聴取になんて答えられるような状態じゃなかったよ。
 そこで提案されたのが、記憶のカットだ」
 父さんは指をチョキチョキと開閉する。
「近くに認可の降りた病院があったのが幸いだったね。記憶を取り除くことに成功すれば、夏美は元通りになれるどころか、ストーカーの被害にあっていたことすら忘れられる。それにこの家に監視カメラなんて無かったから、警察からしても事件の証拠が足りてなかったらしい。やらない手は無かったよ。
 もちろん夏美も自分で許可したんだけど、覚えてないよね。事前に記憶の混乱やカットしていない記憶まで無くなる副作用については聞いていたけど、夏美の場合それが露骨に現れたから。裁判なんかも入院してる間にすませちゃったしね」
 どうりで自分の事なのに事件に関する記憶が少なかったはずだ。あまりにも覚えがなさすぎてここまで話を聞いてもなお他人事のような感覚が抜けないが、本当にひどい心理的外傷を負っていたのなら、ここまで何も残っていないのはむしろ幸いなのだろう。一度心の傷を背負ってしまった人は、その原因を忘れた後でも些細なきっかけでまた傷が開いてしまうことも多いという。技術的に取り除いた記憶にまでその話が及ぶのかはわからないが。 
「そうして夏美はどうにか快方に向かった。けど賢二くんは……」
「……ああ」
 そうだ。叔父さんは、刑務所から出て間もなく行方不明となってしまったのだった。
 父はそれを最後に黙ってしまい、居間には沈黙が訪れた。聞こえるのは父が絵をめくるときの、紙の掠れる音だけ。
 ふわりと冷気に背中を撫でられ、鳥肌を立ててしまう。見ると空は綺麗な夕焼けになっていた。もう二時間もすれば日もくれてしまうだろう。
「じゃあ一旦、部屋の掃除に戻るね」と居間を出ようとすると、再び父さんが口を開いた。「いつになるかはわからないけど、もし叔父さんが帰ってきて、再会することがあれば、きちんとお礼を言うんだよ。彼は、まだ自分のせいだと思ってるかもしれないから」
「……うん」
 いくら記憶がなくても、このことだけは、絶対に忘れたくないと思った。
 
   ○

 数日後、私は母の墓参りに来ていた。
 今日は母の命日というわけでも、誕生日というわけでもない。しかし私は、どうしてもこの絵をお供えせずにはいられなかった。手に持った黒い箱に視線を落とす。
 人のものを勝手にお供えしてしまう形になるが、まあ叔父さんなら許してくれるだろう。もちろん叔父さんの記憶は戻ってきていない。
 今日は珍しくケイくんも一緒にきていたが、今はちょっといなかった。ただのトイレだ。墓地を前にして言い出したので、それならもう先に始めてしまおうと一人で入ってきてしまっているわけだ。
 いつもは父さんと来ているので、何となくでしか場所を覚えていなかったが、なんとか儚い記憶を頼りに母さんの墓を見つける。しかしそこには、見たことのない男の人が先に墓前に立っていた。
 背の高い男の人が墓前でタバコを吸い、虚空を見つめているというのは、何故だかわからないが様になっている気がする。
 男の人は私に気づいて顔を向けるが、そのまま微動だにしないのでこちらから「こんにちは」と声をかけて近づいた。
「母のお知り合いの方ですか?」
「あ、ああ」
 男の人はひと目で分かるくらい挙動不審になっていた。突然声をかけられて驚いたのだろうか。
「ええと、君は……、娘さんなんだね。これは失礼」
 もし私が覚えていないだけの知り合いや親戚だったらどうしようと思ったが、そういうわけでもないらしい。よかった。男の人は筒状の携帯灰皿を出して、手に持っていたタバコを中に押し込む。
「まあ、僕は母の知り合いというか、生前お世話になった者です」
「そうなんですね。私は娘の夏美といいます」
 そう言ってお辞儀をする。こう格好つけてはみるものの、こんなところで会った人にどう接すれば良いのかまるでわからない。普段は父に丸投げにしてる上に、会うのも親戚ばかりだ。
「あぁ、夏美ちゃん、夏美ちゃんね……」と男の人は未だ挙動不審気味につぶやくが、その目は一点を見つめていた。私の手元だ。どうやらお辞儀をした際に前に出た、この箱が気になるらしい。
「これがどうかしましたか?」
 私は箱を持ち上げる。今更だがこの男の人、少し怪しい。様子もそうだが、この人自体なんとなく見覚えもある気がするし……はて?
「あ、うん、それね。ここ大きなお供え物は禁止らしいから、ちょっと気になっただけだよ」
「なるほど」
 相槌を打ちながらも私は男の人の顔をじっと見る。やっぱり確かにどこかで見たことがある。しかしどうしても思い出せず、もどかしさを感じる。
「えぇっと、どうかした……?」
 見つめすぎてさすがに気づかれてしまった。恥ずかしさが勝り、目をそらしてしまう。
「いえ、なんでも」
「そう? じゃあ僕はこれで」
 男は私の横を抜け、墓地を去ろうとする。
「あ、はい。ありがとうございました……」
 消え入るような声しかでなかったせいか、男の反応は無かった。
 その時、やっと思い当たる。
 いやでも違うかもしれない。記憶が無いというのは本当に不便だ。向こうも私を知らないようだったしきっと違うのだろう。でももし当たっていたら。もしもう会えなかったら……。
 私は叫んだ。
「ありがとうございました!」
 男の人はビクリ肩を上げ、驚いて振り向く。そして再びお辞儀している私を見るとヘラヘラとした笑顔で手を振り、去っていった。
 しばらくして、墓前で手を合わせていると、やっとケイくんがやってきた。
「おっそいなあ」
「いやここ分かりづらすぎ」
 ケイくんも私の横に並んで手を合わせる。
「ていうかナッちゃんの声が聞こえてきてわかったんだよな。さっきの人、知り合い?」
 どうやらここにくるまでの間にすれ違ったらしい。ケイくんがわからないのなら、本当に違ったのかもしれない。
「う~ん。まあ、覚えてないかなあ」
 私は忘れっぽいのだ。

記憶保存ファイルと忘れっぽいだけの私

執筆の狙い

作者 きよしこ
fp5a95e34b.ap.nuro.jp

永遠の0や推しの子のような故人の過去に迫る話を書きたい&ミステリーを書きたい
というわけで故人の過去を解き明かすミステリーを目指しました。目指しはしました。

コメント

ぷりも
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拝読しました。
私は、ミステリー好きなのでストーリーは大筋いいような気がしますが細かいところは気になるところです。
叔父さんはおそらく初犯で、過剰防衛なら執行猶予がつきそうな。
あと、それで行方不明になるというのもどうやって生計立てているのかとか。
あと誤字脱字結構あるので、何度か読み返してみては。

きよしこ
fp5a95e34b.ap.nuro.jp

ぷりもさん、ご感想ありがとうございます

そうですね。おっしゃるとおり細かい部分を説明しそこねてしまっているかもしれません。特に執行猶予については、つかないくらいのことをやってしまったという意味で「やりすぎた」と言わせていたのですが、今見るとと明らかにそう思えるだけの伏線が足りてません。
誤字脱字についても見返しつつ、ぜひ改稿の参考にさせていただこうと思います。今回はお読みいただきありがとうございました。

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