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来客との約束の時間まであと何分も無いというのに、村井は時計と壁掛けのドアフォン子機を気にしながらソファーの周囲をソワソワうろうろとしており。来る会見のシミュレーションを脳内で繰り返しているようで。「出前はちゃんと予約したよな? 紅茶のカップはちゃんと暖めてから淹れるんだぞ」そう何度目かの繰り言を吐きつけられた汐奈が「ハイあなた、ちょっと落ち着いてくださいな」とソファに座らせてその背広の襟もとを正す。「威厳というのはまず余裕からとお父様も仰っておりましたよ。汗をおかきのようですから冷房を強めておきましょう」そうその額をハンカチで拭う。
ドアフォンが鳴った。玄関に駆けていく汐奈の背中を見守りながら、村井はソファーに腰を下ろして待った。できるだけ威厳が出るように努めるが、彼は誰かの顔色を伺い続けることでしか他人に認めて貰う手管を知らない。
「本谷と言います。柳目の遣いでまいりました。このたび皆様との窓口を担当いたします。以後、お見知り置きを」
妻に誘われ、男がリビングに入ってくる。
「この度はお悔やみ申し上げます。お父上には生前たいへんお世話になったと、そう柳目が申しておりました」
本人が出向かなかった事にすこしホッとしていた。柳目は村井程度にも少し聞き伝わるほどのフィクサーで、そういう人物の機嫌を直接に損ねることが一番恐ろしかった。もう、父は居ないのだ。村井が失敗したら裏で手をまわす老獪な護りはもはやこの家には無い。
落ち着いて相手を観ると、ずいぶん奇妙な風体だった。まるで喪服のように黒のスーツに白のシャツ。すこし痩せ気味な体躯。そして頭にまるで似つかわしくないニット帽を目深にかぶっている。
対面に座った柳目が妻の差し出した紅茶に目を落とす。「ほうマイセンのカップーーですか」
情報回廊のお屋形様は紅茶を好むという噂を聞き、百貨店で一番高いティーカップを用意しておいたのだ。村井は心のなかでほくそ笑むが。
「いえただ、柳目も愛用しているものですから。ーー良くお調べになっている」そして本谷はふと何かに気づいたように眉根をぴくりと寄せる。「そうーージューゾーは偏執狂でね。コーヒーカップで紅茶を飲むべからずというルールを他人にも強請するのですよ」そう、首をかしげて作り物めいたほほえみで「じぶんの大事と他人の大事の区別が無いのでしょうね」といった。
「あの、ジューゾーとは?」おそるおそると村井はそう訊いた。
「従像ーー柳目の名の事ですが。ご存知無かったですか?」
「とんでもない、良く存じております」村井はあわててかぶりを振る。「ただ、ーー名前で呼び合うなんてーー本谷様と柳目様とはとてもフランクな間がらなのですね」
「とんでもない」そうしかめ面で顔を振るう本谷。「さきの噂噺はぼくの個人的な相棒から漏れ伝わって来たものなのです。しかしパートナーの方はぼくとは違い柳目と直接の主従関係には無いため、呼び名に対しても気兼ねする必要は無いワケだ。そうして、ぼくがそのコトバをこうして伝聞させる時、それはできるだけ逐語的で無ければならないと云うルールがあるのです」
「なるほどルール、ですか」話にまったく着いていけない村井が、一先ずおずおずとそう相づちする。
「ルールが無いゲームになどなんの意味があるでしょう? しかし、規約に縛られた世界というものは一言で云えば面倒くさいーー一先ず先生をそんなご面倒に巻き込んだことに謝罪しておきます」そう生真面目に深ぶかと頭を下げるニット帽を眺めながら、村井はソデで汗をぬぐう。ひょっとしたら自分はとんでもなく変な世界に足を踏み入れようとしているのではあるまいか?
やがてあたまを上げた本谷が村井にじっと向き直る。まるで、自分のほうから言うべき事は一先ず出し終えた、と云った風情でくちを閉ざしてしまう。
「あのーーお話の前に、もし宜しければお食事でもいかがでしょう?」困ったときには一先ずシナリオ通りに進めておく。それは村井に本能の様に刷り込まれた対応だ。すると、ようやく男は口を開いてくれる。
「おもてなしには感謝します、だがぼくの心証などなんの意味も持ちはしませんよ。柳目はぼくから事実の報告を得たいだけだ。そして村井先生。ぼくは嘘をつけないのです。それが柳目がぼくなどを雇うほぼ唯一の理由らしい。柳目はその一族以外だれも信用を置いたりしない。新参者のぼくになどは、なおさら」
「そうですか」困ったようにわらうしか無い。もはや威厳などはどこにも無いだろう。「まいったな、出前を注文していて、私と妻もそれを夕飯のあてにしていたもので」
「出前?」
「ええ、近所の寿司屋に。この時期ここいら辺ではカツオが旬でしてーー鄙びた田舎ながら、おそれながら地元の名産をご賞味頂ければと」
「お刺身」本谷のひとみがクルリと揺れる。「さいわいながら美味しいものを食べるのは大好きです」
まもなくして到着したカツオのタタキはまだ藁で燻された野趣あふるる香りをただよわせていた。にんにくの薬味を乗せたその切り身を醤油にひたしながら、本谷がもぐもぐと頬ばる。
「もし宜しければこちらに冷酒も用意してございます」そう言って妻の汐奈が冷蔵庫から日本酒をもって来る。
それは確かに合いそうです。美味しいお酒は大好きですーーじゃ無い。「先生がお飲みになるのならぼくも御相伴に預かれれば幸いです」早口にそう言って、しかめ面で足下に向けておおきく俯く。スリーアウト。ここで今夜のおまえはお仕舞いだ。つぎに精進しろ。
それは小さな声だったが、なにやら剣呑な内容が確かに聞き取れた。アウトーーその冷徹な宣告に村井の身体が凍り付く。
「あ、あの。何か気に触るようなコトでも」
「申し訳ありません。じぶんを叱咤したのです。まだこの仕事に就いて日が浅く、たまに失敗致します。そんなときにはこの様にじぶんを奮い立たせたりするのです。奇妙に思われるでしょうがどうかご容赦ください」
「ーーまあ、お気になさらないで下さい」村井は来たる柳目との面会にあたり今日まで様々に想定を巡らせたものだが、そんなこんなは全て吹き飛んでしまっていた。
「いろいろと儘為らないものです。私も父が死んでからと言うものバタバタ続きで、じぶんはなんと世間知らずなのかと今更ながら思い知らされている所です。私と父とはまるで違うのに、同じようを引き継ぐことを周りから期待されています」
汐奈が灰薄ずみれに染まったバカラのショットグラスに冷酒を注ぐ。
「先生は調度にずいぶんと気をつかって居られるのですね」
「皆様にはお酒を頂くにもなにか『ルール』が在ったりするのでしょうかね?」村井もようやく調子を合わせることが出来てきた。アルコールも入って、少し気がラクになった所もある。
「それは無いですね。柳目はアルコールを摂らない。興味もないでしょう」
「これは、私が父から受け継いだものの一つです」村井は飲み終えたグラスをリビングの灯りに透かした「まったく幾らくらいするのでしょうね? 政治家と云うのは人気商売です。父は人をもてなすに於いて財も労も厭いませんでした。そういう古いタイプの政治屋だった」
「おもてなしはお父上の薫陶という事ですか」本谷はショットグラスをぐいっと開ける。「時に先生は、いまは無所属の県議であられますが、いずれお父上の様に国政に打って出るご予定はございますか? そのようなビジョンを柳目は特別に重視します。もしその際にお父上の党に鞍替え、後釜を狙うお考えならツテもあるので是非私の本業の方に頼って欲しいとのことです」
暗記した文章を読み下すようにそう言って、ふたたびコトは終えたという風情の本谷が村井を見て反応をじっと待っている。
「恥ずかしながらこのあたりが、今回ご相談差し上げたいあたりになります」そうして、話題は急に本題に触れる。村井は手酌でもう一杯飲み下し、こころの唇をしめらせた。
「父と違い、私は凡庸な人間です。県政に出たときにはやれ親の七光りだなんだと騒がれもしましたが、以来世間の皆様はもう、私のコトなどキレイさっぱりお忘れの事でしょう。県議としての収入は、まともな勤め人にも劣る程度です。そしてこの生業には色々な経費が付きまとうのです。妻が社長として経営する家具の輸入販社が生活の基盤ですが、これも不況の影響で芳しくありません」
「しかし、代議士としてのお父上は大臣を歴任された大物だ。現に、この様なご立派なお住まいでなに不自由無いようにお見受けしますが」
「ハリボテですよ。みんな、父のものです。この土地も、家も。ほか幾つかの不動産も。会社の株の何割かも。しかし父はそれを私に相続するつもりは無かったらしい。父の死後まもなくしてとある弁護士から連絡がありました。彼は父の遺言執行人に指定されているとの事でした。彼は父から預かったとする遺言状の内容を読み上げました。全財産を父の後援事務所の負債や職員への退職金等への清算に充て、これを解散すること。またその上で資産の余剰分については指定の資産管理団体に引き継ぐこと。つまり、父はじぶんの為した財については何も私に引き継がない、という事です。財産も支持基盤も含めて、全部。父の保有していた株式が他人に保有されれば最悪会社さえも失う事になる。私たち一家は路頭に迷うしかない」
「先生はその遺言状の存在をそれ迄ご存じ無かったのですね?」
「もちろん。そんな事想像もしていませんでした」
「その弁護士との面識は?」
「在りません」
「遺言状の実物はご覧になられましたか?」
「見せてくれとの申し出は拒否されました。ただ、遺言の内容に同意するか、しないか。同意が得られない場合は裁判所に強制執行の申し立てをするとの、その一辺倒でーー」
「理不尽な話だ、その様なことがあるのですね。そしてとても不思議な話です」本谷のまなざしが村井の眼にまっすぐ注がれる。
「そうなんです。どんな知人に相談してもそんな話は聞いたコトもないと首をかしげられるばかりでしてーー」
「ほんとうに、不思議な話です」本谷が外した視線を足下に落とす。「なぜ先生は弁護士事務所にでは無く、柳目に話を持ち込まれた?」
「それはーー」村井が口ごもる。食膳の仕度を終えてリビングに同席していた汐奈がその後を継いだ。
「信じられなかったのですーーべつに生前に不仲だったというワケでもない。そんなお父様が我々を見捨てるような遺言を残していただなんて。もし仮にその遺言とやらが本物であったとして、生前のお父様にもなにかお考えがあったのやも知れませんが、もはや故人と話すことは能いません。残されたわたしたちはどんな想いで生きてゆけば良いのでしょう?」
「つまりその怪しげな遺言状の実在の有無はともあれ、一先ずそれを無かったことにしてしまえば経済的にも精神的にもあなた方に大きな利益となるという事ですね」
「平たく言えば、そうなります」妻が言うが。情けないことに村井のくちは上手く動かなかった。
「なるほど、この度のご要望はそれで宜しいですか? 先生」
「そうです」そうなんだ、村井は肯く。立つ瀬も無いようなさきも見えぬ不安の暗雲。これを祓って欲しい。できれば、何も無かったことに。「しかしーーそんなコトが出来るのですか?」故人の意志を黙殺して無かったことにするなど赦されるのだろうか?
「それは」ーーぐるりと対面の夫婦に視線を巡らせる本谷。「どうやら二つの意味合いがありそうだ。一つには方略や方法論の側面、もう一つには倫理的な側面。前者について言えば、これからぼくが可能不可能を判断するための材料集めをさせて頂きます。そして後者に関して云えばご安心ください。柳目にはモラルというものが欠如している。法などはゲームに於けるルールの様なもので、ファウルを取られずに勝利するのが良いプレーヤーだと信じている。彼にとって大事なコトは依頼者の望みを叶えるために執り行うことが自らの正義を基礎付けるものであるか否かというその一点のみです」
「正義、ですか」なんだか、哲学的なんですね。
「そうですか? その価値観はむしろとても卑俗で凡庸だとーー相棒はそう評しておりましたが」本谷はきょろきょろと辺りに視線を巡らせて「えとつまり、それです」立ち上がり本棚の一角を示す。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
神はあらかじめ救われるべき人間とそうでない人間を分けて造りました。人びとはそのことに気づくとじぶんが救われる側かそうでないのかを不安に想い、救われるべき人間を演じるようになりました。すると誠実で勤勉なるものが救われるべき人間であるはずでした。まじめで仕事熱心なものの足下には必然的にお金が積み上がります。いつしか財産は所有者の救済を保証する尺度として機能し始めました。そうして皆が禁欲的に効率的に利益を追求するようになりました。かように人間の心性と歴史というものは興味ぶかい。
ジューゾーは正義を成功の連続が纏わせる風格のようなものだと想っている。その行いは手段に過ぎないため高度に効率化されています。論法は稚拙ですが、つたないから危険がないという訳でも無い。
「博識でいらっしゃるのですな」もう何度目か、呆気に取られながら一先ず村井はそう返す。
「残念ながら単なる請け売りです。今まで使う機会が無かったがーー。それはそう、マックス・ウェーバーのある食卓というものがザラには無いからですね」男はほほえんで、そう肩を竦める。
「それ、タダの飾りですよ」いつしかリビングの入り口から少女がかおを覗かせていた。高校生くらいだろうか。その後ろにはまだあどけなさの残る少年のすがた。「うちの中で誰も読んでるの見たこと無い。世の中、そんな無用な飾りを必要とする家ばかりじゃあないでしょうね」そうして村井と汐奈と本谷。三人の集うリビングに横目をちらりと巡らせて。「母さん、ただいま」そう小さく言った。
「律奈、お疲れさま。タカも。塾の方はどうだ、捗ったか?」村井がそう呼びかける。
律奈は、なにも応えない。そのまま弟の手を引いて廊下へと消えた。やがてトタトタと階段を昇る音が響いた。
「お子さんですか」
「ええーーあの子らの為にも、今は私がしっかりしないと」村井が膝の上でぎゅっと手を握ると、汐奈がそれにそっと手を添えた。本谷はそれを見て、少しのあいだ見届けてーー。
「ぼくの相棒はこう言いました。『ジューゾーには気をつけろ』。個人的にぼくも同感です。ーー失礼ながらこんなにくだらない事でご主人は柳目に関わるべきでは無かった。柳目はなにも見返りなど求めてこないだろう。ただし事が終わったなら必ず、どんな手段を使っても奴のポケットに金をねじ込むコトをお勧めします」
「そうしないと、どうなるのですか?」
「柳目と先生はご友人になります」本谷は口角を持ち上げる、が、目がまじめすぎてそれはとても笑みには見えなかった。
「いつか、柳目が手段の駒として見合うと判断したとき、友人のよしみであなたに些細な頼みごとをするでしょう。それは無害にしか思えないだろうが。多くの場合じっさいそうなのだろうが。残念ながら柳目は常に目的しか観ない。あなたの運命にまで気遣いする器量はまだ有りません」顎に手をあてて、それはまるで自分に言い聞かせるようなコトバだった。
「忠告はしました。過分なおもてなしに対するぼくからのーーぼくにできる精一杯の返礼となります」
* *
やがてまた、階段を鳴らす音。律奈が自室から降りてきた。
「帰ってきたと思ったらまた出かけるのか?」村井がそう問いかける。
「夏休みに入ったから夜間講習もあるのよ」彼女は玄関に向かいリビングをわたる途ちゅうでこちらに向き直る。「別に、あたしだって好きでやっているワケじゃ無い。一流大学に入らないと誰かさんみたいに地方議員止まりだからって通わされているだけ」言ってこれ見よがしに両手をひろげる。「でも、もうウチは大物議員の一家じゃあ無いの。親の七光り政治屋一家なんてばかばかしいゆめも終わり。ねえ母さん。ほんとうに予備校、止めても良いかな?」彼女は母親に向けてまじめな顔でそう訊いた。村井の方を一度も視ることはなかった。
「しかし律奈、勉強は大事だぞ。それで苦労した、他ならぬ俺が言うんだから間違いない。もしかして彼氏でも出来たのか?」かわいた空気をこわす様にして自虐した、村井がそう茶化して訊くと
うるさい!
その律奈の声はとても大きくて、否定のコトバと言うよりかは悲鳴や咆哮に似ていた。
「あなたなんてお父さんじゃ無い」さけびの余韻に乱れた声音でそう継いだ。
「どういう意味だ?」村井のふるえた声。怯えか、怒りか、だれにも分からない。
「文字通りのそのまんまよ。ーー予備校いってくる」先ほどの大声で何かが抜けてしまったかのように肩を落とし、律奈はカバンを肩に玄関から出て行った。
シンとした室内に村井の溜息まじりの苦笑がこぼれる。「お見苦しい所をお見せしました。遅咲きの反抗期というヤツでしょうか。あの子は妻の連れ子でして、と言ってももうずっと暮らしているわけで、ずいぶん打ち解けていたハズだったんですが。ーーちょうど父が死んだ頃からかな、ぎくしゃくしだした。まったく泣きっ面に蜂ってとこですよ。家族が死ぬというのは大変は事ですね。色んな事が変わる。今、私がこんな風に参っているのと同じように、娘にも何かしら悩むところがあって、今の私にはそれを受け入れてあげるだけの余裕が無いのかも知れません」
時間が経てばまた、昔みたいに仲良くなれますよーー、そう汐奈が落ち込んだ村井の背に掌をのせる。
「時間かーーそういえば妻を娶ったときも、このように少しばかり歳が離れているものだから最初は色々と揶揄されたものでした」
「そうでしょうか? ぼくにはお似合いの夫婦に見えますが」本谷はお世辞ではなく、二人を見比べる。どちらともまだ壮年の男女に見える。「申し訳ない、お手洗いをお借りしても宜しいでしょうか?」と請うた。
* *
リビングを出ると右手に玄関。ひだりに進むと廊下のわきに階段の登り口が見える。その向こうにトイレがあった。そのすこし先で廊下は左に折れており、資料に依ればその奥に村井ーー国会議員だった村井翁の書斎が在るはずだった。
ぼくはトイレを通りすぎ、その角の奥の風景を横目にながす。そのまま踵をかえして戻りトイレに入った。一般家庭には似付かわしくない両開きの重厚な扉が書斎の入り口だった。あれが村井翁の死に場所か。
『ようやく確認できた。避難経路はそのまま使えます。こちらの手元にある資料と現実の建て間にちがいは見られない。ーーしかしもっとさきにお借りして覗いておけば良かったのだわ』キャッシュがそう口をとがらせる。彼女はぼくらの住まいの健全を第一義に考える。
「なるほど、後学のために説明しておいた方が良いな。見知らぬ訪問者が突然トイレを求めたら不安や警戒を抱かれるかも知れない。だが酒を呑んだ後でなら話はべつなんだ」
『なんで、どうして?』てらいの無い好奇心のひとみ。
「杯を交わすというのはそう云う事だからだ。それに酒を飲めば誰だって催すものだからだ。ーーともあれ、開口一番トイレを求めるのは相手がよほど近しい間柄で無ければNGだ。おまえが柳目では無いのなら」
『なら分かりました。わたしはマナーを守るよ』
ぼくは肯いて。「それにさっき、娘が叫んで出て行っただろう?」
『リツナちゃん、だったっけ。心配だね』
「すると親はもっと心配なんだ。それに家庭内の恥を他人に晒された。だから彼らが二人きりで話せる時間が必要だと思った」
『あらあんがいに優しい』
「彼らは複雑に惑い、混乱している。なにを、どうしたいのか、一先ず彼らの中で整理して貰わなくちゃなーー。ちなみに案外は余計だ。あと、さきにも言ったが現場にいまいち噛み合っていないからおまえ今日はもう喋るな」
キャッシュの言外の衝撃がさざ波のようにこころに沸き立つ。
「時間も機会も幾らでもあるがクビになっては終わりなんだ。感覚登録器のテンポラリにしばらく注目してくれ。それで今日の仕事はお仕舞いだ。明日は朝からおまえの好きな煮込み料理でもつくろう」
まだショックの冷めやらぬその蒼白なかおが漸くこくりと肯いた。
* *
「失礼しました」本谷がそうリビングに戻ると、食膳のたぐいは既に片づけられ、テーブルには湯飲みとお茶請けが設えてあった。
「甘い物は苦手ですか?」村井がわらう。「豆大福が父の好物でして。そう公言しておりましたので。今でも方々から送られてくる。しかし故人は大福を食べませんし、傷みも早いのです。どうか一つご協力いただければと」
「では頂きます」本谷は手を伸ばし、かじる。はむっとくちびるから始まるもち皮の感触につづき、噛みちぎればまずごろごろと口中にふれる粗雑な豆のかたち。それを奥歯で押しつぶす頃にはすでに内側の餡がなめらかに広がっている。甘い。そして咀嚼のあちこちにはじける豆の素朴な風味が甘みをまろやかに馴染ませる。その食感と味に脳裏で歓喜のさけびが必死に手で口を閉ざしている。
「おいしいです」そう素直に口がうごいた。
「ご存じないでしょうが、一言に豆大福と言っても世の中には数十もの名品があるのです。あんな厳つい男が甘味好きを表明すると存外に受けが良いのでしょうね。本当に父がこれを好きだったのかは未だによく分かりませんが」
「お嫌い、なのですか?」本谷はけげんに問う。
「いや旨いですよ。しかし単純に、よく食べれば、馴れるほど、飽きる前に旨く感じるというものでは無いでしょうか?」
「その様な思いであるのなら、これはぼくが頂いておきましょう」そう皿の最後のひとつに手をついて、咀嚼してほうじ茶で流しこんだ。胸中からシャン、と一鳴りよろこびが響いた。
「お代わりは如何です?」
「いえ、ありがとうございます。結構です」汐奈の勧めをやんわりと断って本谷は湯飲みを置く。
「時に、お父様には存命のご夫人が居るとお聞きしましたが」そう唐突に切り出した。
「母は、今は少しーー」村井が口ごもると、かぶせる様に汐奈が「奥様は家をお出になられました」と継いだ。「多世帯の常としてもともと折り合いが良くありませんでした。夫が亡くなりご自分が孤立したように思われたのでしょう」
「なるほど、込み入った事に触れてしまい失礼いたしました。ですが一つ、その奥方はどちらにお住まいなのでしょうか?」
「さあ、もともと良家から此処に嫁がれた方のようですから、住まいのツテも幾つかあるのでしょうね。詳細は私も存じ上げません」ーー興味がありません。そう言って汐奈がほほえむ「嫁姑の確執などはよくある話でしょう?」
「申し訳ありません」本谷がニットの頭を下げて。「どうやらさらに込み入ったあたりを訊いてしまったようです。ご容赦下さい。それでは、そろそろーー本題のものを見せて頂けますか?」
「本題、ですか」
「あなた方が御身の正義の証拠足りうると考えて居られる物ですよ。一先ず本日はその見分をさせて頂ければと思います。どうぞお見せ下さい。でなければぼくは職を失い路頭に迷うことになる」
* *
これになります。大判の画像プリントがテーブルに広げられる。
「これはただの写真です。現物を見せてもらいたい」
「写真ですが、筆跡などで判断できるのではないですか?」
本谷がかおをじっとのぞき込んでくるので、村井は思わず少し身を挽いた。
「どの様な検証が有効かは時と状況によります。ご協力を願いたい」そう告げて本谷は紙面に目を落とす。
そのプリントは村井翁の日記の見開きの写しであるようだった、筆記は日付の記録から始まっている。
「日付は一年ほど前。しかしまるで黙示録の様ですねーー。じぶんの死についてか」
その記述は日々の雑多な実務や食事の記録のなかに唐突に在った。黒インクで書かれたそれらから浮き立つように赤の筆跡で記されていた。
『某日我は消える。結び目は解けて消える。そして新たに拓ける。家と家人は残り新たな揺籃を為すだろう。これが我に残せる唯一の財産でもあった。その継続と維持のために必要な備えは済ませた事を記録しておく。以後この悩み事を繰り返す要は無し。惑うた時にはこれを読み返すこと。盲いた目は閉ざされ蒙は再び拓かれて、新たなる地平に陽の目を見るであろう。』
そしてページの中程で記述は終わり、その左の空白の中央あたりに走り書きの様な追記。
『新しい世代が始まるだろう』
「日記をお持ちしました」汐奈が持ってきたのは重々しい、鍵付き革張りの立派な代物だった。
テーブルに広げられたページは先ほどの写しそのままだ。
「これで宜しいですか?」そう汐奈の問いかけに、「できれば他のページも見せて欲しいのです」そう本谷が応える。
「疑うわけではないですが、これは偽造されたものであるかも知れない。すると前後のページは空白か、あるいはまるでデタラメな内容で埋められているという可能性もあります」
「まだお父さんが死んでから日の浅いため、わたしたちも内容にはまだぜんぶ目を通しておりません。何分故人の遺物ですので、家族よりもさきによそ様にお見せするのはーー少し」
「では、今はまだ読みません。ーー最初から最後までざっとめくらせて下さい。それでだいたいの雰囲気は判る」
本谷は日記を面前に置き、紙面を束ねてつかんだ。親ゆびでその裁断面を舐めるようにしてパラパラとページをめくってゆく。
「確かに、これは本物の日記のようですね。妙な勘ぐりをして申し訳ありませんでした」言って日記を汐奈に返した。
「お読み頂ければ分かる通り父は清々しいまでのエゴイストでして。自分の財や功績を他人に譲ったり放棄したりなんてーー想像がつきません」村井は言ってかぶりを振る「まったくこんなのはたちの悪い夢のようだ」
「なるほど」そう本谷がソファから腰をあげる。「ご相伴に預かり、すっかり長居してしまいました。先生、またこちらから近日中にご連絡差し上げます」そう村井に向かいあたまを下げた。
「どうですかご助力は、頂けそうでしょうか?」そう心配げに見上げる村井に、まじめな顔でかぶりを振る。
「わかりません。その判断をするのはぼくでは無いからです。先生も良くお考えになっておいて下さい」
「なにを、でしょうか?」
「ご自分がなにを望むのか、それを本当に願うのか、というコトについて」
* *
村井邸から最寄りの駅に向かう途中。まばらな街灯の灯りのもとですれ違った人かげに見覚えがあった。
「リツナちゃん、だっけ」ぼくが気づく前に振りむいたキャッシュがそう声をかけている。灯りの輪のすこし向こうで足を止めた律奈に「お疲れさま予備校帰り?」とわらいかける。相変わらずキャッシュはこどもに対してやたらと構いたがる。たぶんーー彼女の認識ではまだそちらの存在の方をじぶんと近しく感じるのだろう。ぼくはどちらかと云えばこどもが苦手だった。だからこうして対話の口火をまかせるコトへの抵抗もずいぶんと緩くなっていた。
「まさか」きゅうに気易いぼくの態度にすこし鼻白むように律奈がまなこを見ひらく。「あんだけタンカ切ったあとで黙もくと勉強できるほどまじめじゃあ無いし」
「それもそうか」キャッシュがつぶやく。「お休みしたいときもある」
「母さんたちの前ではやたら小難しいコト話していたのに、なんだずいぶんかるいね」
「その流れだとつぎの一言でわたしはあなたに嫌われることになるね」また怒ってさけぶの?キャッシュが言うと、律奈が息を呑む。「あなたもやはりそう。皆と同じように偏見であたしを見る。まああんなとこ見られたんだから仕方が無いかも知れないけど」そしてすこし俯いた。ーーさっきは叫んでごめん。驚いたでしょ。ウソだよみんなウソ。ただムカついたから叫んでやっただけなのに。みんな大げさに見んだから。くだんない情けないな、ーーホントはちゃんと予備校で勉強してきた帰りなんだ。
「勉強熱心、なんだね」キャッシュがそう微えむ。
「だって早く自立しなきゃあ。ひょっとして高雄ーー弟のめんどうだってわたしが見なくちゃいけなくなるかもしれない」律奈の嗤うような口もと。眉ねを寄せた黒目がちなひとみに街灯の光輪がぎらぎらと揺れ惑った。「きっと自分がしあわせみたいに思っていた。すくなくとも不幸では無いと。玉の輿だ大物政治家の一家なんだって周りから言われて、よく見えてなかった。あの人は狂っていたの。あたしだってーーもうまともに生きられるのかどうか」
「しかし君と血はつながって居ないんだろう?」ぼくはそう問いかける。
「家族性のなんとかってヤツよ。業は血よりも深いのよ」
「女子高生にしては、やけに思弁的だね」そう続けると、やすりにかけた様に律奈のひとみが警戒ににごった。「あれは図星だから怒ったの? 彼氏が居るから?」ぼくはさらにそう、あからさまに詮索する。
「ちがう、いまはそんなの居ないよ」律奈のこころはもうきびすを返し闇に消えようとしていた。けれど、
「ちゃんといろいろ楽しんでる?」キャッシュがそう問う。「楽しめなくなると、たぶんあなた方は病むよ。ねえたとえば、親のまえで大声出したときのあなたはすこし愉しそうだった。たいせつな物を侮蔑するとちょっと元気がでるでしょう? べつにそれでも良いと思う」
「かんたんに言うね。あとからすごい後悔するし」
「それでもまだマシ。それは係わり合いを捨てないという姿勢だもの」
「ねえ、みんな嘘吐きばかり、みんなもあたしも全部よ」律奈がそう吐き出すようにして。「しまいには何がほんものだったのかも忘れてしまう。『ほんとう』に意味なんてあるのかな?」
「あるよ。あなたがそれを忘れられない限り、本当には特別な価値があるんだ」ぼくの口がそう言った。
「ねえ、探偵さん。あなたから見てこの家はどう見えている?」
「一見さんが口を挟む事では無いと想う。あとぼくは探偵では無くーー調査員だ」
「調査、なにを調べているの?」
「村井氏の依頼事項の遂行が一つ目。二つ目には君の家が柳目が手を伸ばすに価するか否かの判断材料を集めている」
「そーゆーこと、あたしに言っちゃっていいの? たぶんけっこう口軽いよ?」
反抗期の子供が親に告げ口するとは思えない。そう応えると律奈は大わらい。
「じゃ、あたしの事は? どう思う?」
「じぶんは世界中で一番可哀相な女の子なのだと想っている」
「ふーん。」そうつぶやいて。律奈が背を向ける。「そんなヘンななりして案外ふつうなんだ。あたしと一緒」
「帰らないのか?」
「ん」そうことばを一拍おいて「ちょっと彼氏んとこ行ってくる、そのあとちゃんと帰るよ。他に帰るとこもないし」
『まったくうそつきリツナちゃん』
道のかど向こうに消える律奈のせなかを見おくりながら、キャッシュが言う。『ものがたりを探して夜に彷徨うんだね』
『またやけに詩的だな』
『詩的って?』
『ことばとしてシンプルに美しいこと。現実の粗雑が形式美に捨象されていること』
『そんなに、表現を遊離させたつもりも無かったんですがーー』キャッシュはそうはにかんで。『あなたたちは「現実」とやらにどうもこだわりが強いよね。それとの距離感がすべての指標。でもわたしには『現実』それもまた物語の一つに見える。あなたたちは物語がなければ生きていけないが、べつにどんなそれに生きることもできるのに。社会との接点を失うコトを本能的に怖れるのね』
でなければ、誰もじぶんを知らない場所に行って、耳も口もきけない人間のフリをして生きるしかない。
『えーと、すぐ出てこないな。なにかの引用?』そうくびを傾げる。
それはとあるむかしの作家が考えた新しい自殺のかたちだった。
『憶えておくよ、索引なしに引用できたあなた自身のことば』言って思案するようにうつむく。『ねえ、あなたが生きていると感じるのはからだが脈打つから? それとも社会に絡められているその役割があなたなの?』
キャッシュは時どきこどもの様なことを訊くね。いつしか闇にまぎれ、腕のなかに感触として顕れた彼女がはな先を胸にくゆらせている。そのあたまに手を乗せた。
『この抑制的な社会という鋳型さえ無ければ人間はきっともっとなんにだって成れるのだわ。でも、ここまで複雑にはならなかったでしょう』そううっとりと見上げながら嘆息して、そのからだから力をぬいた。
* *
縁側に座っている。書き割りのようなアサガオがまだ咲いている。それはとても寒い夏だった。しろい陽光が大気に凍てつくようだった。
もう少ししたらスイカが食べられるかな? キャッシュが言った。
もうすこし、あたたかくなったらね。ぼくはそう言ってアサガオの絵日記を描き続ける。
なんだか忙しそうなのね。キャッシュが口をとがらせる。「せっかく二人きりなのに」
しかし、アサガオは短命だ。この時期をのがせば、この時期いがいでは、ぼくはずっとのっぺりとしたからの鉢か枯れ干からびた枝葉を描き続けることになる。なのですこし必死だった。
彼女はじぶんの肘やわきを見てまるまっちい両の手を目のまえに掲げる。「わたしこどもだ、あなたもかわいいね」そう嬉しそうにわらう。「これは昨日リツナちゃんと話をしたから?」
とたんに、ぼくの背は伸びて視界がゆれた。スケッチブックには赤と青の軟体動物がからみ合ったような代物が描かれている。ああぜんぶ、台無しだ。
「しかしあなたはけっこう子供につめたいのね。がたがた揺さぶったりだとかさ」
「案外こどもというものの方が、家庭の危機には一番敏感だからな。それにあんまりサボっていると、柳目に全額返済をせまらせる」朽ち果てたスケッチブックを庭の水たまりに投げ捨てると、そのみな面のあちこちにポツポツと滴がはねて、遅ればせな雨が降り始める。
「そうしてあなたはどんどんジューゾーの世界に馴れていくのね」そう彼女は後ろから腕をまわした肩ぐちにあごを乗せて、耳もとにしずかな温もりがこもる。雨降りのおとと湿ったじめんの匂い。
「大丈夫だよ。おまえがそのように在りつづける限りに於いて、それがぼくの良心となるだろう。そしてぼくはそれに嘘が付けない」それにだいいち、と思う。ぼくが他人に冷たくたって悲しくなどは無いだろう? 外界に触れ始めたおまえは人間性に興味を持って、それを味わうために演じているだけ。
かおを離したキャッシュがぼくの目を横からじっと見つめる。
「そうだよ、あなたの理解はなにも間違っていない。でも、そういう言いかたって無いよね?」
まだ子どものままのすがた。寄せた眉ねとかんだ口もとでじっとりと見上げてくる。
「怒りにかなしみ、だいぶ演技も上手くなった。こんどぼくの代わりに出てみるか?」
ほんとほんと!? そうかがやかせる好奇の眼。
「しかし、さっきぼくは『言ってない』んだ。それに対してそうして怒ったりすると外側ではヘンなことになったりする」
「でも、ちゃんと練られた言語音心像だった。聴こえるのと変わりません」
「でも『言わなかった』んだ。たとえ心が言葉を為しても、それを言ったのか言わなかったのかは人間の社会ではとても大きな違いだ」
キャッシュがうつむいてじっと考えこむ。内側の世界の風景がゆらぐ。それはぼくの遠くの方からかすみ、あたりの風景がもやに包まれたように単調になる。雨しぶきも曇天もにじんで白く飛んでしまう。最近彼女が真剣になって考えるとき、ぼくの意識の土台のリソースにまでちらちら触れることがある。やがて霧がさっと晴れた。
「もしかしてわたしーーときどきあなたにとても場違いな発言をお願いしていたのだわ」
ごめんなさい。ふたたび平明に澄んだ雨空のもと、そうしおらしく謝るキャッシュ。
「大丈夫、あんまりにトンチンカンなやつはさすがにぼくの社会性がフィルタリングする。もっと外の世界にことばの届くよういろいろと試してみれば良い」
「あなたはどうしてそう色々と教えてくれるの? わたしの理解のやり方じゃあまどろっこしいから?」すこし訝しげなその視線。
「ぼくは君のことをどう思っているか、想像ではなく見て貰ったらいい」
「いいの?」
「拒んだりしない」
キャッシュは見おろす。このぼくの意識という小島の浮かぶその湖面を、その奥にあるかも知れない何かまで。ぷはっと水面からかおを上げるように、止めていた息を吐いて「あなたはわたしに期待している」うすく染めたほおでそうつぶやいた。
「おまえのことが好きなんだよ。何も隠しごとなんてできないから、気兼ねがなくて居ごこちが良いんだ」
『あなたはわたしのことが好き』キャッシュはそう口になんどか転がしてーー「分かってても直に言われると何倍か嬉しい!」わかったよ言葉ってスゴい。「うんわたしも好きだよッ」そうしがみついてくるキャッシュをぼくは押し返すように支えながら。
ーーぼくの大事なキャッシュ。せかいの内側も外側もただ理解して、把握してーーいずれぼくが運命に切り込むときの刃になってくれ。
* *
縁側の奥の畳間のふすまを開けて廊下をあゆむと、そこはもう村井家だ。無人のリビングのテーブルには村井翁の日記が置かれっぱなしになっている。茶菓子と冷めたお茶も片付けられないままに置かれている。
「またずいぶん近いんだな」ぼくはソファーに座り日記を手に取る。
「まだほんのすこし前のコトだからです。象徴界の位相の差異はものがたりでは平面的なキョリに展開されるのだわ」言ってとなりに座り。「ねえ、またそれ読むの。もう三回目だよ?」そうのぞき込んでくる。
「そうかもう三度目か、するとあんまり猶予もないな」ぼくは日記を閉じて立ち上がる。リビングから廊下に出てひだりを見る。菓子をあわてて包んだキャッシュがあとから追いつくのを待って進みはじめる。あちこちぎしぎしと上下にまどう板張りの廊下が忠実な透視法のえがくように闇向こうまで延びている。
「実際よりもちょっと薄暗いねー」
ぼくの原風景に影響されているのかも知れない。
「ねえ、あの縁側はきっとあなたのお家だよね。あなたはどんな子供だったの? あんな風に夏の縁側でお絵かきしたりしたの?」
「べつに、普通の子供だったよ」そう素っ気のない応えにキャッシュがうつむく。「そういう評価じゃなくて、もっと意味論てきなヤツが訊きたかったのに」
「意味論?」おまえは時どき難しいことを言うね。
「あなたのこれまでが今のあなたの根拠となっているという感覚。それを肯定するためのエピソードの集合。つまりあなたがじぶんを理解して肯定するための要です」そう真摯なまなざしで見あげてくる。「わたしはあなたをもっと知りたい」
「エピソードね。それが大事か。たとえ妻子を無くした過去とやらにまつわる記憶であったとしても?」俺はそれで何をどのようにして肯定したら良いのだろう。
そうなの、しかしそれが想い出である以上、やはりそれはその様なおまじないなのです。『起こってしまったコトは既に正しい』これがあなたに特有のものであるか否かは不明ですが、自己認識の基底にてそんな捨て鉢にも似た原則の存在を感じます。大股のあゆみを追いかけるように左手をぎゅっとつかまれる。
「しかしそのあたりのことも、もう言語化できるようになってきたんだねー」キャッシュがそうほほえんでちいさな身体でくるむように左腕にしがみつく。「あなたはどんどんと変わっていく」
お気遣いありがとう。カウンセラーさん、しかし、もう治療の時間は終わりだ。
無限に続くかと思われた昏い廊下のどん着きがようやく見えてくる。
「だいぶ、縮尺が狂っているな」
「この先は内側のせかいにしか存在しないから。そして内側には空間的な尺度など存在しないから」キャッシュが行き止まりの壁にふれる。そして逆手に伸べたひだり中指をさっとすべらせて薙いだ。「ここが左の突き当たり」そう腕で指し示すさきに通路が、あの重厚な扉が顕れる。村井翁の書斎。
「しかしこれは問題だわ」キャッシュがそうすこし俯いて。
両開きの扉の向こうには螺旋階段。ながくゆるやかな下降が始まる。
「あなたはこの入り口が見えなかった。つまり見たくなかった」
どんどんと、薄暗くなる階段。さきをゆくキャッシュの足音がしだいに遠ざかっていく気がして必死に追いかける。
「じかの面識がない他者。かくり世の住人にして父権の権化。表層はともかく、その中身はそうとう深いところから伸び上がってきているハズ」
立ち止まっていたその背中にぶつかってぼくは立ち止まる。
「なあに、怖いの?」ふふふ、とキャッシュがわらって。右手を握ってくる。「お父さんは苦手だった?」
みたいだな、あまり気が進まない。そうかるく握り返す。とたんにまばゆくあたりが光った。キャッシュがライターで灯したちいさな火にそのながめのまつ毛がきらきらと映えていた。もはや子どもでは無いそのすがた。ピンで留めた髪の分けめから化粧気のない薄い眉ねがのぞいている。「じゃあもう止めとこうか?」揺れる炎をうつした瞳がそうゆらめいた。いつしか階段は終わっており、目の前にまた重厚な両開きの扉。ぼくは迷うことなくそれに歩みよる。
* *
村井先生、好物とお聴きしてこんなものをお持ちしました。扉の前でそう豆大福の包みを掲げる。これを以て渡らせては貰えまいか。
『隣の虫けらも揃えてか』扉の隙間から、ごうっと地底から吹くような生ぬるい烈風が頬をなめた。
つないだ右手を握りしめることで、かき消されそうなその感触をつなぎ止めた。やがて風が凪ぐ。同意は得られた、とぼくは思い左半身ごと扉に押しつけて開いた。書斎の両脇の壁は書架となっており、天上まで連なる棚の高さは昏がりに紛れて見えない。入り口の向かいは出窓になっており、そこには熊、鹿、猛禽、あらゆる動物の死骸が飾られていた。それは剥製というにはあまりにも湿っており、そのぬめった眼球がちらちらとこちらを気にしているように見えた。気づけば書架の背表紙のあちこちにも眼が浮かんだ。それらもまた茫洋と視線を漂わせながらときどきチラチラとこちらを気にしているようだった。部屋の中央にはぬらぬらと照りかがやく執務机が置かれており、村井翁はそこに居た。
写真で見たままの顔、しかし肉ではなくもっと堅くささくれていた。それは重厚な机に乗せられた古めかしい木彫りの胸像の様であった。そして一度思えばもうその様にしか見ることができなかった。奥まった目もと、大振りな口、刻まれた皺にいたるまで荒々しく彫り込まれている。ゆれる光源のためかその陰影が蠢動し続けるので、その表情は刻一刻と変化し続けるように感じられた。
ご神体か。ーー木製の王様。
『妾と物見遊山に訪れるとは、この我を余程軽んじたものだ』
木製の王が木が屑を散らせた右指を伸べると、キャッシュは蒼白な表情で胸もとを押さえて跪いた。
『奴隷もしくは異界の姫よ。先ず傅(かしず)く旨あるや否やを問うてみよう』
「なんて強権的な。まさか、此ほども強力な免疫反応がここで来るなんて」眼が鼻がヒルコの様に溶け墜ちるなかでキャッシュが身体を両手で支えるようにして、やがてその全身が立てざまに崩れ落ちていく。
「ぼくはあなたの息子ではない。王よ。あなたは余所の民草についてまでその様に祟りをふるうのか?」
「否、我の祟るところは左様に在らず。汝の識る所は現に在らず。此処は我の部屋、汝の部屋。其れを睥睨するが我らが父。我は父。その定めに於いてただ汝の性根に問うているのみ。傅く旨あるや否や?」
のし掛かるように徐々に大きくなる木彫りの王。
ぼくが王ににぎり掲げた豆大福がぶるぶると震え、やがてパカッとひとみが開いた。それは草食獣のように睫(まつげ)のふかいまなざしで翁を見つめた。
落雷のような轟音が鳴り、天上より宙吊りの照明が落ちた。それは燭台をガラスの装飾が照り散らす旧く重々しいシャンデリアだった。ロウソクの灯りがかき消えて部屋がしばし闇に堕ちる。すこし間があいて部屋の中心からあわい光が沸いた。重厚な机の上に散らばった火種がその板面と木像の王をちろちろと燃やし始めていた。その瓦礫のうえにまたがる様にして、漸ようとその影が身を起こす。白い下あごを焔に照らせながらキャッシュがゆらりと立ち上がった。
「こちらの礼も顧みることなく、容赦のすき間も無いような詰問とはマナーが無い。如何にわたしの主人の縁戚とは云えその美学を疑いましたが」そのブーツの先が燃え上がる村井翁の頭を蹴るとそれは首から捥げて床に転がった。「しかしまだ、お口の軽やかさがその罪を免じることもあるのかも知れない」そう追いかけるようにキャッシュも卓から飛び降りて、翁のあごを踏みつぶす。消し炭のような残滓をつま先で絨毯になじり付けた。
「止めろ」ぼくは彼女にそう命じた。
「コレはわたしのみならずあなたにまで牙を向けた。狂ったけだものだよ。こんなものがあなたの未来に必要なの?」
「たしかに、まだぼくにそれは飼い慣らせないが、いずれそれを必要とするのかも知れない」
やっぱりだ。あなたはやさしい。わたしはそれが心配でたまらないよ。うつむくキャッシュの目が二度、三度と瞬くたびにあたりが明るく平明になっていく。四度目に焔は消え失せ、焦点がさだまった。
残ったあたまの上半分を毛足のながい敷物にうずめた翁からけむりと言葉が立ちのぼる。
「息子よ、息子よ。我は消えたくない、消えたくなく、続いていきたい。生きたい。汝を差し置いても。息子よおまえの死を糧にして妻を娶ろう。そして、まだなお生きたい」そう、燻ぶるけむりが怨嗟のように叫ぶ。
「あなたも元は、こうだったのかな」青ざめたかおでキャッシュが言った。「でも、わたしもそうか。わたしが絶えなければ子孫もまた絶えることは無いんだからさ。ーー低俗でイヤになるけど」
「元は、じゃあ無い。きっと今でもそうなんだよ」少なくともぼくは、こうして生き続けるかぎり。ひざまづいて王の口をふさぐ。その妄執に満ちた目を指で伏せた。するとぬめりとした感触。もうそれは木製などでは無かった。鼻からうえしか無いどろりとした父の表情が見上げていた。収まりきらない脳髄は床に広がり、それは赤い海に触手を漂わせるうす桃色のクラゲのようだった。見ればまっかな指さき。ゆめの中で、誰にも聴こえない悲鳴を上げた、上げた、上げた。やがてのどがしゃがれたのか、声が青白いノイズのようにせかい、を満たした。
やがて、ぼくは駅のホームに立っている。まただ。とんでも無くたかい上空の駅舎。かなたまで、すき透る水晶のような樹木と、透明な街並み。そうベンチで既視感に気がつくと、朱色のタオルで結ばれた左手。そのさきに彼女がいる。右手につながれたそれを胸もとにかき抱いて、にっこりと微笑んだ。「もうひとつ、ふたつ先まで行きましょうか。そうしたらもっときっちり逃げきれるかも知れないよね?」しかし、もう何処にも逃げ場などない気がした。掲示板の時刻表は枠線のみのまっさらで、黄ばんだ紙面の端に赤い血の飛沫のようなものが散っている。目をこらすとそれは小さな赤い文字だった。
『新しい世代が始まる』
もうこのレムの時代が終わるのだわ。またつぎの世界まで、おやすみなさい。
そう、キャッシュのことばが聴こえたころには、すべてが消え去っている。
* *
数日後、本谷は再び村井家を訪ねた。あの日と同じようにリビングのソファに腰を下ろす。そして、
「失礼ながら、今回のご依頼について辞退をさせて頂ければと思っております」開口一番そう告げた。
「なにか、私どもに何か間違いがありましたか? 柳目様はなにが不満なのでしょう」驚愕の表情で村井がそうしぼり出す。
「別になんの落ち度もありません、何も。ただ皆様には柳目の手でもって解決すべき謎も困難も存在しないのです」本谷はそう頷いて、「先生が悩まれている遺言の事なら、あれは執行されません。なにもしなくとも村井翁の遺産は遠からずあなたのものとなる。それは保証します」本谷は立ち上がる。まだ茶にすら手をつけていなかった。「それでは、失礼いたします」そう背をむける。
「待って下さい、藪から棒にそう言われましてもーーとても理解できません。せめて説明をお願いします」
「説明? なにをでしょう」
「あの、理由です。そのように助力を断られる理由を教えて頂けなければ納得できません」
「それは、嘘です」本谷が振り返る。「先生。あなたはどのような理由を付けようとも納得などしないでしょう。だが訊きたいことがあれば訊いて下さい。しかしーーぼくなどは先生の人生にて端役に過ぎない。なのにぼくが知っているのに先生が知らない、そんなことが在るなどと本心からお思いか?」
「ならあの遺言はどうなったのです? あの弁護士と話をつけてくれたのですか?」再び腰を据えた本谷に少しく安堵しながら村井が問う。
「物理の世界では因果はぜったいです。人間は原因があって結果があることが当たりな世界に三分の二ほどのじかんも囲まれているためそれが全てとよく誤解しますが、じっさいにはそうで無いことも多い」キャッシュが言った。それは手のひらに乗せた瀟洒な美術品をながめる様にして。
「まず不安が、畏れがあったのです。その不安に見合う外的な状況として遺産を簒奪する遺言状と弁護士が必要とされたのですが。しかし、あなたの不安はあなただけのもの。だから電話の通話記録にも公証役場にもその痕跡は見当たりません。つまりぼくにとっては『そんなものは無かった』のです」
「よく分かりません。私が狂っているとおっしゃっているのですか?」村井はひたいの汗を拭う。
「ぼくは」ーー本谷は紅茶をひと啜り。「その様な判断を下せるほどじぶんの理性の健全を信じておりません。しかし不思議ですね先生。遺言などは存在しない、とぼくは言った。それはもともとあなたが望んだ事だったのに、しかし不安は消えませんね? ほんとうの恐怖に向き合わないためにあなたのこころはあなたを護ったのに、こうしてその護りを破るのもまたご自分なのです」だから、ほんとうにこんな事には意味が無いんだ。本谷はそううつむいて。
「奥さん、先日村井翁の日記の開帳を拒んだのは、先生がその場に居られたからですよね? 先生に請われたとおりにぼくが応えるというのはそう云うことだ。つまり留めるならいまのうちですよ」
汐奈はなにも聴こえていないかのようにうごかない。
「ダメそんなの許さない」ずっと外からこちらを伺っていたのだろう律奈がリビングに顕れる。「ねえあたしも仲間に入れてよ、隠し事はもう十分でしょう? お母さん」
「ではお話しましょう。棄権一票、賛成二票。ーーぼくの相棒は後者に入れたようだ。すくなくとも『三分の二』の要件は満たせました」そうして、本谷は村井に向き直る。
* *
「律奈さんも高雄くんもあなたの子供ではありません。村井翁の子供です」そしてその方はーー汐奈を腕で示しーー「村井翁の未亡人です」
村井の表情には変化が無い。「どうです、着いて来れていますか? 少し前までのあなたの『現実』について話しているのですよ」本谷はその顔をじっと見つめて。「べつに此処で逃げたって良い。ぼくはあなたが真実が知りたいなどと云うものだから、ぼくが真実と思うことについて話しております。しかしそれがあなたにとって特別な価値を持つとか、持つべきなどとは思っておりません」
「いいよ、続けて」律奈がぎらぎらとした目でそう急かした。「こんなのは間違ってる。あたしたちは元どおりにもどらなくてはいけないの」言って村井を見つめる。「ねえ、あたし考えてた。これは兄さんだけの問題じゃない。あたしだって当事者なの。ちゃんとモノを言う権利はあると思う。それでお母さんはどう考えてるの?」
汐奈は、何も言わない。ただ白いかおをして中空に視線を定めたまま動かない。昔から母さんはそうだね。そう嘆息して律奈がイスから立つ「前のお父さんが浮気した時だってそうだった。まわりに流されて波風たてないコトを優しさだなんて云う人も居るかも知れないけど、もうあたしこれからは母さんのことをそんな風には見ないよ、見れないよ。息子の奥さんのフリして、家族のために犠牲になっているんだって思おうとした。でも苦しんでるのは母さんだけじゃあ無いの。どんなに何を見ないようにしてももう、だれも傷つかない結末なんてありえない」
律奈がソファーの前に立ち止まる。そうしてからっぽの表情の村井を見下ろすようにして。「兄さん、みんなしてあなたを気づかった、それでいてあなたが苦しんでいるのを見るたび、わたしはーー」そうひざまづくように兄と目線を合わせた。「母さんに似て髪がキレイだ肌が白いっておんなじ口とかおであの頃みたく褒めてくれても夜な夜な母さんとヤッてるんだ」
私は、そんなーー。青ざめた母の身体を押しのける様に律奈が村井のとなりに座る。
「良いんだよ、母さんは『被害者』だものね。でもちょっと黙っててね」そう嫣然と、村井のくびに腕をまわして口づけした。
そうしてじっとま近にその瞳をのぞき込み、
目覚めのキスってか? ちょっとそう云うのも期待したんだけどなーーそう俯いた鼻さきから村井のひざにしずくが零れる。「わかったよあたしを愛してくれた兄さんはもういないのね」涙をぬぐう所作すらなく立ち上がる。「さようなら」かがんでもう一度だけ口づけた。
「ねえ見たでしょう探偵さん。あたしも狂ってんの。もともと狂ってたの。今ではもう自分がなにをどうしたら良いかさえわからない」でも、もう此処には居られない。いたく、ないーー。「ねえもうこんな家いいよほうっておきなよ。一緒に出かけよう。わたし今すごく誰かに抱きしめてもらいたくてたまんないの」
「その弟を置いて?」
いつの間にかリビングの入り口に高雄が立っている。青ざめた顔で立ち尽くす弟を見て、
「降りてくるな、って言ったよね?」律奈がなみだをあわてて拭う。「あんたはまだ、こっちに来なくたって良いのに」そう弟に近づきながら、ぐじぐじと泣いて、その小柄なからだにすがりつくように抱きついた。そしてすこし身体をはなし、きゅっと口をむすんだそのあどけない顔を見下ろす。
「えらいね。泣かないんだものね。もう姉貴ヅラなんてできなさそう。やっぱこども扱いはハラが立つよね。あたしも、お母さんもいっしょだ。まったく女ってのはしようがない」そう顔をくしゃくしゃにする。「ねえお姉ちゃん、お父さんも兄さんもお母さんも嫌いなの、だからあたしもあたしの事がだい嫌い。でもだからタカにはそうなって欲しくないなんて、あんまりに傲慢だよね」死にたい。そうつぶやいてそのまま床にくずれ落ちた。
「しかしまだ明日は訪れる。ゆめと現実はつづく」キャッシュがそう、黙礼のようにいのりを捧げ、「さて、まだ行きますか?」目の前の村井にそう問いかける無表情な本谷。
「これ以上なにを、だ」そう村井のかすれた声。
「ぼくが真実と思うこと、についてです。それともここで止めておくか」
「云っちゃってよ、やっちゃって」そう昏くかがやく瞳がうわめ遣いにはやし立てる。
「ここまで来てちゅうと半端なんて、そんなのあたしきっと一生引きずる気がするから」リビングのドアの枠木にからだを巻き込むようにして、律奈がそう嗤う。
「じゃあ死にたいなんてウソを云うんじゃあないよ」そう、律奈にキャッシュが吐き捨てる。あなた達ときたらみんな知りたがりの嘘吐きなんだ。「汐奈さんは翁の後妻と言われているが、じっさいには村井翁にとってはあなたが初婚の相手だった」本谷が言った。
じゃあ、俺は誰なんだ?
「あなたの生まれは遠い国。そこで産育された村井翁の移植用クローンでした」
「そんな、そんなこと許されるはずがない」律奈が息を呑む。そして「母さん、驚かないんだね、知っていたんだね」そうさびしそうに呟いた。
「たしかに、パーツ取りのためのヒトのクローン作成は国際条約にて禁止されていますが、もちろんそれに加盟していない国だってある。そして倫理的にどうであれ技術としてはもう確立されているのでね。そこでは医療向け目的のクローン育成のマーケットが暗黙のうちに存在しています。酔狂なことに村井翁はそうして産まれたあなたを養子として引き取ったのです」まったく傑物の考える事というものは余人には図りかねるところがありますね。本谷がそう肩をすくめる。「あなたがたは、想像できることなら何だってやってしまう未来のけだもの。どんなルールもそれを押しとどめるコトなどできはしない」そうキャッシュがにっこり微笑む。
俺は父なのか。
「いえ、もちろん違います。遺伝子を同じくするだけの別の存在です。ただし先生が混乱されたのにも無理は無いですね。同情はいたします」言って目をふせる。
「そもそも、公証遺言状というものは故人の死後、公証役場から相続人に開示されるものです。本来、先生の言うような謎の弁護士から内容を知らされるものでは無いのです。なのであのお話はーーおそらくそれが大多数にとっての現実では無いということは明らかでした」
嘘だ。
「奥さん、ご主人の葬式の喪主はあなたが務められています。その時期ご長男は?」
「消えてしまったのですよ。この子は数日間もずっと。私もみんなも大変なときにこの人は逃げていた。そうして。ようやく帰ってきたと思ったらーー」最初はちょっとしたものだったんです。ある日、この子が主人の服を着て立っていて、私びっくりして訊いたんです。そうしたら「捨ててしまうのも勿体ないから、着れるか試していたんだ」って。土地の登記の書き換えのときにこの子が記名欄に主人の名前を書いたので気づきました。でも訊いたらただの書き間違えだって言うんです。でも、自分の名前を書き違えるなんてーー。私、自分の名前とお父さんの名前を言ってみてって頼みました。そうしたら『バカにするな』って、そう非道く怒るものですから。主人無き今息子はいろいろな意味でーーこの家の大黒柱です。主人が死んで気が動転してるんだ。時が経てば良くなるとそう自分に言い聞かせて。
「いったい全体お母さんは何なの? それがやさしいつもりで居るの?」もう泣き飽きた律奈がそう嘆息する。
テレビの向こうを見るような面もちで村井がそれを眺めている。
「そもそも子孫になにも残したくない、というのも故人のわがままだ。それがまかり通るのであれば子は常に生前の親を神のように奉るか、早々に家を離れ自立するしか在りません。それはあんまりだ。という事で遺書にどう書かれていようが遺留分という名の取り分が遺族には保証されています。そして遺言執行人は故人から託されたその職務を放棄する権利がある。死人はもはや口をきかないが、まだ遺族は生きていますからね。誰だって不毛な争いに巻き込まれることは望まない。なのでそんな無茶な遺言などはそうそう達成されないのですよ。つまり、どちらにせよ相続はそんなに大した問題などではない。が、それはあなたの苦悩に見合うだけの大した問題である必要があった」
嘘だ。
「村井翁が自害されたとき、先生はおそらくは『本物』の遺書なりを見られたのだと考えています。きっとそこにはあなたの出生の理由と、遺産をあなたに引き継がないという意向が記されていた。しかし前者はキレイさっぱりあなたの人生から隔離されて、忘れ去られた。そして後者のみが、弁護士からの遺言通達という偽りの記憶に封入された。それであなたの不安の原因は後者の問題にすべて起因することとなる。そうして根幹の問題から先生はじぶんをお護りになった」
* *
嘘だ、あの遺言は確かにあったんだだから皆して俺をだまそうとなんてしたって
* *
父は机と窓際の壁のあいだに隠れるように倒れていた。俺は不思議なほど冷静な気分でそれを見下ろしている。来るべきときが訪れたのだと思った。定められた通りの事が起こったのだ。
ーー否。死んだ父の前に立ち尽くす俺の背後から誰かが言った。それは視界のそとがわに惑う黒い影のような人かげだった。たまさかな偶然は消え失せて。今ここが宿命の支配する黙示のせかいの起点。それはおまえの生まれまで遡り、そして此より先もずっと続く。ものがたりは一度キレイに消え失せて、此処から新しく始まったーー
机に置かれていた日記に目を落とす。最後のページをあけたまま開かれている、その文面は遺書だった。父はじぶんの決めたとおりに死に、俺は父の定めるように生きていくのだ。
日記をいったん閉じ、その初めからじっくりと読む、その背中を俺は後ろから眺めている。それは神話のようであった。俺の始まりから行く末までが描かれていた。日記の内容には俺に関する記載が散りばめられていた。主に俺の未来に関しての期待や予言じみた欲望に満ちていた。
いくどめになるか再び最後のページにたどり着いた頃にはもう夜は白み、すっかり別の人間になったような自分を他人ごとの様に中空から見下ろしている。
硫黄と、血の焦げる錆のにおいが煙る。
『おまえは我だ。我は新たなおまえとして生きて、見て、聴いて、感じるだろう。つまりこれは新たな船出である。起こらなかった事が起きて、捨てられなかったものを喪うのだ。なので家も権威もおまえには相続しない。財は他の家人が生きながらえるに十分だが、我とおまえを満足させるものではない。だからおまえはどうか家を出て新たな暮らしを手に入れなさい。判るのだ。おまえは我。我ならば自らの父と同じ道などと云う退屈は決して選ばぬだろうから。写し身よ、おまえは我の希望としてこの世に生を受けた新しい世代。閉ざされる前の可能性に満ちた原野。新たな我よ。もう何にも縛られなくとも良いように今生の我も含め全て忘れよ。決心がついたなら。我が以前世話を焼いた回廊を訪ねよ。それでお前は名前でさえも捨て去ることが出来るだろう』
そして遺言を読み終えた男がドアを開けて出て行く。明けた空のもとに。俺はその背中を見送った。そして数日後、身体が戻ってくるまでずっと、俺は何度も何度もその俺の日記を読み続けていたんだ。
* *
晩年の翁の日記は回想と自讃と悔恨をその基底としておりました。
一代にして財と名声を手にした大物政治家。この人物はどうやら現実世界での成功に飽いていた。そこでもしも、と考え続けていたのですね。こうはならなかったかも知れない別の人生の夢想が日記にいっぱい書き込まれておりましたよ。翁は幼少のころに画家になりたかったそうです。スポーツ選手にもなりたかったらしい。はたまたふつうの勤め人というものにも興味が在ったらしい、まったく欲張りですね。
「まさか、あの歳してそんな、夢みたいなことを」妻の汐奈が呟く。本谷はすっと細めたひとみでそれをながめる。
「しかしわたしの見るところあなた方に於ける死の受容は老成により悟られるのではない。ただ手段が無いからあきらめて、死が怖くないようにそのあきらめに見栄えのよい体裁をまとわせているように見えます。そうしてみると輪廻転生なんてものは未練がましくも美しい発明でした。ただ村井翁には十分な権力と資金があったので、それをあきらめることが出来なかった。彼は魂魄は遺伝情報に宿ると考え、そこに救いを見いだしたらしい」
「まったく迷妄もいいとこだわ」律奈が哄笑する。「死んだらそこでお終いよ。一卵性双生児の片割れでももう片方をじぶんと取りちがえたりはしないもの」
「そうかなリツナちゃん?」おいおいきゅうにちゃん付けにするなよ。本谷はそう思うが。サイクルの上がったキャッシュのことばはフィルタリングがきれぎれになり始めている。
「あなたたちは死の恐怖から逃れるためにいろいろと策案しますね。業を輪廻させたり、神の御もとで永遠の命と処女の伴侶を得たりだとか、神々の尖兵として召しかかえられたりとか。翁の想いはそれらの大仰なものがたりと比較してそんなに見劣りするものでしょうか? それに無性で分裂を繰り返す単細胞生物やウイルスのいのちの在り方をあなたがたは不死と呼んだりします。それに照らせばそんなに想像のつかない事でもないのでは無いでしょうか?」キャッシュがそう目をふせる。村井翁は、まだ若い写し身に、じぶんとはまるで違う可能性を歩んで欲しいと願ったのです。短い生涯でなせなかった事、幼いころ思い描いたがそうは成らなかった可能性を歩んで欲しかった。「つまり翁はご自分の人生を清算したかったのですね。もういちど新しい人生を歩みたいと願った。だから過分な富もじぶんの生き方も引き渡すわけにはいかなかった、そこであの遺言です。『あたらしい自分』は『まるでちがう自分』で無ければ意味がないから。でなければ転生でなくそれはあなた方の言うところの『永劫回帰』になってしまうから」
放心したように座った村井のほおにキャッシュが手をのべて、その目と目をじっと合わせる。
「すこし感動しているのですよ。あなたはきちんと運命にあらがった。父の妻を娶り、弟妹を我が子と慈しむことでーー。翁が捨て去ろうとしたその過去に拘泥し続けた。死後の世界があり死者がそこから我々を見下ろすか見上げるかするものならば、きっと翁は歯ぎしりして悔しがっていることでしょうね」
「ちょっと待って」律奈が蒼白のひょうじょうで。「辻褄は合うようだけど、なんだかあわせた感じになってるけどさ。それが全部ーー探偵さんの想像に過ぎないということは無いの? だいいち、家に来るのはまだ二度目じゃあない。どうしてそこまで知っているの?」
「娘さんはあたまが良い。感心しました。しかし何度でも言うがぼくは只の調査員だ」本谷はそう律奈に向き返る。「そしてたしかに、見知らぬ男の語る真実など信じるものでは無い。しかし誰がどう言い繕おうが罵倒しようが、柳目はあまねき情報を取り扱っております。当人も知らない事柄から、知っていても決してくちには出来ない秘密まで。ほんらいであればこのような情報の開示には対価が伴うものですが今回はさいわい、柳目にも負い目がります。なのでもう、あなた達には関わりません。クローンの生育マーケットにコネクトするのも、医療用クローンに独立した国籍IDを付与するのも、それを自らの子として縁組むのも、さまざまな法的な規制をくぐり抜ける必要がある。若くから運動家として名を馳せた代議員の翁が直接に手をかけるには後ろ暗すぎる。灰色の世界に通じたコンサルが代行したと考えるのが普通です。つまりはまあ、村井翁より先代の柳目が請け負った仕事であることがわかったのですよ。そうして先代の柳目と村井は懇意となった。現当主が親の業にしばられているところもお揃いですね。」
「もしかして」汐奈が宿命的な沈黙をやぶり口をひらく。「死にたくない生き続けたい、という主人の所望に柳目様がその処方箋からあつらえたのではありませんか?」
「さあ」本谷は肩をすくめる。「発注元も受注先もすでに故人です。真実はもう分かりません」それにーー言い逃れに聴こえるかも知れませんが、過去を憎んでも目の前の今は変わりはしませんよ。
「どうすれば良いでしょう?」
「適切な治療を受けてもらうべきかも知れない」すがる様な汐奈の視線に本谷が応える。「しかし誰が決めることだろう? 少なくともそれはぼくではありません」
「高雄もまえのお兄ちゃんが良いよね? そうしたらもう父さんは居なくてもーーこれほどさみしくはないよね」律奈がそう、弟に独りごとのように、じぶんに言い聞かせるように。
「でももう飽きていたんだおまえたちを本気で愛してなんて居なかったんだあの人。俺は。じぶん以外は、誰も」村井がそうわらい、高雄と律奈がそれを呆然と見つめている。
「最初はわたしも知らなかった」ふたりの子供のその目を避けるような汐奈のつぶやき。
「あの日記を読んで初めて知った。死んだ前妻の子供なのだと主人からは聞かされていました」
「しかしなにがそんなに大きな問題ですか?」キャッシュが順ぐりに三人の子供をゆびさす。「前夫と母の娘、父と母の息子、父と父の息子」べつに遺伝情報にて連結した群としてなんの不都合もない。
「だいいち、長年くらした家族でもあるんだーーそれなら村井翁の欲望のゆめに寄り添っても、それであなた方に不都合が無いのならそれで良し、という見方も在るかも知れない」ねえどうしたい? 君らはこの若い父さんとどう過ごすことを望む? しかしこれは個人的な意見だが、わたしはあなた達に意見を訊きたいな。訊きたいのです。その上で知りたい。どうしたい?
* *
ひどく寒い夏ぞらのもとでスイカを食べている。干からびたアサガオのツタが塀に張り付くがらんどうの庭を縁側からながめている。
「おしごとは失敗?」なん粒めかのタネをぷっと地面に飛ばしながらキャッシュが言う。
「どうだろうな? しかし誰も一文の特もしなかったコトは確かだ」食べかけのスイカを塀に投げつける。ぐしゃりと潰れて赤いみずたまりができた。
「怒っているの不機嫌なの?」追いつめられて、いるの? そういってまじまじと見つめてくる瞳。
「わからない。不毛と云うものはありふれ過ぎている。するとそれにどんな感情が適切なものか」
ぼくは和室に上がり、ふすまの前に立つ。
「あの家庭のゆき先は最早ぼくの埒外となった。余所の家庭の問題にこれ以上関わるのも無粋と言うものだ」言って開けるとふすまの向こうにはもはや村井家のリビングではなく仏間があり、かざり棚に遺影が祀られている。
あなたもまた他人のものがたりにかかわずらうことに依って逃げるのだわ。背中から手をまわしたキャッシュがぎゅっとからだを押しつけてくる。なま暖かい吐息がくびにこもる。
「あなたはあなたにとてもやさしい」
「そうだな」俺はわらう。畳に座りこむ。大事なのはただ周りの人とじぶん。ーーそして最終的には自分のほうか。たぶん俺は、じぶんに悲しんで欲しくない。
「後悔してるの? わたしたちには関係しないたにんの都合なのに、やっぱりやさしいよね。」
「ちがう、優しくなんてない。それに。関係なくもない。現にこうして、その人生を狂わせているだろうに」
「この蒙昧にやさしい世界でもいつも真面目なかおをしてなきゃいけないんだからモトタニは大変だねえ」
ちゃかすな。まとわりつくキャッシュのアタマをはたいて押しのけるが。首すじの膂力だけでバネのようにうでを押しのけて、首もとと腕のあいだに自然とそのからだをはさみ込む。たまにおまえの動作は現実ばなれして気持ち悪いよ。ばけものが。
でも、わたしが消えると困るのでしょう? それをストレートには表現できないのだわ。にひ、と笑ってすり寄せたふたつのからだを畳にひろげるキャッシュ。
「止めろ」押し退けようとするが、そのちからはもう、ぼくよりもずっと強い。
「まったくなんてウソ吐き」彼女はそうため息して。
「すべての嘘は口から始まる。そうしてあなたの口を、わたしはこうして自在に閉ざすことができるのでした」
そうしてのし掛かる柔やわとした身体の重み。ぼくは目を伏せてなりゆきに従った。
執筆の狙い
七十枚ほど。
昔、小説を書き始めたころにけっきょく書ききれなかった物語に再び手をつけようと書いたものになります。最終てきに三百五十枚ほどを想定しております。
忌憚のないご意見を賜れれば幸いです。
一応、この企画が創作トリガーになったのでタイトルにタグ付けしましたが、レギュレーションがあまりよく分かっておらず、規格の範囲外であったなら申し訳ありません。