「闇の声」 (スリラー)
一
ステンレスのボトルからウイスキーを飲んだ。
食道が焼けるように熱くなり、胃の中に液体が注ぎ込まれるのがわかる。八オンスのウイスキーボトルはすでに空に近い状態だった。省吾は最後の一滴を飲み干すと、手の平のボトルを弄んだ。ボトルは左党派のために作られたステンレスの物で、ジーパンの後ろのポケットに入るように、平べったくデザインされている。
冬の公園といえども、風がないと陽が落ちるまでは結構あたたかい。楡の樹木はすでに葉を落としており、大きく広げた枝は蜘蛛の巣のようで、細い枝の一本一本からはねばねばした液体がふき出て、獲物が引っ掛るのを待っているように思える。省吾はベンチに座り、顔を仰向けにしてその蜘蛛の巣を見ていたが、やがて視線を落とすと、公園の広場で妻の明日香と息子の洋平がフリスビーをしているのを見た。赤いプラスチックの円盤が二人のあいだを飛び交っている。円盤が手から離れるたびに、ダルメシアンのパインも走る。
よくこんな若い女と結婚できたものだと思う。明日香はまだ三十五歳で、省吾とは二十も離れている。洋平は十歳で、省吾が四十五歳のときの子供だ。普通なら明日香のような女とは一緒になれなかっただろう。なにしろ彼女が二十三歳の時に結婚した。ある意味、女性の一番美しいときだ。それに引き換え省吾は中年だった。すでに四十三歳だった。
やはり男は経済力だろう。省吾は中堅の出版社を経営している。一代で社員総数一四〇名、年間売り上げ一〇〇億円の会社にした。妻の明日香は大学を出て省吾の経営する出版社に入り彼の秘書になった。才色兼備の女だった。その彼女を名声と金の力で、くどき落としたのだ。いや、彼女の方から近寄ってきたのかもしれない。でもそんなことはどうでも良いことだった。いまが、幸せならば良いのだ。
省吾が明日香を見ると、なにやらおなかのあたりが白っぽく光っている。その白っぽいものは消えたり出現したりする。何だろうかと思った。そして気がついた。自分が持っているステンレスのボトルに太陽の光が反射して彼女のおなかのあたりに日だまりを作っていたのだ。省吾が手を動かしたり彼女が身体を動かすたびにその日だまりは彼女のおなかから消えたり出現したりしていた。省吾は面白くなって日だまりを彼女の顔に作った。子供の時洗濯物を干している母親の顔にも手鏡に太陽の光を反射させて遊んだことがある。母親に叱られたが、その目は笑っていた。
明日香はフリスビーを中断すると、まぶしそうに腕で顔を隠すようにしてあたりを見回し、原因が省吾にあることを突き止めるとこちらに歩いてきた。
「汗かいちゃった」そういいながら省吾の隣のベンチに腰をおろした。
省吾は明日香の顔を見たが、別に汗をかいているようには見えなかった。
「パパも洋平とフリスビーをしてきたら、いい運動になりますよ」
明日香は年の離れた省吾をパパと呼んでいた。洋平はパインを相手にフリスビーを投げている。
「おれはいいよ、アルコールがだいぶ回っている」
省吾がたばこをくわえると、明日香がハンドバッグからライターを出して火をつけた。そのあと、彼女もたばこをくわえて火をつけた。
「パパ、もうアルコールはやめてくださいよ。私なんだか心配だわ、パパの身体が壊れないかと思って」
「壊れたっていいじゃないか、おれが死んだら若い男と結婚しろよ。おれの財産は君と洋平のものになるのだから」
「なに、冗談を言っているのよ」
明日香は怒ったが、省吾には彼女の顔がセクシーに見える。明日香のそんな顔を見たいがために彼女を怒らせているのかもしれない。
「わたし本当に心配なのよ……」
そういえば明日は人間ドックの結果が出る日だと省吾は思った。
仰向けになり、再び蜘蛛の巣を見ながら紫煙をはく。木の枝が細かく錯綜している。蜘蛛の巣はどこか人生の迷路のようにも思われる。
ぼんやりと考え事をしていると、「あれ、洋平は?」という、明日香の声がした。省吾が我に返ると、パインがフリスビーをくわえて戻っていた。
「どうしたんだ?」
「洋平がいないのよ。あの子どこに行ったのかしら……」
「トイレにでも行ったんじゃないのか?」
省吾はゆっくりと公園を見回した。
一角に人が群れているところがあった。一瞬、なんだ? と思った。明日香も気がついたらしく、不安げに「あの人の集まり何かしら」と表情を曇らせた。よく見るとその人の群れの中に洋平がいた。何かを見ているらしかった。
「ほう……珍しい……、紙芝居をやるみたいだな。あの中に洋平もいるよ。ほらあそこ」
省吾が指をさすと、明日香も気がつき安心したようだった。
「おれ、ちょっと見てくるよ。黄金バットでもやっているかな」
「黄金バットって?」
省吾の背中に明日香の希薄な声が聞こえた。
「洋平と男と男のきずなを深めてくるよ」
明日香の問いには答えずに省吾は歩いた。
省吾が洋平のところに行くと、洋平は紙芝居を見るために水あめを買って練っていた。割り箸の先に付いている水あめをもう一本の割り箸でこねくる。すると透明な水あめが白く濁って甘くなるのだ。
「洋平――」
省吾が声をかけると、洋平は頼りなげな笑みを浮かべた。親子の意思疎通が少ないようだ。仕事で忙しいところに家に帰ってからもアルコールを飲んでいて、親子の親睦を深めていない。だから他人行儀になるのかもしれない。
突然太鼓が打ち鳴らされた。省吾はどきっとして振り向いた。紙芝居が始まったのだ。紙芝居を演じる男はひょろりとした中年の男のようだった。ようだったというのは、これぐらいだろうという年齢がわからないタイプだったからだ。つばが帽子全体にあるウオッシュドハットで、つばの影で顔の表情もわかりにくかった。灰色のブルゾンを着ており、ズボンは麦色のコール・テンだった。どことなくうさんくさそうな臭いがする。男は紙芝居のトップ画面にあった、「地底世界最後の日」を抜くと最後の方に持って行った。一番面白そうな作品はラストに演じるのである。省吾が子供の時に見た紙芝居もそうであった。
そして紙芝居を次々と演じて進めた。男は講談師のように抑揚をつけてしゃべった。やがて地底世界最後の日が始まった。
「ああ……なんと言うことでしょうか。地底獣が海底に穴をあけてしまったのでありました――」
紙芝居の画面に描かれている地底獣とは、どう猛な目つきをした水陸両用のカワウソのような巨大モグラであり、口をあんぐりと開けた巨大ミミズだった。その大きさは地底都市の高層ビル以上である。おそらく一体が五〇〇メートルはあろうかというような描き方だった。
男は高い声と低い声を魔術のように操りながら、地底都市に巨大なモグラやミミズが暴れ回り、流れ込んだ海水で地底都市が崩壊する様を演じる。
省吾が洋平の顔を見ると、真剣な表情で紙芝居を見ていた。
地底世界最後の日のラスト一枚をめくったあとに、紙芝居はまだあった。
『闇の声』
省吾はその表紙を見てなにやら不吉な物を感じた。顔の見えない男の姿が描かれていて、真昼の歩道を歩いているのだが、男の周りの空間がゆがんでしまっているのである。ビルも電信柱もぐにゃりと流れるようにゆがんでいる。いや、男の周りを歩いている人間も犬までも流れている。
紙芝居を演じる男は、囁くような声でしゃべり始めた。それは紙芝居を見ている者と秘密を共有しょうとするかのようだった。「闇の声」は見ている者の心の隙間に、夜の風のように入り込んできた。
「少年の名前は秀一といいました。秀一は弟の秀二と養護施設で暮らしていました。両親が交通事故で亡くなり、ほかにいくところがなかったのです。だから兄弟のきずなは深い物になりました――」
男はこの兄弟がいかに仲がよいかを切々と語った。特に秀一は年上だったので弟をかわいがった。弟が学校や養護施設でいじめられると仕返しをしに行った。そのときに相手に怪我を負わせて問題になることもしばしばあった。しかしそのたびに兄弟のきずなは深まった。だが、二人のきずなが深まれば深まるほど、兄弟はほかから孤立していった。だから自然と二人だけで遊ぶようになった。
「秀二、面白い遊びがあるよ」
「なんだいお兄ちゃん」
秀一は周りに人がいないかを確認して、秀二の耳もとで遊びの内容をいった。
「それは面白そう」
「弟の目が輝いたのでありました。秀一はその弟のうれしそうな顔を見たとき、自分もまた心臓がドキドキ高鳴るのでした――」
男は体をかがめると、お客の顔を一人一人じっと見るようにしながら、語り掛け、この兄弟が灯油の入ったジュースの瓶を持って裏山に入って行ったということを告げた。
「ほら、ここだよ」
秀一は、腐り幹だけになって崩れ落ちかけている樹木を指さした。大人が一抱えするほどで子供が動かせるような代物ではなかったが、秀一が近くにあった丸太を樹木の下に突っ込んでテコの要領で力を加えると、根なども腐ってちぎれていたので樹木はごろりと回転した。
「うわ――!」
弟の驚きの声があたりに響いた。
そこには鉛筆の長さほどもあるムカデが団子のように何百匹と群がっていたからである。よく見ると、ムカデに隠れてネズミの屍骸が見え隠れする。
「気持ち悪いな……」
「秀二もそう思うかい」
「うん、思うよ、こいつら腐ったネズミの死骸(しがい)を食べているよ」
「そうなんだ、だからこいつらを殺すんだ」
「えっ? 殺すの?」
「そうだよ、このネズミの死骸に群がっているムカデを焼き殺すんだよ、この灯油で」
「うわぁ――どうしてそんなことするの?」
「醜い物は殺す、醜い物は殺していいんだ!」
「そうだよね、こいつら、みにくいものね」
「醜いものは殺してもいいんだ」
秀一は声を出して自分に言い聞かせながら、ジュース瓶のふたを取ると中の灯油を群がるムカデの上にぶちまけた。灯油のにおいが鼻を衝く。ムカデはなにやら得体の知れない液体を浴びて、あわてふためいている。
「面白いね……」
弟が媚びを売るように秀一を見上げた。
「面白いだろ」
秀一はポケットからティッシュとライターを出した。ライターをぱちんと鳴らしてティッシュに火をつけた。ほのぐらい炎をあげてティッシュが燃え上がった。ムカデの上にティッシュを落とす――。灯油が引火した。まるで水面の上に小石を投げ入れた時の波紋のように、炎は燃え広がった。ムカデはかさこそ、と逃げているが、大半は炎に包まれており、のたうちながら肉の焼けるいやな異臭を放ち動かなくなっていった。だが、頭部が焼けていない何匹かのムカデは、いつまでたっても死なずに、神に祈りを捧げるがごとく上半身を天に向けて踊り狂った。
その夜、秀一の布団に秀二が潜り込んできた。秀二の冷たい足が秀一のすねに触れる。秀一が弟を抱いてやると、心臓の鼓動が伝わってきた。秀一は弟の頭をなでてやった。すると弟は安心したかのようにすやすや眠った。
それからというもの、二人は倉庫から灯油を盗んでは、小さな生き物を焼き殺していった。
ある日のことである。二人は防空壕跡を裏山で見つけた。笹に埋もれて入り口がわかりにくい。こんなところには人はやってこない。懐中電灯を点灯してどんどん中に入っていった。夏場だというのに坑内はひんやりとしていた。いくつかに部屋が分かれている様子だったが、ほとんどは深い坑道ではなく道に迷うことはなかった。そのなかでもただ一つだけ深い坑道があった。行き着いたところの部屋が広い様子なので、懐中電灯の明かりで壁面をなめ回した。するとどうだろう。壁面いっぱいになにやらうごめく物がいたのだ。秀一の手を秀二がぎゅっと握った。秀一も握り返して秀二の顔を見た。秀二の不安げなひとみが揺れていた。
「蛾だよ、大きな蛾が……かなりいるね」
秀一が言っても、秀二は寡黙だった。
蛾に近づいて、懐中電灯の明かりを照らしてみると、翅(つばさ)は肌色だった。肌色といっても、明るい色と暗い色に彩られて微妙な模様を施していた。その模様をよく見ると、人間の顔のように見える。
辺りを見回すと、壁面だけと違って天井にもびっしりと蛾はいた。秀二がふるえているのが、秀一にはわかった。秀一にしても、あんまりこの場所にはいたくなかった。二人は防空壕跡を出ることにした。
養護施設の自分たちの部屋に戻っても、秀一は人面蛾のことを考えていた。
そういえば人面蛾のことについて、以前誰かに聞いたことがある。戦争で亡くなった人の魂が蛾に乗り移ったと。この町でも空襲で何千人も亡くなった。町が火の海になり、みんな焼け死んでいった。その人たちの一人一人の顔が、あの大きな蛾の翅の模様になったに違いない。
大人たちの話では、戦争で亡くなった人たちは成仏できていないのだという。それもそのはずだろう、戦争で亡くなるほど無慈悲なものはない。
だとしたら、彼らに成仏してもらえばよいのである。そう思うと、秀一は自分の精神が奮い立つのを感じていた。
「人面蛾を殺すのではない。その魂に成仏してもらうのだ。安らかに眠ってもらうのだ」
秀一がその話を秀二にすると、秀二も一緒に行くと言った。お兄ちゃんと一緒になって人面蛾を成仏させると意気込んだ。怖くないのか、無理をするなよといったが、秀二は兄の秀一と、一つの物事を一緒にやり遂げたいらしい。そうすることにより、二人のきずなが強くなると言うことを幼いながらも感じ取っていたのだろう。二人は少しずつ灯油を盗み出しては、防空壕跡に貯蔵していった。人面蛾を焼き殺す気でいたのだ。
「そしてとうとうその日がやってきたのでありました――」
男はゆっくりと、一言、一言が幼い子供にも、わかるように言ってのけた。
いつの間にか公園も日が暮れ始めて、杏色の夕陽が男の相貌を赤く染めていた。
似ている……この話、おれの子供のころとそっくりではないか……。
省吾はウイスキーで酔った頭で考えた。おれの子供時代と、もしこの話が同じなら、弟の秀二は死んでしまうのだ。おれの弟が死んだように。両親は交通事故で亡くなり、引き取り手がないおれと弟は、養護施設に入り、ムカデを灯油で焼き殺す。ここまではおれの生きた道と同じだ。そして裏山の防空壕跡に人面蛾の隠れ家を見つけるのも同じだ。おれは弟と灯油を運んで蛾を焼き殺そうとした。そして弟まで焼き殺してしまった……。それがトラウマとして、いまでも火を見ると怖くなるときがある。
「二人は防空壕跡に入って行ったのでありました――」
男の視線が省吾と絡んだ。目が、瞳が炎のように真っ赤なのは、省吾の錯覚なのか、それとも奴は、人間ではない、そう、闇から来た使者なのか……。
秀一は懐中電灯で壁面を照らし蛾がいることを確認して、灯油を壁面に沿ってまいていった。そして作ってきたたいまつに火をつけると秀二と二人して灯油に引火させた。ボッ! と点火すると一気に壁面に沿って火の川が走った。蛾は熟睡していたらしく慌てふためいて飛び立ったが、すでに翔に火がついているモノもいて、飛翔してもすぐに落下する。また平静を失っているところにたいまつを振り回されるので蛾どうしで衝突したり壁面に激突したりした。蛾はパニック状態で中には火がついたまましばらく飛翔するモノもいた。何しろ数が多いので、まるで無数の小さな人魂がふわふわと飛んでいるような感じであった。
「うわ――」という叫びが聞こえて秀一が振り向くと、弟の秀二の服に火がついていた。燃えている蛾が秀二の上に落ちたのだ。それで服に着火した。叫びが悲鳴に変わるのにそう時間はかからなかった。秀一は弟の服の火を消そうとしたが、火は消えなかった。やがて秀一は頭がぼんやりしてくるのを覚えた。蛾が火もついていないのにばたばたと落ちてきた。空気の流れのない部屋で灯油を使って火をつけたので、一時的に酸素が欠乏したのだった。
秀一は病院で気がついた。弟のことが気になり付き添いできていた母親代わりの養護施設の女性に尋ねると、ほかの部屋で手当をしているといった。しかし、それが嘘だと言うのは数日後にわかった。ショックを受けている子供を、それ以上追い込まないための嘘だった。
紙芝居の男はそこまで言うと、太鼓をドンドンと打ち鳴らして終わりを告げた。
全くおれの子供時代と、同じではないかと省吾は思った。
紙芝居の男が片付けをして帰ろうとしたところへ子供が近づいて、今度はいつ来るのかと尋ねた。男は笑いながら、また次の日曜日にくるからね。楽しみにしておいで。そういって自転車に乗ると、ペダルをこぎ、ギイギイと錆びてこすれているような車輪の音をさせて去っていった。
「パパ、今夜は洋食よりもお鮨がいいわね。この近くにいいお店があるのよ」
いつの間に来たのか、明日香が後ろに立っていた。
「うん、ぼくもおすしがいいよ」
洋平もうれしそうに言う。
だが省吾はほかのことを考えていた。次の日曜日にあの紙芝居が来たら、やつはさっきの話の続きをするつもりだ。そしてあの話はおれの人生と同じ道順を歩んでいる。ということは、どうなるのだ。やっぱり大学生になったおれは人を殺すのか。おれは学生時代に人を殺した。そのときに手に入れた金で会社を興したのだ。その会社が大きくなって、いまのおれがいる。
二
「胃かいようだね」
省吾はそれを医者である友人の島村から聞いた。
「おまえいったいどんな生活をしていたんだ。注意はしていなかったのか。おまえには明日香さんもいるし洋平君もいる。それに会社を経営している。家族のことや会社のことは考えていないのか。胃かいようとアルコール依存症は早く治しておいた方がいいぞ」
島村は内視鏡検査で潰ようの進行度や深さを診断したといいながら、説明した。
「胃かいようか……どうりで近ごろ胃の調子が悪いと思っていたよ」
省吾は島村の手元にある診断書に目をやった。
「まさか、去年手術したガンが転移したと言うことはないだろうな」
「ああ、それはない。あのときのガン細胞はすべて摘出した。それより、早く胃かいようの手術したほうがいい。これ以上放っておくと、吐血するぞ」
「うん、そうだな。おれも一応会社のトップだから、いろいろ忙しい。スケジュールの調整をしなければならん」
「わかった、いつでも入院できるように個室をあけておくよ。それにしてもよくアルコール依存症と、いつ吐血するかわからない状態の胃かいようで、企業の経営者が務まるな」
「サポートしている連中がしっかりしている」
「うそつけ。おまえのワンマン経営だろうが。もっと部下を信用しろよ。一人で何もかもやっているから、心労がたまってアルコール依存症になるんだ。胃かいようも、ストレスが原因だろうが」
島村は心配をかけまいとしたのか、いつになく口調が明るかった。省吾はそれを疑うことはなかった。
省吾は大日本病院を出ると、社長専用車のベンツに乗った。座席に深く身体をゆだねると、秘書が前の座席から声をかけてきた。
「大日本病院の島村先生は、もう漫画を書いてくれないでしょうね」
島村が漫画を書いていた時期があった。彼がインターンをしていたときだ。アウトローの天才ドクターを主人公にした漫画だった。彼はそれを省吾がアルバイトしていた帝国出版の漫画雑誌のコンクールに応募してきた。省吾は応募してきた作品をふるいにかける下読みをしていた。というのも当時の帝国出版は忙しかった。下読みをする編集部員の手が足らなかった。それに省吾は漫画に精通していた。帝国出版にアルバイトで入るときの履歴書にも、漫画には詳しいと自己アピールまでしていた。だから省吾に、漫画のコンクールの下読みが任せられたのである。省吾は島村の漫画を面白いと思った。描写もコマ割りもストーリーも水準以上だ。なんと言っても、主人公のあくの強いキャラクターが魅力的だった。しかし省吾は島村の応募作品を通過させなかった。
ボツにした――。
省吾はこれはいけると思う応募作品をいくつかボツにして、連絡先を控えておいた。そして後で連絡して、あなたの作品はコンクールではボツになったが、見込みがあるので、私が出版社を立ち上げるので、そのときの起爆剤として、あなたの漫画を使わせてもらえないだろうかと、仮契約を求めた。島村を筆頭に省吾がボツにした作品の作者はすべて仮契約を結んだ。
省吾は学生時代に殺人を犯している。そのときに手に入れた金で出版社を立ち上げた。省吾の戦略は時代と寝ることであった。大衆と寝ることであった。しかし寝ると言っても相手に抱かれるという意味ではない。相手を抱くという意味だ。相手をこちらに取り込む。省吾は出版する本を「ダーク・エンタメ」という漫画雑誌一本に絞った。島村のアウトローの天才ドクターを主人公にした「ドクターアウトロー」を筆頭に、仕手相場戦を中心に描いた「株屋の小次郎」悪徳探偵を描いた「時代を殺す」大人をたぶらかす妖しげな十二歳の美少女を主人公にした「絵里香の瞳」などの漫画を中心にした。広告は電車の中吊りを主体にした。サラリーマンのヤング層をねらったからである。その結果帝国出版のような大手の漫画雑誌ほどの売り上げはなかったが、それでも初販本の一〇万部は売り切れた。
「それにしても島村先生のドクターアウトローはいまだに読まれていますね。単行本にしてからも、一〇版も刷っていますよ」
「後はどんな仕事が入っている?」
省吾は秘書の相手をせずに、スケジュールを尋ねた。
「市の青少年健全委員会の会合が三時に入っています」
「キャンセルだ」
「でも、山辺裕一郎が来ますよ」
「タレントの山辺か?」
「はい、そうです」
「それを早くいえ、五〇万包んでおけ」
省吾は有名芸能人とのつきあいは大事にしていた。名刺代わりに金を包んでおけばクチコミで宣伝してくれるからだった。彼らはテレビやラジオ、舞台などで多くの人と接する機会が多い。彼らの一言ひとことが大衆に影響するのだ。利用できるものは何だって利用する、そうやって会社のイメージアップにつなげることが、出版する本の売り上げを増やすということだった。
省吾は自宅に帰ると息子の洋平と一緒に風呂に入った。洋平は一〇歳で弟が死んだときの年と一緒になっている。小さな背中を洗ってやる。
「洋平は大人になったらどんな仕事をしたいんだ?」
「お父さんと同じ仕事」
意外な答えが返ってきたので、省吾は驚いた。
「サッカー選手ではないのか?」
省吾が尋ねると、洋平は黙って考えている。たぶん明日香に「大きくなったらあなたはお父さんの会社を継ぐのよ」と言われているのかもしれない。だからほんとうは違う職業に就きたいのだが、父親の前で遠慮しているのだろう。昔弟にも尋ねたことがあったが、弟は大きくなったら、お兄ちゃんと同じ仕事をするといっていた。弟の上目遣いを思い出した。守ってやらなければならなかったのに、守れなかった。それどころか、自分が殺したようなものだった。あのとき蛾を殺そうとか思わなければ、弟はいまでも生きているはずだ。そしておれはその後の殺人も犯していない。たぶん平凡に暮らしていただろう。ちょっとした人生の選択が、とんでもない方向に自分を歩かせてしまう。そしてその重圧に耐えきれずに、おれはアルコールに逃げた。アルコールを飲まなければ発狂しそうだった。
「あっ――」
洋平の声に省吾が顔をあげると、いつの間にか蛾が入ってきていた。かなり大きい蛾だった。たぶん空気取りの窓から入ってきたのだろう。省吾が住んでいるところは草木が多く、近くには雑木林などがある。そんなところから飛来してきたのかもしれない。
天井から水滴がぽたんと落ちてきた。
「お父さん背中を洗うよ」
「気が利くじゃないか」
洋平が照れくさいのか笑った。省吾は幼い息子に背中を洗われるのが、うれしかった。せっけんをつけたタオルで背中をなでられながら、蛾の行き先を見守っていた。すると正面の鏡の上に止まった。蛾は、子供の掌ほどの大きさがあり、翅(つばさ)は肌色で、その明暗の彩で、微妙な模様を施していた。その模様をよく見ると、人間の顔のように見え、なにやら弟の顔に似ていると思った。あの防空壕跡の坑内にいた蛾の末裔なのか。
そのときである、洋平がいきなり蛾に洗面器の湯をぶっかけた。蛾は見るも無惨にタイルに落下した。
「ばかやろう!」省吾は刹那声を荒らげていた。
洋平は驚いて目を大きくあけたまま省吾を見た。
「なんてことをするんだ!」
父親に叱られて、洋平は泣きそうな顔になった。省吾は自分が子供のころにムカデや蛾を殺したことを思い出していた。それがあの事件につながっている。自分の子供には生き物を殺生してほしくなかった。それにこの蛾の翅には、あの人面蛾のように、人間の顔らしき模様があった。弟の顔に似ていると思った。まるで自分に会いに来たような気がした。だからよけいに、省吾は腹立たしかった。
「ごめんなさい」洋平が素直に謝ったので、省吾は我に返った。
「いや、大きな声を出してお父さんが悪かった」
省吾は洋平の頭をなでてやった。
再び蛾が落ちたタイルの床を見ると、蛾は翅を呼吸するようにゆっくりと動かしていた。洗面器の湯をかけられたが、直撃は免れたようで、翅は傷ついていないらしい。蛾の模様をよく見ようとしたが、翅には細かい水滴が付いていて、模様が弟の顔に似ているかは確認できなかった。省吾は蛾をそのままにして、洋平と一緒に湯船につかった。しばらくすると、蛾が蛍光灯の周囲をぱたぱたと飛んでいるのが目に入った。やがて蛾は窓から出ていった。
風呂からあがって家族で食事をしていると、電話がかかってきた。明日香が出た。「あらっ」といいながら、何やら親しげに話をしている。しかしその会話の内容から、相手が島村の夫人である幸恵であることがわかった。「ダーク・エンタメ」という漫画雑誌に「絵里香の瞳」を描いていた宮下幸恵である。省吾はしばらくの間、彼女と付き合っていた時期があったが、彼女が選んだ相手は「ドクターアウトロー」を描いていた、島村だった。省吾が幸恵に失恋したときは、わだかまりがあったが、今では家族同士の付き合いをしている。
「まあ、そうなのですか、わかりました。主人とも相談してみます。わざわざありがとうございました」
電話を切ると明日香は「幸恵さんからだったわ。島村先生があなたは胃かいようなのだから。早く手術したほうがいいのだって。段取りは病院のほうでするから、身体一つで来てくださいといっていたわ」
島村のやつ、幸恵さんまで使って、よけいな電話をかけてきやがると省吾は思った。
入院したのは三日後で、その二日後には手術した。島村が執刀した。
手術は終わり麻酔が切れて、省吾は病室で目を覚ました。腕には痛々しく点滴が付けられている。明日香が窓辺に立って、たばこをふかしているのが見えた。
「おれにも一本くれないか」
省吾が声をかけた。
「あなた、起きていらっしゃったのですか」
「いま、目が覚めたところだ」
明日香は携帯の灰皿に吸いかけのたばこを押し込むと、手術が終わったところだから、たばこはだめだといった。
「一本吸わせろよ、どうせ長くは生きられないんだから」
「まあ……何を言っているのですか。手術は無事終わったじゃありませんか」
「無事終わっただと? 本当は胃かいようではなくて、ガンなんだろう。去年のガンが再発したんだろう」
「どうしてそんなことを……」
「おまえたちの様子を見ていると、ばかでもわかるよ」
省吾は病室でたばこを吸う若い妻をからかっただけだったが、こうして明日香と話しているうちに、ほんとうに自分はガンだったのではないかと思われてきた。そう思うと、疑念がどんどんふくらんでくる。
ドアが開いて、島村が看護師とともに入ってきた。
「どうした、何をごてているんだ?」
「島村、おれはガンだったのだろう、あと何年ぐらい生きられるんだ」
「ばかなことを言うな、おまえがガンなわけない。胃かいようだったよ。それも手術したから大丈夫だ。しかし身体がだいぶ弱っていることはたしかだな。どうだ、そろそろ社長業は退いて、会社をほかの者に任せてみては」
「ばかいえ、おれが築いた会社だ。そう簡単に他人に譲れるかよ」
「それもそうだが。家族との生活も大切にしないとだめだぞ」
「わかっている。もしガンにでもなって、長く生きられないと言うことがわかればそうするよ」
省吾は会社を興して外見上は成功者になっていたし、自分でも勝利者だと思っている。しかしそれは犯罪を起こした上に成立しているものである。省吾は犯罪を起こしたことにストレスを感じていた。成功すればするほど、心が重くなってくる。そのストレスから逃れるために、アルコールに逃げ、身体にかなりの負担をかけた。
医者の島村はガンではないといった。省吾はそれを信じたいと思った。
三
省吾は再びあの公園に来た。前に紙芝居を見てから一月が経っていた。省吾は今回もし、紙芝居が自分と同じ運命をたどるのなら、その原因を突き止めたいと考えている。紙芝居をしている男の後をつけて、彼の正体を見極めたい。
マウンテンバイクをゆっくりとこいで、公園を周回した。気温がだいぶ低い。吐く息がもやりとする。タイヤが小さな小石を跳ねた時にぱちんと痛そうな音がしたので、省吾は舌打ちをした。腕時計を見た。前に来たときと同じ時間帯である。一時間ほどいた。寒々とした太陽が傾いている。だが紙芝居は来ない。おれが入院しているあいだに来なくなったのだろうと省吾は思った。かさかさと楡の樹木が音を立てた。まるで蜘蛛が捕らえた獲物を見つけて、巣の上を移動しているようだ。しかし風で小枝が揺れただけであった。
紙芝居は来そうもない、仕方がない、帰ろうと思ったときである。低い笑い声が聞こえた。複数の者の声が聞こえたのだ。省吾は声のするほうを見た。前に紙芝居をしていた場所だった。しかしそこには人はいなかった。ただ、鳥肌が立つような笑い声が聞こえる。おかしいと省吾は考えながら、自転車をこいで、笑い声のする場所に向かった。するとどうだろう、近づいていくと、そこには人影が現れ、その人影が群れているのがわかった。
楡の樹の枝がざわめいて、北風が省吾の頬を撫でた。
「秀一はどうしてもお金がほしかったのです。それはこの境遇からのし上がるためでした。ああ……お金がほしい、それにはどうしたらいいか……と秀一は考えたのでありました――」
男は省吾を無視して、影たちの眼をのぞき込むように話をしている。おれの眼を見ろと、省吾は言いたかった。
この男はどこまでおれの運命を知っているのか、ふと、省吾の脳裏をそんな考えがよぎった。
「秀一はビルの影から、銀行を出てくる若林建設の総務課長を待っていたのでありました。今日は若林建設の給料日だったのです。総務課長は一人で社員三〇〇名の給料を車で取りに来ていたのであります。秀一は以前日雇いのアルバイトで若林建設の社員と一緒に仕事をしたときに、うわさを聞いていたのでありました。給料日に総務課長が一人で社員の給料を取りに行くと言うことを――」
依然、男は省吾を無視しながら喋っている。低いあざける笑い声が、人影の群れから聞こえる。省吾は背筋がゾクゾクした。
あれは底冷えのするほど寒い年末だった。省吾は冬休みのバイトを公団団地の建設現場で働いていた。古林建設の孫請から省吾はこの現場に来ていた。年末で仕事納めと言うこともあって省吾は倉庫の片付けを命じられていた。まだ、外で仕事をするのと比べれば楽であり、寒さもしのげた。仕事が終わり倉庫の鍵を持って建設事務所に戻ったときには、古林建設の社員は酒を飲みながら雑談をしていた。省吾が倉庫の鍵を返すと、その日の日当をくれた。古林建設の社員が孫請けの担当者から日当を預かっていたのだ。帰ろうとすると、今日は仕事納めだ、まあ、一杯飲んでいけやということになった。一升瓶からとくとくとつがれるコップ酒をいただいた。あの酒のうまかったこと、倉庫の片付けとはいえ、肉体労働のあとの酒は格別だった。
「おっ、兄ちゃんいける口だな」
男は笑うと、おまえ学生かと尋ねた。そうですと答えると、どこの大学かと聞く。大学名を言うと相手は驚いて、おれの息子が行っているところより上だなと、苦笑いした。省吾があいまいな顔をすると、男は苦笑いを浮かべたまま、雑談に戻っていった。
省吾は新聞紙の上に広げられた、おかきやするめをほおばりながら、酒を飲んだ。もっと割の良いアルバイトはないかと考えた。がっぽりとお金が入る仕事はないかと考えていた。するとやつらの一人が、総務課長が一人で社員の給料を銀行に下ろしに行くというのを話題にした。たぶん酒が入っていて、口が滑ったのだろう。口の軽い男がしゃべり出すと、興味津々という感じで回りのやつらは聞き入っていた。省吾は総務課長の名前を聞き取るとさっさとその場を後にした。
総務課長の田代がどこの銀行に社員の給料を下ろしに行くかは、古林建設の取引先銀行を経済情報誌で調べればすぐにわかる。あとは田代の顔の確認である。田代の顔がわからなければお話にならない。省吾は古林建設に電話をかけた。総務課長の田代が電話口に出ると、あなたに渡したい物があるので会ってもらえないだろうかと言った。人から頼まれた物だというと、そんな人は知らないと言われたが、時間を取らせないので、とねばると会社が引けたら駅前の喫茶店で会っても良いとの返事があった。もちろん省吾は初めから会う意思はなくて、田代の顔の確認をするのが目的だった。田代の服装を聞いていたので、喫茶店で彼の顔を確認すると、あとは素知らぬ顔をして珈琲を飲んでいた。もちろん自分の服装などはでたらめを教えていた。
こうして省吾はちゃくちゃくと目的に向かって進んだ。あとは本当に田代が一人で金を下ろしに行くのかを確認するだけだった。取引先の銀行がいくつもあったので確認するのに三ヶ月かかった。
そして田代が、何時にどこの銀行へ金を下ろしにやってくるのかがわかった。もちろん建設事務所で聞いたとおりに、田代は一人で社員の給料を下ろしに来ていることもわかった。銀行には駐車場はなくて、二〇メートルほど歩かなければならなかった。チャンスはそのときである。そのときに金を奪えばよいのである。
「秀一は相手を脅さなければならないので、包丁を段取りしていったのでありました。その切っ先の鋭いこと、もちろん一刺しで大の男でも死んでしまうでしょう。いくら山田の体躯が大きいからと言っても、この包丁で一刺しされればひとたまりもないのでありました――」
紙芝居に描かれたものは出刃包丁を持っている男の絵だった。出刃包丁が必要以上に大きく描かれていた。その刃の部分は白くぬめるようであった。ああ……あのときにおれが見た光景そのものだと省吾は思った。おれがあの出刃包丁の白くぬめる輝きを見て顔を上げたところに田代が鞄を持って銀行から出てきたんだ。おれは躊躇せずにやつに迫った。
「秀一が白くぬめる出刃包丁の刃から顔をあげると、銀行から出てきた山田が目に入りました。秀一は躊躇せずに山田に向かって歩き始めました――。その刹那! 秀一は肩をたたかれたのでありました! 秀一は驚いて振り返りました。するとそこには死んだはずの父親が立っていました――」
何だって! 省吾が驚いたのは言うまでもない。
そんなはずはないだろう、あのとき、父親などには遇わなかったぞ。第一おれの父親は、おれが幼いころに死んでいるのだ、だから遇えるはずがない。
「驚く必要はない、おれはおまえの父親ではない。おまえの未来から来た。すなわちおまえ自身だ、といったのでありました。秀一は度肝を抜かれたのでありました。おれ自身なのか? おれの未来なのか? 秀一の緊張していた身体は惚けたようにぶるぶる震えたのでありました――」
「そうだ、おまえに伝えたいことがあってきた」
「何をおれに伝えに来たのですか?」
「おれが止めなければ、おまえはあいつを殺すはずだ。そしてやつの持っている金を奪うことに成功する。その金でおまえは出版社を立ち上げる。金を奪った後におまえはアルバイトで帝国出版に勤めて、そのあと、独立するのだ。そしておまえの会社は大きくなる。若い妻ももらい子供もできる。しかし身体と精神はぼろぼろになる。殺人を犯したという罪におまえはさいなまされてアルコールに走り、片時も手元から酒を放せなくなる。会社を立ち上げ、成功すればするほどおまえは酒を手元から手放せなくなるのだ。その結果、おまえはおれのこの年で、あと半年しか生きられないことになる。すなわちおまえの未来である、現在のおれはガンとアル中なのだ」
省吾はそれを聞いて、どういうことだと思った。この紙芝居の中の男はおれではないのか。おれはまだ死なないはずだ……。ガンではないはずだぞ。それとも……、まさか、島村のやつ、おれに嘘をついているのか? おれはあと、半年しか生きられないのか? 省吾の頭は混乱した。
「その若さで死ぬのですか? まだ五〇代の半ばでしょう……」
「人を殺した報いだよ、名誉と金、美しい妻、それに子供をもうけることはできる。そして幸せを感じることもできる。しかし、自分の人生が幸せだと思えば思うほど、胸の底にある闇は暗さを増して広がるのだ。その闇の世界から逃れようとして、もがけばもがくほど、深みに入る」
「そうか……おれは平凡な生活をして小さな幸せをつかんだらいいと言うことか……」
「いいや、そうではない、おまえは成功するのだよ」
「えっ? それはこのまま真面目に働いて努力をすればいいと言うことですか?」
「そうじゃない、いま、おまえのポケットにあるお金でギャンブルをするのだ。競馬で三レース当てればおまえに三五〇〇万円の金が手に入る」
「秀一は自分の未来だという男に着いて、○○の地方競馬場に行ったのでありました――」
競馬場に入り、馬券購入の窓口に立った秀一に、男はポケットにある三〇〇〇円すべてで4―6を買えといった。秀一は男に言われたとおりに馬券を購入した。そしてレースを観に観客席に行った。秀一はオッズを見て驚いた。一〇三倍になっていたからだった。こんなの入るわけがないと思った。馬が走り出すと案の定だった。関係する二頭ともが後方を走っていた。一コーナーから二コーナーを回って、三コーナーまで後方だった。だが、ラストの直線に入ったときだ。先頭を走っていた馬が転倒したのだ。前足を折り、もんどりをうって、転倒した。騎手は馬から投げ出され、その後から来た馬に踏みつけられた。しかしその踏みつけた馬もバランスを崩し、転倒した。後から来る馬はさけられずに次々と転倒していった。そして秀一が買っていた4―6の馬がゴールを切ったのであった。
次のレース、そして三つ目のレースも男の言った通りに買い、勝ち馬券になった。秀一は競馬場を出るときには三五〇〇万円の金を紙袋に入れていた。
思い出したぞ、思い出した。おれがあの事件を起こした日のニュースで、この競馬の惨事が伝えられていたと、省吾は思った。あのレースで三人の死傷者が出ているのだ。省吾はあまりにも紙芝居の競馬にインパクトがあったので、当たり馬券の三レースの数字が頭に刻み込まれた。
ドンドンという太鼓の音がして紙芝居は終わった。人影の群れはたばこの煙が消えるように消滅していた。だが、興奮していた省吾は、人影が消えたことに気づいていなかった。
四
日暮れ前の薄紫の空に杏色の雲がゆっくりと形を変えながら流れていく――。
男の相貌は影になっていたが、なにやら笑っているように見える。男は紙芝居を片付けると、自転車に乗って公園を後にした。
省吾もマウンテンバイクで後を追った。
公園を出るときパシャと何かが割れる音がして、ぎくりとした。自転車の下を見ると小さな水たまりの薄い氷が割れていた。
省吾のマウンテンバイクが歩道に出ると、少し先に、男が自転車をこいでいく姿が見えた。一定の距離を保ったまま、省吾はマウンテンバイクを走らせた。省吾はふと考えた……。先ほどいた紙芝居の客はいったい何だったのか、まるで黒い影が立っているような感じだった。黒い影の群れが紙芝居を見ていたような気がする。そして紙芝居が終わるといつの間にか姿を消した。あのときおれはあの場にいたのに、不思議と違和感はなかった。おれもあの影たちにとけ込んでいたのかもしれない。それは死期が近づいているからだろうか……。
交差点を右折した。男の自転車は歩道から車道に出た。省吾も車道を走る。そのとき車の速度が遅いのに気が付いた。回りの自動車の速度が遅い。まるでスローモーションのようだった。そんなばかな、どうして車の速度が自転車より遅いんだ。省吾のこぐマウンテンバイクで次々と車を追い越していく。省吾はあたりを見回した。すると車どころか、人間も歩いているのか止まっているのかわからないほどゆっくりとした動作になっていた。空を飛んでいる鳩までもが中空で止まっている。いや、止まっているように見えている。そしてとうとう車や人、信号機まで動かなくなってしまった。動いている物がない。何もかもが一枚の絵の中にあった。その中で紙芝居を積んだ自転車の男とおれだけが走っている、動いていると、省吾は思った。省吾は得体の知れない不安を感じながらも、ペダルをこいだ。前を走っている自転車はキイキイと、金属がこすれるような車輪の音をたえず出している。静寂の街の中で、音を出しているのはあの自転車だけである。街中を二台の自転車だけが走り抜ける。太陽が溶けかかった赤いビードロのようにぐにゃりとしだした。省吾がペダルをこいでマウンテンバイクを走らせている、世界の景色がゆがみ始めていた。太陽だけでなく、ビルも電信柱も、形を変え始めていた。
おれはいったいどこを走っている。
もしかしておれは死んでいて、やつは死に神で、おれを黄泉の世界に連れて行こうとしているのではないのか。
省吾がぼんやりとしていて気が付くと、前を走っていた自転車との距離はいつの間にか離れていた。省吾はあわてて、ペダルを強く踏んだ。しかしいっこうに距離は縮まらなかった。そして紙芝居男の自転車はゆがんだ街並みの中に消えていった。
しまったやつはどこに行ったのだ、省吾は街中にマウンテンバイクを走らせた。形がどろりと崩れた世界でペダルをこいでいると、きらりと光る物があった。何だろうかと思った。それで近づいてみた。近づいてみると、ぐにゃりとゆがんだ男が、刃物らしき物を持って立っているのが目に入った。するといままでゆがんでいた世界が、生気を吹き込まれたように甦ってきた。先ほどまでの動きのない世界ではなくて、時間の歯車が動き出したのか、自分が元いた世界と変わらない、活気のある世界に戻った。溶けかかった赤いビードロのようになっていた太陽までも、まぶしい輝きを取り戻している。
省吾は刃物を持っている者が誰であるのか、わかった。若いときの自分である。そんなばかなと思ったが、自分がいまおかれている立場を考えると、なにやら合点がいくような気がした。おれは紙芝居の世界に迷い込んでいるのかもしれない。そう思うと、やることは一つである。省吾はマウンテンバイクを降りると、もう一人の自分に近づいた。
男の肩に手を置くと、彼は驚いたように振り向いた。省吾は男の心理状態が手に取るようにわかった。おれを父親だと錯覚しているはずだ。
省吾は彼に対して、優しげな笑顔を浮かべた。
「驚く必要はない、おれはおまえの父親ではない。おまえの未来から来た。すなわちおまえ自身だ」
男の驚きようと言ったらなかった。男は惚けた表情で身体がぶるぶる震えていた。
「その物騒な物をしまえよ」
省吾は冷静だった。男に包丁を仕舞わせると、自分がどうしてここに来たかを簡単に説明した。そして自分があと半年しか生きられないと、腹のところにある二つの手術の跡を見せた。一つは一昨年のガンの手術跡だった。もう一つは先日行った胃かいようの手術であるが、それが転移したガンの手術の跡であることは明白である。すべては紙芝居が証明している。
省吾の話を聞くと興奮状態の男は落ち着いた。未来から来たという自分の分身に将来起こるべき出来事を聞かされたのだ、男は静かに自分を見つめる時間を与えられたに違いない。
「そうか……おれは平凡な生活をして小さな幸せをつかんだらいいと言うことか……」
男はうつろな表情だった。
「いいや、そうではない、おまえは成功するのだよ」
省吾は男に競馬で三五〇〇万円もうけさせることを約束した。
「レースを三つ当てればよいだけだよ。いま、おまえのポケットにある、その金が今日やる競馬の三レースで三五〇〇万円になる」
「そのあとは出版社に勤めて」と、自分がいままでにやった手口を簡単に教えた。
男は納得したみたいだった。
競馬場に行くあいだに二人で思い出話をした。両親のことや弟のこと、省吾が覚えていることも男が覚えていることも同じだった。あのムカデを焼き殺したときの臭い、ムカデが神に祈るように踊り狂った姿も記憶のままだった。そして悲しい弟の事件も、繊細は語らなかったが想いは同じだ。何一つ違うことはなかった。ただ、違ったことと言えば自分は人を殺したが、目の前にいる若い自分は殺人者にならなかったということである。この男は自分とはまた違った人生を歩むに違いなかった。省吾は彼を祝福してやりたいと思った。
競馬場の窓口で馬券を買って観覧席に行く。男は省吾が言ったとおりにオッズが一〇三倍になったので、驚いている様子だった。もはやいま手元にある三〇〇〇円の馬券が、三〇九〇〇〇円になるのは間違いのない事実だった。そして先頭を走っていた馬は転倒して、騎手が落馬した。後から来た馬の集団が、それに巻き込まれて大荒れになった。
4―6は見事的中して、金が手に入った。もちろん次のレースも勝った。そして三つ目のレースになった。
一〇〇〇万円を窓口に差し出した。
窓口の女はその札束を見て驚いているようだった。すぐに五、六人の窓口業務が集まって、札束の金を数え始めた。窓口に並んでいる客も、惚けたような顔をして札束の山を見ていた。一〇〇〇万円の馬券を二人の懐に入れて、観覧席に向かった。先ほどまで五倍だったオッズが三倍になっていた。まさに計算通りだ。オッズはこのあと、三,五倍で確定するはずだ。そしてその通りになった。
「ドキドキしてきました」
男が青ざめた顔で省吾を見た。
「別に不安がることはないよ。すべて読み通りだ」
「おれたちが買った馬が四コーナーで追いこんできて、写真判定になるのですよね。その結果鼻の差で勝つ」
「その通りだよ、そして三五〇〇万円の金がおまえの懐にはいるわけだ」
「そしたら半分をあなたに差し上げますよ」
「ばかなことを言うなよ、おまえはおれなんだから。おまえが幸せになればいいだけだ」
ファンファーレーが鳴った。
ゲートが開き、馬が一斉に走り出した。すべて予定通りだった。こちらが買った馬の一頭は後方につけていた。あと一頭は前の方にいる。そして三コーナーを回ったところで一頭は先頭になった。写真判定になる一頭は、まだ一〇馬身ほど先頭から離れていた。二着に食い込まなければ勝ち馬券にならない。
四コーナーを回ったところで猛然とダッシュしてきた――。
どんどん距離を縮めてくる。しかしゴールーは目前に近づいていた。
ゴールを切ったときには並んでいた。そして写真判定になった。省吾はあまりにも紙芝居の通りになるので、戦慄すら感じていた。
だが、写真判定の結果を知って省吾は驚愕した。いや分身の若き男も驚いていた。なんと、鼻の差で、買った馬券の馬は負けたのであった。
「そんなはずはない――!」
思わず省吾は叫んでいた。
もう一人の自分は何が起こったのかわからないらしくて、呆然としていた。起こるはずがないことが起きた。起きてはならないことが起きた。しかし結果は結果であった。
「ふぅ……」ため息が聞こえたので、省吾は男を見た。
「負けましたね」
男は案外さばさばしていた。
「いや、すまない、負けるとは思っていなかったよ」
負けるはずがなかった。あの紙芝居はいままでおれの人生をすべて踏襲してきたではないか。それがどうして狂ってしまったのだ。しかし現実に起きたことであった。今更どうしょうもない。
男はポケットから残っていた金を取り出して、これで酒でも買って、おれの部屋で飲みませんかといった。
「汚い部屋ですけど、あなたと人生を語りたくなりましたよ」
「四畳半の汚い部屋だろ、おれも住んでいたから知っているよ。それにしても自分にあなたといわれるのもなにか変だな」
省吾が笑うと、男も笑った。
二人は男の住んでいる○○のアパートに行った。途中で焼酎とつまみを買った。
省吾にとってはかつて知った自分の部屋だった。ボロアパートで二〇ほどある部屋はがら空きだった。隣にも人は住んでいなかったので、気楽に話ができた。壁にピンで貼ってあるアイドルのポスターが懐かしい。薬缶で湯を沸かして焼酎を湯割りで飲んだ。ちくわをかじりながら、チーズをほおばりながら一晩中人生を語った。とにかく自分のすべてを男に教えなければならなかった。なんとしても成功してほしいと省吾は思った。いつごろどんな事件が起きるのか、経済はどうなるのか、株はどういった動きをするのか、細々としたことまではもちろん覚えていなかったが、おおまかなことは教えることができた。出版社を立ち上げたのでそのノウハウも教えた。人との接し方つきあい方、肝心かなめなところを教えた。
「好きな女性(ひと)はいなかったのですか?」
男に尋ねられて、省吾は島村の婦人になっている、宮下幸恵を思い出した。出版社を立ち上げたときに「ダーク・エンタメ」という漫画本で勝負を賭けたが、そのときに「絵里香の瞳」という漫画を描いていた女の子だった。だったというのは彼女はそのとき一七歳だった。仕事の関係で知り合ったが、だんだんと親しくなってつきあうようになった。彼女が二二歳の時に結婚を考えたが、宮下幸恵が選んだのは、大日本病院の医師である島村だった。
「そうだったのですか、きっとその宮下幸恵という女性はかわいかったのでしょうね」
「彼女の作品は大人をたぶらかす妖しげな一二歳の少女が主人公だったが、彼女自身は家庭的な女性だったよ」
省吾の話を聞いて、男はなにやら考えている様子だった。
「ちょっとしたことで、人生って変わるのでしょうね……」
「ちょっとしたこと……? そうか、どうしてさっきの競馬がきわどいところで、外れたのか、わかったよ」
「えっ、どうしてなのですか?」
「たぶんだが、おれが君を助けたことで、歴史が少しずれたのだろう」
「じゃあ、私があなたと同じように、銀行員を殺していれば……」
省吾は、彼のいうことに、ゆっくりとうなづいた。
「だとすると、さきほどあなたが教えてくれた、今後の経済の動きや株がどうなるのかとか、時代の流れというものも、違うようになるということでしょうか?」
「少しは、ずれるかもしれない。だけど、経済や時代の流れというものは、積み重ねによって動く、なるべくしてなるものだ。別の言い方をすれば、努力した者は、努力していない者よりも幸福になる可能性は高い。まして、人間関係の築き方の基本は変わらない」
「そうでしょうね、あなたがいうことはよくわかります」
「わかるはずだよ、同じ人間なのだから」
「だけどやはり心細い……。こんなとき、弟が生きていれば、二人であなたが言ったことを実行して成功者になれると思うのですが」
「君に遭うことは紙芝居男のおかげでできたが、さすがに、弟と人生をやり直すということは、難しいだろうね」
「紙芝居男と、もう一度遭うことが出来れば、何とかなりませんかね」
「たしかに、なんとかして弟を助けたい。あの紙芝居の男が神か悪魔か知らないが、取引できるものなら、命と交換しても、取引をしたいものだ」
「ぼくも、あなたと同じ考えです」と彼は、つぶやいた。
明け方になるころには睡魔が襲った。アルコールもだいぶ回っている。そのまま眠り込んでしまった……。
五
大きな声が聞こえたので、省吾は目を覚ました。
視界には蜘蛛の巣が見えていた。だがそれが楡の樹木の錯綜する小枝だと言うことはすぐに理解できた。省吾はベンチで眠っていたらしい。ゆっくりと視線を降ろし広場にむけた。そこには中年の女と柴犬がいた。そしてマスコミの者らしい人物に写真を撮られてマイクを突きつけられている。大きな声をあげたのはその女らしいが……、彼女は知っている女だった。島村幸恵である。なぜ、彼女がここにいるのだろうかと省吾は思った。プライベートなのだから写真は撮らないでほしい。取材には応じられません、といっているらしい。マスコミの取材らしき人物が、省吾に気がついて、何人かがこちらにやってくるのが見えた。
省吾はいったい何が起こっているのだろうかと思った。
仕事の疲れか休日の午後の公園で夢を見ていたようなので、頭の中にある出来事を整理してみた。たしかおれは紙芝居をやっていた男の後をつけて違う世界に迷い込んだような気がする。おれはそこで若い年代の自分に出会って、自分が起こした過ちを正そうとした……。
過ちって何なのだ……。
省吾は近づいてくる取材陣を見ながらさらに頭の中を整理した。
そうだ、殺人だ、たしか人を殺したはずだ。
いや、待てよ、殺してはいない。金を奪おうとして銀行の前で待っていたら、おれは未来から来たという自分に止められたのだ。そのあとおれは不思議な体験をした。男はおれに金は競馬でつくれるといって、二人で競馬場に行った。そこでわずかばかりの金を一〇〇〇万円までにした。最後のレースも写真判定になるまでを男は予測した。そこで勝つはずだったのが、歴史のひずみで、負けてしまった。あのあとおれは男と夜が明けるまで飲み明かした。起きたときには男は姿を消していた。
おれは男に教えられたことをいろいろと実践してきて、アルバイトで入った帝国出版で社員になり、宮下幸恵と結婚した。「絵里香の瞳」という漫画を新人賞に応募してきた女だった。その後おれはとんとん拍子に出世した。そして社長までになったのだ。あの男の人生哲学は勝利の方程式だった。そうだ、人を殺したのはあの男だ。それで自分の過ちをおれに犯させたくないと言った。
省吾はそこまで思い出したが、どうも解せなかった。なにやら自分が殺人を犯していたような気がする。そしてあと半年で死ぬことになっているはずだ。省吾はシャツをめくって素肌に二つの手術の痕跡があるかを確かめた。だが、そこには傷はなかった。ガンの手術はしていないのだ。ということは、自分は殺人も犯していないし、ガンで死ぬこともない。
「田宮さん! 大日本テレビの買収の件ですが。帝国出版はマスメディアを征服するつもりなのですか!」
「征服するつもりはないよ、結果がそうなっているだけだ」
口から言葉がすらすらと出た。自分が帝国出版の社長である記憶が洪水のように脳細胞に流れ込んでいる。社員二二〇〇名、売上高三〇〇〇億円と日本最大の総合出版会社だった。いや、省吾は出版業だけでなく、あらゆるマスメディアを翼下に納めるつもりでいた。
「すべてのマスメディアを力でコントロールする気なのですか?」
「君たちの取材には応じる気はないね、いまはプライベートの時間なんだ。家族との安らかな時間を君たちは奪うつもりなのか。君たちの礼儀をわきまえない取材は断固拒否するね」
幸恵が柴犬とやってきたので、省吾は取材陣を振り切ろうと公園を後にした。公園を出て少し歩いたところに車を停めていた。背後から取材人の声が聞こえる。省吾たちはふりむかないで車に向かった。わずか二十メートルほど先に車がある。その車が少しゆがんで見えた。いや、風景がゆがんで見える。
「あなたお酒を飲んだの? なんか息がくさいわよ」
妻の幸恵が鼻を鳴らした。
取材陣のヒステリックな声が遠くから聞こえているような気がする。
省吾は幸恵の横顔を見た。彼女と一緒に生活をした人生がまざまざと蘇ってくる。
「愛しているよ――」
「何を言っているのよ、焼酎臭い息をして」
幸恵は軽くにらんだが、省吾の腕に自分の腕を絡めてきた。
酒を飲んだ記憶はなかったが、未来から来た自分と夢の中で焼酎を飲んで、語り明かした覚えはある。
辺りが静かになった。
振り返ってみたが、取材陣はいなかった。
空間がゆがんだように思えたのは錯覚だったのか、何しろ夢の中で飲んだ焼酎の匂いが幸恵にはするというのだから、自分は何か錯覚をしているのかもしれない。
杏色の夕映えに大都会が静かに暮れゆく――。
省吾は頭の中の記憶を整理しながら、たばこを吸おとして、ポケットを探った。そしてたばこを昔にやめたのを思い出した。
車が停めてあるところまでやってきた。
ポケットからキーを出しドアを開けた。車に乗ろうとした。そのとき、柴犬のロムが急に吠えだした。省吾は何だろうかと思い、ロムを見た。ロムは何かを感じ取っているようだった。身構えるようにして吠えている。そして省吾も感じ取った。大気がびりびりと振動しているのがわかった。省吾はあたりを見回した。衣服を着ていても、その上から大気の振動は感じられた。幸恵も不安に思ったらしく、あたりを見回している。ロムが上空に視線を向けたまま、この世の終わりのような吠え方をした。省吾も上空を見た。その視線の一点が、杏色の空から、土色に変化していた。なにやら音まで聞こえてくる。腹の底から響くようないやな音だった。空全体が無数の土色にむしばまれていき、土を掘り起こすような轟音までもが空を覆った。
「あなた――」
幸恵が省吾の腕をゆさぶる。顔を見ると、表情が恐れおののいていた。大気はますます震えだし、びりびりと肌に痛いまでになった。
突然、土色になった空の一点がこぼれた。そのこぼれた欠片が、落ちてきて、大きな音とともに地面が震動した。そして穴があいた土色の空から、のたうつ巨大ミミズが姿を見せた――。ぬるりとした深い紫色の身体がのたうちながら天上からはい出てきた。省吾はいままで空であると思っていた部分が空ではなくて、大空洞の天井だったことに気が付いた。天井の高さは高層ビル群の数十倍であった。天井に一匹の巨大ミミズが姿を現すと、次々に天井に穴があき、無数の巨大ミミズが出現した。そしてぼたりぼたりと地上にミミズが落下してきた。落ちてきてその大きさがわかった。なんと長さは高層ビル以上である。巨大ミミズが天井から落ちてくるたびに地面が大きく揺れた。ミミズは大きな口を開けると高層ビルを呑み込んだ。ぐちゃぐちゃとコンクリートのビルを呑み込んでいく。
突如として雷が落ちたような音響が頭上でしたので驚いて、巨大ミミズに釘付けになっていた視線を天井に向けた。するとどうだろうか、ルビーのような真っ赤な目をした巨大モグラが天井にあけた穴から頭をのぞかせていた。太い腕、指先にあるシャベルのような爪はその一つだけでも小さなビルぐらいの大きさはあった。ぐわっとあけた大きな口に見える牙は、刃物のように鋭かった。巨大モグラが全身を見せて天井から地上に落下すると、下敷きになったビル群が崩壊して土煙をあげながら地面を大きく揺らした。巨大モグラがあけた天井からは壊れた消火栓から水が吹き出るように海水が怒濤のごとく流れ込んできた。巨大モグラは地上に落下すると、海水のことは気にする様子もなく文明の象徴である、高層ビル群を破壊し始めた。
「ああ、なんと言うことでありましょうか。地底獣が地底都市の天井に穴を空け、海水が濁流のごとく流れ込み、地底都市は海水に没したのでありました――」
違う世界から、男の声が聞こえてきたが、それが誰の声であるかはいまの省吾にはわからなかった。
「た、たすけてくれ――!」
省吾は大きな声をあげた。しかし自分の身体が一枚の絵のように動かなくなっているのに気が付いた。妻の幸恵も恐怖に顔をゆがめたまま動きを止めていた。柴犬のロムもほえた姿勢のまま動かない。巨大モグラも前足を振りあげてビルを破壊する行為のまま、絵のように動きを止めていた。巨大ミミズも同じであった。天井から流れ込む海水も、一枚の絵の中の世界になっていた。
ぱたんと言う音がして、あたりは暗くなった――。
「おじさん、この続きは?」
子供が聞いた。
「ああ……、紙芝居全部終わったよ」
「な~んだ、つまんないの……」
「きみ、おなまえ何というの?」
「しゅうじ」
「えっ――?」
男は改めて子供を見た。
兄らしい男の子と手をつないでいた。
「じゃあ、きみは秀一くんかい?」
「そうだよ、秀一というんだ」
男は紙芝居を引っ張り出すと「闇の声」の画を何枚か見た。
それらには秀一と秀二が抜けており、彼らがいたところがぽっかりと空白になっていた。
「命に代えて、弟を助けたのか……」男は、苦笑いを浮かべた。
「二人だけの兄弟だから、仲良くするんだよ」
男は紙芝居を積んだ自転車にまたがった。その紙芝居の飴色した木の箱に、いつの間にか大きな蛾が翅(つばさ)を休めていた。男はペダルをこぎギイギイと錆びついいたような車輪の音をきしませながら、公園を後にした
秀一と秀二が手をつないで男の後姿を見送っていると、自転車に積まれた紙芝居の箱からなにやらたくさんの紙切れのようなものが吹き出てきた。それは風に乗ってそこら中に舞った。そのうちのいくつかは二人のほうにもやってきた。
「あっ、蛾だ――」
秀一が声を上げると、秀二は手を大きく広げた。その小さな掌に大きな蛾が留まった。蛾の翅には人間の顔の模様があった。よく見るとその一匹ずつが違う模様をしていた。
「あの洞窟から出てきた蛾かな?」
「だったら、殺さなくて、よかった。蛾だって、生きているものな……」
「ものすごくたくさんいるよ」
秀二が言ったが、兄の秀一は紙芝居を積んだ自転車がゆがんだ街並みの中に消えてゆくところを見ていた。そこからは喧騒も聞こえてこない。
気が付くと、街並みは元通りになり喧騒が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、ぼくたちいまからどこへ行くの?」
「大丈夫だ、お兄ちゃんに任せればいいよ」
秀一は力強く言うと、二人で夕暮れの公園を後にした。
―― 了 ――
執筆の狙い
楽しんで書いた作品ですが、みなさんも楽しめるでしょうか。
まあ、好みもあると思いますが。