作家でごはん!鍛練場
ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ

「バロス」と「リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス」


いまは、18時38分。
私達には、共通した時間の認識がある。
いつからだろう。時間を意識するようになったのは。
思い出せるだけ、記憶を遡る。
ああ、それと同時に儚さがやってきた。
いまになっては、その記憶が、真実なのか、嘘なのか。わからない。
時間もいささか曖昧であるが、昨日の18時38分はランニングしていたはずだ。
スマホのアプリにもしっかりと残っている。その時間の歩数は、3999歩と書いてある。
だが、どの場所で18時38分になったのかはわからない。
時間とは、一体なんだろうか?思い出せるだけの過去を遡って、初めて時計をみたときを想起する。
実家のリビングの鳩時計であった。
短い針と長い針が重なっていた。
なぜなら、鳩時計の音が出るのは、12時と17時に決まっていたからだ。
そんなどうでもよいことを思い出しているだけで10分が過ぎた。


いまは、18時48分。
なにかに追われて、文章を綴るのは、いささか心に余裕が持てなくなる。
人に見せて良い文章なのだろうか?
だが、私は書き出した時点で、いつも結論を知っている。
書き出したら、最後にもう「完了」と打ち込むことが決定しているのだ。
だが、その調理の過程が、どうなるかはわからない。
作家は、誰かのために書くのが文章であるように思っているが、本当は、自分のために文章を書いているのが作家だ。
最高のオナニープレイヤーは、作家なのかもしれない。
自己承認欲求の塊そのものだ。他の芸術もまた然り。だが、一度書き出したら辞められない。
いささか病気なのかも知れない。
だからこうして、時間と空間の制約を受けながら、不完全な創作を続けるのだ。
一度たりとも満足のいった文章をかけたことがない。
このフツフツとする感情に名前をつけようとするが、それを的確に表現できない。
なんども、挑戦したが、パロティの「嘔吐」や「嫌気」としか言えない。
だが、どれも私の中でしっくりとこないことは、もう知っている
ああ、儚い。
この文章に、意味を求めてみたが、なんの意味があるのだろう・・・・

集中力が切れてしまった。書いて15分だろう。

いまは、18時53分。
ふと、思い出したのだが、私の投稿者の名前は「ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ」
宮崎駿のラピュタのムスカの隠し名である。
なんで、そんな名前にしたのかって、とくに意味もなく思いついたからだ。
ああ、その時点でこの文章は「バルス」していたのかもしれない。
「あの〜地平線、輝くのは、いつかどこかに、、、」
こんな歌詞だったか、私の壊れている記憶では思い出せない。
30分で小説を書くなんて馬鹿げていたのだ。
だが、馬鹿は馬鹿なりに文章を綴っていく。
そう、1年前の18時58分を思い出せないように。


いまは、18時58分。
最後の10分になるわけだが、全く結末がわかっていない。
わたしの頭の中は、混沌としている。
出口を探している。
なぜだろう。いつからだろう。
文章には、まとめが必要だ。
小説には、まとめが必要だ。
何かを伝えるには、しっかりとした、ちゃんとした、表現が必要だ。
このような当たり前と思い込みに縛られるようになったのはいつからだろう。
はじめて鳩時計をみたときは、そんなことを考えていなかったはずだ。
何かが鳴った。何かが動いた。それだけであった。
文芸も、小説も、そもそも、ちゃんとした表現を追い求めていき、道に迷ってしまったのだ。
あの50年前の創作家の集団無理心中が、いまの日本の小説のベースとなっている。
そして、どこに行っても、新たな問題がでて、解決できしたかと思えば、また問題が生まれる。
そう、わたしの記憶も忘れて、何かを思い出し、また忘却して想起するだけ。
なにを忘れているのか、いまは分からない。
そこに、時間はあったのだろうか。そこに、空間はあったのだろうか。
そこに、文字はあったのか?
ああ、そうすると、文字を忘れる必要があるのかもしれない。
生まれたては、文字を認識していない。
いささか大人になって文字を認識して、小説を書いて、私は阿呆になったのかもしれない。
このような散文を読んでもらいたい反面、分かってほしくない自分が現れる。
分かってしまう人は、おそらく相当な忘却者であり、想起者であろう。
「ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ」と「リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ」
「バロス(忘却)」と「リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス・バル・ネトリール(想起)」
あのラピュタの相対と同じように、この文章は、忘却と想起の呪縛を描きたかったようだ。
そして、判明した。
この文章と投稿名では、ラピュタを超えられなかった。


いまは、19時3分。
5分で見直す。
「30分小説。全文字1416字」
これが、いまの私であり、また移りゆく。


いまは、19時8分。
一応失礼のないように、もう一度本文確認をしてから投稿する。


いまは、19時24分。
投稿「完了」

「バロス」と「リーテ・ラトバリタ・ウルス アリアロス」

執筆の狙い

作者 ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ
103.5.140.191

30分でどこまでの小説がかけるのか?
日常的、時間の制約を受けながら書いてみました。

コメント

神楽堂
p3339011-ipoe.ipoe.ocn.ne.jp

読ませていただきました。
興味深かったです。

私もラピュタは大好きで、セリフを覚えるくらいに何度も観ました。
こうして文章で自分の思いを綴っていくエッセイのような作品もいいものですね。
時間の流れを意識したり、あっという間に時間が経っていたり、
読みながら、私も同じようなこと考えたことあるなぁ、などと思いを巡らせました。

読ませていただきありがとうございました。

ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ
171.140.5.103.wi-fi.wi2.ne.jp

神楽堂さま、ご感想ありがとうございます。

サルトルの嘔吐を読み終えて、
日記帳ではなく、時間帳にて、行ってみれば、存在と無の足がかりになるのではないか?
という、自分を純粋な批判をしたところ、存在と無ではなく、「忘却と想起」の弁証論になってしまいました。

はじめての試みでしたが、1つの作品としてできることが分かりました。

どうもここのコミュニティは、神秘主義や時代小説にコメントが多く集まるようで、文芸は時代に消されていくようですね。

それでも、神楽堂さまの「ありがとう」のコメントをいただけると活力になります。

文字の表現力は、他の方々に見劣りする処がありますので、そこはコメントをして自分に取り入れ精進していきます。

また、他の方も、全力で批判をよろしくお願いします。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

読ませていただきました。

思いの他、などと言ったら失礼ですが、ここち良く読み通すことができました。
三十分で小説を書くなんて無茶言ってこの人いったいどうすんの? という興味がちょうどいい引きになって読んで行ったら案の定、
〈人に見せて良い文章なのだろうか?〉
という疑念が湧き、後半には、
〈小説には、まとめが必要だ。〉
となって、でも最後は堂々と、
〈この文章と投稿名では、ラピュタを超えられなかった。〉
で現実世界の投稿につながって終わる。

この構成は淡いながらも起承転結感があり、潔さもあって読後感が良かったです。

哲学的な部分も興味深くはあるのですが、文学的な価値については私にはよく分からないです。

ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ
171.140.5.103.wi-fi.wi2.ne.jp

中村ノリオさま。
この文章には、あきらかな嘘が1つあります。
30分で書き終えたのですが、19時8分から19時24分の16分間に文字数が増えているのです。
最終的に「全1981字」となっています。
つまり、実際は私は46分で最終敵な投稿をしているのです。
あらすじは、15分で出来るのですが、その後のほうが時間を有するのです。

また、ここの読者の読解力を試してみたのですが、みな、漠然として文字の綺麗さや魅惑する文章、自分の好みで文章を読むために、全批判をしてやろうと私の性格の排便も文章に混ぜています。

案の定、1週間の経過がしましたが、そこまで深く読みもせず、印象で初心者の文章を判断をするわけです。

もし、私が有名作家であった場合、こんどは、プロとしてコメントを読書はするようになるのです。
つまり、他人の印象は漠然としており、30分で小説など書けない評価しないモノとするのか、それとも、好奇心で何かが始まるのか?
それを小説にして問いかけてみたく、出来上がった「46分小説」となります。

一流の作家も、一瞬で小説ができあがるように、哲学でも、一瞬で全てが出来上がってしまうのです。
その一瞬には、これまで生きてきた全てが宿っているのです。

だから、文即人生、人生即文という究極を私は追い求めていますが、ラピュタを超えるほどにはいけない。自分の無情さに46分でぶち当たった作品となっています。

中村ノリオ
flh2-122-130-109-65.tky.mesh.ad.jp

ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ様。
私の批評をもってごはんの読者代表と考えるのは間違っているように思います。私はごはんの中では特殊なタイプですので。

それともう一つ思ったのですが、本気でラピュタを超えるおつもりなら時間をかけて壁をよじ登った方がいいのではないでしょうか。
人生も創作も、なかなか理想通りにはいかないものですから。

以上。人生を失敗した者の感想でした。

ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ
179.140.5.103.wi-fi.wi2.ne.jp

中村ノリオさま
コメントの返信ありがとうござます。

1.時間をかけて壁を登る
2.読者代表としてのコメントではない

以上2点に返答します。

【時間をかけて→忍耐力】

壁は、登るつもりはありません。
ラピュタは、天に向かいすぎたから人間は地に還されるわけで、、、(笑)

むしろ、私は大地に潜りたいのです。
そのために、土と触れ、田畑仕事をして自分生活の自給自足を目指し、ブログやSNS、Youtube、本のせどりをやりながらの生活でいまはコツコツと精進しています。

小説やエッセイという類は、半年ほど前からはじめて自分の技術力「表現力のなさ」に直面していますので、いろんな文章に触れるべく、サイトにいきついた処です。

”耳をすませば(宮崎駿)”
「急ぐことはない、時間をかけてじっくりしずくさんの原石を磨けば良い。」

あなたに言う通り、忍耐力が必要なんですよね。
ただ、わたしにとって、時間と空間というものは、いささか超越できるため、田んぼもやりたいと思ったら、1週間後には借りれました。
高慢になるわけではないですが、この人の文章は初心者だけど風がふいている。

”紅の豚(宮崎駿)”
良いパイロットの条件は、インスピレーションだな。

良い作家の条件も、インスピレーションです。
そこに、表現力などをはじめ技術(強い體なども含む)が必要になってくるという思想の素、行っています。(*1)

【読者の皆様への謝礼】

読者のみなさんを罵倒するつもりはありませんでした。
そこを勘違いさせるような表現をしてしまったのは、私の過ちです。
この場を通じ、謝らせていただきます。

私のなかでは、あくまで読者(他人)は、読者であり1つの標識なのです。
自分の映した鏡なのです。

で、他の人のコメントをみると現代病にかかっている傾向にあります。
その現代病とは、「インスピレーション」からではなく、学校教育の影響により文章を「赤ペン先生」を重視する傾向です。
もちろん、とても参考になるコメントをする人もいます。

語らぬ言葉を語らせていただきますと、

中村ノリオさまの作品もここでのコメントの奥底に眠る語らぬ言葉を顕在化させますと、全体として「自灯明」自分を信じることができない「何か」としての作品に思いました。

自分を信じられないから、小説でも「できる」VS「できない」の相対で「できない」と思い、人生の失敗者と思っているのではないでしょうか?

エゴの傾向は、自分の弱いところをつかれると、殻にこもる傾向にあります。
私にももちろんエゴはあります。
だから、こうして文章にして、それを顕わにしている処です。
殻にこもらず、「そこにぶち当たってこそ作家としての書く意味が生まれてくる」と考えております。

ここでは、相当特殊な苦渋をたらす、コメントになるでしょう。
破壊神としての役割になるのかもしれません。

しかし、破壊神も神であり、神を殺すことに意味があると思っておりますので、全力でコメントいたしました。

そして、こうやって綴っているときに、「できる」も「できない」もない状態、もう出来上がっており、絶対的な何かになったときに1つの作品が、小説が、文章が成り立っていきます。

「作家即人生、人生即作家」となるわけです。

この場を通じ、このようなコミュニティーサイトを創作していただいた関係者と読者にお礼申し上げます。


*1
次の時代が、このインスピレーションを乗り越えていく必要があり、挑戦し続けなければ、それはつまり衰退につながると思っております。
(長くなりますので、飛ばしていただき問題ありません)

それに、ラピュタは、「自然主義」から脱却できていない作品で、紅の豚で「俺は自然主義へ1人で向かうぜ」って、言ったら「高畑」さんに、「おまえのは、独りよがりのエゴだ」と言われ、その後、もののけ姫でようやく「現代科学と自然の双方を許容できるようになって、歩むよ」と行き着いて、千と千尋で現代化し、「どういきるか」で、「若い奴らのインスピレーションを信じる」と、託すような流れになっています。
しかし、ジブリは宮崎駿の作品以外はぱっとしないのも実状であり、結局また、宮崎駿が作品を手掛けている。
息子は、ディズニーのようなジブリパークなどで商業をベースに行動している。

インスピレーションは、親から子へ引き継ぐことは難しいというわけであり、個人1人ずつが手掛けていくことしかできないわけですね。

だから、1人ずつが作家として挑戦することは、人類としてものすごく重要なことになるわけです。それは、作家だけでなく、創作家すべてであり、創作家はさらに、すべての仕事に当てはまります。
ライン作業員も、創作物をしており、人工物のすべては人間のインスピレーションなわけです。ただ、あまりにも不格好であり、歪なのです。

で、自分たちの住めないような環境になっていく。
そこには、金銭の支配や教育で従わせたい権威性、可愛い自分を守りたい保守性などがありそれを作家は少なからず創作しているわけです。
それは、異世界でも同じで、現実の汚さから幻想に逃避したく、ネット上のほとんどはその逃避をするために作家業をして、聴こえの良い表現で大衆を酔わせるわけです。

それを「個人で意識づけして、自分たちで選択していこうぜ」っていうのが、近未来の課題で、そこに文芸としての価値が生まれてきています。
だから、私は近未来の意識のクオリアをすべく、文章を綴っているわけです。
さまざまな可能性から、集合意識で賛同し、個人でそれを現実で共創し創作することが混沌として歓喜するのです。

田畑の仕事も、周りの人とつながっていき歓喜しています。
長くなってしまいましたが、まとめると、創作するということは、つねに過去の偉人を越えようとする力が宿っています。

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