【PiS】SSB
【prologue】
「ねぇアレックス、本当にあなたが行かなきゃいけないの?」
「また。その話か」リンダの問いにアレックスは思わず深いため息をもらす。
「私、悪い予感がする。あなたがロンドンに行ってしまったら、何て言ったらいいか、もう二度と会えなくなりそうな気がして」
「大袈裟だよ。ケンブリッジからキングスクロスまで電車で一時間程度だ。いつでも会えるさ。わかるだろ? リンダ、昇進のチャンスなんだ、僕たちの未来のためでもあるんだ」
「私は、あなたさえそばにいてくれたら、それでいい。お願い、考え直して」
アレックスは、ベッドから上体を起こし、裸のままタバコに火をつける。
「タバコはやめてよ」
無言でアレックスはベッドから降りるとナイトガウンを羽織り、ベランダに出た。
平行線。そんな言葉がアレックスの脳裏に浮かぶ。リンダのことは愛している。だからこそ幸せにしたいと思うのに、考え方の違いなのか、その想いは交わらない。その切なさを紫炎に乗せて夜空に解き放つ。
「月が綺麗ね」
ぼんやり月を眺めていたアレックスの背中にリンダが声をかける。
「なぁリンダ、たった一年の辛抱だ。必ず君を迎えにくる。約束だ。だから、それまでは夜空に浮かぶ、あの月を見て僕のことを待っていてほしい。離れていても、僕も同じ月を見てる」
「アレックス」リンダが背後からアレックスの腰に手を回す。
「ねぇ、もし誰も月を見ていなかったら、月はどこにあると思う?」
リンダの問いかけの真意が分からずアレックスは暫し考えを巡らせたあと口を開く。
「どこって、いつもと同じさ。地球の周りを回っている」
「残念だけど違うの。誰も見ていないと、月はどこにでもあるし、どこにもないのよ」
「それは誰も見ていないから特定できないってだけの話だろ? たとえ見ていなくても、時間が分かれば、これまでの観測データから正確な位置がわかるはずだ」
「違うわ。そういうことじゃないの。月がそこにある状態や、別の場所にある状態がいくつも重なって同時に存在しているの。観測する事で定まるのよ。聞いたことない? シュレディンガーの猫って」
「放射能発生装置と一緒に箱に入れられた猫が、生きているか死んでいるかは観測してから定まるってやつか。正直分からないな。猫自身からしたら見られなくても定まっているじゃないか」
「確かに受け入れにくいわね。でも量子論の世界では重ね合わせの状態というものが認められているわ、もっとわかりやすくいうなら、二重スリット実験というものがあるの」
リンダはもともと興味のある分野を語るのが好きだった。そしてそれはしばしばアレックスをうんざりさせる。
「また、今度ゆっくり聞かせてもらうよ」
アレックスはリンダに向き直り、唇を重ねた。
【Alex in London】
「アレックス、体に気をつけて」不安が晴れないまま、リンダは駅のホームでアレックスを見送る。
「いいかい、今生の別れなんかじゃない。週末はできるだけ戻ってくるよ。それと、月だ、眠れない夜は月を見るんだ。僕も見てるから」
「ええ」
「また連絡するよ」アレックスはそう言ってリンダを抱き寄せた。
「アレックス、でもやっぱり私怖い」リンダは涙に潤んだ瞳で見つめ返す。
「大丈夫、何も問題ないよ。もう行かないと」
アレックスは手を解き、列車に乗り込むと、車窓から覗くリンダの哀しげな目から顔を背けた。
ロンドンでの暮らしは順調だった。アレックスは月に一、二度はリンダのもとを訪れ、愛を確かめ合い、月夜には空を眺めながら電話した。いつものように、テラスから月を見上げいると携帯電話が鳴った。リンダからだ。
「アレックス、そこからも月が見える?」
「ああ」
「不思議ね、離れていても一緒に同じ月を見てるっていうだけで、あなたと繋がっている気がする」
「僕もそう思うよ。何だったけ? 誰も見ていないと月はどこにでもあるんだよね? それなら、君を観測するものが存在しなければ、僕の側にも存在するってことかな?」
「バカね、でもそうだったらいいのに。ねぇ、今日の月は何だか青く見えない?」
「ああ、確かに。まさに、once in a blue moon (滅多にないこと)だね」
その時、部屋の方からカタカタと音が聞こえてきた。
「何だ!」アレックスは思わず声を上げる。
「一体何なの?」リンダが電話口で声を荒らげる。
その音は、テーブルに置いてあるティーカップから発せられていた。原因は日本で言うところのたかだか震度二程度の地震によるものなのだが、極めて地震の少ないイギリスに暮らすアレックスには、現状を理解するのにしばしの時間を要した。
「アレーックス!」リンダの叫び声と大きな物音が電話口から聞こえた。
「リンダ! どうしたリンダ! お願いだ、返事をしてくれ!」
アレックスの必死の呼びかけも虚しく、ただ沈黙が流れた。
「お願いだ、リンダ」
消え入りそうな声でアレックスがつぶやくと、絞り出すようにリンダが答えた。
「ア……レッ……クス、愛……して……る」
それっきりリンダからの応答は途絶えた。
【Linda in Cambridge】
アレックスがロンドンに移って半年が過ぎた。リンダの中で当初感じたあの不安は徐々に消えていき、杞憂であると自分を納得させようと努めたが、それが完全に消えることはなかった。
アレックスは忙しい合間をぬって、時々リンダに会いにくる。それがリンダの心の支えとなっていた。
「やっと半分ね」リンダはワイングラスを傾ける。
「そうか、もう半年経ったのか。なに、あと半年なんてすぐさ」ディナーの席でアレックスはカトラリーを手繰りながら言う。
「見解の相違ね。あなたには、このグラスに入ったワインが半分しかないように見えてる。でもね、私にとってはまだ半分もあるの。相手を想う強さの違いかしら?」
「参ったな。その話は長くなる?」
「意地悪な人ね」リンダは残りのワインを一気に飲み干した。
「おいおい、無理しないでくれよ」
「大丈夫よ。アレックス、明日は早いの?」
「ああ、今日は早目に戻るよ」
食事を終えて、アレックスは胸ポケットに手を伸ばす。
「タバコはやめて」
その言葉にアレックスは伸ばした手を引っ込めた。
「紅茶を淹れるわ」
「頼むよ」
「次はいつ来れるの?」リンダはティーカップ片手に問いかける。
「分からない、でもクリスマスは戻ってくるよ」
「約束よ」
「ああ、じゃあもう行くよ」アレックスは飲みかけの紅茶をテーブルに戻して立ち上がった。
数日後、リンダは夜空を見上げると、その日の月は心なしか青く見えた。それが心の中に潜む不安を掻き立て、リンダは衝動的にアレックスに電話をかけた。
「アレックス、そこからも月が見える?」
「ああ」
いつもと変わらないアレックスの調子に、リンダは胸を撫で下ろした。
アレックスは、いつかした量子論の話を持ち出してきた。リンダはあの時言いそびれた二重スリット実験の話をしようかと思ったがすぐに思い直す。アレックスはそういった話題に興味がないことは分かっていたからだ。貴重なこの時間は大切にしたい。しばし青い月を眺めていると、それは突然襲ってきた。
震度七に相当する巨大地震。欧州において、地震とは日本のように身近なものではない。1580年にイギリスを襲った地震では、神罰と恐れられショック死したものさえいた。
「一体何なの?」自分の置かれた状況に理解が追いつかず、リンダは絶叫する。
石造りのアパートメントが軋み不気味な音を立てる。恐怖のあまりリンダはアレックスの名を叫ぶ。その瞬間、建物が倒壊した。
気がつくとリンダは瓦礫の下敷きになっていた。近くに落ちている携帯電話からアレックスの声が聞こえてくる。
「リンダ! どうしたリンダ! お願いだ、返事をしてくれ!」
リンダは必死に手を伸ばし、携帯電話を掴む。
「お願いだ、リンダ」
リンダは最後の力を振り絞り、その呼びかけに答えた。
「ア……レッ……クス、愛……して……る」
その手から携帯電話がこぼれ落ち、リンダは息を引き取った。
【Alex in Cambridge】
アレックスはテレビをつけて事態を理解した。ケンブリッジを震源とする巨大地震が発生し、街は壊滅状態にあることを。国民はパニックに陥り、公共交通機関は完全に麻痺し、その機能を失っている。回線も遮断されて、安否を確認することさえできない。リンダの最後の言葉が頭をよぎり、最悪の事態が脳を侵食していく。その思いに支配されないよう、アレックスは大きく頭を振った。道路もところどころ寸断されているというニュースを耳にしたアレックスは、数日間何をすることもできずに苛立ちを募らせ爪を噛んだ。
いつまでも何一つ復旧する見込みのない状況に痺れを切らしたアレックスは、友人からオフロードバイクを借りた。早くに両親を失ったアレックスにとって、リンダはかけがえのない恋人でもあり、家族でもある。明日になれば復旧するなどという楽観的な考えはもてなかった。
普段なら二時間程度の道のりが、やけに遠く感じる。それでも迂回を繰り返し、少しずつケンブリッジへと近づいていく。だが、それでも変わり果てた街の中から、リンダのアパートメントを特定することは困難を極めた。見慣れた風景は一変し、もはやそれはただの荒野と化している。かつてリンダのアパートメントだったと思しき場所に辿り着くと、アレックスはサイドスタンドを出すことも忘れてバイクを降り、その車体は横倒しになった。その場で呆然と立ち尽くしていると、ふと足元に落ちている一冊の本に目が止まり、アレックスはおもむろに拾い上げる。
数ページめくってみると、そこには、観測者がいないと月の位置は定まらないという記述があり、それがリンダのものであると確信し上着のポケットに押し込んだ。
アレックスは警察、仮設テント、病院を駆けずり回り、ついに変わり果てたリンダと対面を果たす。守ることができなかった現実に打ちひしがれたアレックスは膝から崩れ落ち、冷たくなったリンダの手を握り叫んだ。
「リンダすまない」
都市機能は依然麻痺している。田舎から駆けつけたリンダの両親がその亡骸を引き取り、とりあえず簡潔な葬儀を済ませた。もう、アレックスがこの地に留まる理由も無くなった。ここで得られたリンダとの思い出の欠片は、生前彼女が愛読していた量子論の本だけである。アレックスはリンダを思い起こす縁《よすが》として、そのページをめくると、あの日彼女が口にした「二重《ダブル》スリット実験《エクスペリメント》」の見出しに目を奪われた。
【Double-slit experiment】
アレックスが拾った本より
光の正体は波か粒子かは科学者の間でも長い歴史の中で議論が交わされてきた。観測されてないと月の位置が定まらないなどという話はおよそ一般的な人々には理解に苦しむのではないだろうか。
そこで、この章では二重スリット実験について解説することとする。
例えば二枚の壁を横に並べて、その間に若干の隙間《スリット》を設ける。そのスリットを狙ってボールを投げると、その奥にある別の壁にあたり、その痕跡を残すものとする。これを繰り返すと、奥の壁には一筋の痕が残る。
次にスリットを二つに増やすとどうなるか? 当然、二筋のボール痕が残される。ここで、ボールは粒子と見ることができる。これが粒子としての性質なのだ。
では、次にその壁をプールに入れて、今度はスリットの間から波を通し、力が強くかかったところに痕跡が残るものとしよう。スリットが一本の時は、ボールの時と同じように一筋の痕が残るわけだが、二本にすると多数の筋が残される。これは、スリットを通過した波がお互い干渉した結果だ。これが波の性質である。
これを踏まえて、光がお互い干渉しないよう、光の粒をダブルスリットに通すことを繰り返す。理屈の上ではボールの時と同じように、二筋の痕がつくはずだが、何故か多数の筋が発生する。つまり、粒子でありながら波として振る舞ったということだ。
この話はこれで終わりではない。今度は光の粒が左右どちらのスリットを通ったかを観測することとする。すると不思議なことに、残される筋は二本だけになる。今度は粒子としての振る舞いを見せたのだ。そこには観測していたかしていないかの違いしかない。
そこで、事前に観測していたかどうかを分からない状態で同様の実験をしてみると、その結果は二本の時と、多数の時とに別れた。勘のいい読者には察しがついたことと思うが、観測している時は二本、そうでない時は多数という信じられない結果が確認されたのだ。
量子の間には過去や未来といった概念はなく、さまざまな状態が重ね合わされた状態で存在しているのかもしれない。
【The Backs】
絶望の中アレックスはロンドンへと戻った。リンダを失った今、その隙間を埋めるものは何もない。形見である量子論の本を見るともなしに眺めてみるが専門用語が多く、その全てを理解することはできなかった。だがリンダが読んでいたという、ただそれだけの事実が今もリンダとの繋がりのように思えて、気がつけばその本を手に取って日々を過ごしていた。アレックスは本をテーブルに置き、タバコの箱を手に取るが、リンダの言葉が頭をかすめ、そのままゴミ箱に投げ捨てた。生きている時にタバコをやめていたらリンダは喜んでくれただろうか? ロンドンに来なければ何かしら運命の歯車の回転を変えることができたのだろうか? リンダをロンドンに連れてきていたなら……、そんな無意味な仮定が何度も何度も頭の中で繰り返される。
いつまでも引きずっていても仕方ないことは分かってはいる。だが、アレックスにとってそう簡単に割り切れるものではない。件《くだん》の震源地はケンブリッジを縦断するケム川のほとりにある緑地公園、ザ・バックスだと知ると、そこへ行ってどうなるものでもないとは分かってはいても、その目で確かめずにはいられない。アレックスは再びケンブリッジの地を踏む。
そこは、風光明媚な観光地であったが、今となっては、その面影を伺い知ることはできない。不自然に隆起した地形、ひび割れた地面、尋常ではないエネルギーが加わったことが伝わってきた。公園は立ち入り禁止になっていたが、アレックスは規制線をくぐり中へと足を踏み入れた。
ここが、こここそが災いの元凶であり、リンダの命を無情にも奪ったのだと思い、アレックスは拳を握りしめた。足元に注意しながら、かつて遊歩道であったであろう場所を、探りながら歩く。ケム川はかつての流れを取り戻したようだ。そしてそれは、ここがかつてリンダと何度も訪れた場所であることをアレックスに思い起こさせた。
その時、強い揺れがアレックスを襲う。
余震
足元の地面が裂け、バランスを崩したアレックスはそのまま地割れの中へと吸い込まれていった。
【Linda’】
アレックスは、見覚えのある部屋の中で目を覚ました。
「ここは、……」ベッドから起き上がり、目の前の光景に思わず繋ぐ言葉を見失った。
見間違うはずなどなかった。そこは、先の大地震で倒壊したはずの建物、リンダのアパートメント、もっと言えばリンダの部屋だ。
不意に、頭に鈍い痛みを感じたアレックスは、反射的に手を当てるとそこには包帯が巻かれていた。混沌とした頭の中をアレックスは必死に整理して、現状を理解しようと記憶の糸を辿り思考を働かせる。ここにくる前は、ザ・バックスにいた。そこで余震が起きて、地割れに吸い込まれた、そして、……。
記憶の糸はそこで切れた。アレックスは自分はそこで死んだのかもしれないと思った。だが、すぐに思い直す。幽霊という状態がどんなものかは分からないが、体に変化があるようには思えない。これまでとなんら変わらない。ベッドサイドに置かれたコップを持つことも、それを満たす水を飲むこともできたし、今も感じる痛みは生きている証明と思えた。アレックスは部屋の中を見渡した。見慣れた部屋ではあるが、どこか違和感がある。注意深く見ていると、いくつかの点に気づいた。時計の色が違う、鏡の位置が違う、花瓶の柄が違う。
「ガチャ」ノブが音を立て、玄関のドアが開いた。そして部屋に入ってきたのは、……
「リンダ! そんなまさか! 生きていたのか! 一体これは?」アレックスは驚きのあまり声を上げる。
「どうしたの? 幽霊でも見たような顔して?」そんなアレックスをよそにリンダは微笑みを浮かべながら、買い物袋を胸の前に両手で抱えたままキッチンへと向かう。
「お腹すいてるでしょ? 何か作るわ」
アレックスには依然目の前の光景に理解が追いつかない。生気に溢れたリンダが目の前にいる、ただ言えることはこれが夢だと言うならこのまま醒めないでほしいということだけだった。
「痛」アレックスのこめかみに再び痛みが走る。
「アレックス、まだ無理しちゃダメよ。横になってて。大丈夫、私はどこにも行かないから」そう言って笑みを見せたリンダは鼻歌交じりに調理にかかる。
その姿、立ち振る舞いはまさにリンダそのものではある。だとするとあの時の遺体は何だったのだろうとアレックスは考えを巡らすが答えは出ない。
「お待たせ、さぁ食べましょう」リンダがパスタをテーブルに置きアレックスを呼ぶ。
アレックスは勧められるままに席に着くと、すぐさまリンダに問いかける。
「一体どういうことなんだ、説明してくれリンダ!」
「慌てないで、まずは食べましょ。二人で食事なんて久しぶりじゃない?」リンダはワインのボトルを手に取りグラスに注いだ。
アレックスは無造作にフォークでトマトソースのかかったパスタを口に運ぶ。それは間違いなくリンダの味だった。
「もういいだろ、リンダ? そろそろ教えてくれ!」
「アレックス、落ち着いて。いいわ、ゆっくり話しましょ。でも、そうねぇどこから話したらいいかしら」そう言ってリンダは傍に置いてあったカバンからタバコの箱を取り出して一本取り出すと口に咥えた。
「タバコ? いつから?」
「あ、ごめんなさい、《《私》》吸ってなかったかしら? でもこれだけ吸わせて」
リンダは慣れた手つきでタバコに火をつけると、天井を見上げて煙を吐き出した。
「そうね、まずは、Law of attraction(引き寄せの法則かしら)」
【Law of attraction】
「引き寄せの法則?」アレックスにも聞き覚えのある言葉ではあったが、リンダの意図は見えない。
リンダは立ち上がり、ハンガーにかけてあったアレックスの上着から、量子論の本を取り出して戻ってきた。
「そう、あなたの世界にも同じ本があったのね。読ませてもらったわ。でも、内容はちょっと違ってた。残念だけどこの分野においては大分遅れているみたいね」
「引き寄せの法則というのは、ポジティブに考えれば良い事が置き、ネガティブな思考は悪い出来事を引き寄せるということだろ? 宗教っぽいけど、量子論の中では肯定されているということくらいは知っている」
「基本的な話はそうね。そこで私は願い続けたの、あなたに会えるようにね。勿論ただ単純に願っただけじゃないんだけど、そこは重要ではないわ。そして実際あなたに会えた」
「話が見えない。いいかい? 僕は仕事で君をケンブリッジに残し、ロンドンに移った。そして、君はケンブリッジで起きた大地震で、……命を落とした」
しばし沈黙が流れる。タバコから灰が落ちた。リンダはタバコの火を灰皿で消すと、ゆっくりとアレックスに視線を移した。
「そう、やっぱり《《私》》は死んじゃったんだ」
「どういうことだ! 君はリンダじゃないのか?」
「落ち着いて、私はリンダよ。そうね、結論を言うとここは並行世界《パラレルワールド》なの。でも、私から見たらあなたのいた世界がパラレルワールドね」
アレックスはワイングラスを手に取り、一気に流し込んだ。
「本の中にもシュレディンガーの猫ってあったでしょ? 生きている状態、死んでいる状態、その他の状態が色々重ね合わせられて同時に存在しているの」
「もう一本いいかしら?」
リンダはタバコの箱を手に取るが、何も言わないアレックスを見て、静かに戻した。
「パラレルワールドは共通する部分も多いんだけど、ところどころ違いがあるの」
信じていたわけではないが、アレックスにはパラレルワールドについて、いくらかの知識があった。パラレルワールドから持ち帰ったというリヴァプール出身の世界的に有名なロックバンドのカセットテープ音源も動画投稿サイトで聴いたこともある。だが、結局のところそれは既存の曲を切り貼りしただけにしか思っていなかった。
「こちらの世界では、……」リンダが言いにくそうに口を開く。
「死んだのはあなたなの、アレックス」
「バカな!」
「本当よ、お願い最後まで話を聞いて。あなたの世界の私が何をしていたのかは知らないけど、こちらでの私は量子学の権威なの」
「僕の知っている君はただの量子マニアだったよ」
「そう、でも量子に関心を持っていたという共通点は興味深いわね」リンダはワインを一口含んだ。
「あなたは、こちらでもロンドンへと移った。そして大地震が起きたのはロンドン、そこであなたは命を落としたの」
「信じられない」アレックスは首を振った。
そんなアレックスを気にも止めずリンダは続ける。
「地震がきっかけでパラレルワールドの入り口が開くなんて話聞いたことない?」
「確か日本で震災地に向かうボランティア団体がパラレルワールドに迷い込んだなんて話があったけど、所詮都市伝説だろ?」
「私はその話の信憑性を判断する立場にないけど、そういったことは起こり得ると私は研究の中で確信したの」
「続きを聞かせてくれ」
「私はこちらでの長年の研究と併せて、引き寄せの法則を実践したというのはさっき言ったわね。そして実際こうしてあなたとの再会を果たした。あなたがパラレルワールドの入り口に立ったのは決して偶然じゃない。引き寄せられたの」
「そんな、願ったくらいで、……」
「それだけじゃないの。その地震によって、自発的に対称性が破れたのよ」
リンダはワインのボトルを手に取り、アレックスの正面に置いた。
【Spontaneous Symmetry Breaking】
「自発的《スポンテイニアス》対称性《スィメトリィ》の破《ブレイキング》れ?」
「そう、略してSSB」
アレックスは量子論の本でその言葉を見たことがあったが、結局のところ意味が分からず深く追求することはなかった。
「いい? そこからこのワインボトルが上げ底になっているのが見えるでしょ」
「ああ」
リンダはその返事に軽く頷き、その場でボトルをくるくる回転させた。
「どうかしら? こうして回してみても同じように見えるわよね?」
アレックスは無言で頷く。
「これを対称性というのだけど、例えば小さな球をボトルの口から上げ底の中心に落とすことをイメージしてみて」リンダはアレックスが話についてきているか確認するように間を置いた。
「続けてくれ」
「もし、球がそこで静止すれば対称性は保たれる。だけど、球はいずれ自然に転げ落ち、対称性が破れるの。球が自発的に対称性を破るのよ」
「言っている意味は分かる。だけど、それが何だと言うんだ」
「同じ事が空間にも起こるのよ。地震によっていくつもの世界で対称性が破れた。そこに引き寄せの法則と、私の研究の集大成を注ぎ込みあなたをここに導いたの」
「さっき君は、やっぱり私は死んじゃったんだって言ってたけど、あれはどういう意味なんだ?」
「確証はないわ。こちらの世界であなたは死んだ。別の世界からあなたをこちらに呼び寄せたら、代わりにあなたの世界の私が死ぬんじゃないかって思っただけ。これについては何の学説も存在しない。単なる私の仮説よ」
実際、そのような理屈でアレックスの世界にいたリンダが死んだなどという証拠などない。全く無関係な話なのかもしれない。だが、それが真実である可能性を考えた上で、まるで気にも止めず些末なことのように話すリンダにアレックスは言いようのない異常性を感じた。目の前にいるのは、姿形こそかつて愛したリンダではあるが、アレックスの目には、まるで異形の生物のように映った。
「分かっているのかい? 君はきみ自身を殺したのかもしれないんだぞ」
リンダはその言葉を微笑で返して言う。
「そうかもしれないわね。でも、何も問題ないでしょ? 私はここにいる。そして、あなたも《《ここ》》にいる。あなたのいた世界には、もうあなたも私もいない。それでいいじゃない」
「君は一体、……」
「おかしな事を言うのね」その笑顔はアレックスには悪魔の微笑みに見えた。
「私はリンダよ」
執筆の狙い
SF企画【PiS】参加のために書き下ろした作品です。
初めてのSF作ですので拙いところがあると思います。よろしくお願いします。