作家でごはん!鍛練場
福沢健水

蝿々

 有休5日を含む7連休の半ば。とりわけ何か用事があるわけでもない。もし仕事も用事とするならば、用事をしたくないから休んだし、そもそも用事を任されていないから休めた。
 目覚ましは出社日だと思い、ここぞとばかりに規則正しく騒がしくして私の戯言と厚く生ぬるい空気をどこかに消しさった。私の指は、目覚ましを止めると布団の中へと戻っていった。再び生ぬるい空気が発生して、時間が止まる。そう思っていたが、生ぬるい空気は、ならず者を連れてきた。ひどく腐ったにおい、それは、入居日に感じたそれをにおいにしたようだった。
 私が住む11号室は事故物件ならぬ汚物件であった。元は白かったというアパートの壁は土でかためたような黄土色となり、築というよりは年代を聞きたくたるような歴史のある建造物に見えた(実際は築10年程度)。大家は管理は特にしていないようで、クモの巣や鳥の糞がふんだんに装飾されていた。よって、家賃は相場よりも低く、その中でもひときわ低かったのが汚物件11号室であった。
 玄関からまっすぐ伸びる廊下の先にスライド式の扉を隔てて部屋があった。入ると最初に目にはいったのは、色あせた茶色の床の左右の奥にきれいに区画されたように長方形の鮮やかな床板が敷き詰められていた。私がそこにテレビ台とベッドを配置するとしっかり、色あせた床だけが残った。また、壁には大小、多色、さまざまなシミがあった。
 この部屋は汚い、そう視覚で感じた瞬間のあの胃が先に反応する感じが、今、私の嗅覚を介して胃を刺激した。
 布団から出て見ると、黄土色の一本の紐のようなものが5畳の部屋の宙を漂っていた。今にも切れそうなくらい細い紐は私の目の前を漂い、呼吸による空気の揺らぎに応じた曲げになる。静かに手で触ろうとすると、すりぬけてしまう。その現象を少々寄目になりながら、観察していると不意に吸った空気で紐を鼻の穴に手繰り寄せてしまった。
「ヴぉ」
 臭いの三文字が浮かぶ前に身体が先に反応した。寄り目のための筋肉が急に緩み、黒目がピンボールのように回った。なんどか跳ね返ると、両目は一つの落としどころを向いた。
 ドアの脇に放られたゴミ袋Lサイズが2つ。一つは8分目で口が横になっていて直近の飯の容器を吐き出していた。もう一つは満杯で口が閉まっていたが、その隙間から帯を伸ばしていたのだ。
 嫌悪のまなざしを向けたつもりであったが、目を回したせいで、感情の精度が狂ったようでゴミ袋たちはこの部屋、ついては私に似合っていると思ってしまった。
 何度も収集車に乗り遅れたこの部屋に嫌に似合っているモノの臭い。一体何回乗り過ごしたのだろうか。いや、乗る必要がなかったのだ、一度乗れたところでまたゴミはたまっていく。ならば、ギリギリまでこの部屋で寝て、間に合う最終に乗った方が…などと捨てなくていい理由を模索してると、目の1㎝先に帯が流れてきた。
 その時、呼吸をするのも呼吸を止めるのを忘れて、目のピントの操作に集中した。帯の上に、立派な蝿が六本足で静かに止まっていた。そして、小さな六角形を敷き詰めた大きな眼でこちらを見ていた。頭、胸、腹どれも乾いた黒を帯び、体中に生えた産毛のような黒い毛たちが輪郭にノイズをかけたようで、気味悪さをさらに際立たせた。目が合ってしまったような合わせたような間でハエは帯の伸びる方に向き直り、帯の流れとともに行ってしまった。
 追いかけようと立ち上がった時、体に帯が触れ、その振動が、乗っていた蝿に伝わり宙に飛んでいった。そして、挙動は蝿のそれで体のノイズを部屋中に振り撒く点になった。
 蝿と意思疎通を無意識に図ったのか図られたのか、疑問は目の前の悩みであったゴミ袋の処遇を決定させた。蝿の食住を提供し、その真意を探ろうとした。それにもし、意思疎通を図っていたら蝿たちにきちんとした生活環境を提供した私は奉仕をもらえるのではないか。突飛な理由ではあるが、それは帯を考慮すれば、真実のような気がして、平凡な億劫さを通り越し、研究のような意義すら出るようであった。
 研究者のような面持ちで、帯を掴んでみた。ゴミ袋と黄土色から水回りのぬめりのような感触を想像していたが、感触はなく、掴んだと思ったところから、帯は崩れ粒子となり舞った。帯は煙草の煙のように筋を描く粒子の集まりなのであった。しかし、煙草の煙の発生方法のようにゴミ袋から突如帯が発生したわけではない。昨日の事象が一つ挟まる。

 カーテンの木漏れ日からわずかに縁どられた部屋は、くすんでいた。前日のスマホと共にした夜更かしのせいだと臭いながらカーテンを開けると、黄色い粉が砂埃のように部屋中を舞っていた。特に、ゴミ袋の周りは、濃度が濃い。遅刻が確定した時のような嫌な冷静さで窓を開けて外に粒が流れるのを待った。しかし、30分経っても、一向に中の濃度は変化がなく、窓際を見るとフィルタを隔てたように外へは流れていなかった。そこでいつかの弁当の蓋で仰いでみると、外へ流れていった。だが、粉たちは妙な粘り気でぬるぬると移動するので、明日のゴミの日に元を絶とうと決め、その日もスマホと過ごしたというわけである。

今日起きてみれば、事態は好転したのか悪化したのかゴミ袋を捨てそこなったのか捨てずにすんだのか。そのすべては蝿が知っているような気がしている。

 帯は掴んだところから徐々に崩壊し、最後には全て粒になっていた。居場所を失ったように3匹の蝿が飛び回り始めたかと思うと、皆ゴミ袋へと向かった。無論私もである。

 厚い臭いが漂ってくる、堆積した弁当のプラスチックがゴミ袋の球体を形成していた。成程、適当に積み重なり隙間ができているし、素材はプラスチック実に頑丈で住みやすい環境だと感心していると、袋の内側に白い粒がいくつもついている。卵と幼虫であった。コバエの姿も見える。まじまじと見ているうちに手が伸び、ガサッと音を立てると、幼虫は這う。コバエは舞う。
 ふと気づく、この汚物に群がる彼らに何を期待しようというのだろうか。意思疎通などできようか、でもできたなら…。私は久々に顔を洗いに廊下へ出る。澄んだような輪郭に気づいた。ドアは開けっ放しにしていたが、帯や粒は廊下には出ていなかった。
 洗面所は玄関すぐのトイレの横である。床には会社の書類や郵便物で埋まり、整列された活字が催促しているようであった。顔を洗い戻ると、蝿が5匹隅の低いところを舞っていた。見ると、角にクモの糸が無造作に張られており、蝿たちはどうしたものかと思索しているように見えた。
 事の顛末を見届けようとも思ったが、恩を売っておこうと取ってあげた。すると、蝿たちは床に降り立ち、こちらを向いた。そして、目が合った。確かに目が合ったのだ。そして、またちりじりに散っていった。
 確かに、私は蝿と意思を疎通したこれは真実である。私に感謝した。そうなのである。蝿が手に乗って踊ったり、整列したりなどと様々なことを考えながら今夜は眠った。蝿と一緒に寝ることなどもできるのだろうか。
 次の日、変化はすぐ訪れた。起きると帯は黄金に輝き、床から天井まで所狭しと舞っていた。私も不思議と臭いに慣れ、目の前の帯に5匹。それは先日の蝿であるそう考えずにはいられなかった。帯は静かに廊下の方へ流れていた。
 私は、帯の行く先を追おうと飛び起きる。「アッ」と高鳴る鼓動と一緒に漏れ出る。帯に体が触れてしまった。しかし、崩壊は起こらず、ただ揺れていた。感心もそこそこに廊下へ向かう。帯は玄関まで伸び、そこで層を重ねるようにゆらゆらと漂った。ガサガサと踏み込み、ロックを解き開けると、「おいしい」。そう漏れ出るほどの空気とアスファルトを照らす日差し。そして、2階のアパートの廊下を支える柱に大きなクモの巣とその中央に黄色と黒の縞模様の蜘蛛が獲物の待っていた。
 床にある書類を拾い上げ、丸め武器を作ると、巣をひっかけ取り、落ちた蜘蛛を踏みつけ殺した。
 すると玄関から風を感じた。帯が玄関を出て、空へ向かい始めた。先頭には5匹の蝿が乗っており、みるみる速度を上げ、電車のごとき通過を見せた。理解のつかみどころを見失っているとガサゴソとゴミ袋の音が聞こえた。振り返ると帯につられ、ゴミ袋が玄関めがけて突っ込んできた。
 思わず腰を抜かしてしまった。
「ガシャッ」
「メコリ、ミシ」
と玄関の枠に引っ掛かり、プラスチックの城をつぶし始めた。袋を部屋に戻そうと触れた瞬間、帯はまたするすると流れた。上には幼虫と卵が乗っていた。そして帯はどこかへ行ってしまった。
 中には一匹もハエや卵は残っていなかった。大敵を取り除く私を見つけ、利用したのだ。この物語の主人公は私ではなく、蝿だったのだ。
 不意に隣の100号室のドアがに開いた。大家であった。私は瞬間袋を部屋の中に放った。
「こんにちは」
 かけられた声に発声が詰まり、シャイな子供のようなうなずきになってしまった。
「あっ、そこの蜘蛛の巣、取ってくれたんだね。ありがとね」
 疲れた笑みを見せて大家は、駐車場の方へ行ってしまった。
 すっかり軽くなった腰を上げ、ゴミ袋を持って戻ると、帯のない部屋に怠惰な残骸の汚さだけがあった。

蝿々

執筆の狙い

作者 福沢健水
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初めて掲載します。
外に出るためにハエに利用された人間の小説を書きました。
よろしくお願いします。

コメント

夜の雨
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「蝿々」について。

「帯」って、なんですか?
重要な役目をしていますが、「帯」が何なのかわからないので、作品がわかりにくくなっています。
あと、御作は細部のエピソードを結構具体的に描いているのですが、細部ばかりではなくて距離を取って描くことも必要だと思います。
あまり近くでばかりモノを観察してもわかりにくくなります。
近くで見たり、少し距離を取ってみたりなどをすると、モノの本質が見えてきたりします。

A
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布団から出て見ると、黄土色の一本の紐のようなものが5畳の部屋の宙を漂っていた。今にも切れそうなくらい細い紐は私の目の前を漂い、呼吸による空気の揺らぎに応じた曲げになる。静かに手で触ろうとすると、すりぬけてしまう。その現象を少々寄目になりながら、観察していると不意に吸った空気で紐を鼻の穴に手繰り寄せてしまった。
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例えばこの「A」の部分です。
おそらく「帯」のことを書いているのだろうと思いますが、これだけだと何なのかわかりません。
なので具体的に「帯」の正体を読み手にわかるように書きます。
そうすると、御作のこのあとの「帯」の描写の部分が面白く読めます。
帯をこのように描写しているなぁと、楽しめるのです。

これは上に書いた「細部」と「距離を取って描く」とも、関連します。
Aは細部を描いているといった具合です。
距離を取るということで、離れてみると正体がわかるのではというようなことです。
読み手に「帯」の正体がわからないとお話にならないので、距離を取って「帯の正体がわかるように描く」。
というような意味です。

御作は蠅がアパートから脱出する過程を描いたものだと思いますが、結構細部のリアルを描いているので面白みはあるのですが、何かが欠けていると思います。
それを知るにも「帯」がなんであるのかとかがわかる必要があるのではないかと。
それと細部+全体像=本質が見える、のではないかと思います。

こんなところでした。

お疲れさまでした。

神楽堂
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読ませていただきました。

私も「帯」とは何なのか、イメージできませんでした。

>外に出るためにハエに利用された人間

そのような狙いで書かれたとのことですが、私には伝わってきませんでした。
ハエは外に出たかったのですか?

そもそも、私はどうしたいのか伝わらないです。
ゴミを捨てたいのか、捨てる気はないのか。
ハエと意思疎通したいのか、したくないのか。
したいのだとすれば、どういう意思疎通をしたいのか。

私の読解力不足のため、よくわかりませんでした。
申し訳ないです。

fj168.net112140023.thn.ne.jp

臭いを紐と帯として表現しているのでしょ。
臭いの紐:宙を漂う、うつらうつらとした臭い
臭いの帯:蓋の隙間から溢れ出る、ごうごうとした臭い

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ようは臭いの質量かな。
紐より小さければ糸になり、帯より大きければ……思い浮かばんが、絨毯とか?

福沢健水
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夜の雨さん
お読みいただきありがとうございました。
細部と俯瞰の描写の意識は、全くありませんでした。
また、部屋での現象の幻想性がなくなると思い、帯の正体は明言しませんでした。
参考になりました。ありがとうございました。

福沢健水
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神楽道さん
お読みいただきありがとうございました。
帯と蝿の関係をもっと書けば、よかったかなと思いました。
また、主人公の心理ももっと書けばよかったと思いました。
ありがとうございました。

福沢健水
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凪さん
お読みいただきありがとうございました。
帯を生地として何か作るところまで考え付きませんでした。
参考になりました。ありがとうございます。

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