作家でごはん!鍛練場

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 サビが花を拾ってきた。小雨が降る夜にランニングへ出ていったかと思うと、いくらもしないうちに白いユリの花を掲げて帰ってきた。通りに落ちていたんだ、とサビは言った。それは誰かが落としたんだよ、と私は訂正した。こんな立派なハッポウユリが自然と街中に落ちているわけはないんだから。そう言ったあとで私は、自分はいまよく考えもせずに「自然と」という言葉を使った、というよりその言葉がふと口をついて出たのだけれども、この「自然と」という言葉は、しかし、この場合じつにぴったりしている、と考えた。それは市場に山と積まれたベリーのようなもので、結局のところ、なにひとつ自然なところはないのだ。それから一種の連想によって、煤煙にくもる雨のなか、鬱蒼とそびえたつビル街の底、油まじりの泥のなかに横たわる白いハッポウユリの花を、「都会と自然」というそっけないキャプションとともに思い浮かべもしたのだが、とはいえもちろん私たちのアパートがあるのは海に近い川沿いの、コンクリートとアスファルトで造成された土地の上にあるなんの変哲もない住宅街なので、サビはたぶん近所の舗装道路を駆けているときにこれを拾い、紺のジャージに白いランニングシューズという格好で、ハッポウユリの花を片手にまるで聖火ランナーのようにして引き返してきたのだ。でもそれってねこばばなんじゃなかろうか、あるいは事故現場の献花かなにかを勘違いして持ち帰ったのなら嫌だな、けれどもサビは広義の生き物、つまりそれは雑草や虫をふくめた本当の意味での生き物ということだが、生きとし生けるものすべてに対して妙に優しいところがあるので、たぶんこの花にしてもほうっておけば車に轢かれてしまうか、雨に打たれてぐしゃぐしゃになってしまうのを心配して、とっさに拾ってきたのだろう、と私は考える。私がそんなことを考えているあいだに、サビは台所から「レモンだもん」という商標ラベルの貼られた、ただし今はレモネードではなく水道水で満たされた小瓶を持ってきて、テーブルの上に置く。瓶の口に挿されたハッポウユリの茎のさきには青々とした光沢のある葉と、三つの硬く閉じた蕾と、さらに三つの満開の花輪があり、その花弁はどう見ても傷ひとつなく透明に透き通っているので、私はこの花がついさきほどまで雨にうたれ道路にさらされていたことを、とうてい信じることができない。それどころか、もしかするとこの花はあまりにも精巧にできた造り物なのではないか、と一瞬のあいだ疑ってしまうほどで、実際、息をのむほどの自然美というものは、常になにかしら夢のような、どこか作り物めいたところがあり、おそらくはだからこそ、と私は考えた、昔の人は神様を信じたのだ。私はそんなことを考えながら、さらに一種の連想によって、以前どこかで読んだ文章の一節を思いださずにはいない。それは19世紀の末にとある外国の詩人が書いた創作とも随想ともつかない小品なのだが、ある日ふとした思いつきから自室の窓辺に匂やかな薔薇の花を飾った詩人は、その日の夜の夢で、彼の書き物机に以前から置かれている薔薇を象った、ただしこれは磁器製のインク壺からこんな非難を受ける──あんなものを部屋に置くなんて、あなたはもうsenseというものをなくしてしまったのね。ここでsenseというのはつまり美的趣味ということなのだが、それはさておき私が今この状況で、この、嫉妬の寓意ともとれる寸劇を思いだすのは、やはり滑稽だと思う。私は自分がサビの夢に出て、あなたはもう私に飽きてしまったのね、こんな花を拾ってきて部屋に置くなんて、と、あの薔薇のインク壺よろしく訴えている様子を想像する。目を覚ましたサビはどうするだろう? たとえば書棚の奥からフロイトの『夢判断』を取り出してきて学生の頃以来の熱心さで読みふけり、夢には顕在内容と潜在内容という区別があること、前者は後者の偽装として現れるのだということを、おそらくはみずからの記憶の脆弱さに対する軽い驚きとともに思い出して、それからあらためて自分の夢の解釈に取り掛かるのではないだろうか? 夢は抑圧された願望の充足であり、意識の下層から引き揚げられた鉛錘である……するとふいにサビが花の首に顔をよせて軽くキスをするので、私は小さく息をのんでしまう。サビは私のほうを振り返り、ちょっと困ったような表情で、なんの香りもしない、雨に濡れたからかな、と言う。
 ハッポウユリの花はよく香る、なぜならユリの花はよく香るから、というのが私のこれまでの了解だったはずで、ただしこうした演繹的知識の難点は、私がそれを経験的に確かめたことはないということ、また経験的なものにはいつも例外が生じるということなのだ。私は神妙な顔つきでハッポウユリの花に近づき、身をかがめて匂いをたしかめる。──よくわからない。匂いがないような気もするし、自分の鼻が鈍いだけのような気もする。けれども傍らにはサビの燃えるような期待の眼があり、それで今度は、吸い込んだ空気を肺まで入れずに、鼻孔の奥で転がしてみることにする。そんなことができるのかわからないが、とにかくやってみる。こういうのはね、ワインの味見みたいなものなんだよ、と私はサビに言う。すごく繊細なの。──吸いこむ。と見せかけて吸いこまない。いや吸いこむ。よくわからない。私は目を閉じて、中世の香水商人を想像してみる。なぜ中世なのか、どこかのブランドのフレグランス商品開発部のチーフとかではだめなのか、という疑問を打ち消し、私は中世の香水商人を想像する。しかもそれは例えば『薔薇の名前』のショーン・コネリーよりももっと柔和な容姿であるべきで、とはつまり唯名論者ではなく実在論者の顔をしているのだ……すると一種の連想によって、瞼の裏には七十年代に入って頭が若干禿げてきた頃のバート・ランカスターの顔が思い浮かび、同時に、あのヴィスコンティの映画に出てくる神経質な老教授は絵画に閉ざされた例のアパルトマンの中に、はたしてなにか花を飾っていただろうか、という茫漠とした疑問も湧いてきて、私はそれに答えることができないまま、いずれにせよあの空間に満ちていたのは絵画ではなく書物の匂いだったはずだ、ということを部屋の壁面を覆う背の高い書棚のことを思い出しながらなんとなく考え、それからしばらく前に、なんとかという名前のくちばしの黄色い批評家が、いずれ得体の知れない群小俗物雑誌に、「封じられた匂い」というこましゃくれた表題でこましゃくれた映画批評を書いていたことも、つづけて思い出してしまう。と書いたのは言うまでもなくプルーストだが、という批評家の書き方がそのときは妙に気に障り、というよりも癪に障り、この「言うまでもなく」という言い回しはこうした利口ぶった批評家たちのさかしらな批評的文体によって常に乱用されその意義を犯されつづけている、彼らによって輪姦され殺害されているのだ、と私は書店の雑誌棚の前で棒立ちになったまま、これは言うまでもなくソンタグがカフカへの解釈過剰を戒める際に語ったのと同じ文句を頭の中で引用しながら大袈裟に考えたのだったが、他方でそうした誇張がひきおこす情念の圧倒に対して、私自身は常に慎重かつ冷静な反省でもって釣り合いをはかるべきだ、ということも言うまでもなく分かってはいたので、結局のところ、私だって分かりきったことを敢えて言わなければならないときはあるのだ、なぜなら自分で理解するということと、他人に理解を求めるということとは別の事柄だからだ、という言うまでもないことを今になっていちおう頭には思いうかべてみるものの、これはやはりどう考えても当たりまえのことなので、自分ならこんなことをいちいち誰かに話したり、ましてわざわざ文章に書いて発表したりはしないだろう、なにしろ言うまでもないことなのだから、と鼻息が荒くなり、そのせいで目の前の、というよりも鼻の先のハッポウユリの花がわずかに揺れた。私はもう一度深く吸いこんだ。──やはりなんの匂いもしない。それにそもそもサビは私よりもはるかに鼻が利くのだ。私はハッポウユリに限界まで接近させていた顔を上げて天を仰いだのち、お手上げだ、とサビに手を上げて伝える。
 不思議だね、こんなに生き生きとしているのに匂いがないなんて、とサビは私に小首をかしげてみせ、それから卓上のハッポウユリにじっと探るような視線を送った。つられた私もそうだね不思議だね、こんなに生き生きしてるのに、と言おうとしてからその返答のつまらなさに気づいてやめ、ほかにすることがないので卓上のハッポウユリにやはり探るような視線を送った。探るような視線を送ったどころか、両腕を組んでから右腕を立て、右手を顎の先にあてがって、その探るような視線にふさわしい考え深げなポーズを取りさえしたのだが、だからといってなにか気の利いた返答が浮かんでくるということはなかった。むしろ私がそういうもっともらしいポーズを取ればとるほど、ふだん何気なく口をついて出るはずの言葉、舌先から遠慮なく飛び出してくるはずのぴったりした言葉はますます鉛のように重たくなっていき、舌の先から喉の奥へ、喉の奥から腹の底へ、沈黙の深みへと沈んでいくのだった。私から言うことはなにもなかった。なにも言うことがないな、と私は思った。これまでは言うまでもないことを言わずにいただけだったのが、いまやほんとうになにも言うことがなくなったのだ、と私は考えた。私たちはいまオブジェクトの前に立ちつくしているんだよワトスン君、と私は目の前のハッポウユリになおも探るような視線を送り、その探るような視線にふさわしい考え深げなポーズを取りながら考えた。このハッポウユリは私たちにとってオブジェクトになってしまった、だから私たちはこの花にほんとうの意味で触れることができないし、したがって視線を交すことも、あるいは声をかけることも、むろん匂いをかぐこともできない、なぜならオブジェクトの本質は、と私は考えた、まさにその接触不可能性にあるからだ。接触は不可能なんだよワトスン君、と私は繰り返した。それはもう絶対に不可能なんだよワトスン君、と私は念を押した。そしてそれが接触不可能であるがゆえに、と私は考えた、私たちは目の前のハッポウユリにこうしてただ探るような視線を送ることしかできないのだ。見たまえワトスン君、この花の中央の三枚の花弁に浮かんでいる模様を。内部から外部へと放射状に拡散しているこの赤い斑紋、まるで中空で爆発した直後の花火のような飛跡が見えるだろう。この模様はハッポウユリが特定の昆虫に向けて、とはつまりあの勤勉なユマグレバチに向けて送っている信号、というよりも記号なのだということを、君はもちろん知っているだろうね。そして付近を訪れたユマグレバチはこの記号に導かれてハッポウユリの花房の奥深い室内へと進んでいき、キルケの岩屋に招き入れられたオデュッセウスのように主人の供する甘い蜜の歓待を受けるのだが、この、主人としてのハッポウユリと客人としてのユマグレバチという、一見するとこれ以上ないほどに明快な主客の関係は、しかし容易に崩壊させることもできる、なぜなら私たちはここで関係を転倒して、つまりはユマグレバチを搾取する主人に、ハッポウユリを搾取される奴隷に見立てることによって、同一の現象をまったく反対の意味に解釈することも可能だからだ。これがどういうことかわかるかいワトスン君。おや、さっぱりわからないという顔をしているねワトスン君。なに考えてみれば簡単なことさ、この観察の結果が私たちに示していること、それは自然における意志の闘争と調停の過程なのだ。つまり彼らはたがいにたがいをみずからの意志に従わせようとし、その相反する力があるときどこかで拮抗する、するとはたから見れば自然の意志とでも呼ぶほかないような配剤が生じて、双方は磁石のごとく緊密に結びつけられ、次の瞬間にはたがいになくてはならないものになっているのだ。因果の鎖は円環を結び、前後の差異は失われる、これがどういうことかわかるかいワトスン君。おや、さっぱりわからないという顔をしているねワトスン君。なに言うまでもないことさ、ハッポウユリとユマグレバチはこのときはじめて接触する──つまり、いまやユマグレバチにとってのハッポウユリはオブジェクトではなくなり、ハッポウユリにとってのユマグレバチはオブジェクトではなくなり、たがいはたがいにとっての実在となるのだ。実在になるんだよワトスン君、と私は繰り返した。唯の名前ではなく実在になるんだよワトスン君、と私は念を押した。それはもう絶対に実在なんだよワトスン君、と私は結論付けた。君は見かけによらずロマンチストなんだねホームズ君、と誰かが答えたので、私はぎょっとして、となりにいるサビを凝視した。私の声が聞こえたのだろうか? サビは相変わらず卓上のハッポウユリに探るような視線を送っていた。サビが返事をしたはずはなかった。
 私は卓上のハッポウユリにふたたび探るような、というよりもほとんど疑うような視線を送り、いまやその花はこれまでよりもずっとよそよそしく、これまでよりもずっと謎めいて見えた。そしてその様子は私に、またしても一種の連想から、昨日の授業で死んだように沈黙していた学生たちを思い出させた──私はアパートの自室にある端末のこちら側から画面に向かい合い、同じく端末の向こう側にいる顔の見えない学生たちとのあいだにまるで深淵のような隔たりを感じながら哲学史の講義をしていた。いま私たちのあいだに広がっているこの深淵は、と私は画面上に共有した人物の画像にポインターを走らせながら言った、この散歩好きの哲学者が認識主体と物自体とのあいだに見出した深淵によく似ている。この深淵を君たちは決して飛び越えることができない、たとえどれだけ助走をつけたとしても飛び越えることはできない、けれどもそれは私がここでどれだけ声を張り上げたところで、と私は言った、そこに座っている君たちに私の声が届かないのと同じなのだ。私が西洋哲学の輝かしいコペルニクス的転回について語っているときに、君たちは欣然として動画視聴サイトの推しの配信者に投げ銭をしている、私が西洋哲学の難解な二律背反を前に沈思黙考しているときに、君たちは黙然としてアプリゲームのログイン報酬を集めるべく勤勉に立ち働いている、けれどもおそらくはこのこと以上に、と私は言った、現代の哲学的な瞬間というものも他にないのだ。接触はありえないのだよ、と私は言った、君たち視聴者は配信者の生活に決して触れることができないし、君たちアプリユーザーは十連ガチャの確率を決して変えることはできない、それと同じように、認識主体と物自体もまたたがいに接触することは決してありえない、もし接触があると思うならそれは君たちの思い込みであり、君たちの思いなしであり、危険なドグマなのだ。言うまでもなく君たちは私の言うこともなにひとつ理解することはできない、私は私の意識の部屋のなかにいて、君たちは君たちの意識の部屋のなかにいる、そしてどの部屋もほかの部屋からは完璧に隔絶されているうえに、と私は言った、君は君自身の部屋から決して外に出ることはできないのだ。君たちにできるのは部屋を出ることではなく、部屋に留まること、部屋の窓を覗くこと、それから部屋のなかを探索することだ、なぜならこの部屋は奇妙なことに一種の円筒状をなしていて、と私は言った、一面に窓がとりつけられているほかは天井もなければ床板もなく、上方を見れば星が輝き、下方を見れば底知れぬ暗闇が広がっているからだ。外に向かって窓を覗き、星に向かって眼差しを送り、暗闇に向かって鉛錘を下ろす、これが君たちに課せられたタスクだ、君たちが日々効率化を試み、タイパとコスパの収支を安定させようと躍起になっているタスクだ、外に向かって窓を覗き、星に向かって眼差しを送り、暗闇に向かって鉛錘を下ろす、君たちの生はこの繰り返しからなり、死という名前の来訪者がそれを断ち切るまで、誰もこの義務を放棄してはならないのだ。これを要するに、と私は結論づけた、君たちは個体だということだ。しかも厄介なことに、と私は条件づけた、君たちは単なる個体ではなくて、単位を欲しがる個体だ。理性も道徳も責任もなく、ただ闇雲に単位を欲しがる個体なのだ。なんなら単位を欲望する個体だと言ってもいい、理性も道徳も責任もなく、ただ闇雲に単位を欲望する個体なのだ。──君たちは『意志と表象の世界』を読んだことがあるか、と私はキーを叩いて画面上の人物の画像を切り替えながら言った、今ここに映っている老人、この、白髪を逆立たせ、右手にペンを持ち、意地の悪そうな目つきでこちらを睨んでいる老人、彼がこれを書いたのだが、しかし厳密には、と私は言った、ここに映っている老人の彼ではなく、まだ若かったころの彼、美しく、才気と情熱にあふれた青年だったころの彼がこれを書いたのだ。そしてこの青年はいまの君たちと同じように若く傲慢だったので、と私は言った、なにごとも権威とみれば唾を吐き、愚昧とみればやっつけて、タイパとコスパは重視しつつ理性も道徳も責任もなくただ闇雲に欲望する個体だったのだが、他方でそうした欲望がひきおこす情念の圧倒に対し、常に慎重かつ冷静な反省でもって釣り合いをはかるべきだ、ということも言うまでもなく分かってはいたので、と私は言った、結果的に単なる表象の世界ではなく意志の世界について、つまり窓の外に広がる限りない風景だけでなく部屋の下方に広がる底知れない暗闇について考えることができたのだ。ところで君たちは気づいているだろうが、と私はキーを叩いて画面上の人物の画像を前後にせわしなく切り替えながら言った、今ここに映っている老人、この、白髪を逆立たせ、右手にペンを持ち、意地の悪そうな目つきでこちらを睨んでいる老人は、例の散歩好きの哲学者とは違い、絵画ではなく写真による肖像が残っている、というのもこの時代にはじめて写真技術が一般に浸透し、と私は言った、写真機という名の小さな暗室に設置された銅板へ、哲学者の画像が事実ありのままの姿できざまれるようになったのだ。これ以降の哲学者は誰でも写真が残っている、カール・マルクスもフリードリヒ・ニーチェもルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインも写真が残っている、それで君たちはこれから先の哲学者について、と私は言った、まるでスクリーン上のハリウッドスターのように親しみを持って接することができるわけだ。親しみを持って接することができるのだよ、とあいかわらず画面の向こうで死んだように沈黙している学生たちに私は言い、そう言いながら、そういえばあのフクロウのような、一度見たら忘れることのできないぎょろ目のせいで、ヴィトゲンシュタインの顔は歳を重ねても決して柔和な印象を与えることはなく、そのため七十年代に入って頭が若干禿げてきたころのバート・ランカスターのような、神経質ではあるがしかしどこか柔らかいまさしく老教授然としたキャラクターを、ヴィトゲンシュタインは三十年代にイギリスの大学の哲学教授になったのちもけっして演じることはなかっただろう、ということをあのときも考えたのだった、と私は思い出した。──だが次回は、と私はふたたび画面上の人物の画像を切り替えて言った、時間を少し巻き戻して別の哲学者、彼はすべてを廃棄する哲学者と呼ばれているが、彼に連れられて歴史の終わりへといたる長大な階段をのぼることにしよう、これまでこの階段を最後までのぼりつめた者はこの哲学者をのぞけばただの一人もいないのだが、にもかかわらず最初の数段をのぼることにしよう、と私は言い、あいかわらず死んだように沈黙している学生たちをあとにして講義室を離れたのだった。──私はそんなことを思いだしながら、昨日はああ言ったものの、私はやはりすべてを廃棄する哲学者よりも散歩する哲学者のほうが好きだ、終わりの見えない階段をひたすらのぼりつづけるよりも、毎日決まった時間に、毎日決まったコースを彼とともに歩くほうが、いわゆる向上心というものに欠ける自分にはたぶん向いているはずだし、なにより健康的だ、ということをわりと真剣に考える。
 明日は散歩に行こうかな、と私は呟いた。それなら一緒に公園まで行こう、とサビが答えた。それに公園には、ユマグレバチだっているかもしれない。それからサビは卓上のハッポウユリをじっと見つめ、不意になにかを思いついた様子で、雨が上がったら窓を開けようか、と私の方を振り返る。私も少し考えてから、不意になんとなくサビの考えが分かった気がして、そうだね、雨が上がったら窓を開けようか、と繰り返す。

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執筆の狙い

作者
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数年前に書いて、投げて、流れたものを、数年たってから直して、直して、また投げました。

コメント

アン・カルネ
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「と私は言った」がちょっと多いかなあ? という気がしないでもなかったです。
でも引き込まれてしまいました。語り手の先生の雰囲気がとてもよく出ていたと思います。先生の設定に違和感を覚えることなく読めました。ただ、サビと呼ばれている彼(彼でいいのよね?)の姿のイメージがちょっと出来ませんでした。良き自由人ってイメージはあったのですが…。でも良いもの読ませてもらったなって思いました。

金木犀
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 サビって彼なの!?
 とアン・カルネさんの感想で衝撃をうけました金木犀が感想をばお送りさせていただきます。よろしゅう。

 確かに

>>私はサビに言う。すごく繊細なの。──吸いこむ。と見せかけて吸いこまない。いや吸いこむ。よくわからない。

→ここでヒロインは女の子なのかな、とは思いましたが、僕の中でサビは可憐な美少女だったのでイメージがどんがらがっしゃーんでした。

 さて、こうも改行しないと、一旦目を離したらどこから読んだかわからなくなる現象がまとわりついてくるので、素直に改行していただきたいと感じました……。
 ですが、まあそここそがこの作品を作者様が書こうと思った動機なのかもしれず、ならばそのような泣き言を吐くのも無粋かと最後まで読ませていただきました。
 とりま、ハッポウユリが、いい文章の基点になっていたと思います。
 色々と取り散らかった思考を読むのは何度か瞼を重くする作用がありましたが、ハッポウユリがでてきてサビとのやり取りなどが追加されると目が覚めるような想いがしました。人参をぶらさげた馬のように、以後はハッポウユリを追いかけて読んだ訳ですが、それが作者様の企図であるならまんまとしてやられたと思います。

 それでは執筆お疲れさまでした。

 

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アン・カルネさん

お読みいただきありがとうございます。

「~と言った」をどこで入れるか問題は、書いているときにかなり苦労した点です。作者的には、いちおう、「ここだ!」という箇所にまず打ち込んでいくのですが、読み返すと「なんか違うな」ということで一つ消し、一つ消すと別の「~と言った」とも平仄が合わなくなって、結局全部消してまた最初から打ち込みなおす、といった感じでした(まあ、この作業が結構楽しいのですが)。なので、数を減らすというよりは、全体のバランスを取る形で今後調整していきたいなと思っています。

サビの元ネタ(?)は大島弓子の漫画に出てくる「サバ」という名前の猫(絵では人型をしている)で、中性的な存在という感じです。なにしろ猫なので、「良き自由人」というイメージは私が書いているときのイメージとかなり近いのかな、と思いました。二枚目に書いたつもりでしたが、確かにもうすこし内面を掘り下げる描写があってもよかったかもしれませんね。

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金木犀さん

おつかれです。サビの性別に関してはアン・カルネさんへの返信で書いた通り、少女漫画的なノンバイナリーのイメージがベースにあるので、その想像でも作者の想定とはあまり離れていないです。イケwoメンです。

改行については、金木犀さんのおっしゃる通り、所謂ふつうの小説を書くなら読み手の便利のためにやったほうが良いけど、この手の小説ならあんまりいらないかな、という感じです。この内容で紙面の半分が真っ白、とかだと逆に落ち着かないというか……それなら会話文も鍵括弧使えばいいじゃん、となりそうですし……。そうなると全体の作りが変わるかなと思います。

物語が主人公の思考の展開だけで取っ散らかったまま終わらないよう、ちゃんと工夫はしたので、そこに気づいてもらえたのはうれしいことでした。

金木犀
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お疲れ様です。

や、単純に僕がこの作品を読んだ端末がスマホだったからというだけで、確かにパソコンからみると結構段落はあり、そんなに長くは感じませんでした。

読む媒体によって印象がこうも違うのかという例にできそうな作品ですね。

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金木犀さん

再訪ありがとうございます。タイポグラフィは大事ですね。自分はスマホで小説は読めないかなあ。でもPCで眺めた時のこのサイトのレイアウトはすごく気に入っています(五六年前に一度サイトの体裁ががらりと変わった記憶)。

自分は基本何でもPCのメモ帳に書くんですけど、推敲の際にはワードにコピペしたり、紙に印刷したり、「作家でごはん」の投稿確認画面でプレビューを見たりして、いろんな形にしますね。個人的には、ワードの文書だとそんな文章でも下手に見えて、紙に印刷するとどんな文章でも上手に見えるのが面白いなと思います。

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そんな文章→どんな文章

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