月と災い
鈴姫は朝ごはんを二人分用意した。期撰が帰ってきたときを考えてのことだった。しかし期撰は朝九時になっても帰ってこなかった。
すっかり冷めてしまった朝ごはんを片付けようとして、鈴姫は片付けても意味のないことを思い出して片付けるのをやめた。
期撰が帰ってこないことを確信した鈴姫は、両親の住む家に行った。期撰は両親に話を打ち明けるべきではない、と言っていた。しかし鈴姫はそんな忠告に従う気は毛頭なかった。期撰もいない今、思いとどまる理由などなかった。
両親は二人とも家にいた。客人はいなかった。
「このあと、誰か来たりする?」
「いいや」
父は答えた。
打ち明けるのには絶好の機会だった。それにまだ夜までには十分時間があった。
「ねえ、大事な話があるの」
「鈴姫、何も聞かずに明日、隣国へ行ってほしい」
期撰は厳しい口調で言った。
「なんで?」
鈴姫は尋ねた。
「すまない。それは言えないんだ」
期撰は言った。
「なんで? 言えない理由はなに?」
「お願いだ、俺のためだと思って頼む」
鈴姫は夫が必死になる様子を見てただならぬものを感じた。言う通りにすべきかもしれない、とも鈴姫は考えた。
一方で鈴姫には、夫がここまで必死になるような理由が思い当たらなかった。夫は役人である。剣呑なこととは無縁で、借金もない。人から恨みを買うような人でもない。妻をどこかへ逃がすような事情とは無縁の人のはずであった。
「理由を話して。ちゃんとした理由もわからないまま妻が家を離れるわけにはいかないでしょう」
こうして鈴姫は期撰の要求を突っぱねた。
「でも、この話を聞いたら君は苦しむことになる。それでもいいかい?」
期撰は苦しそうな顔で言った。
「話して」
その言葉で期撰は覚悟を決めたようだった。
「俺は、人じゃない。月使なんだ」
月使、という言葉を聞いて鈴姫ははっと息をのんだ。
月には神が住んでいると言われていた。その神は直接地上に姿を見せることこそないものの、代わりに月使と呼ばれる存在が月から遣わされていた。
月使は地上に来ると地上の人間に紛れ込む。そうして各地で起こる災いを特殊な術で防いだり民を監視したりして地上の秩序を保っていた。
「嘘だよね?」
「すまない、でも本当なんだ」
鈴姫は叫んだりわめいたりしないためにかなりの自制心を必要とした。
「でもそれが隣町へ行くこととなんの関係があるの?」
期撰が月使だからといって、鈴姫が隣町へ行かなければならない理由などなかった。月使は役目を終えたら姿を消す。しかしそれは誰にも言うことなく、静かに行われるもののはずだった。
「それは俺がこの国で調査していたことと関係がある。俺がこの国で調査していたのは、この国の侵略行為についてだった」
鈴姫の住む国は周辺の国に戦争をしかけては略奪行為を行っていた。女をさらい、穀物を奪ったあとは国民が報復に来ないよう、人を根絶やしにしていた。
「この国は王の権力が強く、王に誰も逆らうことができない。月使の力をもってしても、その意思を変えるのは不可能だった。また国民の多くは、略奪行為に疑問を持つどころか賞賛する向きさえある。そのため月の神々からは略奪行為をやめさせるのは不可能だという結論が出た。そしてこの国を民もろとも消去することが決まった」
「まって、でもそんな簡単に決めることじゃないでしょう? この国が変われるかどうかなんてやってみなきゃわからないじゃない」
そんなあっさりと国やその国民が消されてしまうことを鈴姫は受け入れられなかった。
「それに神様は慈悲深いんじゃないの?」
「慈悲深いとも。しかしどんな人間も因果応報の理からは逃れられないんだ。それは神といえども変えられない。君の国が救えなかったのは、そういうことなんだよ」
「でも、なんでやめさせられないの? 王に争いをやめるように言えばいいだけじゃない」
いくら争いで生きてきたこの国であっても、それがもとで滅ぶと分かれば争いをやめるはずだ。鈴姫はそう考えていた。
「戦争の悪徳は伝染しやすく、断ちにくいんだよ。略奪された国はその恨みを一生忘れない。必ずやり返してくる。そしてそのことをこの国の人々も理解しているからこそ、武力を放棄できないし争いをやめることもできない」
「でも、どうして? 同じようなことは他の国でも」
「やっていない。やっていたとしてもすでに滅んでいるよ」
期撰の言葉に鈴姫はショックを受けた。期撰の言葉は、ほかにも自分たちの国と同じように滅ぼされた国があるのだと暗に示していた。
「明日の夜、山が噴火する。そうしたら山の頂上から火が噴き出て、死の黒い煙がこの国を飲み込む。それまでに逃げるんだ」
「明日の夜……」
「この国は滅亡することになるけど、仕事や旅でたまたまこの国から出ていた人まで死ぬ必要がない、というのが神の判断だ。だから明日の夜、この国の中にさえいなければ死ぬことはない」
それが明日、隣国へ鈴姫が行かなければならない理由だったのだ。隣国はこの国の罪とは関係ないから、滅ぶこともない。
「明日の夜までに避難すれば助かるの?」
「ああ。ただし君だけだ。他の誰にもこのことを言ってはいけない」
鈴姫は目を見開いた。
鈴姫の頭の中に、父と母のことが思い浮かんだ。誰にもこのことを教えらないなら父と母も助からない。期撰はこの二人も死ぬべきだと考えているのだ。
「どうして、私にこんなことを教えたの?」
期撰はうつむいて黙り込んだ。
「知らなきゃよかった」
思わず鈴姫はそんなことを言った。
期撰ははっとしたように鈴姫の顔を見た。
「私だけ助かったって意味ないよ。私のお父さんやお母さんは死ぬんでしょ? だったら私も」
「やめてくれ!」
期撰は叫んだ。
「頼む、やめてくれ。君は死ぬ必要なんてないんだ」
「生きていてなんの意味があるの? 私だけが生きててもなんの意味もないでしょ。夫のあなたは人間じゃないし、私は一人でどうやって生きていけばいいの?」
「それは」
「帰ってよ! 私のことなんか忘れてさっさと月に帰ればいいでしょ!」
「待って」
期撰は胸元のあわせから一枚の折りたたまれた紙を取り出して机の上に置いた。
「確かに俺は月に帰らなければならない。でも必ずすぐ地上に戻ってくる。君が生き残っても一人にはさせない。その紙を隣国の人に見せて。そうしたら俺の待っている場所がわかるから」
鈴姫は紙をひらいた。紙に書かれていたのは、地蔵菩薩の絵だった。地蔵菩薩の絵の上には判読不可能な文字が書かれていた。
「なにこれ」
「ごめん、もう行かなくちゃ」
期撰は立ち上がった。
「待って!」
期撰は振り返らなかった。期撰は家を出た。そして二度と戻ることはなかった。
話を聞き終えた父と母はただうなずいただけだった。
「だから今すぐ移動しなきゃ。ほら、早くしなきゃ」
鈴姫は言った。
「お前はそそっかしい子だね、まったく。お前と違ってお母さんたちはそんなに歩けないんだよ」
母は言った。
「じゃあ馬車を借りてくればいいじゃない」
「そうだね、借りてこないとね」
「私行ってくるから」
「お前は先に行ってなさい。馬ならお父さんが借りてくるから」
父は言った。
「なんでよ。足悪いんでしょ? それに私だけ行ってもしょうがないじゃない」
「そのへんぐらいまでなら歩けるよ。それに四人乗りの馬車なんか高くて借りられないよ。二人乗りを借りたらお前は乗れないんだから、先に行ってなくちゃ夜までに着かないだろ」
その通りだった。四人乗りの馬車を借りるお金など鈴姫でも用意できない。二人乗りで我慢するしかなかった。
それに期撰の言っていた夜が、夜になってすぐなのかそれとも深夜なのかはわからないのも問題だった。早い方の夜だったら間に合わない可能性もある。こうして言い合っている時間すらもったいなかった。
「早く出発しなさい。時間がないんだから」
父は言った。
「わかった。でもちゃんと馬を見つけてきてよね」
「わかったよ」
父は了解の合図に手をあげた。
鈴姫はそれを見ると先に家を出た。そして隣国へ向けて歩き始めた。
「馬車、借りてくるかい?」
「借りるつもりなの?」
「いや。これ以上長生きしてどうするんだい」
この会話が鈴姫の耳に届くことはなかった。
昼間を少し過ぎたところで鈴姫は隣国に着くことができた。鈴姫は紙を地元の女性に見せた。すると有名な地蔵なのか、場所を知っていて教えてくれた。どうやらこの国にはないらしかった。この国と交易している別の国にあるものらしかった。
その日の夜、鈴姫は宿をとって過ごすことにした。
宿の中にいても、その音は耳に届いた。なにか重たいものが天から落ちてきたかのような重い音がした。それと同時に地響きがして宿全体が大きく揺れた。
鈴姫は宿から出て自分の国のほうを見た。山から噴きだす炎が夜の闇のなかで赤く光り輝いていた。赤い炎が噴き出すたびに、ぱっと火花が散ったように赤い粒が山の周囲に降り注いでいた。
翌日、鈴姫は関所の役人に両親のことを尋ねた。しかし両親らしき人は通らなかったと言われた。
その翌日も鈴姫は関所の役人に同じことを尋ねた。しかしそんな人は通らなかったと言われた。その際、役人の一人は鈴姫を気の毒そうな目でみつめた。
鈴姫はその場で泣き崩れた。
次の国に着くと、鈴姫は紙を地元の人間に見せた。その人もやはり地蔵の存在と場所を知っていた。鈴姫は教えられたとおりに進んでいった。
鈴姫は教えられた通り川をわたり、橋をわたったところから少し歩いたところにある松林を抜けていった。
松林を抜けると浜辺が広がっていた。浜辺と松林の境にあたる部分を鈴姫は見渡した。
石碑のようなものが立っているそばに、人が一人立っているのが遠めに見えた。鈴姫はその石碑へ近づいていった。
石碑のそばに立っていた期撰は鈴姫に気づき、手を振った。鈴姫は期撰の元へ駆け出した。
執筆の狙い
人の愛で生かされた女性っていうものを表現しようとしました。
順番通りに書いたらスタートが会話からになってしまったので、シーンの順番を変えて読者に謎かけができるようにしました。