哀愁の旅人
【一滴の水にも天地の恵みを感じ、一粒の米にも万民の労苦を思い、ありがたく頂きます】
これは、お遍路さんが一食、或いは一杯のお茶を戴く時の感謝の言葉である。
徳島の極楽寺を出た秋山浩太(五十歳)は、本来なら三番札所、金泉寺に向かうべきだが、せっかく四国に来たのだから鳴門の渦潮を見たくなり方向転換した。
どうせ無職の身、急ぐ旅でもない。渦潮を見てから金泉寺に向かえば良い。
流石にこのお遍路の格好では観光地を歩くのはおかしい。
お遍路のスタイルは菅笠、白衣、背中には(南無駄石返上金剛)と書かれている。
輪袈裟、金剛杖、頭陀袋、数珠と最低限の装いが必要だ。それらを一旦羽織等をバッグに収め金剛棒は捨てては罰が当たると思い極楽寺で預かって貰った。
この極楽寺、鎌倉にもあるし、京都、奈良、広島にもある。関連性は分からないが、きっと縁起の良い名前だからだろうか。電車で鳴戸駅に着き更にバスで向かった。鳴門海峡の潮流はイタリアのメッシーナ海峡、カナダのセイモア海峡とならんで「世界三大潮流」つまり世界に三カ所だけで貴重なものだ。
渦潮を見るための観光船にはタイミングがあるとか。時間帯により渦潮の大きさ違うとか。お遍路のご利益が効いたのか、壮大な渦潮を見る事ができた。
船を下りて渦潮を見渡せる公園があると聞き、鳴戸公園へ向かった。景色も鳴戸海峡が一望できる絶好の場所だ。
秋山は近くの売店でお茶とおにぎりを買って、人気の少ない海岸近くで腰を降ろした。秋山は今回のお遍路の旅を振り返っていた。自分に問いかける。
もう中年に足を突っ込んでいるオッサンが一体何をしているのかと、自分の失態を悔いている。半年前に馬鹿な事をやらかし会社を追い出される羽目になり、失業して妻にも見捨てられた馬鹿な男だ。
だから身を清める為に巡礼の旅に出たのに。そんな事を思い浮かべ公園を漠然と眺めていた。
誰も居ないと思ったら海岸付近に女性が海を見下ろしているのが見えた。周りには友人らしき人影も見当たらない。彼氏と一緒それとも夫と居るのかと、暫く観察していたが誰も寄って来ない。女と一人旅か? 人の事は言えないが秋山も一人旅だ。
秋山はペットボトルのお茶を口に運ぼうとしたが、どうも気になるあの女性、景色を眺めているようには見えない。そのうちに呆然と立ち上がり海岸の絶壁の方に向かった。景色を見ようと向かうにしては変だ。秋山はお茶とおにぎりの入ったビニール袋を置いて、小走りに彼女を追った。
「ちょっと! そっちは危ないですよ」
女性はビクッとして、急にしゃがみ込んだ。思った通りだ。柵を超えて飛びこもうとしていたようだ。柵は大人の胸ほどの高さはあるが超えられない事はない。超えたら最後、鳴門橋の下は潮の流れが早く飲み込まれてしまう。
近寄って見ると青ざめた顔をしている。覚悟を決めていたのだろう。
女性は急に恐怖が甦ったのか、小刻みに震え嗚咽を漏らし泣き出してしまった。
とんでない場面に遭遇してしまったようだ。自分も懺悔の身。自殺を図るからには、それなりの理由があったのだろう。一滴の水にも天地の恵みなら、彼女の傷ついた心を癒してやらねばならない。
彼女が落ち着くのを待って声を掛けた。
秋山は巡礼の旅、古来より人間には八十八の煩悩があるといわれており空海が八十八ヵ所を周ったのが始まり、秋山はまだ三分の一も周っていないが多少なりにも仏に仕えた身、当然人助けも仏の心得? いや秋山の場合は単に女性と話をしたいだけかもしれない。つまり邪心があったからだろう。
嗚呼修行が足りぬ。どう思ったかは別として咄嗟に声をかけていたのだ。
「いけませんよ。早まったマネは。何があったか知りませんが、僕が見かけた以上、ほって置けませんからね。ともかく此処を離れましょう。あの……持ち物はハンドバッグだけですか」
彼女は何も言わずコクリとうなずいた。秋山は強引に、さっきお茶を飲もうと座った場所に連れて行った。彼女は抵抗するでもなく着いて来た。
「さぁ、このお茶を飲みなさい。少しは落ち着くでしょう」
「…………」
彼女は無言のまま下を向くだけだ。こうなれは無理に事情を聞く訳には行かない。作戦変更だ。まず自己紹介がてら自分の事を話した。
「まぁ良いでしょう。見ず知らずの他人に言える訳でもないですからね。僕は秋山と申します。訳があってお遍路の旅をしています。始まったばかりですがね。恥かしい話ですが、僕はある事情で会社を辞めざるを得なくなりました。身から出たサビって奴ですよ。まぁ罪を悔い改める旅ですかね」
すると彼女は反応した。
「罪を改めるって? どんな罪を犯したと言うのですか」
「聞きます? 僕だって、これを言ったらみっともなくて、死にたくなりますがね。何も死にたいのは貴女だけじゃないのですよ。一生の不覚というんですかね。会社の宴会の席で酒が入り過ぎ、僕は気が大きくなり部下の女性に抱きついてしまって、その後は何も覚えていません。気が付いたらセクハラで訴えられ示談金を支払うハメになりまして。同僚には白い目で見られるし、まぁ普段から酒癖が悪く同僚から嫌われていたようで誰も味方してくれませんでした。もはやこれ迄。こうなれば始末書で済む訳がない。解雇を言い渡される前に辞表を出すしかありませんでした。それだけなら良いのですが妻からも三下り半を突きつけられましてね。酒の席での事では済まなくなって、まさに人生の破滅ですよ」
「まぁ。お気の毒。魔が差したと言うより酒に溺れただけでしょう」
「だけって? 僕は全てを失ったんですよ。だからお遍路になって身を清めようと」
なんか話しが変な方向に進んでしまった。自殺しょうとした女性をなだめるために赤の他人に自分の恥を曝さなければならないのか。しかしこれが効をそうした。
「ごめんなさい。でも私も大きな罪を犯しました。だから死ぬしかないと思ったのです」
「なんですか、その罪って」
「私も恥を忍んで言いますね。軽蔑するなり好きにして下さい。実は私は高校教師をしておりました。止せばいいのに、教え子に『先生が好きです』と告白され燃え上がり恋に落ちてしまったのです。やがて学校や相手に両親の知る処となって、解雇同然に辞表を出して逃げだしたの」
「そうですか、私と似ていますね。貴女も魔が差したとしたのですかね」
「四十路を過ぎて焦ったのね。もう学校内だけじゃなく街中の噂になって二度と、その街に戻れなくなったの。だから鳴戸の渦潮の中に身を沈めようと思ったの」
「なんか似た者同士ですね。でも過ちを犯しても、別に牢獄に閉じ込められた訳でもありません。再起は可能じゃないですか。相手が教え子とは言え男性に好かれる女性なのですから捨てたものじゃないですよ。どうですか僕と一緒に、お遍路の旅に出ませんか」
「でも私は最悪です。二十才以上も年下の教え子に手を出すなんて、逃げ出すように旅に出たんです。それが此処、鳴門の渦潮に身を投げようと」
「恋には年齢は関係ありませんよ。それに僕から見た貴女はとても綺麗だ。そんな美しい女性がこの世から消えるなんて勿体ないですよ」
「ふふっお世辞が見え見えですよ」
彼女は一瞬笑った。少しは吹っ切れたのだろうか。恥を忍んで互いに漏示した仲だ。互いに恥をさらけ出す事で気持ちが楽になった。
彼女は一緒に行くと着いて来た。荷物は駅のロッカーに預けてあるというので一緒に取りに行った。
「処で貴女は今夜、何処に泊まるのですか」
「秋山さんはどうなさるの」
「僕はお寺に泊めて貰おうと考えています」
「お寺ですか? 私がお金を出しますからホテルか旅館に泊まりましょうよ」
「そんな贅沢はして居られません。そんな事をしていたら、すぐに金が底をつきますよ」
「だって私は秋山さんの話をもっと聞きたい。でないとまた自殺するかもしれないもの」
「えっ、吹っ切れたんじゃないですか……分りました。仕方がない旅館に泊まりましょう」
このままサヨナラして本当に死なれては困る。仕方なく承諾した。二人は古い旅館に泊まることにした。それでも心配で秋山は彼女にこう言った。
「学校の先生なら、こんな名言、知っているでしょう(どんなにみっともなくてもといいとにかく生きろ)
「……知らないわ。でも心に伝わる言葉ですね」
「そうでしょう、有名な書道家が書いた色紙もありますよ」
「それにしても貴方は物知りで説得力がある方ね」
「それは分かりませんが、貴女に思いとどまって欲しいからですよ」
宿帳には自分の名前と彼女は妻と記載した。まぁ旅館は相手が誰だろうと、どんな関係だろうと一向に気にしない、客は客である。
「あの~お金は割り勘にしませんか。貴女に出して貰う理由もないし」
「ありますよ。私を思いと止まらせてくれたもの。節約するからと、同じ部屋にしたじゃないですか」
「そっ、それは不味いですよ」
すると彼女は睨むように言った。
「何を言っているのですか。お互いに子供じゃないし。恥も晒し、だし合った仲じゃないですか」
「そんなつもりで、恥を明かした訳ではありません」
「あら? 私だって同じよ。裸を見られたような気分よ。こうなったら最後まで恥を晒しましょう」
逃げる秋山に追い縋る女、部屋でドタバタの末、部屋の灯りが落ち、時おり呻き声が聞こえた。
一滴の水にも天地の恵みを、仏の教えを忘れた訳ではないが、据え膳は喰わねば男の恥と言う名言もある?
昨日は一体なんだったのだろう。自殺しようとした女を助けただけなのに、知り合ったばかりの女性と一夜を共にしてしまった。これでは弘法大師に申し訳ない。仏の道に背く行為だ。だが男の性には勝てなかった。まだまだ修行が足りない秋山浩太であった。
翌日から二人は白衣をはおり、菅笠を身に着けた女性が松山浩太の隣を歩いていた。ひょんな事から一夜を共にした二人、気が付けばまだ彼女の名前を聞いていなかった。
「処でまだ貴女の名前を聞いていませんでした、宜しかったら教えてくれませんか」
「あっそうでしたね。私は藤原優子と申します」
「では優子さんとお呼びしても宜しいですか」
「ええ、では私も浩太さんと呼んで宜しいですか」
互いに下の名前で呼び合い親しみが増して行った。
共に人に言えない傷を持つも者同士、お遍路参りは二人に明日への希望を見つけてくれるのだろうか。
彼女が立ち直ってくれれば、秋山にも光が見えてくるだろう。そして彼女は心の傷から解放されたら、再び飛び立って行くだろう。
だが松山浩太は出口の見えない旅を続けるか、それとも、この四国で仕事を見つけようか。そなん旅を三日続けた。
もう二人は懺悔の旅も十分だろうと話し合った。
しかし二人共、現在無職の身、更に明日の希望がある訳でもない。互い傷を舐め合っても慰めにもならない。ここでまた一つ、中国の諺がある。
(蛇同士が体を寄せ合っても温まることはない)
二人は昨夜話し合った。それなら慰め合うよりも、それでも生きて行くと決めたからには助け合って働かなくてはならない。
「ところで優子さん、これからどうするの。僕は気分一転沖縄に行こうかと思っているんだ」
「沖縄ですか、いいわね。私もついて行くわ」
「そうか一緒に来てくれるか」
「私も全てを忘れて浩太さんについて行くわ」
一から出直そうと二人は新たな一歩として沖縄に渡った。
優子は教員の免許はあるがもう教壇には立ちたくないと言う。浩太もサラリーマンには嫌気がさしていた。また酒で失敗したくないと言う。
「ねぇ優子さん、なんか商売始めようか」
「えっなんの商売?」
「うん前から考えていたんだけどラーメン屋はどう」
「えっ経験はあるの」
「それは大丈夫、なにせ実家はラーメン屋だからね。本当は親父に後を継げと言われたけど、その頃はサラリーマンに憧れていてね、いま思うとわがままで勝手だったけど、親父も母も数年前亡くなったし罪滅ぼしにと考えていたんだ」
「実家がラーメン屋だったとしても経験がないでしょう。これは商売よ、お客に出すラーメン作れるのよ」
「それは大丈夫。高校、大学の頃から時々店の手伝いをしていし親父も真剣に教えてくたから問題ない」
「それなら私も手伝うわ。もうこうなった一蓮托生、着いて行きますよ」
「それは有難い、では決まりだね」
「処で資金はあるの? 私は多少ならあるけど」
「まぁそれは大丈夫です。僕も店をだすくらいの金ならありますから。都内や大阪の繫華街なら厳しいけど、那覇の繫華街なら値段に合ったいい物件があると思うよ」
「そうねぇ、なんだか楽しくなってきたわ」
二人はなんとか開店するにあたり借金しない程度の資金は持っていた。いくら人生に失敗したとは言え人生経験も長いし、それなりの蓄えもあった。但し失敗したら地獄が待っている。そもそも二人は地獄を見て来た。それだけに必死だった。
沖縄のラーメンは本州のラーメンとは違い、麺はうどんみたいな物でソーキソバと言う。二人は沖縄ではなく東京ラーメンとして売り出した。因みに北海道、東北は濃い味を好むという。南に行くにつれ薄味になって行くそうだ。
開業には防火管理者の置き、各自治体が実施している養成講習会を受けることで資格が取得でき養成講習会の受講後は、受講修了証として「食品衛生責任者手帳」が配布される。勿論あるに越したことはない。すると優子が言った。
「あら私、調理師免許なら持っているわよ。教師になる時ついでに色んな免許を取得したの。いまじゃ宝の持ち腐れだけど」
「とんでもない飲食業には欠かせないものです。流石元教師、伊達じゃないですね」
「ところでメニューはラーメンだけですか、ラーメンでも醤油、塩、味噌、とんこつとかもありますが。麺類だけで勝負となると厳しいので餃子とかなんてどう」
「そうですね、ラーメンの種類は五種類くらいに抑えて餃子とチャーハン当初は七種類で勝負してみては」
「ええ、それで良いと思います。まず経験はあるとは言え試作品を作ってみましょう」
「それは勿論です。それと本州と沖縄では味の好みもあるので出来れば地元の人に味見してもらっては」
そんな試行錯誤の末、いやいや開店の運びとなった。
東京ラーメンは店にもよるがあっさり味が好まれる。勿論沖縄だって本州のラーメンはあるが秋山の作ったラーメンが受け入れられた。秋山も父に仕込まれた腕は本物だった。父に感謝しなくては。人生に失敗し途方に暮れていた二人が水を得た魚となり商売は徐々にだが繁栄して行った。
それから十年の月日が流れ、二人の髪の毛も白い物が見えるようになった。店の二階は住まいとなっているが、これを機に店舗付きの一軒家を購入することにした。息子も大きくなったし……と言うのも訳がある。
現在中学二年生の男の子がいるが、勿論一緒になって十年で中学生の子がいる訳がない。二人の子供ではなく特別養子縁組して引き取ったのだ。なにせ商売を始めて子供が出来のではやっていけない。それに優子も年齢的に厳しいためもある。しかしながら子供が欲しかった。それは二人も同じ気持ちだった。血は繋がっていなくても愛情をも持って育てれば立派な家族である。
ラーメン屋を開業してから二年目のときだった。六才で引き取り、丁度小学校に入学の時期で学校に行っている間は仕事に影響はなかった。あれから八年にもなる。今では本当の親子に負けない愛情を注いでいるし、雄介は素直で甘えてくれるそんなある日の事、息子の雄介が三日間の修学旅行に行く事になった。
「そうか雄介も修学旅行に行く年になったんだな。楽しみだな。じゃあ小遣いを持って行きなさい」
そう言って一万円を渡した。すると妻の優子が口を挟む。
「あらぁ貴方も少し甘いんじゃない。中学生にそんなに持たせたら駄目よ」
「そうだよ。お父さん先生に言われたけど五千円までだって」
「そんなものか。まぁ仕方がない気を付けて行くんだぞ」
「ありがとう、お父さんお母さんお土産買ってくるね」
すると優子は目を細めて行った。
「雄介、優しいのね。お土産なんか良いから自分の記念になる物を買いなさい」
雄介が旅行に行っている機会に二人は久しぶりに店を休んで旅行する事に決めた。もちろん二人の出会いの場所、鳴門に決めた。いま思うと運命の出会いだろうか。浩太が差し出したお茶は優子にとって恵の一滴となった。
「もうあれから十年か、妙に巡りあわせだけど。これも弘法大師が導いてくれたのかな」
「そうね、いま思うと、浩太さんそのものが弘法大師かもね」
【一滴の水にも天地の恵みを感じ、一粒の米にも万民の労苦を思い、ありがたく頂きます】
了
執筆の狙い
秋山は社内の宴会の席で酔った勢いで女性に抱きつき、訴えら退職。一方女性教師である優子は教え子と恋に落ち、それが噂となり退職する羽目に。人生に失敗した二人が鳴門で出会った。
これは三年ほど前に投稿したものですが、書き足した部分と後半部分を大幅に加えたものです。
この一滴の水にも……のフレーズにご記憶の方もいるかと思います。