質量保存のおとうと
ぺちん、と間の抜けた音が鳴り響くと、弟のマコトが縮んでいた。
だいたい頭一つ分だから、20cmを少しオーバーしたぐらい。全身が一回り縮んだと言った方がきっと正確で、「どうせすぐ身長が伸びるんだから、大きめの服にしときなさい」と母が買ってきたトレーナーが、かなりだぶついていた。それでもすぐ気づかなかったのは、マコトがソファに埋もれながらゲームをしていたせい。水鉄砲に入ったインクを放出して陣地を塗り合うやつで、ちょっと目がチカチカするけれどキャラクターは可愛い。私が通っている高校でも人気で、男子がゲーム機をこっそり持ち込んでよく対戦をしていた。
私はゲームがあまり得意ではないから、基本的には見る専門。その日もマコトのプレイ動画を一通り眺めた後、それに飽きてスマホで面白そうなTikTok動画を漁っていた。だから、半分になったその瞬間は目の当たりにしていない。ぺちんも、最初はテレビから流れてくるゲーム音だとばかり思っていた。
マコト自身も縮んだことに気づいていないみたいで、
「たまにはお姉ちゃんもゲームしない?」
と、呑気な様子でコントローラーを私に向かって差しだしてきた。
袖口から覗く五本の指はまだ少年特有の肉付きの良さが残っていて、ヤマネパン屋で売っているグローブ型のクリームパンを想像させる。この美味しそうな指が、これからずっと縮んだり萎んだりするのは悲しいな。お相撲さんぐらい食べさせれば、成長速度が縮むスピードを上回るかな。だとしたら毎日ケーキでも買ってきて無理矢理マコトの口に放り込もうかな。
そんなことを考えながらプレイしていたせいで、あっという間に負けてしまった。
◆
私の身の回りで縮んでしまった人は、これまで三人いる。
一人は幼稚園の年長で一緒だったミカちゃん。小学校は別々になってしまったから、その後どうなったのかは分からない。もう一人は、近所のスーパーで働いていた長島さん。当時、小学生だった私と同じぐらいの身長でレジを打っているところまでは見たけれど、その後すぐ辞めてしまったらしい。
三人目は私の祖母。会うたびに縮み続けていき、手の平に乗る大きさになった初夏の朝に、喉頭がんで亡くなった。当たり前だけど骨格自体が縮んでおり、火葬炉から出てきたそれは焼いたサンマを汚く食べた跡みたいだった。崩さないよう苦労して骨壺に入れたせいで、箸を持つ指がふるふると痙攣してしまったこと。それが祖母に関する最後の記憶になった。
だから私は、順調に(?)最後まで縮んだ顛末を知らない。消滅して「0」になるのか。それともミジンコほどの大きさになったとしても「1」であり続けるのか。周りの大人たちに聞いても誰も教えてくれなかった。
仕方が無いので、インターネットで【縮んだ人 最後】と検索してみる。しかし関係ない記事やサイトが大量にヒットするだけで、面倒になってすぐに諦めた。高校の同級生でオカルト好きな洋子は、「真実に辿り着かせないために、何者かが大量のフェイクニュースを流してるのよ」と、陰謀論であることをこっそり教えてくれた。なんて返事をすれば良いか分からなかったので、とりあえずへらへら笑っておいた。
クリックしたサイトの多くは偽の情報で溢れていたが、いくつか興味深い内容もあった。例えば、「数字を0で割ることは数学界ではタブーとされている」という記事。試しにスマホの計算機で「5÷0=」と入力してみると、確かに「エラー」と表示される。そのことに感心してしまったせいか、自分が何を調べているかの記憶だけがするりと抜け落ちてしまった。その後も何度か検索してみたが、結果はいつも同じだった。
◆
マコトが縮んだことが判明すると、母は服の整理を始めた。誰も使っていない和室の押し入れからは、収納ケースに収納ケースが収納されていたのかと思うほど、幾つもの収納ケースが出てきた。中身はマコトがかつて着ていた服だった。
「ウチの家系は代々なりやすいからね」
「なりやすいって、縮むこと?」
「そう、だからマコトの服は全部とっといてあるわよ。もちろんカスミの服もね」
母なら最期にどうなるかを知っているのかな? そう思い尋ねてみる。
「お祖母ちゃんは結局、病死だったしね。その前は何代も昔のご先祖様だからちょっと分からないかな」
埃の匂いが染み込んだ服を収納ケースから取り出しながら、母は首を横に振る。ケースに貼っていたラベルシールを見ると【マコト 小学三年生】と書かれていた。
「ねぇカスミ、このズボンの染み覚えてる?」
「それマコトのでしょ? なんだっけ……」
「やだ、あれだけ大騒ぎしたのに覚えてないの。あなたがマコトのズボンにぶどうジュースを零したんでしょ」
「そうだっけ?」
必死に記憶の底を攫ってみるが、何も感触がない。母を見ると呆れた表情を浮かべている。
「マコトが大泣きして大変だったのよ。お姉ちゃんの癖にあなたは全然謝らないし」
「それは若気の至りだね」
「なに他人事みたいに言ってるのよ。泣かせた罰として服を出すのを手伝いなさい」
「そんな昔のことを今さら持ち出されてもさ」
「分かったわよ。手伝ってくれたら、後で松月堂の苺大福買ってきてあげるから」
そう言うと母は、大量の服をこちらに投げよこした。
服を整理し始めたこと以外、母の態度はいつもと変わらない。なんだか拍子抜けした気分だ。
「お祖母ちゃんが縮んだから慣れているの?」
と尋ねてみる。
「それもあるかもしれないね。あの時は看病もしてお祖母ちゃんの家まで通っていたからね。受け入れるしかなかったのよ。でもどうして急にそんなことを?」
「なんかマコトが縮んだのに、ぜんぜん落ち着いているから」
「なるほどね。でも、あなただって新型コロナの時は大騒ぎしていたのに、最近はさっぱりじゃない」
「でもそれとこれとは……」
「私が言いたいのは、人の感情は長続きしないってこと。特に負の感情はね。あなたも縮むことにすぐに慣れるわよ」
「そんなもんかな」
「そんなもんよ。それに私たちはみんな必ずこの世から消えるわけだしね。マコトとそう変わらないわよ」
お喋りをしながらも母の手が止まることはない。山のようにあった服をあっと言う間に分別していく。
「あらポケットが破れているわ。裁縫道具どこに閉まったかしら」
見ると、マコトのお気に入りだったPコートの右ポケットがだらりと垂れている。ふいに童謡の『ふしぎなポケット』を思い出した。
ポケットを叩くとビスケットは増える。不思議なポケットなのだから、きっと純粋に増えると考えるのが一般的なのだろう。でも、割れたという可能性も捨てきれないのではないか。じゃないと納得できない。もしそんな不思議なポケットがあるならば、マコトが縮んだ分を増やして欲しい。それが実現するなら、手が真っ赤になるまで叩いてあげるのに。
隣にいる母はご機嫌な様子で、鼻歌を歌いながらほつれたポケットを直していた。曲名は言うまでもないだろう。
◆
マコトの変化は父に少し影響を及ぼした。一つは、残業を一切しなくなったこと。十八時半には判を押したように帰宅して、家族みんなで夕食をとるようになった。たまには友達と遊びに行きたいから、月に数回ぐらいは残業してくれても良いのになと思う。
そしてもう一つは、多肉植物を育てるようになったこと。サボテンとかアロエみたいなのは辛うじて分かるが、それ以外は未知の生命体だった。
「これが月美人だろ、これがチワワエンシス、この白い毛がふさふさしているのがモシニアナムな。他にも、数珠星やクリスマス・キャロルなんかも可愛いぞ……」
嬉しそうに語る父には申し訳ないが、全くといって良いほど興味が湧かない。母もマコトも私と同じ気持ちのようで、サンルームはほどなく父しか寄り付かなくなった。みるみる多肉植物に侵略されていく。
「そんなに買って、お金は大丈夫なの?」
「なんだ、カスミは知らないのか? 多肉植物はいくらでも増やすことができるんだぞ」
そう言うと父は、葉挿しや挿し木、株分けのやり方を実践してくれた。
「でも、なんで急に多肉植物を育てようと思ったの?」
父は腕を組んで少し考える。そして、神経衰弱ゲームの残り4枚のカードを捲るような慎重さで、一つひとつの言葉を紡ぎだした。
「カスミは、アポトーシスって言葉を知っているかい?」
「アポ…………なにそれ?」
「アポトーシス。分かりやすく言うと、細胞の自殺って意味かな」
「自殺? 細胞が? なんで?」
「お父さんも詳しくは分からないんだけれどさ。例えば、生まれる前の赤ちゃんの手って、最初はご飯をよそうしゃもじみたいな形をしているんだって。そして、指の隙間にあたる細胞だけが死んでいき、徐々に指の形になるみたいだよ」
「それが細胞の自殺なの?」
「そう、他にも強い紫外線で修復不可能になった皮膚細胞は、自ら死を選ぶのだとか。カスミも夏の部活で練習すればよく皮膚が剥けるだろ。あれもそうなんだって」
「それに人間は健康体でも一日数千個のがん細胞が生まれるらしく、それらは身体に被害を出さないよう自ら死を選ぶらしいぞ」
父の言葉はアメーバみたいな輪郭の曖昧さを含んでいて、ちっとも耳に馴染んでこない。それはきっと本かなにかで急に仕入れた知識だからだと思う。慌てて勉強したのだろう。
でも、父の言いたいことは何となく理解できた。マコトが縮むこともアポトーシスの一種と考えられるのではないのだろうか。マコトという一個体を守るため、本能に組み込まれたプログラムなのではないか。ただそれを理解することと、納得することはぜんぜん違う。どう考えても、細胞たちの反逆にしか思えない。
「でさ、お父さんが多肉植物を育てる理由は結局なんなの?」
「あぁそうだったな……上手く言葉にはできないのだけれど、アポトーシスへの復讐ってのが一番近いかな」
その点は正直、良く分からなかった。そのことを正直に伝えたら、「お父さんも分かってないから大丈夫」と言われた。なら大丈夫なんだろう。そう思いこれ以上追及することは止めておいた。
◆
マコトは雨が降ると膨らんだ。ほんの少しだから、私たちは気がつかない。
「絶対大きくなったから、絶対だから」
「誰も嘘だなんて言ってないじゃん」
「でもお姉ちゃん、信じてないよね。目をみれば分かるんだから」
「エスパーかよ」
マコトが珍しく譲らないのでメジャーで測ってみたら、確かに7mmだけ身長が伸びていた。私の7mmと彼の7mmはきっと違う。
「でも不思議だね。お風呂に入っても顔を洗っても膨らみはしないのに、なんで雨限定なんだろ」
「ボクにも分からないけれど、雨が降る前には身体が少しだけ疼くんだ」
「成長痛みたいなもん?」
「痛みというより、痒みの方が強いかな。全身がもぞもぞして色んな箇所を両手で掻いてみたくなるんだけれど、痒みの核心は絶対に見つからない感じ」
「うわぁ、なんか辛そう」
「でもこの痒みにはきっと理由があるはずだから、実際に掻いたりはしないんだ」
どうだと言わんばかりにマコトは胸を張り、ふむぅと鼻の穴を拡げた。というかマコトって、こんな考え方をする子だっけ? どうやら身体が縮んだことは、マコトの精神にも影響を及ぼしているらしい。
特に感じるのは、宿題がまだなのにやったとか、私のアイスをこっそり食べたのに知らんふりするとか、ちょっとした嘘を言わなくなったこと。怒ることもだいぶ少なくなった。一般的に負とされている感情が身体の収縮と共に減少し、それ以外の感情の純度が上がった感じ。
成長や進化と言い張ることもできるし、これまでの彼が喪失したとも考察できる。もちろんそれは良い悪いの判断ではきっとなくて、周りの人間は無責任に解釈すればよいだけ。今いるマコトが真実なのだから、そのことに大した価値はない。
感情が自殺することも、アポトーシスの一種なのだろうか。
膨らんだことを嬉しそうに語るマコトを見ていると、ずっと昔にお祭りで買った玩具を思い出す。それは水の中に入れると膨らむ特殊な樹脂で作られたフィギュアで、ゴムの塊みたいにびよびよ伸びた。
大きさは親指ぐらいで、恐竜やヒトデやイルカ、カブトムシの形をしている。私が選んだのは亀。理由は特になくて、あえて言えば他のフィギュアより多少は精巧な造りだったから。お祭りが持つお手頃な高揚感が無ければ、きっと見向きもしなかっただろう。
「どれくらい大きくなるのかな?」
浴衣の袖を引っ張りながら、マコトが尋ねてくる。
「良く分からないけれど、二~三倍ぐらいじゃないかな」
「なんだ残念。お風呂にずっと入れてたらボクと同じぐらいまで成長するかと思った」
「そんな大きくなられても困るでしょ。気持ち悪いし」
「ロマンが無いなあ、お姉ちゃんは」
マコトは上目遣いで買って欲しそうな表情を浮かべている。仕方が無いので財布から百円玉を出し、展示台に寝そべっている亀を指さした。屋台のおじさんが手渡してくれたそれは濡れていないはずなのに少し粘り気があって、じゃれるように手にまとわりついてくる。
結局、その亀は私の想像以上に成長した。ずっと水に浸かるよう500mlのペットボトルに入れて置いたところ、最終的には身動きができないぐらいにまで膨らんだ。マコトは毎日水を取り替えて甲斐甲斐しくお世話をしていた。亀の原型を失うほどぶよぶよになったその姿は水死体みたいで、お世辞にも可愛いとは言えなかった。
そういえばいつの間にか私たちの前から消えてしまった亀は、どこで何をしているのだろう。井伏鱒二の『山椒魚』みたいに、ペットボトルの住処から抜け出せないでいるのだろうか。それとも、沼か海にでも辿り着いているのだろうか。後者であることを願うばかりだ。
雨が本格的に勢いを増す。天然パーマ気味の毛先がくるりと跳ねるのは嫌だけれど、もう少し長く降り続いて欲しい。でもそれを口にするのは照れくさいから、マコトと一緒にてるてる坊主を沢山作って逆さに吊るすことにした。湿った空気の奥に潜む夏の予感を、私たちは少しだけ憎む。
◆
マコトはますます縮んでいく。ぺちん、の回数や時期に法則性はなくて、私たちの意識が日常に溶け込んだことを見計らってやって来る。だから、縮む瞬間を見た者は誰もいない。
マコトのご飯茶碗はいつしかお猪口になり、しょうゆ皿におかずを盛るようになった。唐揚げやら卵焼きやらを細かく刻むために、母のエプロンの前ポケットにはキッチンバサミが常備されている。
「そろそろ、おままごと用の食器セットを買おうかしら」
「あらやだ、ピンクばかりで男の子用が少ないわね」
「木製の食器は可愛くてステキだけれど、お値段は可愛くないわ」
母は独り言ちながら、玩具の通販サイトを眺めている。なんだか楽しそうなのは気のせいか。ちなみにマコト専用のテーブルと椅子は、DIYが趣味の父が器用に作ってくれた。
中学校に登校するのが大変だという理由で、マコトは自宅学習に切り替わった。学校も認めてくれたらしく、国から支給された小型のタブレットを弟は物珍しそうに眺めている。
「もし学校に通いたいなら私が連れて行こうか。鞄の中に入っていれば、寝てても登校できるしさ」
「それはいい考えだね。でも、高校行く前に中学校に寄るとか、お姉ちゃんが大変でしょ」
「早起きは嫌いじゃないから大丈夫」
「それに、これ以上小さくなると鞄の中は危険だよ。ノートやお弁当箱に潰されて圧死すると思う」
「じゃあ制服のポケットなら?」
「お姉ちゃん自転車通学でしょ。きっと振動が凄くて、ポケットの中で吐いちゃうんじゃないかな」
「駄目かぁ」
学校に行けなくなったマコトは、日々の大半を机に向かって過ごした。タブレットには、中学校の教科書以外にも様々な書籍・図鑑・専門書がダウンロードされていたので、飽きることはないらしい。暇さえあればゲーム機を触っていた頃の弟が好きだったが、その姿を思い出すことはもうできない。
「お姉ちゃん、質量保存の法則って知ってる?」
ある日、私の部屋に入ってきたマコトが、興奮した様子で尋ねてきた。今はもうドアノブの高さには届かないから、猫の出入り用の小さな扉からやってくる。リフォーム工事の費用は国から補助金が出たらしい。
「いきなりどした? たしか質量はみんな一緒……的なやつでしょ」
「三十点。中学校の理科で習ったじゃん」
落胆の表情を浮かべながら、「今日この箇所を勉強したんだけれど……」とタブレットを見せてくれる。
そこには『物質はその状態が変化しても、総質量が保存される』『化学変化が起きる場合、その前後では組み合わせが変わっても、原子の総数や種類は変化しない』と書かれていた。
「つまりどういうこと?」
「お姉ちゃんは鈍いなあ。ボクが縮んだとしても、質量は変わらないってことだよ」
勉強のし過ぎでおかしくなってしまったのだろうか。私が醸す怪訝な様子をかぎ取ったマコトは、赤味が残る頬を膨らませる。
「つまり、縮んだ分のボクの欠片は、この世界のどこかで生きているんじゃないかってこと」
なるほど、それで質量保存の法則なんだ。縮むという状態変化が起きても、マコトという一個体の質量は同じ。マコトが「マコ」になるわけでも、「タケシ」になるわけでもない。
「マコトの欠片たちはどこ行ったんだろ」
「それはボクにも分からない。でも、世界中に散らばっていて欲しいな」
アンダルシア地方の小さな村の路地裏、ゴビ砂漠を横断する列車の二等席、一年中霧に覆われている森林の奥底。世界中にマコトが息づいているのは、悪くない想像だった。かつて父が話してくれたアポなんちゃら――細胞の自殺という考え方よりはずっと好きだ。それが事実かどうかは些細なこと。父が多肉植物を育て始めた理由が少しだけ理解できた。
「質量保存の弟か……。その考え方は素敵だね」
「でしょ」
ふむぅと鼻を膨らませるその様子は長年見てきたマコトそのもので、やっぱり変わってないじゃんと嬉しくなった。
◆
春になったので、マコトと桜を見に行くことにした。まだ少し肌寒いから厚手のブルゾンを羽織り、胸ポケットにマコトを入れた。振動を感じさせないよう、クッション代わりの綿を全体に敷き詰める。
「どう? 苦しくない?」
「うん平気。快適だよ」
マコトを驚かせないよう、声のボリュームを抑える。縮んだその身には普段の話し声も騒音に聞こえるらしい。マコトの声だけを拾う集音器が国から届いたが、なんとなくまだ開封していない。
近所の公園までは徒歩で向かうことにした。一歩一歩を噛みしめるように歩くのは随分久しぶりな気がする。塀の上で香箱座りをしている野良猫はちっとも動く様子が無い。風は右から左に穏やかに吹いている。路地裏を選んで通っているため、時折聞こえる車のクラクションは遠い国の出来事のようだった。
穴場の公園ということもあり、私たちの他に花見客は数組だけ。しかも乱痴気騒ぎをしている人たちは誰もいない。みんなお行儀よくビールや料理を胃の中に放りこんでいた。なんだか私たちまで神聖な儀式に参加している気持ちになる。
「空いててラッキーだね」
「ボクの普段の行いが良いからね」
公園の南口にある桜の下で、私たちはブルーシートを拡げた。鞄の中から取り出したお弁当とステンレスボトルは、まだほんのり温かい。つなぎを減らした肉肉しいハンバーグ、砂糖たっぷりのスクランブルエッグ、アンチョビ入りの大人なポテトサラダ、ピリ辛の中華風きんぴらごぼう、野菜を細かく砕いた黄金色のコンソメスープ……マコトの好物が二人のお腹を満たす。母から借りたキッチンバサミは大いに役立った。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「なに?」
「今日はありがとね」
「なによ急に改まって。変な子」
「ちょっと言ってみただけだよ。なんでもない」
「ならいいけどさ。それよりもデザートも食べるでしょ」
「もちろん」
ひとひらの花びらが不規則な軌道を描き、コンソメスープの上にゆっくり舞い降りた。
お腹が満たされた私たちは、行きよりも時間をかけて帰ることにした。二人とも大好きなお笑い番組がマンネリになっていることとか。気になっている異性と仲良くなるためにはどうすれば良いかとか。お母さんの裁縫の腕がメキメキ上がっていることとか。マコトとのおしゃべりは止まらなかった。時間が止まればよいのに。そう思い歩調をわざと緩めると、マコトが急に笑い出した。
「お姉ちゃんさ、なんだかゴジラみたい」
「ゴジラ?」
「そう、ボク目線で見るとゴジラぐらいの大きさだし、歩き方もノシノシだし。ゴジラに乗れるなんて、きっとボクしかできない経験だよね」
なるほど。確かに縮んだことがない私には無理なことだ。楽しそうに笑うマコトを見ていると、初めて縮んでみたい気持ちが湧いた。それにしても、姉を恐竜呼ばわりするのはちょっと酷い。
「ゴジラは恐竜じゃなくて怪獣だよ」
「どっちでもいいじゃん。あんたは細かいね」
「どっちでもよくない」
「分かった分かった。じゃあ帰ったら一緒にゴジラの映画でも見ようか」
確か登録している動画配信サイトにあったかな? スマホで確認するためにマコトから目線を外した。
その瞬間、ぺちん、の音が胸ポケットで弾けた。
執筆の狙い
ぺちん、という音と共に縮んでしまう弟の話です。理系っぽい要素も少し入っていますが、根が文系の人間なので難しいことは書いてません(書けません)。お見苦しい点もあるかと思いますが、読んで頂けると嬉しいです。約8700字になります。