王と優しい娘
白い山みたいなあれが王宮だと魚売りのおばさんは言っていた。なんて大きいのだろう。他の建物が石ころのようにみすぼらしく見えてしまう。
村から王都へ向かう商人の家族と一緒に途中まで来たけど、荷車には一度も乗れなかった。荷車には二人しか座れないのに、私よりも小さな子供たちが五人もいた。しかも私は赤の他人だった。そういうわけで子供たちが代わる代わる座るなか、商人の夫婦が私に座るよう言うことはなかった。
大きな建物で遠くからでも見えるというのに、村から出るときは王宮の屋根さえも見えない状態だった。嫌な予感がしたけれどもそれは当たっていた。
ひたすら歩いて、足に力が入らなくなっても歩き続けて、夜になって休むころには足が痛くて夜も眠れないほどだった。そして朝起きると昨日と同じようになにもない道をひたすら歩き続けなければならなかった。
だが今はあんな近くに王宮がある。あと少しで王に会える。
私は王の顔を覚えているだろうか。いざ王の顔を見たときにぱっと見分けられるだろうか。不安になって私は王が家を訪ねてきたときのことを思い出した。家の外から若い男の声が聞こえたときのことを。
山奥にある家というのもあって、ここにはめったに人は来なかった。私は疑問と不安を感じつつもドアを開けた。そのドアの向こうに白い布を体にまとった金髪の男がいた。その人こそ王だった。
もっともそのときは王その人とは知らなかった。まとっていた布はぼろかったし、従者もいなかった。ただその美しい顔から放たれる威光だけは隠しきれていなかった。私は直感的に悪い人ではないと思った。
「すまない、少しのあいだここで休ませてはもらえまいか? 道に迷ってしまったのだ。あとで礼はする」
最初は偉そうな態度が気になった。だが実際は王だったのだと考えれば、私のような身分の低いものにあれほど親しみをこめて話してくれたことがうれしかった。
私は王を椅子に座らせると、水と黒パンを用意しに台所へ行った。そうして戻ってくるまでに王の座っている椅子が壊れていないか心配だった。あの椅子はだいぶぼろくて十四歳の私が座ってもガクガク揺れた。
幸い、王が座っても椅子は壊れなかった。王は座りにくそうにはしていたけれども、その一脚しかまともな椅子はなかったから仕方なかった。ほかの椅子は壊れてしまって全部薪の材料になっていた。
「この家には今、おぬししかおらんのか?」
王は尋ねた。
「はい。両親はいません。母は病気で亡くなって、父は一年前に仕事に行ったまま戻って来ません。それ以来私一人です」
王はそれを聞いて悲しそうな顔をした。
「それはかわいそうに。さぞつらかっただろう」
王はそう言って同情してくれた。
私は両親のことを思い出した。私は王宮を見ながら、父と母にこの王宮を見せてあげられたらどんなによかっただろうかと思った。まだ二人が家にいたら、きっと今の状況を喜んだだろう。
母はきっと天国にいるだろうからまだいいけれども父は家から出たきり行方が分からない。いつか父だけでも探し出してこの王宮で一緒に暮らしたい。
それにしても王都は人が多い。商店街を人が埋め尽くしている。向こうから来る人にはぶつかるし、後ろから人に押されるので全然落ち着かない。
村の商店街なんてどんなに多くたって十人くらいしか歩いていない。ここで生活していなくてよかった。
ようやく商店街を抜けて細い路地に入ると人も減ってどうにか人にぶつからず歩けるようになった。しかし今度は道がわからない。今までは一本道をまっすぐ歩くだけだったからこんなことはなかった。
一人で迷っていても仕方がないから私はそばを通りがかった男の人に道を聞いてみた。男は私を見て怪訝そうな顔をしながらも道を教えてくれた。
道がわかった私はお礼を言って立ち去ろうとした。
「王宮へなにしに行くんだい?」
立ち去ろうとする私に男は尋ねてきた。そうか、変な顔をしていたのはこれが理由か。
本当の理由は答えられない。言えばちょっとした騒ぎになるに違いないからだ。
「父が王宮で働いているのですが、父に用事があるんです」
「ああ、そういうこと。一人で大丈夫そう?」
「はい」
ついてこられてしまったら嘘がばれてしまう。門番にだけは本当のことを話さなければならない。
私は男の人と別れると教えられた道順に従って歩いていった。
本当ならこうして歩いて来るつもりはなかった。慈悲深い王なら迎えをよこさないわけがない。待っていればいずれ馬車に乗って王宮に行ける。それはわかっていたし王も言っていた。
だが王が帰って迎えをよこすまでの間は暇だった。なにもすることがないならいっそこちらから出向いてもいいと思った。
それにここまで歩いてきていきなり王宮に姿を現わせばきっと王は驚くはずだ。私の足の強靭さにも感嘆するだろう。その光景を想像して私は気持ちがよくなった。
王に同情されたときも気持ちよかった。私にかわいそうと言ってくれる優しい人は村にもめったにいなかった。
「もうそんなに悲しくはありません。それよりおなかはすいていませんか?」
私は言った。家に食べるものは黒パン二つしかなかったというのに。それ以外だと野草や果物を山から採ってくるしかないのに。とにかくあのときの私は浮かれていた。
「いやよい! 私こそすまなかった。おぬしがそんなに苦労しているとは知らず水や食事を飲み食いしてしまった。許してくれ」
「いいのですか?」
「よい。それより山を下りなければならない。すまないが道を案内してくれぬか」
私は窓の外を見てから王の顔へ視線を戻した。
「この時間になるともう無理です」
「それはどういうことだ?」
「山を下りているうちに暗くなってしまいます。そうしたら危険です」
「そんなわけがなかろう。まだこんなに明るいぞ」
「山が暗くなるのは早いです。それに山を下りるのには時間がかかります。昼のうちから動き出すならともかく、今からではもうだめです」
「そうなのか。ではここに泊めてもらわなければならないのだな。すまぬが世話になるぞ」
「ぜひ泊まっていってください。そして明日の朝、山を下りましょう」
「なんと、そなたは素晴らしい娘だ。知性に富み、慈悲深く、それでいて愛嬌がある」
「そんな、おおげさですよ」
私は恥ずかしくなり思わず笑みを浮かべた。
「いいや、ほんとうのことだぞ。そなたのような娘はこの世に十人とはおるまい」
王はそうやって私を褒めた。
私は建物の隙間から見える王宮に目を向けた。降り積もった雪のように白くきれいな壁、壮麗な窓。ぼろ屋にひとりきりで住んでいる自分があの王宮に入ることのできる日が来るとはにわかに信じがたかった。
王自ら王宮に来てほしい、と言ってくるとは思わなかった。今でも自分の何がよかったのかわからない。王は私のどこを気に入ってくれたのか。慈悲深さ? 知性? それとも愛嬌? 美貌ではないと思う。
さらに道を進んでいくと大きな通りに出た。その大きな通りは王宮の巨大な門に通じていた。門の前には門番が立っている。
門番は威圧的で私のような小娘の話など聞いてくれそうもない。嘘をついていると思われたらどうすればいいだろう。王様に言えばわかるとでも言うしかないだろうか。
それともあれは嘘だったのだろうか。本当に王があんなへんぴな村にまできてさらに何もない山の中へ迷い込むとは考えにくい。じつはあの男は王ではなかったのではないか。
あの時見た黄金のメダルも偽物だったのか。いや、そんなことはないはずだ。王の偽物があんなものを持っているはずがない。
王が私に見せた黄金のメダルは見たこともない輝きを放っていて、美しい装飾をほどこされていて、そして今まで一度も触れたことのない感触がした。
メダルを見せる少し前、私は王を私のベッドに寝かせようとしていた。粗末なベッドではあったが床よりはましだった。
「そなただけ床に寝かせるのはもうしわけない。一緒に寝ようではないか」
「いえ、そんなわけには。さすがに・・・・・・」
そのころの私でもさすがに男の人と一緒のベッドで寝るのはまずいとわかっていた。それを言うなら家に招くことそのものがまずいと言えたのだが、さすがに山で迷った人をほうってはおけなかった。
「すまない」
「いえ、気にしないでください」
「違うのだ。そなたに謝らなければならないことがある。私はただの迷った男ではない。とても弱く愚かな男なのだ」
「なにかあったのですか?」
「私は王なのだ」
私は何も言えなくなった。王がこんなところにいるわけがない、という思いとこの人の美しさは王であること以外では説明できないという思いがぶつかりあって、嘘か本当かわからなくなってしまっていた。
「私は、いや余は今日、民との親交を深めようとしてこの村を訪れた。その際戯れに民のひとりから衣服を借りて着させてもらったのだ。そしてそのまま山へ鹿を狩りにでかけたのだ。そこで余は臣下の目をすりぬけて姿をくらましてしまったのだ。ほんの少しの間だけ、一人で山の中を歩いて回りたいと思ったのだ。ところがいつの間にか道に迷ってしまったのだ。そうして帰り道を探しているうちにここにたどりついたというわけだ」
「それは・・・・・・」
私は目の前の男が王であるのかそうでないのか見分けがつかず、どういう言葉遣いで接すればいいのかわからなかった。
「余はおぬしよりはるかに裕福で飢えたことなど一度もない。それが今日、そなたのような貧しい娘から施しを得ている。このような罪深いことがあるだろうか!」
「き、気にしないでください」
「そんなわけにはいかぬ。何かお礼を、そうだあれがあった」
王はみすぼらしい衣服の下に隠れていたきらびやかな鎖を首から外した。鎖には黄金色のメダルがついていた。
「これをそなたに。これが余との親交の証となるだろう。これを使いの者にさしだせば褒美を渡すことができる。望むものを言うがよい。あとで使いの者にもってこさせよう」
王はメダルを差し出した。私は手を伸ばした。王は私の手にメダルを載せると大きく滑らかな手で私にそれを握らせた。メダルは重くて冷たかった。本物だ、と私は本物を知りもしないくせに思った。
「だがそなたのような素晴らしい娘と会うのが一度きりというのは忍びない。王宮に帰ったら二度とそなたに会えぬ。そなたのようなけなげな娘は王宮にはいない。王宮の女たちはすべからく噂好きで、尊大だ」
王は私を見つめた。
「寝る前にそなたの話を聞いてみたいものだ。これまでの人生でどのようなことがあったか、いかにしてそのような素晴らしい資質を身に着けたのか。いや、立たずともよい。余のそばで、余の隣で寝たまま話してほしいのだ」
王は私の手を優しくひいた。私はそれに導かれるまま王の隣に寝た。
あの夜触ったメダルは確かに本物だった。そして寝床の中で王は私を嫁にすると約束してくれた。山を下りる際にも念をおしてくれて、帰り際には必ず迎えをよこすとまで言って私を安心させようとした。
「すいません。ロゼットというものですが、王様にその名前を伝えてはいただけないでしょうか?」
門番の二人は冷たいまなざしで私を見てきた。
「何者だ?」
「私は王のメダルを預かっています。王の手から直接渡されたものです。ロゼットという名前とそのことをお伝えくださればわかると思います」
私は首からかけたきんちゃく袋にしまってあったメダルを取り出してみせた。門番たちはそれを見たとたんにたじろいだ。
「しかし、そんな話は聞いていないぞ」
「当然です、王は私がここに来ることを知りませんから」
門番二人は顔を見合わせた。
「ここで待っていろ」
それから一人が門の中へ入っていった。
私は門番と二人で待った。長い時間が経ったような気がした。やがて門番がゆっくりとした足取りで戻ってきた。王宮の中へ行くときは走っていたのに。なんだか嫌な予感がした。
「王はお前を宮殿に入れてはならぬと言っている」
私は驚愕した。
「そんなまさか! だって王は、王は」
「うるさい、立ち去れ!」
「王は私を嫁にしてくれると言ったのです!」
「ばかな娘め! そんなことがあるはずないだろう! おおかたそのメダルも盗んだものなのではないか? わたせ!」
門番が手を伸ばした。私はメダルを抱き寄せると同時に逃げ出した。走って走って、それでも門番に追いつかれると思って走り続けた。
だが門番には捕まらなかった。後ろを振り向くと門番はいなかった。そう遠くへは追いかけてこないのかもしれない。メダルを取り返してこいと言われていたら絶対に捕まえようとするはずなのだが。
何も知らない人なら絶対にメダルを盗んだものと決めつけるはずだ。私がメダルを持っていることは王しか知らないのだから。私を追い返したのは間違いなく王だ。王は私を王宮には入れてくれなかった。
私はこのとき人生で初めて、父にさえ感じなかった憎悪というものを感じた。
執筆の狙い
去っていく男とそれに対する女の負の感情を表現したいと思いました。あとはえっちな表現なしでそういうことを描写するっていうのは意識しました。その辺はいい悪いではなく、読みやすいようにっていう意味で挑戦しました。