気づきのとき
山頂を覆う霧が木々を絡めとるように谷をすべり、麓を白くかすませている。そんな幻想的ともいえる風景の中に僕はいた。失った存在の大切さを噛みしめるよう、一心に大木を見つめていた。
僕は同じ高校に通うショットカットの彼女と、しばしばこの場所へサイクリングに来ていた。
二人とも少し風変りだった。休日のデートであればみな街へ繰りだし映画やテーマパークへ行ったりするのに、そういったことにまったく関心を持たなかった。むしろ少しでもひなびた場所へ行って自然を観察し、建物なり人なりと、ひそかに触れ合うほうが楽しいと感じていた。
付き合いだすきっかけもかなり風変わりだった。
一年前、自転車で遠出するのが好きな僕はカメラをリュックに入れ白鳥が飛来するという小さな沼へ向かった。低い山の麓の名もない沼、この場所に毎年白鳥が飛来する。田んぼと水路がつながっているせいなのか水草が豊富なうえ、好物の甲殻類が大量に生息しているからだ。
だからといって必ずやってくるわけではない。一日の大半はたいてい待ちぼうけ、そのような地味な趣味を多感な他の高校生が興味を持つことはないはずだ。必然と友だちはできなかった。
それにしてもカメラ小僧が数人しかいないし、飛来すればインスタの閲覧数を伸ばせる絶好のチャンスだった。まして、その数人の中に意中の彼女を見つけた。さり気なく白鳥を撮るふりをして彼女を激写するつもりでいる。
細おもてで切れ長の黒い瞳、一見冷たそうな印象だが笑うとそれらを吹き飛ばして温かく、なぜか僕の心をなごませてくれる。隣のクラスなのでまだ話をしたことはないが、たがいの顔は十分認識している。そしてたぶん、彼女は僕が向ける視線を察知している。
気づくと、つい今しがたまで晴れていたのに青空が消えていた。なまり色の雲が上空を覆いだした。いつものことだがこの地域は天候が急変する。僕はカメラを首から外し、恨めしげに空を見ながら岩にもたれかかった。
午後三時、どうするか迷う。白鳥はいっこうに現れないし天候は悪化のきざしを見せている。かといって彼女はカメラを手にしたまま帰りそうもない。初冬の日暮れは思いのほか早い。まして西を山で囲まれたこの場所は平地と違って早く日が暮れる。
岩にもたれかかったままいたずらに時間がすぎていく。いちだんと雲は厚くなり、沼の向こう岸が見えないほど霧が立ちこめだした。そんな状態になっても決断できない自分をつくづく優柔不断だと思った。彼女も自転車で来ているのだし、一言、一緒に帰らないかと声をかければいいだけのことをうじうじ考えあぐねている。
いつだって僕はそうだ。母が失踪し、父子家庭になってからは家でも学校でも好きなものを好きだと言えず、嫌いなもの嫌いだとも言えずに黙りこくってしまう。だから風変わりだなんて詭弁で、ほんとうは友だちから相手にされないだけ。
おそらく父が三、四年周期の転勤族のため、自然と身につけた処世術なのだろう。転校先で本心をさらけだせば白か黒に色分けされる。どっちを選んでも味方がいないのならグレー、相手にされないほうがいいと割りきった。
「あの女、さらうぞ」
不意に、岩の向こうから不穏な声がした。
声の方向に目をやると、ポケットに手を突っこんだ二十代前半の二人組が肩を怒らせて彼女に近づいていった。到底カメラ小僧には思えない連中だった。ねばっとして醜悪、どう好意的に見てもカメラオタクとは言い難い。
彼らは彼女を取り囲むような形で、二言三言にやけながら話しかけた。彼女は嫌な顔一つせず対応している。男たちの企みを知らなければ何てことのない男女の一場面。けれど知っている者には欲望まるだしの狼が下半身をいきり立たせ、つかのま羊の仮面を被っているのは明白だ。
しばらくすると一人が、狡猾な目を柔和につくろったまま立てかけてあった自転車のサドルに手をかけた。もう一人は卑猥な笑みを口もとに浮かばせ、彼女の肩に手を乗せた。
――えっ、自転車を運ぶっていうことは、まさか交渉成立……肩に手を乗せたのも承諾のサイン?
とたんに全身の力が抜けた。
それは小学生のとき、貯金箱を壊して母の誕生日にケーキを買って戻ったら、スーツケースを持って出ていく母と鉢合わせをした――そのときの空しい感覚と似ていた。まだ付き合ってもいないのに胸にぽっかり穴が空いている。
あきらめて帰ろうとすると、彼女が男の手を払った。
頭に電気が走る。熱い痺れが全身を駆けめぐる。
――なにも言わずに去った母とは違う、でも……。
爽快感と入れ替えに不安が襲う。男たちにとって彼女の拒絶は想定内だからだ。案の定、にやけを一転威嚇に変えた。きっと当初の予定通り、強引に連れ去るつもりなのだろう。
どうしよう。何とかしないと彼女が拉致されてしまう。車に連れ込まれてしまえば彼女は確実に暴行される。
犯罪だ。大声を上げて周囲の大人たちに助けてもらおうと辺りを見渡したが、数人いた大人たちは鴨の写真を撮りに沼の反対側に行っている。近くには僕一人しかいなかった。
だったら僕が助けるしかない。いざ覚悟を決めたけど腕力に自信があるほうではないし、反対に叩きのめされるのがおちだ。そもそも喧嘩なんてしたことがないのだ。
膝が、がくがくと震えだした。
これまでクラスメートがいじめに遭っても見ないふりを決め込んできた。その都度、不甲斐ない自分を責めた。けれど、それもこれで終わりだ。もう転勤族の処世術なんて願い下げ、ピリオドを打つ。
僕は草むらに落ちていた恰好の枯れ枝を見つけ、力を込めて握った。返り討ちにあってもかまわない。それによって思いを寄せる彼女の危機を救えるなら、と。
「よし、やってやる!」
勇気を振り絞ったとき、虚を突かれた。
「きみ、何してるの?」
背後に彼女が立っていた。
「えっ?」どう答えていいのか狼狽した。「彼らは?」
「追い払った」
僕は平然と言い返す彼女の言葉の意味を理解できなかった。
結局のところ、彼女が猛威を振るうコロナの感染者だと告げたので、二人は渋々退散したらしい。醜悪なものは、より醜悪のものにひれ伏す。ほんとうに感染しているかは定かではないけれど機転の勝利だろう。
そしてその後、僕が枯れ枝を持って戦おうとしたことを知り、彼女は「へぇ、きみって軟弱なだけじゃないんだ」と、信じられないものを見たときのように目をぱちくりさせた。
僕は得意げに言った。
「学校で見せているのは仮の姿なんだ」
「仮の姿、ね」彼女が笑った。「確かに増長するのは真の姿だわ」
嫌味っぽく核心を突かれたけど、僕の大好きな温かい笑顔だ。
「一緒に帰ろうか。狼から守ってあげるよ」
「わたしを守れるの、軟弱な羊さんが?」
「いざとなったらお姫さま抱っこをする。こう見えても逃げ足は速いんだ」
それから僕たちは休みのたびにデートを重ねた。ときにバスや電車を乗り継いで遠出することもあったけど、大ていは自転車で自然の探索だった。その日も、山道の入口で古風な民家を目にし、たがいの顔を見合わせると自転車をとめた。そして誰かいないかと庭先を覗き、縁側で日向ぼっこをする老夫婦を見つけて挨拶をした。気づくと談笑し、茶を啜り、しまいには「峠でお食べ」と、軒下につるされる干し柿を持たされていた。
老夫婦は口を揃えて言う。
「素敵な彼女だね。屈託のない笑顔と控えめなところがたまらんよ」
「確かに笑顔はそうだと思うけど、控えめとは言い難い気も……」
と、僕は言いかけて言葉を濁した。これまで何度も学校で二人の仲をひやかされたが、僕をかばうよう、懸命に言い返す彼女をずっと見てきた。僕は相変わらず羊のままだったのだ。
「女々しい男の子に控え目でいたら軟弱さを増長させるだけでしょ」
案の定、手厳しく言い返された。
「まあ、あなた軟弱だったのね。だったら、うちのおじいさんと一緒よ」
「へえ、おじいさんも軟弱だったんですか」
「それが夫婦円満の秘訣だからね。わしは婆さんの幸せを守るために達観したんだ」
「きみもいつか達観してね」
彼女が意味深な目を向けた。
「もうしてるよ。ここへ来たのだって、君が古民家好きなのを知っているからさ」
「そうね。年を取ったら、古い家で伴侶とお茶を啜ることが私の夢だもの」
「僕だってそうさ。おじいさんとおばあさんのように仲よく手をつなぎ、日がな一日を過ごすんだ」
「こりゃまいった。二人とも、高校生なのに老成しすぎだぞ」
老夫婦が笑う。つられて彼女も屈託のない笑顔を覗かせた。
でも……もう、彼女の飾り気のない笑顔を二度と見ることができない。その後すぐに、この緩やかな坂を登りきった所で事故に遭ってしまったのだ。
僕はしばらく佇んだ後、生々しい傷跡の残る大木の前へ跪く。
「どうして……」と、抱える胸の痛みを訴えた。
もちろん大木が返事をすることはない。
しかし大木は事故の一部始終を見ていた。ねぎらうかに葉を一枚散らした。僕は手のひらを広げた。でも意思とは裏腹に葉はすり抜け、ひらひら風に巻かれて飛んでいく。
今思うと、悲惨な事故が起きたのは不運が幾重にも重なったせいかもしれなかった。
厳しい冬に備えて木々はいっせいに葉を落して幹に養分を蓄える。その日もかなり冷え込んだため、みなが葉を落しはじめた。さながら落ち葉の吹雪の感がするほどに。
けれどその毎年くりかえされるいとなみによって、屈託のない笑顔を僕から奪いとってしまった。たがいの夢であった茶を啜ることも、手をつなぐこともできなくさせてしまった。
数日前、坂の上からやってきた一台の車のフロントガラスに、木々の落した葉が大量に降りそそがれた。折り悪く、その車はワイパーに不具合が生じていたらしく大量の落ち葉を掃ききれなかった。それによって視界が狭くなったのだろう、危険を感じた運転手は崖に気を取られ山側へ車を寄せた。
そんな車の異変に彼女が気づいた。
「逃げて!」
と、押し迫った声で叫んだ。
その声に運転手も気づき、急ブレーキをかけた。しかし車は横すべりしながら蛇行した。まさに制御不能状態、自転車の速度を上げれば僕は避けられても、後続の彼女と激突してしまうのはあきらかだった。
いや助かる方法は一つある!
僕は逆に速度を落とし、彼女を突き飛ばした。彼女が自転車ごと大木の横へ転がった。
やがて跪いていた僕は立ち上がり、あの民家の庭を覗くとぎこちなく口元をゆるめ、縁側で茶を啜る老夫婦に視線を当てた。事故の報告をしようと二人に向かってゆらっと歩きはじめた。落ち葉が一枚、今度は僕の身体をすり抜ける。
執筆の狙い
いつまでも上達しないので一年半ほど創作から離れていたのですが、ふとまた書こうと思い立ち、当サイトに投稿させてもらいました。拙い作品ですが目を通してもらえると幸いです。