夜が暗いのはおまえの所為だ
『なぜ美しさのためにひとを殺してはいけないの?』
深夜。SNSのタイムラインに唐突に浮かび上がったのはそうしたまるで稚拙な問いかけだったが、僕はその投稿について、ちょっと真面目にかんがえてしまう。
しかるにこのせかいは無数の人殺しに満ちあふれていた。人はさまざまな理由によって人をあやめる。たとえば憎しみのため、法のため、飢えのため、愛のため、人種が異なるため、宗教が異なるため、同じ宗教でも宗派がちがうため、思想が異なるため、思想のなまえはどういつだが革命の方向性が異なるため、夏で熱くてむしゃくしゃしたため、太陽が眩しかったため、あるいは生育をのぞまれない受精卵が人間のかたちになるまえに殺されて、ときにはじしんを明日から逃すため自発的に駅のホームから身を投じたりもする。そのどれが美しくて美しくない動機なのだろう。
ーーというようなつぶやきの幾つかをリプでツリーに連ねた。きっと翌あさになれば僕じしんがそっとそのポストを消してしまうだろう。じかんは午前二時でつぎの日が休日の僕はすでにある程度のアルコールを摂っていた。酒を飲んでいると、さきのような勝手な放言がひどく心地いいのはSNSでも飲み会でもかわらない。
それで満足して、どこが面白いのか良くわからないYoutubeの動画を眺めつつラムレーズンのチョコレートを齧りながら原液のブランデーを啜っていると、スマホの通知がなる。
『美しさにくべつが無いなら、どこからどこまでが正常な動機といえるでしょう。』さきのポストをしたかれもしくは彼女が僕のポストにそうリプをしたのだ。
『気づきました。あなたのはなしを聞いて「美しさ」と「正常さ」のくべつが付きづらいことに。殺しかたについてどれが美しくまたそうではないか、と問いかけるのは。それが正常な動機であるかそうでないか、と問うのとあまりかわらない』
孤径というハンドルネームはそのID“komichi20642”に照らしあわせればたぶん『コミチ』と読むのだろう。かれもしくは彼女と会話をするのはおそらくこれが初めてだった。「おそらく」というのは、フォロワーが十数人しかいない鍵アカで、僕がいつからそれをフォローしているのかを憶えていないが、何時のころからか僕のタイムラインにときどき現れるようになった。たぶん名前やIDを変更したせいで、どこの誰だかわからなくなってしまったのだろう。つまりいまの名前になるまえの相手と僕はいぜんに会話をしたことがあるのかも知れない。自撮りのメディアをあげるタイプのアカではないので飽くまで推測だけど、きっと若い人物だろうとおもった。実直さと真面目さがまるで、まだ義務教育の児童の印象だ。
美しさと正常さを等式で結びつけるというのは、まるでプラトンのようだ、とリプして反応をまった。きっと、まだおさないコミチはソクラテスの対話篇など読んだことはないだろう。中二か中三なら受験対策の問題集で触れたことがあるかも知れないけれど。
さてどんな反応があるだろうないだろう、とスマホを置こうとすると
『けれどこれまで美しいもので正常でなかったものを見たことがありません』『そして動機が美しいかどうかというのは考えてはいなかった。死体のことばかりを考えていました。』
美しさのために絵を描こうとする動機から描く画家が絵という成果物にとうぜんのように美しさを求めるように。美しさのために殺そうという人物のなかでも動機と結果は美しさで結ばれているものではないのか。と僕は言った。
『そうか。美しさのためにひとを殺してはいけないのか、という私の問いかけ』『それは目的がただしく正常なものであるのか、とおんなじものだったのですね。』『ただしい理由があれば良いのか、という』
しばらくの間があった
『行為の動機や目的や美しさやただしさについて考えながら、その判断の正常さを疑いながら殺すことは私には、とても出来そうにない。美しさなんて綺麗ごとの塗布は無意味で、正気をうしなって殺すしかない。』
こうした個人間のリプでもフォロワーや運営によって警察に通報されるかもしれないので注意したほうがいい。よければDMでやりましょう。僕は言った。
しょうじき僕はコミチの話にふいをつかれ、また少しく感心もしていた。まず、美大の講義で学ぶプラトニズムとは飽くまで反面教師として、その主張するところの真善美一致という論理へ反駁するためにこれを学ぶもので。異常な美、悪の美とでも呼ぶべきようなものを浮かび上がらせることを目的としていた。つまり畢竟それを否定するために学ぶものでしかなかったため、僕は「まともに議論をするつもりがない」という意図でプラトンを持ち出したのに、おそらくその固有名詞すら知らないコミチは、その無知がゆえにじしんの言葉で真正面から応じてみせた。こうなると少し分が悪い。なぜなら僕は『真善美の一致という信念は誤っている』ということは教わったのだけれど『なぜ真善美は一致していないのか』ということについて結論ありきで教えられただけで『なぜ真善美は一致してはいけないのか』、じしんの頭でそれについてきっちりと思索したことはなかったからだ。
しかし言いわけするわけじゃあないが。三平方の定理をうたがわずに使えるもののなかでそれが何故ただしいかを証明できるものがどれだけ居るだろう。二次方程式の解の公式がなぜ正しいのかを証明できるものなどほとんど皆無だろう。そして二次方程式の解の公式を用いなくても因数分解はかのうだ。
「なぜ美しさのためにひとを殺してはいけないの?」という問いから「ならば正気をうしなって殺すしかない」というテーゼを導いたコミチのように。
さてこれで、ほんとうにかれもしくは彼女が犯行にいたれば、犯人とこんなにも物騒なかいわをしているSNS上の人物として僕もまた面倒ごとに巻き込まれるかもしれなかった。なのでこれ以上は危険だ。しかし僕でなくともだいたいの美大生ならば、そのようにじしんの知らない新規な価値観の摂取には貪欲なものだ。VPNをはさんでDMでやりとりをしても、本気になった検察からプロバイダに開示請求をされれば匿名ではいられない。かといって薬物中毒いっぽ手前の友人のようにダークネットでツールを買ったり、匿名の通信ソフトをつかってまでこのあいてとやり取りをするつもりはないし、相手もそんな特殊な連絡手段に応じるつもりはないだろう。
まあなにせきっと<子ども>なんだから。そうヤバそうなことにはならないだろうと半ばタカをくくってDMを一時的に解放して僕は眠った。
明け方のそらがカーテンからのぞいてあまり簡単には寝つけず僕は奇妙なゆめをみた。ベッドに眠る僕のわきでべつの起きている僕と僕の見知らぬ友人が歓談をしている。
「なぜ美しさのためにひとを殺してはいけないか」という問いから「では正気をうしなって殺すしかない」というおかしな結論がみちびかれたのは明らかに
『けれどこれまで美しいもので正常でなかったものを見たことがありません』
というコミチのいだく奇妙に帰納法てきな観念のせいだ。それはぜいじゃくな論理で、ひとつでも例外がみつかったら破綻してしまうのに。でもなぜそれが間違いなのか、それをまだ僕も証明することができない。美しいものを描きたいというじしんの欲求を、まだ完全に異常とは否定しきれていなかったからだ。僕という連立方程式のなかにもまた、「美しいものは正しい」という一行の等式が刻まれているのだ。
ーー発狂した母が/浴槽の中で美しい犀を飼いはじめる
脳裏から寝起きのくちを経て、いつか何処かで読んだ詩がふと口を吐いた。
異常な美はちまたの其処かしこに溢れているはずなのに、いざ実例を挙げようとする段になるとそのどれも異質さが漂白されて只ただ美しさという属性のみによって印象が上書きされていくのだった。たとえばモナリザという史上ゆびおりの不気味な女がなぜかくも美しいのか。文化論、表象論、図象学、現象学がいくら賢しく長大に論じようが触れたはじから指さきは滑り、論旨の舵さきをあらぬほうへ衒わせてしまう。僕らは、かんたんなコトを簡単には言えないという病に罹っているからだ。
ありていに言えばモナリザは性を否定している。モナリザでは勃起できない。そのような想像は、親族との性行為にも似た嫌悪感をもよおさせる。そうしてみずからの内面の汚れをまざまざと認知させられることとなる。美しさにこころを動かされるとはそうした強制てきな働きなのだ。それにあらがうコトなど出来ようはずもない。
美しさは常にただしい。なぜなら美しくありさえすれば、人間がそれに逆らうことは無いのだから。
そうしてかんぜんに目が醒めてしまうと、見知らぬ友人はもうきえて僕はただ一人の僕だった。その事実にひじょうに寂しく孤独をかんじた。
※
僕にとって『美しさ』という観念には特別な意味合いがあった。とうじの僕は美大生であったからだ。その学生時代が僕が僕の人生に於いていわゆる『芸術家』の端くれである短い時間になることを自覚していた。美大で油彩を専攻した人物が卒業後に画家として生計を立てるというのは百にひとつもない。細い分岐のさきにある僅かな可能性ですらもない。
作品を百貨店や画廊に出して買い手を待つことは出来るだろうが、利益は売値の折半や三分の一なのでとても生活はできない。それは田舎の老人が余暇につくった手芸を近所の道の駅の民芸品売り場に並べるような営為でとても生業にできる代物ではない。
専業で生計をたてているプロの画家はこの国に百人もいないという。僕じしんもプロの画家の知りあいがいないので只のウワサだけど、そんなのはもはや一つの職業としてカテゴライズできるものではない。
そこで僕はもう一年もすれば名刺を刷ってデザイン事務所や広告代理店やテレビ局などにポートフォリオを持ってまわってじぶんを売りこむコトになるのだが、もちろんポートフォリオにはクロッキーやデッサンや油彩画だけでなくデジタルで描いた作品も必要となる。その職場にはイーゼルどころか、布地のキャンバスも絵の具もテレピン油もないからだ。油絵というのは画材に金がかかりすぎるため僕はきっと卒業制作をさいごに僕はそれを描くということをやめてしまうだろう。
と言ってもこれはもちろんありふれた事情で、大学というのは職業訓練校ではないので数学科を卒業した人物が数学者になったり政治経済学部をでた人物が政治家になるのも同じくらい稀なはなしだろう。ただ企業はかれらに履歴書に添えて在学中の卒論やレポートを提出しろとはまず言わない。しかし美大生はちがう。手を動かしてモノを造る職人としての側面があるからだ。人事担当者は僕にポートフォリオという名の『メニュー表』をもとめている。飲食店にはいるまえに予めそのウェブサイトで品揃えを確認しておくのと同じことだ。
就活対策としてデジタルで描くということをはじめた頃はしょうじき、その『義務てきな作業』がストレスでしかなかった。
大学で描く絵とちがって講評でたにんと比較したりされたりするわけでもない。コンクールや授業の課題のように締切があるわけでもない。こんなのでは作品がぜんぜん仕上がらない。高校のころから美術コースで描いた絵を他人から評価されるというのがとうぜんの環境で製作をしていた僕はデジタルへの適応にておもわぬところで蹴つまずいてしまった。僕は一人きり、だれに見せる予定もない絵を黙々と描き続けられるような、いわゆる求道てき精神に欠けていた。このような孤独に耐えられないのであれば絵画の才能をおいても、もとより僕に芸術家としての資質は無かったなーーと他人ごとのように感得した。
描いた絵をだれかに見てもらうためにSNSのアカウントを開設した。もちろん現実の人間かんけいの範疇にあるだれにもアカウントのことは教えていない。
この時期にデジタル製作の習得にとりかかるという分かりやすいあざとさを他人に見せたくなかったし、見せられるほうだって辟易するにちがいないとおもった。
なのでとうじ付き合っていた女性からデートのさいちゅうで僕がそのSNSにアップした画像をこちらに向けたスマホの画面ごしに見せられたときは、おどろきの表情を隠すのに苦労した。
ゴッホの星月夜をモチーフにそれそのものとは違いスマホでの表示や待受画面にみあうように縦長にして、物理的な絵の具で描かれていた渦動する光と夜をじぶんなりに創作したものだ。
見栄えのするマンガやアニメのキャラクターを描けないじぶんが閲覧数を伸ばすには壁紙需要がいちばんであるというさもしい作為であった。
描くためには観られるひつようがある、しかしただ描いたからといって観てもらえるわけではない。一、二ヶ月、フォロワーが二桁のアカウントでもくもくとイラストを投稿しつづけて、これでは無意味だと僕はさとった。フォロワーはその大半がアフィリエイトのリンク垂れ流すだけのbotなので閲覧数は二桁にもたっしない。
僕は『観られるための工夫』をはじめた。その工夫の詳細はプロフのリンク先にすべて書いておいたので此処では多くはかたらないが、結果いつのまにかフォロワー数は数万を越え、作品は恋人の手もとの液晶という現実までとどいてしまった。
コングラッチュレーション、ここでゲームはおしまいです。というわけだ。20ほどしかフォロワーのいない裏アカで僕はそのじじつをコミチにはなした。もちろんそのような話題をだすまえに、裏アカには他人がその発言をみたりしないようにカギをかけておいた。
その絵をみせてほしい、と請われて僕は、ゴッホの星月夜をモチーフにしているんだ、有名なやつだから探してみなよ、とできるだけ平静をよそおって話題をそらした。人殺しの話題をおもとする人物とメインのアカで繋がるつもりはない。
『先生はゴッホの絵が好きなのですか?』
好きかどうか、とそう問われておもわず応えがつまった。
こと油彩画をえがく者のなかでゴッホをきらいな人間がいるだろうか。
ルノアールを嫌いな画家はいるかもしれない。あるいはダリを、クリムトを、ピカソを、フェルメールを、レンブラントを、モネを、カラヴァッジョを好まない画家はいるかもしれない。僕には彼ら彼女らがそれらの絵画を嫌う理由をいくつか連想することができる。しかしゴッホやダヴィンチのことが嫌いな油彩画家というものが果たしてこの世のなかに存在するものだろうか。僕は醤油ぎらいの日本人を空想して次に、それはさぞかし生きづらい暮らしだろうと同情した。
『もちろんゴッホは好きだよ』かれもしくは彼女へすなおにそう告げた。でもそれを真似たじぶんの絵はすきではない、とも。
『上手くいかなかった?』
『ううん。とても上手くいった。フォロワーがずいぶん増えたしインプレッションも稼げた。こういうのを描きつづければそれで食べていけるかもしれないね。』
『じゃあなんで消したの。とても美しい絵だったのに』『せんせい』コミチは言った。いつしか僕らはたがいに「先生(役割/立場)」「コミチ(したの名/かりそめの個人)」と呼びあうような気持ちのわるい関係性へと変質していた。僕は先生などという高尚なそんざいではないし、コミチがほんとうに当初の僕がそうぞうしたような無知な子どもであるのかなんて、じっさいには分からないのに。僕はしぜんと上から教え諭すように語りかけ、高弟に教えを乞うようにコミチがそれに応えることが当たりまえのような役柄を演じるようになっていた。
たぶんこれは心理学で言うところの共依存や、転移というやつだろう。お互いがたがいの内側にある過去の傷あとや憧れを経由して内向きにうらがわから相手とつながっている。
気持ちがわるい、いっぽうでその気味のわるさが蠱惑てきで、ふるまいを止められない心地よさもあった。
ずっと求めながら欲していたものを好きに享受するようなふうでもあったし、すでに塞がった瘡蓋を掻きむしって傷をほじり、受傷のきおくを回顧するような甘ったるさでもあった。薄れかけた記憶のなかの過去の痛みというものはそれを思いだすだけでひどく甘美で、ときにじぶんを愛しなおすきっかけにもなる。
就職活動に倦みきっていた僕のこころにふ、と意欲のともしびが戻ってくるのだ。それはひどく不健全な健康さだろうけれど。その充足を恋人にもとめるのはきっともっと間違っている。
『なんで、絵を消したことをしっているの?』僕はきづいてかれもしくは彼女にそう訊いた。
『あなたの絵を見たから』『ちょっとまえにおすすめのタイムラインに上がってきてて』『それでいま「星月夜」を検索して、あなたの描いたものだと知りました』
『だれか別のひとの描いた絵かもしれないよ』
そうかも知れない、かれもしくは彼女はいった。それで『せんせいがまえ話題にしたピュタゴラスの定理のように、簡潔明瞭で疑いようもなく確かなものしか前提にできないのなら、コミュニケーションは成り立たない』
『そんなはなし、したっけ?』
『しました、しました。それでじじつがどうであれ、わたしはあれが先生の描いた絵だと、もうなりゆきで確信してしまったのです』『わたしのせかい認識の土台として』『このわたしの確信を覆すことは先生をふくめたこのせかいの他のだれにも不可能です』
『きみがその絵を観たアカウントがあれは僕の描いたものではない、と証言したら』
『無益なはなしです。ひとはいくつでもアカウントを持てるのですから』
そうだな。失敗した、あの絵アカは現実の僕を知るひとには誰も教えるつもりはなかったのに。すなおにそう伝えた。
なるほどすると、ここには現実のあなたが居るのですね。とDMがとどいた。スマホのみが光源の灯りをともさないベッドのうえで、せなかにそっと指で撫でられる感触があった。つづいて本アカへのフォロー通知が鳴動する。まちがいなくコミチによるものだが、僕の本アカをフォローしたIDもまたこれまでのコミチとはべつのIDとなまえを持っていた。
これからきみのことをどう呼んだらいいのか分からない。きみからもここでは僕のことを「先生」とは呼んでほしくない。
『べつに、どうでも良いじゃあないですか』くったく無いえがおの絵文字でコミチは言った。『わたし達はお互いを変わりのないあいてとして認識しています。なまえや呼びかたは本質ではないでしょう』
『なら僕らの関係のほんしつとは、なんだろう』
『わかりません』『先生がおっしゃったのです。語りえぬものには口を閉ざさなければならないーーこのゲームに於いて明らかに確かな原理はそれが言語化できなくてもゲームの進行に支障はない、というコトです。』
『いやいやいや』『それをきみに教えたのは間違いなく僕じゃあない』『だってぼくは、ウィトゲンシュタインのコトなんてなにも知らないもの』
『じゃあなんでさきほどの其れがウィトゲンシュタインの言葉だとわかるんですか』かれもしくは彼女がいった。
『きっと先生のうちがわにはわかっているつもりで本当は分かっていない事柄や、知っているコトさえ自覚できないのに他人にはその理屈をせつめいできる事柄がまだらに詰まっているんです』『だから他者をもとめている。わたしとはちがう理由で』
*
ある日のこと恋人にあったときぼくはなぜだか話題にゴッホをえらんでいた。理由が何故だかはわからない。
「つぎ、ゴッホの絵が日本にきたら迷わず見に行ったほうがいい。画集では分からないけれど実物を見ると、油絵というのは立体の造形物であるということが良くわかる。とくにゴッホは厚塗りで、比喩じゃなく一センチくらいの凹凸はふつうにあるから、斜めから観るといい。本当にすごいんだ、まるで惜しげもなく絵の具を使っている。うらやましい、ゴッホの弟のテオが優れたパトロンだったとわかるよ」
「大学を出たあとも絵をつづけたいの?」
「まさか」と僕は彼女とじぶんのやり取りにびっくりした。「油絵を描くのにはとてもお金がかかるんだ。そういうデジタルのとはわけがちがう」
わたしにゴッホの弟さんくらいにお金があればあなたに画家をさせてあげられたのかも知れない。でも残念ながら専攻に比較宗教を選んだ女にそんな稼ぎは期待できない。と彼女が自嘲する。
いいよ、美大にきたって画家になるほうが珍しい、希少といってもいい。そっちだってさ。宗教学を修めてもじぶんで宗教を拓いた人物なんていないだろう。
「開祖はしらないけど、世襲の二代目は宗教を専攻したケースはあるよ。」
「そうなの? じぶんで未来のじぶんを研究対象にするみたいで逃げ場がないみたい。なんだかヘンなかんじだね。」首をふるう。それで少し考えた。
「いや、弟のテオがいたからゴッホは画家として生きるしかなかったのか。うらを返せば環境がゴッホに画家いがいの生きかたを許さなかった。」
想像してみる、大金持ちの弟の支援のおかげで僕は物理の絵を描き続けるがまるで売れない。何年も、何年も。そんなにも熱心なパトロンがいなければもしかしたら、ゴッホが自殺することもなかったろう。
僕は彼女に希望のなかに人生の逃げ道をふさぐようなテオではなく、むしろ閉塞した人生のトンネルや抜け道であってほしいとおもった。しかし。そんなにも厚かましい願いをじっさいに伝えるわけにはもちろんいかない。
なので当たり障りなくつぎのような話をした。
いつか年をとって余裕が出来たらたまに。たまに、一年とか何年かにいちどくらい描いて。それで近場の画廊や百貨店のギャラリーなんかに並べてもらえたらいいな、と思うよ。見知らぬひとに絵を観てもらえて、それをもし気に入った奇特なひとがいたら買って自宅にかざってもらえたらと。いずれ、いずれのことだけどね。そう早口で言いわけのように、そのようなことを言ったと思う。それは夕暮れのスタバで、あとの流れはよく憶えていない。でも結末はわかっている。このあとの展開が。恋人と僕の部屋にいってセックスをする。それで僕は苦しむことになる。さいきんなかなか射精ができない。汗まみれにつかれて萎えそうになるので目を閉じた僕は脳裏にいろいろと、人気女優のかおやネットで見たことのある卑猥な動画を空想したりするのだが、それはすぐに性的なイメージとはほど遠いなにかに勝手に差し代わってしまう。たとえば、雪原の樹木にツノを擦りつけるエゾシカのイメージなど。
汗まみれのほおに指がふれる。目をあけると灯りのない寝室のベッドから恋人が「ねえ、もうやめよう」と心配そうにみあげている。「すごく、苦しそうなかおをしているよ」
しかしどうにか形をつけかった僕はなおさらがむしゃらに腰で彼女を揺さぶった。
※此処まで。つぎの展開。血まみれのコミチの動画に僕は勃起してしまう。
執筆の狙い
小説を書いています。
これは中編小説の冒頭を企図した二十枚ほどで、最終的に百枚ほどを想定しているものです。
忌憚のないご意見を賜れれば幸いです。