リセット
1
「お目出とうございます。海山将吾さま。世界初のあなたのリセット手術は成功しました。
と言っても何のことかお分かりではないでしょう。すぐに心理療法士の岡田先生を呼んできます。あなたがいま、どういう状況になっているか詳しい説明があります。しばらくお待ちください」
と言って、五十歳前後と思われる看護師は部屋を出て行った。
海山将吾は二十二歳。京都の洛南大学を卒業したばかりで、出身地の福井市へ帰り、家業の酒屋の手伝いをする予定になっていた・・・・筈だ。
だが、何かおかしい。何が?と言われると上手く説明できないが、なぜ、こんな、病院のような所に寝ているのか? それに、この部屋は凄く明るい。天井の丸い大きな照明器具は彼が見たことも無い近代的なものだった。
間もなくやってきた、やはり五十歳前後の白衣の男が話し始めた。
「海山さん。私は岡田と言います。いきなりこんなことを言っても驚かれるでしょうが、貴方はご自分が六十年若返る手術を希望され、それが成功したのです。
手術と言ってもメスで切ったわけではありません。
あなたは昭和十六年五月二十二日生まれで、今年八十三歳になります。手術を始めたのが昨年五月で、一年かけて体内に蓄積された活性酸素やフリーラジカルのエラーとなった細胞をすべて透析により除去する施術を行ったのです。担当したのはあなたのお孫さんである海山洋一郎教授です。
手術は成功しました。それによって、貴方の体は再び二十二歳の若さを取り戻すことが出来ました。だが、それによって、過去六十年間のあなたの記憶はすべて消去されてしまいました。ですからあなたはご自分がまだ二十二歳だという認識だと思います。あなたは手術前に六十年間にあなたが体験したことを可能な限り思い出して、それを書いて、写真と共にこのバインダーに閉じてあります。また近年のあなたが撮った写真はこのiPadの中に保存してあります。記憶を無くしたあなたにはそれを見てもご自分の記録とは認識できないかも知れませんが、それがあなたの六十年間の姿なのです。
そして今は令和六年という年になります。あなたの生まれた昭和という時代は六十四年間続き、その後平成という時代になり、更にその後令和となり、今は令和六年という年です」
「えっ、僕はいま二十二歳で、これから父の後を継いで酒屋の手伝いをすることになっているのですが・・・・・」
「はい。そう思われるのも無理はありません。六十年間の記憶がすべて消えてしまって二十二歳の状態にリセットされてしまったからです。でも実はあなたは大学卒業後実家の酒屋さんを継がれたのち結婚されて一男一女を儲け、そのご長男の子供さんであるお孫さんが大学教授となり、今回のあなたの手術を担当されたのです。いま講義に出ておられますが、間もなく終わりますので、こちらへ来られます。あなたは初対面と思われるでしょうが、教授はあなたのお孫さんなのです」
「そんな馬鹿な‼ 僕が八十三歳だなんて、なんでそんなおかしなことをいうのですか?だいいち僕はまだ結婚なんかしていないし、子供どころか孫がいるなんて・・・・・そんな筈はないでしょう・・・・・」
「何度でも言いますが、本当の話なのですよ。あなたは今、昭和三十八年だと思っていらっしゃるでしょう。ですけど、今はそれから六十年も経ってしまっているのですよ。まあ、外に出れば分かります。走っている車はあなたが見たことも無い近代的な車ばかりです。そして今は日本中に高速道路が走っています。汽車だって石炭を焚いて走るのではなく、すべて電気で走っています。新幹線と言って時速三百㌔以上で走る高速鉄道も日本中で走っています
そして今は六十年前には無かった大きなショッピングセンターがあります」
そうこうしているうちに講義を終えた孫の洋一郎教授がやってきた。
「おじいちゃん・・・・と言ってもお分かりにならないでしょうが、私はあなたの孫にあたる洋一郎です。一年前、私の研究成果を実験する治験のモニターを探していた時、おじいちゃんが名乗り出てくれたので、詳しく説明した上でモルモット役をお願いしたのです。危険は無いと分かっていましたが六十年間の記憶が消えるという問題があったので誰でも、と言う訳にはいかず、おじいちゃんなら、という事でお願いしたのですよ。ここにおじいちゃん自筆の承諾書もあります。
おじいちゃんはそのとき、六十年も若返る事が出来るのなら、記憶なんて消えてもいいと言ってくれたので、世界で初めてのこの手術に取り掛かる事が出来たのです。
いまのおじいちゃんは、なんの問題も無い健康な若者の身体ですが、一年間休んでいたので足の筋肉は衰えています。しばらくリハビリをした後は私の家に来て、令和の暮らしに慣れる必要があります。そのあと、どこかに就職するか、または大学に入り直すなどして人生を楽しんで下さい」
2
なんだか信じられないが、将吾は自分の孫と称するこの四十歳前後の教授の言っている言葉の意味は分かった。
「僕は本当にあなたのおじいちゃんなのですか?だとすると僕の息子、つまりあなたのお父さんはどこにいるのですか、それと僕の結婚相手、あなたのお婆ちゃんはどんな人で、どこにいるのですか?」
「はい。一度に逢わせるとおじいちゃんが混乱すると思いますので、リハビリの過程で一人ずつ面会して頂こうと思っています。おじいちゃんから私までを含めた海山家の家系図を後でお見せします。いちばん気になるのはお婆ちゃん、つまりあなたの奥さんだと思いますが、七十八歳で、とても元気です。ご結婚以来、ずうっと福井に住んでいます。でも、こんな白髪頭を見せるのは恥ずかしいと言って逢うのを嫌がっています」
将吾にも、少しずつ状況が分かってきた。何度言われても信じられない気はするが、この天井の照明器具だけを見ても、たしかに自分が見慣れたものでないことは明らかだ。先ほどの岡田や、教授の言うように、この部屋から出て街を歩いて見れば、未来の社会へ来てしまったのだと分かるだろう。いやそれは未来ではなく、一年前まで自分が住んでいた世界なのだが・・・・・
自分が書いたという承諾書を見せてもらった。それから六十年間の自分の記録だというバインダーも見せてもらった。全く覚えていない事ばかりだが、字を見ればそれは自分が書いたものだということは分かった。六十年経っても、相変わらず字はミミズの這ったような下手くそのままだったという事も分かった。
その日から早速リハビリが始まった。リハビリと言っても、ただ立ち上がって歩くだけだ。
看護師に支えられながら歩行器に掴まって立ち上がったのだが、たしかに足の力が衰えているのがよく分かった。一年間、寝ていたというのは本当らしい。二十分ほど歩いて、座って流動食を食べて、一時間ほど休んでからまた少し歩く、という事を繰り返した。
次の日には、歩くのもずっと楽になった。食欲も出て来て、流動食でなく、うどんなども食べられるようになってきた。
やはり、若いという事は素晴らしい。目覚めて三日目には、もう、ほとんど日常生活に不便はなく、この新しい環境にも慣れてきた。ウォシュレットという、この、お尻を洗ってくれるトイレがすごく気に入った。こんなものは自分が二十二歳だったころには想像も出来なかったものだ。
そこで、四日目となる翌日の午後には退院して、北白川にある洋一郎の自宅へ移り、少しずつ、新しい暮らしに慣れていくことになった。
閑静な住宅街にあるその家は百坪ほどの敷地内に洋一郎一家が住む母屋と、将吾のために増築されたと思われる離れがあった。
「おじいちゃん。いらっしゃいませ。洋一郎の家内の奈津です。一日も早く令和の生活に慣れて頂くため、しばらくは私たちが、出来るだけお手伝いさせて頂きます」
「まあ、ところで、おじいちゃんと言われてもピンと来ないだろうから、どうですか? これからは将吾さんと呼ばせて貰ったらどうでしょうか?」
という教授に答えて、
「ええ、どちらかというと、僕が先生の息子のようなものだから、将吾と呼び捨てにしてもらってもいいですよ」
「はい。では将吾さん。私たちの家族を紹介させて頂きます。妻の奈津はいま自己紹介した通りです。そしてこれが中学二年生になる長男の陽介です」
「ひいおじいちゃん。初めまして。陽介です」
「それから、次が長女の真理と次女の亜紀です。六年生と四年生です」
「真理といいます。よろしくお願いします」
「亜紀です」
「それから、こちらは書生・・・と言っても自分から志願して来てもらうことになった、うちの大学院生の髙村君です。将吾さんが現代社会へ適応するためのお手伝いと、その過程を記録してもらう事になっています。家がすぐ近くなので、朝起きたらすぐに一度顔を出して貰って、その後大学へ行き、帰りにはまた立ち寄ってもらうことになっています。歳が近いのでなんでも相談してもらったらいいと思います。
じゃあ髙村君、それから奈津、私はこれからちょっと教授会に出なければならないので大学に戻るけど、後はよろしく頼む」
といって部屋を出て行った。
髙村「それでは将吾さん、あなたのお部屋へ行って、そこでお話ししましょうか」
奈津「そうね、でもまだ、何が何だかさっぱりお分かりになっていないでしょうから今日は無理しないで、何日かかけて少しずつ説明していって下さいね。主人もそう言っていましたので」
髙村「はい。分かりました」
それから部屋を移動した。そこは六帖ぐらいの洋室にトイレと浴室がつき、簡単なキッチンも付いた立派な部屋で、学生の下宿としては、将吾の時代にはある筈もない近代的な設備の備わったものだった。
「何からお話ししましょうか?」
「まず、最初に聞きたいのは、なんで六十年なのですか?六十年でなくて三十年でも良かったのじゃあないですか? それなら今よりは抵抗なく受け入れられたような気がしますけど・・・・・」
「はい。ご説明します。人は生まれてから幼児期、少年期、青年期、というように成長していきます。そしてやがて成長が止まり、その後少しずつ老化していくのが二十二歳頃なので、何歳から始めても得られるのは二十二歳の肉体という事になるのです。あなたの場合は始めたのが八十二歳でしたから、たまたま還暦という事になったのです」
「そうですか、それにしても、肉体が若返るのはいいけど、なんで、記憶まで消えてしまうのですか?」
「はい。それは、人の心と身体は一つのものなので、老化した細胞を除去すれば、記憶も一緒に消えてしまうのですよ」
「あっ、そうか、なるほど・・・・では次にお聞きしたいのは、洋一郎教授は僕の孫だと聞きましたが、それにしては歳を取り過ぎているような気がするのですが・・・・・」
「そうですね、ではこの家系図を見て下さい。あなたが結婚されたのは二十五歳の時です。奥さんのゆかりさんはその時短大を出たばかりで二十歳でした。
そして一年後に長男の一郎さん、その二年後に長女の琴美さんが生まれました。
「つまり、ゆかり、というのが僕の結婚相手なのですか?」
「そうです。いま七十八歳ですがとてもお元気で、今でも時々ゴルフなんかにも出かけていらっしゃるそうです。ただ、お顔には若いときの面影が残っているようですが、頭は真っ白で、お逢いになっても、とても自分の奥さんのようには思われないでしょう」
「ふーん。じゃあ、長男の一郎というのは、今は何をしているのですか?」
「一郎さんとその奥さんは五十八歳で、お酒屋さんを経営しておられます。実は一郎さんは高校生のときに、同級生だった今の奥さんとの間に、赤ちゃんが出来てしまったのですよ。それが先ほどまでここにいたあなたのお孫さんの洋一郎教授なのです。息子さんが十八歳の時に出来たお子さんですから、教授はもう、四十歳になっているという訳です」
「なるほど、やっと少し分かってきました。じゃあ、琴美というのは?」
「はい。琴美さんはピアニストとしてプラーハの交響楽団で活躍しておられましたが、今年五十六歳となり、引退されてスイス人のご主人と、二人の娘さんと共にスイスのインターラーケンに住んでおられます」
「ほう、では一郎の子は洋一郎教授ひとりですか?」
「いえ、もう一人、次男の拓造さんという方がいて、酒屋さんのお仕事をなさっています。
「ふーん、どんな暮らしをしているのか、一度福井へ帰って皆の顔を見て見たいものですね」
「そうされますか?教授はここへ一人ずつ来てもらって面会して頂くつもりだったようですが、将吾さんの方から出かけられますか?」
そこへ奈津がやって来て、食事の用意が出来たことを伝えてきた。
「将吾さん、それから今日は髙村さんも一緒に召し上がって行ってください。今日は将吾さんの社会復帰の記念日ですから、ささやかですけどご馳走を用意しましたのよ。主人も間もなく帰って来ると思いますから」
そこには将吾がこれまで見たことも無い西洋料理が並んでいた。だが、始めるのは洋一郎が帰って来てからだ。奈津も加わって、食堂の隣の応接セットに座って話が続けられた。
「どうですか、将吾さん、髙村さんのお話、理解できたでしょうか?」
「ええ、聞く事ひとつひとつが驚くことばかりで、まるで浦島太郎が玉手箱を開けたときのような、いや、その反対ですね、浦島太郎は一瞬で歳をとってしまったけれど、僕は一瞬のうちに若返ってしまったわけだから、・・・・その、なんていうか・・・・・?」
「あはは、そうですね。私たちだってこんなことが実際に起きるなんて考えもしなかったわ」
「教授が帰って来るのが楽しみですね。きっと、世界でも大きなニュースになっているでしょうから・・・・・この先どうなるか・・・・・」
3
そこへ帰って来た洋一郎は、とても疲れたような顔をしていた。無理もない。大仕事を成し遂げたのだから・・・・・と思ったが、
「いやあ、参ったよ。どうもこの前から空気が変わってきたように感じていたのだが、今回の手術は海外、特にアメリカでは問題視されているようなのだ。こんな実験は技術的にはそれほど難易度の高いものでは無いので、なんで皆取り組もうとしないのかと、僕も思っていたのだが、やはりこれが不自然な、爆発的な人口増加に繋がる懸念があると、問題にし始めたのだよ」
人は昔から不老長寿を夢見てきた。どんなに力があり、多くの人民を支配し、どんなに財宝豊かな王であっても百年以上生きるという事は極めて稀であった。だから、例え六十年であっても本当に若返ることが出来るのなら、いくらお金がかかろうとも、それはたちまち世界中の富裕層が目指すことになるであろう。そしてそれが成功したなら、次は自分の家族、親戚、友人にも広がり、更にその係累へと広がって行き、やがて爆発的な人口増加を招くことになるだろう、そしてその先にあるのは戦争、そしてやがては人類滅亡へと進むのではないかというのが研究者たちの懸念だというのである。
洋一郎はまだ研究者としては若い。功を焦ったという訳では無いが、理論的には可能なこの実験を早くやってみたかった。そして早く結果を出したかったのである。
「それでどうなったのですか?」
「今はただ、この問題についてはなるべく学会でも話題にしないようにという事と、マスコミにも一切口外しないでおこうという事になったのだよ。特にアメリカではすでに一部の素封家がうわさを嗅ぎつけて、知り合いの学者に鋭く問い詰めているらしいけど、実験結果は公表せず、うわさが消えるのを待つようにと厳しく大学の方に申し入れがあったらしいのだ」
「だけど、それならそうで昨年ラスベガスでの報告会で教授が発表したときに何で問題視されなかったのでしょうかね」
「うん、そこなのだが、あの時は一種の可能性として発表しただけで、その後すぐに、私が実験を開始することになろうとは、誰も思っていなかったらしいのだよ。つまり、もしそういう実験が成功したら、どういう社会的問題が起きるかを十分検討した上で、学会の同意を得てから始めるべきだったという訳なのだ。言われてみれば確かにその通りで、私が早まった事をしてくれたと、大学の方に猛抗議があったようなのだ」
「そうだったの?そんなことになろうとは、私、思いもしなかったわ」
思いがけぬ洋一郎の報告に祝賀ムードは一変し、暗いムードで食事会が始まった。しかし、将吾が六十年前の若い身体を取り戻したという事実は覆すことは出来ない。出来るだけ目立たないように、ひっそりと生きていかなければならないようだ。
将吾は髙村と一緒に、この社会で生きていくための学習を始めることになった。パソコンとiPad、それにスマホという便利な通信器具の使い方を教わった。街へ出てショッピングセンターに行き、自分用のそれらの買い物をした。京都市内だけでなく、大阪や奈良など近郊の街へも行って見た。何もかも、自分がこれまで見たり聞いたりしたものとは大きく違っていた。
半月ぐらい経って、ようやく少しずつこの時代の暮しに慣れてきたとき、休暇を取った洋一郎の車で実家である福井の家へ行って見ることになった。名神から北陸自動車道へ乗り入れ、僅か二時間半で福井の街へ入った。
家は元の場所から引っ越しをしていて、福井市北部の新しく出来た商店街の一画にあった。将吾の記憶にある実家は福井駅近くの海山酒店という、両親二人だけが営む小さな商店だったのだが、今は「リカーショップウミヤマ」という名で本店ほか二店舗、社員数三十五人の大きな店になっていた。それはほとんど将吾が成し遂げたそうだが、もちろん将吾にはそんな記憶は無い。
本店裏の自宅では家族一同出迎えてくれたが、もちろん知った顔は無かった。戸惑ったのは家族も一緒だ、一年前までリカーショップの会長として、また家族の中心にいたじいちゃんが二十二歳になって帰って来たのだ。将吾の息子の一郎が昔の写真集を開いて、今の将吾の顔と見比べて見たが、たしかに本人だと分かった。まるでアルバムの中から飛び出してきたような将吾の登場だった。
洋一郎が言った。
「皆さん、この人が私のおじいちゃんで一年前までここで暮らしていた海山将吾さんです。お婆ちゃん、若い時の顔を思い出したやろか?」
「まあほんとに、結婚したころといっしょだわ。ああ恥ずかしい。こんなことなら、私も一緒に手術を受けていれば良かった」
「うん、俺もその時はおじいちゃんが成功したらすぐ、お婆ちゃんもと、思っていたんやけど、今は世間の風当たりが強くて、同じ実験を続けることが出来なくなってしもうたんや」
「なんでそうなったんや」
と聞いてきたのは父の一郎と弟の拓造だった。
「うん。この前から何度も言っているけど、これがどんどん広まって行ったら人口が爆発的に増えるから、無かったことにしてくれと、アメリカの学会から強い抗議を受けたんだよ。俺もこれほどの騒ぎになると思っていなかったから実験に踏み切ったのだが・・・・」
「学者になったら少しは慎重になるかと思っていたが、相変わらずお前は粗忽ものだなあ」
「それを言うなら親父はどうなんだよ。十八歳で俺を産んだのは粗忽ものとはいわないのかなあ」
「いや、それはその・・・洋子、何とか言えよ」
「まあまあ、せっかくお父様がこんなに若返って帰って来て下さったのだから、今日はお祝いしましょうよ。今日は店が忙しくて何も用意が出来なかったのでお寿司でも取りましょうか?それともお父さん、いえ、将吾さん、何を食べたいですか?」
見知らぬ人ばかりに囲まれて将吾は何を話していいかもわからず、さっぱり落ち着かなかった。洋一郎は一泊だけして、将吾を残して帰るつもりだったのだが、将吾も一緒に帰ることにした。一年前までは確かにここに住んでいた筈だが、今はとても、ここが自分の家だという気がしなかったのである。
4
福井から戻ってきた将吾はいよいよ本格的に、髙村の協力を得て、この令和の世界を知るために旅に出ることになった。すでに近くの大阪や奈良には行って見たが、まだ東京も北海道も九州も行っていない。大学三年のときに北海道の貧乏旅行は一度経験しているが、それは六十年も前の事なので、すっかり変わっていると思われた。
髙村はむやみに大学を休むことは出来ない。だが、一度二度経験すれば汽車や飛行機の切符の買い方もホテルの予約方法も自分で出来るようになった。どうしても分からない時は携帯で聞けばいい。
北海道は予想通りすっかり変わっていた。東京も、彼が見たことも無い近代都市になっていた。九州も沖縄にも行って見た。沖縄が本土復帰を果たして、パスポート無しで行けるようになっていたとは知らなかった。
彼がいちばん驚いたのは京都市内の嵐山であった。渡月橋付近は彼の学生時代には静かな町だった。そこに家庭教師のアルバイトで週一回通っていたのだが、その家があった辺りは賑やかな商店街になって、前に進むのも大変なくらい、人で溢れていたからだ。
三か月以上かけて、旅を続けながら、彼は自分がどこで、どうやって生きていくべきかを考えていた。
彼が長野へ行った時には、もう、秋も深まり、間もなくスキーシーズンとなる頃だった。その時、街角でみた無料配布の求人誌に書いてあった、志賀高原の横手山山頂レストランの募集広告が目に留まった。
住み込み三食付き、ベッド付きで十五万円という条件だった。十五万円というのは高くは無いが三食にベッド付きなら彼には十分だ。スキーは彼の時代にもあったが、やっていたのはほんの一部の人たちだけで、装備は粗末なものだった。今は、スキー人口は増え、装備もずっと便利な使いやすいものになっているようだ。そしてどこのスキー場にも一人用だけでなく三人用、四人用のリフトがあり、ゴンドラリフトやケーブルカーの備わった所もある。
髙村からその話を聞いたとき、是非スキーをやってみたいと思っていたので、この面接を受けて見ることについて、髙村に電話をして見た。
「髙村さん、僕は今長野市にいるんだけど、志賀高原の横手山山頂にあるレストランの募集広告を見たんです。受けて見ようと思うんだけど、どう思いますか?」
「ああ、そこ、僕も行ったことあります。二千三百メートルの所にある素敵な店ですよ。日本一高いとこで焼きたてパンが食べられる店としても有名ですよ」
「いちおう、いま募集しているのは十二月から三月末までの四か月間だけで、給料は十五万円ですけど、三食とベッド付きですから、いいかなと思って」
「ええ、将吾さん、スキーをしたいと言っていたからいいじゃないですか?休みの日には滑れるのでしょう。・・・・・だけど、受けるときには身元の確認をされるのじゃあないかな? 戸籍謄本や住民票を見ると八十三歳になっているし、それでは拙いでしょう。だから、僕の名前で受けたらどうですか?もし住民票を、と言われたらこちらから送りますよ」
「ありがとうございます。じゃあ、とにかく髙村さんの名前で履歴書を書いて明日面接に行ってきます」
と言って、翌日早速、長野市内にある指定された面接場所に行って見ると、戸籍謄本の事は言われなかったが保証人が必要だと言われたので、洋一郎の名前を出したら、どうやらほぼ内定という事になったようだ。
そこで一旦京都へ帰り、着替えやパソコンなど必要なものをカバンに詰め込み、洋一郎に保証人のハンコを貰い、もう一度訪問すると、少し早いが仕事に慣れるため、十一月二十五日から勤めることになった。将吾たちの住む部屋というのはレストランの屋根裏の三角形の部屋だが、カプセルホテルのように一人一人のベッドが仕切られていてプライバシ―が保たれ、共用のテーブルでは食事も出来、パソコンも広げられる快適な空間だった。
将吾はこうして、取り敢えず、三月末までは仕事も住む場所も決まり、令和の時代に暮らしていく見通しが立った。洋一郎からは、酒屋の経営を続ける事も一つの選択肢だと言われたが、見知らぬ人ばかりの中でどういう立場を取ればいいかも分からず、また、社員や近所の人たちに、自分の事をどう説明するかという問題もあり、熟慮の末、第二の人生は全く新しい環境でスタートする事が望ましいのではないかという結論に達したのである。
この先、生きていく上でさまざまな困難が待ち受けているであろう。肉体年齢二十二歳の将吾は、あと七十年ぐらい生きるかもしれない。そうなれば戸籍上では百五十歳という事になってしまう。
孫の洋一郎が、この若返り手術をしてくれなかったら、将吾の命はあと数年であったかもしれない。それを思うと元気が湧いてくるのであった。どういう人生が待っているのかは分からないが、若ければいろいろなことに挑戦していける。そのことに不安はなかった。
了
執筆の狙い
人類は古来より不老長寿に憧れてきましたが、今のところそれに成功した事例はありません。だが、最近は、老化の仕組みについては、ある程度研究が進んでいると聞いています。
この作品は、82歳の主人公が、60年若返り、22歳の肉体を取り戻す実験に成功した、というお話です。
現在では、あり得ないお話ですから、突っ込めばいくらでもボロが出て来ると思います。それでも、作品として成立しているかどうか、皆様のご意見をお聞かせください。
よろしくお願いします。