ウインナーの美味しい食べ方
◆ウインナーフィンガー
私はどうやらぼんやりと考えごとをしていたみたいで、気づいた時にはトースターが悲鳴を上げていた。温め直していたあらびきウインナードッグが焦げている。おしゃれなパン屋で買った三百二十円が、あっという間に真っ黒だ。
鈍く光る果物ナイフを前後にガリガリさせてみるが、焦げは全然剥がれてくれない。これはきっと、少しでも美味しく食べようと追加でチーズを乗せた強欲さのせい。だから私の責任ではない。
諦めて辛うじて被害を免れたウインナーの部分だけを取り出した。口の中に放り込むと、プンッと皮を突き破る音が弾ける。本来の私は食べることに無頓着だったはずなのに、その音が心地よいと刷り込まれていることに少々驚いた。
よほどお腹が空いていたのか、それともウインナーの出来が素晴らしかったのか。手の中のウインナーはみるみる消滅する。加工肉と乳製品の脂に塗れた左手の親指は、物足りなさそうに人差し指を愛撫している。ぬたぬた光るその姿は、第二・第三のウインナーみたいで美味しそうだった。
唇の端が裂けるほど大きく口を開け、左手を迎え入れなさい。加速した強欲が命令する。部屋全体に漂う香ばしさは、なぜか精神の私にまで染み込んできた。やっかいなことに、その匂いはなかなか消えてくれず私を酷く動揺させた。
冷蔵庫の中には、長ネギの青い部分が一本と賞味期限が三ヶ月前に切れたヨーグルトだけしかない。仕方がないので、「3月」の部分をボールペンで「8月」に書き換えたら何とか食べられるようになった。
中途半端に刺激したせいか、胃の空腹具合はいよいよ確信的になる。カレンダーを見ると、幸いなことに今日は六月三十一日だった。三本指でパソコンをタイピングするのは不便だが、明日になって月が替わればリセットされて五本指に戻る。
親指は塩コショウで、人差し指はめんつゆで炒めて食べたが、思ったよりも悪くはない。悪くはないが、やっぱり豚さんの偉大さには勝てなかった。少し筋張っている部分が口に残るのは、不摂生な毎日で肉質が落ちているせい。明日からはちゃんと野菜を摂取して健康的な生活をしよう。そんな私の決意をあざ笑うかのように、冷蔵庫がフシュウと鳴く。
残った骨はネギの青い部分と一緒に長時間煮込んで白湯スープにして飲んだ。しみじみと染み渡る美味しさで、人間の指は肉じゃなくて骨を味わうものだと改めて実感した。
◆シマウマの渦
七月に入り寝苦しい夜が増えてきたので、夏物家電でも新調しようかと近所の電気屋さんに行くことにした。中心街にある量販店の方が安いし品揃えもよいのだけど、店員さんの圧がどうしても苦手だ。いつだったか電子レンジを買った時は、トースターと炊飯器も一緒に契約させられたっけ。ついでに申し込んだクレジットカードの審査には落ちてしまった。だから量販店は嫌い。
近所の電気屋さんは、どちらがおじいさんかおばあさんか判別できない老夫婦が営んでおり、自宅の一階を店舗にしていた。いつ来てもお客さんはいない。
「すみません、夏物家電を買いにきたんですけど」
レジ横でうとうとしているおじいさん(多分)に向かい、いつもより大きな声で呼びかけた。起こされたおじいさんは少し不機嫌そうだ。
「夏物家電っていっても分からんよ。なにが欲しいんだい」
「まだちょっと決めかねていて。エアコンはやっぱり高いですよね」
「やめときな」と、おじいさんは首を横に振る。
「省エネ基準を満たす今のエアコンは、庶民じゃちょっと手が出ないわな」
おじいさんが耳打ちしてくれたエアコン代は、三食ウインナードッグ生活を五年間はゆうに続けられる金額だった。
「ですよね。じゃあシマウマにします」
「それがいい。ちょっと型は古いがこれなんかおすすめだよ」
おじいさんが店の奥から連れてきたのは、年老いたシマウマだった。カタログよりも肌艶が悪く、目ヤニも少しついている。
「なんだい、その不満そうな顔は。こう見えてもちょっと前は高級品だったんだぞ。ほら、黒白の数は普通のシマウマじゃ太刀打ちできんだろ」
確かに細やかな白模様が黒地に映えている。白地に黒模様だっけ? どちらでもいいか。
「なんで白と黒の数が多いと良いんでしたっけ?」
私の質問を聞いたおじいさんは、呆れたように肩をすくめる。
「しまうず理論も知らんとか、最近の若い者はダメだな。縞模様の黒い部分が太陽熱を吸収することで、白い部分との温度差で気流を生み出しているって、中学校で習わなかったか?」
「あぁ、だから縞模様が多いと渦もたくさんできるんですね」
「そう、十個の扇風機と百個の扇風機、どちらが涼しいかはお前さんでも分かるよな」
小学生を相手にする動物園の飼育員さんのように、おじいさんは流暢に説明する。へぇ、と私が感嘆の声をあげると、おじいさんはますますのってきた。
「しかも若い頃と違って食欲もそこまでないから、餌代も抑えられる。電気代を食うエアコンと違って、地球環境にも優しい。良いことづくめだよ」
なるほど、これは掘り出し物かもしれない。よく見れば濡れた瞳は賢者の佇まいを思わせるし、ウィルトン織の絨毯のような毛並みはずっと撫でていたくなる。シマウマを現金で購入して、自分で連れて帰ることにした。
一般的にシマウマは気性が荒いと聞いていたが、その子はとても聞き分けが良かった。マンションのエレベーターが狭く、乗り込むのに少し手こずったぐらいだ。
部屋に入れてさっそく電源を入れてみた。「ワン」と短く鳴き、白と黒の境界線から気流が発生する。ひんやりとした風が頬を撫でる。それはエアコンの人工的な風とは違い、肌に吸い付くように心地よい。そのおかげか、夜中に寝苦しさを感じることは一度もなかった。
◆F1の子
みなさんの丹精込めたお世話のおかげで、今年の人間は豊作です。ヨウコ農場長の言葉を合図に、私たちは47-7区の畑に足を踏み入れた。見渡す限り畝は続いていて、その果てを見ることはできない。
アーチ型の銀色の支柱には、サッカーのゴールネットのような網が張り巡らされていて、圧倒的な緑に覆われている。ギザギザの葉が交互に重なり、蔓は紆余曲折しながらそれでも天井を目指していた。力強い生命力の証だと農場長は言うけれど、私はなんだか苦手。だって、息絶える寸前に必死に虚空を掴もうとしている姿にしか見えないから。
「赤ちゃん収穫のボランティアがあるんだけど、アリサも参加しない?」
親友のミーちゃんに誘われたのは、先週の土曜日だった。
「それってあれだよね、人工授精のやつだっけ」
「そう、バンクで凍結保存した精子と卵子を受精させて、培養したものを人間栽培用の植物に注入するって技術」
「なんで人気なの?」
「畑で赤ちゃんが生まれるからお腹を痛める必要もないし、産休後のキャリアに傷がつかないし。今年から国の補助金も利用できるんだって」
ミーちゃんは目を輝かせて力説している。子どもを育てる予定はしばらくないが、後学のために私も参加することにした。
赤ちゃんは葉の影に隠れるように実っている。半透明の薄皮に包まれているから、赤ちゃんの形はくっきりしているが、表情までは分からない。
「やーちっちゃくてカワイイ。これ、ぜったいに笑ってるよね」
「わかるー、しかも今年は量だけじゃなくて質も良いらしいよ」
過去に参加した人は嬉しそうに話しているが、違いが分からない。ただ場の雰囲気を壊すのも嫌だったので、「だね、鮮度がぜんぜん違うもん」とわざとらしく驚いてみせた。
「いいですか、今から出産のやり方を教えます。知っている人も復習してくださいね」
ミルクのように甘い農場長の声が畑に響き渡る。
「木の幹のような太い親づるから派生するように、細い子づるが伸びていますね。これが、赤ちゃんを繋いでいるへその緒です。まずはこれを特製ハサミを使って切り離しましょう」
農場長が見せてくれた手本を真似して、赤ちゃんを優しく持ち上げた。粘着質の薄皮が指にじゃれつく。
震える手でへその緒にハサミを入れると、ジャグゥという音と共に乳白色の液体が飛び出した。畑のあちこちから「うぇ」とか「やだ」といった声が飛び交う。
「赤ちゃんを育てる羊水だから汚くありませんよ」
隣にいたミーちゃんは、農場長の説明に安心したのか羊水をぺろりと舐める。思わず「大丈夫なの?」と声が漏れた。
「まあ体に害はないでしょ」
「ならいいけど。で、どんな味?」
ミーちゃんはどう表現して良いか分からないのか、眉を少しひそめる。
「なんだろ……無味無臭よりだけど微妙にしょっぱいかな」
「美味しいの?」
「美味しくも不味くもない。アリサも舐めてみればいいじゃん」
そう言うとミーちゃんは、羊水が付着した人差し指を私の前に差し出した。恐る恐る口に含む。
「部活の時に飲んだ経口補水液みたいかも」
「あーそれだ」
私たちのやり取りは波紋のように畑中に広がり、参加者のほとんどすべてが羊水を舐めていた。ヨウコ農場長はその様子を優しい笑顔で見守っている。
三時間かけて私たちは今年の分の赤ちゃんを収穫し、さらに二時間かけて選別した。特別に出来が良い一割はA、まあまあ出来が良い二割はB、その他大勢の六割はCといった具合に。それぞれ別の施設に出荷され、異常がなければ両親のもとへ配達される。残りの一割は規格外で、工場で処理されて加工肉になるらしい。
ボランティアの報酬として、帰りにへその緒を貰った。使い道が分からないので、とりあえずベランダの鉢植えに植えておくことにした。
◆好きと愛の駆け落ち
昨晩書いた手紙を読み返してみたら、「好き」と「愛」が失踪していた。
その他の言葉たちは無事で、消えたのはその二つだけ。手紙の冒頭は「あなたが です」、締めの部分は「 しています」といった風に、誰かが消しゴムをかけたみたいに空白になっていた。いや、消しゴムならわずかな痕跡は残るはず。たとえば、手紙を贈る相手への想いが乗ったボールペンの筆圧とかぐらいは。それすらもきれいに無くなっているから、まさに失踪という言葉がピッタリだった。「し」とか「す」とか、取り残された文字は申し訳なさそうに身を縮めている。
こんなことをするのは姉しかいない。そう思い棚からパステルピンクの単行本を取り出した。かつて小説家だった姉の処女作【ウインナーの美味しい食べ方】は、すっかりくたびれている。
見返しを開いたが、姉の気配は感じない。パラパラと頁をめくると、姉は本の中を泳いでいる最中だった。海中に潜ったイルカが遥か先でジャンプするかのように、紙という次元を難なく超えていく。一枚目から七十二枚目、四十四枚目から百十枚目、百八十七枚目から二十六枚目…といった感じで、紙面をぴりぴり震わせながらなんとも気持ちよさそうに。自由気ままで羨ましい限りだ。
──結論からいえば、好きと愛の駆け落ちだね。
「駆け落ち? 言葉同士が?」
──好きなら言葉だって駆け落ちぐらいするさ。
姉は本の中にある限られた文字を引用して、器用に文章を作成していった。「かわいそう、」を「うそ、わかい」と変換するような、多少のアナグラム的手法を取り入れながら。それにしても、「好き」と「愛」はどこに行ってしまったのだろうか。
──それは責任から解放された、自分が何者でもない場所だと思う。
姉が紡ぐ言葉たちに緊張が走り、文字列が波打つ。私は彼女の気持ちを静めるために、万年筆用のインクを数滴与えた。姉は嬉しそうにキュイキュイと紙を鳴らして飲み干す。お気に入りはドイツの老舗メーカーのやつで、飲むスピードが全然違う。
──思えば私たちは、この二つの言葉を軽く扱い過ぎたのだよ。数多のラブソングや映画、恋愛小説で無責任に多用されて、アリサも覚えがあるんじゃないかな。
「人気者と考えればステキなことじゃないかしら」
──その観点では贅沢な悩みと言えるかもしれないね。でも、無責任な期待は時に重荷になるんだよ。
「重荷?」
──恋の成就という大役を担うことにも、失敗の瞬間に立ち会うことにも、失恋の緩衝材にされることにも、疲れ果てたんじゃないかな。
人気小説家の地位を捨て本に引きこもった姉も同じ気持ちだったのだろうか。出来の悪い妹には分からない。
──なに言ってるのさ。私は好きに生きているアリサの方がよっぽど羨ましいよ。
「シマウマのオナラが臭くて毎日悩んでいても?」
──いても。
私は冷蔵庫からビールを取り出して、昨夜の残りのコロッケで流し込んだ。姉、キュイキュイ。私、キュイキュイ。二人が共鳴する休日の朝七時も案外悪くない。
──いずれにしても、駆け落ちは失敗に終わるから安心なさい。安っぽい連中は同列に語りたがるけれど、好きと愛が結ばれることはない。好きが進化すれば愛になるし、愛が終われば好きに戻ることも稀にある。近親相姦的なジレンマを抱える両者は、決して交わらない運命なんだから。
姉は指ばかり食べる私の偏食ぶりに一時間ほど小言を言い、やがて眠ってしまった。
結論から言うと、姉の言ったことは本当だった。三日後には「好き」と「愛」は戻ってきていて、何事もなかったようにすましている。私は何だか興がそがれてしまい、手紙を机の奥に仕舞う。恋人とも遠くない未来に別れるだろうな、そんな予感を胸に秘めながら。
その代わりというわけではないが、親指を「好き」、人差し指を「愛」と呼ぶことにした。先月失踪した好き指と愛指は、リセットされて私の左手に戻ってきている。そのことを姉に報告したら、あなたは昔からロマンチストなナルシストね、と文字を震わせて笑っていた。
◆ソファの穴はタイムホール
真鍮製のドアノブをゆっくり回し扉を引くと、トマトとチーズの焦げる匂いが出迎えてくれた。シーラカンス亭名物のラザニアがちょうど焼き上がったらしく、マスターがオーブンから取り出す途中だった。オレンジ色に滲むシェードランプの灯りを頼りに、薄暗い店内をぐるりと見まわす。幸いなことに、一番奥のテーブル席には誰もいなかった。
ラザニアと丸干しいわしと牡蠣のオイスター煮とチーズのパリパリ焼きと中華風スペアリブと明太バターうどんを注文し、ソファに腰を下ろした。人を無条件に甘やかす昨今主流の柔らかいソファとは違い、適度な堅さがお尻を押し返す。潰れた喫茶店から譲り受けた年代物だとマスターは言っていたが、座り心地は悪くない。
ソファの側面には誰かがほじった小さな穴があり、この前来た時よりも広がっている気がした。犯人はきっと彼氏の話が退屈すぎた女の子で、無意識に手を伸ばしてしまったに違いない。マスターには申し訳ないが、その穴に指を通すと名も知らぬ誰かと触れ合えた気がした。
私の指はさらなる穴の奥に分け入り、ウレタンの乾いた感触の向こう側にたどり着く。石っぽい何かに指先が触れた瞬間、ドアベルが鳴り響いた。冷たい空気が店内を撹拌し、未来の私がまっすぐ私のもとにやってくる。
女はひどく痩せていて、ジャージの裾から見える手首には骨が浮かんでいた。背中まで伸びた髪は枝毛が目立ち、使い込まれた箒みたいに無造作に広がっている。女は三十七歳らしいが、五十歳と言われても信じるかもしれない。これが未来の私なのかと絶望する。
女が来ているジャージは見覚えがある。高校の時の体操ジャージで、えんじ色は私の学年と同じ。しかも、右ひじの部分には美術の時間に付着した絵の具跡が残っている。確かに私のジャージだった。
「いつも悪いわね。今日もごちそうになるわ」
女はちっとも悪いとは思っていない様子で、注文したばかりの料理を次々に口に放り込む。
ラザニアのチーズで上顎の粘膜が剥がれ、噛まれず飲み込まれた明太バターうどんが喉を押し広げて胃に落ちる。古いスマホと新しいスマホが同期されているみたいに、女の感覚は私の感覚として直接伝わってきた。今の私は何も食べていないのに、満腹中枢が刺激される。食べていないのに食べている今の状況は、ある意味お得かもしれない。
全ての料理を食べ終えると、女は一回り大きくなった。
「まだ痩せているけれど、初めて会った時よりふくよかになったんじゃない」
「アリサのおかげよ。未来じゃなかなか食べられなくてね」
「なんでそんなに貧乏してるのよ」
女は曖昧に笑って私の質問を無かったことにする。いつもこうで、未来のことは何も教えてくれない。その癖に私と接触してご飯は食べる。矛盾というか、こいつ本当に大丈夫なのかな、と呆れる気持ちはある。
「じゃあまた来週ね」
女はソファの穴から未来に帰っていった。このまま未来の私がふくよかになってくれれば、私も安心できる。しかし、大きくなる度にソファの穴を拡張しなければならないのが難点だ。いよいよマスターに怒られるかもしれない。
――アリサ、あなただいぶ痩せたみたいだけれど大丈夫?
家に戻ると、姉が心配そうに尋ねてきた。いつもより頼りない文字は姉の優しさだ。
そう言えば、しばらく食事らしい食事をしていないことに気がついた。未来の私と同期して私自身も満腹になっていたから、食事の必要性を感じなかった。慌てて鏡を見ると、出かける前より一回り小さくなっていた。
未来の私をふくよかにすればするほど、今の私が痩せこけていく。未来の私が悪いのか、今の私の行動が問題なのか。卵が先か、鶏が先か。バカな私にはよく分からなかった。ただ私は、来週もこの店を訪れるだろう。それだけは確実な未来だ。
◆シマウマは立ちながら眠る
電気屋のおじいさんから電話があったのは、日曜の午前中のことだった。セールスかと思って身構えたが、シマウマを購入してから一度もそういった話はない。なら大丈夫かと思い電話に出ることにした。
「おっ、やっとでたか」
「すみません。洗濯物を干していたので気づきませんでした」
「まぁいいか。ところでシマウマは元気にしているかね」
「えぇ元気ですよ。呆けているせいか、たまにタイマー設定が効かない時もありますけど」
「元気ならなにより……と言いたいところなんだけどな……」
あけすけな性格のおじいさんにしては珍しく、口ごもっている様子が電話越しに伝わってきた。
「シマウマがどうかしたんですか」
「実は、あるバカがシマウマを誤作動させてな。反時計回りに渦が発生してしまったんだよ」
「じゃあ、ちょっと前に町を吹き飛ばした季節外れの台風って……」
「そう、そのバカの仕業で渦が暴走して台風になってな。おかげですべてのシマウマがリコール対象というわけだ」
バカとシマウマってややこしいな。そう心の中で呟きながら、パソコンを開いてニュースサイトを確認する。その記事はトップページにあり、事件の詳細やメーカーの問い合わせ先が記されていた。
「でも、ストッパーは付いていたんでしょ。それなのになんで」
「本人は偶然外れたと言っているらしいが、まぁ確信犯だろうな。動画にして公開しようとでもしたんだろ」
「じゃあリコールはおかしくないですか? シマウマには何の落ち度もないじゃないですか」
「お前さんみたいに物分かりが良い奴ばかりならいいのにな。この事件をきっかけに不法投棄する連中もいて、野生化したシマウマが生態系を荒らしているみたいなんだよ」
おじいさんのため息が嫌な予感を運んでくる。リビングを覗くとシマウマは横になってくつろいでいた。野生のシマウマは立って眠るらしいが、ウチのは緊張感のかけらもない。
「ちなみにですけど、リコールって応じなくてもいいんですか?」
「…………死亡届を偽造して廃品扱いにすればできないこともないがな。ただ、もう存在しないことになるから、やっぱりリコールしますは通用しないぞ」
「最後まで責任を持って使い続けます」
「新型の夏物家電が出ても?」
「出ても」
「年老いているとはいえ、シマウマの寿命は三十年近くあるぞ」
「覚悟しています」
少しの沈黙の後、おじいさんは別の種類のため息を吐いて、「とりあえず今から店に来い」と乱暴に言った。少し早まった気もするが、きっとこれでいいのだろう。餌代やトイレ代だって、生活を切り詰めればなんとかなるはず。未来の私の姿が一瞬浮かんだが、頭を振ってかき消した。貧乏、どんとこいだ。
私の決意が伝わったのか、横たわっていたシマウマが首だけ伸ばしてこちらを見る。そして、珍しく「ワンワン」と二回鳴いた。
◆へその緒
また夏が来た。お世話の甲斐があり、相変わらずシマウマは涼しい風を生み出している。除湿機能は姉にとても評判がよい。
──本が歪むと片頭痛が出るから、本当に助かっているよ。
「いい加減に本から出てきたらいいのに」
──現実の世界はフィクションだからまっぴらごめん。それに、あなたのバイト代が支払われなくなるけれどいいのかい?
「……それはだいぶ困るかも」
──でしょ。きっとこの状態がベストなんだよ。
姉はまた小説を書くようになった。処女作【ウインナーの美味しい食べ方】にある文字だけを組み合わせて、新たな物語を紡いでいく。私はそれをテキストに書き起こして、出版社に届けるバイトを始めた。かつての人気作家の復帰作ということもあり、大きな話題になっているらしい。「好き」と「愛」の顛末についても小説に書かれており、私もちょっとだけ登場した。
「アナグラム的手法なんて使わずに、自由に書いた方が良い作品になるんじゃない?」
──多少の制約があるぐらいが名作は誕生するものだよ。それに、小説家は処女作を永遠に越えられないのさ。私の全てがこの作品に込められているからね。
小説家なんて人種は変人ばかりだから、姉の言うことはちっとも理解できない。でも、姉が少しだけ前向きになったのだから良しとしよう。
変化はもう一つあって、ベランダに放置していた鉢植えから、へその緒が発芽した。本葉が四枚になる頃に一回り大きな鉢植えに移し、化成肥料を与える。人間栽培植物ほどに親づるは太くならなかったが、彼岸花のような毒々しい赤い花を咲かせ、丸々と太ったグローブみたいな手を実らせていた。胴体や顔、足などはない。
収穫した指はボイルして酢味噌で食べた。へその緒を切った時に出たいつかの羊水みたいに、噛んだ瞬間に肉汁が弾け飛ぶ。シマウマは床に着いた肉汁に顔を近づけたが、二度三度匂いを嗅いだだけで興味を無くした。この草食動物め。
丹精込めて育てたせいか、単に収穫したばかりで鮮度が良かったせいか、あるいはその両方か。自分の指より上等で美味しい気がする。
私は夏の間、畑ボランティアにできる限り参加した。ミーちゃんは既に卵子バンクに登録しており、来年には自分の子が収穫されるらしい。
「アリサも早く登録しなよ。今なら、子どもたちも同級生になれるわよ」
ミーちゃんは嬉しそうに言うが、私はへらへら笑ってごまかした。不純な目的でボランティアに参加する私には、そんな資格はないと思う。
夏の間に貯めたへその緒は、デパートの紙袋いっぱいになった。私は軽い足取りでシーラカンス亭に向かう。これだけあればたくさんの指が収穫できるはずだ。未来の私が涙を流して喜んでいる姿を想像すると、自然と顔がにやけてしまう。
贅沢にも店内はエアコンで冷えていた。一番奥のテーブル席はやっぱり誰も座っていない。私はマスターにアイスレモンティーを注文して、いつものソファに腰かける。しかしどうにも座り心地がおかしい。よく見ると、ソファの穴が修復されて綺麗に塞がってしまっていた。
「マスター、このソファ……」
「あぁ、先日リペアしたばかりなんだよ。穴が開いてたんじゃ雰囲気が出ないからね」
なんてことだろう。これでは、未来の私が穴を通ってやって来ることができない。過去軸の私は無数に存在しているから女が餓死する心配はないが、もう二度と会えないかもしれない。修理した職人さんの腕がよほど良かったのだろう。境目が分からないほどに穴はすっかり消失していた。
それにしても、この大量のへその緒はどうしようか。いっそのこと、ウインナーフィンガー屋さんでも開こうかしらん。メインはウインナー指のボイル焼きで、味付けは日替わり。ケチャップペッパー、ハニーマスタード、カレーマヨ、オイスターナンプラー……あとは何がいいかな。一緒に収穫した茎と葉はサラダにして、骨のスープもできそうだ。テイクアウト用のウインナードッグも忘れてはいけない。乾いたへその緒が紙袋の中でかさかさ音を立てた。
ベランダの鉢植えは足りるかしら。そんなことを考えながら、運ばれてきたレモンティーを一気に飲み干す。夏はじきに終わる。
執筆の狙い
久しぶりの投稿になります。シマウマが夏物家電になったり、子どもが畑で収穫できるようになったり。主人公のアリサのちょっと不思議な日常を綴ったお話です(原稿用紙約30枚)。連作掌編なのでサクッと読めるかと思います。どんな感想でもいただけると嬉しいです。
※人によって残酷と感じる設定があるかもしれません。ただ、描写はあっさりなのでそこまでグロさを感じることはないかと思います。