作家でごはん!鍛練場
餓鬼

蛙化未遂

 清々しいほどの土砂降り。地面を踏むたび、ローファーに入った雨水がぐしゅぐしゅと音を立てる。ねっとりとした空気はしつこく肌に絡みつき、汗が乾くのを妨げる。これだから梅雨は嫌いだ。学校に着いてすらないのに、もう既に帰りたい。大きくため息をつくと、ゲコ、と鳴き声が聞こえた。足を止めて植栽帯を見やると、紫陽花の葉の上で蛙のオスがメスの背中にぴったりと張り付いていた。嫌なものを見つけてしまった。あまりの気持ち悪さに顔をしかめる。
「あれ、千紗じゃん。おはよ。」
 振り向くと、雨に降られてぐっしょり濡れた颯真の姿があった。頭の上にカバンを乗せているがまったく意味をなしていない。思わず笑いがこぼれる。
「どうしたの、びしょ濡れじゃん。」
「昨日傘学校に忘れちゃってさ。」
「何してんのよ。」
 颯真は返事の代わりにおどけて肩をすくめてみせた。そして私が見ていた二匹の蛙に視線を投げる。
「なーに観察してるのかと思ったら。」
「たまたま目に入っただけね。」
「朝から盛んだなあ。」
 そう言って苦笑する颯真の横顔を眺める。ただでさえ光を吸いそうなほど黒い髪が、さらに濃さを増して水をしたたらせている。私の傘に入れてあげようか。口を開きかけ、相合傘という単語が意識を掠める。
「入る?……傘。」
 そのせいでひどく声が震えてしまった。これはただの親切で、おかしな意味なんて何もない。いくら自分にそう言い聞かせても、高鳴る鼓動は耳の裏までトクトクと脈打たせ、ちっとも収まりそうになかった。不自然に逸らした目が映す視界の端で、颯真がひらりと手を振った。
「いや、もうびしょびしょだし手遅れ。サンキューな。」
 そのままあっさり走っていく颯真の背中を眺めながら、ぶわっと顔の毛細血管が膨張するのを感じた。なんでショック受けてんのよ、私。熱がほとばしる自分の頬を叩く。蛙たちが私を馬鹿にするようにゲコゲコと笑っている。てらてらと粘り気のある皮膚を擦り合わせて、その喉が風船のように膨らんではしぼむ。ぐうっとそれを睨んでから顔を背け、雨水を蹴り上げて歩いた。恋愛の行く末なんてみんなあれだ。あんなものに成り下がるのは、絶対にごめんなのだ。

 雨の日の教室は賑やかだ。校庭へ出る選択肢を奪われた男子たちが、有り余る体力を発散するために騒がしくふざけ合っている。その不愉快な声が、頭の中で蛙の鳴き声と重なる。ゲコゲコゲコゲコ。男子って本当、みんな馬鹿。でも颯真は違う。騒がないし、下品なこと言わないし、私が女子だからって格好つけたり見下したりしない。
「千紗? 聞いてる?」
「ん? ああ、聞いてる聞いてる。」
 愛弓はいつも、魔女のように長いネイルをカチカチと鳴らしながら話す。その音を私は嫌っていたが、一年生の頃からいつも一緒にいたから慣れてしまった。ほとんどの生徒が付属中学校から内部進学するこの高校で、外部生だった私たちは必然的に仲良くなった。しかし愛弓との共通点はそれだけで、正直あまり好きじゃない。愛弓はじゃじゃーん、と私に左手を見せつけた。
「見てよこれ。この前彼氏と買ったんだ。」
 その指には銀色の指輪がきらめいている。ハートの片割れのデザインなんて悪趣味だし、どうせ別れるのにそんなものを買う気が知れない。だけど、馬鹿正直にそんなことを言っても愛弓を不機嫌にさせるだけだ。
「えー、めっちゃいいね!」
 わざとらしく称賛してみせると、愛弓は照れくさそうに笑った。頬に乗ったファンデーションが粉っぽくひび割れる。
「でしょ。ずっと外さないようにしようって約束して……。」
 嬉々とした甘ったるい声が、私の右耳に入って左耳から抜ける。ゲコゲコゲコゲコ。口を開けば惚れた腫れたの与太話。女子も大概、馬鹿げている。愛弓はひとしきりのろけ終えると、にやにやして私の指を弄び始めた。
「千紗は最近どうなの?」
「どうって何が?」
「ほら軽音の。背が高いさあ。」
「ああ……。颯真のこと?」
 始まった。
「別に颯真とはそんなんじゃないよ。」
 私が颯真に抱く感情を、恋愛ごときと一緒にしないでほしい。付き合っている間は好きだとかアナタだけだとか言うくせに、別れた途端に他人になる。そしてまた別の人を好きになって、中古の言葉で愛をささやく。そんな使い捨ての関係に、どうしてみんな夢中になれるのだろう。
「えー。でも千紗の周りの男子って言うと、バンドの人だけなんだから、その人と女好きの田宮晴斗だけでしょ。」
「誰が女好きだよ。」
 愛弓の肩がびくりと跳ねる。いつの間にやら晴斗が後ろの扉から教室に入ってきていた。蜂蜜のような金髪から覗く眉根は不服そうに寄せられている。
「え、えっと。」
 愛弓は気まずそうに目を泳がせた。
「大丈夫だよ愛弓。晴斗が女好きなのは事実だし。」
「何だよそれ。」
 晴斗は口を尖らせたものの、さして興味なさげに自分の席に戻った。愛弓の肩から力が抜ける。
「びっくりしたあ。まさかこのタイミングで入ってくるとは思わなかった。」
 晴斗は同じクラスなんだから、どこにいても不思議ではないはずだ。聞かれたくないなら陰口なんて言わなきゃいいのに。
「ていうか、田宮ってやっぱり女関係だらしないんだ。詳しく聞かせてよ。」
 愛弓の目が生き生きと輝いている。女子はみんなゴシップが好きだ。よく知りもしない他人に対してどうしてそこまで興味をもてるのか、まったく理解できない。本当に、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。

 日曜の通学路は静かだ。珍しく今日は晴れていて、鼻をすすると乾きかけの土がむわっと香った。歩いているうちに肩からベースがずり落ちかけ、慌てて背負い直す。ふとカーブミラーに映る自分が目に入った。前髪の分け目がおかしい。近頃は雨続きだったから、湿気で前髪が跳ねないようにヘアピンで止めていたのだけど、きっとそのせいでクセがついてしまったのだ。前髪が決まらない日は気分まで落ち込む。しかも今日はバンド練。颯真に会うのに、最悪だ。
 校門をくぐって、ランニング中の野球部の群れをかわし、早歩きで部室棟へと向かう。軽音楽部の練習室は一階にある。ライブの時に楽器の搬出がしやすいし、今日みたいに遅刻ぎりぎりでも間に合うことが多くてありがたい。少し息を切らしながら重たい扉を開けると、颯真が一人、パイプ椅子に座ってギターを弾いていた。ぽろぽろと心地のいい音。
 颯真はギターが怪物級にうまい。だから一年前、バンドを組もうと誘われた時は本当に嬉しくて、夢のようだと思った。それでこの一年間、がむしゃらにベースを弾いた。指に水ぶくれができようがそれが剥けて血が出ようが、颯真の隣で演奏するためなら一向に構わなかった。
 もう少しそのギターの音色を聞いていたかったが、颯真は私の姿を認めると手を止めて微笑んだ。
「千紗か。お疲れ。」
「お疲れ。晴斗は?」
「遅刻だって。」
「ふざけんなよアイツ。」
 頑張って早歩きで来た意味がなかった。むしゃくしゃと粗雑にバッグを置く。
「あはは、いらいらすんなよ。あ、グミ食う?」
「ん、食べる。」
「全部食っちゃっていいよ。これの桃味、嫌いなの忘れてた。」
「馬鹿じゃん。」
 私がそう言うといつも、颯真はなぜだか嬉しそうに笑う。その目尻の皴を心の中でなぞりながら、グミを口に放る。桃の柔らかな香りが鼻孔をついた。遠くから微かに聞こえる吹奏楽部の演奏以外に音はなく、自分の咀嚼音がやけに大きく聞こえる。
「颯真はさ、彼女作らないの?」
 そう言ってしまってから後悔する。何か話さなければと思って愛弓みたいなことを聞いてしまった。私のそんな焦りに気づく様子もなく、颯真は少し考える素振りを見せた。
「うーん。作ろうと思って作るもんじゃないだろ。恋ってほら、落ちるものだし。」
「ふ、やかまし。」
 思わず吹き出した私を見て、颯真も満足げに笑った。
「そういう千紗はどうなの。好きな人とかいる?」
 なぜだか少しドキッとして、いたずらがバレた子供のような気分になる。動揺を見透かされないように視線を床に落とした。
「私も恋愛はいいや。今はバンドが楽しいし。」
「嬉しいこと言うねえ。俺も二人と練習してる時が一番楽しい。」
 それを聞いて、そわそわとした喜びが胸の奥からこみあげてくる。やっぱり私は颯真が好きだ。もちろん、ラブではなくライクだけど。
「うぃーっす。」
 がちゃりと音を立てて練習室の扉が開いた。晴斗だ。いつも無造作に下ろされている髪が、 今日はセンター分けにセットされている。ブリーチで傷んだ髪が、ヘアアイロンを通したせいか更にパヤパヤとしていて何だか不格好だ。
「わり、彼女がなかなか解放してくれなくて。」
「幸せそうでなによりだね。」
 発した声は思ったよりも刺々しく響いてしまったが、晴斗は気にした様子もなくへらりと笑った。
「え、わかっちゃう?」
 思わず舌打ちをすると、しゃーん、とドラムのシンバルが鳴った。いつの間にやら颯真の手にスティックが握られていた。
「じゃれてないで。さっさと練習はじめるぞ。」
「はいはい。」
 晴斗は気だるげに返事をして颯真からスティックを奪い取った。

 練習後にいつも来るファミレスの、入って右手、壁際の席が私たちのお気に入りだ。ドリンクバーやトイレが近いし、ほかの席より少し広い。楽器連れの私たちにとって、席の広さは死活問題なのだ。颯真は塾の振替授業があると言って帰ってしまったから、晴斗と二人、向かい合って座っていた。晴斗は紙のメニューを、私はタッチパネルを眺める。
「うわ、ステーキうまそう。でも今月ピンチなんだよなあ。ハンバーグにしとこ。」
「先月のバイト代、もう使い果たしたの?」
 タッチパネルで注文を確定しながら尋ねると、晴斗はわざとらしくため息をついた。
「いや、今月彼女の誕生日だから。節約しなきゃならんのよ。おかげでバイト地獄。まじで無理、しんどい。」
「そんなこと言うならあげなきゃいいじゃん。嫌々くれるプレゼントなんて彼女だって嬉しくないよ。」
 自分がやりたくてやっていることなのに、被害者面でしょぼくれているのが気に食わず、声色に苛立ちが滲んだ。慰めの言葉を期待していた晴斗は不服そうに口をとがらせた。
「付き合ってるんだから、そうはいかないだろ。」
「そんな形だけの関係に何の価値があるわけ?」
 晴斗の表情が固まる。しまった、と思ったがもう遅い。引っ込みがつかず、ぼそぼそと失言を重ねてしまう。
「だって、どうせまた飽きたとか言ってすぐ別れるんでしょ。」
「さすがに、まだキスもしてないのに別れないし。」
 反論めいたその言葉に絶句した。今度は晴斗がしまった、という表情をする。焦った様子で何か言葉を続けようとしたが、折悪く料理を乗せた配膳ロボットが到着した。私は二人分のハンバーグプレートを両手に取った。
「ほんと最低。」
 私がそう吐き捨てると、晴斗は奪い取るようにしてプレートを受け取った。
「いや普通だろ。みんなそういうことするために付き合ってんじゃないの?」
「ふうん。で、飽きたら捨てるんだ。」
 私は晴斗のプレートにナイフとフォークを乱暴に置いた。がしゃんと大きな音が鳴り、向かいの席の子供が振り向く。晴斗は鼻に皴を寄せた。
「好きじゃなくなったのに付き合い続けるほうが不誠実だろ。」
「なら最初から付き合わなきゃいいじゃん。」
「恋愛ってそういうもんだよ。」
「じゃあ恋愛なんてしなくていいよ。」
 それを聞いて晴斗は歪な笑みを漏らした。片方だけつり上がった口元には、意地の悪い挑発の色が滲んでいる。
「もしかして、ひがんでるわけ? 颯真に女として見られないからって俺に当たるなよ。」
 ぶちりと私の中で何かが弾け飛んだ。
「あんたみたいな恋愛馬鹿と一緒にしないで!」
 とうとう声を荒げてしまった。周りの客が迷惑そうにこちらを見ている。しばらくの張りつめた沈黙の後、晴斗は大げさにため息をついた。
「お前さ。ずっと思ってたんだけど、そうやって人のこと見下すのやめたほうがいいよ。」
 小さな子供を諭すように言われて体がこわばる。
「お前がそんなんだから颯真だって」
「もういい。」
 その先を聞くのが恐ろしくて、私は席を立った。
「おい、自分の分は払えよ!」
 後ろから飛んできた怒号を無視してずかずかと出口に向かう。店を出て、ぽつぽつと雨が降り出していることに気がついた。舌打ちをし、駅に向かって駆け出す。電車に乗り込むころには本降りになっていて、雨の音に交じって晴斗の言葉が頭の中で繰り返された。何とかそれを止めようと耳にイヤホンを挿す。三人で演奏した曲のプレイリスト。いつもは聞くと元気が出るのに、今日は苛立ちを掻き立てるばかりだ。
田園風景に囲まれた地元の駅に降り立つと、イヤホンを貫通して大量の蛙の声が聞こえてきた。パートナーを呼び寄せようと、ゲコゲコゲコゲコ、必死に叫んで喉を潰している。
「……うるさいんだよ。」
 下品で、汚くて、何を言っているのか分からない。とにかく耳障りなのだ。

 ふざけるな、梅雨。トイレの鏡を睨む。前髪が湿気のせいで外向きに跳ねてしまっている。寝坊してヘアピンで留める時間がなかったとはいえ、こんな姿で一時間目を過ごしたのかと思うとげんなりしてしまう。同じクラスに颯真がいなくてよかった。どうしたものかと考えながら繰り返しコームで前髪をといていると、ふと不躾な視線を感じた。鏡越しに横を見ると、隣の鏡でメイクを直していた女子と目が合う。リボンタイが緑色だから一年生の後輩だ。彼女は私を見つめたままリップの蓋を弄んでいたが、やがて意を決したようにカチリと閉じた。そして桃色の唇をうるりと開く。
「あの。千紗先輩、ですよね。」
「あ、うん。そうだけど。ええっと……。」
 軽音部の後輩だろうか。こんな可愛い子、いたっけ。
「私、晴斗くんの彼女の由衣です。沢城由衣。」
「……ああ。」
 言われてみれば、そのふわふわとしたツインテールや小動物のようなまん丸な目には見覚えがあった。晴斗に見せられた写真より気の強そうな顔つきをした沢城由衣は、細く息を吐きだすと眉をつり上げ、毅然とした様子で言い放った。
「晴斗くんと距離とってくれませんか。」
「はい?」
 思いがけない言葉だった。沢城由衣は私の困惑した様子を気にも留めず言葉を続けた。
「先輩と晴斗くんがふたりでご飯食べてるのを見たって友達が言ってたんです。彼女いる人とサシでご飯食べるのって、浮気ですからね。」
「いや、あれはたまたまもう一人が帰っちゃっただけで。晴斗とはただの友達だから。」
 慌てて説明すると、沢城由衣は嫌悪感を隠そうともせずに顔をしかめた。可愛い顔が台無しだ。
「男女の友情なんて成り立つわけないでしょ。」
「そんなことないと思うけど。」
 晴斗のことは、まったくもって恋愛対象として見ていない。デリカシーないし、話しかけても時々無視されるし、彼女とのデートがある日には掃除当番を押し付けてくるし。
「じゃあ晴斗くんに裸見せられますか?」
 極端すぎる問いに言葉が見つからない。沢城由衣は勝ち誇ったように笑った。
「ほら無理でしょ? 友情、成り立ってないじゃないですか。」
 まるで話が通じない。これ以上何を言っても無駄だと気づいて、話を本題に戻した。
「よくわかんないけど、距離をとれって言われても難しいよ。バンドの練習があるし。」
「だけどおかしいじゃないですか。なんで彼女の私よりも先輩のほうが晴斗くんといっしょにいる時間が長いんですか。」
 沢城由衣はぷくっと頬を膨らす。理不尽もここまでくると一周回って可愛く思えて、思わず微笑みが漏れてしまった。
「すごいね。晴斗のどこがそんなに好きなの?」
「全部です。顔もかっこいいし、ちょっとしゃがれた声も、おっちょこちょいで目が離せないとこも、格好つけたがりなのに二人きりになると甘えてくるとこも。全部全部、大好きなんです。」
 嬉々として語る沢城由衣は、なんだかひどく眩しく見えた。
 「ねえ、好きってどんな感じ?」
 沢城由衣は目を伏せたままふわりと笑った。右頬のえくぼが愛らしかった。
「その人と一緒にいられるだけで、すっごく幸せ、みたいな。」
 私が何も答えられずにいると、沢城由衣はハッとした様子でしかめ面に戻る。
「とにかく! ちゃんと距離、とってくださいね。」
 沢城由衣は捨て台詞のように言い放ち、そのままトイレから出ていってしまった。ふう、と息が漏れる。嵐のような子だった。一緒にいるだけで幸せ、か。颯真の顔が思い浮かんで慌てて首を振る。馬鹿馬鹿しい。恋愛なんて結局は、本能とかいう汚いもので惹かれあっているだけなのだ。だって人として好きで一緒にいたいだけなら、友達でも構わないはずだろう。愛とやらを使ってきらきらとコーティングしても、恋という名の欲望の、粘ついた醜さを隠すことはできない。私の颯真に対する気持ちは、そんな生々しいものではないのだ。
 水道をひねると、ぬるい水が手のひらを滑り落ちていった。もう少しで夏が来る。


「七月さ、晴斗くんと夏祭り行くんだよね。」
 そう平然と言いのけて問題集に取り組む愛弓の頭頂部を、私はまじまじと見つめる。伸びてきた黒い地毛の数センチが、うつむいて垂れ下がった栗色の毛先に不釣り合いだった。テスト前恒例の、勉強会という名のお喋り会。放課後の教室はひどく蒸していて、暑い暑いと文句を垂れながらも、二人で数学と無駄話に勤しんでいた。いつから冷房つけられるんだっけ、七月くらいかな、そしたらすぐに夏休みだね、といったとりとめのない会話の延長線上に、思いがけない名前が突如として出てくるものだから、私はひどくうろたえてしまった。
「えっと……。いつの間にか晴斗と仲良くなったの?」
 愛弓は途中式を書く手を止めずに答える。
「最近DMで話すようになってさ。」
「いや、だとしても何で二人で夏祭り? 彼氏と行けばいいじゃん。」
「最近うまくいってないんだよね。晴斗くんも彼女の束縛が激しいらしくて、お互いに愚痴のオンパレード。」
 それを聞いて、沢城由衣のえくぼが脳裏に浮かんだ。胸にちらついた憐れみを無視することができず、私はシャーペンを置いた。
「それはよくないんじゃない?」
 そう言うと愛弓はようやく目線を上げた。不満げな目尻のアイラインが、片方だけ滲んでよれている。
「いや、ただの友達だし。千紗だって晴斗くんと二人でご飯食べたらしいじゃん。」
 疑わしげに私を見る愛弓のまばたきに合わせて、ダマになったマスカラがバサバサと動く。その粘着質な睫毛に捕らわれそうで、私は自分の問題集に視線を落とした。
「それはたまたまそうなっちゃっただけだよ。」
「いやいや、二人きりだったことには変わりないでしょ。自分を棚に上げて説教垂れないでよ。というか千紗にそういうこと言われるとは思わなかった。だって颯真くんの話を恋愛に結びつけたらすごく嫌がるじゃん。」
 颯真の名前が出てきたことによる動揺を悟られないように、あえて愛弓の目をまっすぐに見た。宇宙人みたいに大きなカラコンが私を睨んでいる。颯真と私。晴斗と愛弓。それぞれの間にある関係性。一緒にしないでほしい、と口を開きかけたが、具体的に何が違うのか説明することができない。私は目と話を逸らした。
「……愛弓の彼氏だって嫌がるんじゃないの。」
「別にいいよ。あの人、最近冷たいし。」
 愛弓は口元を歪ませて、堰を切ったかのようにまくし立てた。
「返信も一日おきとかだし、デートは相手の家ばっかりだし、好きとかも全然言わなくなっちゃった。誕生日プレゼントだって六百円くらいのお菓子だったんだよ。私は三千円くらいのアクセサリーあげたのに。信じられない。」
 なんだ。結局、彼氏の愚痴を聞いてほしかっただけか。とんでもなく遠回りで、本当に面倒くさい。絶対に慰めてなんてやらない。いつも自分が思う通りの反応が返ってくると思うなよ。
「見返りありきのプレゼントなんて、そもそもあげなきゃいいんだよ。」
 私が突き放すように言うと、愛弓は縋るような目で私を見た。
「そういう問題じゃないの。明らかに私への気持ちが軽くなってるのが嫌なの。プレゼントだけじゃないよ。付き合いたての頃は返信も早かったし、ご飯も奢ってくれたし、いっぱいかわいいって言ってくれて、私そういうところが好きだったのに。」
「それってなんというかさ。愛弓が好きだったのは彼氏じゃなくて、彼氏の自分に対する気持ちだったんじゃないの?」
 本当に誰かを好いているなら、その人の自分に対する気持ちなんてどうだっていいはずだ。好きとか嫌いとかいう矢印は、その人自身ではなく、自分とその人との間にあるものに過ぎない。愛弓が好きなのは彼氏ではなく、男に愛されている自分であり、愛し合っているという関係性そのものなのだろう。愛されている実感を与えてくれる男なら誰でもよくて、だから新たに自分を愛してくれそうな晴斗に承認欲求を満たしてもらおうとしている。
 愛弓は首をかしげ、シャーペンを皮の剥がれた唇に押し付けた。
「千紗って本当に頭でっかちだよね。そんなに難しく考えてるから彼氏できないんだよ。」
「いらないし。この世のすべての人が恋愛に飢えてると思わないで。」
 その不思議そうな表情が鼻につき、私は吐き捨てるように言い放った。
「愛弓って本当、馬鹿だよね。」
 愛弓の目が見開かれた。みるみるうちに涙が溜まっていき、でも零れ落ちることはなく、その口元に自嘲的な笑みが浮かんだ。
「やっぱりそう思ってるんだ。見下されてるんだろうなって何となく分かってたよ。」
 冷たい緊張感が腹の底からこみ上げる。愛弓がここにきて初めて、ひとりの人間として立ち現れたかのように思えた。
「ばれてないと思ってたでしょ、残念だったね。」
 愛弓は乱雑にリュックに持ち物を突っ込んでそれを背負った。そして私の問題集をちらりと見やる。
「途中式、間違ってるよ。ばあか。」
 愛弓はそう言い捨てて教室から出ていった。ぴしゃりと閉められた扉を見つめながら、苦い気持ちがじわりと滲んでいく。窓に叩きつける雨の音だけが教室に響く。まだ午後四時なのに、日が出てないせいで外はずいぶん暗い。窓に反射した私は、ひどく間抜けな顔をしていた。

 あれから愛弓とは言葉を交わさないまま、テストが終わった。だけど別に構わない。愛弓とは最初から気が合わなかったのだ。愛弓がいなくとも、私にはベースが、バンドがある。颯真がいる。教科書を学校に置いて軽くなった鞄の持ち手をぎゅっと握った。近くの家から魚の焼けるいい匂いがして、空腹を煽った。テスト後の、お昼時の下校は何だか新鮮だ。
曲がり角を右に曲がって、鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。一瞬にして体温が下がる。
 颯真が女と手をつないで歩いていた。
 脳が目の前の光景をうまく処理することができない。違う学校の制服を着た、背が高くて髪の長い女。それを愛おしそうに見つめる颯真の横顔。颯真があんなに優しい目をするのを初めて見た。ゆっくりと状況の咀嚼が進み、ようやく飲み込めるようになると、擦り傷に血が滲むようにじわりと嫌な感情が溢れ出した。信じていたのに、私と練習してるときが一番楽しいって言ったのに、なのに……。なのに? なのに何なのだろう。私には颯真を責める理由も資格もない。そうだとしても、特別とまでは言えなくとも、颯真は私という存在を心の内側に置いてくれていると思っていた。けれど実際は、恋人ができても教えてすらもらえないような関係性だったのだ。
「バンド組まない? 千紗のベース、すごく好きなんだ。」
 一年前、颯真はそう言って笑った。颯真みたいな人に演奏が認められたのが嬉しかった。でも、いつから私自身が認められたと勘違いしていたのだろう。
私は颯真という人間そのものが好きで、それなら私がどう思われているかなんてどうでもいいはずだ。それなのにどうしてこんな気持ちになるのだろう。自分で自分の感情を理解することもできない。なんだ。一番馬鹿なのは、私じゃないか。
こてん、と女の首が傾き颯真の肩に乗ると、颯真はつないでいないほうの手でその頭をくしゃりと撫でた。分厚くて大きい、骨ばった手。その手が奏でるギターの音色が好きだった。二人の背中は徐々に遠ざかり、やがて角を曲がって見えなくなった。
 視線の的が消えて足元に視線を落とす。蛙が一匹、湿ったアスファルトに張り付いていた。醜くて、卑屈で、愚かで、哀れだ。しゃがみこんで、その緑色の背中に震える手を伸ばす。

 蝉の声がうるさい。ベースと背中の間の熱が鬱陶しい。これだから夏は嫌いだ。汗でメイクや前髪がドロドロになってはいないだろうか、とカーブミラーを確認する。ファンデーションは若干よれていたが、前髪は毛先まできちんと整って、汗の滲む額を覆い隠していた。ハンカチで軽く顔を叩きながら校門をくぐる。ランニング中の野球部の群れを交わして部室棟に向かう。重たい練習室の扉を開けると、冷房のひんやりとした風が廊下に漏れた。そこにはいつものようにギターを弾く颯真の姿があった。
「誕生日おめでとう。」
 そう声をかけると、颯真は少し目を見開いて、それからくしゃっと笑った。汗で湿った目尻の皴が光る。
「覚えててくれたんだ。ありがとう。」
 そしてその口が気まずそうに引きのばされる。
「あれ、千紗の誕生日っていつだっけ。」
「六月。」
「え、早く言ってよ。俺だけ祝われちゃって申し訳ない。」
「いいよ別に。」
 私は素っ気なくそう言って、鞄から小さな箱を取り出した。
「はい、プレゼント。」
「え、まじか。ますます申し訳ないな。」
「別にいいってば。私があげたかっただけだから。」
「……ありがとう。超うれしい。開けていい?」
 私がうなずくと、颯真は嬉々とした様子で箱を結ぶリボンをほどいた。蓋を開けた颯真の表情が固まる。そこには水分を失ってひしゃげた蛙の死骸があった。
蝉の声だけが練習室に響く。クーラーの風が汗ばんだ肌を冷やす。もうすっかり、夏になってしまった。

蛙化未遂

執筆の狙い

作者 餓鬼
h175-177-041-034.catv02.itscom.jp

思春期特有の過剰な自意識や気持ち悪さ、くだらなさを表現するとともに、恋愛や男女の友情に関する持論を展開しました。率直な感想やアドバイスが欲しいです。よろしくお願いします。

コメント

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

「読み易さ」「すらすらと進むテンポ」「キャラの青くさい若さ」がこの作品の武器ですね。

>思春期特有の過剰な自意識や気持ち悪さ、くだらなさ

は良く出ていたと思います。
青さを感じました。
くだらない、けど、くだらなくないような、そんな感じが、良い感じです。


僕はあんまりこの作品には言及できるほどの感性の資格が無いんですけど、
なんかオチが無理やり締めた感じで、
出来ればこのドロドロというか、「ここから」が良いところだと思うんで、
この続きを読みたいって気がしましたよ。

いや、あの、なんかね、痛さとか苦しみとかもっともっと描いてね、立ち向かってね、
読者も引き連れて、本作をもっと違うところまで運んだらって。

短編で終わるのが惜しいというか。

えんがわ
M014008022192.v4.enabler.ne.jp

追記。

ああ、今になって思うと、軽音というか楽器使いをベースにしているのに音楽の知識や空気感のバックグラウンドを感じないのがボトルネックになってるかもしれない。

音楽活動が記号的になってしまうと、3人の友情や愛情もやっぱり平面的になってしまう気もします。

反対にここらへんがもう少し入ってくると、繋がりがより共感的になるのかも。

偏差値45
KD124209068208.au-net.ne.jp

いいね。面白い。
完成度はかなり高いと思います。

>思春期特有の過剰な自意識や気持ち悪さ、くだらなさを表現するとともに、恋愛や男女の友情に関する持論を展開しました。
会話はロジックとして成立している。

主人公だけが傲慢で自分自身が分かっていない。
無意識では恋をしているが、意識的に否定している。滑稽ですね。

>「おい、自分の分は払えよ!」
 後ろから飛んできた怒号を無視してずかずかと出口に向かう。
お金を払っていない?
これはすごいですね。さすがに引きますね。

>そこには水分を失ってひしゃげた蛙の死骸があった。
残酷ですね。しかもプレゼントですからね。かなり狂っている。

>「お前さ。ずっと思ってたんだけど、そうやって人のこと見下すのやめたほうがいいよ。」
>「やっぱりそう思ってるんだ。見下されてるんだろうなって何となく分かってたよ。」
二人からそんな発言があるので、無意識にそんな態度をしているのでしょうね。
このまま大人になってしまうと、厄介な人間になりそうですね。怖いですね。

黒川憐
M014011049192.v4.enabler.ne.jp

餓鬼さん、コメント失礼します。
スラスラ読めて、内容も面白かったです。
この思春期特有の気持ち悪さすごい伝わりました。実際ここまではいかないですけど、結構面倒くさいものです。特に女子はドロドロしてて、ほんとに億劫になります。
女の私が言うのもあれですけど、女子のドロドロネチネチは嫌いです。なんでそんなに執着するんだろうって思います。

ストーリーはよかったんですけど、どうしても千紗が好きになれませんでした。
小説でみんながみんな主人公が性格良いわけじゃないですけど、共感はしづらいなって思いました。

全体的にはすごいよい物語だなって思いました。これからも頑張ってください。

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