壁に跳ね返されたボールを拾う
今から私が話すことは個人的なものです。みなさんが期待するようなことは何ひとつ起こりません。それでも聞いてくれるのなら私はこの拙い言葉で懸命に語りましょう。その前にビタミン剤を嚙み砕いて酒で流し込みます。毎年春くらいに実施される健康診断に引っかかってしまいました。肝臓が弱っているようです。だから仕方なく錠剤を体内に仕込ませて身体を労わっているのです。ええ、そうですね。今からは酔っ払いが絡んで自分の自慢話を披露していると思ってください。そうすれば少しは楽な気持ちでこの物語に臨むことができるでしょう。くだらない私の身の上話をうんうんと適当な相槌をしてくれるだけでいいんです。それだけできっと私は救われるでしょう。
私は悩んでいた。このあとに続く言葉が一向に浮かばない。まるでこの地上から宇宙を見ようとしているかのように言葉を探していた。君は一体どこにいるのだろうか?そう呟いたとしても応えてくれる相手はどこにもいない。
「またここでタバコを吸っているの?」
そう声を掛けてきたのは同じクラスの委員長だった。私との関係性は同じ教室にいる同級生というくらいだった。そうか私は高校生だったのか。私の人差し指と中指で挟んでいるものは火のついたタバコだった。私はまだ未成年であるから国のルールを破っていることになっている。えっと、未成年と知っていながら販売したものは罰金で、親は科料が課せられる。金額の大きさで罰金と科料って使い分けているんだな。言葉というやつは面倒だなと思った。じゃあ、未成年である私自身には何を科せられることになるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、ここが屋上であることを思い出していた。施錠されていた南京錠を壊して今忍び込んでいる。
「なあ?今日は何日かな?」
知らないうちにタイムスリップして現状を把握するためにベンチに座っているサラリーマンが手に持っている新聞紙を奪い取って日付の欄を見るかのように、私は委員長に訊いてみた。彼女は怪訝そうな顔をするだけで私の問いに答えることはなかった。言わなくても普通に暮らしていれば分かることなのだろう。そうだよな、まともな人間であれば今日という日に疑問を持つことはないのだろう。それでも私は彼女と会話をしたかった。
「君はいつもこの屋上に来るの?」
委員長の返答はノベルゲームにあるような選択肢に出てくる言葉を吐き出すように必ず決まっていた。こんな退屈な世界から逃げ出してしまえばいいのに、私はこの屋上から離れずにいる。
「私だって面倒なのよ。あなたがサボってるから、こうして直々に来てやってんのよ」
今は授業中だったことを思い出そうとするのだが、何の科目であるのか一向にその光景を思い浮かべることができなかった。私が普段からサボっているからではなくて、忘れ物を取りに来たようなつもりで今はここにいる。私がやるべきことは何であるのかそれだけをこの場所で探している。それはただの免罪符に過ぎなくて、私はこの場所に置き忘れようとしているだけだろう。あのときの映像が今のように再生されていく。私がしたかったことはその映像を消去することなのであろう。
「ねえタバコって美味しいの?」
そう言って委員長は私の指に挟まれているタバコを奪おうとした。突然彼女が近付いたため、私は動揺してしまい手に持っていたものを落としそうになった。彼女がそんな大胆なことをする人間であるのかいくらか頭を巡らせてみた。クラスにいる委員長はいつもルールに対して厳格であった。服装の乱れ、携帯の持ち込みを見てしまえば黙っていられない性格だった。その結果、クラスで浮いている存在になっていたが、それでも委員長としてルールを厳守するようにクラスメイトに対して強要し続けた。クラスメイトが今の委員長の姿を見たら、ほとんどの人間が彼女を責め立てるだろう。
「私がタバコを吸うわけないでしょ。こうでもしないとまた吸おうとするでしょ?」
いつのまにか私の指に挟まれていたタバコは委員長の手にあり、それはコンクリートの床に捨てられて彼女の足によって火は消された。私はその一連の動作が自然であったことに違和感を抱いて、彼女は喫煙者ではないかと思ってしまった。だが、彼女の口ぶりではタバコを吸っている感じはなかった。誰か知り合いに喫煙者がいるのかもしれない。
「そこから何が見えるの?」
気付けば、私の視線は学校の校庭に向けられていた。そこには部活動に勤しむ生徒が溢れるほどいるはずだった。あのグラウンドは四つのベース板をダイヤモンドの形で並べてあるのを見る限りでは野球部が使っているのだろう。円の両端を伸ばしたように引かれた白い線のトラックには陸上部が走っているのだろう。緑色の長方形を等分させるかのように真ん中にネットが置かれておりそこには球をラリーするテニス部がいるだろう。私にとってその全ての光景が眩しくて仕方がなかった。きっと私の手には届かない出来事がこの屋上の下で繰り広げられているのだろう。
「俺もあの場所へ行けたらな」
私がそう言うと委員長は声を抑えるように静かに笑っていた。私はおかしなことを言ったのだろうか。私の中で構築されている委員長像が少しずつ崩れ始めている。私は教室の中にいる彼女しか知らなかった。屋上で見た彼女が委員長という役割から外れた本来の姿なのかもしれない。私はその表情を見たとき、吐き気が止まらなかった。
ドン!
唐突だった。下の方で何かが破裂したような音がした。屋上からその音のする方を見下ろすとそこには委員長がいた。いつのまにあそこまで移動したのだろうか。どこかの漫画のように屋上から飛び降りて、地面が割れるような見事な着地を決めたのだろうか。そんな妄想をしたところで現実はそんな甘いものではない。周りの景色を見れば、陽は沈みかけていて部活動をしている人間たちは帰路へと着いている頃だった。時間は私の気付かないところで進んでいて、そのあいだに委員長は屋上から校庭の方まで移動をしていた。彼女は私の存在に気付いているはずなのに、手を振ることなくただ睨み付けていた。私はその顔をまだ忘れられずにいた。
「なあ、もうやめにしないか?」
委員長には私の声は届かない。タバコを持っていない私には、酒を片手に持っている私には、彼女を止める資格などなかった。映画館でポップコーンを肴にして酒を飲みながら、映画鑑賞しているようだった。だから私の伸ばした手はどこにも触れることはない。いっそのこと私もこの屋上から飛び降りてしまおうか。そうすれば彼女が見る世界と重なることができるかもしれない。
「あなたはどうしてそこにいるの?」
気付けば、陽は完全に沈んでいて街灯が街を明るくさせていた。これ以上、私がこの屋上にいるのはマズイ。校内を巡回している警備員に見つかる前に、私はこの学校から抜け出さなければならない。本来、私はここにいてはならない存在だった。私は校内に繋がる屋上の扉をゆっくりと開けて、辺りを見渡した。真っ暗で何も見えない状態ではあったが、人の気配はしなかった。焦る気持ちを抑えて私は足音を立てずにそっと階段を降りて、一階へと目指そうとしていた。途中、階段を踏み外してしまい私は盛大に転んでしまった。
「大丈夫?」
そう声を掛けたのは委員長だった。同じクラスではあったが会話をしたのはこのときが初めてだった気がする。彼女は手を差し伸べていた。恥ずかしさのあまり私は逃げるように屋上へと向かっていた。それ以来、私は委員長のことが気になり始めていた。だから、私は彼女がいつも屋上にいることを知った。もともと屋上は私の憩いの場だった。この場所にいれば誰かが私を責めることはなかった。そんなある日のことだった。私はいつものように誰かから逃げるように屋上へと向かっていた。そこにはすでに先客がいて同じクラスのヤンキーだった。その男はきっと私と交わることのない人種だった。私自身も関わりたくないため、いつものように貯水タンクの裏に身を潜めていた。少しすると委員長がヤンキーに近付いていた。屋上にいるヤンキーに怖がる素振りもせずに、タバコを吸っている彼に注意をしていた。それに対してヤンキーは面倒そうな顔をしていたが、突き放すようなことはせずに好意的に受け取っているようだった。委員長とヤンキーの間にどのような関係があるのか、貯水タンクの裏からでは分からなかったが、ただのクラスメイトのような関係ではないのだろう。その光景を見た私は落胆をしていた。それから私は委員長とヤンキーが親しげに話している様子を何度も屋上で見た。私はまた貯水タンクの後ろに隠れながらそれを覗き見ていた。委員長とヤンキーは付き合っているのだろうと確信をしていた。私は信じたくなかったが、あの行為を見てしまうと彼女たちの関係を認めるしかなかった。屋上を見下ろすような形で、委員長を屋上の柵に押し付けて、ヤンキーは腰を激しく振らしていた。誰かに見られると言葉では拒絶していたが、顔は紅潮させていて明らかにその状況を彼女は楽しんでいた。私はその行為を股間を触りながらただ眺めていた。そして私は貯水タンクを支えているコンクールを精子で少し汚してしまった。彼女の様子がおかしくなったのもそれからだった。
「大丈夫だ」
真っ暗闇の静寂の中で階段から派手に転倒した音は校内に響き渡っていた。巡回をしている警備員も私という不審人物に気付くかもしれない。そうであるのならばわざわざ慎重に歩く必要はないだろう。私は階段を駆け下りて校舎から抜け出そうとしていた。一階まで辿り着いた時に視界の隅で光を感じていた。廊下の奥から微かな光がゆらゆらと揺れていた。あれは巡回している警備員が使っている懐中電灯の光だろう。私はそのまま全校生徒の靴が置いてある玄関の扉まで走り抜けようとしていた。だが実際に私がした行動は、踵を返して階段を駆け上がることだった。あの頃の記憶が蘇ってしまう。私の逃げ場はいつもあの屋上だった。
「死にたい」
屋上の扉を開くとそこには委員長がいた。吸うはずのないタバコを指に挟んで、柵の上に肘を乗せて校庭を見下ろしていた。私は彼女に気付かれないように貯水タンクの後ろに隠れていた。そして、彼女は唐突に柵の上に両足をかけてその場に立ち上がった。彼女はもう死んでしまうのだろうと思っていた。飛び降りる瞬間に彼女と私は目が合ってしまった。そのとき彼女は何かを呟いていた。私はその言葉を今でも思い出すことができる。あのときに見えた映像と一緒に彼女の口から発した言葉が脳内で再生し始める。
「気持ちが悪い」
私は貯水タンクの後ろに隠れたままその光景をただ見ることしかできなかった。早く一日が過ぎるのを待ち続けていた。ドスンという音が何度も聞こえてくる。私は屋上の下の景色を見ることができなかった。そこにはきっと彼女がいて、私を睨み付けているだろう。目を瞑ろうとするとあの映像が何度も繰り返される。私はただ貯水タンクの汚れを見て、早く陽が昇ることを祈り続けていた。私の願いを聞き届けてくれたのか陽がやっと昇り始める。街は明るくなり鳥のさえずりも聞こえ始め、朝を迎える準備をしていた。直に生徒たちも登校し始めるだろう。そこでようやく落ち着いた私は屋上にある柵へと近づく。そしてそこから彼女が飛び降りた先の地面を見てみた。そこにはただの地面しかなかった。
「気持ちが悪い」
委員長の飛び降りたその場に私は居たのだった。どういった理由で彼女が飛び降り自殺をしたのかは今でもよく分かっていない。ただ、彼女が思い悩んでいることだけは確かだった。私があのとき彼女に声をかける勇気さえあればと何度も思っていた。それは綺麗事に過ぎなくて、ただ私はあの場にいることを忘れたかった。何も見なかったことにして私は次の未来へと進みたかった。だけどどこまで行ってもあの光景は私の瞼の裏に残り続けていた。酒に溺れてすべてを忘れようとしていた。その結果、肝臓が弱り始めて私は生きることが苦痛になっていた。アルコールを摂取しようと手に持っているビール缶を無理矢理口に流し込もうとしたが、身体が拒んで何度も胃から吐き出してしまう。錠剤を飲み込めば少しだけ私の身体は回復していると誤魔化すことができる。
気付けば私が右手に持っているものはタバコではなく少しずつ減っている五百ミリのビール缶だった。そして左手には錠剤を握り絞めていた。私はビタミン剤を噛み砕いてそれを酒で流し込んだ。
「またここでタバコを吸っているの?」
執筆の狙い
自分が描く他人はいつも何かしらのモデルがいるのですが、今回の小説は特にそういうものはなくて、登場人物はすべてゼロから創り上げました。この小説は特に会話のぎこちなさを表現できるように頑張ってみました。