作家でごはん!鍛練場
アラカンのよだれ

原田35(サーティーファイブ)

        ①
「パワハラ田課長、三番に極東商会さんからお電話入ってます」
「やかましいっ、この野郎っ! 俺はパワハラ田じゃねえよっ、原田だっ」
「いいですから、原田課長、先に電話に出なさい。お客様がお待ちですよ」
 樋口部長の言葉に原田は「は、はい」と言って電話に出た。
「町田君、あなたも上司に対してその言い方は良くありませんよ」
「え、えぇ・・ただ、原田課長は本当にパワハラをやっているっていうか、やりまくっているっていうか、時代遅れと言うか・・」
「そうかもしれませんけど、いちおう、あなたの上司なんですから、言葉遣いには気を付けなさい」
 樋口に言われた町田は「わかりました」と言って席を立った。
「ありがとうございます。それでは明日の十六時に上がらせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
 電話を切った原田はふーっと大きく息を吐いた。
「原田課長、極東商会様はなんと?」
「先日提出しました見積もりが社内稟議を通ったと。ついては今後の進め方について打ち合わせをしたいということで・・」
「そうですか、それは良かったですね。極東商会様はかなり前から営業をかけてきてなかなかお仕事をもらえなかったですから、本当によくやってくれました」
「いえいえ、部長のお力添えがありましたので、なんとか・・」
「そんな謙遜しないでください。原田課長は昭和の香りが残る営業マンで少し荒っぽいところはありますけど、確実にお仕事を取って来てくださるので信頼しております。極東商会様に行くときは町田君も連れ行ってください。原田課長のお客様とのやりとりを目で見て学んで欲しいと思っておりますので」
「は、はい、わかりました」
「あと、原田課長、ハラスメントには十分注意してくださいね。私たちの世代では何の問題もなかったことが、今ではアウトといったことが多々ありますから。すごく生きにくい世の中になりましたけどお互い注意していきましょう」
「承知しました。気を付けるようにします」
 樋口部長に一例をすると原田は席を立った。

 テナントとして入居しているビルの喫煙ブースに入ると原田は町田を見つけ寄っていった。
「てめぇ、なんださっきの言い草はっ」
 煙草に火をつける前に原田は言葉を放った。
「だってそうじゃないですか、うちの同期が嘆いてましたよ。昼休みにエクレアを食べていたら『大の男がなに昼間から甘いもの食ってんだっ』て怒鳴られたって」
「当り前じゃねぇか、男が内股すりすりしてエクレア食ってどうすんだよっ、この野郎っ。そんなのは女の仕事だろっ」
「その考えが古いんですよ。男だって甘いもの食べたっていいじゃないですか」
「食べるなとは言ってないよ。人前というか俺の前では食うなって言ってるんだ。食うんだったら家帰って部屋で一人こっそり食えってことだ」
「あ~あ、もう課長とは話にならないですよ」
「ていうか、お前の吸っているのはそれなんて言うんだ?」
「アイコスです。電子タバコですよ」
「かっ、そんな柔いもん吸ってるから女の乳も吸えないんだよっ。だから、彼女も出来ない、結婚もできない、少子化の原因はお前ら若いもんがしっかりしないからだよっ」
「課長、そんなこと言っていたら、本当に殺されますよ」
 原田が周りを見ると、ほとんどの人が電子タバコを吸っていた。唯一、白髪頭の明らかにリタイア組とわかる男性だけが紙タバコをふかしていた。
「昼間からエクレア食って、おちょぼ口で電子タバコ吸っている奴らに俺を殺す根性なんかあるかよ」
 ここで原田は煙草に火をつけ「で、なんだよ、相談って」と町田に向かって言った。
「来週からうちの部署に新入社員が来るんですよ」
「そうなのか」
「四か月ごとに三つの部署を周って、そこで自分の適性というかいきたい部署を決めるらしいです」
「そんなたった四か月で何がわかるって言うんだよ」
「そんなこと僕に言わないでくださいよ。会社がそうしろっていうから従っているだけなんですから」
「どこの大学出てんだよ、そいつは?」
「さぁ、わかりません。人事部が今年の新入社員のリストををくれるっていってますから、席に戻ったらもらってきます。て言うか、学歴のことを聞くのはそれもハラスメントになるんですよ」
「そうかも知れないけど、ただ、どこの大学を出てるかを聞くと大体のその子のレベルが想像できるだろう」
「まあ、それはそうなんですけど・・」
「そんなことより、お前、明日の夕方は時間あるのか?」と原田が町田に聞いた。
「呑みですか?」
「バカ、違うよ、仕事だよ」
「その『バカ』もだめなんですよ」
「わかったから、で、空いてんのかよ?」
「一応は・・」
「そしたら四時に極東商会にいくからそのつもりでいろよ」
「四時って、戻ってきたら六時周っているじゃないですか。残業付けてもいいですか?」
「そんなの部長に聞け。俺はお前なんか連れて行く気なんかさらさらなかったんだけど、部長がお前の勉強のために連れて行けって言うからしょうがないんで連れて行くだけだ」
「そ、そんな言い方ないじゃないですか」
「町田、お前、総務から営業に来て何年になるんだ?」
「五年です」
「じゃあ、わかるだろ。営業なんて時間なんてあってないようなもんなんだよ。客に朝の六時に来いって言われれば行かなきゃなんない、トラブルが起これば夜中にだって飛んで行かなきゃなんない。その代わり、二日酔いで来ても外回りに行ってくると言って喫茶店で休憩できるのは営業マンだけだからな。だから、自分で調整して、最近残業が多いなと思ったら、三時ごろ外出してそのまま帰ったり呑みにでも行ったらいいんだよ」
「え、ええ・・まぁ・・そうなんですけど」
「席に戻ったらさっきの新入社員のリストを見せてくれ」
 喫煙室を出ると原田は席に戻り「明日は町田と一緒に極東商会へ行ってきますんで」と部長の樋口に告げた。
「そうですか、よろしくお願いいたします。社に戻ってきたら定時時間を過ぎていると思いますので残業をつけるように町田君には言ってください」
「それなら大丈夫です。営業マンに定時なんかないって教えときましたから」
「大丈夫ですか、このご時世にそんなことを言って・・」
「大丈夫です。自分で調整しろって言ったら納得していましたから」
「そうですか、それならいいんですけど」
「あと、新入社員が来週から来るそうですね」
「そうなんです、それを原田課長にお伝えしようと思っていたんです」
「だけど、四か月だけ来て何か彼らに得るものってあるんですかねぇ」
「どうですかね、まあ、今年から本社人事部がやるって言って始まったわけですから、様子を見るしかしょうがないと思います。
 それで、指導者は町田君にはなっているんですけど、原田課長の方でもお客様のところに行くときに一緒に連れていっても支障がないケースであればお願いします」
「わかりました。営業の厳しさをまざまざと見せつけてやります」
「いえいえ、もっと穏やかにお願いします」
「冗談です、優しく接しますから」
 町田が紙を一枚手にして席に戻ってきた。
「課長、さっきの新入社員のリストです」
「おう、悪い」と言って原田は紙を受け取り、しばらく眺めていた。そして「どの子がうちに来るんだ?」と町田に聞いた。
「その“今宮”という子です」
「ふーん」と言って原田はまたじっと紙を見つめる。
「部長、売り手市場なのはわかるんですけど、うちにはこの程度の大学の学生しか来てくれないんですかね」
「課長、さっきも言いましたけどそれは学歴ハラスメントですよ」と町田が言う。
「そうですよ、原田課長、町田君の言う通りですよ」
「いえ、言ってはダメだということはわかっているんですけど、この今度来る今宮という子の出身大学なんですけど、私が学生の頃は、今のように猫も杓子も誰もが大学に入学できる時代とは違って、学力の足りない子は大学には行けなかったんです。だけど、どうしても子供を大学に行かせたいと思う、お金を持っている親が高い学費を払って行かせた大学なんです。よくあの成績で大学なんかに行けたよなと思う連中ばかりでしたから。まあ、その時とはまた今は違っているかとは思うんですけど・・」
「原田課長、どこの大学を出たのではなくて、大学で何を学んだかが大事ですから」と樋口が原田に言う。
「え、ええ、それはよくわかっているんですけど・・」
 原田はこのセリフを言われるのが一番嫌だった。地方の国立大学を出てはいたが、学生時代は全く勉強はせず、五年半かかって卒業していたのだ。
 終業のチャイムが鳴る。
 樋口が立ち上がると「じゃあ今日は失礼いたします。明日は申し訳ないですけど有休をもらいますので極東商会さんの件はよろしくお願いいたします」と言って帰っていった。
「だけど、町田、その今宮っていう子は本当に大丈夫か。社会人として必要な読み書きそろばんはちゃんとできるんだろうなぁ」
「なんなんですか、その、読み書きそろばんって言うのは?」と町田が原田に聞く。
「おまえ、そんなこともしらないのか?
 読解力、文章力、計算力のことだよ」
「へぇ、そうなんですか。まあ、大丈夫じゃないんですか。いちおううちも入社試験はあるんですから」
「それにこの名前なんだ、世界の“世”に名前の“名”と書いて、このまま読むのかよ“せな”って」
「そうです。僕も間違ったら失礼だと思ってこのリストをもらうときに人事部の人に聞きましたから」
「どうせ俺と同世代の親父さんだから、アイルトン・セナのファンだったんだろうなぁ」
「誰なんですか?そのなんとかセナって言うのは?」
「F1って知ってるか?」
「はい、あの無茶苦茶速い車のレースですよね」
「そうだ。そのF1で無茶苦茶強くて、おまけに格好良くて“音速の貴公子”って呼ばれていたんだ。だけど、レース中に事故に遭って亡くなってしまったんだ。あん時は日本中、いや、世界中が大きな悲しみに包まれたよ。
 だから親父さんの気持ちはわかんなくはないよ、大好きだったセナのように“世”に“名”をはせてくれと願って息子さんに“世名”とつけたことは、だけど・・」
「いえ息子さんじゃないです。娘さんです」
「なにーっ!」
「課長、声がでかすぎますよ」
「どこの親が自分の娘に自分が好きだったF1レーサーの名前をつけるんだっ、呼んで来いっ、この野郎っ!」
「別にいいじゃないですか、他人のお子さんなんですから。それに、課長、勝手にそのなんとかセナから名前を拝借したと言っていますけどわかんないですよ。他の意味があるかもしれませんよ」
「そんなこたぁどうでもいいんだよっ。俺が言いたいのは“世名”みたいなすかしているっていうかイキったような名前を自分の娘につけて、その娘が豚が屁こいたような顔だったらどうするんだよってことなんだよ。一生その子は人に陰口叩かれて生きていかなきゃならないんだぞっ。本当に親の無責任だよっ」
「原田課長、先ほども言いましたけど、そのうち本当に誰かに殺されますよ」
「うるさいよっ!」
「あっ、ハラスメントだ、パワハラ田課長健在だっ」
「うるさいっ、お前こそ本当に殺すぞっ!」
「言ってやろう、部長に今のこと全部言ってやろうっと」
「やかましい、やることなかったら早く帰れっ!」
「言われなくとも帰ります。今日は妻の誕生日なんで二人でディナーに行きますんで」
「何が誕生日だっ、いい歳こきやがって。みんなに祝ってもらうのは小さいときだけだ、歳取りゃ、自分一人で祝ってろってんだっ」
「はいはい、わかりました、誰にも祝ってもらえないからひがんでるんでしょ」
「うるせーっ、お前本当に殺るぞっ!!」
 原田の怒鳴り声に事務所内が騒然となり、町田は逃げるようにしてその場を立ち去った。

       ②
「上着いりますかね?」
「当り前だろっ。今日は受注のお礼に行くんだぞ」と原田が町田の質問に返す。
「だって、今日も三十八度はいくって天気予報で言ってましたよ」
「ばかやろうっ、まだネクタイが無いだけましだと思え、俺らの若い頃はな営業マンってのは・・」
「はいはい、わかりました」
「はいは一回でいいんだ」
「だって、その頃とは夏の暑さが桁違いでしょ」
「ここから着ていかなくてもいいじゃないか。手で持っていって、向こうの社に入る直前で着ればいいだろうが」
「ほんと、熱中症で死んだら訴えますからね」
「大丈夫だ、人間はそう簡単には死なねぇよ。
 それより、名刺は持ったか?」
「新入社員じゃないんですから、ちゃんと持ってますよ」
「じゃあ、そろそろ行こうか」と原田が言って先に席を立った町田の姿に原田は声を掛けた。
「お前、なめてんのかよっ!」
 昨日同様、事務所がまたしても騒然となる」
「どしたんですか、そんな怖い顔をして」と町田が原田に言葉を投げる。
「だから、お前、なめてんのかよって聞いているんだ」
「な、なにを言っているんですか?わけわかんないんですけど・・」
「お前、どこの会社に、リュック背負ってお客さんのとこに行く営業マンがいるんだ?」
「え? そんなの今みんなやってるじゃないですか」
「他のやつはどうでもいいんだよ。俺は絶対に認めないからな。それは山を登ったり、こけた時に両手が空いているようにと年寄りが背負うものだ。ビジネスマン、ましてや営業マンが背負うものではない。別のカバンにしろ」
「何言ってんすか?意味わかんないすよ」
「わからなくてもいい。とにかくリュックは降ろして他のカバンにしろ」
「これしか持ってないですよ」
「しょうがねぇなあ」と言うと原田は机の足元をごそごそと探り、かなり使い古した手提げのカバンを取り出した。
「今のカバンに替える前に使っていたやつだ」
「なんか、汚ねぇっすよっ・・」
「やかましいっ、早くしろっ、遅刻はご法度だからな」

 極東商会に着くと。会社から上着を着ていた原田の額には大量の汗粒が付き、これから上着を羽織る町田の額にもわずかだが汗粒が光っていた。
「これなんなんすかねぇ、体のいい罰ゲームですか?」
「うるさいよっ。とにかく失礼のないようにな」
 受付の電話で原田が名を告げるとすぐに女性社員が出てきて二人は応接室に通された。
「名前からしてもっと大きな会社かと思ってましたけど意外とこじんまりとしてますよね」
 額の汗をハンカチで拭きながら町田は原田に言った。
「社長と奥さんと二人でこの近くの民家の一階を事務所兼倉庫にして一生懸命やられてきて、二年前にこの自社ビルを建てられたんだ。 
二階と三階はテナントに貸して、その上でご夫婦と息子さんが住まれているんだ」
「そうなんですか。そろそろ代替わりされるんですかね」
「おそらくな。このビルを建ててテナント貸しを考えたのもおそらく息子さんだろう」
 扉がノックされさっき二人を部屋に案内した女性社員がお茶を持って入ってきた。
「もう少しで参りますので・・」と女性社員はいかにも涼しげな透明のグラスをテーブルの上に置いて出て行った。
 グラスに手を伸ばしかけた町田を原田が制する。
「社長に挨拶してからだよ」
 暫くして扉がノックされ社長が入ってきた。
「社長、いつも大変お世話になります」
 原田が立ち上がり町田も続く。
「この度は提出いたしました見積書の内容にてご用命を頂戴しまして誠にありがとうございます」
「いえいえ、何度も熱心に来ていただいて、色々と相談にも乗って頂きましたので今回は原田さんとこにお願いしようと思いまして。
 あっ、暑いですから上着は脱いでください」
 言われるがままに上着を脱ごうとした町田を原田は鬼の目で睨む。
「あっ、社長、紹介させていただきます。一緒に営業やっております町田でございます」
 町田は一歩進み出て「町田です。よろしくお願いいたします」と言って頭を垂れ、社長から名刺を受け取った。
「なに? 原田さんも後任に譲られるんですか?」
「いえいえ。まだ家のローンも残ってますんでもう暫く働かせてもらいます。いや、いつもお世話になっておりまして弊社に取りましてはすごく大切なお客様でございますので、同僚にも是非知っておいてもらいたかったので今日はご挨拶に上がらせていただいた次第です」
 町田はへ?という表情でもう一度軽く会釈をして席に着いた。
「社長、さきほど、原田さんも、と仰いましたが・・」
「ええ、そうなんですよ。こんなきれいなビルを建てさせてもらって、商売の方もなんとか順調できていますので、ここらで息子にバトンを渡そうかなと思いまして」
「そうなんですか、いつ頃をお考えですか?」
「もう今年いっぱいで・・ちょっと息子を紹介させていただきますので暫くお待ちください」
 社長が出て行くと町田はグラスのお茶で喉を湿らせた。
「上着脱いじゃだめですか?」
「もう少し辛抱しろ」
 扉がノックされ社長が息子を連れて入ってきた。
 息子は歳が原田と町田の間くらいで、白のポロシャツにグレーのチノパンを履き、短い裾丈から素足で履いているローファーを覗かせていた。
「息子の孝です。今年の三月まで小さな商社で働いていまして、今は私が色々と仕事を引き継いでいるところです。
 孝、こちら原田さんと町田さん。原田さんにはずっとお世話になっていて、今回の件もかなり無茶なうちの要望をのんでくださったんだ。伝説の営業マンと言われていて、役職は何もついていないけど、私は一番信用している方なんだ。これからわからないこともたくさん出てくると思うけど、原田さんに色々と教わっていけば大丈夫だから。
 ということで原田さん、何卒息子のこと、よろしくお願いいたします」
「いえいえ、社長、こちらこそ色々とお世話になると思いまのでよろしくお願いします」
 息子は立ち上がると名刺入れからではなくポロシャツの胸ポケットから名刺を取り出し、立ち上がった原田と町田に片手で名刺を渡し「息子の孝です。これからよろしくお願いします」と言って、少し嫌味な笑みを浮かべ、
「ところで、無茶苦茶暑いでしょ、上着脱いでください、こっちも何か言葉悪いんですけど暑苦しくって・・」と続けた。
 原田は「そうですか、では失礼いたしまして」と言って渋々上着を剥ぎ取り、町田も右へ倣えした。
「で、原田さん、さっきうちの親父が言いましたけど伝説の営業マンて、どういったところが“伝説”なんですかね」
「たいしたことありませんよ、おそらく、今ではほとんどいなくなった“昭和”の営業マンという意味だと思いますよ」
「じゃあ、ハラスメントし放題で、町田さんなんかを怒鳴りつけたりするんですか?」
「い、いえ・・」と言った原田の横で、町田がウンウンと頷く。
「ははっ、やぱりそうなんだ、町田さん正直ですよね」
「いえいえ、そんなことは決して・・なっ」と言って原田は裾丈が長くて見えていない足で町田の足を踏みつけた。
「いてっ」と言った町田の声をかき消すように原田は「それでは先日お出ししましたお見積書の内容でご契約書を作らせていただきます」と少し大きめの声で言った。
「ええ、それでお願いいたします」と社長が優しい笑顔で答える。
「そうだ、原田さん、お手数なんですが、頂いた見積書をうちとテナントとで按分してもらいたいんです。それぞれの項目の率は見積書に書いときましたのでよろしくお願いします」と言って、息子の孝が原田に見積書を手渡した。
「承知いたしました。
 テナント様のほうの御見積書の宛名はどのように・・」
「空けておいてください。これからは一つの商売でやっていくのは大変ですから、家賃収入を目的でこのビルを建てたんです。ビル全体に掛かる管理費も一部負担してもらえますから。本業がもしぽしゃっても何とか食べていけるようにしとかないとね」
「按分で数字が割り切れない時はどのようにすれば・・」
「千円単位でうちの方は切り捨てで、テナントの方は切り上げにしておいてください」
「承知いたしました。では、契約書とその按分いたしました御見積書の用意が出来次第、またお持ちさせて頂きます」
「原田さん、悪いねぇ、お手間かけちゃって」と社長が申し訳なさそうに原田に言う。
「いえいえ、とんでもないです。できるだけ早く用意しましてお持ちいたします」

 極東商会を出ると原田は上着を羽織った。
「おい、今日からお前ここの担当しろっ」
「どうしてですか、僕には無理ですよ」
「俺にも無理だ」と言って原田は道端に唾を吐いた。
「汚ねーっ・・だけどなんでなんすか、さっきうちの会社ではすごく大切なお客様だって言ってたじゃないですか」
「あの息子に会うまではな・・あいつのために尽くそうとは思わない」
「どうしてなんですか?」
「すべてが気に食わん。
 バカ息子だとは噂には聞いていたんだ。若いときは結構のワルだったみたいで、大学など行ける学力なんかなかったんだけど、一人息子だからと言ってご両親が来週から来る世名ちゃんの出身大学と同様、名前さえ書きゃ入れる私立大学に行かせたんだよ。で、就職するときになって当時は就職氷河期。そこそこの大学を出ててもなかなか正社員になれない時代、奴がなれるわけないよな。それでまたご両親が奔走して、当時一番取引の多かったメーカーに頭を下げて、そのメーカーの得意先、さっき社長さんは小さな“商社”と言っていたけど従業員十人もいない“問屋”に無理矢理入れてもらったんだ。でも、そんな親の苦労も知ったか知らずか、社会人になっても遊び惚けていて確かまだチョンガーのはずだ」
「チョンガーってなんなんですか?」
「おまえ、チョンガーも知らないのかよ。独身ていう意味だよ」
「いやぁ、生まれて初めて聞きました」
「ということだから、ちょっと呑みに行こうか?」
「えーっ、今日は早く帰りたいんですけど」
「昨日も早く帰ったじゃないか。一時間だけ付き合え、なっ」
「絶対に一時間ですよ」
「おう。この近くに安くて旨い立ち呑み屋があるんだ、そこへ行こう」
「わかりました」
「わかりましたじゃないだろ、ありがとうございますだろ」
「出ましたアルハラ田課長っ」
「やかましいっ、ほんとうに殺すぞっ」

 時間が早いせいか店内に先客は一組しかいなかった。
「俺は瓶ビールにするけど、お前は何にする?」
「ハイボールいただきます」と町田が答える。
「ハイボールかよ、今みんなそうだよな。俺らくらいのおっさん連中でもハイボール、ハイボールだからな」
「ハイボール嫌いなんですか?」
「いや、マジなやつは好きだよ。バーとかでちゃんと作ってくれるやつな。こんな居酒屋で出てくるのなんか、何が入っているかわかんねぇだろ」
「まあ、それはそうですけどね。一杯五十円とかで飲める店もありますからね」
「おっ、一時間しかないんだから早く頼んじゃおうぜ。適当に注文していいか?」
「はい、お願いします」
 速攻で出てきた瓶ビールを手酌でコップに注ぐと原田はハイボールが入った町田のジョッキと重ねる。
「昨日は大好きな奥様と何食べに行ったんだ」
「鍋です」
「鍋? 普通、イタ飯とかステーキじゃないのか。まだ二人とも若いんだから」
「いえ、実は嫁さんがこれでして」と言って町田は手でお腹を大きくする動きをした。
「なんだ、おめでたか?」
「そうなんです。で、結構つわりがひどくてあまり脂っこいものが食べれなくて」と言って町田はハイボールを一口すする。
「そうか。だけど良かったじゃないか。おめでとう。今日はお祝いの吞みだな」
「ありがとうございます」と町田は軽く頭を垂れる。
「予定日はいつなんだ?」
「十一月の末です」
「もうすぐじゃないか。まあ、お前もこれで父親になるんだから責任感持って生きていかないとな」
「ま、まあ、そんな重くは考えていないですけど」
 原田は瓶ビールを空けるといつも通り熱燗のコップ酒を二杯くらい、町田はハイボールを一度お代わりしただけだった。
「おい、約束の一時間がもう終わるぞ。もったいないから残ってんの全部食べてしまえ」とテーブルに並ぶ小鉢を指さして原田が言った。
「課長もちゃんと食べてくださいよ。ずっとお酒ばっか吞んでるじゃないですか」
「わかったよ、じゃあ、このもろきゅうは俺が食べるからあとは全部食ってくれ。ここのもろきゅうはむちゃくちゃ美味いんだ」
 そのもろきゅうに原田が箸を伸ばそうとした時、町田が口を開いた。
「あっ、そうだ、課長、私、育休を取らせてもらいますので」
「はぁ、なんだ、いくきゅうって? もろきゅうなら今まさに目の前にあるけど」
「そのさむい昭和ギャグはやめてください」
「休んでなにすんだよ。子供に乳でもあげんのかよ」
「出たっ、マタニティハラ田課長」
「うるさいよっ、で、お前が休んでいる間、誰が代わりにお前の仕事をするんだ?」
「えっ、そ・・それは課長はじめ残ったかたで・・」
「確か六割くらい金はもらえるんだよな。何一つ働かなくても」
「その言い方やめてください。立派な権利なんですから」
「権利って言うのはなぁ、義務をちゃんと果たした人が行使できるものなんだよ。今の若いやつは何か言うと、これは僕たち私たちの権利ですからって鼻の穴拡げて言うけど、やることちゃんとやってから言えっての。人の手配とか残った人に苦労を掛けるんだから、今月はいついつ奥さんと行為を行いました、そして、結果、着床はありませんでした、それくらいの報告をしろっての」
「課長、何度も言いますけど、しまいに誰かに殺されますよ」
「うるさいよっ、で、部長にはもう言ってあるのか?」
「いえ、これからです・・休み明けに言おうと思って・・」
「バカかお前はっ、もっと早く言ってろっていうんだ。ただでさえ人手不足の世の中なんだぞ、もし、人の手配が間に合わなかったらどうすんだよ」
「それは・・と、とりあえず・・課長に・・」
「ばかやろうっ、俺だって体一つしかないんだぞっ、できるわけないだろっ」
「じゃあ、来週から研修に来る新入社員に、本当は十一月までですけど事情を説明頂いて後任の人が決まるまで残ってもらうとか・・」
「どこまでお前はバカなんだ。サーティファイブに何ができるって言うんだ」
「サーティファイブって何なんですか?サーーティワンと間違っているんじゃないですか」
「ばかやろうっ、それくらい俺だって知ってるよっ。偏差値だよ、偏 差 値」
「出たっ、昭和のおじさんみんな大好き“偏差値”っ」
「今はどうだか知らないけど、俺らの時よりもそんなに変わってないだろう」
「それ思いっきり偏差値ハラスメントですよ」
「だけどな、町田、偏差値ってのは結構優しいんだぞ。ゼロ点でも確か二十八だとか三十はあるんだ。その点、点数と言えば“0”は本当に“0”だからな。何もない、何一つない、だからな」
「すいません、何言ってんのかわかんないんですけど」
「まあ、ヒフティー、平均点のお前にはわかんなくて当然だよ」
「失礼ですね、いちおう、自分ではヒフティーファイブだとは思っているんですけど」
「五十も五十五もいっしょだよ。偏差値てのは六十台でないと話にならないんだよ」
「何度も言いますけど、課長、本当にいつか誰かに殺されますよ」
「はいはい、わかりました。そんなことよりもう約束の一時間は経ったぞ。早くうちに帰れよ、身重の奥さんが待っているんだろ」
「え、えぇ・・あっ、えーっといくらですかね?」
「ばかやろうっ、自分より若いやつをこっちから誘って金なんか取るかよっ」
「え、いいんですか?」
「当り前だ。俺はそんな女々しい男じゃないよ。今日は悪かったな、気を付けて帰ってくれ」
 店を出ると町田は思わず呟いた「ハラスメントが無ければほんとうは良い人なんだけどなぁ、パワハラ田課長さんって・・」

  ③
 歳をとるたびに年々眠れなくなり、目覚ましを掛けなくても五時になると勝手に目が覚める。朝飯は食べない派だから新聞に軽く目を通すと、何もやることが無いのでしょうがなく自宅を出る。すると、八時半始業のところ七時には会社に着いてしまう。
 メールのチェックを済ませるとコンビニでドリップコーヒーを買う。ついこの間まで一杯百円だったのが百五十円になっている。世間の物価の上がり方が尋常ではない。
 喫煙室に入るともちろん先客はいなかった。
 それにしても町田の育休は厄介な話だ。
 国が取得を推し進めていて社ももちろんダメだとは言わないだろう。
 例に漏れず当社も人手不足だ。すぐに町田の後任など見つかるはずがない。今日から来る新入社員に手伝ってもらうにしても、所詮、新入社員、期待はできない。となると、町田の仕事は俺が引き継いで、俺が今担当している物件のサポート、せいぜい子供のお使い程度にしかならないだろうが、新入社員にやってもらう。そして、後任が決まるまでなんとか凌いでいく。それしかないだろう。
 二本目のタバコに火をつけた時、町田が入ってきた。
「先週は有難うございました」
「どういたしまして。それにしてもやけに今日は早ぇじゃないか」
「朝一でお客さんとのアポが入っているので、あの例の件を先に部長に報告しておこうと思いまして」
「そうか。部長は来てたか?」
「はい」
「じゃあ、これ吸ったら行こうか」

 樋口部長は開口一番「いやぁ、それは良かったですね、おめでとうございます」と町田に言った。
「ありがとうございます。みなさんにはご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いいたします」と言って町田は頭を垂れた。
「迷惑なんかじゃないですよ、これからは当たり前の権利ですから。そんな気を使わずに奥様孝行してください」
「は、はい・」と言って頭を掻いた町田はちらっと横目で原田の顔を見たが特に表情に変化はなかった。
「ところで原田課長には一時負荷を掛けますけどよろしくお願いいたします。総務にはできるだけ早く後任を入れて頂けるよう私からもお願いしておきますので」
「大丈夫です。何とかなると思います」
「私も出来るだけフォローしますから何でも言ってください」
「ありがとうございます」と原田は軽く頭を垂れるとちらりと横目で町田を見た。顔には“勘違いするんじゃねぜぞ!”と書かれていた。
「で、原田課長、極東商会さんはどうでしたか?」
「あっ、そうですねぇ、もう町田に担当を任せようと思ったのですが、こいつがこんなことになっちゃったんで引き続き私が担当することにします」
「えっ、それはどういう意味ですか?」と樋口は目を丸くした。
 原田は事情を説明した。
「原田課長、お気持ちはわかりますけど、そこはなんとかお願いしますよ。前にも言いましたけど当社にとってはすごく大切なお客様ですから・・」
「それは重々承知しています。だけど、あんなドラ息子のために一肌脱ぐ気はしないですよ。どうせ儲けることしか考えてないと思いますから、ご時世に反してわけのわからない値下げ交渉とかしてくるんじゃないですか」
「まあ、そう言わずにお願いしますよ。あそこの面倒を見れるのは原田課長しかいませんから」
「わかりました。とりあえず、依頼された按分の見積書を作成して契約書と一緒にできるだけ早く持って行くようにします。今日から来る新入社員に見積もりを作ってもらおうと思っています。もう数字は決まっていてあとは按分するだけですから、それくらいなら新入社員といえども出来るでしょう。そして、一緒に行ってもらおうとも思っています。うちはこんなお客さんと付き合っているんだなぁと良くも悪くもわかってもらうのもいいかと思いまして。それに、若い女の子を連れて行ったら、あのドラ息子、鼻の下を伸ばして何か注文でもくれるかもしれませんから」
「課長、今のセクハラですよ」と町田が茶々を入れる。
「やかましいよっ、お前は子供に乳の与え方でも勉強してろっ」
「はいっ、それはマタハラでもありパワハラでもありますマタパワハラ田課長」
「うるせぇっ、ほんとうに殺すぞっ」
「まあまあ、お二人とも、穏やかにお願いしますよ。あと、町田君、新入社員が来るので、今夜軽く歓迎会でもやろうと思っています。ただし、本人の御都合を聞いてからお店の手配をお願いしていいですか。無理やりに誘うと色々問題があるので」
「面倒くさい世の中になりましたよね、歓迎してあげるこっちがどうして気を使わないといけないんですかね。気色悪い世の中ですわ」
「まあ、時代ですから、しょうがないですよ。私も違和感はすごく感じているんですけど・・・それではお二人ともよろしくお願いいたします」
 席を立つと、原田と町田は喫煙室に向かった。
「おい、新入社員様のご都合がよろしゅうございましたら、店はタバコを吸える店にしろよ」
「無理ですよ。この間の法改正でチェーン店のようにそこそこの広さのある店は全部禁煙になっちゃいましたから。それに、女の子だからタバコの吸える店は嫌がるでしょ」
「そこまで気使う必要ねぇだろう。そこら辺の場末の汚い店でいいよ。俺たちの会社のレベルを知ってもらううえでもいいと思うぞ」
「そんなとこに連れて行ったら部長に怒られますよ。店は僕に任せてください」
「しょうがねぇなぁ」と言って原田が鼻から煙を吐き出したとき、喫煙室に一人の若い女性が入ってきて、周りをちらっと見ると電子タバコを口にくわえた。
「本当、時代が変わったよなぁ、町田よぅ。こんなおっさんしかいないところに堂々と若い女の子が入ってきて鼻から煙を吐き出すんだからなぁ。女の可愛らしさってどこにいったんだろうなぁ・・」
「そういう時代なんですよ」
「俺は女に強さや逞しさなんか求めない。いつまでも週末には縁側で冷えたアイスミルクティーを飲みながらおほほと笑っていて欲しいんだ」
「それもどうかと思いますけど、まあ、生まれ育った時代が違いますから・・あっ、課長、私これ吸って戻ったらすぐに出ますので、新入社員のことお願いします。まだ今日は総務預かりで一日中オリエンテーションをするみたいですから、始業後に総務が紹介に連れてきた時だけお願いします」
「ああ、わかったよ」
 二人が席に戻り、町田が出て行き、始業のベルが鳴り暫くすると総務の人間が新入社員を連れて原田たちの島にやって来た。
「今日から四か月間、こちらでお世話になります今宮さんです」
 原田は顔を上げると思わず「げっ」と言葉を発してしまった。
 目の前にいる女の子、いや、女は、さっき喫煙室で周りのおっさん連中に気おくれもせず電子タバコを吸っていた、いや、ふかしていた、女だった。

      ④
「サーティファイブだしタバコは吸うし最悪だなぁ。なんか俺冷たくあたっちゃうかも知れないぞ」
「そんなこと言わないでくださいよ。意外と会って話してみるといい子かも知れませんよ。
 それに来るときに総務の人に聞いたんですけど一年の留学経験があって英語はペラペラらしいですよ」
「バカかお前はっ。サーティファイブでもな一年も留学すれば英語くらいは喋れるようになるんだよ。スポーツ選手見てみろよ、あんな生まれてから運動しかしてないやつらでも向こうでプレイしていたら片言のあっちの言葉を喋れているだろう」
「課長、何度も言いますけど、しまいに本当に殺されますよ」
「前の会社にもいたんだよ、私、英語喋れますからって鼻を天狗にして入社してきて、ある日簡単な見積もりの積算をお願いしたら“率”がわからないでやんの。読み書きそろばんがちゃんと出来てからだろう、よその国の言葉を習うのは。順番が逆なんだよ」
「はいはい、わかりましたよ」
「はいは一回だ」
「そんなことより、あの子へのあたり方だけは気を付けてくださいよ。お酒が呑めないのに『一杯目くらいはちょっとビール吞めよ』とか言っちゃだめですよ。プライベートの話も絶対に聞いちゃダメ。『彼氏いるの?』とかレッドカード、一発退場ですから」
「それくらいのことはわかってるよ。ヒフティーと一緒にしないでくれ」
「ヒフティーファイブです」
「変わんねぇよ、そんなもん」
 遠くから部長の樋口と新入社員の今宮がやってくるのが見えたので二人は喫煙ブースから出た。
「お疲れ様です」と原田が二人に声を掛けると今宮は少し笑ってお辞儀をした。
 店はイタ飯屋と居酒屋を足して二で割ったような店で席に案内されるとすぐに別の店員が飲み物のオーダーを取りに来た。
「今宮さんはお酒は行けるんですか」と部長の樋口が今宮に聞いた。
「少しだけ呑めるんですけどビールが苦手でして・・」
「そうなんですか。じゃ何にしますか?」
「レモンサワーを頂きます」
「わかりました。あとのお二人は生ビールでいいですね」
 原田と町田は「はい」と声を合わせた。
 飲み物が出てくると乾杯となり、コースの料理が次々と運ばれてきた。
「今宮さんは今はご両親と一緒に住んでるの?」とすでに生ビールを空け、注文した冷酒を待っている原田が今宮に聞いた。
「いえ。会社の寮に入っています」
「寮? じゃあ、どこかからって言い方が悪いけど東京に出てきたんだ」
「はい。福岡なんです」
「そうなんだ。今の女の子はすごいねぇ、一人単身で東京に出てきて寮に入って頑張って働いていこうとしているんだから」
「兄が一人いるんですけど、兄もやはり二年前にこっちへ出てきまして、たまにいっしょにご飯を食べに行ったりしているんです」
「そうなんだ。だけど福岡だって大都市じゃないか。働くところなんかいくらでもあるだろう?」
「そうなんですけど、先にこっちに来た兄からやっぱり東京は良いぞって何度も聞かされて、そのうち私もやっぱり・・となりまして」
「やっぱり、若い人達は“花の東京”に憧れるのかなぁ」
「なんなんすか、その“花の東京”っていうのは?」と町田が原田に聞く。
「お前そんなことも知らないのか?」
「そんな言葉聞いたことないですよ」
「東京は日本の首都だろ。それくらいはヒフティーのお前でもわかるだろ?」
「ヒフティーファイブです」
「そんなことどうでもいいんだよ。で、地方の人間は憧れの思いを込めて“花の東京”って言ったんだよ。ねぇ、部長、何とか言ってくださいよ」
「時代が変わりましたからね、しょうがないですよ」
「何か悲しいからちょっとタバコ吸ってくるよ」
「あのぅ、原田課長、一つだけお聞きしてもいいですか」と今宮が席を立ちかけた原田に言った。
「なに?好きな女性のタイプ?もちろん妻です」
「いえ、そうじゃなくって、先ほど町田さんに言われていたヒフティーですとかヒフティーファイブというのは何のことなんですか?」
「あっ、あれはねっ」と町田が割り込む。「課長が昔若い頃に好きだったマンガの主人公にヒフティーファイブというのがいて、それに俺がすごく似ているからって、だけど、いつも間違えてヒフティーと言うんですよ」
「そうなんですか。なんて言うマンガなんですか」
「え、えーっと、なんだったけな、ど忘れしちゃった、思い出したらまた言うよ」
「今宮さん、そういうことです」と言って原田は苦笑いを浮かべて席を離れた。
 そして喫煙ブースでタバコをふかしていると町田がやって来た。
「もうつまらないこと言わないでくださいよ」
「何を言ってもハラスメントって言われるんだから、あれくらいしか言うことないだろ」
「女性のタイプは奥さんって、あれ一歩間違えればセクハラですよ」
「そんなこと、どうでもいいんだよ。それにしてもサーティファイブ、意外とちゃんとしてるじゃないか」
「でしょ。出ている大学で人を判断するのは良くないですよ。愚の骨頂です」
「えらく難しい言葉知ってるじゃないか、ヒフティーにしては」
「前に課長に教えてもらったんです」
「そうだったっけ。やっぱりシックスティファイブは違うだろ」
「シックスティでしょ。国立と言ったって地方大学じゃないですか」
「てめぇ、殺すぞっ」
「事実を言ったまでです」
「私立は黙ってろ。先に戻ってるからな」
「課長、余計なこと言っちゃだめですよ」
「うるせいよっ」と言って原田が席に戻ると部長の樋口と今宮が何やら話していた。それも英語で・・。
「原田課長、今宮さん、すごく英語がお上手なんです。一年間、留学されていたそうです」
「そうなんですか。イギリスかアメリカ?」
「ハワイです」と原田の問いに今宮が答えた。
「ハワイ? あんなとこって言ったら怒られますけど観光地でしょ。そこで留学されてたんですか?」
「はい。物価がすごく高くてたいへんでしたけど、日本の観光客のかたのガイドとかアルバイトが結構あったのでまだなんとか・・」
「へぇー、そうなんですか、ハワイにね・・。
 だけど、うちの会社だと英語を使うケースはまぁないからね。お客さんは小さな会社の親父さんがほとんどだから」
「これからはわからないですよ」と樋口が言う。
「そうですかね・・」と言って、原田は手酌で冷酒をグラスに注ぐ。
「極東商会さんのように代が変わっていけば商売の形態も変わってくるかもしれませんよ」
「そうなると俺はもうお役目ごめんだよな。やっぱり、極東商会は、町田、お前、子育てから帰ってきたら面倒見ろ」
「また、そんな訳の分からないこと言う」
「まあまあ、お二人とも穏やかにいきましょう。それより、早くピザを食べてしまいましょう。覚めてしまったら折角美味しいのが台無しになりますから」
「あっ、私切ります」と今宮がピザカッターを手にすると、木製のプレートに乗ったピザの上を滑らせた。
「今宮さん、ぎっちょなんだね?」
 今宮と町田の目が点になった。
「“花の東京”に続いてなんなんすか、ぎっちょって?」と町田が原田に聞く。
「知らねえのか? 左利きのことだよ。わたし ピンクの サウスポー ♬だよ」
「私その歌は聞いたことがあります」と今宮が言う。
「今宮さんまでどうかしちゃったんじゃないの?」
「町田君。ぎっちょというのは今は差別用語になっているんです。昔はよく使ったんですけどね」と樋口が言う。
「そうなんですか」と言って、今宮に切ってもらったピザを町田は口にする。
「昔はきらったんだよ。左利きと言うと。だから、親が無理やり強制して直したんだよ。今は個性的だからとか言って、単に躾ができていないことを言い換えてるだけだけどな」
「原田課長、言葉を慎んでくださいね」
「は、はい・・で、プロ野球選手でよくいるだろう、右投げ左打ちってのが。あれがそうなんだよ。もともとは左利きなんだけど、無理矢理右利きに直されて投げるのは右投げなんだけど、打つ方は左の方が有利だからってそのままにしてあるんだよ」
「へぇーっ、そうなんですか、知らなかったです」と言って町田が二切れ目のピザを口に運んだ時、今宮が立ち上がった。
「すいません、タバコ吸いに行ってきます」   
 席を離れた今宮の後ろ姿を見ながら樋口は「今時の子ですよね」と言ってタバスコの瓶を二度三度と振るとピザにやさしくふりかけた。

       ⑤
 誰もいない喫煙室で紫煙をくゆらせていると町田が入ってきた。
「えらく早いじゃないか?」
「今日から研修ですから。いちおう指導者なんでそれなりに態度で示しておこうと思いまして」
「いい心構えだ」
「だけど、課長、昨日の“ぎっちょ”でしたっけ、あれはまずいですよ。ハラスメントと言われてもおかしくないですよ。個人の体の特徴をディスってるんですから」
「本人、気にしてなかったじゃないか。ピンクレディーの歌の方に興味を持ってただろう」
「いや、わかんないですよ。実はグサッと心に刺さったんですけど、あえて、気にしないふりをしてたとか」
「サーティファイブにそんな高等な振る舞いはできないよ」
「ほんと、殺られますよ。もう言わないですけど」
「そんなことより、ちゃんと社会人のマナーを教えとけよ。電話の取り方や、名刺交換の仕方だとか」
「そんなの入社したときに本社研修でやってるでしょ」
「本社研修なんか甘いっての。新入社員にこびて、本当のところなんか教えてないんだよ。
 通勤のリュックは勝手だけどお客さんのところに行くときには絶対にNGだからな。よく言っとけ」
「そんなの言えないですよ。街歩いていたらわかるでしょ、若い子なんかほとんどリュックですよ」
「それは世間一般のことだ。この会社の、いや、俺の営業哲学だ。わかったな」
「無理です。僕までハラスメントだって言われちゃいますよ」
「じゃあ、俺が直接言うよ」
「それはダメです。間違いなくハラスメント、パワハラ田課長健在になってしまいます」
「バカ野郎っ、俺は原田だって言ってるだろう」
「遠回しに言っておきます。普通の手提げのカバンの方がいいと思うけど・・と言った感じで・・」
「午前中出かけて昼から戻ってきたら例の極東商会さんの見積もりを作ってもらうから、それも言っておいてくれ。それで、明日か明後日には極東商会さんに一緒に行ってもらうこともな」
「わかりました」

 原田が外出から戻り、ノートブックのパソコンをカバンを取り出したとき「お疲れ様です」と言って今宮がデスクにやってきた。
「原田課長、御見積書作成の件、よろしくお願いいたします」と言って首を垂れる。
「ああ、こちらこそよろしくお願いします。   
 申し訳ないけど、タバコ一本だけ吸わせてもらえます。戻ったらやりましょ」
 喫煙室に原田が入ると町田が追っかけるようにしてやってきた。
「どうですか、僕の指導は? 同じ部署の人が外出するときは『いってらっしゃい』帰ってきたら『お疲れ様です』、仕事は言われてから動くんじゃなくて先に自分から動く」
「いやぁ、すばらしいよ、ヒフティーツウに格上げだ」
「だから僕はヒフティーファイブですって」
「リュックのことは言ってくれたのか?」
「はい」
「そしたら?」
「わかりました、と」
「そうか、悪かったな、嫌なこと言わせて・・」
「課長、今なんて言いました?」
「えっ? いや、悪かったなって」
「どうしたんですか? 私、課長にそんな優しい言葉をかけてもらったの初めてですよ。
 なんかパワハラ田課長らしくないっすよ」
「やかましいよっ、俺は原田だっ」

 原田が喫煙室から席に戻ると、今宮が計算機を手にしてやってきた。
「見積書作成の件、よろしくお願いします」
「こちらこそ。そんなに難しいことじゃないから。あっちに行こうか」
 打ち合わせブースに入るとディスプレイに、ドラ息子から受け取った見積書のPDFを写す。
「極東商会さんというお客さんで一度見積書は提出していて金額についてはご了承を頂いています。ただし、テナントビルなので費用をオーナーさんとテナントさんで按分して欲しいと言われたので、この見積書を決められた按分に従ってオーナーさんとテナントさんの御見積書を作るのが今回の目的です」
「は、はい」
「ちなみに按分てわかるよね?」
「い、いえ、聞いたことが無いです」
「聞いたことない? そうなんだ、今はあまり使わなくなったのかなぁ・・まぁそんなに難しいことじゃないんで、説明すると、決められた率に応じて金額を振り分けることなんだ。例えば、わかりやすく言うと・・えーっと、この昇降機保守費五十万円ていうのがあって、その横にオーナー:テナント 6:4と手書きで書いてあるよね、この6:4と言うのが按分の比率でオーナーさんが6だから6と4を足して10、その10のうちの6だから10分の6になるんだ。だから、50万に6を掛けて300万、それを10で割ると30万、この30万円がオーナーさんの負担分になるんだ。で、50万から30万を引いた残りの20万がテナントさんの負担分になる。わかる?」
「は、はい・・」
「先にオーナーさんの負担分を計算して、残った額をテナントさんの負担分とすればいいから。大丈夫?」
「は、はい。とにかく一度やってみます」
「で、オーナーさんの金額を出すときにきちんと割り切れない時があると思うんだけど、その時は三桁、百の位の数字だね、それを切り捨ててください」
「は、はい・・」
「やってみてわからないことがあったら言ってください。きちんと説明しますので」
「ありがとうございます」
「私が作った元の見積書のエクセルデータを送っておきますので、それを見ながら一度やってみてください」
 
 原田が喫煙室に入り、暫くすると町田がやって来た。
「大丈夫かよ、おいっ、おそらく、彼女、ぜんぜんわかってねえぞっ」
「そんなこと僕に言わないでくださいよ」
「お前が指導者だろっ」
「まだ指導者になって半日しかたっていません」
「按分も知らないのかよ、今のヤングは?」
「ヤングって・・昭和のおっさんですねぇ」
「うるせぇっ、しまいにしばくぞっ」
「はい、ハラスメントです。パワハラ田課長」
「うるせぇよっ・・で、お前もこの会社入るまでは按分って言葉知らなかったのか?」
「いえ、私はこう見えても経済学部出身ですので学生の時に少しだけかじってましたので・・」
「按分て何か難しく聞こえるけど、ただの分数の計算だからな。頭のいい小学生なら簡単にできるはずだよ。あっ、そうだ、切り捨てって簡単に言ったけど、あの子、わかってんのかなぁ」
「それは課長、さすがに失礼ですよ。それは普通の小学生でもできるレベルのものですから」
「いや、お前、わかっていないんだよ。サーティファイブの恐ろしさを。やつらの“そこはかとないアホさ”を。俺は何度も経験してきたんだから」
「じゃあ、もし彼女が切り捨てをできないんなら立ち呑み一回おごりますよ」
「言ったなお前、よーしわかったよ、見てろよ」

 二時間後、原田は今宮から受け取った見積書をみてサーティファイブの恐ろしさと、町田との賭けに勝った喜びで肩を震わせていた。
「ありがとう。少し修正するところがあるから後は私がやっておきます」
「あ、ありがとうございます、よろしくお願いします」
“少し”ではなかった。
 すべてが間違っていた。
 今宮が席を立つと原田は町田を呼んだ。
「うわっ」
 町田が思わず声を上げた。
「だろっ。これでお前もサーティファイブの恐ろしさがわかっただろ。約束通り今夜はご馳走になるからな。これから見積書を作り直さないといけないから、定時のチャイムが鳴っても帰らずに待ってろよ」
 町田は何も言わず席に戻っていった。
 しかし、これはひどすぎる、と原田は今宮から受け取った見積書を見て改めて思った。
 オーナーの按分比率のほうが高いのになぜかテナントより金額が低いのがたくさんある。中にはなぜかオーナーの金額が0円というのもあった。
 また、三桁以下の切り捨てについてはやはり理解できていなかったようだった。
 一の位まで数字が入った項目がいくつもあった。
 ひょっとしたら昭和の“按分”は令和の時代では“按分”と呼ばれていないのかもしれない。スチュワーデスがいつの間にかキャビンアテンダントと呼ばれるようになり、ホットケーキがパンケーキと呼ばれるようになったかのように・・・。
 原田が見積書を作り終えると時間は終業時間間近の五時を回っていた。
 四時までに経理に見積書を回さないと翌日の朝一に社印を押印して返してもらえなかった。
 本当は今日の四時までに経理に回し、明日の午後からでも極東商会へ見積書を提出に行きたかったのだが叶わなかった。
 終業のチャイムが鳴る。
「お先に失礼します」と言って退社していった今宮の後ろ姿を見届けると、原田はスマホに指を滑らせた。
「あっ、原田さんっ、お世話になります」
 出たのはドラ息子だった。
「遅い時間に申し訳ございません。
 先日ご依頼いただきました見積書を按分しましたものが用意出来ましたので、ご契約書と一緒にお持ちさせて頂きたいのですが、明後日の午後などご都合如何でしょうか」
「明後日の午後ですか? 少しお待ちくださいね・・あっ、午後はちょっと予定が入ってるんで午前じゃまずいですか?」
「いえ、結構でございます。それでは十時ごろお邪魔してもよろしいですか?」
「ええ、無理言って申し訳ないですがよろしくお願いいたします」
「いえいえ、こちらこそ提出が遅くなりまして。それと、社長、実は今月から新入社員が私どもの部署に研修で来ておりまして、そのものも連れてまいりますのでお名刺交換だけお願いしたいと思いまして」
「ああ、全然かまわないですよ」
「ありがとうございます。それでは明後日の十時と言うことでよろしくお願いいたします」
「こちらこそお願いします。あっ、それと原田さん、私まだ社長じゃありませんから、専務なんで、社長は年が明けてからですので」
「あっ、これは失礼いたしました」
 原田は電話を切ると喫煙室へ向かった。
 町田がスマホを見ながら電子タバコを吸っていたのでそーっと横に立つ。
「スマホばかり見てんじゃねぇよっ」
「わっ、いつの間に入ってきたんですか」
「タバコを吸うときはタバコに集中しろ。タバコと会話をしろ。でなきゃタバコに失礼だろっ」
「ちょっと何言ってんのかわかんないんですけど」
「うるせぇよ。極東商会に電話したらあのドラ息子が出やがって。どうもあいつはいけ好かねぇよ。やっぱり子育て終わって戻ってきたらお前が担当しろ。俺にはあいつの面倒を見るのは無理だ」
「部長がダメだって言ってたじゃないですか。
 あそこは課長じゃやないとダメだって」
「もう一度俺から部長には話すよ」
「そんなぁ、もう無茶苦茶だよなぁ」
「これ吸ったら行くぞ。今日は何おごってくれるんだ?」
「給料前ですから安いとこでお願いしますよ」
「サーティファイブを信じたお前が悪いんだから。たまには座って吞みたいよなぁ・・」

「ここ高いんじゃないですか・・勘弁してくださいよ」
 店に入るなり町田は泣きそうな声で言った。
「ほらっ、呑み物何すんだよ? どうせまたハイボールだろ」と言って原田はメニューを町田に渡した。
「えーっと・・ええ!? むちゃくちゃ安いじゃないですか。日本酒二合で四百六十円て立ち呑みより安いですよ。それにフードもほとんどが二百円台か三百円台ですし」
「量も立ち呑みみたいに小鉢レベルじゃないからな。いつも店長にはもっと値上げしろって言っているんだけどしないんだよ」
「すごいですよね・・よく来るんですか?」
「たまにな。こんないい店があるのがばれるのが嫌だからいつも一人でしか来ないんだよ。お前、絶対に人に言うなよ」
「え、ええ・・でやっぱりハイボールにします」
 原田は店員を呼ぶと生ビールとハイボール、そして肴を数品頼んだ。
「だけど町田よぅ、サーティファイブは本当に大丈夫かよ。計算なんか任せられないぜ。    
 研修が終わって本配属でうちになんか来られたらたまったもんじゃないぜ」
「今、算数が出来ない大学生がたくさんいるって言いますからね。大学で算数や国語を学生に教えているところが結構あるみたいですから」
「英語はペラペラだけど小学生レベルの分数の計算は出来ません。日本の教育はいったいどうなっちまってんだ」
 呑み物が来たので二人は乾杯する。
「極東商会さんも本当は明日にはいきたかったのに・・営業はスビートだからな・・あっそうだ、ドラ息子と会うのは明後日の午前だから明日中に手土産を買っときゃなきゃダメなんでサーティファイブに頼んでおいてくれ」
「彼女、明日は年休です」
「はぁ?」
「有給休暇です」
「わかってるよ、そんなこと。
 なんでこのタイミングなんだって聞いているんだよ」
「そんなこと僕に言わないでくださいよ。
 今は新入社員でもちゃんと年休があるんですよ。会社も積極的に消化するように奨励していますから」
「そんなことはどうでもいいんだよ。あくまでも研修生の身だろうが、そういうことをわきまえてんのかって俺は言いたいんだよ」
「わかりました。手土産は僕が明日買いに行ってきますから」
「お前があんな奴のことかばう必要なんかないんだよ。前にも言っただろっ、権利ってのはな、ちゃんと義務を果たした人間だけが主張できるものなんだよっ。分数も出来ないのに何が年休だっ」
「もういいですって・・僕も確かに違和感はすごくありますよ・・だけど今はそういう時代なんですから」
「じゃあ、明後日の始業のチャイムが鳴ったらすぐに社を出るから、その心づもりでいろよってメールだけ打っといてくれっ」
「ですから、それもダメなんです。
 休みの日には一切仕事にはかかわらない。   
 だから今の若い子は休日前には会社携帯をほとんどが会社に置いて帰るらしいですから」
「アホかっ!! お客さんに緊急事態が発生したらどうするんだよっ!!」
「ですから、何度も言いますけど・・」
「時代・・ってことか?」
 このセリフを吐いた後、原田は町田とは一言も交わさず、ただただ酒を呑んだ。
 そして「そろそろ行こうか」と言って立ち上がると伝票が挟まった黒いプラスチックのホルダーを手にした。
「課長っ、今日は僕が・・」
「ばかやろうっ、自分より若いやつに払わせるわけにはいかねぇだろうっ」
 町田はまた思った。
 ハラスメント癖がなかったら本当にいい人なんだよな、原田さんてのは、と思いながら「すいません、ご馳走様です」と言って身重の妻に“これから帰ります”とラインを送った。


 ⑥
 出社してから今日二度目の喫煙室でタバコをふかしていると町田が入ってきた。
「相変わらず今日も早いですね」と町田が原田に言う。
「ますます眠れないんだよ。仕事のストレスかな?」
「単なる加齢でしょ」
「お前、朝から殺すぞっと言いたいところだけど、手土産悪かったな」
「いえいえ、それくらいはさせて頂きますよ」
「で、サーティファイブはもう来てたか?」
「いえ、まだです」
「まだ? 昨日年休で休んでんだろう。それなら少しは早く来るのが常識ってもんだろうが」
「だから時代が違うんですよ。それに自分の担当を持っているわけでもないし」
「それが甘いって言うんだよ。自分の立場わかってんのかよ。会社に対してはまだ何も貢献してないんだからな」
「まあまあ、そんなに朝早くから熱くならないでくださいよ」
「ちゃんと手提げのカバン持ってくるんだろうなぁ、リュックだったら連れて行かないからな」

 二人が席に戻り、始業時間五分前に今宮がやってきた。
「おはようございます」と言うと彼女は席にもつかずその場から離れた。
「昨日はすいませんでした、だよな、普通は」と原田が町田に言う。
「何度も言いますが時代なんで」
「そのセリフはもう聞き飽きたよ」と原田が諦めた口調で言うとラジオ体操の音楽が鳴り始めた。
「戻ってきたら九時には出るからって言っておけよ」
「わかりました」
 しかし、ラジオ体操が終わって原田が席を立っても今宮は戻ってこなかった。
「おい、どうなってんだよっ」と原田が“小さな怒鳴り声”を上げた時、今宮がスマホを手にして戻ってきた。
「もう出るからな」と原田が言うと今宮は耳からワイヤレスイヤホンを外し、へ?という表情を返した。
「時間が無いんだ、昨日町田が買ってきてくれた手土産、忘れずに持っていくんだぞっ」
 
 極東商会の最寄りの駅まで二人の間には一切の会話もなかった。
「専務には名刺交換のお願いをしてあるから」とだけ言うと原田は受付の電話で名を告げた。
 応接室に通され暫くするとドラ息子がやって来た。
「原田さんっ、女性なら事前に言ってくださいよっ、こんな無精ひげで出てこなかったのに」
「あれっ、私言わなかったでしたっけ?」
「聞いてないですよ」
「それは失礼いたしました。この八月から研修に来ております今宮でございます」
「今宮です。どうぞよろしくお願いいたします」と言って今宮はドラ息子に名刺を差し出した。
「おっ、カッコイイ名前だね。これなんて読むの?よな?せな?」
「せな、です」と今宮が答える。
「せなちゃんか・・キャバ嬢みたいだね」
 今宮は一瞬ポカンとした表情をした。
「今宮ですけど、英語が得意なんですよ、一年間留学していましたので」とフォローする。
「へぇー、そうなんだ、すごいよね。で、大学はどこ出てるの?」
 今宮は出身大学の名を言った。
「そこって、俺が出た大学と同じで、お世辞にも頭のいい子が行くとこじゃないよね。だけど英語が得意。すごいじゃん」
 部屋の隅に置かれていた、小学生の頃はどこの家にもあった、久しぶりに見た地球儀でドラ息子の頭を殴ってやろうかと原田は思った。
「で、どこに留学していたの?アメリカ?」
「ハワイです」と今宮が答える。
「ハワイってあのハワイでしょ。芸能人が年末になると大挙して押し寄せる。あんなとこに留学するんだ」
「はい」
「たしか・・」と言うとドラ息子は立ち上がって、自分が殴られたかもしれない地球儀を手にした。
「ハワイってここだったよね」といって地球儀のある箇所を指で刺した。
 そこはメキシコだよ。
「いえ、そこではないです。ここです」と言って今宮は地球儀を少し回し、ある箇所を指さした。
 台湾だろっ、と心の中で叫ぶ。
「へぇー、だけどすごいよね。一度、世名ちゃんの英語を聞いてみたいなぁ・・原田さん、この週末にでも呑みに行きませんか?費用はうちが持ちますんで・できれば世名ちゃんと二人で行きたいけど、さすがに今のご時世まずいんで三人で行きましょうか」
「そうですね、是非お願いします」
「じゃあお店は世名ちゃんが決めてくれる?
 俺食べ物の好き嫌いはほとんどないんだけど、タバコが苦手なんで禁煙のお店を取ってくれます。
 原田さんはタバコ吸うでしょ?」
「ええ、未だに紙タバコです」
「そんな感じですよね・・世名ちゃんはまさか吸わないよね?」
「は・・はい・・」
「俺、女のタバコって大嫌いなんだ・・なんか格好つけて吸ってるっていうか、タバコの似合う女なんかスーパーモデル以外いないからね」
「そうですよね、ただ、今はもう男女平等の世の中ですから、女性が鼻から煙を吐いても何も言われる時代じゃないですから」
「あれ、原田さん、無茶苦茶理解あるじゃないですか、昭和のおっさんなのに」
 地球儀では足りない、地行儀が乗っているサイドテーブルで頭をぶん殴ってやろうかと原田は思った。
「あっ、これから、親父が会長をやっているつまらない会合に行かないといけないんで」
「あっ、すいません。それでは、こちら、頼まれていました御見積書とご契約書です。あと、つまらないものですが」と原田が言うと今宮が手土産をドラ息子に差し出した。
「そんなぁ、気を使わないでくださいよ、原田さん、こんなのくれるのならその分管理費を安くしてくださいよ」
 履いている革靴を脱いで殴り倒してやろうと思ったが「それでは引き続きお願いいたします」と頭を垂れ極東商会を後にした。
「ああいう人なんだ。親父さんは本当にいい人なんだけど、あいつはどうにもならないやつなんだ。週末の飲みの話は、もし今宮さんが行きたい店があるなら予約取っておいてくれる。任せるんで」
 原田が言うと今宮は「はい」と力が抜けたような声を発した。
    
      ⑦
 メールの整理をして喫煙室に行くと、いつも通り先客はいなかった。
 そして、二本目のタバコが終わろうとした頃、町田が入ってきた。
「早いじゃないか?」と原田が聞く。
「ちょっと軽いクレームがあって朝一にお詫びにあがろうと思って。お客さんはわざわざ来てくれなくてもいいと言ってくれているんですけど、いちおうけじめのつもりで」
「そうか、ご苦労様」
「課長、なんか最近やけにやさしくないっすか? 何かあったんですか?」
「うるせぇよ。そんなことより、今宮さん、なにか変わりはないか?」
「いえ、特に変わりはないですよ。ていうか、今日はどうしてサーティファイブではなく今宮さんなんですか?」
「今日はそういう気分なんだよ」
「なんなんすか、それは・・」
「いや、昨日、極東商会に行った時にな、あのドラ息子、いやバカ息子が結構嫌なこと言いやがって。あいつバカだから言葉をオブラートで包むってことを知らないから・・」
「いや、課長だっていつもほぼNOオブラートですよ」
「バカっ、お前の前だけだよ、本人の前ではオブラートどころかコンドームを二枚も三枚も重ねているよ」
「よっ、出ました、セクハラ田課長」
「うるせぇよっ、本当にマジで殺すぞっ」
「いえ、その前に課長が誰かに殺されますよ」
「人間はいつか死ぬんだからそんなことはどうでもいいんだ」と言って原田は喫煙室を出た。
 そして、席に戻り、始業の十分前になった頃、今宮が出勤してきた。
「おはようございます」と言って今宮が席に着こうとした時、町田が声を上げた。
「今宮さん、ラジオ体操が終わったらすぐに出るんでよろしくお願いします」
「わかりました」と言った今宮は席に腰を下ろしパソコンを立ち上げ暫くすると、原田の前に進み出た。
「課長、明日のお店の件なんですけど・・」
「あぁ、どこかいいところあった?」
「色々探したんですけど、兄と一度行ったことのある、お寿司屋さんと居酒屋が一緒になったような店で、少し若い人向けのお店なんですけどお寿司もすごく美味しくてリーズナブルな店があるんですけど・・」
「そこでいいよ。専務はかえってそういう店が好きだと思うんだ。どう見ても、料亭なんか似合う人じゃないだろ」
「そ、そうですよね」と言って今宮は少し微笑んだ。
 笑っている顔を初めて見たなと思った原田は「それで専務にメールを送っておいてくれる。この店でいいですかって」と言った。
「はい、わかりました。開始時間は六時でいいですか?」
「そうだね、それでいいと思うよ。俺もお昼前から出て今日は戻ってこないからメールでCcに入れておいてくれる。メールを送った後、少ししてから専務に電話を入れてもらってOKかどうかの確認をしてください。
 不在でしたら用件だけを出られた方に伝えて、メールの返信を待ってください」
「わかりました」

 午後から三件の得意先を周り、定時を少し回った頃に原田はいつもの立呑屋に体を滑り込ませた。
 メールを見ると、今宮はちゃんと極東商会の専務に明日の飲み会の件を送っていた。しかし、専務からの返信はなかった。
 瓶ビールをコップに傾けながら町田にショートメールを打つ。
“直帰します。今宮さんはまだいる?”
 ポテサラをつまんでいると町田から返信が来た。
“チャイムが鳴ると同時に飛んで帰っていきました”
“ショートメール打っていいと思うか?”
“吞みの誘いじゃなかったら問題ないと思いますが(笑)”
“しまいに殺すぞっ💀”と町田に送信しコップのビールを呷る。
 すると、Yシャツの胸ポケットにしまったばかりのスマホが電話の着信音を発して震える。
 ディスプレイに数字が並ぶ。登録していない人からだった。
「はい、原田です」
「あっ、原田さん、孝です、極東商会の」
「あっ、専務、お世話になります」
「いや、今、メールをもらっていた件で会社に電話を掛けたんですけど世名ちゃんもう帰っていなかったんで」
「それは申し訳ございません」
「いや、メールでも良かったんだけど、世名ちゃんの声が聞きたかったんで・・」
「はぁ・・そうですか・・」
「明日の時間なんですけど夕方に別のお客さんが来るんで七時にしてくれませんか?」
「承知いたしました。わざわざご連絡を頂戴しましてありがとうございます。それでは明日よろしくお願いいたします」
「楽しみにしているんで、じゃあ、よろしく」       
 電話が切れると待っていたかのようにショートメールが飛んできた。町田からだった。
“バカ息子から電話があって今宮さんあてだったようです”
“今話しました、バカ息子と、ありがとう”
 もう一度スマホをYシャツの胸ポケットにしまうとコップのビールを一気に喉に流し込み熱燗とみりん干しを注文する。
 煙草に火を点け紫煙をくゆらし、瓶に残っていたビールを全てコップに移す。
 ポテサラにウスターソースをかけ、白を黒に変える。
 熱燗のコップ酒が来たので空になった瓶を返す。
 そして、二度タバコをふかすとスマホを手に取る。
 電話にしようかと思ったがショートメールにする。
“勤務時間外にすいません。今、専務から電話があって明日の開始時間を七時にしてくださいとのこと。店の予約よろしくお願いします”
 なんでこんなに気を使わないといけないんだと原田はコップ酒を呷る。
 しかし、コップ酒が空になり、チェイサー役のビールも無くなり、ポテサラを食べきっても今宮からの返信はなかった。
 しかたないのでもう一杯熱燗のコップ酒を注文する。
 胸ポケットに意識を集中するが震えは来ない。
 そして、最後の一列のみりん干しを口に含みコップ酒を空にすると店を後にする。
 地下鉄に乗り、一人分だけ空いていた席に腰を下ろすと、スマホでメールを見る。
 今宮が専務に打ったメールには何の変化もなかった。
 乗り換えの駅に到着する。
 席から腰を上げた時、胸ポケットに震えを感じた。
“ご連絡ありがとうございます。七時で予約を取りました。明日よろしくお願いします”
 今宮からだった。
 ほっとしたのか原田はまた酒が欲しくなり乗り換えの駅で電車には乗らず駅を出て目に止まった居酒屋の暖簾をくぐった。


 毎月、第一週目の金曜日に営業部会が行われた。
「課長、ディスプレイの調整とかあるんで先に会議室に行ってますね」と町田が原田に言った。
「悪いな。俺は昨日の酒を抜かないといけないからラジオ体操をしてから行くよ」
「また呑みすぎたんですか?」
「当り前だろ。サーティファイブからなかなか返事が来ないから・・メールが来てほっとして祝杯を挙げたよ。で、その彼女はもう来ているのか?」
「来ているわけないでしょ。また、始業チャイム滑り込みでしょ」と苦笑いを浮かべて町田は喫煙室から出て行った。
 まだ始業まで十分近くあったので、原田はもう一本タバコをふかし席に戻った。
 そして、顔の真ん中にまだ熱を感じながら、今日の夜もまた長くなるのかなと思っていると始業のチャイムが鳴った。
 サーティファイブの野郎、来ねえじゃないかと席を立つと目の前の電話が鳴った。
 着信音は内線の音だった。
「あっ、総務ですけど、原田さんあてに、ダイコウなんとかって言う会社から電話が入っているんですけど」
「ダイコウ・・? そんな会社知らねぇぞ。
 俺宛なのか?」
「はい。営業部の原田様と仰っているので」
「わかったよ、とりあえず出るよ」
 暫くすると電話の向こうから若い男の声がした。
「原田様でしょうか?」
「そうですけど」
「私、タイショクダイコウガイシャの株式会社KEJIMEの屯田と申します」
「は、はあ・・タイショクダイコウ・・」
「貴社の今宮世名様からご委託がございまして、本日を持ちまして貴社を退職させていただくということを報告させていただくためのお電話でございます」
「タイショクって会社を辞める“退職”?
 ダイコウは代わりに行うの“代行”?」
「そうでございます」
「代行って田舎へ行った時に、車で酒を呑みに行って、帰りに飲酒運転はまずいからって呼ぶ代行タクシーていうのと同じで、会社を辞めるのに人に代わりに頼んでやってもらうってこと?」
「そうでございます」
「なんなんだそりゃっ。今宮さんと連絡取れますか?」
「いえ、ご本人は一切貴社様とはご連絡を取りたくないとのご意向でございます」
「そんなんでいいのかよ?で、辞めた理由とかってあんた聞いてるの?」
「はい。価値観の違いだと仰っております」
「価値観っ!? 偉そうにぬかしやがって、価値観って漢字書けんのかよっ こらっ!」
「原田様、あまり長くなってもなんですので、一つだけ今宮様からのご伝言がございますのでお伝えいたします」
「なんだよ?」
「今日の飲み会は“今宮”で予約をしていますとのことです」

「私聞いたことはありますけど、実際に使うってのは驚きですよね」と町田が言う。
「“時代”と言えばそうなんでしょうけど、何か人間味が無くて嫌ですよね」と樋口が続く。
「とりあえず専務には伝えます。奴、い、いや専務は、サーティ、い、いえ今宮さんと呑むのが目的だったと思いますから、おそらく、それなら今日はいいですと断ってくると思います。正直に退職したと言いましょうか?」
「いえ、とりあえずは体調不良ということで」
「それなら、また、誘ってきますよ。正直に言った方が・・」
「いえ。新入社員が辞めたとなると、専務さんはわかりませんけど、社長さんは不信感を当社にお持ちになるかと思いますので」
「原因が専務だとしてもですか?」
「課長だったらどうします?」と町田が間に入る。
「うるせぇよっ、お前本当に殺すぞっ」
「まあまあ、お二人とも・・とにかく原田課長、会議が終わったらすぐに専務さんに電話を入れてもらえますか」
「わかりました」

 原田が喫煙室に入ると町田がにやりと笑いながら近づいてきた。
「バカ息子、どうでした?」
「予想通りだよ。ところで、お前、今日の夜は空いているか? 店の当日キャンセルが効かないから部長がもったいないから行きましょうって」
「いや、今日、嫁さんの両親が来てるんですよ。それで家で一緒に晩御飯でも食べようってことになってまして」
「そうか、それならしかたないな・・」
「一時間だけならお供しますよ、本当に一時間ですけど」
「いいのか?」
「“価値観の違い”にはおそらく僕も含まれていたと思いますから」
「そうか、すまないな・・」
「いや、本当に課長どうしたんですか?やけに優しいじゃないですか。なにか面白くないですよ。課長はいつもハラスメントの鬼でいてくれないと」
「うるせぇよっ、てめぇ、本当に殺るぞっ」

 店に入ると“少し”若者向けの店ではなく“思いっきり”若者向けの店だった。
 客の九割はどう見ても二十代で、会社員風は自分たちだけだった。
「今、こういう店が若い人たちに流行ってるんですよ。普段回転ずししか行けない子たちが、安い値段で回らない寿司を食べられる。飲み物は少し割高ですけど、今の若い子たちはあまり呑まないですから」
 今宮が予約していたのは、握り鮨を含む二時間食べ放題のコースで、呑み放題はついていなかった。
「町田君、次があるからあまり食べれないでしょうけどたくさん注文してくださいね。私たち二人はお酒はいくらでも吞みますけど食べるほうはもうほんとうにつまむだけで十分ですから」
「わかりました」
 樋口と原田は生ビール、町田はいつものハイボールと酒の肴を何点か注文した。
「今日は何の会にしますか?」と樋口が原田に聞く。
「そうですね、少し早いですけど、町田の“育児がんばれ壮行会”でいいんじゃないですか」
「ありがとうございます。頑張って育児してきますので」と町田が言って少し照れ笑いを浮かべた時、注文した飲み物がやってきて乾杯となった。
「だけど、町田さぁ、半年間もいったい何するんだ?」と原田が突き出しの枝豆を口に放り込みながら町田に聞く。
「まあ、基本的に嫁さんのお手伝いですね」
「まさか、乳やるわけじゃないだろうな?」
「はい、それは一種のマタハラですよ、マタハラ田課長」
「うるせぇっ」
「奥様が料理をしたり洗濯物をしている時に子供さんを見てあげたり、奥様もたまには育児で疲れて一人になりたいときに子供さんを連れて散歩に行ったり・・そんな感じですよね」と樋口が言う。
「おそらくそうだと思います。実際、僕も何をするのかわかってないんですよ」
「うちの嫁さんに町田の育休の話をしたんだよ。そうしたら、毎日家にいられるとかえってうっとうしい。ご飯も毎日三食作らないといけないから必要ないって言われたよ」
「まあ、それぞれ考え方がありますからね」と言って樋口がジョッキを傾ける。
「出産もやっぱり立ち合うのか?」
「ええ。その予定です」
「それも嫁さんに言わせると、見られたくないって。俺もみたいとは思わないよ。嫁さんに聞いたけど現場は壮絶らしいからなぁ、そばにいてあげるのが優しさなのか、苦しむ妻の姿を見たくないと思うのが優しさなのか、よくわからないよ。
 だけど、偏見承知で言うけど、子供は母親の作品だと俺は思っている。男なんか産むことなんてもちろんできないし、乳だってやれやしない。たまに赤ちゃんを抱っこ紐で胸に抱いている若いお父さんを見かけるけど、俺はあれは好きじゃないんだ。やっぱり赤ちゃんを抱いている姿はお母さんのほうがしっくりくるんだよな」
「だけど、わずか二、三十年の間で男性と女性の立ち位置と言うか距離感が大きく変わりましたよね」と樋口が言う。
「おそらく、つまらん男女平等がじわじわと浸透してきているんでしょうね、この国に」
「そうなんですかね」と樋口が言った時、町田が注文した、枝豆と鰻の煮凝りとお造りの盛り合わせが運ばれてきた。
「町田、これは部長と俺に日本酒を呑めと言っているようなオーダーだなぁ」
「そうですかね」
「じゃあそれに応えよう。部長、日本酒でいいですよね。銘柄は?」
「甘くないのであればなんでもいいです」
「燗にします? 冷で?」
「外は暑いですけど燗にしましょう。日本酒は燗に限りますから」
「承知しました」と原田が言うと、すぐに店員を呼び、甘くない酒の銘柄を尋ね、その酒の熱燗二合を注文した。
「で、さっきの話の続きだけど、俺は男女平等っていうのは良いことだと思うんだよ。だけど、男には男にしか、女には女にしかできないことがいっぱいあるんだよ。それをヒステリックに『男も女もみんな一緒っ!!』と唱えるのはどうかと思うよ。お互い尊重しあえばいいと思うんだけどな・・男も女もみんな、さん付けで呼び合ったり、気持ち悪い七分丈のジャージを男の子も女の子も身に着けたり・・男女平等ってのは俺から言わせると“性の否定”だよ」
「どうしたんですか課長っ・・性の否定って・・なにか哲学者みたいじゃないですか」
「ばかやろう、これが俺の本当の姿なんだよ・・そんなことよりお前あんまり時間が無いんだろ、何か鮨でも食って帰れよ、食べ放題なんだからもったいないぞ」
「ありがとうございます。じゃあ、少しだけ何かを・・」
「あっ、私、トロとイクラとウニを頼んでください」と部長がいきなり割って入ってきた。
「やっぱり部長はセレブですよね。頼むものが我々と違いますから。町田、俺は鉄火巻きを頼んでくれ」と原田が言う。
「そんなことありませんよ」と樋口は否定したが、実は思いっきりのセレブだった
 樋口は超難関の私立大学を出ると、これまた超一流商社に就職し、幹部候補生として社会人の一歩を踏み出した。しかし、入社して三年目に同じ部署の妻子ある部長と不倫の中になり、二年後、部長の奥さんが会社に怒鳴り込んでくる事象となり、樋口は責任を取って、部長を残して退職した。その後、紆余曲折を経て、今の中小企業の営業部長という席に落ち着いた。
 町田が店員を呼び全員のリクエストの鮨を注文すると、別の店員が原田と樋口の熱燗を持ってやってきた。
「さっ、部長、いきましょう、あまり呑みすぎるといけませんからね」と原田が徳利を樋口に差し出す。
「わかってますよ、今日は少しにしておきますから」と樋口は原田にお猪口を差し出した。
 原田が、本当にわかってんのかよ、と思いながら酒を注いでいると、突然店内が薄暗くなった。
 そして「皆さま、本日はご来店いただきまして誠にありがとうございます」とマイクを通した声が店内に響いた。
「なんなんすか?」と町田が声を上げる。
「なんと、本日ご来店のお客様に今日が誕生日の方がいらっしゃいますっ」とマイクの声が弾ける。
「やっぱり若者向けのお店ですね」と樋口がお猪口を傾け静かに言う。
「その方はっ・・今宮世名さんですっ!! イェーっ、ハッピーバースデー 23回目のお誕生日 おめでとうっ!」
 店内には歌詞のほとんどがハッピーバースデーの洋楽が流れ、樋口、原田、町田の三人は口をぽかんと開け、固まった。
 と、店の奥から、蝋燭が何本も刺さったバースデーケーキを持った女性の店員が現れ、三人のテーブルにやって来た。
「今宮世名さん おめでとうございます!」と言ってケーキをテーブルに置いたが、どこに二十三歳の今宮世名がいるんだ?と言った顔を女性店員はした。
「それでは」とまたマイクの声。「世名さん、スリー ツー ワン ゼロ で蝋燭を吹き消してください。みなさん、それではご唱和願います スリー ツー ワン ゼロっ!」
 原田はケーキを自分の前に引き寄せると今宮世名の存在全てを消し去るかのように、主のいないバースデーケーキに突き刺さっている蝋燭に思いっきり息を吹きかけた。
 
     ☆エピローグ☆
 セレブレーションが終わると三人は黙って鮨をつまんだ。
「あの子の言う価値観の違いって何だったんですかね」と町田が口を開く。
「一言で言うと俺たちと言うか俺の思う“義務と権利”と彼女が思う“義務と権利”の違いだろう」と原田が言う。
「やっぱ、今日の課長は哲学者ですよ」
「うるっせぇなぁ・・そんなことよりもう時間だぞ。今日は悪かったな」
「いえいえ、で、このケーキどうしますか?」
「お前持って帰って奥さんとご両親に召し上がってもらえよ」
「いえ、うちの嫁の家系はなぜか全く甘いものを食さないんです」
「めずらしいなぁ、なんだ、前世蟻だったのか。それで甘いものは存分食べたからもういらないって」
「それ、家系ハラスメントですよ」
「冗談だよ。それよりケーキどうすっかなぁ」
「他のお客様に召し上がってもらったらどうですか?」と樋口が言う。
「そうですね、それがいいですよね」と言うと原田は店員を呼んだ。
「申し訳ないですが、このケーキですけど、他のお客様に召し上がって頂けないですか。我々全員が辛党でして、このまま残してしまうとフードロスの問題もありますから」
「本当によろしいですか?」
「ええ、是非お願いします」
「それでは遠慮せず頂戴しまして他のお客様に召し上がって頂きます」
 言うと店員はケーキを持って厨房の方へ消えて行った。
「じゃあ、これで失礼しますので、何か他に肴は言っとかなくてもいいですか?まだ一時間近くありますし」と町田が二人に言う。
「大丈夫だ、部長も俺ももうお腹はいっぱいだ。酒はまだまだ吞めるけどな」

 町田が帰った後、樋口と原田は鮨についていたガリをアテに熱燗を水のように吞んだ。
 そして、ラストオーダーの時間となった時樋口が少しもつれた舌で「原田課長、今日は何曜日でしたっけ」と聞いた。
「まだ火曜日ですよ部長」
「嘘おっしゃいっ、金曜日でしょっ」
「なんだ、まだ酔っていなかったんですか」
「当たり前でしょ。セブンティをバカにするんじゃないわよ、このシックスティファイブが」
「バカになんかしていませんよ」
「さっ、次行くわよ」
「マジですか?」
「だって今日は金曜日なのよ」

 泡風呂に入っていると部長が全裸で登場した。
「シックスティファイブ、よくこの体を見て。私は頭はセブンティだけどからだはセブンティーンでしょっ」
「ええ、おっしゃる通りです」
「さっ、始めるわよっ」
「えっ、風呂の中でですか?」
「当り前じゃないの。あのバカ女のことをきれいさっぱり水と言うかお湯に流すのよ」
 言うと部長はいきなり泡風呂に入ってきて体を絡めてきた。
 早く終わらせたかったが、酒を呑みすぎたせいか頂に到達するのに三十分を要してしまった。
 くたくたになりベッドに体を沈め、軽い眠気が襲って来た時、突然目の前に、部長の垂れた乳房が現れた。
「なにやってるのっ! 二回戦よっ、一時間お得コースなんだからもう時間がないんだからっ!」
 のしかかってきた部長に原田はなんとか下半身を動かす。
 そして、段々と遠ざかっていく意識の中で町田の言葉が脳裏に浮かんだ。
「課長、本当にいつか殺されますよ」


     了

原田35(サーティーファイブ)

執筆の狙い

作者 アラカンのよだれ
zaqdadcbc08.rev.zaq.ne.jp

104枚です。時代の流れについていけないアラカンが同じく時代の流れについていけない原田を書きました。私が社会人になった頃、50歳くらいの上司とはものの考え方がそんなに違うとは思わなかった。だけど、今の二十代と五十代は全っく種類の違う人間です。なぜにこうなったのか・・ゆとり教育、つまらん男女平等、平成大不況、コロナ禍・・色々あると思いますが若い方の意見を聞かせて頂きたいと思います。実にくだらん小説です。

コメント

青井水脈
171.3.43.226

「原田35(サーティーファイブ)」
開口一番、部下の町田にパワハラ田課長(のちにアルハラ田、マタハラ田など)と揶揄される原田。町田にも注意するが、原田にハラスメントには気をつけるよう告げる樋口部長。このような事務所内でのやりとりの模様で幕開け。喫煙ブースで電子タバコを吹かす町田に詰め寄る原田は、今宮世名(せな)という女性新入社員が入社してくることを聞かされる。
取引先の極東商会では、社長が一人息子の孝に社長の座を明け渡そうとしていた。原田と町田は孝に好印象を抱かず、ドラ息子と陰で呼ぶのだった。そして、微妙なタイミングで世名に出くわす二人だった。


なんでも◯◯ハラとハラスメント認定されかねない、そのような時代の窮屈さ。登場人物の原田や樋口が見る、失われた30年と呼ばれる年月の間に進んだ、男女平等の世の中。これらの世情を切り取りつつ、小説として肩肘張らず読めました。

>「課長、本当にいつか殺されますよ」
度々町田から注意されたセリフが、最後までリフレインするのも印象的でした。


気になった点 ③ですが。
> 歳をとるたびに年々眠れなくなり、目覚ましを掛けなくても五時になると勝手に目が覚める。朝飯は食べない派だから新聞に軽く目を通すと、何もやることが無いのでしょうがなく自宅を出る。すると、八時半始業のところ七時には会社に着いてしまう。
これまで「原田は〜」「町田は〜」と三人称だったのが、ひと段落分くらい原田の一人称になっているのが気になりました

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