作家でごはん!鍛練場
かおる

「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う前に

「なぜ人を殺してはいけないのか?」
 この問いは一見、自然なものに見える。頻繁に扱われるテーマでもあり、むしろ哲学・倫理問題としては陳腐といっていい。特別に違和感のある問いでもない。
 しかしこの問いに対して、どこか引っかかりを覚えることがある。
 それは、この問いが純粋に“倫理”だけを扱っているように見えながら、実際には別の何かを前提としているのではないか、という感覚である。
 
 そもそも、問いとは単独で成立するのだろうか?
 
 何もないところから突然に問いが生まれるはずもなく、そこには必ず背景や文脈が存在する。問いは常に、何らかの前提や関心、問題意識を伴う。問いは中立的で独立した存在ではなく、ある種の“状況”の中から立ち上がっていく。
 
 何を問題と感じるのか。何に疑問を抱くのか。その選択自体が、すでに問いを発する主体の内面や関心を反映している。つまり「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いは、本来その裏に「人を殺したい」という欲望がなければ、提起されないはずの問いではないだろうか。
 
 こう言ってしまうと「あまりに極端」「あまりに飛躍が過ぎる」と批判されるかも知れない。「本当に殺したいなんて思っていない。哲学的考察や倫理問題として一般的・抽象的に考えているだけだ」と。
 
 しかし、その問いの背後に、己すら気づかぬ欲望の影が潜んでいないだろうか? 少なくともその可能性を、完全に排除はできないのではないだろうか。
 
 実際、多くの場合この問いは現実の欲望とは切り離された思考実験として扱われる。その問いの裏にある背景を忘れ、「問い」だけが根なしの草ように漂う。欲望から切り離された問いが、抽象化によって虚しく漂流する。
 
 問いが持つ本来の意味の「沈殿化」であり、問いの「抽象化」だ。しかしそこに問題がありはしないか。

 意味を沈澱化させ、抽象化させる。「具体から抽象へ」という思考ツールだ。それは例えば「〇山✕男」という個人・具体を「人」として抽象化させるということだ。抽象化は思考の上で有効な道具ではある。しかし、こと倫理においてはどうだろうか?
 
 抽象化された「人」はもはや血肉をもたない。単なる思考実験のモルモットだ。それなら何をしてもいい。「生きるに価しない生」などといった言葉も抽象化から生まれる。〇山✕男に「お前には生きる価値などない」とは簡単には言えない。しかしただの抽象である「人」になら言える。
 
 そして「具体から抽象」の次は、当然「抽象から具体へ」の思考ツールが登場する。「人」から「〇山✕男」に移行する。そのとき何が起こるだろうか? 歴史は、すでにそれを何度も見せている。ジェノサイドなどは、決して抽象化してはならぬものを抽象化して起こるものではないだろうか? 
 
 もちろん、抽象化そのものが悪いわけではない。それがなければ、私たちは普遍的な倫理を語ることすらできない。問題は、その抽象化がどのように行われ、どのように具体へと接続されるのかにある。
 
 そして、そのことを考えるのなら、この問いも単純な倫理的探求として無害に扱うことはできなくなる。何気なく扱っている、陳腐でさえあるこの問いは、別の大きな意味を持つ。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」
 その答えを探す前に一度立ち止まり、この問いを成り立たせる前提をこそ深く考える必要がありはしないだろうか?
 
 そしてその問いは、おそらく他人に向けられるものではなく、まず自分自身にこそ向けられるべきものなのだろう。
「この問いを私は、どこから発しているのだろうか?」と。

「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問う前に

執筆の狙い

作者 かおる
253.83.62.130.static.user.transix.jp

小説ではないですが、思想的なエッセイとして書いてみました。ご意見を頂ければ幸いです。

コメント

偏差値45
KD059132060148.au-net.ne.jp

>「なぜ人を殺してはいけないのか?」
 その答えを探す前に一度立ち止まり、この問いを成り立たせる前提をこそ深く考える必要がありはしないだろうか?

そもそもそれを考える必要があるだろうか。
もちろん、思考の中での「遊び」としてはアリかもしれないけど。
たとえば、本心ではそんなことも微塵も考えていないが、注目を浴びたいだけの発言かもしれない。
本当に誰かを殺したいと願っている人は、そんな問いはしないと思いますね。
こっそりと実行して、完全犯罪を狙います。
その一方で重い罰を受けてもいいという覚悟があれば、そうするでしょうね。
あまり意味のない問いのような気がしますね。

かおる
253.83.62.130.static.user.transix.jp

偏差値45様

ご感想ありがとうございます。

色々な水準での考えがありますよね。
考え方は一つではないというか。
貴重なご意見ありがとうございました。

秋田寒男
sp49-98-16-98.msb.spmode.ne.jp

まぁ、殺人は衝動的にやるといいますよね。理性的で殺人を犯す人は少ない。一見理性的に殺人を犯してもそれは、殺した人しか分からない。
本当に知りたいならば覚悟して体験するしかない。

かおる
253.83.62.130.static.user.transix.jp

秋田寒男様

ご感想ありがとうございます。

別な視点でのご感想をいただけて、とても参考になります。
自分では気づけないような点がありますよね。

貴重なご意見ありがとうございました。

飼い猫ちゃりりん
27.230.34.217

かおる様。なぜ人を殺していけないか?
こんなことは考えるまでもないことです。答え。あなたが支配される側の人間だからです。要するに奴隷。奴隷は資源だから、勝手に殺しちゃダメ。
支配する側の人間は、普通に殺してますよ。国外だけじゃない。国内においても日常の景色です。

かおる
253.83.62.130.static.user.transix.jp

飼い猫ちゃりりん様
 
感想ありがとうございます。

権力に構造的に取り込まれている人間は、労働力という資源であり、だからお前たちが勝手に消費するな、消費していいのは権力者だけだ、ということでしょうか。
とても独創的な視点ですね。

貴重なご意見ありがとうございました。

天ピカ
113x40x76x74.ap113.ftth.ucom.ne.jp

読ませていただきました。
具体と抽象の間に何が零れ落ちるかということですね。

「戦争における「人殺し」の心理学(https://x.gd/c0HZF)」によると、
殺人のハードルは「直接手が触れる殺人(殴殺、絞殺等) > 間接的な殺人(遠くからボタンを押す等)」の形式になっているとのことで、
身体性から遠ざかるにつれて実行しやすくなるといいます。

20世紀初期に勃興した未来派の芸術運動は、目的を最短で達成する合理性の美しさを標榜していましたが、
第一次世界大戦で効率的に人を殺す機械が発明されたことにより、その立場の危うさが指摘されるようになりました。

文中の「なぜ人を殺してはいけないのか?」の問いかけは大まかに戦時中のマインド転換の危うさの指摘がメインのようで、
他の方のコメントは平時における問いに対する指摘のようです。
熊も人を殺して問題になってますからね。もう少し具体的に的を絞った方が読みやすかったのかもしれないです。

かおる
253.83.62.130.static.user.transix.jp

天ピカさま 

ご感想ありがとうございます。


>具体と抽象の間に何が零れ落ちるかということですね。

まさにその通りで、たとえば「トロッコ問題」とか、ああいうものにすごく違和感をもっていました。
「思考実験」というものの危険さ(もちろん有用さもありますが)を言葉にしたかったといいますか。


>身体性から遠ざかるにつれて実行しやすくなるといいます。

まさに具体から抽象、抽象から具体、ですね。


>他の方のコメントは平時における問いに対する指摘のようです。
>もう少し具体的に的を絞った方が読みやすかったのかもしれないです。

確かに、言いたかったことがうまく伝わらなかったようです。
頂いたアドバイスをもとに、読みやすいものを書いていきたいと思います。
 
有用なアドアイスをありがとうございました。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内