真理の「トリセツ」
もし戦争がはじまっても、今と何かがそれほど大きく変わるわけでもないだろう。台湾有事が起こって尖閣諸島が占領され、自衛隊員が戦死し、ときどき北朝鮮のミサイルが東北のどこかに直撃しても、だんだんみんなそれに慣れてしまういうより、そもそも私たちは社会がどれだけおかしくなろうと、おかしいと思わないようにさせられていて、それは主に3S的な仕組みによって維持されている。
もともと3Sとは、Screen(スクリーン)、Sports(スポーツ)、Sex(セックス)の頭文字をとった言葉で、映画やテレビといった映像娯楽、野球やサッカーなどのスポーツ、そして性的な娯楽のように、人の関心を強く引きつける楽しみに意識を向けさせることで、社会や政治への関心を薄れさせるという考え方である。
しかし現代ではこの3Sは、より身近で強力な形に変わっている。スクリーンはスマートフォンやYouTube、SNSや動画配信サービスとなり、次から次へと情報や映像が流れてきて、考える前に見続けてしまう環境をつくり出している。スポーツもまた、プロ競技だけでなくゲームや配信といった形で常に熱狂の対象を提供し、人の感情をそこに集中させる。そしてセックスは、ネット上の成人コンテンツや恋愛アプリ、疑似恋愛のような形で、強い快楽や刺激を絶えず供給し、現実よりもそちらに意識が向かいやすくなっている。
さらに現代では、こうした仕組みに加えて、アルゴリズムが個人の好みに合わせて情報を選び続けることで没頭を深め、人と人との対立や炎上が注意を引きつけ、社会の問題が自己責任という言葉に回収されることで、社会構造への疑問が生まれにくくなる。こうして私たちは、楽しんでいるつもりのまま、時間や感情や注意を消費し続け、現実の変化や異常に対して深く考える機会を失っていくのである。
増税しかり、思いやり枠チンしかり、四毒や添加物まみれの食品しかり……。そうした一つひとつの問題について、本来、私たちは立ち止まって考え、調べ、納得するかどうかを自分の頭で判断する必要があるはずなのに、現実にはそれらはどこか遠い出来事のように処理され、深く向き合われることなく流れていく。ニュースで一瞬目にして、少しだけ反応し、しかしすぐに次の動画や投稿に意識を持っていかれる。
その繰り返しの中で、"正常な違和感"は長く留まることができず、やがて「そんなものだ」と受け入れられていく。そして気づかないうちに、考える力そのものが削られていく。何かを疑うよりも、与えられた情報の中で納得してしまうほうが楽であり、快楽や刺激のほうへ流れるほうが自然になっていく。そうして私たちは、社会が変わっていく過程を外側から眺めているようでいながら、実際にはその流れの中に静かに組み込まれていく。
しかし、自分の頭で考え、自立できる人間というのは、いつの時代も一握りしかいない。自立できる人間が多くの人にどれだけ自立を促しても、その努力の多くは徒労に終わる。真実は、真実を共有できる人間同士でしか共有できない。これは諦めではなく、むしろ現実を正確に受け止めたうえでの態度といえる。
すべての人が目を覚ますことを前提にするから苦しくなるのであって、人はそれぞれの段階や関心の中で生きている以上、見えるものも受け取れるものも違っていて当然なのだ。だからこそ、自分の役割は誰かを無理に変えることではなく、自分自身の感覚や思考を濁らせずに保ち続けることにある。そして同じように違和感を持ち、同じように考えようとする者同士が、静かにつながっていけばいい。
そのつながりは大きくなくていいし、むしろ大きくなりすぎたときには、また別の形で均されていく。だから必要なのは、数ではなく質であり、広がりではなく深さである。真実とは、多くの人に一斉に広がるものではなく、受け取る準備ができた者のあいだで、少しずつ共有されていくものなのだ。
われわれはもっとも高い真理のうちで、世のためになり得るものをしか明言してはいけない。他の真理はそれをわれわれのうちにしまって置くべきである。隠れたる太陽の柔らかな光のように、それはわれわれのあらゆる行為の上に照り渡るだろう。
そもそもなにが正しいか?は、聖書や聖典と呼ばれるものにぜんぶ書いてある。しかし日本人は、神や宗教的な言葉や概念を嫌悪するよう意図的に仕向けられているため、真理を直接的に追うことには向いていないともいえる。だからこそ多くの人にとって「真理」は、宗教という形で示されるかぎり遠ざけられ、むしろ娯楽や常識の中に溶け込んだもののほうが受け入れやすくなっている。
しかし、言葉や形式が受け入れられないだけで、その内容まで否定されているわけではない。愛や誠実さ、欲望に流されないこと、他者を害さないこと、内面を整えることといった教えは、本来きわめて普遍的であり、宗教という枠を外してもなお、誰の内側にも届きうるものだ。問題は、それを「宗教だから」という理由で切り離してしまうことにある。
その結果、人は真理そのものではなく、断片的な情報や流行、都合のいい解釈を寄せ集めて、自分なりの正しさを作り上げるようになる。だがそれは軸のないまま揺れ続けるため、状況や環境が変わるたびに簡単に書き換えられてしまう。だからこそ、本来は何らかの確かな基準に立ち返る必要があるのだが、その入口である「神」や「宗教」という言葉自体が拒まれてしまうため、そこにたどり着く前に思考が止まってしまう。
結局のところ、真理に近づくかどうかは、どの言葉を使うかではなく、どこまで自分の内側と向き合えるかにかかっている。外から与えられる情報や価値観に流されるのではなく、静かに立ち止まり、自分の思考や欲望の動きを見つめ直すこと。その姿勢があってはじめて、宗教という形をとるかどうかにかかわらず、真理と呼ばれるものに触れる余地が生まれてくるのだ。
執筆の狙い
真理の「トリセツ」です。