清き罪
午前五時三十分。私たちは当直員の目を避けて署を後にした。
私が運転し、助手席に先輩の巡査部長、後部座席に警部補と、もう一人の巡査部長が乗り込んだ。
湾岸道路を走る。空は青く澄み渡り、海が輝いている。だが私の心は曇っている。バックミラーに警部補の顔が映っていた。
「係長、どう考えても変ですよ。この程度の違反で逮捕なんて」
「余計なことを考えるな」
「でも」
「いい加減にしろ! 命令なんだから仕方ないだろ」
助手席の先輩が咳払いをした。気持ちを抑えろと言っているのだ。
課員は皆知っていた。警察本部の偉いさんが、天下り先の意向を忖度し、署長に指示をしたのだ。
被疑者の家は閑静な住宅街にある。私は捜査用車をそばの路上に停めると、駐車禁止除外標章をダッシュボードに置いた。
係長が「行くぞ」と言うと全員が車から降り、革靴の音を響かせながら玄関に向かった。
係長は主任に裏に回れと指示する。私が呼び鈴を鳴らしても応答がない。
「出掛けたんですかね」
「なに言ってんだ」
係長がドアを拳で叩くと、「どなたですか」と女の子の声が聞こえた。
「警察です。お父さんはいますか」
しばらくするとドアが開き、パジャマ姿の被疑者が顔を出した。
「なんの御用ですか」
「公職選挙法違反の容疑で逮捕する」
「一体なんの話ですか」
係長は逮捕令状を突きつけた。
被疑者に罪の意識はない。当たり前だ。ポスターが少しずれていることが罪だなんて、誰が思うだろうか。
私が被疑者の腕をつかむと、彼の娘が私にすがりついて泣きじゃくった。
「パパを連れていかないで」
呆然自失の妻が、膝から崩れ落ちた。
すがりつく娘に、「パパはすぐ戻るから」と言うと、彼女は「本当に?」と言い、見上げた。私がうんと頷くと、涙を拭いて離してくれた。
「早く車に乗せろ」と係長が怒鳴ると、私は被疑者を先輩に預けて運転席に乗り込んだ。
その年の年末、先輩と署で当直をしていた。雪が降り積もり、やけに静かな夜だった。
石油ストーブがヤカンを沸騰させていた。先輩はカップラーメンの汁を飲むと、ふうと息を吐き、愚痴をこぼした。
「イブに当直なんてついてないぜ。どうせ若い奴らは、彼女と晩飯でも食ってんだろ」
「自分は彼女がいないから、へっちゃらですよ」
「お前、何歳になったんだ?」
「二十八ですけど」
「結婚する気あんのか?」
「ありますよ。でも彼女ができなくて」
「結婚すりゃ幸せになるってわけでもないけどな」
「そうですか」
「ところで、知っているか。あの綺麗な奥さん、睡眠薬を飲んで搬送されたそうだ。命に別状はなかったそうだけどな」
「綺麗な奥さん?」
「選挙違反の被疑者の奥さんだよ」
「本当ですか」
「あんな屁みたいな違反で実刑だぜ」
先輩は開けっ放しの書庫を指差した。
「あれを見ろ。あんなもん、ゴミ以下だ」
そこには微罪を裏付ける資料が詰め込まれていた。
「俺もあの逮捕には抵抗があった。でも命令に逆らえば、昇任が遅れるから仕方ないよ」
仕方ないだと。人の家庭を壊しといて、そんな言い草があるか。いや待て。お前も同罪じゃないか。
先輩はつぶやいた。
「あの女の子、今どうしてるのかな」
逮捕時の光景が浮かび上がる。
「パパはすぐ戻るから」と言う私を見上げ、うんと頷く娘。私を信じるあの無垢な眼差しを、一日も忘れたことはない。
当直明けの朝、私は被疑者の家を訪ねた。
塀に犯罪者とスプレーで落書きがあり、呼び鈴を押しても反応はない。新聞受けはチラシであふれ、消費者金融の督促状が差し込まれていた。
刑事を続ける気が失せた私は、新年早々交番への配置換えを希望した。普通は春の定期異動で変わるのに、私は即日交番勤務を言い渡された。
その年の秋。私は当番勤務を終えると、その足でとある渓谷に向かった。森林が心を癒してくれるから、非番はよく訪れていたのだ。
そこは紅葉の中を走るトロッコ電車が有名で、休日は大勢の親子連れでにぎわった。
私は老朽化した無人駅で電車を待っていた。
半世紀以上前のダム建設の名残である無人駅は、改修工事の真っ最中だが、その日は休日だから作業はしていない。
レールは赤く錆びついていたが、新品のレールが工事現場の隅に積まれていた。
私は駅のホームから渓谷を見渡した。紅葉が鮮やかで、川面がきらきらと輝いていた。
女の子の笑い声が聞こえた。ホームを見渡すと、笑顔で駆け回る娘を、母親が危ないと叱っていた。
ガタンゴトンが微かに聞こえた。遠くの鉄橋に目を凝らすと、それはトロッコではなく、終点へ直行する準急だった。
振り返ると、先ほどの親子が忽然と消えていた。「助けてください!」と叫び声が聞こえた。
ホームの下を覗き込むと、娘が顔面蒼白で線路にしゃがみ込み、母親が彼女を抱き抱えていた。
「どうしたんですか」
「脚が抜けないんです」
娘の脚が工事中の窪みにハマり、太ももまで埋まっている。
電車の音が刻々と近づいている。ホームから飛び降り、窪みの隙間から覗き込むと、ブロックから突き出た針金が脚に刺さっていた。
電車が見える……
少し離れた場所に錆びついた機械が見えた。ダルマ転轍機と呼ばれる線路の分岐器だ。
駆け寄ってレバーに手を掛けると南京錠で固定されていた。だが強く引っ張ると、それは外れた。
再びレバーに手を掛けて気づいた。線路は分岐点から少し行ったところで途切れ、その先が深い峡谷であることに。
レバーを引けば乗客は死ぬ。多くの家族が、この瞬間に消える。
電車はもう間近に迫り、何度も警笛を鳴らす。娘は意識を失っている。彼女はもう助からない。私は母親に叫ぶ。
「避難してください! お願いです。逃げてください!」
母親と視線が重なった。彼女は首を横に振って娘を抱きしめ、その場にうずくまった。
もう何もできない。ここから逃げ去りたい。
体が震えた。レバーが氷のように冷たい。右手は離れない。また警笛が鳴る。
次の瞬間、私はレバーを引いた。分岐器は滑らかに駆動し、カシャンという音が聞こえた。
車輪が火花を上げる。だが速度は落ちない。車両が土手を蹴散らし、谷へ吸い込まれていく。
轟音が響き渡り、崖の縁から頭を出すと、谷底が砂煙に包まれていた。木の根につかまって崖を下り、谷底に降り立つと、列車は紙箱のようにひしゃげていた。私はがっくりと膝から崩れ落ちた。
「お母さん」と声が聞こえた。ゆがんだ窓枠から腕が出ていた。横転した車両によじ登って腕をつかみ、少年を引っ張り上げた。
「しっかりしろ」
「お母さん……」
「頼む。死なないでくれ」
辺りに呻き声が響いていた。助けを求めていると分かっていても、少年から目を離せなかった。
いや、違う。犯した罪を、見たくなかったんだ。
息絶えた少年を抱きしめて震えていると、やがてプロペラの音が渓谷に響いた。
【刑法第三十七条・緊急避難】
自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。
法廷は異様な空気に包まれていた。私は遺族の視線を背中に感じ、今にも心が折れそうだった。
人定質問と冒頭陳述が終わると、検察官が質問を始めた。
「あなたは精神疾患を持っていますか?」
「職務に疑問を感じ、悩んでいました」
「質問に答えてください」
「ありません」
「あなたには刑事の経験がありますね」
「はい」
「命の重さについて、どのように考えていますか」
「人命は何よりも尊いものです」
「命はみな等しく、尊いということですね」
「はい」
「では聞きますが、2人の命と、166人の命では、どちらが重いですか」
悪夢が目に浮かぶ。迫り来る列車。警笛の音。線路にうずくまる親子。
「答えてください!」
「166人です」
「そうです。列車には無辜の166人が乗っていました。あなたは多くの乗客がいることを予見できましたか」
「はい。休日なので」
「なら、なぜ進路を変えたのですか」
「親子を助けたくて」
「緊急避難の意味を知っていますか」
「はい」
「当然です。あなたは被害を最小にするべきだった。なのに被害を最大にした。それも故意に」
遺族の怒号が響き、検察官は語気を強めた。
「被告人は多くの家族が乗っていることを知っていた。なのに電車の進路を変えたのです」
検察官は法廷を見渡した。
「情状酌量の余地はあるでしょう。しかし、彼が犯した罪はあまりにも大きい。被告人に厳罰を科すのは、やむを得ないことなのです」
すると弁護人が声を上げた。
「異議あり! 被告人はパニック状態にあり、正しい判断は不可能だった」
検察官が証人を要求すると、私の先輩が証言台に立った。
「あなたは被告人と一緒に勤務していましたね」
「はい」
「被告人の勤務態度について聞かせてください」
「被告人は自分の意見を優先するあまり、チームワークを乱すことがよくありました」
まるで棒読みだ。先輩は退室するときも、私と目を合わせなかった。
検察官は続けた。
「彼の証言を裏付ける資料があります」
検察官はA4の冊子を高く掲げた。
「これは被告人の人事記録です。ここには、被告人は独善的な正義感を優先し、組織に迷惑を掛けることが度々あったと記録されています。つまり被告人は、常習的に自分勝手な正義感に酔い、全体の利益を踏みにじっていたのです」
また法廷に怒号が響いた。
「あの子を返して!」
「娘を返せ!」
「人殺し!」
裁判長が「静粛に!」と制すると、女性のすすり泣く声が聞こえた。振り返ると、母が娘を抱きしめて泣いていた。私が助けた親子だ。
もしあの瞬間に戻れたら、俺はあの親子を見捨てるのか?
裁判長の声が法廷に響いた。
「被害者参加人の意見陳述を許します。遺族の方、どうぞ」
やつれた老人が証言台に立った。
「私は娘と三人の孫を失いました。被告人は悪人ではありません。それは理解しています。でも、彼をこの手で殺し、自分も死んでしまいたい。それが今の正直な気持ちです。申し訳ありません」
か細くも、ずっしりと重い声だった。
続いて遺族の代表である女性が意見陳述を始めた。
「私の家族はあの男に殺されました。彼は二人の命のためと言いますが、夫と息子たちの命は、あの親子の命より軽いというのですか。私と同じように苦しんでいる人が大勢います。みんなあの男のせいです。裁判官並びに裁判員に申し上げます。私たち遺族は、厳罰を強く望んでいます」
彼女が席に戻ると、私が助けた母親が証言台に呼ばれた。
その足取りは重く、証言台に立っても、しばらく言葉を失っていた。目を閉じて深呼吸を繰り返し、震える声で話し始めた。
「私の娘のために、誰かを犠牲にして良いとは思いません。娘がまだ私のお腹にいるとき、夫を交通事故で亡くしました。だから娘には、人生を全うしてほしかったのです」
すると遺族たちが遮った。
「あたしの娘は死んでもいいの!」
「勝手なことを言うな!」
「静粛に!」と裁判長が制した。
母親は一瞬私のほうを向くと、再び裁判長に向かって話し始めた。
「彼が私に避難を呼びかけると、私は娘を抱きしめたまま目で訴えました。娘を助けてほしいと。すべて私のせいです。あの人に罪はありません」
彼女はその場で泣き崩れ、体を支えられながら証言台を降りた。
検察官の求刑は懲役八年の実刑だった。弁護人の言葉は何一つ覚えていない。
裁判長が「被告人は何か述べることがありますか」と言うと、また法廷に怒号が響いた。
「遺族に謝罪しろ!」
「こっちを向け!」
私は後ろを向き、遺族たちに深々と頭を下げた。そして向き直ると裁判長に言った。
「裁判長。私は、もしあの瞬間に戻れても」
裁判長は私を見据えた。
「またあの親子を救います」
法廷が静まり返った。
「被告人。自分が何を言っているか、わかっていますか」
すると弁護人が叫んだ。
「正常な精神状態じゃない!」
裁判長は構わず続けた。
「被告人。二度とあのような事件を起こさないと約束できますか」
鋭い視線を背中に感じた。
「答えてください」
「私は、もしあの瞬間に戻れても、またあの親子を救います」
懲役七年の実刑が下された。
今日は刑務所で迎える三回目のクリスマスだ。午後一時から教誨師の説教があり、それが終わると面会が始まる。
私にも面会の予定がある。彼女たちは以前から面会の数を増やしたいと言っていたが、生命犯は面会を少なく制限されている。
私は手紙でいいと伝えていたが、クリスマスは必ず会いたいと言って聞かなかった。
「865番。面会の時間だ」
「はい」
面会室に入ると、アクリル板の向こうに彼女たちがいた。
「ふたりとも元気?」
「ええ。あなたの方こそ体に気をつけて。風邪が流行ってますから」
「おじさん。ここを出たら、一緒に暮らそうね」
「お父さんでしょ」と母が言うと、娘は顔を赤くした。
「きっとあの人、天国で喜んでいるわ」
「おじさんなら、絶対にいいって言うから」
「またおじさんなんて言って」
疑念が頭をよぎる。これは、彼女たちの償いでは。だが彼女たちに何の罪がある? 罪と罰。罪があるから罰せられる? 嘘だ……
「あなた。どうしたの」
「いや、なんでもない。ところで、今の学校はどう」
「心配ないわ。この子、友達ができたのよ」
「あたし部活に入ったの」
彼女は前の学校でいじめに遭い、転校を余儀なくされた。
「君は大丈夫なの」
「ええ。心配しないで」
彼女も行く先々で嫌がらせに遭い、職を転々としていた。通勤の自転車を壊され、ロッカーに人殺しと書かれたりもした。
「865番。そろそろ時間だ」
アクリル板越しに手を合わせると、彼女たちの温もりが、わずかに伝わってきた。
出所後の幸せは望まない。私の罪は懲役で償えるものじゃない。許される幸せがあるなら、それは彼女たちの幸せだ。
執筆の狙い
不正な命令に従い、ひとつの家族を壊してしまった若い警察官。消えない罪を胸に抱えたまま訪れた渓谷で、彼は再び過酷な選択を迫られる。迫り来る列車、逃げ場のない親子――極限の状況の中で下した決断は、取り返しのつかない結果を招き、やがて法廷へと持ち込まれる。そこで問われるのは、正しさではなく、人がどこまで自分の行為を引き受けられるのかということ。罪とは何か、赦しはあるのか。これは、裁きでは終わらない、ひとつの魂の物語。
※上記はAIによる紹介文。約5700字の作品です。よろしくお願いします。