嵐が丘 2丁目 3の7 302号
ヒョオオオオオワアアアアア
っと、まず先に寒気のようなものが飛んできた。悲しい、とても悲しい、凍てつくような冷気、身も心も、雪女の啜り泣くような声。誰かの喧騒。それも激しいものになればなるほど、先に、寒気のようなものが飛んでくるのは、いつも不思議なことだ。
この時代、この現代、表立って苦しみの声を聞くことはなく、そういえば、いつも鳥のようにこの街を俯瞰してみると、さながら圧縮された地図のように、ひとっこ一人見当たらず、全て人はおしなべてこの四角い、ロッカーハウスのように、その肢体をちりじりに詰め込まれ、全く、一部では、喧騒には無縁のように思えなくもないが。
この、お隣さんは、不思議な家庭だ。奥さんは、55歳くらい、旦那さんは65歳くらい、子供は3人いるが、みんな、まだ10歳にもならないくらいで、この夫婦はある人生の交差点にさしかかって、自転車の荷台にこれら三匹の子豚を乗せて運搬する道を選んだ。
旦那さんは、小男で、奥さんの方が大きいくらい。見た目は頭に一本の毛もない、ひょっとこのようで、ひょっとこ踊りをするように、いつも、スタタタ……と階段を降りては、マンションからポッと急に出てきて、鉢合わせることが多い。もう60を優にすぎた見た目で、じっさいはわからない、もしかしたら50歳代かもしれない。もともと老けているということもあり、もう20歳代から変わらない見た目をしているのかもしれない。20歳かもわからない。
よくゴミ捨て場などで会う。
「おはようございます」
と言うと、かならず「ガハハハハ!」と豪快に笑う。
「暑いねぇ〜」
「あはは、暑いですね」とこちらが返すと、
ガハハッハアは!!!と豪快に笑い返してくる。俺があははと、小さい笑いを起こすと、よししめたものだ!というふうに、いつも外部のささやかな幸先のいいエネルギーをはけ口に、自身の出口付近でさまよっている充満している何らかのエネルギーを飛び出たせるチャンスを窺ってゴミ収集所のあたりを朝歩いている。
「暑いですね」と返すだけだとこうはならない。微笑を含ませた時とそうでない時とで、何度か使い分けて試してみたところ、微笑のようなものを含ませると、かならず、「ガーーーッハッハッハッハ!」と大王みたいな、大殿様顔負けの笑いで返してくる。暑いだけでそんなに笑うものかと。笑ってなきゃやってられないというような、朝から今日一日分の残り汁をすべてこぼしたような笑い方を見せてくる、そんな不思議な人だ。その笑い顔に、いっしゅん死相のようなものが浮かぶ。ネテロ会長が最期、自分の心臓に指を突き刺し、ブラッディローズを花咲かせたような、あの顔と重なる。
苦労が、顔という顔、手という手にあらわれている。このまま動いていないと止まってしまうというような、残された最後のわずか一滴をふるい出して動いている。駐輪場には、三台の自転車が置かれてあって、その三台ともこの家の子供たち用の自転車だ。子供達の代わりに、この人がいつも手入れをしている。自転車というものは、そんなに頻回に手入れが必要なのかどうかは専門家でない俺にはわからないが、せいぜい3日に一回は手入れをしている。この時だけは、いつも、楽しそうな顔をしている。子供のように夢中になってやっている。こういったものは自転車屋さんなどに任せてしまいがちな俺なんかとは違って、一つ一つ、部品やオイル、へんな指し棒のようなものまで自前で用意していて、熱心にやっている。そうやって自転車の修理や手入れをしているときの横顔はなんとも美しい。もともと器用な職人気質なのだろう。プラモデルなどをやらせれば、そこらの若者顔負けの腕を見せそうである。仕事も、もしかしたら、そういった関連の工場に勤めているのかもしれない。これが彼にとって唯一の瞑想の時間なのだろう。本当に、近寄れないほどだし、近寄っても気づかないほどで、俺はこの光景に出くわすたびに、声をかけるかどうか一瞬ためらってしまうが、「こんにちは」と声をかけてみると、腰を抜かしたようにびっくりしたような顔を見せ、これが素顔かと思われるような見たこともない目をまんまるとさせたような純真そのものを真顔を見せて、「あ……こんにちは……」と言って、面食らったようにしばらく俺の顔をじーっと見つめたあと、「ガハハハハハ!」と盛大な笑い声をあげる。
お母さんの方は、裸足でかけていく野良猫、追いかけてというふうな、しょっちゅうビニール袋片手にバタバタして走ってまわっている。一見すると、強面の顔をしていて、顔面がひび割れたような、鬼のような顔をしていて、最初は、引越しババアの隣に引っ越してきてしまったかなと思ったが、話すと、とても優しい音色を出して、とても、小さく、怯えたような、猫のような態度を見せる。もし一言でも間違えて同じマンションの住人を怒らせてしまって、自分の家庭を崩壊させることになりそうな種には、最新の注意を払って行動しているようだ。
サザエさんみたいな、チリチリで火花が散ってはぜて爆発したような髪型をしており、中から子供のおもちゃのカエルが飛び出してきそうで、べつに苦労していたとしても、そのヘアスタイルをしなくてもいいだろうといった髪型だ。
お母さんの方も、いつ見ても疲れた顔をしている。専業主婦のようではあるが、一日に7、8回くらいは駐車場を行き来して、車を動かしている。一時間のあいだに、3回くらい出入りさせているのを見かけることがある。
自身の楽しみなど束の間もない。そんな時間は遠に捨てた。およそ寝そべって韓流ドラマを見るなどどこ吹く風。クッキーひとつ食べるにも、何か申し訳ないような、祭壇に許しを請っていたただくような、一見、何を楽しみに生きているかわからない。今挙げた事柄だって、彼女にどれだけ幸福をもたらすかもわからない。もし、子供に、お母さん、いつもありがとう、と言われれば、その瞬間にすぐにも昇天しそうではあるが、いつか子供にそういってもらう日のために、今、身を粉にして働いているように見えなくもないが、それだってわからない。それすらも、一般の幸福像の形を追っているのか、それが本当に魂の淵源からくる幸福なのか、子供だってまた形を追ったばかりにいった一言かもしれない。よって、その所在のわからぬまま、それについて、考える時間の一秒も持てぬまま、ひたすらに動いている。
個人は、いつでも無軌道に進んでいくが、家庭となると、いつも同じ調子で進んでいく。それは、個人の幸せはいつでも幾重の道が用意されているが、家族の幸せは決まった様式に沿っていくでしかないのか。トルストイは、「幸せな家庭はいつもたった一つだけの顔を見せるが、不幸な家庭はその家庭ごとに違った顔を見せるものだ」と言っていたが、幸せな家庭というのは、たった一つの様式をなぞっているのだ。
幸せに、型というものがあるとすれば、文字通り、それを真似てみた。今も、それが幸せかどうかはわからないが、これしか道が見つからなかったというふうで、二人三脚で、荷台に三匹の子豚をのせて走り続けている。まるで止まったら、止まったら? どうなってしまうのだろう。その道を歩いてみようとのことで、お互いの利害が一致した。恋人時代などというものもあったのかどうかもわからない。お台場なども行っただろうか。表参道などでおいしいディナーなども食べたであろうか。それも、はたして、自分の道なのか、他人の道なのか、わからずに。
なぜかはわからないが、日曜日になると、そのアパートに、親戚の人? 親戚か友人なのかわからないが、よその家庭。その夫婦とまったく同じ家族構成の一家が、その部屋にやってくる。その家庭も、50か60くらいの夫婦に、3人の子供を連れていて、だから、俺の隣のその号室には、10人以上いることになる。これがなかなかうるさい。おばさんは、いつも俺と顔を合わせるたびに、「ごめんねぇ、チビたちがいつもうるさいでしょお? うるさくない? ねぇうるさかったら言ってよぉ?」と、多少色っぽい艶めいた声で言ってくるが、この日は、無礼講でしょう? といわんばかりに、完全に割り切ってしまっている様子で、どんちゃん騒ぎをしている。子供たちはてんやわんや大騒ぎ、いつも3人だけで楽しいのに、それが倍の6人にも7人にも膨れあがれば、楽しくないわけがない。子供は数が増えればそのぶん楽しくなるのだ。ただ騒いでいる。騒いでいる内訳がどんなものかわからないほどに。ダダダダダともうずっと何度も廊下を往復しているだけの音が聞こえてくる。なぜ何度も往復するかわからないほどに幸福と追いかけっこしているのだろう。
俺はまだ隣だからいいけど、下の人はとても耐えられないだろう。まぁ、日曜日だし、いいか、みたいな。週末の、たった一日の数時間くらい、だいたい17時から19時までのあいだの2時間だけだから、うるさいのは。だから、それは住人たちもわかっているし、俺もわかっている。だから、またか……と思って、俺は肘を枕にして左側にして寝ていたのだが。
ヒョオオオオオワアアアアア──
っと、一瞬、背筋の辺りがゾクっと……、まず先に寒気のようなものが飛んできた。誰かの喧嘩、それも冷たく激しい喧騒であるほど、先に、寒気のようなものが飛んでくるのが常だ。
その寒気の後に、凄まじい、怒声──
「まあちゃんのお迎えに行くのが、まあちゃんのお迎えが、お迎えが、まあちゃんがまあちゃんが
なんでそんなことするの!
と、バタン! と凄まじい、人が倒れるような音がした。それにともなって、何か、小タンスのようなものが崩れる音が聞こえた。
誰か──! 誰か──!
今度は、大人たちの声しか聞こえない。
子供達は、いったいどんな顔をして見ているのだろう。
(誰かって)
俺は思わず立ち上がった。
声のする震源地へと向かっていく。玄関扉の覗き穴から、向かいの部屋を見る。扉自体は静まり返っていて、いつもと同じ見た目を呈している。どうやら玄関よりずっと奥、一番奥の部屋でやっているようだ。
主に、大人の女性と女性の口喧嘩か。
が、奥さんはとても怖い顔をしているから。ひょっとしたら、今、その顔の正体なるものがあらわれているのかと思っていたら、どうやら怒っているのは客人の方の奥さんのようである。俺が知っている奥さんの方は、やはり俺が知っている通りの、いつもの優しい静かな口調で、客人の奥さんを諌めている声だけが聞こえてきた。ということは、もしかしたら、あの奥さんはとても怖い顔をしているけれども、ついぞ人生の終わりまで、その見た目のような言動が見られないまま終わるかもしれないと思った。これほど激しい喧嘩のさなかにあっても見せないのだから。
どうしても、一家と一家というものは衝突しやすいらしい。一つ屋根の下、異なる家族が二部構成で住んでいた場合、それは飛行機よりもはやい速さで喧騒がやってくる。
家族というものは、それは、それだけで、その固有の味、経験、風、固有のなんらかで構成されており、それは個人とは一味も二味も違う、それはよくいわれる家庭の隠し味とかいわれるそれであり、それが二つ、組み合わされると、とんでもない化学反応が起こる。やはり、家庭の味は一つでいいらしい。それは、一個という個人と比したときと雲泥の差がある。やはり、家庭という家庭は、せいぜい、一年で一回、正月におせちを食べに集まるくらいがちょうどいいのだろう。ちょっと、週に一回は多すぎた。
誰か──という声が、二回、聞こえてきた。
(こりゃあ、いよいよ出ていったほうがいいのか?)
ちょっと、いつもより声が大きすぎる気がする。刃傷沙汰というような、嫌な気配がする。
しかし、邪魔をしてはいけないような気がする。一度、彼らの行きづまりというものが、どうしてもいちど火を噴いて、容をあらためなければ──
一度いくところまで行かなければ、ダメなような気がする。それを部外者が止めてはいけない。
しかし、今日は長い。かれこれ20分もこんな感じだ。
どうやら、まなちゃんのお迎え、保育園やらのお迎えの件で、盛大に揉めに揉めあっているらしい。主に声をあげているのは客人の奥さんだけだが。お迎えが原因でここまで怒るってことは、やはり単なる客人ではなく家族の血縁濃い関係からきていることがわかる。大の大人が4人で、20分も、お迎え一つの件で話し合って解決しないというのなら、それはもう難しすぎるということだ。ぜんぜんある。子供一つのお迎えが難しすぎるということは否応にして、この世にぜんぜんある。だから、そんなに、こんな簡単な問題の正解が見つけられないといって恥ずかしがる必要はない。それはもう回答がけっして得られないものだとして認めてしまった方がいい。
その、まなちゃんという娘は、確かに、いつもペロペロキャンディを舐めながら一人歩いているのを見かける、いつも、飴玉が好きで、漫画みたいにでかいアメダマをペロペロしながら歩いている女の子がいて、他の子供達は俺を見かけると挨拶してくれるのだけど、この少女だけは飴を舐めるのに夢中で俺に対して注意をはらう様子がない。というより、まだ、挨拶とかいうものがわかってない感じだ。他の子供よりもずっと幼い感じを残している。たぶん、あの子だろう──と思った。あの子だろうとわかったところで、飴をペロペロしているぐらいにしか育ってない子供に、どうして大人がそこまで気を揉まなければならないのか? たぶん、今も、怒っている大人たちを前にして飴をペロペロ舐めていることだろう。
自分でもなにかわからない。形を追ってみた。結婚してみた。子供を産んでみた。週に一回、よその家庭を招きいれてみた。楽しい。どんちゃん騒ぎ。子供が多すぎた。大人も多すぎた、単純に数の問題か。職場に行っても数、家に帰っても数、週末よその家庭が入ってきて数、数のせいで、静かになれる時間がない。静けさを自分の胸に持ってくるその気配すらわからなくなっている。
ただ、「神よ」と、心の中で唱えるだけでいい。
ただ。「神よ」と、一度だけ、心の中で、唱える。
本当にそれだけでいいのだ。
執筆の狙い
5752文字。まず先に、ヒョオオオオオワアアアアアって飛んでくる風は、なんですかね。