未定:BL小説
建蔽率いっぱいに古いビルやマンションがひしめき合う一角は、日当たりが悪く空気も倦んで停滞している。
元が何色だったか知れないそのマンションは、ところどころ塗装が剥落した部分から毒気を抜かれるほど間抜けな色をのぞかせている。
溶けたシャーベットのようなもったりと目につきまとうオレンジ色は、今は塗りこめられて凡庸なアイボリーに落ち着いたようだった。が、すでにくすんで中学校の上靴の陰気な色にしか見えない。
昼はとうに過ぎたけれども、夕景を望むには気の早い。どちらにも爪弾きにされて宙ぶらりんの時間帯。
マンションの薄暗い外廊下に、頼りない間隔で取り付けられた剥き出しの蛍光灯が一つ、切れる直前の不安定な点滅を繰り返している。
気怠い空気に馴染まぬ女の怒鳴り声が、甲高く響いた。
出てけ、このロクデナシ。
開くときにいやな音をたてる重い金属ドアが異様な速さで開き、同じくらい唐突に、酷い音を立てて閉じる。
罵声と共に寝起きの格好のまま戸外へ締め出された男は、ノブに手を掛けようとしてそのまま力なく腕を下ろした。
長袖の黒いTシャツにグレーのスウェット、裸足の先には片方だけ女物の赤いベロアサンダルが引っかかっている。
冬至も迫る今日びに外にでる格好、ましてや外に追い出す格好でない事は確かだった。
「ワシが悪かった、すまんって……開けてくれ」
決して中には聞こえない小さな声で呟きながら、狭川はドアを背で拭うようにずるずると滑り落ち床に尻をつけた。
ドアの向こうで何か物をひっくり返すような音と、若い女の声に似つかわしくない罵声が代わる代わる聞こえてくる。
ハルナ、どうかあのグラスだけは割らんでくれ、前のバーを辞める時にくすねてきたあのバカラ、クソ女、愛しとるよ。
妙な節回しで、口ずさむと調子っぱずれの都都逸のようだ。
中国の、あれはどの部族だったろうか。歌で喧嘩や愛の告白をするという。自分の歌は通用するのだろうか。
男は右手で寝癖のついた長い髪を鬱陶しそうにかき混ぜる。しょぼくれた溜息をついてスウェットのポケットから、よれよれになった煙草のソフトケースをとりだした。
潰れてひん曲がった煙草を指先でどうにか伸ばし、口の端に咥える。
それから火がないのに気付いて、咥えたまま舌打ちをした。
煙草一本分開いた唇から吐き出される呼気はうっすらと白く、対照的に鼻の頭はほの赤い。
ひびだらけのコンクリート床についた尻から冷えが這い登り、ぶるっと身じろぎした。
「悪いのぉ、何か。気つかわしちゃって」
廊下の端に向かって、思い出したように声をかける。気配が一瞬揺らいだ後、階段を登る靴音とともに男の頭部が見えた。
黒いダウンにダークブルーのマフラーを巻いた男は、胡乱な目をこちらへ寄越したが応えはない。その代わりとばかりに、聞えよがしなため息をついた。
自分が閉め出された部屋の隣に住む若い男だ。年のころなら自分より10歳は下、見かける時はいつも私服なので恐らく学生だろう。
ちょっと吃驚するくらい姿勢と目つきの悪い、陰気で不健康な印象の男。
学生と見当をつけてはみたものの、勉強以外に日頃何をしているのか想像もつかない。
呆れたような怒ったような表情を浮べて歩を進めてきた男が、サンダルのつま先前で立ち止まった。
顔を上げると、何かを言いかけてそれを堪えた男と目が合う。
その口元が白い呼気を漂わせているのをみて、余計に寒さを感じ、狭川は中途半端になげだしていた足を引き寄せ腕の中に収めた。
「また、怒らしてしもうてさ」肩を竦めると「見りゃ分かります」と素っ気ない声が返ってくる。
「相変わらず、ひどいもんですね」
ふんと鼻をならして、男が器用に目を眇めた。
「ハルナは悪くないよ、ワシが」
「あの女も、あんたも。両方」
狭川の台詞を遮る声は冷たく乾いている。自嘲に潜んだ自己憐憫を嗅ぎつけられた気がして、狭川は一瞬息をのむ。
わずかに頭を掠めたかもしれない、恥や矜持のようなもの。
そんな高尚な概念を———このざまで、未だに持ち得るとでも?
鼻先で笑って自問に答えれば、頬がひくりと引きつった。
「手厳しいね」
狭川は咥えたままの煙草をぷらぷら上下させる。
吸い口が湿ってきて不快だが、離すと余計寒いのではないかと馬鹿げた考えが頭に浮かんで、吐き捨てる気にもなれない。
男は、ふっと短く嘆息するとダウンのポケットに両手を突っ込んで歩き出した。そのまま狭川の前を通り過ぎ、突き当りの門部屋へ進んで行く。
「なぁ、ライター貸してくれん?悪いんじゃけど」
その背を目で追って声をかけると、さも迷惑そうに男が渋々振り返った。辛うじてのぞく横顔は雄弁に不快を訴えている。
男は意外と感情豊からしい。もっとも、嫌悪感に代表されるマイナスのカテゴリー以外は今のところ観測されてはいない。
「持ってないです。吸わないから」
目的は果たされなかったというのに、予想どおりの返答は狭川を満足させた。
今どき煙草といえば電子がせいぜいで、紙巻などは希少種だ。当然、ライターを持っているのも稀。
ライターいまどきもってる奴は、絶滅危惧種か、放火魔か、ホストか、キャバ嬢か、そのヒモくらい。
胸の内で節にのせる、恐らくどこかのCMソングだ。
あの部族の誰かが、もう片方のサンダルをくれさえすれば、自分は今すぐ移住して婿入りしてもいいと思う。
行きたいところも、やりたいことも特にないのだ。
どこでもいい———ここではない、どこかへ。
いつ流行った歌だろう?脳内で己をせせら笑えば声が下品に媚を含んだ。
「じゃあ、マッチ。お兄さん、マッチ持ってませんかぁ?」
「尚更持ってないです、お兄さんて、どこの客引きだよ」
男が小さく吹き出した。それから、耳の後を掻きながら「しょうがねぇな」と聞かせる体の独り言をもらす。
「火、コンロしかありませんけど」
ポケットから鍵を取り出しざまに、狭川へ向かって男が言う。
ドアの鍵と一緒にリングに留められている、いくつかのそれががちゃがちゃと鳴った。
「もう全然、喜んで」
狭川がのろのろと立ち上がるのを見て、若い男はまた器用に片方の目を眇める。
喘ぐように明滅していた蛍光灯が、じじっと誘蛾灯まがいの音をたてる。そこで、ついにこと切れた。
わずかな躊躇いを見抜いたように、男が台所のマットを足で引きずってきて狭川の前に設えた。
マンションの外廊下をぺたぺた歩いた足裏のまま、人の家に上がりこんでいいものか?と玄関の土間で考えていた狭川の脳内を、男は見透かしたらしい。
これで拭いて上がれと言わんばかりの所作だが、拭いた後にはそのままこのマットが元の位置に戻されるのだろう事は簡単に想像がついた。
変なヤツ。狭川は胸の内で呟いたが、口から出たのはどうもねと卑屈に捻じ曲がった声だった。
「そっちの部屋で待ってて」
やかんに水を注ぐ音で半分かき消された平板な男の声からは、何の感情も読みとれない。
取り敢えず家主の勧めに従って、狭川はコンロを横目にキッチンのようなスペースを抜ける。建付けの悪いガラスの引き戸を開けて部屋へ入った。
西側にある窓からはこの時間帯特有の、黄みの強い西日が差し込んでいる。陳腐な天使の梯子の中で、舞っている細かな埃がきらきらと輝いた。
隣部屋に唯一ある窓は南向きと言えば聞こえはいいが、ベランダから手の届きそうな距離にビルの壁面が迫っている。
それと比べれば、西日であろうが窓から入る自然光は、何となく落ち着いた心地がした。
「炬燵のスイッチを入れててください」
背中へかかった声に「はい」と返事をしかけて、家主とはいえ年下の男に「はい」はおかしいか?
そう思い直している内にタイミングを逃し、結局何も言わず炬燵布団に潜り込む。
部屋の真ん中に置かれている炬燵は、思っていたよりも二回りくらい大きい。大人が2人で入っても窮屈ではなさそうだとは思ったが、隣人という他は何も知らない男と足が触れあうのはぞっとしない。足を伸ばすことはせず、胡坐で座った。
布団と合わせれば、部屋の半分くらいを占領しているように見える。当然、手の届く範囲に積み上げられてる本やゲームやティッシュの箱、PCや2Lペットボトル、そういった炬燵の眷属も含めての話だ。
茶系小花模様のパッチワーク柄炬燵布団は、若い男の一人住まいには些か少女趣味に思える。が、よくよく見れば強い西陽で片側だけ色褪せ、縫い目に細かい埃が詰まっている無頓着ぶりは、逆にとても似つかわしいのかも知れない。
スイッチを入れるとヒーターから気持ち程度の熱が伝わってくる。石英管ヒーターは温まるのに時間がかかるのが難点だ。
実家にいた頃に年中出しっぱなしにしていた自室の炬燵も、そういえばこんなだったかもしれない。
もう10年も帰っていない実家の記憶はおぼろげだ。頭の奥底で澱のように蟠っている。
古い記憶を手繰ると、それらは胸骨を指でそろそろと押さえつけられたような不確かな痛みを伴って脳内にイメージを作り、端から霧散していく。
とりとめのない連想ゲームは、最後はいつか見た絵本の色合いになった。
何が描かれているのか輪郭も定かでない。隣の色とは全く馴染まず反目するように際立って、それでいながら全体としてはただ柔らかく褪せた色の寄せ集め。
それは狭川の内側をほんの少しだけ温かい何かで満たしたが、逆にそこ以外には途方もない虚ろが広がっているのを自覚させられるのだった。
狭川は目を伏せ、煙草の根本を指先でつまんだ。いい加減湿ったフィルターが唇の幅でふやけている。
吐く息が白いほど凍えた日に裸足で部屋から追い出され、隣の部屋へと上がりこみ、炬燵を眺めて故郷の感傷に浸る。
せめて、家主が野郎ではなく女だったら———これほど無様を晒した気分にはならなかったかも知れない。
どこを取っても間抜けだと声に出さずに笑った。
「コーヒー」
頭の上から仏頂面をそのまま表した声が降ってきて、テーブルの上に白いマグカップが置かれた。中の液体は黒い。
ミルクや砂糖は必要かと、狭川へ問う気はないらしい。
ミルクと砂糖をたっぷり入れないと、コーヒー飲めないんですぅ!
このやけに落ちついた———ふてぶてしい若い男に言ってやったらどうなるだろう、とは想像に留めた。
そもそも、コンロの火を貸すだけで済むところなのだ。客の面でのこのこと上がりこみ、炬燵で温まる胡散臭い隣人には、過ぎた「おもてなし」だろう。
「あ、お構いなく。すみませんね」
習い性で薄笑いが顔に張り付く。
若い男は、寄せた眉根に不快感を表してそれやめてくれません? と言い、更に「その喋り方、なんかムカつくんで。あんたの方が年上でしょ」と諫める口調で続ける。それから阿久津と名乗った。
あ、狭川です。つられて間抜けな抑揚で名乗ると、沈黙が再びその空間を満たした。
阿久津はエアコンのリモコンを操作して床に投げ捨て、ダウンを着たまま狭川の真向かい座りコーヒーを啜る。
狭川もカップに口をつけた。鼻先を突っ込んでも殆ど匂いがしないのに面食らったが、なんとか顔には出さず、口中の液体を飲み込む。
恐ろしく香気の飛んだインスタントコーヒーは絶望的に不味い。風邪で鼻が利かない時のように小火の味がする。それでも体が冷えていれば、熱源としての価値は辛うじて見いだせた。
ようやく人心地ついた狭川は、無聊にかこつけて向かいの男をしげしげと観察する。
自分の風体に怯む様子も見られない阿久津に、わざわざ気をつかう必要も感じない。
髪がほうぼうを向いて逆立っている。下ろせば長そうだ。
毎朝手間がかかっていそうではあるが、どのような効果を狙ったものかは不明。
しいて言えば、古のパンクバンドがそんな髪型だったような気もする。この世代に通じるかどうかは微妙なところだ。
頬のこけたシャープな輪郭に不健康なトーンの肌。生気の感じられない無感情な目を、釣り合いを欠いた豪華な睫毛が取り巻いている。
形の良い唇はそこだけ妙に肉感的だ。皮肉のあらわれた歪みの非対称性が、なぜか胸の奥をざわつかせた。
「そういや、火でしたよね」
頭のあたりでエアコンの温風を感じられるようになった頃、漸く上着を脱いだ阿久津がガラス戸の向こうへ立った。
「灰皿ないんで」狭川の前に置かれたのは発泡酒の空き缶と、何故か持ち手部分のプラスティックが一部溶けたペールブルーのチャッカマンだった。
前に鍋食った時に、誰かが持ってきたのがあったんで。
言いながら阿久津は炬燵に入りなおす。持ち上げられた炬燵布団からようやく温まった空気が逃げ出して、まだ冷たい室内の空気が狭川の素足を撫でた。
「ありがとう、でも、ここ禁煙じゃろう?これ借りて外で、」
「別にいやじゃないけど。寒いのが好きだって言うんなら、要らないからあんたに差し上げますよ」
口の端を片方だけ皮肉っぽく吊り上げるのが、とても様になっていると狭川は自然に思い、慌ててそれを打ち消した。
なんだって、コイツは年下のくせしやがってこんなに生意気なのか。
「……じゃ遠慮なく、しばらくここへ居ってええかな?」
煙草を、何本か吸う間。
頬杖を付いたのと反対の手を、口許まで持ち上げる。狭川は、指先に挟んだ煙草を男へかざしてゆらゆらと揺らした。3番目のバーにいた時の営業用スマイルを思い出して、努めてそれを作る。
そうでもしなければ、阿久津とのアドバンテージが埋まらないように思えたからだが、男の表情から効果のほどは読み取れない。
「別に構わないですよ、今さら」とため息交じりに応答した阿久津の声音も、最初と何らの変化もないように思われた。
チャッカマンがいきなり最大の火柱をあげ、煙草の先端をバーベキューさながらに焦がしていく。立ち上る煙の向こうに、何やってんだと言いたげな阿久津の顔が見える。
すうっ、と深呼吸するようにニコチンを吸い込むと肺が少しだけ緊張し、ため息に似せて吐き出せば背中から安堵が広がっていく。
途端に、年下の男に謙っていた自分が阿呆らしく思える。狭川は両手で髪を後ろへ撫でつけたあと、頤の無精髭を弄びながらくつくつと咽喉で笑った。
「阿久津くんさぁ、学生?」
「はぁ」
「だよね」したり顔で受けると、阿久津は何がだと口には出さずに表情で続きを促す。
横着とも傲岸ともとれる態度に内心クソガキ! と思ったが、最初ほど嫌な気分でもない。
神も仏も、サンダルのもう片方を差し出して求婚してくれる素朴な部族の娘もいないが、ニコチンが自分に力を与えてくれているらしい。
「その頭でリーマンは、ちと無理筋じゃろ?」
正答をさらす子供のように得意顔で心持ち顎をあげた狭川へ、阿久津はにやっと悪人面で笑った。
「あんたはバーテンで、キャバ嬢と同棲中。今は無職、そんなとこ?」
ぴたりと言い当てられて、狭川は表情を落として口を噤んだ。
「隣の女の人と外で会った事がある。で、あんたはいつもベランダで煙草を吸ってる」
その時、鼻歌うたってグラス磨いてた。
ああ、それはあのバカラだ。
退職金だと断りもせずに持ち出して、逃げるように自分はあのバーを飛びだしてきたのだ、磨くに値するグラスなどあの部屋にはあれ一つきりだ。
1番目は半グレ詐欺集団、2番目はヘルスの送迎、4番目はキャバクラの黒服、からのキャバ嬢のヒモ。
3番目の、雨が降ると恐ろしく滑る階段を下りた地下のほの暗い穴倉。漆喰の白とカウンターのマホガニーが見事に調和した、趣味の良いあのバー。
グラスの薄さに磨く手が震えそうだと恐れていた頃の自分は、多少はマシだったと狭川は思う。
———ここではないどこか。それは一体どこにある?
「変なとこばっか見られとるのぉ、ワシは君に」
突然甦ってきた過去の記憶に、自分の顔が泣き笑いの情けない表情になっているのを自覚したが、それを今更取り繕う手立てもない。やけに確りと自分に据えられた阿久津の視線に、応える気力も湧いてはこなかった。
その目が左腕の袖口の辺りに留まっているのを感じて、自分もそこへ目を落とす。
小さく歪な二つの内出血。もはや痛みはない。そのうち周りが薄気味悪い黄色になるのが、悩ましいところだ。
「見たくて見てるんじゃないですけど」
そうじゃろうとも。
狭川は力なく笑って、大きく髪をかき上げた。
すっかり長くなった煙草の灰を、飲み口で綺麗にこそげ落としてから中に落とす。缶の中で小さくじゅっと哀れっぽい音がした。
執筆の狙い
普段は二次創作BL小説を書いています。このたび一次小説を書いてみようと思い、まずは冒頭の章を仕上げました。原作を借景せずに、キャラクターを立体的に書くことができるのかが不安だったため、その辺が読み取れるようになっているかを知りたいです。それと、冒頭なので、続きを読みたいと思わせるヒキがあるかどうかも、教えていだだけると幸いです。