一人称から三人称へ――段落構造で書き分ける話法の実践
「段落が語る物語」理論 ― 日本語小説における話法と配置モデル
1. はじめに
小説において、登場人物の発話や思考をどのように表現するかという手法は「話法」と呼ばれます。本稿では、日本語小説において「段落構造」と「話法」がどのように結びついているかに注目します。具体的には、段落冒頭に置かれる「自由直接話法的な反応」と、段落末尾に配置される「自由間接話法的な評価」という配置モデルを提案し、その機能を中心に考察していきます。
2. 直接話法と間接話法
まず、基本となる二つの話法を確認しておきましょう。
直接話法は、発言をそのまま引用して示す方法です。
タカシは「明日学校へ行こう」と言った。
このように、引用符(カギカッコ)を用いて人物の言葉を再現します。
これに対して間接話法は、語り手が発言の内容を自らの言葉に置き換えて伝える方法です。
昨日、タカシくんは今日学校に来ると言っていました。
このように、発言内容が語り手の叙述の中に組み込まれるのが特徴です。
3. 自由直接話法と自由間接話法
直接話法や間接話法から派生した表現として、「自由直接話法」および「自由間接話法」と呼ばれるものがあります。ここで言う「自由」とは、「〜と言った」「〜と思った」といった伝達節を伴わずに、人物の発話や思考を記述することを意味します。
自由直接話法は、人物の発話や思考が引用符を用いずに地の文の中に現れる表現です。形式としては語り手の叙述と同じ形をとりますが、文末の語調や文脈によって「人物の声」として理解されます。
一方、自由間接話法は、人物の思考や感情が語り手の叙述(三人称・過去形など)の形式で示される表現です。
日本語では、人称や時制の区別が必ずしも明確ではないため、語り手の叙述と人物(主人公)の思考の境界が曖昧になりやすい傾向があります。特に日本語は主語の省略が頻繁に起こり、時制も文脈に依存して理解されることが多いため、発話主体や時間の位置づけが明示されないまま叙述が進むことも少なくありません。しかし、人物の心理を語り手の叙述の形で提示し、あたかも「物語の事実」であるかのように読者に伝える点に、自由間接話法の最大の特徴と言えます。
4. 日本語小説における話法の曖昧さ
日本語は主語の省略が多く、また文末の「モダリティ」が豊富であるため、発話主体や評価の帰属が文脈に委ねられることが多々あります。文末表現(モダリティ)の違いによって、同じ内容であっても語り手の叙述として読むことも、人物の声として読むことも可能になります。
ここで言うモダリティとは、文の内容そのもの(事実)ではなく、それに対する話し手の判断・感情・推量などを示す文末表現(例:「〜だろう」「〜かもしれない」「〜な」など)を指します。
彼はコーヒーを飲んだ。悪くない味だった。
この表現は、語り手の叙述として読むことができます。しかし、文末を変えると人物の声として理解されやすくなります。
彼はコーヒーを飲んだ。悪くないな。
この場合、「悪くないな」は人物の感想として読まれる可能性が高まります。本来であれば「〜と思った」という伝達節を伴うべきところですが、それが省略されることで、人物の思考が直接的に提示される形になるのです。
5. 段落冒頭の反応文:自由直接話法
段落の冒頭に人物の反応が置かれる場合、それは読者に強い印象を与える働きを持つと考えられます。心理学では、情報列の最初に提示された内容が記憶に残りやすい現象を**初頭効果(Primacy Effect)**と呼びます。つまり、最初に提示された情報は長期記憶に定着しやすく、第一印象や最初のインパクトとして強く認識される傾向があるのです。
小説の段落構造においても、段落の最初に置かれる文は読者の注意を引きやすく、人物の感情や反応を提示する位置として機能することがあります。例えば、次のような段落を考えることができます。
彼はコーヒーを飲んだ。
悪くないな。飲み干したコーヒーカップをテーブルに置いた。
彼女はコーヒーを飲んだ。
悪くなかったわ。飲み干したコーヒーカップをテーブルに置いた。
ここでは段落の冒頭に人物の反応が置かれ、その後に行動描写が続いています。「悪くないな」「悪くなかったわ」は、本来であれば「~と思った」といった伝達節を伴うこともできますが、それが省略されています。このような表現は人物の独白に近く、形式としては自由直接話法に近い働きをしていると考えられます。
6. 段落構造と自由間接話法の配置
自由間接話法を成立させるためには、まず、段落において「語り手の視点」と「主人公の視点」を一致させることが必要となります。以下の例文でそのプロセスを検討してみましょう。
アキラは公園の方を見た。片隅のベンチに髪の長い女性が座っていた。なんて美しいのだろう。
この一連の流れにおいて、読者の認知には時間的な落差が生じます。まず語り手はアキラの視線(客観的行動)を描写し、次に視覚的な客観描写を提示します。この段階で、読者の意識はアキラの視点と同期します。
その直後に現れる「なんて美しいのだろう」という感嘆文(モダリティ)を読んでいる瞬間、読者はまず、これを「語り手による状況の提示」として受け止めます。ここでも初頭効果が働き、文法的な客観性によって「この女性は美しいものである」という情報が先行して定着します。
しかし、一文を読み終えた後、読者はそれがアキラの視線の先にある感想であったことに気づきます。美しいと評価したのはアキラですが、語り手の文体で提示されたことによって、読者はそれが個人の主観であることを超え、物語世界における「動かしがたい事実」として受容することになるのです。さらに、段落の最後に残ったその美しさの余韻は、後からじわじわと効いてくる**親近効果(Recency Effect)**とも相まって、読者の脳裏に決定的な事実として刻まれることになります。
このプロセスを整理すると、以下の三段階になります。
①視点の同期:主人公の行動や視線を客観的に描写する。
②情報の共有:主人公が接している状況を具体的に提示する。
③主観の浸食(自由間接話法):同期された状況の中に、主人公特有の感情や判断を、語り手の言葉という体裁を保ちながら滑り込ませる。
7. 村上春樹『1Q84』における視点と話法の交錯
前章のモデルは、村上春樹氏の『1Q84』において極めて洗練された形で実践されています。冒頭の第1段落を引用します。
「タクシーのラジオは、FM放送のクラシック音楽番組を流していた。曲はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』。渋滞に巻き込まれたタクシーの中で聞くのにうってつけの音楽とは言えないはずだ。運転手もとくに熱心にその音楽に耳を澄ましているようには見えなかった。中年の運転手は、まるで舳先に立って不吉な潮目を読む老練な漁師のように、前方に途切れもなく並んだ車の列を、ただ口を閉ざして見つめていた。青豆は後部座席のシートに深くもたれ、軽く目をつむって音楽を聴いていた。」
(村上春樹『1Q84』BOOK 1、新潮社文庫、7頁より引用)
この冒頭において、青豆は「軽く目をつむって」います。それにもかかわらず、地の文では運転手が「耳を澄ましているようには見えなかった」という視覚的判断が下されています。青豆が見ていない以上、この「見えなかった」というモダリティの主体は、全知的な語り手にほかなりません。
ここで注目すべきは、語り手の文体が極めて能動的に介入している点です。運転手を「老練な漁師」に喩えるレトリックや、「うってつけの音楽とは言えないはずだ」という価値判断は、読者にまず客観的な状況設定として受容されます。
続く場面では、青豆が目を開け、対象を視認することでより鮮明な自由間接話法が出現します。
「……(前略)……見かけからして高級品であることが分かった。たくさんのつまみがつき、緑色の数字がパネル上に上品に浮かび上がっている。おそらくハイエンドの機器だ。普通のタクシーがこんな立派な音響設備を装備しているはずがない。」
(村上春樹『1Q84』BOOK 1、新潮社文庫、15頁より引用)
この段落末の二文は、前章のモデル通り、客観描写の直後に主観的なモダリティ(推論と断定)を置くことで、青豆の思考が物語内の「客観的事実」へと昇華されています。
さらに、物語の序盤においても、段落内の話法配置による巧みな効果が見られます。
「日暮れまで? 青豆は自分が日暮れまでその場所に釘付けにされているところを想像してみた。……(中略)……さっきのねじれた感覚は、今ではもうずいぶん収まっていた。あれはいったいなんだったのだろう?」
(村上春樹『1Q84』BOOK 1、新潮社、21頁より引用)
この箇所では、「日暮れまで?」という自問が、改行されずに地の文と同一の段落冒頭に置かれています。読者はまずこの疑問文に出会うことで、初頭効果的に青豆の主観受容に触れます(自由直接話法)。その直後に語り手が「日暮れまで……想像してみた」と繋げることで、作者はこの問いが主人公の声であることを読者に再認識させています。
一方で、同一段落の末尾に置かれた「あれはいったいなんだったのだろう?」という自由間接話法は、三人称・過去形の地の文に完全に同期しているため、読んでいる瞬間は語り手による叙述として自然に受容されます。しかし、読み終えた後の残響によって、青豆の抱いた違和感が読者の脳裏に物語内の事実として定着するのです。
また、三人称叙述の内部に人物の思考が強く侵入する極端な例も存在します。
「裸でベッドに入ったまま、十一時のニュースを見ていた。……(中略)……どちらも世界でいちばん聡明には見えなかった。人並み以上に頭の切れる人間は、できるだけ大統領にならないように努めているのかもしれない。」
(村上春樹『1Q84』BOOK 1、新潮社、153頁より引用)
ここでは伝達節が省略されているだけでなく、人物特有の価値判断が整理されないまま、地の文の静かなトーンに侵入しています。これは自由間接話法と内面独白の中間に位置する表現であり、読者をより直接的に人物の意識へと接続する装置として機能しています。
「ときどき間違えて『枝豆さん』と呼ぶ人もいた。三十年間も人生でいったい何度、同じセリフを聞かされただろう。こんな姓に生まれていなかったら、私の人生は今とは違うかたちをとっていたのかもしれない。たとえば佐藤だとか、田中だとか、鈴木だとか、そんなありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたのかもしれない。」
(村上春樹『1Q84』BOOK 1、新潮社文庫、14頁より引用)
三人称小説において「私」が現れるのは、通常であれば人称のブレとみなされます。しかしここでは、青豆の深層意識における内省的独白が、具体的な名前の列挙というリズムと共に地の文の殻を突き破って溢れ出したものと解釈できます。
こうした手法について、村上春樹氏自身の創作プロセスは、一人称における内省的な「私」の感覚を、三人称の「彼/彼女」へと滑らかに移し替える操作に近いのではないかと推察されます。いわば「一人称の内面」を三人称の形式に写し替えた書き方でありながら、全知的な語り手の視覚が基盤として働いているため、三人称小説としての安定性が保たれているのです。
8. 芥川龍之介『羅生門』にみる人物視点叙述
村上春樹氏と異なる形態として、芥川龍之介『羅生門』にも人物視点に密着した叙述が見られます。
「この雨の夜に、この羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。」
(芥川龍之介『羅生門』より引用)
この一文は、語り手による客観説明のように見えながら、実際には下人の推論がそのまま叙述として提示されています。特に「どうせ」という語は、論理的推論というよりも人物の主観的な諦観や先入観を帯びた言い回しであり、語り手の中立的叙述としてはやや不自然です。したがってこの文は、語り手が下人の思考を地の文へ溶け込ませた表現、すなわち自由間接話法に近い叙述と見ることができます。
同時に、この作品では語り手が完全に透明な存在ではなく、物語世界を語り出す「主体」としての人格をほのかに帯びています。その語りの内部に下人の知覚や推測が滑り込むことで、読者は自然に人物視点へ導かれる構造になっています。
「見ると、楼の内には、噂に聞いた通り、幾つかの死骸が、無造作に棄ててあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とがあるという事である。勿論、中には女も男もまじっているらしい。」
(芥川龍之介『羅生門』より引用)
ここでは「見ると」という視線導入によって叙述が下人の視覚に同期しています。また「思ったより狭い」「おぼろげながら知れる」といった表現は、客観的説明というよりも、下人が知覚した情報の限界を示しています。読者は結果として、下人の視点に強く同期させられることになるのです。
9. 川端康成『雪国』における「感性の表出」という別手法
これまで考察してきた手法以外にも、日本語小説には自由間接話法的なアプローチが存在します。例えば川端康成『雪国』における叙述です。
「一面の凍り付く音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。すべてさえ静まった調和であった。
島村が近づくのを知ると、女は手すりに胸を突っ伏せた。それは弱々しさではなく、こういう夜を背景にして、これより頑固なものはないという姿であった。島村はまたかと思った。
しかし、山々の色は黒いにもかかわらず、どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた。そうすると山々が透明で寂しいものであるかのように感じられてきた。空と山とは調和などしていない。」
(川端康成『雪国』48頁より引用)
ここで注目すべきは、「空と山とは調和などしていない」という語りによる訂正です。全知的な語り手が自らの断定を翻すという不自然な挙動や、「見えた」という主観的な知覚動詞の使用は、描写の主体が語り手ではなく島村の感性に寄り添っていることを示しています。
村上春樹氏が段落構造によって主観を客観的事実へと昇華させるのに対し、川端氏は語り手の揺らぎを通じて主人公の感覚を浮かび上がらせています。これは、自由間接話法には多様な形態があることを示す好例と言えます。
10. 日本語小説における自由間接話法表現のスペクトラム
日本語小説における主観表現は、以下の三つの層として整理することができます。
1.配置型自由間接話法(村上春樹型)
2.人物視点叙述(芥川龍之介型)
3.感性表出型叙述(川端康成型)
11. おわりに
本稿では、日本語小説における段落構造と話法の関係に注目し、段落冒頭の反応(自由直接話法)と、段落末尾の評価(自由間接話法)という配置モデルを提示しました。
日本語小説における主観表現は単一の形式に収まるものではなく、①段落配置によって主観を客観化する村上春樹型、②知覚と推論が叙述に溶け込む芥川龍之介型、③語り手の揺らぎによって感性が表出する川端康成型、といった複数のスペクトラムとして理解することができます。
自由間接話法とは、単なる文法的技法ではなく、語り手と人物の視点をどのように重ね合わせるかという「叙述設計」の問題です。段落構造とモダリティの配置は、その設計を具体的に実現する重要な装置であり、読者を人物の内面へと導く語りのダイナミズムを生み出しているのです。
※※作家でごはん用番外編(話法実験)※※
作家でごはんでは、生成AIでの作品の受付はしないようなので、(誤字脱字チェック以外)AIを使っていない文章(練習用冒頭)も追加しておきます。
意図としては、村上氏の段落構造を真似すると、一人称小説を三人称小説にすることも比較的簡単で、(個人的には)違和感の少ない作品ができると思います。もちろん、同じタイトルの一人称と三人称の作品をそれぞれ作るわけではありませんが、同じ文体で、一人称、三人称小説を書き分けることができるようになるメリットがあると思います。
上記レポートを踏まえて、しいな様へ差し上げた一人称の冒頭を三人称に書き換えてみます。
一人称
「引っ越してきてよかったわね、あなた」
妻の○○は満足そうに、両手で持っていたテーカップをテーブルに置いた。カタッと木目との音がした。
「ああ、そうだな」
内心ホッとした。定年を機に田舎に家を買ったが、この数か月、妻が馴染めているか気がかりだった。ご婦人方との付き合いもあるのだから。
正面に座る横顔の妻の視線をなぞるように、ダイニングキッチンの窓の外を見た。
広めの庭に数本の植木がある。椿なのか山茶花なのか、枝の剪定を妻に頼まれていたことを思い出した。忘れていた。
面目ないと妻の方を見ると、静かな呼吸で目を閉じていた。(5月の)そよ風が舞い込んで髪を揺らした。
「ねえ。水の流れる音がしない?」
流し台に目をやると、蛇口からは流れていない。風呂の方かと立ち上がると妻が言った。
「そうじゃないの。川の流れる音よ」
再度窓の外を見るが、この位置からでは庭の先に流れる川は見えない。代わりのその向こうの切り立った山肌にゴツゴツとした岩肌と力強くしがみ付く木々の緑が写る。
「ガタン」
妻は立ち上がり窓へと歩いて、サンダルがあったのだろうと外へ降りた。妻は私の方に振り向いて言った。
「あなたの履物はないから玄関を回って」
川のほとりまで行ったことは、これまで私はなかった。
三人称
「引っ越してきてよかったわね、あなた」
菊池光一の妻アンリは、満足そうに両手で持っていたテーカップをテーブルに置いた。カタッと木目との音がした。
「ああ、そうだな」
光一は定年を機に田舎に家を買ったが、この数か月、妻が馴染めているか気がかりだった。ご婦人方との付き合いもあるのだからと、内心ホッとした。
正面に座る横顔の妻の視線をなぞるように、光一はダイニングキッチンの窓の外を見た。広めの庭に数本の植木がある。椿なのか山茶花なのか、枝の剪定を妻に頼まれていたことを思い出した。忘れていた。
面目ないと妻の方を見ると、静かな呼吸で目を閉じていた。(5月の)そよ風が舞い込んで髪を揺らした。
「ねえ。水の流れる音がしない?」
流し台に目をやると、蛇口からは流れていない。風呂の方かと立ち上がると妻が言った。
「そうじゃないの。川の流れる音よ」
再度窓の外を見るが、この位置からでは庭の先に流れる川は見えない。代わりのその向こうの切り立った山肌にゴツゴツとした岩肌と力強くしがみ付く木々の緑が写る。
「ガタン」
妻は立ち上がり窓へと歩いて、サンダルがあったであろう外へ降りた。振り向いて妻は言った。
「あなたの履物はないから玄関を回って」
光一が川のほとりまで行ったことは、これまでなかった。
この手法で書くと、一人称も三人称一元視点として変更しやすいと思います。いかがでしょうか? 違和感はありますか?
執筆の狙い
2週間前に投稿した論文のうち、自由間接話法の部分をより詳しく考察したレポートになります。前回より読みやすさを意識して書き直しました。
今回のポイントは、心理学の初頭効果と文末効果を、小説の段落構造にどう応用できるかという点です。
実際にこの効果が読書体験の中でどのように感じられるか、また、レポート内で示した方法が文章として自然に機能しているかについて、ご意見をいただけるとありがたいです。