作品名
両腕の中で動いた我が子は空腹だった。寝息のまま深呼吸をして、僅かな苛立ちを込めて息を吐く。
「どうしたの?」目は天井に向け、母は沈めた声で聞く。
「お腹すいた。」
「もう夜なの。ほら、お父さんももう寝てるんだし、起こしちゃ駄目でしょ?明日も早いんだから。」母は、諭すように子の目を見ながら言う。
「でも、お腹すいた。」
「そう。」母は困った。
リビングを挟んで向かいの部屋で眠る夫は、起こされる事を酷く嫌う。
「お母さんが、少し話をしてあげる。ご飯は明日の朝沢山作ってあげるからね。」
子は母の両腕の中に戻り、母の顔を見上げた。
「お母さんはね、人の顔を見分けるのが苦手なの。もちろん、お父さんやおばあちゃん、あなたの顔はすぐに分かるけどね。」
子はよく分からないという顔をする。
「そうね、あなたにもお友達は沢山いるでしょう?」
「うん。」
「そう、お友達は皆それぞれ違った背格好をしているでしょう?背の高い子、背の低い子、あなたの塾の先生は大きいお腹をされてるでしょう?」子はすこし考えて頷く。
「だからね、顔にある眉毛や鼻の広がりの1、2センチって、こんなにもはっきりとした『形』に比べると実はとても小さなものなの。」
少し間が空いて子は頷く。
「だから、お母さんはね、あなたの塾の先生やこの前のお花のお姉さんのお顔もね、覚えられないの。」母は少し寂しそうに言った。
子の抱きつく腕が僅かに強くなった。
「あなたの形?大丈夫。あなたの顔はしっかりと覚えられるの、だって私がお母さんなんだから。でも、他の小さい子を覚えるのはとても難しいの。時間は形を変えちゃうでしょう?小さい子は特に。」
子は母の顔から目を離さなかった。
子は生まれつき脚の筋肉が他の子供より少なく、歩く時にはいつも、ぎこちない弧を描くようにして歩いた。
母はいままで形を言葉に移し替えようとした事はなかったので、答えあぐねた。
「ねぇ、お母さん。どんな形をしているの?」
「そう、ね。夜明けみたいな形ね。」
「夜明けに形はないよ」
母は、子の脚はいつか治ったように見える事を医師から知らされていた。
足の筋肉の不足が、成長により発達して行き、健常者に極めて近い状態になるらしい。
「夜明けに形はないけれど、お母さんはね、そう思うの。」
母は子の頭をそっと撫でた。
「多くの形の中で、あなたの顔だけが見えた時、私は私で良かったと思うしあなたがあなたで良かったと思うの。笑顔を見ると、心臓がほろっとしちゃうの。知ってる?若さって、恐ろしく眩しいの。夜明けの太陽よりもよ?」母は少し寂しくなった後、ふと思いついて、限りない愛を込めて言った。
「あなたはまだ夜を明かしたことがないでしょう?」
子は夜明けまで起きていたことがまだ無い。
「今より少し大きくなって、夜明けの太陽を見た時、あなたは今よりも沢山のことができるようになったり、分かるようになったりするの。」子は、うつらうつらとし始めた。
重くなったまぶたをゆっくりと閉じながら
「おやすみなさい。」と聞こえた。
母も目を瞑った時、月明かりに反射した我が子の髪が眩しくて顰めた。しかし、自分の眉間を触り思い直し、穏やかに目を瞑った。
2人は眠った。
【完】
執筆の狙い
1377文字ですすすすすすすすすすすすすすすす