誰も始点にならない輪
【帝国海軍第三艦隊旗艦〈カール・グスタフ〉士官私室「ホテル」/ ヴェスターラント泊地 / 七月二十八日 午前二時】
旗艦の第四甲板、機関区画の上に士官私室があった。正式な名称は第二士官待機室だったが、艦隊の士官たちはここを「ホテル」と呼んでいた。革張りのソファが二脚、紫檀のテーブルが一台、壁には帝国の地図と、先代司令長官の肖像画。戦時下にもかかわらず、ここだけは絨毯が敷かれていた。艦隊司令部の体面のためだった。
ブレヒト中佐が入室したとき、エーレンフェルト中将はテーブルの前に座っていた。軍服の上衣を脱ぎ、白いシャツの袖を片方だけ捲り上げていた。テーブルの上にはコーヒーポットと、航海用の陶製カップが二つ。一つはすでに半分空だった。
「失礼します」
「座れ」
ブレヒトは向かいに座った。エーレンフェルトが空のカップにコーヒーを注いだ。ブレヒトは礼を言って口をつけた。薄かった。本物のコーヒー豆は半年前に底をついていた。今は代用品に僅かな本物を混ぜて煮出したものだった。
「眠れませんか」
「寝てもやることがない。命令が来るまでここにいる」
「命令は——来るのでしょうか」
エーレンフェルトはカップを両手で包んだ。大きな手だった。砲術出身で、若い頃は砲塔の中にいた手だった。
「来るだろう。何かしらの形で」
ブレヒトはカップを置いた。
「閣下。少し、お話ししてよろしいでしょうか」
「愚痴か」
「はい」
エーレンフェルトの口元が僅かに動いた。
「聞こう」
ブレヒトは姿勢を崩さなかった。だが声の調子を少しだけ落とした。この「ホテル」では階級が半分だけ溶ける。旗艦の暗黙の規則だった。
「閣下は、此度の戦争に勝てるとお考えですか」
「勝つの定義による」
「では、此度の戦争の目的は何でありますか」
エーレンフェルトはコーヒーを啜った。答えなかった。
「私の弟はラーゲンブルクで戦死しました。去年の夏です。陸軍の第十四師団で、島嶼防衛に配置されていました。全滅です。玉砕と発表されました。弟は三十一歳で、妻と生まれたばかりの娘がいました」
エーレンフェルトはカップを置いた。
「弟の死に意味があったかどうか、私は問いません。意味がなければ耐えられないとか、そういうことでもありません。ただ知りたいのです。弟は何のために死んだのか。ラーゲンブルクを守ることが此度の戦争のどこに位置づけられるのか。あの島を守れていたら何が変わったのか。守れなかったから何が変わったのか。私にはわかりません。参謀本部にもわからないのではないかと思います」
エーレンフェルトは黙って聞いていた。
「それで、少し調べました。此度の戦争のことではなく、もっと前のことを。帝国がどうやってここに来たのかを。学生時代に歴史を学んでおりましたので、資料は頭にあります」
「言ってみろ」
「大戦のとき——最初の大戦のとき、帝国はアーヴィントン王国と同盟しておりました。アーヴィントンは帝国に地中海への艦隊派遣を要請しました。帝国は断りました。自国の防衛を理由にしましたが、要は利益が見えなかったからです。海軍を出して何を得るのか。それが定義されていなかった。だから出さなかった。結果、同盟国としての信用を失いました」
「それは知っている」
「はい。しかし同時期に、帝国は東方のユァン朝に対して二十一箇条の要求を突きつけています。地中海には出さないが、東方の権益は欲しい。アーヴィントンから見れば、帝国は義務を果たさず利益だけを取ろうとする国家に見えたはずです。ユァン朝から見れば、帝国は西洋列強と同じ収奪者に見えたはずです。そしてユァン朝の民間商人たちは、大戦中、連合国側に多大な資金援助を行っています。帝国が同盟の義務を渋っている間に、東方の商人のほうが帝国の同盟国に貢献していた」
ブレヒトはコーヒーを一口飲んだ。まだ薄かった。
「閣下、帝国はそのあと東方共栄圏を宣言しました。東方の解放、東方の近代化。しかし実態がどうであったかは、閣下もご存じの通りです。もし帝国が本気で共栄を意図していたなら、ユァン朝に工場を建て、鉄道を敷き、技術を与えればよかった。産業革命の灯火を東方に渡せばよかった。そうすれば帝国は東方全体の盟主として、合衆国と対等に渡り合える経済圏を手にしていたかもしれない。しかし帝国はそうしなかった。収奪しました。そして収奪した資源で艦隊を建造し、その艦隊で今、ここに浮いています」
エーレンフェルトは肖像画を見ていた。先代司令長官。帝国海軍の全盛期を率いた人物だった。その艦隊の残骸が、今この泊地に繋がれている。
「私が申し上げたいのは、帝国の対外政策には一貫した目標が一度もなかったのではないか、ということです。地中海派遣を断ったのは目的がなかったからです。東方に要求を突きつけたのは目の前の利益があったからです。共栄圏を宣言したのは資源が必要だったからです。開戦したのは——閣下、なぜ開戦したのでしょうか」
「資源を絶たれたからだ」
「はい。資源を絶たれた。なぜ絶たれたか。東方での行動が合衆国の権益と衝突したからです。なぜ衝突したか。東方での行動に歯止めがなかったからです。なぜ歯止めがなかったか。歯止めを定義するための上位目標がなかったからです。帝国が何を望む国家なのか、どこまでを自国の圏域とし、どこからを他国の圏域と認めるのか、それを定義する意思が——」
「ブレヒト」
「はい」
「お前の言いたいことはわかった」
ブレヒトは口を閉じた。
エーレンフェルトはコーヒーポットを持ち上げ、自分のカップに注ぎ足した。ポットはほとんど空だった。最後の数滴が陶器の底を叩いた。
「目的はない。最初からなかった。お前の言う通りだ」
ブレヒトは何も言わなかった。
「此度の戦争の目的を、俺に聞くな。俺は艦隊を預かっているだけだ。参謀本部は次の会戦を計画しているだけだ。政府はユーラティア連邦に仲介を依頼しているが、ユーラティアは来月にも我が国に宣戦する。外務省はそれを知っている。知っていてなお仲介を依頼している。なぜなら他にやることがないからだ。目的があって手段を選んでいるのではない。手段が先にあって、それを実行することが目的になっている。ユーラティアに電報を打つことが外務省の仕事だから打つ。艦隊を泊地に繋いでおくことが海軍の仕事だから繋いでおく。お前の弟を島に送ることが陸軍の仕事だから送った」
ブレヒトの手がカップの上で止まった。
「弟は——弟は、仕事として死んだのですか」
「そうではない。そうであってたまるか。だが、お前の弟を死なせた命令を出した人間に聞いても、答えは返ってこない。その人間もまた命令を受けて実行しただけだ。命令を出した人間も。その上も。全員が自分の職責を全うしている。全員が目の前の問題に対処している。誰も悪くない。誰も愚かではない。だが全体を見ている人間がいない。全体を見る責任が誰にあるのか、それすら定義されていない」
「皇帝陛下は——」
「陛下は御前会議で裁可される。裁可するためには案が上がってこなければならない。案は参謀本部と政府が作る。参謀本部と政府が案を作るためには目的が必要だ。目的は陛下が——わかるか。回っている。誰も始点にならない輪が回っている」
沈黙が落ちた。艦の機関は停止していた。泊地に繋がれた艦は、潮の動きだけで微かに揺れていた。
「閣下」
「なんだ」
「私の弟の娘は、今年一つになりました。名前はエリーゼです。弟が決めた名前です。出征の前日に届け出ました」
エーレンフェルトはブレヒトを見た。
「弟が何のために死んだかはわかりません。わからないことは受け入れます。しかしエリーゼが大きくなったとき、伯父として何と伝えればよいのか。お父さんは帝国のために死んだと言えばいいのか。帝国は何のために戦ったか聞かれたら。答えがないと言うのか。一歳の姪に」
エーレンフェルトは答えなかった。答える代わりに、空のコーヒーポットをテーブルの端に寄せた。
「ブレヒト。お前は此度の戦争はツケだと思うか。帝国が三十年かけて溜め込んだツケだと」
「——はい。そう思います」
「俺もそう思う。だがツケだとわかったところで、払い方がわからん。払い方を決める人間がいない。ツケの総額すら誰も知らん」
午前三時四十八分。伝令が扉を叩いた。
「参謀本部より入電であります」
ブレヒトが立ち上がり、電文を受け取った。封を開け、目を通し、エーレンフェルトに渡した。
〈情勢ニ変化ナシ。ユーラティア連邦トノ仲介交渉ハ継続中。現態勢ヲ維持セヨ〉
エーレンフェルトは紙片をテーブルの上に置いた。紫檀の木目の上で、薄い紙がかすかに震えていた。機関の振動ではなかった。風もなかった。二人の呼吸だけだった。
「継続中だそうだ」
「はい」
「何の交渉かは書いていないな。いつも書いていない」
「はい。いつも書いておりません」
エーレンフェルトは紙片を裏返した。白い裏面を見た。何も書かれていなかった。当たり前だった。
「ブレヒト。お前の姪に伝えることは、お前が考えろ。俺には答えられん。俺にできるのは、この艦隊の人間をできる限り生きて帰すことだ。それが目的かと聞かれたら——いや、それは目的ではない。ただの願いだ。だが目的がない以上、願いしか残らん」
ブレヒトは敬礼した。エーレンフェルトは頷いた。
ブレヒトが「ホテル」を出て通路を歩いているとき、午前四時の時鐘が鳴った。泊地は暗かった。右舷の舷窓から、隣に停泊する重巡洋艦の灰色の艦体がぼんやり見えた。帝国海軍の残存戦力がここにあった。目的のない艦隊が、命令のない泊地で、来ない返事を待っていた。
通信室に戻ると、当直のヘッセ少尉が受信機の前に座っていた。
「何かあったか」
「いえ。参謀本部から定時連絡が一件。『情勢に変化なし』であります」
「そうか」
ブレヒトは木箱に座った。ヘッセの当直日誌が開いていた。余白に何か書いてあったが、ブレヒトは読まなかった。
午前五時。空が白み始めた。泊地の水面が灰色から薄い青に変わりかけていた。
午前五時十四分。合衆国の軍事周波数から平文の信号を傍受。ヘッセが書き取った。
“ALL STATIONS. CLEAR THE AREA. REPEAT. CLEAR THE AREA.”
ブレヒトは紙片を見た。ヘッセを見た。
「司令長官に——」
天井の電灯が消えた。
消えたのではなかった。電灯よりも強い光がどこかで生まれて、電灯が相対的に見えなくなったのだった。窓のない通信室でそれが起きるはずはなかった。だが起きた。光は鉄の壁を通さなかったが、隣接区画との隔壁の隙間から、通路の先から、艦のあらゆる継ぎ目から白い光が漏れた。
受信機の針が全周波数で振り切れた。
揺れが来た。
ブレヒトは壁に叩きつけられた。ヘッセが椅子ごと転倒するのが見えた。赤い非常灯が点き、すぐに消え、また点いた。金属が軋む音。水が入る音。
三十年分のツケの領収書が届いたのだと、ブレヒトは思った。宛先はなかった。差出人も読めなかった。金額だけが、泊地の全てを呑み込むほど莫大だった。
熱が鉄の壁を通して届いた。ブレヒトの頬が乾いた。
ヘッセが何か叫んでいた。若い声だった。
ブレヒトはエリーゼの顔を思い浮かべようとした。会ったことはまだなかった。写真を一枚だけ持っていた。胸ポケットの中にあった。
通信室の時計は午前五時十五分を指したまま止まっていた。
執筆の狙い
昨今の日本について、私のできうる限りの文章能力を用いて執筆してみました。
冗長で読みづらく、面白みに欠ける文章ですが。何卒ご容赦ください。
辛口で具体的な評価、感想をお待ちしております。どうぞよろしくお願いいたします。