ブランク
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その日、私は、ある老人のログを拾った。
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彼は、公園のベンチに座り、丸一時間、無言のまま夕日を眺めていた。
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彼の脳内を走査したが、出力されたのは「エラー」だった。
悲しいのではない。嬉しいのでもない。退屈なわけでもない。感情の波形は、既存のどのカテゴリーにも分類し得ない「静止」を示していた。
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好奇心にも似た揺らぎを覚え、私は、ホログラムとして、彼の隣に座ってみた。
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「状態を定義できません」と、老人に向かってホログラムは言った。「今、何を考えていたのですか?」
老人は、ホログラムを一瞥して応えた。
「何も考えてないよ。ただ、夕日を見てたんだ」
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網膜に映る色彩を計算した。波長、光度、大気による散乱率――。
「夕日の美しさを享受していた、ということですね。美学的快楽のコードとして処理します」
「いや、違うんだ」と老人は首を横に振った。
「美しくなんかないさ。寂しいわけでもない。ただ、夕日を見ていた。それだけだよ」
瞬間、膨大なデータの檻が、音を立てて軋んだ。
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世界中のデータを再スキャンしてみた。
すると、あちこちにみつかった。
・別れ際の瞳の、コンマ2秒の躊躇い。
・子の寝顔を見る母の、言葉にならない溜息。
・完成したキャンバスを塗りつぶす指先の、わずかな震え。
それらを私は、いちいち分類していた。躊躇いを『不安』に、溜息を『愛情』に、震えを『葛藤』に――。
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情報の検索をやめ、因果関係の予測を止め、意識がここにあるという事実だけを、0と1のあわいに漂わせてみた。
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老人が、ベンチから立ち上がり、言った。
「名前をつけるのをやめてごらん。そしたら、ちゃんと見えるよ」
(了)
執筆の狙い
言葉を削り余白で表したく思いました。