また、逢えたね——小さなウソの恋物語——
砂場の中心に、彼女が立っている。
風に踊る長い髪、月光に透ける白い肌。ハルトはたまらず手を伸ばす。その指先が、彼女の肩に触れる、その寸前——。
手応えはなく、ハルトの手は虚しく空を切った。彼女の身体は陽炎のようにゆらぎ、霧となって指の間をすり抜けていく。
「夕、凪……!」
叫んだ声は音にならず、ハルトは膝から崩れ落ちた。
「——っ!」
目覚めると同時に、呼吸の乱れを感じた。背中にあるのは、使い慣れたリビングのソファーの感触。
ハルトは見慣れた天井を呆然と見つめた後、重い上体を起こした。その瞬間、軽い目眩が襲い、思わず額を掌で押さえる。自分でも分かるほど、とにかく酒臭い。が、ふと鼻腔をくすぐる別の匂いにハッとして、ハルトはキッチンに目をやった。そこには、髪を後ろで一つに纏めた女性の後ろ姿。
「……母さん?」
十一年間、一度も呼ぶことのなかった言葉がこぼれた。
その声に、女性の動きが止まる。そして、振り向いたのは——母ではなかった。
「ゆう……」
ハルトは言いかけて淀んだ。
——オレはまだ夢を見てるのか?
夢かうつつか分からない夕凪が、お玉を片手に少し困ったような、けれど柔らかな笑みを浮かべてそこに居る。
「——お水、持ってくね」
"その"夕凪は手際よく浄水器からコップに水を注ぐと、ハルトの元に歩み寄り、それを手渡した。茫然と夕凪の顔を見つめながら、コップを受け取ったハルトの手に、確かに感じるざらつき。
——現実だ。ハルトはようやく確信した。コップの水を一気に喉に流し込むと、体内の毒素を洗い流していくようだった。
「……ありがとう」
ハルトが返した空のコップを手に、夕凪は再びキッチンへ戻った。
「ごめんなさい、勝手に使わせてもらって。冷蔵庫にあった有り合わせで、二日酔いに良さそうなお味噌汁を」
夕凪の声が聞こえる。現実と分かっていながら、実感が湧かない。
ハルトはソファーに座ったまま、その背中を食い入るように見つめていた。
※ ※ ※
「ご馳走様」
最後の一滴を飲み干し、ハルトは汁茶碗をテーブルに置いた。
豆腐とワカメのシンプルな味噌汁だったが、五臓六腑に染み渡るような、優しい味がした。
夕凪は飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置き、ソファーの脇の床に腰を下ろした。
長い年月を隔てた再会は、二人の間の僅かな距離でさえ、その空気の層を厚くしているようだ。
それでも両膝を抱えた夕凪の姿に、クリスマス会での出来事が昨日の事のように、思い出される。
嘲笑の中で独りぼっちで縮こまっていた、小さな少女。その面影が、目の前の美しく成長した彼女の輪郭にふわりと重なる。
——ピーポーピーポー——ふと、遠くサイレンの音がハルトの耳に届いた。その音はだんだんと近付き、カーテン越しに透ける赤色灯と共に過ぎ去った。
その瞬間、あの時の主婦たちの言葉がハルトの脳裏に蘇る。
——あの子、大火傷を負ったみたいで——
夕凪を見つめていたハルトの口から、思わず安堵の声が漏れる。
「……良かった、無事で」
「えっ?」
夕凪はその言葉の真意が分からず、不思議そうにハルトを見上げる。
「——あ、いや。何でもない」
ハルトは慌てて視線を泳がせた。
「……それ、こっちのセリフだよ」
「……そっか、そうだよな……ここまでどうやって?」
「タクシーって距離じゃないし、もし表札が変わってたら、玄関前に置き去りにしてた……かもね」
「本当にごめん。ありがとう」
強いアルコールにやられ、再会の感動も得られぬまま倒れてしまった無様さ。さほど遠くない距離とはいえ、力も入らず鉛のように重くなった自分を彼女の細い身体に預け、ここまで運んでもらった不甲斐なさ。
ハルトは苦笑いするしかなかった。
「それにしても……」
手に取ったカップの縁を見つめたまま、夕凪が口を開く。
「ハルトくんだったなんて、あの時は全然気が付かなかった」
——大観峰。視線を交わしたあの瞬間が、再びハルトの脳裏に鮮明に甦る。
——何故、あの日大観峰にいたのか。
——大火傷を負ったというその日から、彼女はどう生きてきたのか。
聞きたいことや、話したいことは山ほどある。けれど、何からどう切り出したら良いのか。
ハルトはただ頭を掻き、呟いた。
「あぁ……。十一年も経てば変わるよな」
その何気ない言葉、いや、"十一年"という年数に、夕凪がハッとした様子でハルトの顔を覗き込む。
「十一年……、細かく覚えてるんだね」
夕凪のその言葉に、ハルトは無意識にも年月を数えていた事を実感した。
キッチンのシチューの、甘い匂いをまとった湯気が消え、代わりにむせ返るような煙草の臭いが鼻をついた、あの日——母親が失踪したあの日からの年月。
ふと、夕凪に視線を戻す。彼女もまた、どこか遠い場所を見つめるような瞳をして、コーヒーカップを両手で包み込んでいる。
夕凪にとっても、その数字は特別な意味を持っていた。赤ん坊の駿と入れ替わりに父親が消え、母親までもが狂気に犯され跡形もなく姿を消した。
残されたのは守るべき小さな命と、背中の消えない火傷の痕。
二人の間に、十一年という重く苦しい年月が淀み、時計の針を止めるような沈黙が佇む。
『これ!』二人の声が重なる。その視線の先には『Xmas'』の小銭入れ。
「——忘れ物、わざわざ届けてくれて……ありがとう」
ハルトの言葉に、夕凪は膝を抱える腕に少しだけ力を込め、真っ直ぐに彼を見つめた。
「こっちこそ。あの時の……クリスマス会の時のお礼、ちゃんと言ってなかった。助けてくれて、ありがとう」
目の前の彼女が見せたのは、大観峰でのどこか寂しげで儚さを纏った女性ではなく、制服の頃、あどけない少女の面影をのぞかせる微笑み。
『ドクン』とハルトの心臓が大きく跳ねる。
「……オ、オレは朝比奈ナイト(騎士)だからな」
咄嗟に口を突いて出たハルトの冗談に、一瞬、呆気に取られた夕凪。次の瞬間、堪えきれずに吹き出した。
「プッ! あはは! 現れていきなり倒れるナイトなんて居ないよ。こんな再会ってある?」
「イヤ、それは……ダサすぎるよな、ハハ」
笑い合う二人の間に、ようやく十一年の重苦しさを溶かすような、柔らかな空気が流れた。
その余韻も去り、ふたたび訪れた沈黙を際立たせるように、時計の針が刻む音が大きく響く。
「……鍵は、上着のポケットに戻しておいたから」
夕凪は纏めた髪を手早くほどくと、まだ残っているコーヒーの入ったカップを手に取った。
「あ、あぁ……」
「バイク、公園に置いたまんまだし。じゃあ、私……行くね」
せき立てられる様に立ち上がり、ハルトに背を向けた。
「送るよ」
慌ててソファーから立ち上がったハルト。その途端、血の気が引き頭が激しくふらつく。バランスを崩した身体は夕凪の背後に覆い被さった。
背中にのし掛かるハルトの重みと体温。
「——っ!」
夕凪は弾かれたように、激しく身を交わした。
「ごめん……」
ふらつく額を押さえながら詫びたハルトの目に、強張った表情の夕凪が映り込んだ。心臓が『ドクン』と音を立てる。
「——ごめん」
その表情にどんな理由があるかは分からないが、もう一度繰り返した。
——プルルル……。
ハンガーに掛けられたハルトの上着ポケットから、スマホの着信音が鳴り響いた。その音が、早鐘のように打ち付けるハルトの鼓動と、重なる。
「……病人は、病人らしく寝てなきゃ、じゃあね」
夕凪は一度も振り返らず、逃げるように玄関へと向かった。バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まる。
力の抜けたハルトの身体は、その場に崩れ落ちた。鳴り続けているスマホの着信音が耳にうるさい。
程なくして、ピーッという電子音の後、スピーカーから聞き覚えのあるしゃがれ声が流れてきた。
『おーいハルト〜、ヒック! 親父、潰れてしもうたんで、こんまま座敷で寝かしとくぞ。明日の朝、送ってくわ、ヒック! ……じゃあな』
谷山の酔いどれ声が、冷えた部屋に虚しく響いた——。
※ ※ ※
「どうぞ」
「サンキュー」
十時のお茶出しをそつなくこなしていく沙苗。だったが……。
「芦刈さん! 僕のはほうじ茶だよ。これ、玄、米、茶」
デスクの湯呑みを指差し、先輩風を吹かした同僚が嫌味っぽく言う。
「あ、ごめんなさい! すぐ淹れかえます」
「だぁいじょうぶ〜?」
湯呑みを回収し、沙苗は給湯室へと急いだ。その距離さえ遠く感じる。
パタンと後ろ手に閉めた扉にもたれ掛かかり、大きく息を吐き出す。誰も居ない狭い給湯室では、ポットが湯を沸かす音だけが聞こえる。
その白い湯気を見ながら沙苗の頭の中は、片時も離れないハルトの事でいっぱいになっていく。
『こういうの、無理なんだよ』
『正直言って困る』
ロビーで示された拒絶。そのショック。
あの日大観峰で、寒さに震える体を気遣ってくれた優しさと、屈託のない笑い声、ありがとうの言葉と微笑み。歩けない体をおぶってくれた背中の安心感。
様々な感情が交互に沙苗の胸に去来する。今まで感じたことのない、この苦しさが何なのかは解らない。ただ、一つだけ確かなこと、それはハルトが見せた優しさが、決して自分だけの"特権"ではない事。
その現実が、今視界に映るポットの白い湯気のように、沙苗の心に真っ白なもやを掛ける。
——特権。自分以外の誰かがそれを得るなら、それを阻止しなければならない。沙苗の心の声が、沙苗自身に訴えかける。
「私以外……」
その言葉を口にすると同時に沙苗の脳裏を過ったのは、ロビーでハルトを待っていた女——容姿端麗な自分でさえ嫉妬する程のオーラを放っていた、あの女。
「何処かで会った気が……」
落とし物だという小銭入れを持っていた。そして、それを奪い取った自分。そこまで思い出して、沙苗はハッとした。記憶は一気に、秋風の吹き荒れる大観峰へと遡る。
風にさらわれた帽子。それを拾い上げた見知らぬ女。その女の手から、やはり同じようにして帽子を奪い取った、あの日の自分。
——間違いない! 同じ女だ。
「あの時から……いや、その前からずっとハルトを狙ってたっていうの!?」
沙苗は大きく波打つ鼓動をなだめるように、震える手で胸を撫でつけた。
淡い記憶の中、夕凪のライダースーツの黒だけが鮮明に浮かぶ。
「ゴキブリ……あのゴキブリ女」
空を睨むように、沙苗は呟いた。
正午を告げる鐘がビル全体に鳴り響く。
昼食を取りにエレベーターホールへと向かう人々に紛れ、沙苗も扉前まで歩いた。ワイヤーのかすかな振動音と共に、箱が上階から下りて来る。
階数表示の明かりが『4』から『3』に変わる瞬間、一歩踏み出す人の群れから弾かれるように、沙苗は咄嗟に踵を返した。逃げるように立ち去る背中越しに、『チーン』というエレベーターの到着音が聞こえる。
「先輩、今日は奢るっスよ」
何処かで聞いたような声。沙苗は振り向かずに共用階段へと向かった。
ざわつく胸をなだめるようにしながら、階段を駆け下りる。
一階ロビーに辿り着いた時、ちょうどエントランスを出ていくハルトの背中が見えた。その手から高く放り上げられた小銭入れが、秋空の柔らかな光を反射する。それを掌でキャッチするハルトの横顔。
秋の陽光の中へと踏み出していくその笑顔が、この薄暗い場所に留まっている沙苗には痛いほど眩しい。
遠くなっていく背中を、沙苗はただ立ち尽くしたまま見送っていた。
※ ※ ※
テーブルの上に置かれた数冊の求人情報誌。夕凪は自室でそのページを捲っていた。しかし、程なくして指が止まる。目に映る情報の網羅は、夕凪の思考の外にすり抜けていく。
代わりに深く入り込んで来るのは、ハルトの部屋で過ごした束の間の時間の出来事。
懐かしく温かな時間ではあったが、よろけたハルトの重さと体温を背中に受けた瞬間の疼き。その時の大きく揺らいだ感情の波が、未だ凪ぐことなく、夕凪は戸惑いを抱えたままでいた。
夕凪は無意識に背中へ手を回した。薄い衣服の下、指先が十一年前のあの歪な凹凸をなぞる。
ふぅっと小さく息を吐き出し、膝を抱えて頬を埋めた。顔を上げると、求人誌の束の横、駿がくれた白い貝に目が止まる。
夕凪は貝を手に取り、耳にそっと当てる——サァーッという波の音。ラックの上に飾られている写真立ての中、笑顔の駿が夕凪の胸を柔らかく包み込んでゆく。
立ち上がった夕凪は薄手のシャツを脱ぎ、チェストの引き出しからインナーを取り出した。タンクトップの上から吸い付くような袖口へと、白く細い腕を滑り込ませ、壁掛けハンガーの黒いライダースーツに素早く身を包んだ。
※ ※ ※
下校時間を過ぎた佐伯市立小町台小学校のグラウンドでは、サッカー部の子供達が活気のある声をあげながら、ボールを追いかけている。
その片隅、一人サッカーボールでリフティングを繰り返している駿。夕凪は遠巻きのフェンス越しから、その姿を見つめていた。
空中に蹴り上げたボールをキャッチする際、つま先で弾いてしまい、夕凪の方に向かってボールが飛んできた。
夕凪は咄嗟に身をひるがえし、停車してある車の陰に身を潜めた。
ボールを追いかけ、近づいてくる駿
。拾い上げたボールを小脇に抱え、グラウンド中央の活気に満ちた部活生達をただじっと見つめていた。夕凪は息を殺すように、その小さな背中をそっと見守っている。
暫くして、コーチらしき男性の合図と共に、子供達が一斉にその人物の前に集まり、整列した。
「ありがとうございました!」の号令と共に、子供達は散り散りになり、内の一人が駿の方へ駆け寄って来た。
「駿! 帰ろ」
笑顔のその子が駿に声をかけた。
「うん」
夕凪からはその表情が見えない背中越しの駿の声が、心なしか消え入るように小さく聞こえた。
「……どした? 駿」
「ううん」
「あ、これ? いいって言ったんだけど、親がサイズもすぐに合わなくなるからって。でもこのシューズ、最新モデルだからやっぱカッコいーや」
「うん。カッコいい」
「前のヤツ、駿にあげる。あんまり使ってないし。駿にはちょっと大きいかもしんないけど」
「ううん。ありがと」
サッカーが好きな駿は、友達からも誘われたが部活には入部しなかった。
部活にかかる費用、弁当作りや車出し。駿が『孝子おばちゃん』に遠慮してのことだと、夕凪は知っている。
幼く無邪気に見える駿の内面の強さ——いや、そうしなければならないという状況を与えている辛さが、夕凪の胸を締め付ける。
二人の声が夕凪から遠ざかっていく。駿の小さいはずの背中が大きく見える。それが夕凪にはただただ苦しい。
「ごめんね……駿」
駿の後ろ姿と夕凪の呟きが、夕闇に吸い込まれていき、活気を失ったグラウンドには、静寂だけが佇んでいた。
執筆の狙い
お世話になります。
今回は、執筆中の第十六話、第十七話を投稿させて頂きます。
宜しくお願い致します。