マナキック 夜20時
バイパス一号線を走り抜けていき、交差点に次ぐ交差点、三軒茶屋のように三つほど並んだ飲食店の袋小路を曲がった先に、サイババの大きな顔看板が掲げられているキックボクシングジムがある。未だおよそキックボクシングとサイババになんの関係があるかはわからないが、黒々としたでかいアフロヘアーに静かにこちらを見据えている、叡智に富んだサイババ特有の表情を描きだすことに成功している稀有な看板だ。
二階建ての大きな建物ではあるが、ひどく古びていて、路地裏に捨てられた廃棄物の山に屋根を取ってつけたような外観をしている。中に入ってみると、乱雑の、およそひどく散らばった、一階はなぜか無数のソファが転がっており、その上に言葉にあらわせないモノやカタチをした物体がたくさん転がっている。これは何が置かれてあるのかわからない、置いた本人ですらわかってないだろう。置くといったら置くに失礼で、どれも互いにぶつかって弾けたような、あるいは恨みいっぱいに投げ捨てられたような、どれも明後日の方を向いていて、まともに置かれたものは何一つない。ブラウン管テレビ、蛍光灯、ヒーター、一応、名で言い表せられるものも転がっているが、ほとんどは言い表せないものばかり。
人はとりあえずこれを見なかったことにして、他人のフリをして二階へ進んでいく。二階に行くとすぐに大きな広間が目につき、玄関ホールにはチビッコの公文式会場のようにたくさんの靴が散らばっている。この靴の数が中にいる人間の数をそのままあらわしているように思うが、これもまた置かれてあるのか捨てられてあるのかわからない。万引きG面のように偽物が混ざっている可能性もある。誰も来ない日だったとしても、かなりの数が置かれたままだろう。
この無数の輪の中にもう一足添えて上がりこむと、すぐ左手にトイレがあるのがわかる。このトイレもまた筆舌に難いところだが、これもまた俺が人生で見てきた中で最も汚いトイレだ。俺はボットン便所というものをここで初めてみた。地深くどこまでも沈み込んでいった先の闇に繋がっていそうで、ニーチェが言っていた深淵とはこれを指しているのではないか。掃除もほとんどされておらず、したところでほとんど意味をなさないことがわかっているからだろう。また、これはスタッフがYUIさん一人ということも手伝っているだろう。
特筆すべきは(もうここまでで特筆すべきことばかりだが)、このボットン便所で用を足しているとき、目の前のクリシュナ神と目が合うことだ。壁にはクリシュナ神の肖像画が掛けられている。サイババといい神がよく眠る場所である。節食を説いたクリシュナ神だが、この恵体の前には絶句せざるを得ない。およそシナ草で編んだような簡素な腰布一枚だが、中身が立派なら包みは粗末でいいを地でいくような見事な肉体をしている。これが霊肉というものか、このジムの最もたくましい者ですら到底かなうものではなく、近代のアスリートやビルダー体型とは根底から異なる、プロテインもベンチプレスもない、純粋な日光と水とで作られた大自然がそのまま一個の肉体に顕現した例である。俺はいつも音を立てて小便をしながらこの肖像画を眺めている。
大フロアに入ると、
「しまるこさん!」
と声をかけられた。
美人インストラクターのYUIさんだ。
「ああ」
「ああじゃないですよ! 久しぶりじゃないですか!」
スポーツウーマンらしい快活な声がフロアいっぱいに響く。YUIさんの声はとてもでかい。室内の人々の視線がいっせいにこちらへ集まる。
「お、久しぶりじゃないですか、しまるこさん」
YUIさんの隣にいた会長も話しかけてきた。二人はいつもフロア入り口で、どでかいセラミックファンヒーターを一台置いて、パイプ椅子に座って暖をとりながら来客を迎え入れる形をとっている。
久しぶり、ということもない。俺は基本月に1回しか来ず、先月は行かなかったので、2ヶ月ぶりの来訪になっただけだ。毎月末の水曜日に開催されるスパーリング大会に参加するだけのために通っているから、月に一度しか通わないのだ。
「あけましておめでとうございます」
と会長は言った。
「あけましておめでとうかぁ〜! もう2月に入るのに!」
とYUIさんが言った。
なぜ先月休んだかというと、先月の水曜日はクリスマスイブだったからである。驚くことに、このジムではクリスマスイブにもスパーリング大会が開催されていた。イブに参加することが恥ずかしかったとか、そうではなく、童貞会員たちが見栄をはって休む姿が予想され、そのために人数が集まらないと思ったのだ。しかし後から聞いた話では、かなりの人数が集まって大盛り上がりだったらしい。しかもその後、みんなで飲み会に行ったとか。また、夜の街に姿を消した男女の姿もあったとか。俺も参加してりゃ入れ食い状態だったかと思うと、もったいなく思った。
さて、このジムでは毎月末水曜日にスパーリング大会が開かれるわけだが、そこでは県内のキックボクシングジムやムエタイジムの腕自慢らが集まってきて、格闘家たちの宴もたけなわか、もう夜遅く、街も静まり返ったころ、廃屋の仄暗い闇の底で、格闘家たちのアニバーサーリー式典が開催される。さながらファイトクラブだ。
時間は20時〜22時。人数は20〜30人ほど。といっても、半数以上はこのジムの会員であり、女性も中学生もチビっ子も混ざってやる。3分の1は女性である。そのため、フィジカルや技術面の差が著しく、純粋な強さを競い合う性格のものではない。フロアは20畳ほどであり、広々としているが、20数名がいっせいに動きだすとなると、すぐに隣の人とぶつかってしまい、まともに動けるものでもない。よって、スパーリングというよりもマススパーリングというものである。攻撃も触れるか触れない程度、触れてもちょこんという程度であり、怪我をさせることはあってはならない。が、試合を控えたプロ選手が調整目的で来ることもあり、その場合、プロ同士で固まっている光景も見られる。
「今日は暖かそうなの着てるじゃないですか」
会長が俺の着ているchampionの白のボアフリースパーカーを見て言った。
会長は挨拶程度では終わらせず、かならず何かジョークめいたものを一つか二つ添えてくるのが常だ。
俺は思わず、「はい」と答えそうになったが、それじゃあ弱いと思ったので、何か、何かないかと、必死に頭を猛回転させて、
「さすがに、こんなの着てくるのはラフ過ぎるかなと思ったんですけど」
とヘラヘラ笑いながら言った。
じつのところ、もうこのチャンピオンの白ボアフリースは8年くらい着ていて、ボアでも何でもなくなっている。毛はすべてタンクローリーに踏み潰されたペチャンコのペンペン草みたいになっていて、ほとんどチンカスと大差ない。コレ、チンカスみたいですよねぇとでも言おうかと思ったが、それも危ぶまれた。が、なぜかYUIさんは笑っていた。チンカスみたいだと思ったのか。
室内装飾はベージュとオレンジを基調としており、赤々と光る子供の大きさほどの電気ストーブ、それに加えアップを終えた選手たちがハァハァ肩で息をしていて、この一月下旬の一年でもっとも寒い時期において寒さを感じさせなかった。一階とはうってかわって、二階のこのフロアは、ほとんど何も置かれていない、たいへん広々とした空間ではあるが、これはスパーリングをしやすくするためだろう。部屋の隅に申し訳程度にサンドバックが4個ほど吊るされてあるが、なぜか床に落ちて倒れているサンドバッグの数の方が多い。会員たちはそれを椅子代わりにしている。
俺は会長らから離れ、サンドバッグエリアに行くと、買い物カゴを床に下ろし、彼らの談笑に加わった。基本的に、9割以上の者がスーパーの買い物カゴに荷物を入れてやってくるので、床は買い物カゴだらけになっている。まるでみんなでスーパーに買い物に来たみたいだ。
俺は空いているサンドバッグの上にしゃがみこんで、レッグガードをはめていると、となりのサンドバッグに座っていた工藤さんが話しかけてきた。
「はじめの一歩読んだからじゃないですか?」
「はい?」
「しまるこさんの前のフック、体重の乗り方が変わったような気がして」
「ん?」
「はじめの一歩読んだからじゃないですか?」
「はい?」
と俺は言って、静かに「ああ」と答えた。
この工藤さんという人は45才くらいの女性であるが、いつも考え込んでいるようでいて、ほとんど笑わない。毎度、真面目な顔をしながら口を開くのだが、ユーモアもその調子なので、どちらの目的で言ったのか分からないことが多い。そのわりに喋る分量は多い。顔がしゃべらない分、口のほうは多くなるのか。機械のように定間隔的に音を出す。
「はじめの一歩は高校のときに読んだけど、どうっすかね」
「あ、しまるこさんだ」
先の、YUIさんと会長がいた場所の近く、フロア入り口の左手でたむろしている女性グループの中の一人の女性が、大きな声で俺に話しかけてきた。
「久しぶりですねー!」
「はい!」
俺も大きな声で答えた。距離としては10m以上離れている。
「そういえば、しまるこさんって仕事何やってるんですかー?」
と彼女は聞いてきた。
俺と彼女のあいだには、7、8人の会員の姿がある。
「出前館!」
と言いそうになったが、グッと堪えて、
「訪問のリハビリの仕事してます!」
とギリギリ届くように声を抑えて言った。
「わたし、リハビリの人にはいつもお世話になってますよ!」
と彼女は言った。
こいつは馬鹿かと思った。なんてデリカシーがないのだろう。
俺と彼女のあいだを挟んだ会員たちが、そうか、あいつは訪問のリハビリの仕事をしているのか、という顔をしていた。会長も何度か感心するようなうなづきを見せた。
どうしてこんな真似ができるのだろう?
殴り合って頭ポコスカやられておかしくなっているのだろうか?
このジムに一年半通ってわかったことは、格闘技のジムにやってくる女性というのは、いわゆる一般社会人女性とは大きく趣を異にするということだ。こんなに、殴ったり蹴ったり、痛いようなことを好んでやることはなかなかどうして変わり種だろう。
一つ言えることは、鈍感だということだ。とにかく人間が鈍感にできている。そして、この鈍感と暴力とが相性がいいらしい。彼女たちと手合わせしているとわかることだが、明らかに実生活上での、薄ぼんやりした、鈍感な、ヌボーッとした部分が、戦闘面での鋭利さに置き換わっている。鈍感な、ヌボーッとした部分が、いざ戦闘となると、鋭利な刃物として突き刺さってくるのだ。そのとき、ああ、こちらの方が彼女たちの本体だなと思わなくもない。こちらに本体があるから、いわゆる普通の一般人女性たちとズレがあるのだと思われる。
ふつう女性は、女性同士で小グループを形成して歩くのが常だが、学生時代から今日の社会人時代に至るまで、このジムの会員女性たちは、そういったグループから少しだけ浮いてしまっているような、周囲の女性と同じような態度が取れず、天然だったり、大味だったり、昼行灯のような、粗雑だと思われてしまう面があり、グループの誰かが面白いことを言ってもイマイチ笑いどころがわからなかったり、キョトンとしていることがあり、これは純粋と言い換えることができるかもしれないが。
一般のキャピキャピした女性たちよりも男向きにできている、と言ってしまえばそれまでだが、そんな雑な考えで済ますくらいだったら初めからものなど書かないほうがいいだろう。人間が静かにできているのだと思う。静けさ=強さだ。彼女たちと対峙しているとき、シンとした静かな空間の中で、目に見えない自然に入り込んでいくことを競い合っている感覚に陥る。この方面の才に長けているほど、日常での昼行灯的性質も明るみになってくるのだ。そのため、いわゆる一般女性のように小動物のような立ち回りができず、木偶の坊といみじくも揶揄され、自身でも、自分はなんなんだろうと考え続けてきた。
自身でも、こんな野坊主ふうでいいのだろうか? と思ったりもするが、その悩みそのものがセンチメンタルといえなくもないが、もっと根本的な部分で、一般女性よりもずっと人間がセンチメンタルにできている。自分には女らしさというものが欠けているのではないか、と気を揉んでいる者が多いが、鈍感だと誤解されっぱなしにもいい加減うんざりしている。しかし女らしさというものも、また相対的なものではないか? まわりが私の女らしさを引き出してくれないからだ! と、半ばやっつけになっているきらいもある、が、そうした葛藤を抱えながら社会生活を送っているのが彼女たちであり、このジムにやって来ているのだ。
さて、ついでだから、このジムの男女関係についてもここで片付けてしまおう。
このジムのいちばん興味深いところは、昔ながらの男尊女卑が大いにまかり通っているところである。
このジムでは、男は精悍な顔つきでマンモスを狩りに行き、女はそんな男の後ろを黙ってついて歩くような、昔ながらの古き良き男女の様相を示しているところがある。
今日、われわれが生きる社会においては、すべての仕事が女に有意に作られており、雑用、雑務、細々とした仕事、社長秘書がやるような瑣末な仕事ばかりが占められており、それを男もやらされている。これは本来、男がやるような仕事ではないことから、男は強い苦痛を強いられている。これについて斎藤一人さんは、「女が社会に進出しだすと、男は女に見劣りするようになるから、男は戦争をすることでこれを隠蔽し続けてきた」と話しているが、知恵あるものでこれに同意しないものはいないだろう。
いわゆる、文明が栄えだすと、ほとんどの仕事は末端サイクルをうまくまわすことだけを求められ、それは大体において女に適している場合が多い。今も筆者はタリーズにてこの原稿を執筆しているが、男性従業員はコーヒーを淹れるとか淹れないとかヒーヒー虫の息になっている。それに比べ女は水を得た魚のように自身の能力をいかんなく発揮している。この分野において、たとえ店長格だとしても、男は女に敵わない。飲食店は極端な例に思われるかもしれないが、今日、われわれが従事しているほとんどの仕事は主婦業の延長でしかなく、サービス業なんていわれるもののすべてはこれであり、一人、リーダー格の男の言いつけを守ることがどんな仕事の性格であるが、男を支える女の役割を男がやらされるわけである。
すべての仕事は女向けに作られており、女の脳の作りに適した仕事があるだけだ。わが国においても、女性総理が初めて誕生したこともこの文脈を汲むものだろう。聖女アーナンダマイーマーもこう言っている。「女性が社会の舵を取り、男性がオールをせっせと漕ぐことになるでしょう。このことは今の時代の精神を印します」
しかし、ほとんどすべてのコミュニティの中で、格闘技のジムだけはこれから解放される。
キックボクシングにおいては、どう逆立ちしても、女は男に勝てる要素はひとつもなく、プロだろうが、世界チャンピオンだろうが、ズブの男の素人になすすべもなくやられてしまう、これは肉体面に限ったことではなく、技術面、精神面においても、厳然たる差があるのだ。
引越しだとかバイク便だとか運転だとか段ボールとか、そういった職場では、女は男に対して殊勝な態度でいるものだし、その反面、女向きになっている職場ほど、女の男への態度はでかくなる。女は潜在的な部分では、男の方が上であってほしいと思っているが、いざ仕事の段となると、自分たちの方がうまくできてしまうために、男への尊敬が起きにくくなってしまっているのだ。これは家庭においてもまったく同じ現象が起きている。
つまり、この社会における男女の逆転作用のようなものが、このジムでは起きている。それは本来の姿といっていいのだが。それはかならずしも、恋人とか結婚とか自身のパートナーとなるかは別に、その勇姿を見れてようやく安堵しているところがあるのだ。男が男になることによって、女も女になることができるからであろう。
※
「RIZINの選手らしいですよ」
「RIZINの選手?」
また、なんの脈絡もなく工藤さんが言い出してきたので、理解するのに5秒くらいかかった。
たぶん、今日きている人の誰かだろう。フロア半面は鏡張りになっていて、そこで熱心にシャドーをやっている見知らぬ強そうな男が数人いた。あの人かな、とチラと俺は目をやった。二の腕とふくらはぎに大蛇のタトゥーが入っている。蛇に足を噛みつかれているような図柄だ。タトゥーを入れているのはだいたいプロである。
「さて……」
と言って、俺は首を倒し、指をポキポキ鳴らしながら立ち上がった。
俺はいちばん初めのスパー相手として、女性を選ぶ。背が小さく、体重が軽く、コンタクトが柔らかで、川のせせらぎの中で戯れているような感覚を覚え、ウォーミングアップにちょうどいいからだ。
女性と戦うときは、ほとんどいつも思考を停止していて、別のことを考えている。きのこの山とたけのこの里とどっちを買って帰るかとか。ビッグサンダーチョコのサンダーってなんだろうとか。
現役時代の落合博満が、その練習方法として、100km程度のスローボールを延々と投げてもらい、それを打ちかえし続けていたそうだが(このための専用の投手を雇っていた、ピッチングマシンのボールは死に玉だからダメらしい)、その感覚に近い。
「工藤さん、いいすか」
たいてい、いつもとなりにいるのは工藤さんなので、そのままの延長で一発目は工藤さんとやることが多い。この流れはわかりきっているくせに、毎回、工藤さんは、「は、はい……」と意外そうな顔を見せ、狼狽したような態度を見せる。
しかし、これを自分の身に置き換えてみたときどうだろう? 自分よりも20cm以上大きい相手に誘われるのは。俺で置き換えたとき、198cmの相手とスパーすることになる。このジムでいちばん大きい人間でも187cmくらいだから、それでも二度とやりたくないくらいごめんである。背の大きな人間はどこにいっても嫌われる。学校でも職場でも街を歩いていても格闘技のジムにおいても。そのためか、女は男と組みたがらないところがある。そのことを全部わかっていながら、俺は工藤さんの方に向き直り、「やりますか」と言った。すると、
「お願いします」
と俺ではなく、小さな女の子が工藤さんに声をかけていた。
な……んだ……こりゃ……あ………。
女の子は小さかった。その小さいというのが常軌を逸していて、ちょっとやそっとの小ささじゃなかった。大きめのストーブと大差ないくらい、おそらく140cmもない。ふつうのチビよりさらに小さい。細さも未熟児といっていいくらいで、まだ身体ができあがっていない。たぶん35kgもないだろう。なんだこいつは? と思った。11歳か、12歳か、おそらく小学校高学年くらいだと思うが、いや、わからない、中学生ということもありえる、このぐらいの年の子はピタリと当てるのが難しいからな。ちょうど子役時代の芦田愛菜ちゃんを思い出せる。もしくは卓球の愛ちゃんか。しかし、目はかなりの切れ長ふうで、そこだけが愛菜ちゃんと違うといったところだ。それ以外はほとんどいっしょだ。
工藤さんも面食らったようだった。なんでこんな小さい生き物に話しかけてられてるんだろう? と一瞬、目が点になっていた。
しかし、俺とやるよりずっとテンションが上がるようで、工藤さんはスクっと立ち上がると、「やりましょう」と言った。
ジ……と、ふたり静かに向かい合う。
基本的に工藤さんはこういうとき、自分から特攻してしまうタイプの人間だ。ふつう攻撃というものは、相手の攻撃しようとするタイミングを押さえることでしか攻撃できないものだが、これは山岡鉄舟の『剣禅話』においても、「二つの剣が相対すれば、そこには必ず相手を打とうとする気持ちがおこる。そこで自分のからだをすべて敵にまかせてしまうのだ。そして、敵の好む瞬間がくるのを待って相手に勝つ──これが本当の勝ちである。これがつまり自然の勝ちなのであり、その他に特別の法はありえないわけである」と書かれてある。
工藤さんはだいたい身長155cm、中肉中背のふつうの主婦の体型だ。じっさい昼間は小学校の給食のおばさんとしてスープを作っている。キックボクシング歴は5年ほどで、なんと、40歳から始めたにも関わらず、アマチュアの大会などにも出場して勝利を収めている。
唯一、右のミドルキックの軌道が見えない。このミドルキックの軌道はプロからも称賛されるくらいで、会員たちは皆、工藤さんをお手本にするようにと言われている。奥足のミドルキックを連続で蹴るのは難しいが、工藤さんはそれを簡単にやってのけてしまうところがある。
考えすぎる傾向があるせいか、フェイントには引っかかりやすい。女性特有の、身体の反応にしたがって動くということが男に比べて不得意なのだ。文章においては、女性は自身の身体リズムを感知するところが得意だが、運動となるとあまり上手くいかない。キックボクシングはバスケの1on1のように、けっきょくフェイントが一枚相手より上にいけるかどうかが肝要であるが、女性はフェイントに対応しようとする姿勢がそもそも見られないことが多い。リズムやタイミングを無視し、目で見えているガラ空きになっている箇所だけを狙ってくる。
「女性は芯の部分で男より真面目なんですよ」
と、ある日、会長が俺に話ってくれたことがある。「男はいい加減、嘘つきな部分がそのまま格闘技に現れるでしょう? それに反して女性は、どんな女性でも、やっぱり真面目なんですね。ホストや浮気男にも一途に尽くしてしまう、そういった面が、格闘技にそのまま現れるんですね。とくに……」会長は続けた。「目ですね。目で追ってしまうんですね」
「目か」ハハーンと俺はうなずいた。Mr.Childrenの桜井氏は、『NOT FOUND』という楽曲の詩において、『僕はつい見えもしないものに頼って逃げる 君はすぐ形で示してほしいとごねる』と書いているが、これもそれを表してのことだろう。リズムやタイミングといった内的世界よりも、女性の目は、空の青さに感動するように、常に外の世界に対して開かれている。
対する芦田愛菜ちゃんは、すぐに工藤さんのそうした特性を見切ったようだった。愛菜がわずかに動いても、工藤さんは中心線を取られていることに気づかず、そのままの姿勢でいた。このとき、すでに愛菜が真っ直ぐに踏み込んでいける体制を作られてしまっていたのだ。このように、攻撃を当てにいける動線だけを先に作っておいて、そのまま打たないでいると、相手はまだ攻撃は来ないものだと思って待ち続けてしまうことがある。瞬間、愛菜はサッと踏み込んで、至近距離で工藤さんの左脇腹にミドルキックを炸裂させた…………!
「「「「「ボゴオン!!!!!!!」」」」」
と、すさまじい音がした。
工藤さんは苦悶の表情を浮かべ、口からマウスピースが飛びでていた。ポーカーフェイスの工藤さんにとっては珍しい、あきらかに驚いたふうではあったが、すぐに距離をとって構え直し、愛菜に対峙する覚悟を一新させる顔を見せた。
こんな蹴りをもらったら、そこいらの社会人女性だったら裁判とか言い出しかねないものだが、さすがは工藤さんだ。文句ひとつ言わない。
(こいつ、マスだということをわかってないのか?)
俺はマススパーリングだというのに、こんなに全力で蹴る人間を初めてみた。
工藤さんも、「マスだよ」とは言わない。それだけは言いたくないのだろう。こんな中学生か小学生かわからない小さいのに、ミドルキック打たれてダウンしました、なんていっちゃあ小学校の学校の廊下も歩けなくなる。いつも給食を作っているチビたちと変わらない相手に、「ギ……ギブ……」なんて言えないもんか。ダウンだけはしちゃいけない、そう工藤さんの目は言っているようだった。
これはおそらく、チビだから勝手がよく分かっていないのだろう。まわりもさすがに、こんなちびに「強く蹴らないで」とはなかなか言えない。そのために今日まで見過ごされて来てしまったのだろう。フランケンシュタインのように、自身だけが自らの悪魔的な由来を知りえない不幸な生命体である。
しかし、今のミドルキックで分かったことだが、こりゃあただものじゃないということだ。工藤さんよりもミドルキックが上手い。何より、彼女には迷いや躊躇のようなものがない。100%相手を倒しにきている。それはマススパーリングにおいてあってはならないことだが。
悶絶してカメになっているところに、激しいコンビネーションが畳み掛かる。寸止めなどない。すべて本気パンチだ。マススパーの場合、相手にちょっと効かせてしまったり、よろけさせたり、ダメージを負わせてしまったと判断したときは、いったんストップをかけるものだが、彼女にはそういった思考はないようだ。
チィ……! と工藤さんは離れようとするが、内臓に響いていてうまく身体が動いてくれないらしい。小さいのに懐に入り込まれるとやっかいだろう。回転力でうわまわる愛菜の超至近距離でのパンチのコンビネーションに対し、工藤さんは顔にもらうとグローブを上げ、腹にもらうとグローブを下げてといった、すべての動きでワンテンポ遅れていた。
「工藤さん! もっと足を使って!」
気づけばYUIさんが俺のとなりで観戦して言った。
「あれ、効いちゃってるんですよ」
と俺は言った。
「あの子、中学一年生なんですよ」
「中学一年生!?」
俺はすっとんきょうな声を上げた。
「中学一年生って……」
「自転車漕いでやってくるんですよ」
「え」
俺はふとフロア内を見渡した。たしかに親御さんらしい姿を見かけない。
親は送るって言って聞かなかったけど、変態を倒せる自信があるから本人が断ったんだろう。
工藤さんは入ってくるなといわんばかりに前蹴りを出して追い払おうとするが、愛菜は工藤さんの足を掴むとそのまま前進し、工藤さんのみぞおちに強烈な前蹴りを叩き込んだ! 工藤さんは派手に後方へふっとばされて、尻もちをついてしまった。
「あたぁ……」
と俺は思わず声に出してしまった。
さすがにちびといえども、全力のミドルキックが決まれば(今のは前蹴りだが)、大人も立っていられなくなるものだ。大の大人のレバーブローくらいの威力はあるんじゃないか。いや、それ以上かもしれない。工藤さんもよく立っていられたもんだ。RIZINの選手ってこの子のことなんじゃないか。
「嫌だなぁ……」
とYUIさんが呟いた。
「え?」
「ほら、女性ってお腹蹴られるの嫌じゃないですか」
「まあ」
と俺は言った。
そこで時間終了となった。
グローブをおろし、地面に蹴落とされた人間を高目から見下ろす姿はなかなか堂に入っていた。じっさいより背が数センチ高く見えた。敗者にかける言葉はなく、一礼だけして立ち去ると、今度はYUIさんの方にやってきて、「お願いします」と言った。もはやタガが外れて血を求めて彷徨える凶刃だ。
言い忘れていたが、マススパーはワンセット2分。インターバル30秒。その30秒のあいだに、新しくスパーする人を見つけて、そうやって街コン式に、時間内に全員と当たるように、自分から声をかけてまわる仕組みになっている。
YUIさんは「お」と意外だというような顔を見せると、「いいよ! やろうやろう!」と自分のグローブを愛菜ちゃんのグローブにタッチさせて言った。
YUIさんは現役の日本チャンピオンだ。生粋のファイタータイプで、マナに勝るとも劣らないその小さな背を活かし、相手の懐に飛び込んでは、幕の内一歩のように数々の壮絶な打ち合いを制して、頂に辿り着いた。
キックボクシングのタイトルは、ボクシングと違って、様々な団体が興業していることから、いまいち公式的なタイトルの有無がはっきりしないところがある。そのため、タイトルよりも誰に勝ったかどうかが大事だとYUIさん本人は言っていたが。しかし、技術は折り紙つきである。俺もほとんどの技術をYUIさんに教わった。
しかし、そうした技術を持ちながら、YUIさんをはじめとするプロの女性キックボクサーは、試合となると技術戦になることが少ない。ほとんどが超至近距離で顔面を殴り合うケースになる。相手を一発KOするほどのパンチ力や技術はないので、3分3ラウンド、判定決着がつくまで、延々と互いの顔面を殴り合う地獄絵図となる。キックボクシングだというのに、ほとんど蹴りは使わない。ノーガードで顔面を殴りあうだけ。腹もほとんど殴らない。足も使わない。ほとんどリング中央で互いに一歩も引かず、顔面をどつきあうだけ。本当にプロかと思われるような、シャモの喧嘩のようであり、男子ボクシング四回戦顔負けの内容だが、男よりもはるかに激しいものだ。
試合が終わった後の顔はとうてい見れたものではなく、あの井上尚弥の試合後の傷ひとつない顔と比べても、およそ顔面を中心に殴り合うボクシングに比べても、ずっとボロボロの顔になる。しかし練習風景を見ていると、十分にプロらしい動きができているのだ。むしろ練習においては、ほとんどがアウトボクシングふうで、遠い距離からの間合いの制しかた、前蹴りの練習、前後の出入り、いくつかのコンビネーションの使い分けのためのミット打ち、それを会員が帰った後、深夜遅くまで会長やプロの仲間と続けており、明日、次に会員がやってくる夕方の時間まで、日中のほとんどの時間をそれに費やしているが、試合となるとそれが飛んでいってしまう。
俺は一度、YUIさんに、「どうして練習だとあんなに技術を磨いているのに、試合だと足を止めて打ち合うんですか?」と聞いたら、
「あぁ……、なんでだろう?」と言っていた。
YUIさんもマナも超がつくほどの美人ではあるが、美人だからか。これだけ、金髪にしたり、ドレッドヘアーにしたり、かたや栗色の小学生よりも小学生らしい艶やかな髪、命よりも大事に手入れをしてきた美貌が、リングに上がるとみるみる剥がれ落ちていく。一つ傷が入れば、全部壊れたのと同じ、もういっそ取り返しがつかないところまでいきましょう、と二人で相槌を打ちながら、なかよく自己破壊をしているようにも見える。人は、こうした女性の試合内容について、単に技術不足だとか、男に比べて熱くなりやすいとか、メンタル面の未熟ゆえに起こる、冷静に試合を組み立てられないとか、さまざまに憶測するだろうが、俺が思うに、自身がもっとも大事にしているものに傷が入ることによって、ヤケになっているのではないかと思う。
※
モニター時計が、2:00の表示に切り替わった。
二人はグローブタッチをすると、静かに見つめ合った。「お願いします!」
こうしてみると、姉妹みたいだ。YUIさんもかなり小さい方で、背は145cmくらい、YUIさんはブロンドのドレッドヘアーをしているが、マナの方は自然児というか、栗色の艶やかな髪をしている。しかし洗練された戦闘人の刺すような空気は共通してある。
始めは、やはり、フェイント合戦になる。年の功か、ここはYUIさんの方に分があるようだ。攻め急ぐタイプだと思われる愛菜ではあるが、なかなか踏み込めずにいる。二人して、とにかくヒョイヒョイ首を動かしている。YUIさんなどは、水族館の魚を覗き込むように、首を大きく前へ伸ばしたりするが、そういった誘いらしい誘いには愛菜はのってこない。これは裏を読んでいるというわけではなく、人は自身とのシンクロシニティをあまりに欠いた行動をされると、鳩のようにポカンと見入ってしまうためだろう。マナはYUIさんの駄々っ子のような自分よりも幼いと思われる動きを、自分とは関係のないできごとのように達観した大人のように止まって見ていた。
瞬間、YUIさんが前蹴りを放ると、マナは急に素早い動きになって足をキャッチし、それを抱え込んだまま一歩踏み出してYUIさんの腹に強烈な前蹴りを叩きこんだ! YUIさんは激しく後方に吹っ飛ばされ、距離にして2mくらい、後ろで攻防していた会員にぶつかって、何事かという顔をされた。会長が「Oh!」と外人みたいな声をあげた。
先の工藤さんの時にもそうだったが、相手の蹴りをキャッチするのが好きらしい。キャッチに対する意識がそもそも違う。最初からキャッチしようと目論んでいる。YUIさんは立ち上がると、さきまでのテンションとは違い、一方向しか見えていない肉食獣のような目となり、今にもマナに飛びつきそうに凝視していた。おいおい、インストラクターがそんな顔しちゃダメなんじゃないの? 驚くのはマナの方だ。大人のそういう顔を見ても、まったく微動だにしていない。
俺はなぜかこのとき、『龍が如く』のプロデューサーが、YouTubeで、男女における暴力差について語っていたことを思い出した。「『龍が如く』といえば、そこらに落ちている自転車や看板を振り回して攻撃するところが醍醐味じゃないですか、我々はそのためのゲームデザインをしているのに、あんがいプレーヤーたちは素手ゴロで殴りにいってしまうんですよねぇ(笑)でも、女性は別なんですよ。女性プレーヤーは自転車や鉄パイプをかならず見つけ出してきて殴ろうとする。触れたく……ないんですかねぇ……敵に……(笑)そこはわからないけど、とにかくガッチャンガッチャン、私情を挟んでいるかのように、コントーラーをすごいガチャガチャさせて殴りますよね。まるで自分を襲いに来た変態を殴り殺すように、あるいはゴキブリを見つけて殺すときのように。男はもっと理詰めで美しく倒そうと精鋭化していきがちだけど、女は暴力を暴力のままにプレイする、そこには明確な男女差があるんですよ。まさにわれわれが意図した通りに乗っかかってくれるのは女性ですよ……! ホラーゲームなんかも本当に楽しめるのは女性ですよね。カードゲームにしたって、女性は考えが詰まると盤面をリセットさせるスペルカードをつかって仕切り直そうとしますが、それを考え抜くところにカードゲームの面白さがあるわけじゃないですか(笑)ライトユーザーだけがゲームの楽しさを享受できると言ったら口が悪いかもしれないけど、人生にしろ、ディズニーのアトラクションにしろ、ゲームにしろ、ライトユーザーだけが、無条件に物事を楽しめるというか、味わうべくエッセンスから離れていかないんじゃないですかねぇ」
刹那、マナの前蹴りがYUIさんの腹にドンッ! と入った。激しい音が鳴った。もう一つ続いて、ドンッ! とまた同じ蹴りが入った。そしてまたもう一つドンッ! と同じ蹴りがまた当たった。次は別の攻撃がくると見越して裏を読んだ結果、その裏を読まれた。
そのとき、「あ」と言って、YUIさんは目をしばたたかせ、左目をこすった。「コンタクトが……」
「落としたんですか?」
と工藤さんが言った。
「やっちゃったみたい……」
「探しましょう!」
俺たちは四人でコンタクト探検隊となって、地面をくまなく探し回った。
そばではそれを踏み潰しかねない恐竜たちの足……、もとい恐竜のような足捌きでドンドン床を鳴らしている人間たちの足がある。
「ソフトですか? ハードですか?」
「普通のタイプです」
「あった!」
床に落ちた光るものをいち早く見つけだしたのは俺だった。地面にいちばん近いこいつらが体たらくで情けない。まわりの会員たちが忙しく足でマットを叩きつけているなか、はやく救い出してやらなければコンタクトの命が危ない。
俺はこのとき、なぜかはわからないが、スパーリング用16オンスのグローブをはめたままそれを拾おうとした。すると、
「触らないで!!」
と、YUIさんが絶叫するような声をあげた。
ヒステリーのような、女の、甲高い、インストラクターとしての立場を忘れたような、子宮を拭われて生理的に拒否反応を示したような、あるいは先ほど言った、女性ってお腹蹴られるの嫌じゃないですかのニュアンスを地で行くような、YUIさんでもこんな声を出すのかと驚いた。
(グローブをはめたまま、他人のコンタクトを拾おうとするなんて……)
と、工藤さんが呆然とした表情で俺の方を見ていた。
マナもぼんやり口をあけて俺の方を見ていた。
てめー、チビのくせに、チビじゃねーかてめーは。もとはといえば、てめーがコンタクト落とさせたんだろ。
(グローブじゃあ、掴めるもんも掴めなくなるからな……)
俺はなんなんだろう? ここでも発達障害の片鱗を見せてしまった。
けれどもここはこれでいいのだ
すべてさびしさと悲傷とを焚いて
ひとは(コンタクトのように)透明な軌道をすすむ
ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
雲はますます縮れてひかり
わたくしはかつきりみちをまがる
by宮沢賢治
(続く)
執筆の狙い
第一話まで。14951文字になります。
イラストがついた完全版はこちら→『マナガスカル インダストリアル ガール 1』https://www.simaruko.work/28006/
最新作の小説動画はこちらになります→『楽しくない学校』https://www.youtube.com/watch?v=ICfmBoyg66U