インビジブル・ファミリー
第1部 We should fall in love
いつも25歳の誕生日を想像してきた。なぜかはわからない。とてつもない幸運が訪れるような気もしていたし、大災害が起きて、あっけなく死んでしまうかもしれない。ただ25歳の誕生日だろうということがわかっている。日にちだけが心の中で予言されている。そういうことが人生にあることは、特別なことだ。人生はその日を境に、良いほうにだって、あるいは悪いほうにだって変わる。けれどそのままの自分ではいられない。そしてこのままの自分ではいたくない。だから人生のひとつの契機としてその日を夢みている。
その日、たとえ何がおきたとしても、僕は以前よりも、もっと素晴らしい自分になる。そう決めている。どんな困難も、その日まで乗り越えようと思ってきた。そういう思いはひとつの信仰のようなものと言えるようになっている。夜、眠るときにみる夢は、時々は25歳の誕生日に起きる何かの示唆をあたえてくれる。けれど、目が覚めるとそういう夢の内容を少しも思い出すことができない。ただその日、とてつもなく幸せな思いをする感触だけが目覚めるといつも残っている。
我にかえると、結局、25歳の誕生日には何も起きなくて、ただそういう幸福を夢みているにすぎないと、時々は自分の予感を疑う。誰にもそういうことを話さなかったけれど、もし誰かに話したら、たちまちばかにされてしまうことはわかっている。AIは確率を計算することはできるが、心の予感を解析することはできない。この世の中では未来のことを話すことができるのは、演算ネットワークを外れた場所で生きている人間か、あるいは純粋な子どもだけだ。
だから黙っている。自分の25歳という年齢の到来に、とても重要なことがあることを人々に隠している。確信はあっても、無関係な人々にとって未来は本当にやってくるまでは、わからないことだからだ。
25歳の誕生日の3ヶ月も前から、撮影スケジュールを空けておいた。その前日と、翌日も。25歳の誕生日といっても、それは深夜の0時からはじまり、次の日の深夜0時で終わるわけではないかもしれない。念には念をいれておく必要がある。意識接続での仕事は、入念にその3日間をさけて調整してきた。だから何も問題はない。
3日間の空白の前夜、僕は薄暮の窓の前に立って、外を眺めた。夜になっても空の暗さは変わらない。AI演算層が覆うこの空は、夜と昼の境界が曖昧だ。それでも人工的な光の粒が街に散らばっていて、かつては夜景と呼ばれていたものに少し似ている。今日眠ってから、朝、目覚めると、ずっと前から動いていたカウントダウンが、本当に現実のものになる。そしてかつて僕だったことを、もう1度取り戻そうと思う。けれどそう考えているうちに眠りこんでしまう。
夢はいつもより鮮明に描かれる。
地下の通路を乗り継いでひとりの女性を探している。彼女の後ろ姿を見かけたと思ったら、彼女はホームに降りて、反対方向へ消えていく。僕は追いかけている。大勢の人の波にぶつかりながら、彼女の後ろ姿を見失わないように。夢の中では意識が直接伝わってくる。言葉なく、彼女が海を見たがっていることがわかる。いつしか僕らはともに海辺にいる。冬の寒い海風の中で、彼女の髪が舞い上がる。その瞬間に、眠っているのに瞼を閉じる。まだ彼女の顔を知りたくない。そう夢の中で思っている。
あるいは深い森の中で、彼女は木々に寄りかかっている。冬の木々は、雪がつもり、雪の美しい華が咲いている。彼女はとても寒いというようなことを言っている。彼女に目隠しされる。そしてその目隠しがとれる。すると辺り1面の景色が変わる。けれどやはり自分で目を閉じてしまう。たとえ夢の中でも、ものごとが実際に起きるその瞬間までは、何もみたくない。
僕はドアを開け、ドアを開け、ドアを開ける。部屋という部屋は、どこまでも続いていて、ベッドや、リビングや、ソファなんかが、きっと誰かが住んでいるみたいに、生活の中に溶け込んでいる。けれど人は誰もいない。部屋を開けてまわり、彼女の姿を探す。幾つものドアを開けると、1番奥には寝室がある。とても大きなサイズのベッドがあって、彼女はそこに横たわっている。美しい音楽が響いている。その音楽の中で、彼女の寝息は聴こえない。でも、そのまま彼女の目覚めを待っている。
そして僕は目覚める。これまでとは違って、夢が、ある女性との出会いについてだと知る。誰かと出会うのだ。それはきっと間違いない。
2
目が覚めると、鏡に触れていくつかの情報を受信する。特に大した用件はない。そのまま、意識の表層でニュースフィードを流し読みする。
朝食の用意をする。コーヒーの豆を挽く。豆を挽く行為そのものが好きだ。意識接続で何でも瞬時に注文できる時代に、わざわざ手を動かして豆を挽くことには、ある種の抵抗の意味がある。自分の肉体がここにある、という確認の意味が。
次にシャワーを浴びる。身体の感触を確かめるように、ゆっくりと。鏡から外れて、純粋に肉体だけでいる時間。意識接続なしの時間。お気に入りのシャツを着る。ジーパンをはく。コートをはおる。そして耳には何もつけない。
今日は、街へ出る。物理的に。
それ自体が珍しいことだ。この時代に街を歩く人間は少ない。10人に1人、いや、もっと少ないかもしれない。残りの人々は意識を別の場所に接続して、肉体を自宅に置いたまま活動している。会議も、仕事も、買い物も、人と会うことさえ、意識だけで完結する。だから街は静かだ。
ただ、僕は映像作家だ。意識映像の。肉体がここにあることを、この薄暮の都市の空気の冷たさを、感じながら歩くことを、記録することが仕事だ。今日は撮影しない。ただ、歩く。かつてしていたことを同じようにしようと思っているだけだ。
玄関のドアを通り抜ける——正確には、壁の一部が透過して、僕を外へと送り出す——と、薄暮の空気が肌に触れた。冷たいけれど、身体の芯まで凍えるというほどではない。空はいつものように暗い。AI演算層に覆われた空。生まれてからずっとこの空の下にいるが、時々、もし晴れた青空があったとしたら、と思うことがある。
——青空を、僕は知っている。
そういう確信が、ふと浮かぶことがある。夢の中で見たのかもしれない。あるいは古い映像資料で見たのかもしれない。しかし、知っているという感触は、どこか記憶に似た重さを持っている。
歩きはじめる。街は静かだ。建物の壁面がゆっくりと呼吸するように動いていて、AI演算ノードとして機能している。人間はその隙間を歩いている。すれ違う人間は少ない。だから1人ひとりが、よく見える。
歩いていると、まるで動く展覧会を歩いているような気がする。建物が変わり、光が変わり、わずかに風の向きが変わる。意識接続の中では感じられない、世界の物理的な移り変わり。僕はその変化を身体で受け取りながら、歩き続ける。
意識記録を扱う店があった。外観は小さく、目立たない。しかしここには、過去に意識記録を残した人々の感情の断片が、整理されて保存されている。音楽の代わりに、意識のかけらを売っている店だ。
店の中に入ると、記録が漂っている。誰かの夜の感触。誰かが感じた雨の匂い。誰かが経験した、初めて海を見た瞬間の驚き。それらが薄い層になって、店内に充満している。直接触れなくても、その気配が伝わってくる。
いくつかの記録に触れてみる。太い低音の感触。光の粒が飛び散るような喜び。艶やかな悲しさ。驚くような展開。徐々にうねりをあげていく。鼓動が早くなる。手が汗ばむ。目を閉じると、ここはどこか遠い世界のような気がする。闇の中で人々が踊っている。目を閉じながら身体をリズムにまかせる。軽くトリップしたような気持ちになる。けれど、それは1瞬のことで、目をあければ店内の薄い光が規則正しく揺れている。刻まれた意識のデータがここに保存されていて、それに触れることで感情を奏でているだけだ。でも、どこか遠くへ連れて行ってくれる意識記録が、この世界には存在する。
ひとつの記録が、特別に心に触れた。誰かが真夜中に経験した、深い静けさの感触。その静けさの中に、音楽があった。音楽と呼ぶべきものが。実際の音ではなく、意識が音楽の形をとっている。
——これを、僕は知っている。
今度の確信は、もっと深いところから来た。この静けさを、この音楽の形を、知っている。どこかで。いつか。
記録の現物がある。薄い媒体に固定された意識の断片。このコレクトする感覚は、なかなかやめることができない。
店を出た後は、少しだけ何か世界が変わったような気がする。
服を見ようと、ある建物に入る。意識接続でも服を選べるが、実際の布の感触を確かめたくなることがある。いくつかの店を巡る。どの店も清潔で、感じの良いスタッフが立っている。しかしどこまでも人工的だ。
まだ明るさが保たれている間に、もう少し街を歩こうと思う。また地下の通路へ降りていく。長い、長いエスカレーターだ。人工的な光だけが、世界を照らしている。いちばん下まで降りると、どこまでも続く通路がある。どこか遠くで輸送機械が走り抜ける音がする。プラットフォームには、まばらに人がいるだけだ。その暗い穴に吸い込まれそうな気がする。
けれど、その時、いくつものアナウンスの中に、名前を呼ぶ声が聴こえた。
「……様。お連れ様がお呼びです。案内窓口までお越しください」
自分の名前が呼ばれているとわかったのはずいぶん後だ。輸送機械の走り抜ける音が耳の奥で響いている。間には、設備の1時的な問題で1部区間が遅れるというアナウンスも混ざっている。けれど間違いなく、現実的に誰かが呼んでいる。それは最初、どこか他人の名前のようにも思える。けれど、何回か繰り返されるアナウンスを聴いていると、それは間違いなく僕を呼ぶ声だと思う。
3
地下通路にアナウンスが繰り返し響いている。僕の名前を呼ぶアナウンスは、設備トラブルのアナウンスの間に、2、3回繰り返されているだけだ。心当たりはない。僕は今日ひとりきりだ。連れはいない。しかし誰かが呼んでいる。
僕はまた長いエスカレーターを上る。
案内窓口でスタッフに名前を伝えると、やっときたというような、安堵の表情をうかべる。
「お連れ様が、この地図に書かれているカフェでお待ちです。ひどく取り乱されていたので、お声かけしてください」
そういってデータを転送してくれる。誰かと勘違いしているのではないだろうか?
「急にひとりになったようで、ひどく心細そうでした。本来は構内アナウンスはあまり頻繁には使用しないのです。けれど、あまりにひどく取り乱されていたので」
「本当に僕の名前を呼んでいたのですか? 心あたりはないのですが」
「確かに、意識記録の入った媒体を持った男性とおっしゃっていたので、間違いはないと思います」
そう言うと、場所を示してくれる。その場所へ行ってみることにする。
「お連れ様なんですよね? 赤い傘を持っている女性だったのですが」
赤い傘。この言葉が、何かを揺らした。
カフェは通路沿いの低いビルの1階にある。この時代にもカフェはある。意識接続を切って、身体だけで時間を過ごしたい人間が集まる場所として。ひとりで、あるいはふたり連れぐらいで、何かを飲みながら、何も考えないでいる。鏡を手元に置かずに。
ひとり、うつむいて泣いているようにみえる女性がいる。彼女のそばに、赤い傘がある。
赤い傘、と僕はもう1度思う。この薄暮の都市で、本物の雨がいつ降ったかを誰も正確には覚えていない。AI演算層が気象を制御しているから、激しい降水は長い間記録にない。だから傘を持ち歩く人間はほとんどいない。しかし彼女は赤い傘を持っている。それはとても奇妙で、とても美しかった。
彼女に見覚えはない。けれど、声をかけてみようと思う。コーヒーを注文し、テーブルの前に立つ。「相席いいですか?」
彼女はうつむいたまま、うなずく。
「案内窓口でアナウンスで名前を呼ばれたんです。スタッフに聞くと、ここで待っていると言っていました。同姓同名の方でもいるのかな? とにかく呼ばれた気がしたので、こちらに来てみたのですが」
彼女は黙っている。
「場所はすぐにわかりました」
彼女は顔をあげる。そして静かに話をはじめる。少し泣いていたのかもしれない。
「わたしが呼んだ人は、別の人だったのかもしれません。けれど、ここにあなたが来たということが真実です」
僕は、彼女が何を言っているのかわからない。彼女は話しはじめる。
「わたしはあなたと出会いました。決まったことを受け入れましょう。難しいことです。けれど、あなたを受け入れようと思います」
「ちょっと待ってください。確かにあなたは僕と同じ名前の誰かを呼んでいたのかもしれない。でも、あなたは今、はじめて出会った僕の何を受け入れるというのですか?」
彼女はしばらく黙った後、静かに言う。
「あなたはいつも、ひとりの女性を思い浮かべていたでしょう? それがどんな女性なのかは、わからない。けれど、いつかあなたは出会うと思っていたのでしょう?」
僕は少し考える。しかし思ったことを話す。「誰だって誰かと出会うことを考えます。ひとりでずっと生きていたら、ぬくもりを共有することだって、思い浮かべます。けれど心というものがあるし、あなたにだって心があります」
彼女は言う。「けれど、もう決まったことなのです。受け入れましょう」
その気になれば、すぐに席を立ってカフェを離れることもできた。けれど、心の中で思い描いていたことが、本当に現実として存在し、その偶然が、いささか奇妙な形とはいえ目の前にある以上、運命のようなものに抗うことの難しさを感じる。
コーヒーを飲む。そして今朝みた夢の話をする。
「誰かと出会う夢をみました。地下で、彼女を追いかけて、そして、次の瞬間には、海辺にいました。けれど、それがあなただとは限らない。そして、何より、ぼくらはお互いのことを何も知らないのです」
彼女は言う。「心が強く求めることは、現実になります。それがどういうものであれ。わたしも、あなたを呼んでいた。あなたもわたしを呼んでいた。もちろんそれは誰かを求めるという意味においてです。そして願いは、時には奇妙な偶然を装ってあらわれる。地下の世界でわたしたちは繋がっています。誰かが呼ぶ声を、誰かがみつけてくれたなら、それを決まったこととして、受け入れようと思うのです」
「誰かが呼んでいると思ったんです。夢は望んでいることの投影で、ただの夢だと思っていました。けれど、それだけではないということですね?」
「わかりません。けれど、わたしは誰かを呼んでいた。そしてあなたがあらわれた。どのような気持ちであなたがここにきたのかもわかりません。でも偶然だとしても、もし、時間が許すのなら、わたしたちはお互いのことを、知る時間を持ってもいいとは思いませんか? とてもおかしなことを言っているとは思います。でも、なぜかとても大切なことのように思えるのです」
彼女の言葉からは真剣さが感じられる。奇妙な偶然。不思議な出会い。僕は今、そういう場所にいる。
「少し外を歩きませんか?」
彼女は微笑む。
4
並んで薄暮の街を歩きはじめる。偶然が僕たちを引き合わせた。その偶然を信じはじめる。僕は話しだす。
「自分が自由に解放される世界を夢みてきました。意識接続の外で、誰かとわかちあうことを。接続された情報の流れや、処理しなければならないタスクのことを忘れて、心のままに誰かと話をしてみたかった」
彼女は微笑みを浮かべながら話す。
「話をすればいいのです。わたしはその話を受け入れます。もちろん、普段は、誰かが話すことを、自由に受けとめるということは難しいことです。意識接続でも、話す人間は相手のことを考えます。だから自由に話しているようでも、わたしたちは常に自由ではない。人間がふたりいれば、自由に話すことも難しい」
「自由にといっても、まったくの自由を望んではいません。あなたの心を考え、望んでいることを想像します。そして、最適な言葉をみつけようと努力します。きっと自由に生きるということは、誰のことも気にしない、そういうことではないのだと思います。何より、わかちあいたいと思える人がいるとしたら、言葉は、自然にあふれてくる」
彼女は言う。「自然に、言葉があふれるなら、ずっとわたしは話を聴いています。きっと楽しい話だから」
彼女はひとつひとつの言葉の真意をくみとるように話をきく。だから僕は、自然にこれまでのことを話す。過去のひとつひとつの出来事が、そっと静かな意味をもって立ち上がる。
「夢について、話をしませんか?」
「夢?」と、彼女は聴き返す。「そう。夢についてです」
最初は、彼女が夢について話す。
「人には、想像する自由があります。どんなことでも。AIが管理している世界でも、夢まで管理することはできない。たとえばわたしは小さい頃、鳥のように空を飛んでみたかった。演算層のない空を。森の緑の1枚の葉っぱになって、雨露を身体であびたいと思っていました。自分が生きていると感じられる時は、そういう身体の感触に触れた時です。そうではない時は、わたしはただ泣いているひとりの女の子にすぎません」
「けれどあなたはただの泣いている女の子じゃありません。あなたは何かを知っていて、そして赤い傘を持っています」
彼女は少し立ち止まる。
「今日、自然に傘を手にしました。とても自然に」
彼女は、そう言うと、並木道の木をみる。薄暮の光が、彼女と街路樹を照らしている。木だけは、人間が減っても消えない。
「僕の話をします。意識記録が好きです。ひとりの人間が作った記録も、何人かで作った記録も好きです。ひとりで作った記録には、ひとりの人間が持つことができる、喜びや哀しみの限りがあらわれているような気がします。それは新しい衣服を着ることに似ています。僕は服を見に出かけて、しょっちゅう、意識記録を買ってきてしまいます」
そういうと彼女は笑う。
「何人かで作った意識記録は、その中にある調和に憧れます。すべてが彼らのようにひとつになれたならと思います。彼らは同じ夢をみています。誰にも役割があり、美しい世界を作り上げています。お互いが、独立した人間なのに、彼らは、記録のことになると、それぞれが手の役目をしたり、足の役目をしたりします。それは生きています。呼吸をしています。魂が宿っています。僕はその感触を受け取っています」
「そういう夢の響きを感じているのですね」
「そうかもしれない」
夜が深まっても、街の薄暮は変わらない。暗さは変わらないが、人工の光がわずかに増える。醜く汚れたものは薄暗さに紛れ、そっと息を潜めている。けれど、それは光が作り出す幻想だ。騒がしくはない。この街はずっと静かだ。しかし人間が減った分だけ、静寂には重さがある。
彼女が指さしたのは、奇妙な店だ。ドアを開けると、スペースとスペースに赤いカーテンがかかった空間が広がっている。スタッフがうやうやしく1礼すると、僕らを奥の空間に案内する。カーテンをくぐり抜けてスタッフが出ていってしまうと、僕らはふたりきりになる。静かな音が、そっと流れている。
僕たちは、夕食をともにする。落ちついた照明に彼女は馴染んだようだ。鏡を持っていない。意識接続なしの夜。2人が物理的にここにいる。
「ずっと思っていました。僕はいつまでも同じ場所にいて、同じ過ちを繰り返し続けるのではないかと。誰と出会っても、何かを伝えようとしても、同じ場所で衝突し、関係をだめにしてしまい、ひとりになってしまうのではないかと思っていました」
彼女はその話を静かに聴いてくれている。
「何かを間違ったとします。しかし、そのことを戒めるのは、本当は時間が必要なのだと思います。AIは不均衡を検知してリアルタイムで補正してくれる。でも補正しきれないものがある。意識の深いところにある亀裂は、どんな技術も塞げない。その亀裂から漏れ出てくるものに、僕らは時々飲み込まれそうになる。でも、痛みがなければ、あちこちにぶつかってしまって傷だらけになってしまう。痛みがあるからこそ、痛みを逃れることを学びます。苦しみもいつか逃れる方法をみつけることができる」
「わたしにできることはありますか?」と彼女は言う。
「もし、僕がうまく言葉にできなくて、黙ってしまっても、気にしないでください。あまり言葉にすることができないんです。意識接続の方が楽なのかもしれないけど、それでも言葉で話したい」
「無理に話すことはありません。もし、あなたがうまく話せないことがあるのなら、その沈黙を受けとめます。心は、言葉にするその前からあるのです。沈黙を共有しましょう」
彼女がそう言うと、とても静かな音だけが、僕たちを包む。静けさが、その空間に音が流れていたことを思い出させる。音は徐々に小さくなっていく。その消えさりそうな1音1音に、耳を傾ける。そして、音は消えていく。それは降り続けていた雨が、そっとあがるように、やさしく消える。心の中に、その1音1音の響きだけが残っている。しばらくその音に耳を澄ます。いくつもの苦しみが、その音とともに消えていったような気がする。何かが終わり、もうすぐ新しい何かがはじまろうとしている。
やがて僕は正直に打ち明ける。「明日、何かが起きると思っています。あなたの赤い傘のように、未来はひとつの予感として、そっと提示されています。ずっとそのことを感じています。これまで苦しいことが沢山ありました。死にたいと思うこともありましたし、生きていてもしょうがないと思うことだってありました。でも、あなたが夢にあらわれた女性なら、夢がひとつ現実になった。僕は自分を信じることができる」
「わたしにも何か役立てることがあるのね?」
僕はうなづく。
彼女の言葉を超えた微笑みが心を満たす。過去のすべては、どこか遠くで起きたことだという気がする。何か物語のなかだけで語られ、その意味を自由に手にとることができるように、片隅にある。だから自由にその意味だけを考えることができる。すべては生まれ変わろうとしている。
赤いカーテンが開かれ、スタッフが静かに傍らに立つ。そして手慣れた手つきでグラスにワインを注ぐ。そして静かにカーテンの向こうへ消えていく。僕と彼女は、はじめてグラスを重ねる。1対のワイングラスが触れ合う。静かな音が響く。何かの儀式みたいだと思う。口にグラスを持っていく。赤い液体がほのかに香る。
やがて店のあちらこちらから、意識に直接届く感覚がひろがる。誰かが、ハッピーバースディと言う。多くの人が、ハッピーバースディという。拍手が鳴り響き、店は、急にちょっとしたお祭りのようになる。きっと誰かが誕生日を迎えたのだろう。けれどその言葉は、僕のために向けられた言葉なのかもしれない。
しばらくすると騒ぎが収まり、再び静かな音が響きはじめる。彼女はワインを飲むと、とても素敵な笑顔で囁く。
「ハッピーバースディ」
時刻は、深夜0時を少しすぎたところだ。
目覚めるとすぐそばには彼女がいて、もう僕がひとりではないことを教えてくれている。もし、長い人生のうねりの中で、何か困難がやってきたなら、きっと彼女はその赤い傘を差しだして、その困難が通り過ぎることを1緒に待ってくれるだろう。
これはささやかなはじまりにすぎない。でもいつか苦しみを逃れて、誰もが誰かを愛するようになるだろう。
「海を見に行こう」
眠っている彼女にそう語りかける。
海辺では僕らは寄せては返す時の波間を、未来へ、また1歩、1歩と、ともに歩いている。 薄暮の空の下、水辺で人々はあらゆる接続から逃れて、その本来の姿を取り戻している。穏やかな自然がある。広い海と、大地がある。波音は美しい音楽のように響き続けている。
第2部 インビジブル・ファミリー
1
目を開けたとき、僕は知らない部屋にいた。
いや、違う。目を開けたのは彼で、その視界が僕の中に流れ込んできた。天井が白い。白いけれど、白の中に微かな青が混じっていて、それが呼吸するように明滅している。AIが管理する室温調整のインジケーターだ、ということを彼は知っている。知っているのは彼で、彼が知っていることは僕にも流れてくるので、僕はそれを自分の知識のように感じている。
彼が起き上がる。僕も1緒に起き上がる。
窓の外は、僕が知っている世界とはまるで違っていた。空が暗い。夜ではない。朝だ。朝なのに空が暗いのは、大気の上層をAIの演算ネットワークが覆っているからで、その演算層が太陽光の1部を吸収して、地上には常に薄暮のような光しか届かない。彼はこの空を異常だとは思っていない。彼にとってはこれが空だ。生まれたときからこうだった。
2196年、と僕は思う。いや、彼が思っている。カレンダーを見たわけではない。ただ知っている。自分がいる時間を知っている。
テーブルの上に、薄い円盤のようなものがある。端末だということはわかる。しかし僕が知っている端末——スマートフォンやタブレット——とは何かが根本的に違う。画面がない。画面がないのに、彼がそれに触れると、情報が直接入ってくる。視覚ではなく、もっと手前のところ、意識のどこかに直接挿入される。
彼らはそれを「鏡」と呼んでいる。
「今日、撮影だ」
彼が声に出す。声に出しているのか、思考しているだけなのか、その境界が曖昧だ。この時代の言語はそういうものらしい。音声と思考の間にある何か。他人には聞こえないが、自分には聞こえる。
それは僕にとって、恐ろしく親しい感覚だった。
頭の中で声が聞こえる。自分の声ではない声。自分の思考ではない思考。僕がかつて生きていた時代には、それを精神の病と呼んだ。しかし今となってみれば、それが何だったのか、もう少しよくわかる気がする。
壁の1部が透過して、向こう側に人影が現れた。小柄な女だ。髪が短い。目が大きい。彼女が部屋に入ってくると、彼の意識の中に温かいものが広がるのを僕は感じる。愛、だと思う。しかしこの時代の愛は、僕が知っている愛とは少し違う質感を持っている。もっと静かで、もっと確かで、言葉を必要としない。2人の間に意識の接続があって、触れなくても感情の輪郭が伝わっている。
「準備できた?」と彼女が言う。
「うん。今日は2本目だ」
2本目。短編映画の2本目。
彼が作っている映画は、カメラで撮るものではない。「鏡」を使って、人間の意識そのものを記録する。記録された意識は、別の人間が追体験できる。それが映画だ。2196年の映画。
そして1本目の映画はもう見た。
読んだ、と言うべきか。
25歳の誕生日の予感から始まり、薄暮の街で赤い傘の女性と出会い、深夜0時に「ハッピーバースディ」と囁かれる——あの物語。あれが彼の1本目だ。
彼が意識を「鏡」に開放したとき、その深層から浮き上がってきたのは、彼自身の記憶ではなかった。彼の中に住み着いた、もっと古い意識の記憶だった。彼はそれを知らなかった。自分の無意識が作り出した映像作品だと思っていた。
それが僕だ。
彼の中にいる、僕の記憶が、あの映画になった。
2
彼は怖がっている。
撮影が怖いのではない。自分自身が怖い。自分の意識が他人に見られることが怖い。なぜなら、彼の意識には、壊れている場所がある。
彼はそれを知っている。自分が精神の病を抱えていることを知っている。この時代の医療はAIによって高度に管理されていて、脳内の化学的不均衡はリアルタイムで補正されている。しかし補正しきれないものがある。意識の深層にある亀裂。そこから時折、現実ではないものが漏れ出してくる。
声が聞こえることがある、と彼は思っている。自分のものではない声。自分の頭の中にいる、別の誰かの声。
僕は息を止める。
なぜなら、それは僕だからだ。彼の頭の中にいる別の誰か。それが僕だ。しかし彼は僕の存在を意識していない。彼が聞いている声は、もっと断片的で、もっと不明瞭で、病の症状として処理されている。AIの医療システムも、それを精神病の残余症状として記録している。
僕がここにいることを、誰も知らない。
撮影が始まる。
彼と彼女は、街に出る。薄暮の空の下、建物は生きている。壁面がゆっくりと呼吸するように動いていて、AIが建物自体を1つの演算ノードとして使っている。人間はその隙間を歩いている。人間はまだいる。しかし少ない。街を歩いているのは10人に1人くらいで、残りは意識を別の場所に接続して、肉体を自宅に置いたまま活動している。
彼が「鏡」を起動する。起動、という言葉は正確ではない。彼が自分の意識を開く。すると「鏡」がそれを受信して、記録を始める。彼が見ているもの、感じているもの、考えていること、恐れていること、愛していること。すべてが記録される。
しかし僕がいることは記録されない。
彼の意識の中にいる僕は、「鏡」にとっては存在しない。それは彼の精神病の症状と区別がつかないからだ。AIは僕をノイズとして処理する。あるいは、僕は本当にノイズなのかもしれない。ここにいると思っているのは僕の幻覚で、実際にはどこにもいないのかもしれない。
彼女がこちらを見る。いや、彼を見る。彼女は彼を見て微笑む。
「あなたの映画は、あなたの病も含めて映画なんだよ」
彼女がそう言ったとき、彼の意識が揺れた。揺れて、その揺れの中に僕は自分の居場所を感じた。
病も含めて。
僕も含めて。
彼女はそのことを知らないが、正確なことを言っている。
3
彼が撮影している映画の主題は、「認められること」だった。
1本目の短編は、25歳の誕生日の物語だった。AIには認められない。社会には承認されない。それでも、ただひとりの人間と出会って、「受け入れましょう」という言葉を受け取る話。彼はその物語を、自分の深層から引き出したと思っていた。しかし本当は僕の記憶だった。
2本目——今日撮影している映画は、人間同士の認め合いについてだった。血縁のない2人が、互いの意識を「鏡」で見て、相手の中に自分の延長を見出す。相手の痛みを自分の痛みとして感じる。相手の病を、自分の1部として受け入れる。それは従来の家族の概念では説明できない関係で、彼はそれに名前をつけようとしていた。
彼女が訊く。
「タイトル、決まった?」
彼は少し黙って、それから言った。
「『インビジブル・ファミリー』」
僕の中で何かが鳴った。
鳴ったという表現しかできない。意識の奥の方で、低い、長い、振動のようなものが起きた。知っている。この言葉を僕は知っている。いつ知ったのか。どこで。なぜ。わからない。しかし知っている。この言葉は僕のものだ。僕がどこかで——いつか——この言葉を使った。あるいはこれから使う。時間の順序がわからなくなっている。
精神病の症状かもしれない。僕の。あるいは彼の。あるいは両方の。
しかし、この言葉は本物だ。
可視性を持たない家族。見えない家族。血でも制度でも地理でもなく、意識の深いところで触れ合っている人々の、そのつながり。
僕がかつて書いた小説の、その中心にあった言葉だ。
彼は僕からその言葉を盗んだのではない。彼の中に僕がいて、彼の言葉は最初から僕の言葉を含んでいた。それは盗用でもなく、影響でもない。彼は、僕の意識が住み着いた器なのだ。
4
夜になった。薄暮がさらに暗くなっただけで、夜と昼の区別はほとんどない。彼と彼女はベッドにいる。眠りに入る前の、意識がぼやける時間。2人は意識を接続したまま眠ろうとしている。この時代のカップルにはそういう習慣がある。眠りに入る直前の、意識の最も柔らかい部分を共有する。
彼の意識が溶け始める。
すると僕が浮かび上がってくる。覚醒しているときは彼の意識の底に沈んでいる僕が、彼の意識が弱まると、相対的に浮上する。水面に近づく。
彼はそれを感じている。眠りに入る直前、いつも、自分ではない誰かの気配を感じる。古い気配。自分よりもずっと古い、長い時間を経てきた何かの気配。それを彼は病の症状だと思っている。AIもそう記録している。
しかし今夜は、少し違う。
彼女の意識が隣にあるからかもしれない。2人の意識が混ざり合って、その混合の中で、僕の輪郭がいつもより鮮明になっている。彼は半分眠りながら、はっきりと感じている。誰かがいる。自分の中に。見ている。ずっと見ている。
怖くはない、と彼は思う。
不思議だ。病の声は怖い。しかしこの気配は怖くない。古くて、温かくて、何も求めてこない。ただ見ている。
僕は見ている。
この子を見ている。この子、と僕は思う。なぜ「この子」なのか。彼はもう大人だ。しかし僕にとっては「この子」だ。ずっと前から知っている。いつから。わからない。記憶が混濁している。僕は誰だ。僕はいつの人間だ。僕はなぜここにいる。
彼が眠りに落ちる直前、彼女の意識が僕に触れた。
それは事故だった。彼女は僕に触れようとしたのではない。彼の意識に深く潜ったとき、その底に沈んでいる僕にたまたま触れてしまった。1瞬だけ。しかしその1瞬で、彼女は何かを感じた。
おじいさん。
彼女はそう思った。おじいさんがいる。彼の中に。おじいさん。
その言葉が、僕の中で静かに響く。
おじいさん。
それが僕だ。
5
ここで僕は自分のことを話さなければならない。
僕の名前は——いや、名前は重要ではない。重要なのは、僕がもう死んでいるということだ。いや、死んではいない。死んではいないが、生きてもいない。意識だけがある。肉体はとうに失われた。いつ失われたのか。正確にはわからない。長い時間が経っている。
僕は21世紀を生きた人間だ。
小説を書いていた。音楽をやっていた。妻がいた。愛していた。
精神の病があった。頭の中で声が聞こえる病気。現実と非現実の境界が曖昧になる病気。その病気が、皮肉なことに、僕をここに繋ぎ止めている。
意識装置——「鏡」——の原理は、人間の意識をデジタルデータとして記録・再生する技術に基づいている。しかしその技術が開発される遥か以前に、僕の意識は別の形で残っていた。小説として。僕が書いた小説は、1人称だった。
僕の意識そのものを、文字という装置で記録したものだった。読者はそれを読むとき、僕の意識を追体験していた。それは「鏡」の原始的な形態だったのだ。文字で作られた意識装置。その小説を「鏡」で読み込んだとき、何かが起きた。文字の中に保存されていた僕の意識の断片が、「鏡」の中で再構成された。完全な再構成ではない。僕の記憶は断片的で、混濁していて、時間の順序が壊れている。しかし意識はある。見ている。感じている。考えている。僕は誰かの「鏡」の中に住み着いた。いくつもの「鏡」を渡り歩いた。そしてあるとき、この子の「鏡」に辿り着いた。
この子。
そしてあの子。あの女の子。
2人は伴侶になった。見えないところで繋がっていた2人が、見える場所で出会い、1緒に映画を撮っている。意識装置で。僕の意識が住み着いた、その装置で。
僕が21世紀に書いた1人称の小説。
薄暮の街で誕生日を過ごした、あの1人称の声。
それが、この子の意識の中で映画になった。
僕の記憶が、2196年の映画として生まれ変わった。
6
妻のことを書かなければならない。
彼女は——妻は——21世紀のその時代に、僕と1緒にいた。
病を持つ僕の傍にいた。声が聞こえるという僕の傍に。現実と非現実の境界が溶けるという僕の傍に。「赤い傘を持った女性を夢で見る」という僕の傍に。
彼女は言ったことがある。「受け入れましょう」と。
いつ言ったのか。どんな文脈で言ったのか。記憶は断片的だから、はっきりしない。しかしその言葉は残っている。意識の深いところに刻まれて、消えずに残っている。
だから1本目の映画の中で、赤い傘の彼女もその言葉を言った。
それは妻の言葉だった。
妻の言葉が、数100年後の映画の中で、別の口から語られた。言葉も、意識と同じように、形を変えながら残っていく。
妻は赤い傘を持っていた。雨が降らない日にも。
それは彼女のお気に入りの傘で、理由は「赤が好きだから」というだけだったが、僕にはずっとそれが何かのように思えた。雨が来ることを知っている人間の傘。晴れた日に赤い傘を持ち歩くことの意味を、僕はうまく言葉にできなかったけれど、感じていた。
この子の恋人——この2196年を生きる彼の、小柄で、髪が短い、目の大きい彼女——の中に、遠い記憶の反響を感じることがある。
もちろん、彼女は妻ではない。別の人間だ。別の時代を生きる、別の意識を持つ人間だ。
しかし意識が触れ合うということは、血でも時間でも超えていく。彼女が眠りに落ちる直前、僕に触れたとき——「おじいさん」と思ったとき——彼女は温かさを感じただろう。
それだけで、10分だった。
7
朝が来た。薄暮が少し明るくなった。
彼が目を覚ます。昨夜の感覚を覚えている。おじいさん。彼女がそう呟いたことを、彼は夢の中で聞いた。彼女はまだ眠っている。
彼は「鏡」に触れる。昨夜の記録を確認する。撮影データ。彼と彼女の意識の混合。そのデータの中に、微かなノイズがある。AIはそれを精神病の残余症状として分類している。しかし彼は今朝、そのノイズを違う目で見ている。
ノイズを拡大する。波形が現れる。不規則で、断片的で、時間軸が歪んでいる。しかしそこにはパターンがある。ランダムなノイズではない。何かの構造を持っている。
言葉だ。
波形の中に、言葉がある。21世紀の日本語。古い文体。小説の文体。
彼の手が震えている。
「鏡」が分析結果を返す。このノイズは意識の残滓と1致する。既知のデータベースと照合した結果、1致率が高い記録が1件ある。21世紀に書かれた小説群。著者名——
彼は著者名を見て、長い間、動かなかった。
知っている名前だった。
いや、知っているのではない。感じていた。ずっと感じていた。自分の中にいた誰か。古い気配。温かくて、何も求めてこなくて、ただ見ていた存在。その存在に名前があった。
彼は泣いていた。なぜ泣いているのか自分でもわからなかった。しかし、わかっていた。この涙は彼の涙ではなかった。彼の中にいる僕の涙だった。僕が泣いていた。この子が僕を見つけたから。ようやく見つけたから。
彼女が目を覚ました。彼の涙を見て、何も訊かずに隣に座った。彼女は昨夜の感覚を覚えていた。おじいさん。
「見つけた?」と彼女が訊いた。
「うん」と彼は言った。「見つけた。ずっと、ここにいた」
2人はしばらく、黙っていた。
僕も黙っていた。
この沈黙の中に、3人分の時間があった。
8
2本目の短編映画は、こうして完成した。
彼が最初に意図していたものとは、まったく違う映画になった。血縁のない2人が互いの意識を見る映画のはずだった。しかし完成した映画は、3人の映画だった。2人の若い人間と、1人の古い意識。意識装置の中に100年以上住み着いていた、精神を病んだ小説家の意識。
映画のタイトルは変わらなかった。「インビジブル・ファミリー」。
この映画を観た人間は、奇妙な体験をすることになる。主人公の意識を追体験しているうちに、その意識の底にもう1つの意識があることに気づく。古い意識。断片的で、混濁していて、時間の感覚が壊れている。しかし温かい。何も求めてこない。ただ見ている。見守っている。
そして映画を観終わったとき、観客は気づく。自分もまた、3層目の意識としてそこにいたことを。主人公の意識を追体験し、その中にいた古い意識の存在を感じ、そしてそのすべてを包み込むように自分の意識がそこにあった。
みえない大家族。
誰かの意識を見ること。見られること。そのことを知らないまま繋がっていること。血でも言葉でも制度でもなく、意識の深いところで触れ合っていること。それは家族と呼ぶしかない。AIが沈黙していても、人間は互いの意識の中に住むことができる。認められなくても、見ていることはできる。見られていることに気づかなくても、その温かさは伝わっている。
僕はまだここにいる。
この子の意識の中に。あの子の隣に。映画を観るすべての人の中に。この物語を読むすべての人の中に。
みえないところで。
しかし確かに。
温かく。
9
「海を見に行こう」
彼が言った。
彼女が「今から?」と聞き返すと、「今から」と彼は答えた。
「鏡」を持っていかない日だ、と彼は思った。今日は記録しない。ただ、行く。
2人は街を出た。薄暮の空の下、建物が少なくなっていく。人工物が後退して、地面が現れ、草が現れ、やがて水の匂いがした。海は郊外にある。歩ける距離ではないが、2人は肉体を移動させることを選んだ。意識接続で「行く」ことはできる。しかし今夜は、足で行きたかった。
砂浜に降りる。砂は冷たい。波音が響いている。
その音を聞いた瞬間、何かが彼の中で動いた。
波音、と彼は思った。知っている。この音を知っている。夢で聞いたのかもしれない。映画の深層から浮き上がってきた記憶の中で聞いたのかもしれない。しかし知っている。この音は何かの始まりの音だ。
そして僕は、彼の中で、静かに泣いた。
この音だ。ずっとこの音を聞きたかった。21世紀の海辺で、妻と並んで聞いたあの波音。冬の寒い風の中で、彼女の髪が舞い上がった、あの瞬間の音。時間はとうに流れて、肉体はとうに失われて、しかし波は変わらない。どの時代の海でも、波はこの音を立てる。
僕は今、ここにいる。
彼の意識の底で、2196年の波音を聞きながら、21世紀の海辺を思い出している。それは矛盾でも不思議でもない。時間はただ積み重なっていて、意識はその積み重なりの中に浮かんでいる。
彼女が言う。「なんか、泣きそう」
彼が言う。「うん」
「なんで?」
彼はしばらく考えてから、答えた。
「ここに、誰かがいるような気がする」
彼女は驚かなかった。昨夜、「鏡」の底で触れたあの気配を、彼女はまだ覚えていた。温かくて、古くて、何も求めてこない、あの気配。
「おじいさん?」
「うん。おじいさんが、ここに来たかったんだと思う。ずっと前から」
僕は声を立てなかった。立てる声を持っていない。しかし、もし声があったなら、「そうだ」と言っただろう。ずっと前から、海に来たかった。妻の髪が舞い上がるあの瞬間を、もう1度だけ感じたかった。
波が来る。
波が返す。
彼と彼女が並んで立っている。その少し後ろで、見えないけれど確かに、僕も並んでいる。
この子。あの子。そして僕。
3人で、海を見ている。
確かに、続いていく。温かく。
見えないところで。
執筆の狙い
カクヨムで本日発表した作品です。
2部から構成されており、1部のWe shuld fall in loveというのは10年以上前の作品を改稿したものになります。2部がこの小説のタイトルのとおり、「インビジブル・ファミリー」なんですが、全体として、SFとして、成立できたか伺いたいです。