熱病
風邪を引きたかった。午後の会食から逃げるためだ。町の名士が集う定例会に、父は私を連れて行きたがる。時折相槌を打ちながら、長々と世間話に付き合わされる。
町長の趣味は、蝶の採集である。「良い趣味をお持ちで」という父の言葉を何度聞いたことか。
蝶をピンで刺したら、それはもう蝶じゃない。哀れな虫の亡骸だ。残酷な話はもう聞き飽きた。
しかし役者になれる自信もない。
すると本当に熱が出た。寝間着が背中にくっつき、額に汗が滲んだ。
父は新聞を読みながら言った。
「島崎のお嬢さんを見習ったらいい。今じゃ会合の華だ」
母も容赦ない。
「紀子さんは立派ですこと。羨ましいわ」
お手伝いのおキヌさんが私をかばってくれた。
「風邪は誰でも引きますから」
おキヌさんは島崎さんの紹介で、戦時中から我が家で働いている。
島崎家の令嬢である紀子さんは、私より三歳年上である。美人とは聞いていたが、どうせ澄ましたお嬢様だろうと思っていた。
ある雪の日の午後、家族で島崎邸を訪れていた。和洋が調和を織りなすモダンな邸宅である。
父と島崎さんは昔からの親友であり、母と島崎夫人は遠縁の親戚である。
テーブルに紀子さんがいない。紀子さんのお母様が紅茶を淹れてくれた。島崎さんは申し訳なさそうな顔をしている。
父が「雪のせいだろう」と言うと、居間の扉が開き、髪に牡丹雪をつけたままの紀子さんが入ってきた。
「すみません。すぐに着替えてきます」
だが紀子さんは、なかなか戻ってこない。
「ちょっと見てきなさい。ノックを忘れるなよ」と父。
「わかっています」
私は紀子さんの部屋の前に立った。
「大丈夫ですか?」
「どうぞ、入ってください」
扉を開けて驚いた。
椅子に腰掛けた紀子さんは、素足を暖炉のそばに投げ出していた。
「ドアを閉めて下さい」
「すみません」
「何をしてるんですか」と、私は間抜けなことを言った。
「濡れた足を温めています」
目を逸らすことができなかった。
「どうかしましたか?」と紀子さん。
炎が羨ましい。その素足を温めてみたかった。ついに私はとんでもないことを口走る。
「綺麗です」
「なにが?」
私は金閣に救われた。
「暖炉の上の、金閣寺です」
「これ、土産売り場で買ったんです」
それ以上は覚えていない。だが三年経った今も、あの美しい姿は鮮やかだ。
今朝、夏風邪をひいた私は、午後の定例会を免れた。父は不満そうに部屋を後にし、母は流行りのカフェへ出掛けた。
世話がしやすいからと、普段は客間として使われている六畳間に、私は寝かされていた。
障子と縁側の硝子戸は、涼しい空気を通すために開け放たれ、煌めく日射しが庭の土を照らしている。白壁の前に並んだ朝顔の鉢は、数日前に父と母が市場で買ったものだ。
朝に開いた紫の花は、昼過ぎの今、意気消沈したかのように萎んでいる。生き物はみな熱を抱え、やがて冷めていく定め。そんな当たり前のことが、今更ながら感慨深い。
なぜ朝顔は美しいのかと考えた日もある。わざわざ図書館に足を運び、その理由を調べたら、朝顔は色褪せてしまった。この世に科学ほど厚かましいものはないと確信した。
父が置いていった枕元の朝刊に手を伸ばす。
『金閣寺全焼』
炎が金色の鳳凰を呑み込む光景が、鮮やかに浮かび上がった。ただ、それは現実の焼失とは真逆の作用を及ぼす。私は炎に包まれた鳳凰を、瞬時に神格化したのだ。
だが記事の続きを読もうとすると、文字はぼやけ、意味は掴めず、天井の木目を視線が彷徨う。
金閣寺。
今年の春、紀子さんと、彼女のお母様と、三人で訪れるはずだった。けれど当日の朝、紀子さんのお母様が風邪を引き、私と紀子さんだけで京都へ向かった。
それは観光だと理性は言うが、心が言うことを聞かない。恋人と言うには早く、友人と言うには近すぎる。その微妙な距離が、春の陽気のなかで、危うい均衡を保っていた。
金色に輝く舎利殿の前。紀子さんは「綺麗ですね」と独り言のように言う。私は頷いた。水鏡に映る紀子さんが、余りに美しかったから。
鳳凰は空を仰ぎ、私たちは並んで立っていた。ただそれだけの記憶が、いまも胸に焼き付いている。
まだ春なのに、やけに暑かった。気温のせいではない。
私が汗を拭くと、紀子さんが「サイダーが売っているわ」と言って、一本だけ買ってきた。
「最後の一本でした。どうぞ。お飲みになって」
「いえ、自分は結構です」
「なら半分こにしましょう」
紀子さんは少し飲むと、瓶の口をそっとハンカチで拭いた。
「どうぞ」
口をつける勇気がなかった。
「どうかしましたか?」
「知り合いに見られたら、どうしますか」
「構いませんわ。かえって面白い」
朝顔のような笑顔だった。
「紀子さん。なぜ花は美しいか、わかりますか」
「急に、どうしたんですか」
「紀子さんの考えが知りたくて」
違う。彼女を知りたかったのだ。
「そんなことを、女に聞くもんじゃありませんわ」
また朝顔のような笑顔。紀子さんは大人の女。自分はまだ子供。二人だけの旅行が許されたわけを知り、悲しいほど恥ずかしかった。
私は顔を鳳凰に向け、赤面を誤魔化す。
三つも年下なんだ。子供に見られたって仕方ないだろ。
戦火に包まれた街を、いや世界を見届けてきた鳳凰は、未来を見通すかのように超然としていた。
廊下の襖がかすかに鳴り、おキヌさんが顔を覗かせた。
「紀子さんがお見舞いに」
その名を聞いた途端、脈が速まる。
紀子さんは白いワンピースを着て、竹の編み籠を抱えていた。中には夏蜜柑と、小さな飾りのようなものが入っている。
紀子さんは畳の上を音もなく進み、私の枕元に腰を下ろした。
「お熱が出たと聞いたから、父に用事を思い出したと言い、途中で会合を抜けました」
私は得体の知れない喜びに震えた。紀子さんが、私のために肉親を騙したのだ。
「それで、お身体は」
「まだ少し」
紀子さんは黙って、私の額に手を当てた。
ひんやりとした手が触れた瞬間、熱を帯びた皮膚が、そこだけ静けさを取り戻す。指先にわずかな力がこもり、熱を確かめるように留まる。
「高いです」
凛とした声に打たれ、静かに目を閉じた。逃げる理由も、抗う気力もない。
額から離れた手は、絹のハンカチを取り出し、私の首筋へ、頬へと移る。汗を拭うたび、皮膚に溜まった熱が、静かに消えていく。私はされるがまま、体を紀子さんに預けていた。
ふいに柑橘の匂いがする。
「お蜜柑」
紀子さんは籠から夏蜜柑を一つ取り出し、掌に載せた。蔕のついたそれを、ゆっくりと剥く。爪が黄色い皮に食い込み、香りが弾けるように広がる。
「喉、乾いているでしょう」
私は子供のように口を開けた。房が舌に触れる瞬間を待ち焦がれて。
紀子さんが八重歯で薄皮を裂くと、切れぬまま伸びた細糸が、房と唇のあいだで煌めいた。
果汁が一気に溢れ、喉の奥へと流れ落ちる。
乱れる呼吸を見つめる視線を、私ははっきりと意識していた。支配とも、母性とも思われる眼差しである。
「もうひとつ、いかが」
私は再び口を開けた。もはや恥じらいを放棄していた。紀子さんの手が運ぶ果肉。それだけを渇望していた。
「雛鳥みたい」
含み笑いの混じった声が、私の心をくすぐる。高熱に感謝した。平常なら、赤面を誤魔化せはしない。
紀子さんは私に夏蜜柑を与え終えると、籠から風鈴を取り出した。
「さっき、これを見つけて。下げてあげようと思って」
縁側へ出て、軒先に風鈴を結びつける。白い硝子の中に、短冊が揺れた。
紀子さんが戻ってくると、ちょうど風が入り、澄んだ鈴の音が鳴った。
「涼しく感じますか」
「はい」
「きっと、よくなりますわ」
「紀子さん」
帰らないでくださいと言いそうになる。
「金閣寺が燃えてしまったんです」
「知っています。でも、思い出は消えませんわ」
紀子さんが私の胸に手を置くと、その下で心臓が震えた。
「あなたの質問、今も覚えているわ」
「質問?」
「花はなぜ美しいか」
なぜか答えないで欲しかった。
「やっぱり、答えることは、やめておきます」
「なぜ」
「花を摘むのは可哀想です」
私は金閣の消滅を密かに喜んでいた。金色の伽藍は炎上し、形という束縛を解かれ、ついに永遠となった。
紀子さんは涼しげな笑みを浮かべる。そのわけを聞きはしない。それは朝顔の秘密だから。
風鈴が涼しげに鳴る。この熱病を冷ますかのように。
執筆の狙い
のべたん様の作品『夏風邪』のオマージュ作品です。
飼い猫の執筆過程において、一時的にAIの手が入っていますが、AIが書いた文章は推敲によりほぼ消えています。
ストーリーはオリジナルに飼い猫がエピソードを追加したものです。
(作品紹介)
『熱病』は、戦後日本の上流家庭を舞台に、静かな情熱と美の儚さを描いた詩的な短編。
夏風邪に伏した青年のもとに、憧れの年上女性・紀子が訪れる。額に触れる涼やかな指先、夏蜜柑の果汁が滴る唇、縁側に吊るされた風鈴の澄んだ音。抑えきれぬ渇望が、朝顔の朝咲き夕凋む姿や、金閣寺の炎上という報せと響き合う。
焼け落ちた金閣は、形の呪縛を解かれ、永遠の輝きを獲得する。青年はそれを密かに歓喜し、美とは摘まずにこそ永遠に美しいものだと、胸の奥で悟る。
三島由紀夫の影を宿しながら、青春の危うさと官能を、繊細かつ倒錯的に描き出した珠玉の一篇。余韻は、風鈴の音のように、静かに胸を震わせ続ける。(3400字)
※上記はAIによる紹介文です。