深森王国シルヴァイアのエミア
プロローグ
息を切らして走っている数人の男女が、深い森を抜け、砂道の所でひと固まりになって立ち止まった。緑色のローブをまとった女性が、手に持った緑に光る石を木々の切れ目に掲げ、不思議な言葉を唱えた。
デア ヴァルト シュラーフ トァ マッハエスツゥ
すると、目の前の空間がまばゆく白い光を放ち、森が深緑を増していく。女性はそれを確かめた後、微かに聞こえる獣の咆哮を背にして、一行は暗く続くフィラバルト国への道を肩を落として歩いてゆくのだった。
──それからおよそ百年が経った、二十世紀初めごろ──
エリアス・シュラーは四月の穏やかな空気を感じながら、夜のダズンの街を散歩していた。人通りは多く、居酒屋やバーから出てきた人たちが酔って楽しそうに歩いている。ポストの上で白猫が静かに目を閉じている。エリアスは口笛を吹き、空の星を見上げながら歩道を歩いていた。すると、向こうから女の子が走ってくるのが見えた。なんだ? と思って立ち止まると、その向こうから追いかけてくる兵隊らしき姿が見えた。エリアスのほうへ走ってくる少女と目が合った。すごく可愛い女の子だ、とエリアスは驚いた。栗色の髪、大きな瞳は美しく、Gジャンに黒いスカート姿で全力で駆けている。そして、その表情は明らかに怯えていた。空賊の彼は、咄嗟に、助けようと決意した。女の子が車道を駆け抜けていったあと、追いかけてくる憲兵に向かって側に置いてあったゴミ箱を転がした。避け切れなかった二人の憲兵は転がってこけてしまう。やりぃ、とガッツポーズをしながら、素晴らしい速さで走り、前を行く少女に追いつき、
「こっちに来るんだ! 裏通りから逃げよう」と少女の手をつかんで引いた。彼女は驚いたものの、少年の強い力に逆らえず、大通りから細い路地裏に引っ張られてしまった。エリアスは置いてあるビール缶やら幟やらを片っ端から後ろに投げて道を塞ぐ。そして、彼女の手を握ったまま、雑居ビルの階段を駆け上がる。屋上まで登り、息を切らしながら、夜空の星々が照らす中、一呼吸おいて考えた。隣のビルに飛び移りたいが、この子に出来るだろうか。およそ一m程度だ、いける、と判断したエリアスは、自分とほとんど変わらない背格好の少女の背中と足を抱えて抱き上げ、
「ごめんね、飛ぶよ! いくよ!」
と助走をつけてジャンプした。少女は思わず目を強く閉じた。無事、隣のビルの屋上に飛び移った。背後から何か声が聞こえた気がした。彼女を下ろす時、エリアスは彼女が靴ではなく庭履きを履いている事に気づいた。エリアスと少女は急いで駆けだし、ビルの螺旋階段を降りる。降りたところに一台の自転車があった。
「いいところに! ちょっと借りるよ」
とエリアスは鍵の部分を蹴った。そして、前ハンドルを握って押す。動くので、後部の荷物置きの部分に彼女を座らせ、凄い勢いで漕ぎだした。人の間をすり抜け、停まっているオートモービルカーを蹴っ飛ばし、エリアスは町外れの“ギューティヒ アドラー”のアジトまで辿り着いた。古びた煉瓦造りの大きな二階建てで、扉にいかめしい鷲の絵が描いてある。
「ここが僕の家だよ。さ、ひとまず隠れよう」
と案内する。少女は、胸の緑の宝石が嵌めてあるペンダントを押さえながら後ろを振り向いた後、
「助けてくれてありがとう。でも、これ以上迷惑をかけるわけには……」
と最後まで言うことも出来ず、エリアスにまた引っ張られて、彼女はギューティヒ アドラーのアジト内に吸い込まれたのだった。
第一章 空賊“ギューティヒ アドラー”
入った玄関の装飾を見て、エミア・シルヴィアは驚いた。床には大きな熊の毛皮の敷物が敷いてあり、玄関横の壁には大きな鷲のはく製がついていて、反対側には銀の甲冑が光っている。エリアスは涼しい顔でエミアの手を引いて開いている扉から広い洋間に入っていく。入った正面には幾つかの絵画が飾ってあり、その下のブラウンのソファーに座った男がラジオから流れる音楽を聴いて寛いでいる。その少し右手に大きなテーブルがあって、そこに三人の男が座っていた。ソファーの眼鏡をかけた、理知的な雰囲気の男が、エリアスが連れて来た少女を見て驚いて声をかける。
「お、エリアス、誰だいその子は」
「大変なんだ。この子、憲兵に追われてて、とにかく助けたんだ」とまだ息の荒いエリアスが答えると、テーブルに座ってトランプをしていた、背の高い金髪の男が立ちあがった。首に金のネックレスをし、顔つきは鋭いが、整った顔立ちである。エリアスにこう問うた。
「憲兵ってのはただ事じゃないな。あの不気味な鳳凰のバッジつけてたのか」うん、との返事に、二人の前にやってきた男は、少し息切れをしている少女をまじまじと見た後、
「俺はロッコ・クルーガー。空賊“ギューティヒ アドラー”のボスだ。一体どうして憲兵に追われてたのか教えてくれないか」と聞いた。エミアは、相対しているロッコの様子を観察した後、口を開いた。
「我が家にあるこの家宝が狙われたのだと思います」
エミアの胸には眩く輝く緑恵石がある。その深い緑は果てない奥行きを感じさせ、見る者を吸い込むようだ。エリアスは覗き込んで、すごい、と言った。ロッコも目を見開いて、
「ほぉーっ、こいつはすげぇ。翡翠石かな。でかいし、工作も丁寧だ。確かにこれは値打ちものだ。しかし……」とロッコは首を傾げた。
「憲兵、政府がこれを狙うってのはよく分からねぇな。おじょう……えっと、名前を教えてくれるか?」
「私はエミア・シルヴィアです」
「俺はエリアス・シュラーだよ」と横からエリアスが自己紹介した。エミアは横目でうなずいた。
「うん、エミアちゃんよ、それ、まさか盗品ってわけじゃないよな?」
「違います。代々我が家に伝わる由緒ある宝石です」
「なるほど。で、それを政府が狙ってきたと思う理由はあるのかい?」
エミアは黙ってうつむいてしまった。そこへ、一人の女性がやってきた。彼女の名はラウラ・クルーガー。髪の毛は赤いショートヘアー、大人びた雰囲気で、切れ長の二重が印象的だ。
「誰なんだい、この子は。随分可愛らしい子だけど。エリアス、あんたナンパしてきたのかい?」
「そんな訳ないよ~」と否定した後、エリアスは事情を説明した。
「なんであれ、ともかく今夜は泊めてやろうよ。ボケナス国家の犬どもに渡してやる理由はどこにもないだろ」
「そうだな、んー、どの部屋に泊まってもらおうかな」
俺の部屋! と叫んだ男をロッコはひと睨みした後、妻のラウラに、
「部屋がないからよ、今晩はお前の部屋に泊めてやれ。エレナは人懐っこいから大丈夫だろう」と頼んだ。すると、ラウラは
「ふん、いいけどね。あんたさ、家族は? おとんとおかんは?」とエミアに質問する。
「……両親はもういません。私が小さな頃に死にました。それで、祖母と二人で暮らしていたのですが、二月ぐらい前に亡くなってしまって、今はひとりぼっちなんです」
エリアスは最後のひとりぼっち、という言葉を聞いて胸が痛んだ。エリアスも同じ境遇だった。ラウラはうなずいた後、柔らかい表情になって、おいで、暖かいコーヒーでも飲もうよ、と手招きした。エリアスも背中を押す。エミアは導かれるまま、大きなテーブルの一番端に座った。その横にエリアスが座る。途端にラウラに、エリアス、手伝って、と台所に呼ばれたので、チェッと言ったものの、すぐに向かう。元の席に戻ったロッコは、再びトランプを始める。そしてすぐに
「この野郎クリスティアン、てめえカードをすり替えやがったな」
「ひえぇバレた! ボス気づくの早いよ!」
「やはりボスには通用しなかったか」とレオンは大笑いした。ロッコは若いクリスティアンの坊主頭をパコっと叩いた。その様子を見てソファーにいたステファンも声をあげて笑った。エミアは幾分緊張しながらも、ここは、暖かい場所なんだな、と感じていた。
第二章 特務機関“ゲハイム・トルップ”
なんという事だ、とルカス・シュミット大佐は誰もいない洋館の二階の開けっ放しの窓の前で、ひとり歯軋りをしていた。ここから飛び降りるとはな……。その磨かれた眼鏡の銀のフレームが照明のオレンジの光を受けて光っている。ようやく、ようやく居場所を突き止めたというのに。怒りで肩を震わせる彼の所に、特務機関の部下のサイラスがやってくる。
「今、増援を地元の警察に依頼しました。窃盗犯の捜索としておきました」
「草の根を分けても探し出せ! なんという失態だサイラスよ」とルカスは声を荒げ、椅子を蹴飛ばした。サイラスは思わず首をすくめる。
「ああ、それから、この家の中も徹底的に探しておけ。緑恵石は持っていった可能性が高いがな」
「はい、分かりました」とサイラスはこれ幸いと出て行った。ルカスは机の引き出しなどを乱暴に開けていたが、やがて部屋を離れ、あちこち探している憲兵らの誰にも声をかけず洋館を出て、停めておいた黒いT型ファードの受注生産の乗用車に乗り込んだ。特務機関“ゲハイム・トルップ”の中でトップの地位にあるルカスだけが乗れる車だった。
街灯のついていない夜道を慎重にT型ファードで走りながら、もう一度作ったプランを思い出す。エミア・シルヴィアと緑恵石はセットだ、彼女がいなければ石はその神力を発揮しない。彼女を捕らえ、脅してでも屈服させ、指示に従わせ、滅びた深森王国シルヴァイアに今もいるであろう“装甲鹿”たちを従えなければ、私の悲願は達成しない。道が急カーブになり、危うく車が麦畑にはまりそうになる。ルカスは考え事を止め運転に集中した。走り去る黒い自動車を三日月の仄かな光が照らしていた。
ルカスは首都ベルラーに到着し、自宅のあるヒューストリア街の家の横にT型ファードを停めた。質素な一軒家には似つかわしくない高級車である。ルカスは肩を落とし鍵を開け、乱暴に黒いスーツを脱ぎ捨て、しばらく狭い居間のソファに座っていたが、眠気に襲われてそのまま寝間着に着替え、寝室のベッドに潜り込んだ。
夢の中で、またエステルに会えた。彼女はいつも、殺される前の、最も輝いていた頃の笑顔でルカスに微笑んでくれる。しかし、何も話してはくれない。ルカスは必死に話しかける。でも、笑顔のままで、そっと手をつないでくれる。彼はただ、エステルと手をつないでいるだけで幸せだった。彼女はジュウイ人であり、エウロパ―ナ全体で差別されている民族の女性だった。しかし、ルカスはそんな事は全く気にしなかった。彼は民族ではなく人間性、人柄で彼女を見て、そして深く愛していた。エステルもそんな彼を強く想い、結婚する予定だった。だが──ある時、ジュウイ人に対する酷いデマが飛び交い、怒りに我を忘れた民衆はジュウイ人の住居を襲い、店を壊し、殴り、蹴り、中には発砲する者もいた。そして、エステル・ゴルデはその凶弾に倒れたのだ。何の罪もないのに! その報を聞いた若き青年ルカスは、文字通り血の涙を流し、絶望の余り、自殺を図った。が、両親が必死に食い止めたので、死ぬことは出来なかった。その代わり、ルカスの中に、差別を、それを産む人間を激しく憎む心が産まれた。彼は左手首にエステルの名前のタトゥーを彫った。復讐は、必ずする。それが、ルカス・シュミットの生きる意味になっていた。
家の前の街路樹に留まったイエスズメがさえずり、陽が昇って来た。朝が来た。──分かっているさ、夢だってことは。もう、八年ぐらいになるな。時間がかかっちまった、ごめんな、エステル。でも、もうすぐだ。ルカスはベッドから降りた。その両目は、赤くなっていたのだった。
第三章 エリアスとエミアの朝
吹く風の心地よい朝、エリアスは他のギューティヒ アドラーの仲間と共に、アジトから少し離れた雑木林の中を歩いていた。鳥たちがさえずり、木漏れ日は暖かい。横を歩くクリスティアンがリュックを背負ったエリアスに話しかける。
「な、エミアちゃんすごい可愛いよな。目が綺麗だよな」
「うん、そう思うよ。昨日初めて見た時ドキッとした」
後ろを歩く大男の黒人のアンドレスが重ねる。
「でもさ、なんか影があるというか、朝食食べてる時も一言も話さなかったし、何かあるっぽいよな」
そこへ、その隣を歩いていたクラウスが工具箱を鳴らしながら厳かにいう。
「でも、なんとなく気品があるんだよな。どこかの王家のお姫様みたいに思える」その意見に、同じく隣を歩いていた、大きなリュックを背負っているレオンも同意した。
「そう、それな。上品な感じがするよな。高嶺の花かもしれんぞ、エリアス」
「うん、そうかもね。でもさ、しばらくは家で匿うんだよね」
「分からんぞ。ボスが危険だと判断したら放り出すかもしれん」最年長で五十四歳のクラウスが冷静な意見を述べた。エリアスはそれを聞いて元気がなくなった。その様子を見たクリスティアンは坊主頭をガシガシこすった後、エリアスの肩を叩いた。
「ま、多分大丈夫だ。ラウラが気に入ってる感じだったから」
と、一行が話しているうちに、雑木林は終わり、そこからすぐ先が崖になっていて、水平線と大海原が遠望できる。少し歩くと、急こう配になっていて、海岸へ降りる途中に大きな洞窟があり、そこに飛空艇“ラウプアドラー”が鎮座している。甲板から黒く光る機関銃が見える。エリアスらは下ろしたままのタラップから甲板に上がり、それぞれ整備作業と掃除をはじめた。甲板のゴミを拾いながら、エリアスは、ボスたちの会議はどんな感じなんだろうか、と想像していた。
ギューティヒ・アドラーの面々は朝食が終わった後、ボスの指示通り、飛空艇の整備、掃除に向かったが、ステファンだけは大きなダイニングテーブルに残された。ラウラはエミアに向かって、
「今日のあなたには、ハンナの相手をしてもらおうかな。まだ外に出るのは危険だからね」とお願いした。同時にロッコが眼鏡を直しているステファンに向かって、
「お前には情報収集を頼む。間違ってもエミアが家にいるなんて言うなよ」
「了解ですボス。もちろん余計な事は一言も言いません」と言うと、スッと立ち上がり、服を着替えに行った。彼は読書好きで頭の回転が速く、弁も立つ。情報収集はいつも彼の担当だった。
「お姉ちゃん今日もお家にいるんだ! 嬉しい。ねぇ、絵本読んでほしいな」とエミアの横に座っていた六歳のハンナが屈託なく話しかける。どうやらエミアに選択肢はないようだ。助けてもらっているし、今ここから出る勇気もなかった。承諾の言葉を言わないまま、ハンナに手を引かれて二階へ上がっていく。その様子を見届けたロッコは、ラウラと目配せして、一階の奥の客間に入って扉を閉めた。ここにも虎のはく製だの長槍だののオブジェが飾ってある。二人は黒皮のソファーに向かい合って座る。
「昨晩あの子と何を話した?」とロッコが鋭い視線で問う。
「うん、そうだなぁ、出身地とか、家族のこととか。いきなり深くは聞けないんだけど、どうもなぁ、言葉使いが上品だし、物腰もしっかりしてるし、没落した貴族の末裔、みたいなイメージだな」
「あの翡翠石の話は?」
「代々家に伝わる大事なもの、までしか言わない。でもあれはただの宝石ではないよな。多分安くても数億円の価値はあるぞ」
「そうだよな、そんなの持ってるなんて、昔は貴族とか華族だったんだろうな。ま、そういうのは大体ナポレオーナが潰しちまったんだよな」
「分からないのは政府、国家が狙ってるってこと。なんでそんな私たちみたいな真似するんだ?」
「何かがあるんだ、あの宝石には。政府が憲兵隊使ってでも手に入れたい何かが」
ラウラは赤い髪をかきあげて何か考えていたが、軽く首を振った。
「ま、取りあえずステファンの集める情報を待とうか。でもね、一つ言えることは、あの子はいい子だってこと。ハンナに対する目線だけで分かる」
「お前の人を見る眼は確かだ。何しろ俺と結婚したぐらいだからな」と言ってロッコは笑った。返事に困るわ、と言ってラウラは立ち上がったのだった。
そっとラウラは二階に上がり、自分の部屋の扉を開けずに聞き耳を立ててみた。エミアの声が聞こえる。
下着まであげてしまった少女の上に、夜空から星々が、きれいな銀貨になってたくさん降ってきます。少女はいつの間にか、麻の下着を着ていました。少女は銀貨を集めて、一生幸せに暮らしました。
これは、星の銀貨だな、と理解したラウラはそっと少しだけ扉を開いた。ハンナとエミアがぴったりくっついて二人で絵本を見ている。ハンナは少し涙ぐみ、指で目をこすっている。エミアは? と見ると、エミアも目が少し赤い。
決まったね。あの子は救ってあげる価値がある。ラウラはそっと扉を閉め、一階の自室で飛空艇に出かける準備をしているロッコに声をかけに行った。
第四章 見えてきた謎
ダズンの街にやってきたステファンは、古物商を営んでいる雑貨屋クラムラ―デンのドアを開けた。店内には鞄や古着やタンスや古い彫像など、色々なものが雑多に並んでいる。時計やネックレスや宝石のはまった指輪などが陳列されているショーウインドウに初老の白髪の男性が肘をついている。耳に煙草を挟んでいる。
「ミルズの親父さん、おはようございます」
「やぁやぁ、ステファンか。また何か手に入れたのかい」
とミルズは相好を崩す。ギューティヒ アドラーのお得意さんで、持ち込まれる様々なものがいわくつきであると知りつつも、横流しして換金してくれる。
「いや、今日はね、ちょっと教えてほしいことがあるんですよ」
「うん、何の話だい」
「親父さんは宝石にも詳しいと思うんですけど、エメラルドグリーンの大きな宝石、翡翠石で有名なものを知りませんか?」
「んん?翡翠石か……そうだなぁ、とミルズは天井を見上げる。そして、何回か瞬きをした後、
「その昔、伝説の森の王国に大きな翡翠石のペンダントがあったって話があるが、これは伝承だからなぁ……」
「翡翠石のペンダント? 首から掛けるものですか?」ステファンの真剣な表情を見て、ミルズは、ちょっと待ってよ、と店の奥に消えていった。そして、古い大きな書物を持って帰ってくる。
「これはね、ガンディアーラ戦記の四巻なんだけど、四世紀頃に、フィラバルトの北部に、人を寄せ付けない深い森があって、そこに生きる人々は森と調和して生きていたという。ここね、シルヴァイアびとと呼ばれた人たちは、森の神と契約を結び、その証として、緑恵石という、大きなエメラルドの宝石を与えられ、動物たちと話し、豊かな王国を築いていた、と」と、ミルズが見せてくれた頁に、緑恵石のスケッチ画が載っている。ステファンは食い入るようにその絵を見た。これは、昨日エミアの首にかかっていた緑の宝石にそっくりだ。
「ミルズさん、この本を貸してもらってもいいですか?」彼の真剣な表情に、ミルズは押されたようにうなずいた。
「ああ、いいとも。……今度はその緑恵石を狙うのかい」
「あはは、そうかもしれません。これはお礼です」と、ステファンは財布から一枚茶色の一〇〇〇マルク札を取り出して渡した。
「ありがとよ。でもさ、伝説上の話だから、眉唾かもよ」
ステファンは笑顔だけ向けて、さげた鞄に借りた本を入れて、クラムラ―デンを後にした。
空の太陽が元気に輝いているので、気候はとても良い。ステファンがダズンの街の中心路を歩いていると、前から若い郵便配達員が自転車でやってくる。
「ケニー、おはよう」
「あっ、ステファンさん、おはようございます」
「ちょっと聞きたい事があるんですけど、昨晩何か警察が捕り物やってたみたいですね」
「ああ、聞きました。なんか、泥棒の女の子を捕まえようとしてたみたいですよ」
「泥棒なんだ。捕まえたのかな」
「いえ、逃がしたみたいですよ。綺麗な女の子だったそうですけど」
へぇえ、どうもありがとう、と返事して、ケニーから離れた。泥棒扱いしてるのか……なら指名手配されてしまうかもな。これはすぐに知らせたほうがいいな。手掛かりになる本も手に入れたし。ステファンは踵を返し、かなりの急ぎ足でアジトに戻るのだった。
フィラバルト国首相官邸の駐車場に黒いT型ファードが停まっている。大統領執務室の皮張りのソファに、ヒスター大統領と、秘書が並んで座っており、向かいにルカスとサイラスがいる。サイラスが昨晩の顛末を報告していた。
「──ということで、現在も総力を挙げて行方を追っているところでございます」ここまで聞いて、ヒスターは軽くうなずいた。
「小娘一人、隠れきれるものでもあるまい。どうせ友達の家にでもいるんだろう。たいしたミスでもない。ルカス大佐よ、引き続き頼むぞ」
とヒスターは髭を触りながら言った。ルカスは、深く頭を下げた。その顔は無表情だった。ヒスターは高揚した面持ちで、
「その装甲鹿とやらを戦力にすることが出来れば、我がフィラバルト国は憎きフレンシアをはじめとした、邪魔な周辺祖国を制圧し領土とすることが出来る。素晴らしい限りだ。ううん、待ち遠しい」
首を振りながらここまで言うと、ルカスたちがまだ座っているのと見て、
「何をやっている。早く捜索へ行ってこい」と冷たく言い放った。二人はすぐに立ち上がり、執務室を出た。
首相官邸を退出し、裏手の駐車場に二人は向かう。
「何も分かっていない俗物が」とルカスが吐き捨てるように言った。
「幸せなものですね。自分が滅ぼされることも知らずに」とサイラスも応じた。太陽の明るい日差しが彼らを照らし、黒く濃い影が道にくっきりと描かれていたのだった。
第五章 ロッコの決断
飛空艇ラウプアドラーの艇内の食堂で、ロッコたちは昼食を取っていた。瓶詰の野菜やパンや燻製の豚肉が常備されていて、料理用のコンロもあるのだが、火を起こすのが大変なので、航空時以外は使わず、今は朝ラウラが準備したソーセージとザワークラウトを大きなダイニングテーブルで食べている。エリアスが、内心で早く家に帰りたいなぁと思いながら黒パンを齧っているところへ、ステファンが急ぎ足で入ってきた。
「お、お早いお帰りだな。何か分かったか?」とロッコがラードを黒パンに塗りながら聞くと、ステファンはこくんとうなずいて、
「何人かに聞きこみをしたんですが、どうもエミアちゃんは窃盗犯としてダズン警察に探されているようです」
「窃盗犯? 盗もうとしたのは国のほうじゃねぇのか」とレオンが憤った。クラウスも続けて、
「エミアちゃんが何を盗んだというんだ。不愉快な話じゃの」とソーセージの皮を皿に吐き出した。ロッコはしかめっ面で考えている。ステファンは椅子に腰かけて、鞄から一冊の本を取り出す。
「ミルズの親父さんとこに行ったんです。それで、あの緑色の宝石の情報を手に入れることが出来ました」と、借りたガンディアーラ戦記の四巻を取り出し、忙しく頁をめくって、全員に見せた。
「これ、ほとんど同じじゃん、あの子のペンダントと」とクリスティアンが驚く。クラウスも目を丸くしてその絵を見つめた。
「するってぇと、あの子、本当にこの伝説の王国の末裔なのか?」とアンドレスが感極まった風に言った。
「深森王国シルヴァイアなんて、おとぎ話だと思ってたよ。ムー大陸みたいなもんかと……」とレオンが鼻をつまむ。クラウスは本の最後のページを見たりしている。
「ミルズの親父さんは宝石の伝説も知ってましたね。俺は聞いたこともなかったけど……」と言いながらステファンはロッコの顔を見た。彼は膝を指で叩きながら、
「確かめなくちゃならないな。これは本当のことなのか、本人に。なんだか話が大きくなってきた」
と言って、言葉を切って、全員の顔を見た。
「お前ら、幻の深森王国シルヴァイアに行ってみたくないか?」
「行きたい! 見てみたい!」とクリスティアンが真っ先に応じた。レオンも右に倣う。
「純粋に興味は湧くよな。それに……何かしら財宝もあるかもしれん」とクラウスが嬉しそうにいう。アンドレスも目を輝かせる。エリアスは、そんな事よりも、エミアが伝説の王国の王女、とそればかり考えていた。
「そうだよな。空賊魂が震えるぜ。しかし、場合によっちゃ、国と戦う羽目になるかもしれんが、それだけの価値のある冒険が出来そうだよな。お前ら、行くか?」
全員一致で行く! となった。ロッコは満足そうに微笑んで、それから、エミアについて話しはじめた。
「一つ言っておく。あの子は、ラウラが確認したが、優しさを持ったいい子だ。だから、俺たちはあの子を絶対に守る。利用なんかしない。いいな?」
これにもメンバー全員もろ手を挙げて賛成した。一番強く反応したのはもちろんエリアスだった。
日が暮れ始め、空が淡い橙色に染まりつつある。ギューティヒ・アドラーのアジトの広い台所で、ラウラとエミアとハンナの三人は夕ご飯の準備をしていた。
「なにしろ十人分だからね。あたし一人じゃ大変だ。あいつら山ほど食うしね」
と、ラウラはエミアに応援を要請した。断る理由もなく、彼女はハンナと一緒にジャガイモとにんじんの皮を剥いた。ハンナもまだ六歳なのに上手だった。ラウラはエミアに玉ねぎを切らせた。その包丁使いを見て、この子は確かに毎日料理をしている、と感じた。調味料も手際よく大きな鍋に入れている。ラウラは、だいぶ楽が出来るわ、と内心喜びながら、態度には出さず、角切りにした豚肉をどんどん鍋に放り込むのだった。
陽が沈み街が闇に包まれる頃、油塗れの男たちが賑やかにアジトに帰ってきた。お帰りボス、とハンナが抱きつく。ただいまハンナ、と軽く頭を撫でた。
「ほら、俺らは汚れてるからな、手を洗ってくる」とロッコが言うと、ハンナは素直に離れた。エリアスは、せっせとテーブルに取り皿を並べているエミアに声をかけた。
「ただいま帰りました。ありがとう、料理を手伝ってくれてるんだね」
「あ、お帰り、なさい。はい」しか返事がなく、少し寂しかったが、まあいいか、と陽気に洗面所に向かった。
空賊一家九人とエミアは食卓に着き、仲良く夕食を食べ始めたが、腹をすかせた男どものよく食べること。たちまちシチューが空になった。一番台所に近い席に座っているエリアスの仕事は、お代わりを入れる事。クリスティアンが早速、「エリアス、頼む」とお皿を差し出すと、隣に座っていたエミアがそれを受け取った。
「ありゃ、エミアちゃんいいのかい」
「はい、だって私、代金も払ってないのに食事までさせてもらってますから」
それを聞いてクリスティアンは歯を見せた。
「しっかりしてるなぁ」とクラウスが感嘆の声をあげた。
「エリアスはそんな事言ったこともないな」とレオンがからかうと、
「え、そんな事ないよ。……いや、あるかな。でも俺働いてるし」というと、レオンはワハハと笑って、じゃあ働いてくれ、と空になったお皿を差し出す。エリアスはぶつぶつ言いながら台所の鍋へ向かう。その時、初めてエミアの手をしっかりと見た。ところどころ赤くなって、ささくれがある。それは、生活によって痛む種類のものだった。この子も、確かに一人で生きていたんだ。エリアスにはそれが実感できた。ふと見ると、目の前にたっぷりシチューの入ったお皿がある。
「はい、これ渡してきてください」と言われ、素直に受け取った。彼はなんだか嬉しかったので、跳ねるように大賑わいの食卓に向かったのだった。
第六章 揺れるエミア
三日月が夜空に美しく輝き、街はしんと静まりかえっている。ラウラの寝室で、床に敷き毛布を引き、ハンナとエミアは並んで横になっていた。ラウラは豪華なベッドの上で寝息を立てて、ハンナも安らかに眠っているが、エミアは目が冴えて眠れなかった。昨晩から今まで、身を取り巻く状況が変わりすぎて、頭が理解しきれていない。なぜ私は見知らぬ空賊のアジトの一室にいるんだろう。どうしてこんな事になったのだろう。しかし……正直、心は落ち着いていて、安心感も覚えている。エミアは目をこすった。お父さんとお母さんを殺した人間。過去は隠していたが、お父さんは「違う種類の人間」として、排除され差別され、苦悩の果てに自殺した。そして、お母さんも、後を追ってしまった、私を見捨てて……。愚かにも、森の神との契約を破り、貪欲と傲慢に満ち、そして滅ぼされた人間の王国。そして、お婆さんが亡くなった後、私のことを見捨て、いない者とした挙句、捕まえようとした人間。彼女の手の平に爪が食い込む。憎しみの炎が彼女の顔を紅潮させた。彼女が人間と世界を憎むのには十分すぎる理由があった。そして、彼女に今チャンスが訪れている。空賊たちは飛空艇を持っていて、幻のシルヴァイア王国の話をすれば、財宝目当てに行きたがるに違いない。その時、装甲鹿を解放すれば、人間を滅ぼしにかかってくれるに違いない。やるべきだ。憎い人間どもを殲滅してやる。と、考えていた時、ハンナが小さな声で寝言を言った。
お姉ちゃん、遊んでくれてありがとう、好き
これを聞いて、エミアの顔が歪んだ。ハンナはなんと無邪気な顔で眠っているのだろう。そして、彼女を救ってくれたエリアスの笑顔が重なる。知り合ったばかりの空賊たちの顔が思い浮かぶ。誰も、私をいない者とせず、ひとりの人間として見てくれている。エミアは毛布を顔まであげて丸くなって、声を出さず、体を震わせて嗚咽した。ラウラはそっと瞳を開いて、その様子を見ていたが、何も言わずにまた瞳を閉じた。
翌日朝早く、ダズン街のギューティヒ アドラーのアジトの玄関を二名の刑事が尋ねてきた。扉の覗き窓から二人を確認したエリアスは、ソファに座ってラジオを聞いているロッコにそれを告げた。ロッコは、朝っぱらから来やがって、と言った後、エリアスに小声で、台所のエミアを二階へ連れていけ、と命じた。弾丸よりも早く走ったエリアスは、瞬く間にエミアの手を引いて二階へ駆けて行った。それを見届けたロッコは、よっこらせ、と立ち上がり、玄関の扉を開けた。ラウラが隣に厳しい顔で並ぶ。
「なんだい、朝早くから」
「いやぁ、悪いなロッコ。ある窃盗犯を探してるんだ」と初老の男性が屈託なく答える。
「窃盗犯の居場所を空賊に聞くのか、いいジョークだな」
「いやいや、もうな、一軒一軒聞いて回ってるんだ。あのな、十三歳の少女で、顔の可愛い女の子なんだ。エミア・シルヴィアって名前なんだけどな」ともう一人、目つきの鋭い髪を後ろに撫でつけた男がいう。少しの顔の表情の変化も見逃さない、という感じだ。
「知らないなぁ。泥棒なのか、ふーん」とロッコが返す。「何を盗んだんだい?」とラウラが問い返すと、二人は一瞬黙った後、
「宝石らしい」とだけ言った。その宝石を盗もうとしてんのは政府と軍隊だ馬鹿野郎、帰れ、とロッコは怒鳴りたかったが、勿論せずに、
「へぇぇ。それじゃ俺たちの稼業のライバルって訳だ。はははっ、まぁ怪しい子がいたら教えるよ」と答えた。
二人はロッコの顔をしばらく見つめた後、んじゃ頼むわ、朝から悪かった、とだけ言って帰っていった。ラウラは戸を閉めた後、ベーっと舌を出した後、こういった。
「あの調子じゃなにも掴んでないね。しばらくは安心かな」
「あいつらは無能だからな。というか、本気で捜査してねぇわ。それと、いざとなりゃ殴る蹴るで自白させりゃなんとでもなると思ってやがる」とロッコは首を振って、心配そうに見ているハンナの頭をやさしく撫でた後、二階のエリアスとエミアを呼んできてくれるか、もう大丈夫だから、というと、ハンナはうなずいて走っていった。ロッコはため息を一つついて、もう少し、エミアが俺たちに馴染んでくれる余裕はあるな、と考えを整理して、またソファに座ったのだった。
第七章 エリアスの言葉、エミアの涙
それから一週間ほど経った。ギューティヒ アドラーの面々は、石炭を買い込んだり、保存できる瓶詰やウインナーなどを買い集めたり、その他冒険に必要そうな道具や、政府軍との戦闘になった時のために抜かりなく拳銃や弾薬を買い集めたり、それぞれ忙しく走り回っていた。エミアは落ち着いた様子で、ラウラと共に炊事や掃除といった家事をこなし、空いている時間はハンナと遊んでいた。本を読み、一緒に絵を書き、少しだけ弾けるピアノを聞かせ、教えてあげたりして過ごしていた。その日の夜、エリアスはダズンの街の工具店を訪れ、ネジなど購入した後、パン屋に入り、なけなしのお小遣いで、砂糖がたっぷりまぶしてあるベルリーナー・プファンクーヘンを四つ買った。夕食が終わった後、エミアと食べようと思ったのだ。この事については、今日ロッコに相談済みだった。
「一度、エミアと二人きりで話したいなぁ」と本音を言うと、ロッコは笑顔になって
「話せばいいじゃねぇか。誰に遠慮してるんだ」
「いや、特に誰とかはないよ」
「んじゃあ早速今夜にでも、庭に二人で出て話せばいい。それで、そうだな、何か甘いお菓子でも買ってこい。女の子はそういうの喜ぶから」と肩を叩かれて、エリアスは鼻を膨らませたのだった。
いつも通りの賑やかな夕食が終わりに近づいたころ、ロッコはおほん、と咳をして、
「今日も涼しい過ごしやすい夜だなぁ、え、エリアス」
「あ、うん、そうだね」
「お前何かお菓子買ってきてただろう。エミアちゃんと二人で庭先ででも食べて来いよ」
あ、いいなぁ、とクリスティアンがいう。エリアスは手に紙袋を持って、少し赤ら顔で微笑んで、行こうよ、と声をかけた。少し戸惑うエミアの両手に、抜かりなく用意していたラウラが二つコーヒーの入ったマグカップを持たせる。
「毎日ハンナの相手してくれてありがとね。行っておいで」と言われて、断ることもないので、エリアスとエミアは庭へと出て行ったのだった。
幾つもの星が夜空で美しく瞬いている。風は遠慮がちに吹いてきて、そっと二人の頬をなでる。庭の隅には借りてきた駅馬車が停めてあり、精悍な馬が退屈そうに地面を蹄で叩いていた。馬の頭をエリアスは軽く撫でた。
庭に置いてある白いベンチに少し距離を開けて座った二人は、粉砂糖のまぶしてある甘いベルリーナー・プファンクーヘンを口に入れる。
「おいしい!」とエミアは思わず声をあげた。こういう甘いものを食べたのはいつ以来だろうか。エミアはいつも味のしない安い黒パンばかり食べていた。
「美味しいよね。後二つあるよ。全部食べてもいいよ」とエリアスは微笑む。エミアは、彼の裏表のない優しさをいつも感じていた。彼女はエリアスの真っすぐな気持ちを、いつしか抵抗なく受け入れるようになっていた。遠くから犬の吠え声が聞こえる。エミアは有難く二個目のドーナッツを食べた後、もう、隠すべきではない、と、胸の奥でざわつきを感じながらも、思い切って話しはじめる。
「あのね、エリアス。私、あなたに聞きたい事があるの」
コーヒーを飲んでいたエリアスは、飲み込んだ後、なんだい? と答えた。
「もしもね、もしも、私が、ある王国の末裔だと言ったら、どう思う?」とエミアは、真剣なまなざしでエリアスに聞いた。エリアスは、一瞬考えたが、
「えっ……うん、俺は血筋とかはよく分からないけど、エミアちゃんの優しいとことか、芯の強さが好きだよ」と答えた。エリアスは、彼女の属性ではなく、人間性を見て、好きだと言ってくれた。それは、エミアが最も言って欲しかった言葉だった。エミアの感情が決壊した。エミアは、
「どうして、どうしてそんなに真っすぐなの、あなただって人間に、大人に辛い思いさせられたんじゃないの……」と言って、うつむいて頬を涙で濡らす。エリアスはエミアが泣き出したので焦ってしまった。彼は、エミアの心の深い闇を知らない。この一週間ほどの激しい葛藤も。慌ててポケットをまさぐるが、ガムの包み紙しか出てこない。エミアが顔をあげた。その顔を見てエリアスはもう一度驚いた。彼女は笑っていたのだ。泣き笑いの顔。
「エミアちゃん……」エリアスはこれしか言えなかった。エミアも何も言わず、ただエリアスに肩をくっつけ、そっと顔を預けた。彼はどうしていいか分からず、ただ頬を赤らめているだけだった。
わざわざ家の外に出て庭の生垣の隙間から覗いていたラウラは、二人の様子を見て、やれやれ、と胸を撫でおろした。エミアは、何かを吐き出せたみたいだね、と安心し、家へと戻っていくのだった。
第八章 ルカスの急襲、飛空艇“ラウプアドラー”の発進
翌朝早く、クラウスは目が覚めた。年を取るにつれ、朝が早くなるな、と彼は起きだして、台所でパンくずの入ったビニール袋を用意して、散歩に出かけた。クラウスはまだ人のいないダズンの街を歩くのがお気に入りで、そして公園に行って鳩に餌をやるのだった。風は涼しく、やや猫背でゆっくりと風景を楽しみながら歩いていると、遥か前方から何かの集団が歩いてくるのが目に入った。なんだ? と訝しんでいると、それが憲兵隊であるのが分かった。彼は咄嗟に反転し、急ぎ足でアジトに戻る。エミアを嗅ぎつけおったか、と玄関を開けて飛び込み、厳重に鍵を閉め、一階のロッコに寝室を乱暴にノックする。寝ぼけ眼だったロッコは、クラウスの報告を聞くや跳ね起き、何か指示を出し、大急ぎで着替えた。次々と人を起こしたクラウスは、エリアスに二階の三人を起こして駅馬車へ行かせろ、お前もそのまま乗れ、と指示を出した。そして、自身は準備してあったある装備をし、一階の窓から外を睨む。
「何人ぐらい来てた?」と着替え終わり、腰にホルスターを付けたロッコが寄ってきて聞く。
「二十人はいたな」クラウスの返事にロッコはうなずいた。続々と空賊の男たちが装備を固めてやってきた。
「ここは俺とクラウスとレオンだけで事足りる、アンドレス、ステファン、クリスティアンは庭の駅馬車へ行け。ステファン、操縦は出来るな。後から俺たちも行く」駅馬車は最高十二人まで乗れる大型の馬車だ。
「もちろんですボス。乗馬は俺の得意分野です」と言って、三人は裏口へ走った。その時、玄関の扉が強くノックされた。ドンドンドンドン、今にもこじ開けてきそうだ。クラウスとレオンがルッカの背後で少し大きめの銃砲を構えた。
庭の駅馬車の中には、既にラウラ、エミア、ハンナ、エリアスが乗り込んでいた。ラウラとエリアスは片手に拳銃を構えている。ステファンは操縦席に座り、馬たちに軽く鞭を打ち、庭の出口まで駅馬車を進めた。アンドレスとクリスティアンは乗り込まず、拳銃を構えて周囲を睨んでいる。後は、ロッコたち三人が合流してくれば、飛空艇のある崖の下の洞窟まで走るだけだ。
「くっそ、朝っぱらから来やがってよ」とクリスティアンが歯噛みする。
「もうちょい遅けりゃ誰かラウプアドラーに乗ってたのにな」とアンドレスも悔しがる。アジトの前が騒がしくなってきた。エミアは、拳銃を構えているギューティヒ アドラーのメンバーの姿を見て、この人たちは本当に私を守ろうとしてくれている、と実感していた。その胸には緑恵石が仄かに光っていた
ロッコが扉を開くと、そこには銀縁眼鏡をかけ、茶髪をセンターで分けた冷たい表情の男が立っていた。そして左右に同じ黒のスーツを着た男がいて、その後ろに憲兵隊が並んでいる。
「朝早くにすみません、あなたがロッコ・クルーガーさんですか」
「そうだが、一体なんだい、朝っぱらから」慇懃無礼な野郎だ、とロッコは思った。食えないタイプだ、頭も良さそうだ。
「こちらに、エミア・シルヴィアという少女が匿われているはずなのですが、窃盗の罪で逮捕状が出ているのです」
「知らねえな、そんな子は。逮捕状があるんなら見せてみろ」答えながら、内心しめたと思っていた。こいつら、舐めてかかったのか、騎兵隊は連れてきていない。
「逮捕状は今はありませんが、フィラバルト国警視総監直々の命令が出ております。速やかにエミア・シルヴィアの身柄を渡していただきたい。もし拒否すれば強制執行します」
「やってみろよ、出来るもんならな」これが最後の問答だった。ロッコはゆっくりと後ろに下がった。そして、撃て、と静かに言った。それに応じ、クラウスとレオンが独自に作った硝煙弾をルカスの足元めがけて撃った。ドパァン、という音と共に二発の催涙効果を持つ砲弾が放たれた。凄まじい白煙が辺りを包み、まともに吸い込んだルカスは激しい咳と、刺すような目の痛みに襲われ、転がりまわった。それは彼の部下も憲兵隊も一人残らず同じだった。あるものは喉をかきむしり、ある者は激しく目をこすった。中には嘔吐した者もいる。凄まじい鎮圧効果を持つ砲弾だった。ルカスは悶絶しながらも、必死に目を開けて状況を把握しようとしたが、いかんせん目を開ける事も出来なかった。
ロッコたち三人は駅馬車へ走り、飛び乗った。ステファンに鞭打たれた馬二頭は、素晴らしい速さで駅馬車を走らせ始めた。
「へっへ、大成功だな。奴ら今頃のたうち回ってるぜ」
座席に座ったクラウスが得意げに鼻をこする。
「俺試しに吸い込んだことあるけど、これはマジで痛いんだよ、目も鼻も喉も全部使い物にならなくなるんだ」と、レオンがしみじみという。
「どれぐらい持つんだっけ?」とロッコが冷静に聞く。
「大体三十分ぐらいかなぁ」とクラウスが答える。ロッコはうなずいて、後部座席にいるラウラに、一応後ろも警戒しておいてくれ、と言った後、自分は空を見上げた。今のところ何も飛んでいない。勢いよく砂利道を走っているので、駅馬車が揺れる。しかし、ハンナはそれが楽しいようで、はしゃいだ声をあげている。やがて、駅馬車は無事、洞窟の上の崖に辿り着いた。そこで全員降りて、駆け足で飛空艇に向かう。ハンナは大男で全身筋肉の塊のアンドレスがおんぶした。そして空賊一行は続々とタラップを駆け上がり、離陸の準備に入る。ラウラだけが洞窟への入り口を見張っていた。耳を澄ませても、足音一つ聞こえない。やがて、蒸気機関が稼働する音が響いてきたので、ラウラは甲板を走り、艇内に潜り込んだ。
エンジン音を響かせ、飛空艇“ラウプアドラー”は洞窟から大空へと舞い上がった。その姿を昇りゆく朝日が照らす。操縦席のロッコは、その眩しさを手で隠しながら、隣のステファンに言った。
「さあ、行こうか。深森王国シルヴァイアへ」
ステファンも大きく頷いた。
三十分後──ようやく催涙弾の効果が薄れてきたルカスは、周りを見渡した後、まだ多くの憲兵隊がうずくまって呻いているのを見て、唾を吐いた後、涙でびしょ濡れになったハンカチをロッコの家に思いきり投げ込み、怒りで体を震わせていたが、やがて冷静さを取り戻し、まだ嗚咽しているサイラスとフリードリヒを無理やり立たせ、アジトに乗り込み、電話を探すのだった。
第九章 エミア・シルヴィアの告白
飛空艇ラウプアドラーは順調に発進した。しかし、すぐにロッコとステファンは同じことに気づいて、顔を見合わせた。
「それでどこへ飛べば……」までロッコが言った時、操縦室のドアが開いた。そこにはラウラとエミアがいた。
「あのさ、エミアが大事な話があるらしいんだよ」ラウラが言うと、
「うん、そうか。エミアよ、お前は知っているだろう、俺たちがどこへ向かえばいいのか。それだけまず教えてくれ」とロッコが問うた。エミアは頷いて、北東のベリューアバールの森へ向かってください、と答えた。
「なるほど、あそこか! 確かに山奥の鬱蒼とした森で、人はなかなか近づかない場所だ。そんなに遠くもないな」
「ベリューアバールの森なら二時間ぐらいで着きそうだな」とラウラも応じた。ロッコはステファンに指示を出し、それからこう言った。
「後で全部教えてやるから、今は操縦に集中しろ」ステファンは、はい、と大きな声で答え、方位磁石と方位計を見て、舵を定め、速度をあげる。ドドドド、とラウプアドラーのエンジン部が唸り声をあげた。
ロッコら三人は食堂のテーブルに座った。エミアの顔はやや険しいが、落ち着いていた。そして、二人に告げた。
「私は、滅びた深森王国シルヴァイアの王、シルヴァイア六十四世のひ孫なんです。知る限り、私がシルヴァイア民族の最後の一人です。このペンダントは、緑恵石といって、王家の人間に伝えられ、幾つかの不思議な力を秘めています」エミアに向かい合って座ったロッコとラウラは、息もつけず彼女の話に聞き入っている。
「最後の王、シルヴァイア六十四世は、傲慢で強欲で無慈悲な王でした。森の神との契約を忘れ、狩猟を快楽とし、シルヴァイア国民もそれに倣い、鹿、兎、猪、空を舞う鳥たち、あらゆるものを銃と弓で狩り尽くし、食料にするならまだしも、ただ、狩ることを楽しんでいたのです」
「生き物を殺していいのは食べるためだけだね」とラウラが言った。エミアはうなずいて、話を続ける。
「シルヴァイア王一世が二〇〇〇年近く前にベリューアバールの奥地に辿り着いたのは、戦乱から逃れたためでした。傷だらけで辿り着いた家族四人を救ってくれたのは、森の神アルヴァーヌスでした。鹿の姿をした女神は、シルヴァイアを森で受け入れてくれました。その代わり、森の全ての生き物と調和して生きる事、平和を守る事、これを条件とし、一世が固く約束したあと、女神の角の先が緑の石となって、一世の手に渡されました。その石の力で、この地を封印せよ、さすれば人は入ってこれない、と。緑恵石の力のおかげで、シルヴァイア王国は人に見つからず、繁栄することが出来たのです」ここまで話して、エミアは息を吐いた。ロッコは何度も頷きながら、
「しかし、思い上がって勘違いして森の神との約束を破った、と。それでどうなった?」
「ある日突然、体中を鎧で固めた、真っ黒な鹿が何百頭と現われたのです。その角は鋭利に尖っていて、また、矢のように飛んでくるのです。装甲鹿、と呼んでいたらしいのですが、彼らは六十四世を真っ先に串刺しにして殺し、それからシルヴァイア国民を根絶やしにしました。命からがら逃げきれたのは、六十四世をいつも諫めていた王妃と侍従数人だけでした。……今思えば、森の王は意図的に逃がしたのかもしれません。王妃は動物の不要な狩猟に一貫して反対していたそうですから」
「あなたはその王妃の子孫ってことね……」ラウラは深く腑に落ちる気がした。エミアのハンナを見る眼線は、受け継がれた優しさだったか、と。
「私は、正直に言わなければいけない事があります。私は、人間が、大人が憎かったんです。両親は「よそ者」とされ、差別と排除を苦にし、私が四歳の時、二人とも自殺しました。祖母が亡くなった後、誰も私に目をかけてくれませんでした。その上、緑恵石を狙ってか、国家は私を浚おうとすらしました。……そして、私を何故か救ってくれたのは空賊。私は、あなたたちを利用してシルヴァイアへ行き、森の神に頼んで、装甲鹿を放って、人間を根絶やしにするつもりでした」エミアは肩を震わせ、しかし、話し続ける。ラウラは微かに目に涙を浮かべていた。
「でも、ギューティヒ アドラーのみんなはどこの誰かも分からない私を受け入れてくれて、守ってくれました。誰にも相手されていなかった私を、一人の人間として見てくれました。エリアスは、体を張って私を、抱え上げてまで救ってくれました。ハンナも、エリアスも、私の人間性を好きだと言ってくれました。そして、今朝です。全員一丸となって、憲兵隊と戦ってくれました。……私の、人間への、大人への敵意や憎悪が、今はもう……ほとんどなくなりました。もう一度、人間を信頼して生きたい、と思うようになりました」
「俺も似たようなとこあるな。昔は全世界を呪っていたよ。でもさ、エミアと同じさ。人間、捨てたもんじゃないって思えるようになって、変わったさ。過去のことはもういい、気にするな」
「私もそうさ。親に捨てられて、顔も知らない。みんななにかしら闇を抱えてる。でもね、笑って生きたほうが楽しいんだ。楽しく生きることが、私たちを苦しめた奴らへの仕返しなんだよ」というと、ラウラはウインクした。エミアは、二人も同じような道を通ってきたんだ、と思うと、安心できる気がした。私は一人じゃなかった、と。
少し間をおいて、ロッコが口を開いた。
「話を戻すが、じゃあ、政府の奴らが狙ってる事はなんだろう?」
「エミアを利用して、王国の財宝を手に入れたいんじゃないの?」ラウラが答える。
「それじゃ俺たちと同じようなもんか。……さっき家に来た氷みたいな目をした男、単なる財宝狙いで動くタマには見えなかった。もっとドス黒い事考えてそうだ。……装甲鹿を支配して外国に攻め込むとか、そんなとこじゃないか」エミアの頭にもその男の姿が浮かんだ。家に来た茶髪の男だろう。彼の顔を除き窓から見て、恐怖を感じて逃げたのだ。
「エミアはそんなことが出来るの? むしろ出来ないから先祖は逃げたんだよね?」
「はい、装甲鹿をコントロールなんか出来ません。緑恵石が出来るのは、森を歩く時、襲われないように守護するぐらいです」
「だがちょっと待てよ。今の話で行くと、俺らがシルヴァイアに入った途端、その凶悪な鹿に瞬殺されるんじゃないか?」
「私、森の神に会いたいんです。過去の事、六十四世のした事、森の神アルヴァーヌスに謝りたい。許してもらえないかもしれないけど、でも、それは私の義務だと思うんです」
「……逃がしてあげた王妃の末裔なら、話しぐらいは聞いてくれるかもね。私らは多分すぐ角の餌食にされそうだけど」
「だなぁ。もはや俺たちの願いはエミアに託されたな。いいか、その森の神の目を盗んで、宝石やティアラなどをポケットに入れるんだ、頼むぞ」とロッコが真顔で言ったので、エミアは声をあげて笑った。ラウラは道に落ちている紙屑を見る眼で夫を見た。ロッコは、なんだ、冗談だよ、わはは、と言って誤魔化したのだった。
第十章 深森王国シルヴァイアの入り口で
ルカスははるか上空を飛ぶ飛空艇を自身の運転するT型フォードのフロントガラスから睨んでいた。何度も右左折し、その度に見失い、イライラして、ハンドルを殴ったりしていた。後部座席のサイラスとフリードリヒは肩をすくめながら、乱暴な運転に酔わないように目を閉じていたのだった。ルカスは実は、ほぼ間違いなく目的地はヴェリュアバールの森だとは分かっていた。ガンディアーラ戦記は持っていたし、事前に調査に赴かせて、なぜか入ることが出来ない、という事も確認していた。だからこそ、エミアたちに追いつかねばならないのだ。自力ではおそらくは入れない。ルカスはまだ残るのどの痛みに、舌打ちをした。
「陸軍の奴ら、来てるんだろうな。あいつらは徒歩か、騎兵隊だろうか」
「ヴェリューアバールの森に近い陸軍のバサラス駐屯地には勇猛で知られるビスマルクス第二騎兵隊があります。もうヒスター大統領が出動命令を出してくれています」とサイラスが媚を売るように返事する。
「その割にはまだ影も形も見えないな。もうすぐ着くはずなのだが。あっ……」
とルカスが前方に目をやり、運転席の窓を開けた。遠くに米粒の大きさで、馬に乗る騎兵が見えた。微かに馬の走る足音も聞こえてくる気がした。ルカスは口元を歪めた。
「間に合いそうだな」彼は強くアクセルを踏んだ。鼓動が高鳴っているのが分かる。エステル、見てろよ……ハンドルを握る手に汗が滲み出る。ルカスは青いネクタイを緩め、腹に力を込めて体を前のめりにした。
いっぽう、飛空艇ラウプアドラーには少しの油断があった。一直線の空路で向かう上に、フィラバルトには空軍がまだ存在していなかったため、自分たちが先に到着できると思っていたからだ。更に、ルカスたちがヴェリュアバールの森を目的地だと認識しているとも思っていなかった。そのため、地上の監視も怠ってしまっていた。
エミアは空路の途中、操縦席で緑恵石を手に持って、聖法の言葉を唱えた。すると緑恵石が強く輝き、一本の光線が前方にまっすぐ伸びた。
「これは道しるべです。王国シルヴァイアを指示しています」
「ありがてぇ。これで道に迷う事はない」とロッコが手を叩く。そしてしみじみと
「これ欲しいなぁ……」と呟いた。エミアが笑って、
「全てが終わったらさしあげますよ。もう私には必要なくなるから、きっと」と答えた。ロッコも操縦席のステファンも興奮して、やった、これは家宝ものだ、と喜ぶ。
「本当にいいのかい。大事なものだろ」とラウラが心配そうに言う。エミアはうなずいて
「もう、縁を切りたい気持ちもあるんです。超越的な力に頼りたくもないですし。私は、王女としてなんか生きたくない。一人の人間として生きていきたいんです」
それを聞いて、ラウラは思わずエミアを引き寄せ、抱きしめた。エミアも強く抱きしめ返した。ロッコは、
「ただでとは言わねぇ。家の秘蔵のお宝から、純金の指輪と交換だ」
「エミアにそんな野暮なのは似合わないよ。真珠のネックレスで綺麗なのがあるんだ、それあげる」
「はい、そっちが欲しいです」とエミアは正直に答えた。ロッコはひとしきり笑った後、真面目な顔で言った。
「ただな、みんな聞いてほしいんだが、今俺たちはフィラバルトの軍と揉めてるわけだ。この後、何がどうなるにせよ、しばらくお隣のポーアランドの空賊“コレガンブイニク”に身を寄せようと思ってるんだ。もう手紙は出してある」
「やっこさんら、しつこそうだからね」とラウラもいう。
「ちょっと寂しい気もしますが、なに、長い旅行に行くと思えば、ザコパネに行くんでしょう? あそこは色んな人が集まる楽しいとこですよ。フィラバルトも手も足も出ないでしょう」ステファンが陽気にいう。だが、エミアにはしこりが残る。
「私のせいで、そんな事にまでなってしまって……」
「気にするなよ。俺たちが勝手にお前を助けて、勝手に軍とケンカしただけだ。誰が一番悪い? あのインテリ眼鏡たちだろうが。なに、こんなのはあることなんだ。四年ぐらい前にもなぁ」
「あったね。そん時はクリスティアンが警官半殺しにしちまって、やっぱりコレガンブイニクに逃げて、ステファンが警察の偉いさんに金の延べ棒渡してナシにしてもらったんだよね」とラウラが痛快そうに笑う。ステファンも思い出して、あのハゲ親父、よだれ垂らしてましたよ、と豪快に笑い飛ばす。エミアは、そっとラウラに肩を寄せたのだった。
飛空艇はいよいよ目的地に着いた。眼下を見渡す限り全て深い森だ。エミアの緑恵石の光は床を射している。
「降下します」とステファンが宣言し、ゆっくりとラウプアドラーが陸地に迫る。四つの車輪が大地を踏んだ。甲板に集まっていたロッコたち空賊は、手に手に武器や必要な道具を持ち、タラップを降りてゆく。ラウラとハンナは飛空艇で留守番をすることになった。ラウラも操縦は出来るので、いざという時に急発進出来る。深い森が静かに眼前に広がっている。エミアが前に進み出て、胸の緑恵石を外して手に持ち、高く掲げながら
ヴァルト エントズィーグレ ディッヒ!
と唱えた。すると、宝石が眩く緑色に輝き、僅かではあるが、重なっていた茂みが開いて、人ひとりが通れるほどになった。ここでロッコが全員に説明する。
「いいかお前ら、さっきも言ったが、俺たちが入った途端、装甲鹿とかいう化け物が襲ってくるかもしれん。少しでも異変を感じたら、クラウスが硝煙弾をぶっ放して、全力でラウプアドラーに飛び乗るんだ、いいな」
おう! と全員が拳銃片手に返事をした。エリアスは生唾を飲んだ。人間を殺しまくった装甲鹿ってのはどんな奴なんだろう。拳銃を持つ右手に自然と力がこもった。先頭をエミアが歩き、その後にロッコとエリアスが続く。藪をくぐると、微かに獣道らしきものがある。入った途端、緑恵石が淡い緑の光を放ち、それが大きく広がって、空賊全員を包んだ。
「これはなんだ?」とアンドレスが驚いた顔で、光に触れてみる。少し暖かい。
「なんだ、バリアみたいじゃのう。石が俺らを守ってくれてるのか」とクラウスが感嘆して言う。
「エミア、これはなんだい」とロッコが聞く。
「分からないです。私もこういう光は初めて見ました」とエミアも不思議そうに光の幕を見る。一行はもう数十歩は森の中を進んだが、装甲鹿が襲ってくる気配はない。森はとても静かで、風の音さえも木々が吸い込んでいるようだ。
「いいぞ、俺たちも受け入れてくれるみたいだ。お前ら変なことすんなよ、立ちションとかな」
「やったぞ、俺たちも中を探検できる。それにしても、鬱蒼としてるなぁ」とクリスティアンが周りを見渡す。アンドレスは
「空気がすごくきれいに感じる。呼吸がしやすくない?」と聞いた。みんな口々に、そうだな、と応じる。
「あれはなんだ?」とレオンが指さす先に、大木に挟まれた、朽ちた見張り台のようなものがあった。ロッコが近寄って揺すってみる。途端に、外柱の一本が折れて、バランスを崩して、一行のほうへグラッと倒れてくる。
「逃げろ!」ロッコの掛け声を待たず、クリスティアンたちは全力で後方へ走っていた。ロッコの前にいたエミアとエリアスは前方に飛んだが、支柱の一本が二人のほうへ倒れてきた。
「危ない!」とエリアスは振り向きざま、銃を持っていない左手で支柱を食い止めた。太く重たかったが、何とか受け止め、押し捨てた。
「エリアス大丈夫!?」とエミアがみると、何カ所か破けて血が出ている。
「これぐらいへっちゃらさぁ」と答えたが、エミアはズボンのポケットから花模様のハンカチを出して、エリアスの左手に巻いた。ロッコがすまんすまん、と頭をかきながら歩いてきた。頼むよボス~とレオンが背中をつつく。ステファンが、
「これが歴史の重みってやつですね。百年以上も放置されてたらこうなるってことですね」と言うと、一同もそれが実感できた。普段の感覚で行動するとまずい、と空賊は理解し、更に森の奥に進んでいくのだった。
マストの上の見張り台に昇って周囲を双眼鏡で観察していたラウラは、まず耳のほうで不穏を捉えた。馬の走る足音が聞こえる。慎重に方向を考え、双眼鏡で覗く。ぎょっ、あれは騎兵隊じゃないか。それも百人ぐらい来ている。ラウラは双眼鏡を投げ捨て、大急ぎでマストを降り、操縦室に駆け込み、急上昇した。このタイミングでエミアたちが出てきたらどうしよう、と入り口を見ていたが、幸い、出て来はしなかった。もう、すぐそこまで騎兵隊が来ている。飛空艇を見られたか? しかし、奴らの小銃ではこの高さなら何も出来まい。甲板のほうで声がするので見てみると、ハンナが艇内から出てきて手すりのところにいる。すぐに操縦室に呼び、地上を見ていると、一台の黒い自動車が走ってきた。運転席から出てきた茶髪の黒いスーツの男を見て、あれがルカスって奴か、自動車って案外速いんだな、と少し感心もした。騎兵隊と合流し、エミアたちが入っていった入り口から続々入っていく。なんてことだ、見通しが甘かった。奴らがここを知っているとは思っていなかった。ラウラは珍しく、両手を組んで、神に祈った。全員無事に帰ってきますように、と。森のほうから優しい風が吹いてきて、そっとラウラを包んだ。
第十一章 装甲鹿の躍動、そして王国の今
ルカスは上空に空賊の飛空艇が浮かんでいるのを目視し、黒い自動車を停め、慎重に様子を伺った。空からの攻撃を警戒したのだ。
「地上を攻撃する砲台などはなさそうですね」と、双眼鏡で見ていたサイラスが報告する。その声はうわずっており、彼もまたとうとう深森王国へ到着したことに興奮しているのだろう。
「うん、騎兵隊たちがあそこにいるが、攻撃を開始しない。大丈夫そうだな」とルカスはギアをローに入れて徐行で走り出す。切れ目なく生い茂る藪を見ながら走り、遂に広がっている場所を見つけた。すぐ側に重装備した騎兵たちが乗っている馬が百頭近くいて、いななきの声が聞こえた。三人は車を降りた。
「ありがたい。入口は開いたままだ。閉じられているかと思ったが」とルカスが眼鏡の奥の瞳を輝かせると、騎兵の一人が下馬して歩み寄ってくる。
「お待ちしておりました、ルカス大佐。私は陸軍ビスマルクス第二騎兵隊隊長モデア・フィーリーです」と丁重に挨拶してきた。髭のいかめしい、強面の男である。ありがとうございます、とルカスは答礼し、
「これからこの深森王国の中へ入ります。道はおそらく険しい、場合によっては徒歩になる可能性もあると思ってください。また、気づいていると思いますが、上空に浮かんでいる飛空艇の空賊、ギューティヒ アドラーの連中が先に潜り込んでいます。総員警戒して進んでいただけるように……見つけ次第射殺して構いません。後の指示は行程中にお伝えします」モデアは、ははっと返事し、大きな声で作戦内容を伝える。第二騎兵隊が整列を整え、まずルカスから森の中へ入ろうとしたその時、目の前に真っ黒な何かが不意に現れた。なんだ? と彼が立ち止まった次の瞬間、その足で腹を蹴られ、後ろに吹っ飛んだ。フリードリヒが受け止め、現れたものの姿に、ひっと声をあげた。そこには、全身黒い光沢をまとった、大きな角が燃える炎のように広がった鹿がいた。体の大きさは人間の倍ほどもある。その瞳は無機質で、底知れぬ沼のようだった。その装甲鹿が首を大きく振った。まとめてルカスら三人がなぎ倒され、モデアたち騎兵は慌てて後ろに下がった。そして、装甲鹿が大音量で、ヒィィィィィと甲高いサイレンのような叫び声をあげた。余りの鳴き声の大きさに、精悍な馬たちは怯えて動けなくなり、ルカスたちは両手で耳を覆った。覆いながらも、これだ、素晴らしい、と思っていたが、彼の計画ではここにエミアがいて緑恵石がなければならない。後方の騎兵隊員が小銃を装甲鹿へ向けて撃った。やめろ、撃つな、とルカスは叫んだ。しかし、装甲鹿には全く効かない。そして、気づけば森の入り口から、同じような巨大な装甲鹿が次々と現われ、騎兵隊に突進していく。十頭、二十頭と続く。大地が震えるほど激しい足音が辺りに響く。まず馬たちが完全に怯え、踵を返して逃げまどい、人間のいう事を全く聞かない。ある馬はどうっと倒れたが、装甲鹿たちは倒れた馬も人間も無視した。攻撃というよりも威嚇のために現れたように見える。兵がどれだけ小銃を撃ってもまるで怯まない。当たっているのかすらも分からない。たまらずモデアが「引けっ、一時退却!」と命令を下したが、誰一人として聞いていなかった。その大混乱の状況を見ながら、ルカスは痛む腹を押さえ立ち上がったが、ふと気づけばサイラスとフリードリヒがいない。あいつら、と思った瞬間、最初に現れた装甲鹿が、口でひょいっとルカスの首の後ろを噛み、引っ張り上げた。そして、暴れるルカスを苦にもせず、悠々と森の中へと戻っていった。
眼前に広がる光景に、ロッコは息を呑んだ。エミアも感極まった様子で口に手を当てている。深閑とした森の中を抜けて、青空が見えるところに出た時、待っていたのは、かつて街であった廃墟だった。やや見下ろす高台にいる一行からは、街全体の造りが見えた。屋根は腐り落ち、壁は崩れ、蔦が生い茂り、煉瓦が散乱する家々。中央の大通りに、円形の枯れた噴水があり、その横にひび割れた時計塔がある。石段は雑草に覆われて、苔むしている。かつて街路樹であったろう木々は、遠慮なく枝葉を伸ばし、街の主役は今や樹木のように見える。ロッコたちは瓦礫がそこら中に転がっている大通りをゆっくりと進む。かつて飲食店であったであろう建物の中には、崩れた棚、壊れたテーブル、椅子が汚れた赤い絨毯の上に散乱している。
「エリアス、あれ見て!」とエミアが道路の先を指さす。
「……白骨だ」とエリアスが唾を飲みこんだ。そこに、顎のかけた頭蓋骨と数本の骨が並んでいた。そして、折れた弓矢もあった。
「百年以上経っても風化しないのな」とロッコが冷静にいう。
「普通は数十年で粉みじんになるはずだけどなぁ」とクラウスもいう。敬虔なアンドレスはそっと十字を切った。エリアスもエミアも、確かにここに人が住んでいたんだ、という事を実感した。気づけば、エミアはエリアスと手をつないでいた。
「でっけぇ城がある!」とクリスティアンが叫んだ。大通りのつきあたりの場所に、森の大木を背景にした石造りの王城があった。木陰をまとい、城壁には蔦が生い茂り、石造りの道路に苔が蒸していて、鼻を水の匂いがつく。手前に堀があり、ステファンが覗きこむと、微かに水も流れている。横手には水車がある川があり、水量は少ないが、堀に流れ込んでいるようだ。エミアは静かに佇む石造りの建物を見据えている。ロッコが厳かにいう。
「俺の勘が告げているぜ。この中に金銀財宝が間違いなく、ある」
「た、探検しなきゃだぜ!」とクリスティアンが坊主頭をガシガシとこする。アンドレスも鼻息を荒くし、クラウスは用心深く背後を確認する。エミアとエリアスは顔を合わせ、二人が先頭になって、あちこち塗装が剥げている大きな木の扉を、力強く押した。
第十二章 神殿の前で
飛空艇ラウプアドラーの操縦席から見下ろしていたラウラは、装甲鹿の登場と、その無敵の活躍に快哉を叫んだ。隣にいるハンナも、すごい、と感心している。騎兵隊たちは黒く大きな鹿たちに手も足も出ず、ちりじりになってひたすら逃げまどっている。
「ざまあみろってんだ、国家の犬どもが」と手をあげて喜んでいると、黒服の一人が装甲鹿に口で持ち上げられて、そのまま森の中へ連れ去られていくのが見えた。
「ぷっ、あいつ森の神にしばかれるのかな」と想像していると、残りの黒服二人が大慌てで車のほうに走っていくのが見える。彼らは車に飛び乗り、そのまま消えていった。それを見ていたハンナが、
「あの人たち逃げた。情けないね」とぽつんと言ったのが無性におかしくて、ラウラは空に響き渡る笑い声をあげた。そして、改めて深い森を見つめる。一体何がどうなるんだ……。みんな無事で帰って来いよ、と思いながらハンナをそっと抱き寄せた。
重い木製の扉が、軋みながら開いていく。埃の匂いと、湿った木の匂いがエミアの鼻をつく。正面に大きな階段があり、その踊り場に緑色の植物模様のステンドグラスの窓があり、空賊一行を優しいグリーンの光が照らした。エミアがふと見ると、自分たちを包んでいた淡い緑の光は消えていた。城内はあちこち壁が崩れ落ち、赤い絨毯は踏めば破れ、太い梁には蜘蛛の巣が幾つも張っている。
「冷たいっ」とステファンが叫んだ。天井から雫が降ってきて、彼の首を濡らしたようだ。エミアが城内の中心ぐらいまで来た時、不意に緑恵石が輝き、真正面にまっすぐ一本の光線を放った。大階段を突き抜けている緑の光を見て、今なお拳銃を右手に構えているロッコが、
「階段の裏手に導かれているんだ。お前ら、もう光のバリアーはないぞ。気を張れ」
全員無言でうなづく。エミアとエリアスが先頭に立ち、ロッコが周囲を見渡しながら続く。アンドレスが腐った椅子の足を踏んでしまい、ベキュ、と音がした。次の瞬間、ロッコ、レオンらは振り向いて銃を構えた。
「みんなごめーん」とアンドレスが頭をかく。面々は足元にも気を付けて、光の届かない暗い階段裏に回った。
「また扉か……外に繋がってそうだな」ロッコが呟く。緑の光は扉の向こう側に突き抜けている。エリアスが閂の棒を取り、慎重に木目のある重厚な扉を開ける。重い。ステファンとクリスティアンも手伝った。少しずつ開かれた扉の向こうは明るい。目に入った建物の存在感に、エミアは思わず立ち止まってしまった。
「これは……神殿か」とロッコがみんなに確認するかのように言った。バロック調の、何本もの柱が正面に立っている荘厳な建築物がそこにあった。天使や星々の姿の精巧な彫刻が施された正門上の壁に、ステファンは魅了された。そして、
「これほどの高い文化を誇っていたのか……なのになぜ滅んだんだ」と呟いた。クラウスもレオンも溜息をついた。一行は、神殿の迫力にしばし動けなかったが、やがてロッコがいう。
「ここにいても仕方ない。まず入ってみよう」と言って、光の差さない暗い神殿の内部に入ろうとした。すると、何もない空間なのに、透明な壁があって入れない。手をつないでいるエミアとエリアスは普通に入れた。緑恵石の光線は神殿内に伸びている。他の面々も同じく透明の壁に阻まれた。ロッコは透明の壁をバンバン叩いたが、何の効果もない。彼は肩を落として、
「どうやら俺たちはここまででお役御免のようだ。仕方ない、休憩してここで待とう」と、蔦の生い茂る王城の壁を背にしてどっかと座り込んだ。クラウスもレオンも倣う。ステファンが、二人とも気をつけろよ、と声をかけた。エリアスが振り返って、しっかり頷く。クリスティアンが歯を見せながら、
「あいつ、なんか、男の顔になったな」といった。アンドレスが同意して微笑みながらリュックを降ろし、中からラウラが用意してくれていたパンを取り出した。
神殿の内部は暗く、様子がはっきり分からないが、王城と違い、瓦礫などは落ちておらず、清潔な印象だ。さほど広くはなく、左右の壁の前に鹿や猪や狐の彫像が並んでいる。空気は澄んでいて、葉のみずみずしい匂いがする。光線が差しているのは、石造りの玉座だ。しかし、そこには石の祭壇のようなものがあるだけだった。果てしない静けさが二人の存在を際立たせ、エリアスはエミアの鼓動までもが聞こえてくるような気がした。
「光が、消えた」とエミアが言った時、神殿全体が淡い緑の光に包まれた。これは、とエリアスが周囲を見渡すと、祭壇に何かが降り立ったのが見えた。
神殿の外のロッコたちがパンを齧っていると、向こうから人の倍ぐらいの大きさの黒く輝く装甲鹿が歩いてくるのが見えた。げっ、とロッコは驚嘆し、咄嗟に立ち上がり銃を構えた。空賊たちは、流石の素早さで全員立ちあがり拳銃を異形のものに向けた。ロッコの目に、首の後ろを噛まれて身動きの取れないルカスの姿も写った。装甲鹿はロッコたちには目もくれず、彼らの前を通り過ぎ、神殿内へ入っていく。ロッコは拳銃を下げ、額の汗を拭いた。
「今のが……装甲鹿か。全く敵う気がしなかった」とロッコが心情を吐くと、クラウスが
「咥えて連れて来られてたのは、家に来た、冷たそうな政府の野郎だな」と言い、レオンも同意した。
「森の神は何を考えているんだろう……?」とステファンが首を傾げた。アンドレスが、
「生かして連れて来たのなら、何か話すんじゃないのかな。もしかしたら、あいつもシルヴァイア王族なのかも」と考え深く言った。ロッコは何回か目を瞬かせた後、
「ま、この後エミアたちが出て来たら教えてくれるだろう。俺たちは腹ごしらえして待とう。気は抜くなよ」と言って、また地面に尻をつけた。
第十三章 森の神アルヴァーヌス
祭壇の前に現れたのは、淡い緑の光を放つ女神、アルヴァーヌスだった。その周囲の空気が歪んで、その体が時折り大きく見える。深い緑を湛えた瞳がエミアを見つめている。頭からは小さな角が二本生え、鹿の毛皮のようなものを身に着けている。背はエミアより少し高い。エリアスは、いつ彼女が登場したのか分からなかった。時間の感覚が麻痺し、畏れを感じるのが分かった。口元は結ばれ、白く輝く肌は、見ているだけで恍惚としてくる。ゴッゴッゴッ、と静かな足音が聞こえたので、二人は振り向いた。驚くことに、一人の男性が装甲鹿に咥えられて運ばれてくる。エリアスはまず鹿の大きさに驚いたが、エミアは咥えられている男性の表情を見て驚いた。ふてぶてしく笑っている。ルカスは、これが女神アルヴァーヌスか、と感嘆しながらも、彼女を説き伏せて味方に出来る、との勝算があった。彼女は王国の人間を全滅させたほど、人間を憎んでいて、その愚かさを身に染みて知っている。だから、私の計画、愚かな人間どもを力で支配する、に賛同してくれるに違いない、と。装甲鹿は無造作にルカスを床に置いた。そして、三歩ほど下がった位置で待機する。ルカスは背中に強烈な圧力を感じて、口を開けない。
よく帰ってきた、シルヴァイア王国の王家の末裔、エミア・シルヴィアと、その従事の末裔、ルカス・シュミットよ
アルヴァーヌスの声は、耳から聞こえるというよりも、頭の中に直接響いてくるような、暖かさを感じる声だった。エミアはエリアスとつないでいる右手を改めて強く握った。その少し離れた横にルカスが立っている。エミアが、微かに震えながらも、思いきって話しはじめる。
「初めまして、森の神、アルヴァーヌス様。今日は、私は、あなたに謝りに来ました。私の先祖がやったことについて」
アルヴァーヌスは返事はせず、視線を彼女に注ぐ。
「シルヴァイア六十四世は、あなたとの契約を破り、動物たちの命を軽んじ、狩りを楽しみ、不要に殺し、森との共生の約束を破りました。滅ぼされても何も言えません。逃げ出した六十四世王妃シルヴィアに変わって、心からお詫びします。本当にすみませんでした」
それを聞いていたエリアスは、同じ名前なのか、と思った。つないでいるエミアの手が震えているのがわかる。神殿内は恐ろしいほどの静寂に包まれた。やがて、
どうしてシルビア王妃だけ逃がしたのか、わかるか
とアルヴァーヌスが問うた。
「はい、シルヴィア王妃はずっと六十四世を諫め、狩りを楽しむことに反対していたからではないでしょうか。……結局止められませんでしたが」
そのあと、お前も含めて、王妃の子も孫も苦労に苦労を重ねた。外の人間はお前たちにとことん冷たかった
アルヴァーヌスは、全てを知っているかのように話す。エミアがうつむく。
しかし、今のお前は違うようだな。隣には外の世界の男がいる。お前は、奴らを赦せるのか、赦せたのか
エミアは顔をあげて、きっぱりと言った。
「赦します。私は、今一緒にいるエリアスや、空賊の人たちの思いやりや優しさに触れました。人間は、確かに酷い連中だと、今でも思います。でも、そうじゃない人たちもいっぱいいるんです。私は、彼らと一緒に生きて、少しでも変えたいんです」
エミアの澄んだ眼差しを見て、初めてアルヴァーヌスは微笑んだ。そして、軽くうなずいた後、再び口を引き締め、はじめてルカスを見た。
慈悲深かったシルヴィア王妃の従事、ヤヒン・シュミットの子孫よ。お前は私たちに何を求める?
ルカスは、遂に俺の出番が来た、と高揚しながら話しはじめた。装甲鹿の圧も消えた。
「初めまして、誇り高き森の神アルヴァーヌス様。私の願いは、あなたの力を借りて、愚かな人間どもを支配し、平和を確立することです。その前に、個人的な復讐にも協力していただきたいのです。何の罪もない私の恋人を、ジュウイ人というだけで殺した奴らへの復讐を。それが、私の願いです。どうかお力を貸してください」
ルカスは一息で話し終え、興奮で肩が揺らいでいた。アルヴァーヌスは、改めて彼の過去を見通すかのように、薄いグリーンの目でルカスを見つめた後、こういった。
なぜ私がお前に協力せねばならないのだ? 人間どもが争おうが殺しあおうが何の関係もないではないか。なぜ私に頼むのだ
ルカスは言葉に詰まる。
「で、でも、あなたも人間が憎いでしょう。支配すれば、思うがままに出来ますよ」
全く興味がない。私は森を守り、森の生きとし生けるもの全てを守るためにいる。かつてシルヴァイア一世は戦争で追われ、この森に逃げ込んできた。彼は善性を持っていたから、受け入れたのだ。……お前の曽祖父ヤヒンもそうだった。外の人間の世界に染まるうちに、それを忘れたか
ルカスはみるみる頬を紅潮させた。羞恥が全身を支配した。見透かされている、全て。そして、自分の間違った考えも。それがルカスにははっきり分かったのだった。
ルカスよ……こういう事を考えたことはないか。エステル・アンナがお前に何を求めているのか、を。彼女が神の力を利用して復讐してほしい、フィラバルトの民を皆殺しにしてほしいと、こう願うと思うのか
ルカスは、ああっ、と声をあげて、顔を押さえた。その指がみるみる濡れていく。嗚咽の声が静かな正殿に響き渡る。ルカスは、そこに誰がいる、などを一切考えず、ただ泣き続けた。
「ではどうすればいいんだっ!」ルカスは絶叫した。エミアとエリアスは、ただ同情の想いを持って彼を見ていた。
私がお前に協力することはない。家に帰りなさい。そして、夜を待ちなさい。きっと、エステルがお前に教えてくれる
そういったアルヴァーヌスは、さっきエミアに向けたのと同じ微笑みをルカスに向けた。その表情を見た彼は、泣き止んで、静かに膝をついた。そして、石の床を何も言わず見つめ続けた。
エミア・シルヴィアよ、とアルヴァーヌスが語り掛ける。
お前は人間と生きて、少しでも変えていきたいと言ったな。お前も、彼、ルカスと同じ痛みを抱えている。まずは、彼を変えてみなさい。私は、見ているよ
エミアは強くうなずいた。そして、彼女の傍で見守ってくれたエリアスとつないでいた手を離し、ルカスに歩み寄り、その前に立ち、そっと手を差し伸べた。その手は、過去の自分に向けたものでもあった。ルカスは、あやされる子供のように、両手でエミアの手をつかみ、ゆっくり立ち上がった。
第十四章 王国との別れ、そして……
どれぐらい時間が経っただろうか。水筒の水を飲みほしたロッコは、腕時計を見てみた。まだ二十分ぐらいか。ふと見たらクリスティアンたちがいないが、散歩でも行ったか、と気にしないでいると、エリアスがまず出てきた。そして、続いて、ルカスとエミアが出てきたが、エミアがルカスの腕を抱いて歩いているのを見て、思わず
「えっ、あれっ、おい……」と声が出た。が、三人の表情を見て、尋常ではない事が中で起こったのだと察し、エリアスに向かって、
「お帰り。待たせやがって」とだけ言った。エリアスも
「みんな、お待たせ、終わったよ」と、敢えて陽気に言った。ステファンが親指で答える。その声を聞いて、クリスティアンやクラウスたちも続々戻ってきた。みんな最初は驚いたが、その場の厳粛な空気を読んで、エリアスの頭を撫でたりしただけだった。
「よし、帰ろう。冒険の旅は終わりだ」とロッコが軽快な調子でいい、口笛を吹いて古城の中へ入る。空賊仲間も続々と続き、一番最後にエミアとルカスが並んだ。埃臭い王城を抜けた後、アンドレスが異変に気付いた。
「あれ、あそこに鹿がいるよ。野草を食べてる」
シルヴァイアの街の真ん中の大通りのすぐ側で、数頭の鹿がたむろしている。耳にはたくさんの鳥たちの歌声が聞こえる。
「あっちには兎がいる。隠れてたのかなぁ」とエリアスが言うと、
「これが本来の姿なんだろうな。ここはもう動物の街なんだね」とステファンが納得したように言った。クラウスが見上げた街路樹にリスがいて、枝の上から興味深そうに一行を見ている。クラウスは木の根の部分にパンくずを置いた。一行が離れた後、リス二匹が急いで降りてきてパンくずを食べ始めた。彼らの後を小さな猪がちょこちょこ追いかけるが、ロッコらが森の中へ入っていった時、追うのを止めて、その後ろ姿をずっと見つめていたのだった。
ラウラは操縦席に座って、ハンナに三匹の子豚の話を面白おかしく話していたが、森の出口に人が出てきたのを見て、エンジンをかけ急降下した。ロッコたちが両手を振って迎える。よかった、誰も怪我とかしてなさそうだな、と安心して、ラウプアドラーをゆっくりと着陸させた。しかし、エミアがあの政府の男の腕を支えているのを見て、ぎょっとしたが、エミアの無言の視線を見て、あ、まぁ、うん、と顎をしゃくった。タラップから空賊一行が続々と上がってくる。最後に、エミアの後に、エリアスに背中を押されたルカスが表情を無くして甲板に上がってきた。その前にロッコが立つ。
「事情は聞かねぇ、野暮だからな。これからお前をダズンの街まで送ってやる。で、一つだけ聞きたい。お前は、フィラバルト国は、これからも俺たちを、エミアを追うのか?」
ルカスは少しだけ考えて、首を振った。
「もうそんな事はしない……すまなかった」とルカスは絞り出すように声を出した。ロッコはエミアを見た。
「今のは、お前に対する謝罪と受け取ってやれ」エミアはうなずいた。そして、ロッコの指示を受けて、艇内に入っていった。
「さて、帰るかぁ。しかし、あれだな、シルヴァイア王国の探検は楽しかったが、空賊としてはくたびれもうけだったなぁ」と、ロッコが両手をあげて、あぁーっと伸びをすると、クリスティアンとクラウスたちが、へへーっと言って、ポケットをまさぐり、甲板に金貨、銀貨、宝石の光る指輪、銀のブレスレット、黄金のティアラなどをどんどん並べだす。
「お、お前ら! 一体いつの間に……あ、休憩してる時か!」
「なにしろ時間がなくてさぁ。本当はもっとあったと思うけど」とクラウスがいうと、全員が弾けたように大笑いし、ロッコはでかした、とクリスティアンをヘッドロックして、頭をぐりぐりした。ハンナが、すごい、金貨! これ見てよラウラ、と手渡す。
「こんだけでも十分だよ。みんな無事だったしね」とラウラはいい、ロッコも笑いながら、
「お前らの空賊魂は最高だ。きっと、森の神様も見逃してくれたんだろうよ、お駄賃だってな」といった。再び甲板は笑いに包まれた。そして、ラウプアドラー号はダズンの街へと飛び始めるのだった。
ダズンの街で、ルカスはひとり降ろされた。見送るエミアは言った。
「また、会いましょう」ルカスは、何も言わず、背を向けた。そして、小さな声で、ええ、とだけ言って、力ない足取りで街中へ消えていった。
「ええ、っていったね」とエリアスが確認する。
「きっと、また会うわ」とだけエミアは言った。元々仲間だったのだから、そして、これからも。そのエミアの凛とした横顔を見たエリアスは、最初会った時と別人みたいだ、と感じ、新たな胸の高鳴りを覚えたのだった。
ルカスは路面電車を乗り継いで、ヒューストリア街に夜も遅くなってようやく辿り着き、家に転がり込んで、緊張の糸が切れて、食事もとらず、ソファに沈み込んで眠ってしまった。
森の神アルヴァーヌスの予言通り、その夜ルカスが見た夢に、エステルは現われた。いつもと少し違い、やや悲し気な表情をしている。ルカスは、正直に話した。俺がやろうとしたことはうまく行かなかった、と。エステルは初めて微笑んで、そして、こう言った。
そんなこと……いいんです。それよりも、ルカスにして欲しいことは……
ルカスは驚嘆した。夢の中で、決して話してはくれなかったエステルが、しゃべってくれた! と。
もう、私のような目に遭う人がいない世界にして欲しいの
ルカスは、その言葉を何度も何度も反芻した。エステル、それが君の願いなのか。復讐ではないのか。
「きみは、怒っていないのか、恨んでいないのか、憎んでいないのか、きみを殺した奴らを」
私は幸せだったの。差別をせず、あなたが私を本当に愛してくれたから。あなたに山ほどの愛をもらったから……ルカス、私はあなたを愛してる、今も、いつまでも
エステル!! とルカスは絶叫した。エステルが、少しずつ消えていく。ルカスは跳ね起きた。その手が暗闇に伸ばされている。エステル……ルカスは強い寂しさを感じた。しかし、その心は安らいでもいた。彼はエステルの最後の言葉を生涯忘れることはないだろう。ルカスは愛されていたのだ。八年間、忘れていた事を思い出した。戸棚に飾ってあるエステルの写真を手にとった。写真入れのガラスにぽた、ぽたと雫が落ちる。
わかったよ、俺はやるよ、エステル。ルカスの胸に、情熱の炎が燃え始めた。それはきっと、ルカスをこれまでとは全く違う未来に導くだろう。彼の部屋を、夜空の三日月と無数の星々の光が優しく照らしていた。
エピローグ
今朝も空賊ギューティ アドラーの食卓は賑やかそのものである。ハンナがうっかりラードの容器を床に落とし、ステファンはラジオから流れるニュースに耳を傾け、アンドレスは五個目の黒パンをラウラの目を盗んでゲットした。ロッコは食べ終えた頃、ラウラに目配せし、エリアスとエミアに、食べ終わっても食卓に残るように言った。エミアは冒険が終わった後、自分の家に帰ろうとしたが、もう少しだけ様子見のために残れ、とロッコに言われ、素直に従ったのである。三日ほど経ったが、怪しい動きは一切なかった。ロッコたち四人だけが食卓に残ったので、ロッコが話しはじめる。
「それでだ、うん、まずな、エミア。お前はやっぱりこの家に住め。部屋は用意してやる」
「えっ……それは、嬉しいですけど、あっ、これが資金になりますか」と今も胸に光る緑恵石を触った。
「それな、目立つから外に出る時は外しときな。でさ、あんたはこれとは決別したいっていってたね」とラウラが聞く。エミアはこくんとうなずく。
「まぁじゃあ俺たちが持っておく。でもな、また何か起こるかもしれないから、預かりみたいなもんだ。金の心配なんかいらん、シルヴァイア王国からたっぷり貰った」と口を開けて笑ったあと、エリアスを見て話を続ける。
「でだ、お前ら二人、学校へ行け。子どもは学校に行くもんだ」
というロッコの言葉を聞いて二人は顔を見合わせた。そんな事を言われるとは思ってもいなかったのだ。
「でも、ボス、俺は学校行きたくないっていったじゃん」
「エミアと二人で行くんならいいだろう。同い年だし、一緒の学校に転入させてやるから、二人仲良く手をつないで行け」という言葉を聞いて、二人とも顔を赤らめた。
「私もロッコも学校なんか行けなかった。お陰で随分苦労した。あんたたちに同じ思いはさせたくないんだ」
と、ラウラが真剣な顔でいった。それを見て、二人は同時にうなずいたのだった。陽の光に溢れた庭の木の上で、四十雀が楽しそうにさえずっていた。
同じ頃、ルカスはフィラバルト国の首相官邸にいた。大きな雲が官邸の上に浮かんでいる。執務室の大きなデスクに座ったヒスター大統領は、直立不動のルカスから、全ての顛末を聞いた。彼は何も隠さなかった、フィラバルトの国民を殺戮してやろうとしていた事だけは隠して。ヒスターは装甲鹿を味方に出来なかったと聞いて、肩を落として髭を撫でた。
「完全に私の思い違いでした、お詫びの言葉もありません」
「仕方ないなぁ、そうそう神様が人間のためには動いてくれんか」
ヒスターはうんうん、とうなずいた。特に怒ってもいない。ルカスはスーツの奥ポケットから一通の封筒を取り出した。
「なんじゃそれは?」
「辞表です。私は責任を取って国家公務員を辞職いたします」
「そんなことせんでいい。それより、フランシアの陸軍が新しい兵器を……」
「大統領閣下、どうかお受け取りください。もう、諜報員の仕事ではなく、他の仕事がしたいのです」
「んん? そうか、何がしたいんだ?」
「政治家になりたいのです。法律を作り、予算を組み、この社会を善くするために働きたいのです」という言葉を聞くと、目を丸くして驚いたが、ラスクの顔を見て、本気だと判断したヒスターは
「よろしい。なればいい。我が国民共和党に入れ。まず地方議員になれるように活動すればいい」
「閣下、本当にありがとうございます。ですが、どこの党から出るか、何を訴えていくか、などはまだ固まっていないのです」とルカスは真摯に答えた。これは本当だった。ヒスターは、うんうんとうなずいて、
「分かった、自由にやればいい。これは受け取ろう」と辞表を手に取り、
「ともかく、今回お前はお前なりによく頑張った。報酬はたっぷり銀行口座に振り込んでおく。わしはな、お前のことが好きなんだよ。だから、半信半疑のところもあったが、特務を任せたんじゃ。何かあったらいつでも言ってこい」と言ってニカッと笑った。ルカスは、内心小馬鹿にしていた大統領が、そう思ってくれていたとは、と胸を撃たれた。彼は深く深く頭を下げ、執務室を後にした。
路面電車の駅へ向かうルカスの足取りは力強かった。彼の生来優れた頭脳は激しく稼働していた。明るい太陽の光が頭上から彼を照らす。ルカスの影は、もはや見えない。そっと彼は左手首のタトゥーを見た。そして、軽く微笑んで、駅の改札へ向かったのだった。
執筆の狙い
宮崎駿が「ナウシカ」「ラピュタ」「もののけ姫」のような、初期の冒険活劇を作ってくれなくなって
淋しいなぁ、と思っていたので、自分で書いちゃいました。完全に趣味で書いた作品です。
そのままオマージュするのではなく、自分なりの考えを込めた作品にしたつもりです。
テーマは「人の愚かさ」「人の再生」です。
読んでみて、特にストーリーをどう思われたか、意見を頂ければ嬉しいです。皆さまよろしくお願いします。