作家でごはん!鍛練場
そらまめ

透明な灯火(ともしび)

 第一章:ガラスの塔と乾いた咳

 東京の夜は、決して眠らない獣のようだ。

 午前二時。港区にある高層オフィスビルの三十五階会議室。窓の外では、首都高を走る車のテールランプが赤い血管のように脈打ち、無数のビルの明かりが、それぞれの欲望を主張するように瞬いている。

「――というわけで、今回のキャンペーンのKGIは達成率120%を見込んでいます。SNSでの拡散係数は、前回の事例から算出すると……」

 乾いた空調の音だけが響く部屋で、湊(みなと)の声は滑らかに流れていた。完璧なプレゼンテーション。紺色のオーダーメイドスーツは、一分の隙もなく彼の体を包み込んでいる。

 クライアントの宣伝部長が、満足げに頷いた。「さすがだね、相葉さん。君に任せておけば数字は間違いない」

 その言葉は、湊にとって最高の麻薬だった。「目に見える成果」。それが全てだ。数字、肩書き、年収、住んでいる階数。それらが積み上がるたび、湊は自分が「正しい場所」にいると確認できた。

 だが、会議室を出てエレベーターホールに向かう途中、背後で小さな音がした。

「……っ、すみません」

 後輩のエリだった。入社三年目。かつての湊と同じように、野心と焦燥感で目をギラつかせている女性だ。彼女は持っていた資料の山を床にぶちまけてしまっていた。

 湊は足を止めた。エリは顔面蒼白で、震える手で書類を拾い集めている。

「なにやってるんだ、早川」

 湊の声は、自分でも驚くほど冷たかった。

「クライアントの前じゃなくてよかったな。そんな隙を見せるな。ここでは、弱みを見せた奴から食われるんだ」

 エリは涙目になりながら「はい、申し訳ありません」と頭を下げた。その姿は、まるで巨大な機械の歯車に巻き込まれそうになっている小動物のようだった。湊は胸の奥でチクリと何かが痛むのを感じたが、それを「甘えだ」と切り捨てた。

『人生はもっと華やかで自慢できるものでなくちゃ』

 脳内で、誰かの声がした。そうだ。弱肉強食。勝つか負けるか。負け犬の遠吠えなど、誰も聞きたがらない。

 その夜、湊は湾岸エリアのタワーマンションに帰宅した。二十五階の自室は、モデルルームのように生活感がない。冷蔵庫には高級なミネラルウォーターと、栄養補助食品のゼリーしかない。

 ソファに深く沈み込み、ネクタイを緩めたとき、不意に激しい咳が出た。喉が焼けるように痛い。風邪ではない。ここ数ヶ月、ずっと続いている原因不明の咳だ。

 医者は「ストレスですね」と簡単に片付けた。

(ストレス? 俺が? まさか)

 俺は成功している。勝ち組だ。ストレスなんて感じるはずがない。

 郵便受けから持ってきた束の中に、場違いな封筒が混ざっていた。和紙のようなざらついた手触り。差出人の名前を見て、湊は息を止めた。

『佐伯櫂(かい)』

 大学時代の同期であり、かつては唯一無二の親友だった男。そして三年前、すべてを捨てて「こちらの世界」から蒸発した男。

 封筒の中には、手書きの地図。短いメッセージが添えられていた。

『目に見えないものを信じられるかい?

 それは小さくてわずかな光を放つもの。

 もし気が向いたら、その光を見に来ないか?』

 湊は鼻で笑った。「何だよ、それ。宗教の勧誘か?」

 だが、その手紙をゴミ箱に捨てることができなかった。ガラスとコンクリートに囲まれた部屋で、その一枚の紙だけが、奇妙な温かみを持って脈打っているように見えたから。

 第二章:土の匂いと招かれざる客

 週末、湊は新幹線とローカル線を乗り継ぎ、長野県の山間部にある駅に降り立った。

 空気が違う。冷たく、湿っていて、土と緑の匂いが濃厚に混じり合っている。東京の乾いた空気とは対照的だった。

 地図が示す場所は、駅からさらに車で三十分ほど山に入った集落の外れにあった。

 舗装されていない砂利道を、高級な革靴で歩くのは不快だった。石が靴底に食い込む感触に、湊は何度も顔をしかめた。

 その家は、森に飲み込まれそうなほど古い平屋だった。屋根瓦は苔むし、壁板は風雨に晒されて銀灰色に変色している。

「……櫂?」

 庭先に、男が一人いた。しゃがみこんで、黙々と何か作業をしている。

 男がゆっくりと顔を上げた。日に焼けた肌、伸びた髭、飾らない作業着。だが、その目は、湊がよく知る穏やかで理知的な光を宿していた。

「湊。本当に来たんだな」

 櫂の声は、以前よりも低く、落ち着いていた。

「驚いたよ。まさか、お前が一番嫌いな場所に本当に来るなんて」

「嫌いな場所?」湊は眉をひそめた。

「ああ。『一文の得にもならない』場所」

 櫂は悪戯っぽく笑うと、手に持っていたものを水で洗い流した。泥だらけの里芋だった。

「上がってくれ。茶くらい出すよ。あいにく、エスプレッソマシンはないけどな」

 家の中は、外観以上に質素だった。広い土間があり、その奥に板の間が続いている。家具らしい家具はほとんどない。だが、居心地の悪さは感じなかった。隅々まで掃除が行き届き、使い込まれた道具たちが静かに呼吸をしているような空間だった。

「お前、本当にこんなところで暮らしてるのか?」

 出されたほうじ茶を一口飲み、湊は尋ねた。香ばしい湯気が、冷えた体に染み渡る。

「見ての通りさ。朝起きて、畑を耕して、木を切って、夜になったら寝る。それだけだ」

「それだけ? 櫂、お前は大学でもトップクラスの優秀さだった。あのまま商社にいれば、今頃は海外駐在でバリバリやってたはずだ。それが、なぜ……」

 言葉の端々に、無意識の軽蔑が滲み出てしまったことに湊は気づいた。だが、櫂は怒るどころか、静かに微笑んだ。

 その時、土間の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。

「櫂さん、いるかねえ」

 入ってきたのは、腰の曲がった小柄な老婆だった。手には新聞紙に包まれた大きな塊を持っている。

「トメさん、こんにちは。どうしました?」

「いやね、猪肉(ししにく)のいいのが手に入ったから、少しおすそ分けだよ。今夜はぼたん鍋にでもしな」

 老婆は愛想笑いひとつせず、ドサリと肉の塊を土間に置いた。

「いつもすみません。あ、そうだ。これ、さっき掘ったばかりの里芋です。持っていってください」

 櫂が泥付きの里芋を渡すと、トメさんは「ああ、悪いねえ」とだけ言って、受け取った。

「あの……、おいくらですか?」

 湊は思わず財布を取り出しかけた。肉の塊はどう見ても数キロはある。タダで貰うには高価すぎる。

 トメさんは、まるで宇宙人を見るような目で湊を見た。

「金? なんで金がいるんだい。余ったから持ってきた。それだけだよ」

 そう言い捨てて、トメさんは行ってしまった。

 湊は呆然と立ち尽くした。

「……どういうシステムなんだ、これは」

「システムなんてないよ」櫂が笑いながら鍋の準備を始めた。「ここでは、余ったものは分け合う。足りないものは助け合う。それだけだ。ギブアンドテイクですらない。ただ、循環してるんだ」

 湊は理解が追いつかなかった。見返りを求めない提供。数字に換算できない価値交換。

「そんな甘い考えで、生きてゆけるわけがない」

「甘いかな」

 櫂は包丁を動かす手を止め、真剣な眼差しで湊を見た。

「僕はね、湊。東京にいた頃、毎日溺れているような気分だった。何かを証明しなきゃいけない、ひたすら勝ち続けなきゃいけないって。そうしないと、自分の価値がゼロになるような気がして、必死で泳ぎ続けてたんだ。でも、ある日プツンと糸が切れちゃった」

 櫂は視線を庭に向けた。夕闇が迫り、森の輪郭が曖昧になり始めていた。

「ここに来て、初めて気づいたよ。僕らは、何も証明しなくても、ただ生きているだけで、すでに大きな流れの中にいるんだってことに」

 櫂の言葉は、抽象的で、論理的ではなかった。だが、湊の胸の奥にある、あの乾いた痛みの場所に、奇妙なほど深く突き刺さった。

 第三章:静寂というノイズ

 夕食のぼたん鍋は、驚くほど美味かった。味付けは味噌と酒だけのシンプルなものだが、肉の力強い旨味と、採れたての野菜の甘みが、疲労した湊の体に沁み渡った。

「美味いか?」と櫂が聞いた。

「……ああ、悔しいけどな」と湊は素直に認めた。

 食後、二人は縁側に座って、ただ闇を見ていた。街灯など一つもない。月明かりと、家の中の裸電球の光だけが頼りだ。

 あまりの静けさに、耳が痛くなるほどだった。虫の声、風が木の葉を揺らす音。それらが、東京の騒音よりも遥かに鮮明な「ノイズ」となって湊の神経を逆撫でする。

「静かすぎるな」湊は落ち着きなく足を組み替えた。「落ち着かない」

「最初はみんなそう言うよ。自分の内側の音が聞こえすぎるからな」

「内側の音?」

「普段は仕事や情報のノイズでかき消している、自分自身の本当の声だよ。不安、恐怖、あるいは、小さな希望。そういうものが、この静寂の中では浮き彫りになる」

 櫂は、足元にあった小さな石の灯籠に、蝋燭の火を灯した。

 ゆらり、と頼りないオレンジ色の光が生まれた。風が吹けば消えてしまいそうな、儚い光。

「手紙にあった『光』って、これのことか?」湊が聞いた。

「ああ。目に見えないものを信じるための、祭壇みたいなものかな」

 櫂は愛おしそうにその光を見つめた。

「湊、君は今、幸せか?」

 直球の問いかけに、湊は言葉に詰まった。

 幸せ? 定義によるだろ。年収は同世代の平均の倍はある。タワマンに住んで、高い車に乗って、誰からも羨ましがられる生活をしている。それが幸せじゃないなら、何が幸せなんだ。

「……愚問だな。俺は成功している」

「成功と幸せは、イコールじゃない」

 櫂の声は静かだが、確信に満ちていた。

「君は、自分を愛せているか? 大切な親友を扱うように、自分自身を大切にできているか?」

 湊はハッとした。昼間、後輩のエリに浴びせた冷酷な言葉。あれは、普段、湊が自分自身に向けている言葉そのものだった。

『甘えるな』『隙を見せるな』『結果を出せ』

 自分を親友どころか、奴隷のように扱ってきたこの数年間。

「……そんなこと、考えたこともなかった」

 湊の声が震えた。喉の奥の痛みが、またぶり返してきた。

「いいんだ、それで」櫂は優しく言った。「僕らは自慢も説得もしない。言い訳も証明もいらない。ただ、自分が今、何を感じているか。それをごまかさずに認めるだけでいい」

 月明かりの下、櫂の瞳は、かつて大学時代に難解な哲学書を読んでいた頃と同じように、純粋で、そしてどこか遠い場所を見ていた。

「宇宙とか、愛とか、そういう大きな力は、目には見えないけれど、確かに僕らを支えてくれている。トメさんが肉をくれたのも、この山の木々が空気をくれるのも、全部その力の一部だと、僕は思うようになったんだ」

 湊には、櫂の言っていることの半分も理解できなかった。だが、否定する気にはなれなかった。東京のガラスの塔の中で、自分がすり減らしてきた何かが、この場所には確かに存在している気がしたからだ。

 その夜、湊は借りた布団の中で、奇妙な夢を見た。

 自分が透明なカプセルの中に閉じ込められていて、外の世界ではエリやクライアントが楽しそうに笑っている。湊は必死に叫ぶが、声は誰にも届かない。カプセルの中の酸素が薄くなり、息ができなくなってゆく――。

「はっ、……!」

 自分の咳き込む音で目が覚めた。

 夜明け前。窓の外はまだ薄暗い。隣の部屋からは、櫂の穏やかな寝息が聞こえてくる。

 湊は胸を押さえ、荒い呼吸を繰り返した。

(俺は、何に怯えているんだ?)

 認めなければいけないのかもしれない。自分は、限界に来ているのだと。目に見えるものだけを信じて築き上げてきた城が、音を立てて崩れかけているのだと。

 湊はそっと起き上がり、縁側に出た。

 昨夜の蝋燭はすでに燃え尽きていたが、灯籠の石はまだほんのりと温かかった。

 東の空が白み始め、深い霧の中から、山の稜線が浮かび上がってくる。その圧倒的な光景を前に、湊はただ立ち尽くすしかなかった。

 第四章:摩天楼の孤独

 月曜日の朝。品川駅のコンコースを埋め尽くすスーツの波に、湊は再び身を投じていた。

 数千、数万の靴音がタイルを叩く音が、巨大な打楽器の地鳴りのように響く。かつてはこの音を聞くと「自分もその一部である」という高揚感があった。しかし今は、その音が耳の奥で、不協和音のように不吉に鳴り響いている。

 オフィスに入ると、エリがデスクで項垂れていた。目の下には真っ黒なクマができ、モニターを見つめる瞳は焦点が合っていない。

「……おはよう、早川」

 湊が声をかけると、彼女は肩をびくつかせて顔を上げた。

「あ、相葉さん! おはようございます。昨日の夜に修正案、送っておきました。まだ詰めが甘いかもしれませんが……」

 湊は共有フォルダを開いた。深夜三時四十二分。メールの送信時刻が、彼女の悲鳴のように見えた。

 以前の湊なら、ここで、「三時までやってこれか?」と突き放していただろう。だが、今の彼は、画面越しに透けて見える彼女の「怯え」に気づいてしまった。

「無理しすぎるな。少し休んだらどうだ」

「えっ?」

 エリが目を丸くした。湊は自分の声が、山で聞いた櫂の声に少しだけ似ていたことに、自分自身で驚いた。

 だが、現実は容赦なく湊を現実に引き戻す。

「相葉君、ちょっといいかな」

 部長の加納が、湊を個室に呼び出した。加納は、数字がすべての男だ。その眼光は常に、部下の実績という「獲物」を狙っている。

「例の大型案件、競合がかなり強引な条件を出してきた。我々も、もう一段階上の利益率を提示しなきゃならん。現場を削れ。外注費を叩け。いいな、負けることは許されない」

 湊は、窓の外を見た。ガラス一枚隔てた向こう側に広がる東京の空は、どんよりと濁った灰色をしている。

「……部長、それでは現場の人間が壊れます。品質も担保できません」

「壊れたら替えればいい。代わりはいくらでもいるんだ。相葉、君はいつからそんな甘いことを言うようになったんだ?」

 加納の冷笑が、湊の胸を鋭く突いた。今の自分は、加納の目には、「戦う意欲を失った敗残兵」に映っているのだろう。

 湊は、その日の夜、一人で馴染みのバーに寄った。一杯数千円のウイスキーを含んでも、あの夜、櫂の家で飲んだほうじ茶の温もりには及ばなかった。

(自分らしく生きる……、か。それは、この街では死を意味するんじゃないのか?)

 グラスを見つめた。氷が溶けて、琥珀色の液体が薄まってゆく。櫂の言葉が蘇る。「自分を愛するんだ。大切な親友であるように」

 第五章:嵐の中の「素直な謝罪」

 事件は一週間後に起きた。エリが、過労と極度のプレッシャーから、重大な発注ミスを犯したのだ。損害額は、数千万円。クライアントとの信頼関係も危うくなる、致命的な失態だった。

 会議室には、重苦しい沈黙が流れていた。加納部長の怒声が壁を震わせる。

「どう責任を取るんだ! 早川、お前はクビだ。相葉、君の管理責任も問わせてもらうぞ」

 エリは顔を覆い、しゃくりあげていた。その細い肩が、今にも折れてしまいそうに見えた。

 周りの同僚たちは、巻き添えを食うのを恐れ、一様に目を伏せている。誰も彼女を助けようとはしない。昨日の敵は今日も敵。ここは、そういう場所だ。

 湊の中で、何かが音を立てて弾けた。それは、「完璧でなければならない」という重い鎖が千切れる音だった。

「部長」

 湊は立ち上がった。声は震えていたが、不思議と心は凪いでいた。

「全ての責任は、僕にあります。彼女に無理なスケジュールを強いたのは僕です。そして、僕自身、自分の限界をごまかしながら、このプロジェクトを進めてきました」

 加納が目を見開く。「何を言ってるんだ、相葉。君が謝ったところで、数字は戻らないんだぞ」

「わかっています。だから、僕は決めました。判断も、コントロールもしないことに」

「何……?」

「僕は、嘘をつくのをやめます。自分に対しても、会社に対しても。これ以上、不自然に、誰かや自分を追い込みたくはありません」

 湊は、震える手で社員証をテーブルに置いた。

「早川さん。……ごめん。君を、守れなくて」

 エリが顔を上げ、驚いたように湊を見た。

 湊は、それ以上は何も言わずに会議室を出た。背後で加納が何かを叫んでいた。けれども、その声はもう、湊の耳には届かなかった。

 第六章:目に見えない力の助け

 会社を出ると、夜の街を歩いた。行く当てもなく、ただ足の向くままに。

 ふと気づくと、都会の片隅にある、小さな公園に辿り着いていた。滑り台と、錆びついたブランコ。高層ビルに囲まれた、忘れ去られたような場所の遊具たち。

 ベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。

(全部、失ったな)

 地位、名誉、高額な給与。

 明日からどうやって生きてゆけばいいのか、論理的に考えれば、不安で押しつぶされそうになるはずだった。だが、不思議なことに、彼の胸には、これまでにはなかった「温かな何か」が灯っていた。

 それは、あの夜、櫂が灯した灯籠の光に似ていた。

「……信じてみるか」

 目に見えない力を。自分を支えてくれる、宇宙の優しさを。

 すると、どこからか、一匹の野良猫が近づいてきた。猫は、湊の足元に体を擦り寄せ、小さく喉を鳴らした。

「お前も独りか?」

 手を伸ばすと、猫は逃げることなく、その掌を受け入れた。柔らかな毛並みの温もりを感じたとき、湊の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、悲しみの涙ではなかった。ずっと戦ってきた自分を、ようやく解放してやることができた、そんな安堵の涙だった。

 その時、スマートフォンのバイブレーションが着信を知らせた。エリからだった。

「もしもし」

『あ、相葉さん? 早川です』

「うん」

『本当に、ありがとうございました』

 湊は空を見上げた。ビルの隙間に、星が明るく輝いていた。

 第七章:新しい光、新しい自分

 数ヶ月後。

 湊は、東京の郊外にある、小さな木工作業所にいた。櫂が紹介してくれた場所だ。

 今度の仕事は、広告を打つことではない。木を削り、家具の部品を作ることだ。

 収入は以前の数分の一になったが、朝起きて、「今日も作るぞ」と思うと豊かな気持ちになれた。

 櫂のように山にこもったわけではない。満員電車に乗ることもあるし、騒音に悩まされることもある。だが、自分の内に、以前とは違う「核」ができていた。それは、誰にも奪われない、自分だけの幸せ。心の中の、消えない灯火。

 休憩時間に、一通の手紙を書いた。

『櫂、元気か。

 僕は今、ようやく自分の呼吸の音を楽しめるようになったよ。

 昨日は、近所の子供の、壊れた椅子を直してあげた。お礼にアメ玉をもらったんだ。「一文の得」どころじゃない、価値ある報酬だった。

 誰も、僕の敵じゃなかった。

 見えない力が、今日も僕を助けてくれている。風の音や、木の匂いや、誰かの微笑みの中に、感じることができてるよ、宇宙、愛、優しさ、温かな何か。

 灯してくれて、ありがとう。また、会いにゆくよ。』

 手紙を投函すると、ちょうど夕暮れ時だった。

 家々の窓に、灯り。

 それは、華やかではない。誰かに自慢できるものでもないかもしれない。けれど、その一つひとつに、「目には見えないもの」が、静かに、確かに、息づいていた。

 湊は、胸を張った。自分の心に灯る光を、そっと愛した。

 そして、その光が、いつか、誰かを支える力になることを願った。

(了)

透明な灯火(ともしび)

執筆の狙い

作者 そらまめ
133.106.216.126

風の時代の到来に伴う価値観の変化についての話です。

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