THE BOY WHO FELL(仮名):プロローグのみ
0.プロローグ
初夏の熱気を含んだ風が頬を撫でるのを感じ、エディは閉じていた目をゆっくりと開けた。目の前には錆びた鉄製の門扉が立ちふさがる。彼は門扉に取り付けられたモニターに手をかざして、指紋認証を行う。ここに来るのは初めてだったが、厚意ですでに地球国際連合が彼の指紋を登録してくれていた。指紋認証が通ると今度は左眼をモニターに近づけて、虹彩認証を行う。目的は彼の眼に取り付けてあるオルタナティブコンタクトの認証で、そこに登録されている健康ランクが基準値であること、デコンタミネーション証明IDをモニターが感知すると、鍵が開く音がし、その門扉が開かれる。
―地球国際連合英雄墓地。
8月のホノルルは夏真っ盛りで最高気温も30℃を超えるが、湿度を感じさせない爽やかな風がエディを迎え入れた。門扉から墓地へ続く石畳は真っすぐ伸びているが、彼は左へ何もない芝生道を進み記載所へ入った。この歴史深くシーズンによっては観光客も多い地球国際連合英雄墓地では、現代では珍しくアナログの手法を取っていて、記載所の小さな建物の中にはA5サイズのノートとペンが置いてあった。「共生と平和」「災禍の無い静かな場所へ」など、訪問者はノートの隅にコメントを残すことが暗黙の了解となっているが、彼は「エディ・サザーランド」と自分の名前だけ書き記すと、そのまま墓地へ向かった。
彼は数日前の、カウンセリング室に座る自分の手の甲を射した一筋の光を思い出し、手を握っていた。あの時、カウンセラーが閉め忘れたのか少しだけ開かれたカーテンから指す日差しが、彼の白い手の甲を針のように刺していた。
「...久しぶり、父さん」
彼はそう呟く。
今、「ドイル・サザーランド」と刻まれた墓碑が目の前にある。墓碑の傍らには一本のバラが置いてあった。熱心な観光客が手向けたものだろう。ドイルの墓碑は敷地の一番端に位置しているから基本、大きなモンキーポッドが屋根になっていて日陰になっている。しかし今は葉と葉の間から夕方の日光が射し込み、彼の墓碑を鋭く射していた。墓碑には細く鋭い光が射しているが、エディの後ろから射しているので彼の顔は陰っている。
この太陽がいまこの瞬間もあのカウンセリング室に繋がっていて、エディが過ごした病室にも繋がっている。地球のどこに逃げたって、今まで自分と関わったすべての事象、全ての人と繋がっている。いや、もしも宇宙に逃げたって、何光年という単位で僕らは繋がっている。そう考えると不思議であると同時に、胃液がせり上がるような不快感を持った。きっとそこには自己嫌悪も含まれている。彼が今日ここへ足を運ぶ決心をしたのは、それが治療として効力を持つかもしれないと、ヘイブンリッジの治療室でカウンセラーに助言されたからだ。この助言がなければ、彼はここに居ない。
ここに眠るのは英雄であり、エディの父であり、そしてエディ自身の十字架だ。もう帰ろう。今日ここへ来たことだけでも充分なはずだ。
「エディ・サザーランド君。そうね?」
踵を返したエディを引き留めたのは、女性だった。歳は恐らく50代前後、もしドイルが生きていたら同い年だったかもしれない。ショートの髪を耳にかけ、ベージュ色のスーツを生真面目に着こなしている。聡明で冷たい印象を受けるのに、なぜか親しみやすい彼女の声。スーツのポケットからは赤い花びらが一枚飛び出していた。彼女は迷わずエディの名前を呼んだが、エディには彼女が誰であるのか、心当たりが無い。
「バラはあなたが?父に良き友人がいたとは初めて知りました。ありがとうございます」
握手を求める彼女に応じエディは快活に笑いかけてみせたが、彼の腹の底を巣食う猜疑心に気が付いているのか、彼女は顔色一つ変えず、鋭く彼の眼を見ている。エディを試しているのか、それとも彼の文字通り白濁した右眼が気になるのかは、知る由もない。風が二人を襲う。彼女は乱れた髪を耳に掛け直した。
「...ええ。彼とは良き友人であったと自負しているわ。私は良き友人のご子息であるあなたを探していたの、エディ・サザーランド君」
「父を弔いにホノルルへ?それとも、来るかも分からない僕を探しに、わざわざフェリーに乗ってこんな場所へ来たっていうんですか」
「両方ね。仕事柄ある場所に留まるということは少ないから。あなたのお父様もそうだったんじゃないかしら。」
エディはその時、彼女の手に小さな黒く四角いブロック状の端末が握られているのを見る。「ロックダウン・ターミナル」。周囲数キロメートルのネットワークを遮断し、盗聴や端末の乗っ取りを防ぐための機械だ。エディは試しに、上着のポケットから自分のスマートフォンを取り出し起動するが、案の定ネットに接続できない。つまり、第三者に助けを求めるということはほぼ不可能に近かった。
「勘が良いわね。これを見ても動揺しないのは良い資質だわ」
父であるドイル・サザーランドが医学者と官僚をしていた関係で、息子であるエディの存在は軍や国家関係者の間では周知の事実となっていた。しかし明らかに彼女はドイル・サザーランドを熱心な信者、という風貌では全くない。
エディはスマートフォンをポケットにしまって、彼女を見る。ロックダウン・ターミナルの所持許可が下りていて、ドイル・サザーランドと面識があり、そしておそらく自分の出自や医療記録の閲覧権限も持っている立場の人物...。もしも地球国際連合の人物であれば、あらかじめアポイントメントを取ってから接触してくるはずだ。
「...FBIか、CAIか」
彼はTシャツの袖を整えながら、ひとりごとのように呟く。
「僕は民間人です。それがある以上、あなたとは穏やかに話せそうにない」
彼女は肩を竦める。
「これは今は解除できそうにないの。私のこともそうだけれど、あなたを守ることにも繋がるわ。ヘイブンリッジを出たばかりで悪いけれど、とにかく着いてきて。私たちはあなたを悪いようにはしない。これは約束するわ」
ヘイブンリッジ。エディがつい先日まで生活していた、アメリカ西海岸地域に位置する巨大な医療都市だ。身体的疾患についても精神的疾患についても、世界屈指の支援体制と技術、動員力を持ち合わせる。エディは実父であるドイル・サザーランドを亡くすこととなった事件から5年の間ヘイブンリッジに住民票を移し、国立病棟で暮らしていたが、7月付で退院し、初めてこのホノルル地球国際連合英雄墓地に来ていた。
何時間にも思える重たい沈黙が二人を襲った。頭上でモンキーポッドの葉が揺れる音だけが響き渡る。お互いが火蓋を切って落とすのを待っている、冷たい沈黙だった。エディはゆっくりと右手を後ろに回し、ホルスターにしまってある銃に手を掛ける。護身用の小さなレーザー銃だから撃ったところで実弾は発砲されず、ただしばらく相手の行動を制御できるだけだ。今この状況を打破するには、これしかないだろう。撃っても人は死なないし、撃たないと自分の身がどうなるか分からない。理屈でそう理解はしていても、自分が銃に手を掛けようとしていると認識しただけで、急激に鼓動が加速し息が上がるのを感じた。
エディは出しかけた銃を仕舞い、全速力で走る。自分は戦うための一線をもう越えられないと判断したエディは、全力を賭けて逃走するという方にシフトチェンジした。石畳を駆け抜け、英雄墓地を後にする。途中、散歩中のダックスフンドにけたたましく吠えられた。
エディは一定間隔で植えられたヤシの木に手を突きつつ、広大な英雄墓地の敷地が全く見えなくなるほど走り抜けた後、大きな白い石畳の歩道の途中で立ち止まった。膝を抱えて息を整えながら後ろを振り返るが、あの女性は案外、エディを追いかけることはしなかった。あたりには高層ビルが摩天楼のように立ち並んでいるし、人通りは無いが車通りはそこそこに多い。ここであればタクシーを手配できるだろう。エディの滞在ホテルまで遠くはないが、歩く気力が失われていた。
エディはタクシーを手配するため、ポケットからスマートフォンを取り出す。ネットに接続することは出来て、それはあの女性がロックダウン・ターミナルの可動範囲にはいないことを意味する。そしてスマートフォンが手から滑り落ち、液晶画面が石畳に叩きつけられて明らかに割れたような音がしたことを知覚する。スマートフォンを拾おうとして少し屈んだところで、全身が脱力するのを感じ、彼はそのままホノルルの歴史の上に倒れ込んだ。
ああ、まずいなと彼は考える。彼自身の予測通り、立ち上がろうとすると今度は眩暈が襲い掛かる。こうなってしまうと、あとは治まるのを待つしか術がない。きっかけは明らかに、銃を取り出すか迷ったあの時だった。何も考えるな、ただ息を整えることに集中しろ、そう自分自身に言い聞かせるが、頭で考えるほど身体はうまく働いてくれない。5年前の事件以来、些細なきっかけで起こる発作がまた起こってしまった。落ち着けと命令を出す脳とは反対に、身体はどんどん平衡感覚を失い、そのままゆっくりと視界が閉じていった。
まるで海底からゆっくりと海面へ浮かびあがるように、彼は意識を取り戻した。すぐにそれは、真っ白い布団が彼を包んでいたからだと理解する。英雄墓地での一件のあと、彼には記憶がない。エディはゆっくりと上体を起こすが、身体がびっくりしたのか、ハンマーで殴られたような頭痛が一瞬彼を襲った。彼は深いため息をついた後、辺りを見渡す。どうやらそこは船舶の一室のようで、横の壁に取り付けられた窓からは水平線が見える。彼の寝ていた部屋はさほど広くはなく、彼から見て右側には小さなデスクとチェアが開いてある。デスクチェアとベッドの間隔は4.5フォートほどで、デスクの横には小さな冷蔵庫が備え付けられてあった。
しばらくするとドアがノックされ、すぐに誰かが入ってくる。それはホノルル地球国際連合英雄墓地で出会ったあの女性だった。彼女はチェアを180度回転させ、エディの方を向いて座ると、スーツのポケットから徐に小さな試験管のようなものを取り出した。3分の1ほどが、透明な液体で埋まっている。
「これがなんだかわかる?」
彼女の問いに、エディは静かに首を横に振る。
「通称、追跡鳩。手に塗ると指紋の凸凹に合わせて染み込むから、どこで何を触ったかすぐ分かるの。ターゲットを尾行する際に使うものね。あなたに逃げられることは予測範囲内だったから、騙すようで悪いけど、墓地で握手をしたときに塗らせてもらったわ。道端で発作を起こして倒れたあなたを助けた、ということで相殺してもらえるかしら」
そう説明すると、彼女は追跡鳩をポケットに仕舞った。
「自己紹介がまだだったわね。私はヘレン・エドワーズ。世界保健機構・危機対応評議会会長よ」
危機対応評議会。この国アメリカが〈災禍〉に襲われたあと、〈災禍〉にまつわる全ての事故、そして事件を解決するために新たに設立されたWHO傘下組織である、という事まではエディも知っている。
ヘレンはそう言ってエディに握手を求めるが、追跡鳩の名残をその手に感じ取り、彼はそれには応じなかった。代わりにすでに知られているであろうが名乗ることにした。
「...エディです。エディ・サザーランド」
彼女は満足そうにうなずくと今度はスマートフォンを取り出しエディの前に差し出す。端末には、エディの今までの病歴、医療記録が書かれた画面が映っていた。危機対応評議会は〈災禍〉つまりいわゆる疫病を徹底的に取り除くことを一番の目的としている。その職員である彼女が民間人の出自や医療記録の閲覧権限を持っていることは当然だが、自分が眠っている間にプライバシーを覗かれたという事実にはいい気分にはならなかった。
「エディ・サザーランド君、大学4年生。ヘイブンリッジには5年前、17歳の頃に孤児として移住してきているわね。同時期に自己崩壊症候群を発症している。右眼の白濁と髪の変色はその副作用ね」
ヘレンの推測は全て図星だった。
「空中に浮遊するフォール分子は体内に取り込まれるとまず脳関門を突破し、大脳、小脳、脳幹を侵食する。どこの分野をどの程度侵食するかは人によるわ。そしてフォール分子を含んだ血液が体内を循環し、少しずつ内臓も侵食していく。これが自己崩壊症候群の実態ね」
「...どの器官をどれほど侵食するかも個人差があります。一番最初は一部の髪の変色でした」
エディは観念したように口を開き、前髪を右手でつまむ。ヘレンの目的が何であっても、どうせもう知られているのだから、隠そうとするよりも素直に応じる方が、こちらの特になるはずだ。
「次に右眼。こっちはもうほとんど視力はありません。次にどこの器官が侵食されるのか、それとももう進行は止まるのか。僕にも医者にも分からない」
ヘレンは返事こそしなかったが、静かにエディを見つめる表情には多少の同情の念が込められているように感じた。そろそろ場も温まってきただろう。エディは横の窓を覗き込んだ。
「この船はどこの港を目指してるんですか?ホノルルにホテルを取ってあるんです。チェックインの時間がある」
「...エディ君。あなた大学で学生運動に参加しているわね。目的は世直しのため、地球国際連合の上層部のメンバーを変えるよう訴えること。着眼点は悪くないけれど少し抽象的過ぎる。学生では無力だし、そもそも学生運動は法律違反よ。一度停学も経験しているようだし、飛んだ問題児ね。それを振り切って大学院への進学を手にした頭脳には感嘆するわ」
自分がヘイブンリッジに籍を移して国立病院から通学をすることになった理由、大学へ入る以前に何があったかもヘレンは把握しているのだろうか、とエディは考える。彼女の権限があれば下調べなど容易いことだろう。エディは眉を顰めた。
「詮索するのが趣味なんですか」
「詮索するのが仕事なの。私たちWHOと地球国際連合はほぼ同等の権限を持つ組織だけれど、立場が真逆だから仲が良くない。地球国際連合は自己崩壊症候群という〈災禍〉を国益に繋げようとしている一方、私たち国連は違う。〈災禍〉を失くすことを大義としている。あなたが組織というものをどれほど嫌っているかは知らないけれど、ここまで私たちとあなたの価値観は同じ。そうでしょう?幸い、国連でも危機対応評議会は特殊な組織で、ほとんど独立していると言えるわ」
「僕は組織には入らない。第一...」
官僚は嫌いだ、という言葉をエディは飲み込む。WHOは職員であって官僚ではないし、今はヘレンと政治的な議論をする気はなかった。エディの声色に敵意が混じるが、ヘレンは気にする様子が無かった。
「第一あなたはまだ学生。WHOに籍を置けとは言わないわ。ただ私たちはあなたに学生運動よりも有意義な活動を提供すると保証できる。あなたが夏休みのこの1か月間、私たちの協力者となってほしいの。手は汚させないわ。衣食住も提供できるし、この1か月が終わればあなたの前科も無かったことにしてヘイブンリッジに帰すと約束するわ。悪くない話でしょう?」
「前科というのは、どちらのことですか。学生運動に参加していることか、それとも」
「...両方よ」
ヘレンは少し逡巡した後にそう言った。エディは全て知られていると確信する。一方、彼女の約束にも確証があると判断した。それに彼女の言う通り、具体的に何をするのかは分からずとも、利害と価値観は一致している。彼はもう少し話を聞く価値があると判断した。
「...分かりました」
エディがそう言うと、彼女は墓地で会ってから初めて笑顔を見せた。
「ここは私たち危機対応評議会が押収した船舶で私たちチームの拠点、マグダレナ号。通称マグよ。エディ君、立てる?」
エディは足や手を少し動かしてみる。さっきよりも断然、身体は軽かった。エディが立てると答えると、ヘレンは立ち上がり、部屋のドアを開けた。
「マグへようこそ、エディ・サザーランド君。デッキへ来て。私たちのチームメイトが待っているわ。説明もそこでする。私たちはあなたに強制することは出来ない。最終判断はそこでしてもらっていいわ」
そう言って先に廊下へ出かけたヘレンだったが、すぐに思い出したように振り返った。
「...そうだ、あなた意図的に服薬を拒んでいるでしょ」
エディは顔を上げる。
「それも医療記録に載ってるんですか」
「いいえ。これは私の勘。ホノルルでの発作も適切に服薬していれば防げたわ。私の見る限り、あなたの発作は自己崩壊症候群の症状でもないし、迷走神経反射でもてんかん発作でもない。拒む理由を詮索するつもりはないけれど、国連で医学を学んだ私としては、医者の言う事を聞くのを勧めるわ」
船はどこかの港へ向かってこの間も進んでいる。日光の反射を受けたさざ波が押し寄せては消える。エディの後ろから日の光が射しこんでは消えた。
執筆の狙い
大体6000字程度のプロローグになります。
推敲はしましたが誤字脱字があったら申し訳ありません。
プロローグにあたるので、回収できていない伏線や用語説明など多々あると思います。
後々ゴリゴリに回収するつもりですが、表現が変なところや「さすがにこれは説明してくれないと読むのがキツイ」などありましたら、ぜひ教えていただけたら嬉しいです。
自分で書いて自分で読んでるとなかなか分からなくて...。
よろしくお願いいたします。