for me
初めに言っておかなければいけないのは、この話は決して生きるためのものではないし、今にも首を吊りそうなあなたを救うためのものでもないし、あなたの自我を崩壊させそうな不安や恐怖や焦燥や憂鬱を取り払えるようなものではない。端的に言って、まぁ、これは僕が死なないために僕だけのために書きなぐったショートエッセイ。
とある初夏のひと月。僕はどうやって死ぬかということだけを考えていた。滑稽な話ではあるが死ぬために生きていた。そういったとき、文学や映画や絵画や音楽や慰めの言葉や楽しい想い出や同じく縊死の準備をしている人の言葉やいのちの電話や自殺企図を乗り越えた人たちの言葉や太陽の光や街の木々は何の役にも立たなかった。僕は今でも思う。テレビでよく芸能人やアーティストが「音楽に人生を救われた」とか「本に人生を救われた」とかいう言葉を口にするたびに、「はいはい、またそれか。でも結局、君には成功できるほどの才能があって、Wikipediaを覗くと友達に恵まれていて、芸術に人生を救われたと思いたいだけなんだろ」と。いや、そうなんだ。僕の憂鬱は、少なくともあのときの僕にとっては、アートなんかでは薄まらなかった。だからもう一度言う。この話は生きるための話ではない。死なないためのショートエッセイだと。
僕がスマホの電源を消し、やっとの思いで家から出て新宿駅からサフィール踊り子に乗り、弾丸旅に出たときの話。僕はあのとき、旅を終わらせないように思考を巡らせていた。どこの駅に降りたかは忘れた。たしか終点だったと思う。とりあえず予約したホテルでチェックインを済ませる。そしたらあとは荷物を置いて、財布だけを持ってホテルの周りを歩き、山の中へと入っていった。鬱蒼と生い茂る木々。昼間なのに太陽の光が届かない。日当たりの悪い物件のなかをひたすらに歩いているようだった。憂鬱というのは怖い。幸福は足し算であるのに、憂鬱は掛け算だ。薄暗い山道を歩くほどに、指数関数的に僕の意識はぼんやりし、消滅へと向かっていった。
伊豆は風景の画廊。たしかそんなことを言ったのは川端康成だった。まったくその通りで、自然豊かな山もあれば海が力強く波を立てる浜辺もある。ちょうど、僕が旅の終点に選んだ場所は切り立つ崖。誰もいない。死ぬのには打ってつけだ。
そのときまで、僕は僕に関わってくれたすべての人への感情を持ち続けていた。だから伊豆の山奥を選んだ。線路への飛び込みや屋上からの飛び降りや首吊りや練炭は楽な方法ではあるが、後を濁すやり方だ。結局のところ、誰にも迷惑をかけずにめぐる希死念慮を抑える方法は、僕だけが死んだことを知っている状態にしなければいけない。社会的には行方不明にしておかなければいけない。そうすればきっと家族や友人はわずかな希望を残してくれるだろう。
まぁ、そういったことをすべて加味したとき、飛び散った体のパーツが沈み、あわよくば魚の餌になり、DNAが世界中を漂う海への投身自殺は最も有効な手立てだったのだ。それに、死体が細切れになっていつまでも海を漂い続けるのはどこかクールだ。
しかし、この文章を書いている時点で分かるとは思うが、そんなことを考えていながら、僕は自分の臆病さに命を救われた。社会から逃げようとした僕の臆病さが、最後の最後で僕を救った(?)のだ。
山を下り始めたとき日は沈みかけていた。林を抜けたのにいつまでも林のなかにいるかのようにあたりは暗い。でも僕の心は暗闇ではなくなっていて、目を細めれば一センチ先のものがようやく見えるくらいには明るくなっていた。明るくなっていた。
山道を抜けてすぐのところにあった、地元の人しか使っていないような年季の入ったスーパーマーケットに入った。なかにはもうすぐ天寿を全うしそうな老人や新たな命を腹に宿しているカップルがいた。僕は、青々としたほうれん草や滾るような赤みを含んだ牛肉を意味もなく眺めた。意味もなく。そしてあまり吸ったことがないパーラメントライトを買い、火がつきにくいライターでスーパーの入り口にあった喫煙所で一服した。煙を肺に入れる。胸に異物が入って来る。異常を検知した繊細な肺が、たばこの煙を吹き出そうと必死になっていた。こんなときでも体の一つひとつは生きようとしている。
僕は、さっきスーパーのなかで新夫と手をつないだ妊婦が買い物袋をN-BOXの後部座席に入れているところを、まるで不審者のような、物体のような目玉で観察していた。そのときだった。ある考えが頭を過った。
死んではいけない。
それは僕のこころに湧いた呪いだった。生きなければとは思ってない。微塵も。それは今もそうだ。死んではいけない。たぶんこれは僕のこころから出た思念ではないし、どちらかといえば、死ぬことを極端に嫌っている僕の身体から出てきた思考だろう。合理的に考えるのであれば、あのとき死ななかったおかげで味わうことになった苦痛はあったし、あのとき死んでいたほうがマシだと思えるようなことはたくさん起こった。だからまた言う。この小説は死なないためのショートエッセイ。
しかしこうして書いてみると、死ななくても良かったんじゃないかと思う。だけどそれはたぶん、いま調子がいいからということだけであってアテにできるものではない。ただここ最近、これまでになかった新しい考え方も出てきた。ほんの気休め程度の考えが。
あるインフルエンサーがこう言っていた。
「いつだって一番の敵は自分」
ああ、そうだよ。そんなこと僕にも分かる。だって僕は死にたいと思う僕に勝った(?)から今こうして生きているのだし、僕が死の一歩手前で思いとどまったのは、時の運やこれまで積み上げてきたものに支えられたことでのものだった。いや、よく考えると時の運だけが支えていたのかもしれない。
世の中には友達に恵まれていても、恋人に恵まれていても自死する人はたくさんいる。おそらく彼ら/彼女たちはそうすることでしか救われなかった。やはり役に立たなかったのだ。文学や映画や音楽や慰めの言葉や愛情や友情は。
僕たちだってそうなるかもしれない。だけどかつて僕がそうだったように、自殺の手前はかならずうつ状態あるいはうつ病になる。きっかけなんて分からないが。条件がそろえば、どんな生活を送っていてもうつ病にはなる。そうしたとき、やはりこのショートエッセイは何の役にも立たなくなるだろうし、たぶんいま首を括ろうとしているA君がこの文章を読んだら「だからなんだよ」と鼻で笑いながら縊死していくだろう。でも僕は「これが何かの役に立つかもしれない」という呪い、それは「死んではいけない」というものと全く同じタイプの呪いに誘われながら、やはり筆を進めている。話を戻そう。
「いつだって一番の敵は自分。だから自分に勝つことは立派なことなんだと」
だが、自分に勝ったという確証をうつ病に悩む人はどうやって獲得すればいい? 数字のような分かりやすいものはないし、仮に営業成績がうなぎ登りになったとしても、うつ病のひとたちにとってそんなものはクソの役にも立たない。ハッキリ言って意味がない。まやかしだ。
しかし案外うつ病も捨てたものではない。「うつは大人の嗜み」そんなインチキ臭いことを言うような勇気はまだ僕にはない。でも僕には、少なくともこれが僕のためだけにかいた文章であるとするのであれば、うつ病に悩む未来の自分に言うだろう。
「うつ病は、人が唯一自分に勝ったことを確認できる瞬間だ」と
ほら、何の役にも立たないだろ? 他人の書いた文章なんてそんなもんなんだよ。だけど、いまあなたが直面している苦しみは、あなたが自分に勝った何よりもの証左なのだ。たとえ役に立たなくても、それだけは死んでも動かせない強固な事実だ。そう、事実というのはニュートンのF=maがそうだったように、あなたが生きていても死んでいても、神の手が加わったとしても決して動かすことができない。どんな形であれ、勝利は勝利なのだ。
で、結果的にこの文章に意味なんてなかっただろう。人生と同じなんだ。でも意味なんてなくてもこの文章は存在している。意味がなくても存在している。たぶん同じなんだ。僕の人生も。
執筆の狙い
自己満のショートエッセイです。意味なんてない。