キスと一輪のオレンジジュースを
わたしは小林利恵菜になりたいのに。
小林もうどうが戻ってきてもうすぐ一年になる。
磨く必要のない石を道端で拾った。学校に行ってもそれが評価されるわけじゃない。綺麗な石なんてどこにでもあるものだと考える人が多いからだ。つまりそれが常識。そういう常識が大嫌いな小林もうどうがわたしは大好きだった。ずっと。
空を見る。すぐに視線を戻す。
国又利恵菜は変わり映えしない足元を昨日ぶりに見た。かすれた白線も、電柱になりすりつけられた犬の糞も昨日と何も変わっていない。
学校についても、暖房の稼働は一限が始まってからだから首元まで暖かくなることは期待できない。それでも教室に入れば少しは暖かくなるはずだ。
札幌キャンサークリニックが見えた。毎日これを目印、というかランドマークにしている。この病院が見えればあとは信号を渡って真っすぐ行くだけ。寒い通学路はそれで終わる。
別に、札幌キャンサークリニックだからといってここが北海道というわけではない。ただのクリニックの名前。
しかしずっと寒い。兵庫県の気温は八度。そろそろクラスのみんなが彼氏や彼女がいないこと気にし始める。
「なあ、なんでやねん」
遠くで、野太い声が聞こえた。
東京の街頭インタビューでは「おおきに」や「なんでやねん」という言葉をよく。自分たちは関東弁と読んでいる。逆に自分たちの住んでいる関西圏では「じゃん」「だね」といった言葉をよく使う。自分たちは標準語と呼んでいる。使っている人がいれば脊髄反射で関東出身の人か、と思う。さっきの野太い声の主も関東出身なのだろう。
信号。赤。
空を見る。すぐに視線を戻す。
「なあ、なんでやねん」
さっきの人がまた言ってる。
「お前に、言ってんねん。おい、こっちやぞ」
肩がぐい、と引かれた。重たいリュックサックも手伝って尻もちをついた。
倒れる直前に顔が見えた。
宮城太一。
東京都出身のサッカーマン。高い身長に天然パーマ、浅黒い肌にきつい目つき。一つ一つの動作が荒っぽい粗忽者。
小さくため息をつく。
今となってはこいつのどこが好きだったのか、まるで思い出せない。こいつとの日々をなかったことにしたさすぎて声すら忘れていた。どこかの知らないおじさんと同じ扱いをしていた。どうして今になって話し合おうとしてくる? 友達にあの女は遊びだったとか本当は好きじゃなかったとか散々言ったくせに。こっちはもうお前のことはココロにはないんだよ。写真だって全部消したし友達に何か訊かれてもそれとなく話題を逸らす。
「なによ」
すぐに立ち上がる。
「なによって、ライン無視するからこうやって直に会ってんねやろ」
すぐに言葉を荒げるのも嫌いだ。
「別に無視してないけど。別れる時にブロックするって言ったよね。ブロックしたらメッセージ届かないの」
「そんなこと言ってへんねん」
じゃあ何言ってんだよ。
「悪かったって言ってるやんけ。俺だけが悪いわけじゃないやろ。なあ。思い出してみろや」
「もうかまわないでよ」
信号が青になった。歩く。何かを願うように、空を見る。すぐに視線を戻す。
「だから無視すんなって」
横断歩道を渡り切る。右に曲がる。いつもとは違う道。
「おい」
手が伸びる。つんのめった。フェンスに顔がぶつかる。
「いた……」
「お前も悪いところあったやろって。そうやってすぐ無視してや」
だからってすぐに手を出すのか。しゃべりたくもない。涙を見られないように顔を背けて歩き続ける。
「いいかげんにしろや」
頭を掴んでくる。フェンスに叩きつけられる。頬が網に絡まる。鼻にぴきりという感触が走る。
こいつ、ほんと、どういう育ちなんだ。
こういう時に限って誰も通らない。助けてもらえない。
フェンスの奥の景色が嫌でもよく見える。駐車場のようだ。健診車に黒のセダン、後ろに緑の布がかかった軽バン。筒状のエンジンがついた、見覚えのある車。
ココロが晴れていく。
タイヤの代わりに大きなスキーボードがついた車。それは楽しかった記憶、何よりも懐かしむべきもの。空を見てすぐに視線を戻すくせがついたのはこの車のせい。この車の主のせい。
荒っぽい息が後ろで聞こえた。豪快な足音が、宇宙で一番安心できる音が右で聞こえた。視線をやる。
派手な色のナイキダンク。ほとんど破れたブラックジーンズ。こんなに寒いのに二つ目までボタンの空いた水色のシャツ。m65というらしいネイビーのジャケット。二メートル近くはあろう背丈。巨人症なのだ。短く切りそろえた茶髪。真っ白な肌。黒光りする眼球。いつも隣にいる「きつし」は今はいない。
「これ、いいよ」
聞き覚えのある声が響いた。宮城が右を見る。
「なんや、おまえ」
「これ、いいよ」
もうどうは原始人の言葉など意に介さず、左手をぷらぷらさせた。右手には一輪のオレンジが挟まったグラスを持っている。千鳥足だ。グラスには少し、オレンジ色の液体が残っている。
「なにがやねん」
「えっとな。あれだ。あれだよ」もうどうは左手の人差し指から小指までの四本を唇にあてて、すぐにはなす。
「か弱い不細工に手を上げるような、えっとな。ゴミ袋フェイスの関東野郎を始末する時のせりふ。あー、なんだっけかな…………。忘れちまったよ。ふー……」
「お前、なんやねん。喧嘩売っとるんか」宮城の手が自分の頭からはなれる。
もうどうはゆっくりと両目を閉じて、グラスの中身を飲み干すと顎を左右に動かした。ポケットから純白のハンカチを取り出して地面に広げてその上にグラスを置く。しゃがみこむ時とは反対に素早く立ち上がる。
その道にはいまだ誰一人通らない。
「おい、お前、聞いとんのか。俺に喧嘩売っとるんかっつってんねん」
「あー思い出した。『五秒やるからその汚ねぇ手をどけな』だよ。知ってる? トランスポーター3。ジェイソンステイサムだよ」
宮城の手がもうどうに上がる。もうどうの左手が宮城の腕を捻りあげるのに一秒もかからない。もうどうの長い足は宮城のすねを直撃する。宮城は鋭くうめいて、膝をつく。もうどうは右腰に手を伸ばすと銃を掴んだ。思い切り宮城の口の中につっこむ。
目にたまっていた涙の粒が外に溢れた。
思わず、しゃがみこんだ。そういうものは見慣れているはずなのに。その銃が地球にあるものとは違うことは知っているはずなのに。銃身が一回り大きくて、弾丸は鉛じゃない。
宮城は情けない声を出す。声にすらならない。膝を震わせて懇願するようにもうどうの目を見た。
「喧嘩に身長は関係ないってのは嘘だぞ? 俺は二メートル近い。お前は百七十センチぐらいか? 恐竜がどうして滅んだか知ってるか」
宮城は、涙を浮かべながら必死に首を横に振る。銃が宮城の口の深いところに進む。
「隕石がどうのこうのというのは嘘だよ。本当はな。もっと強い生き物が現れてそいつらに逆らったからだ。だから皆殺しにされたんだ。分かるか? ん? 恐竜は自分たちが強いと思うあまりに敵を正視できなかった。誰かさんに似てるよな」
宮城は首を縦に振る。
「気性の荒い関東野郎がなんでも作れる天才に挑むのも結構に無謀だよなぁ」
宮城の頬を、涙が伝う。
「二度と、この女に近づくな。次やってみろ。いいか? 次やってみろよ? その汚い頭を落として金星のストリップクラブに送ってやる。やつらはそういうのが好きなんだよ。分かる? 俺はそういうことができる人間なんだよ」
銃をひっこめると宮城は力無く後ろに倒れた。頭が道路に垂れる。銃の先を宮城の制服で拭うとホルスターに戻した。グラスとハンカチを持って、利恵菜に一瞥をくれた。
少し間があって、結局もうどうは開口した。
「言っとくけどお前のことが心配で助けたんじゃないぞ。なんとなくあいつの顔がむかついた。ただそれだけのことだ」
利恵菜は立ち上がって、涙を拭った。
「ありがとう」
「だから、感謝されるようなことはしていない。ヒーローっぽいせりふに聞こえたか? 違うぞ。お前を助けたつもりはないって」
車に戻っていく。
「どこ行くの?」
「用事がある」
「学校でしょ。それにきつしは」
「用があるんだって」
「でも学校は」
「うるさいぞ。お前が小さい頃からの知り合いだから助けたわけじゃない。目の前で人が困っていたら助けるのが常識だろ? そこんとこ忘れるな。俺は少なくとも、お前に常識のある人間だと思われたかっただけだよ。それ以上も以下も違う。分かったら黙れ」
車のドアを開けてエンジンをスタートさせると、乱暴に離陸して南の空に消えた。
自分もあれに乗ったことがある。まだ仲が良かった頃。一緒に地球を見た。言葉遣いも丁寧で、優しかった。小学生の頃、クラスで一人だけ身長がうすら高いもうどうを疎む連中がたくさんいた。人当たりがよくて、体が大きくて、おまけに頭もいい。それのどれも持ち合わせていないひねくれた子供達からすれば、それだけで集団いじめの理由になった。卑怯な奴ら。悪い噂を広めることから始まり物を隠すに至って、机をひっくり返したり掲示物を壊したりするようになった。
ほんとう、卑怯な奴ら。
あの頃のもうどうは決して反撃しなかった。正確に言えば、できたけどしなかった。決して、自分で作ったレーザー銃を使ったりしなかった。もうどうは知っていた。自分がいじめられるようになってから今までターゲットだった子たちはひとまず安心して生活できるようになっていたことを。その子たちを思って、彼はターゲットでい続けたのだ。家でも学校でも、居心地の悪い思いをしていたのに、いつも笑顔だった。
さっき、自分のことを不細工だと言った。けど、本気じゃないことは分かってる。
もうどうの優しさの行方を考えると、悲しい物語を思い出さずにはいられない。いや、語弊がある。優しは完全には消えてはいない。さっき助けてくれたし。見えなくなっただけ。
「あのこと」
風が吹きつけた。強くて、冷たくて、寂しい風。
自分だって傷ついたのだ。友達だったんだから。
宮城のことは気にせずに、いつもの道を歩き出す。もう、空は見ない。見る必要がない。
かつし、くつし、けつし、こつしも集めようと、友人に言われた。自分の名前がきつしで、宇宙的にも珍しいから他のも集めて軍隊にしようと。
村山きつしは今日、いつもよりも早く教室に着いていた。教室の中は寒いが外ほどではない。
教室には自分を含めてまだ五人しかいない。マスクで顔を覆った目立たない者ばかりだ。この教室で生活するようになって半年と数ヶ月。だいぶクラスの雰囲気というのが分かってきた。「陰」と「陽」ははっきりと区別されている。「陰」の割合は、関東弁を使う子が多い気がする。そしてどちらの人種もそれを理解しているらしく別段変わろうとはしない。
左手の中で指を握ってごにょごにょと動かしては、はなす。心臓の鼓動が早い。緊張、緊張している。緊張している時はいつもよりどもるようになる。冷静になれれば、嘘のように滑らかにしゃべることもできる。
黒板を見つめていた。目力は強い方じゃないから穴が開くということはないだろう。肩幅で存在感をアピールするタイプなのだ。今まで三年間、毎日違う場所で寝てきた。根無草。この言葉が頭に浮かんだ。
しかし一所にとどまっているというのも良い。ガールフレンドもいる。春、ここに戻ってきて知り合った看護大学志望の小さな女の子だ。しお花鈴音という。外国人ぽい顔立ちで少し出っ歯なのが良い。綺麗だ。この学校に通うほとんどの生徒と同様、彼女も上品な金持ちに生まれた。緊張しているのは彼女のせいだ。
まだ教室には来ていない。
昨日、彼女と二人であることを決めた。今日友人に頼み込むのだ。そのことが実現するように。
左手の中が汗ばんでくると鼻水が出ているのに気が付いた。窓が全開だった。寒風が顔面の左側を直撃していたのだ。窓を閉める。閉まる音が鳴ると、急に身体中が震えた。足早に教室を出てトイレに入った。誰もいない。少し安心して一番奥の個室のトイレットペーパーを引っ張る。ガラガラと音がしてちぎれた。
鼻に当てる。豚の鳴き声のようなサウンドが響き渡る。
丸めて水道のそばのゴミ箱に投げ捨てた。
一つ、深呼吸。
トイレの空気だ。すぐに嫌な気持ちになって窓を開ける。外の空気で肺を洗う。
三階から見下ろす景色はさすがに高い。冷たい空気が鼻を通る。
「はあ」
ため息が白くなって消えていく。
地球に戻ってからもうどうは黙って消えることが多くなった。一緒に登校する決まりなのだが今朝起きるといなかった。伝言も書き置きもない。
三年、小林もうどうのそばにいた。いつもそばに。
戦争、平和、停戦、条約。どの言葉も結局ただの言葉だ。特別な意味はない。ただ、それに自分たちが関わるとなると話は違ってくる。ただの「言葉」が急にはっきりとした像を結びはじめる。争いは金になる。戦争に首を突っ込んで敵と味方のどちらにも武器や設備を売って大金を稼ぐ。金が風に吹かれると、市場で自分たちのことを知らない業者はいなくなる。金は評判を作る。評判は信頼を。信頼は期待に変わる。期待はそして大金を払う引き金になる。この循環を早いうちに作り出せるかが、裏稼業で生き残っていけるか否かだ。早い話、軍需を満たせば満たすほど口座のゼロの数は増えていく。取引成立の度に発行する証明書の保管ファイルは分厚くなる一方。だというのに。
もうどうは地球に戻ろうと言ったのだ。
理由は分かっている。「あのこと」だ。
中学二年生。思い出す。同じ教室に、自分、もうどう、そして苦手な国又利恵菜。
あの時は全てが優しかった。全てが順調で、良くも悪くも「平和」だったのだ。
しかしそういうものは長く続かない。決まって、だ。賢い人間は幸せが永遠に続かないことを知っている。もうどうは賢かった。
ただ悲しいのだ。どうして才能のある者に悲劇が起こる。どうして才能のある者に限って優しいココロを持っていてそれが踏みじられる運命に座っているのだ。
教室に戻ろうと思い立つと緊張が倍になって襲ってきた。
少し早歩きでトイレを出た。半開きのドアから教室の様子が見える。さっきよりは人が入っている。鈴音はまだ来ていないだろうか。鈴音が来ていたところで、もうどうが来てくれなければ意味がない。
腕時計を見る。ロレックスエクスプローラー2 1655 アルビノ。もうどうが誕生日にくれたものだが価値や良さはあまり分かっていない。思いつく価値といえばもうどうがくれたこと、ぐらいだ。
八時三十五分。始業まであと五分。前のドアから入ろうとすると、軽く鈴音にぶつかった。
「来てたの」普段ぶつかった相手には、いの一番に謝罪するが今は驚きの方が強かった。
「そりゃ来てるよ。だって、今日は小林に頼み込むんでしょ。うまくいく気がしないんですけど」
鈴音は結い上げた栗色の髪を触って首をかしげた。相変わらず舌足らずで「ですけど」とか「なんですけど」を多用する人だ。
「そんなことないと思うけどな。もうどうはと、と、友達だから、その、いくら無茶な、たた、頼みだって訊きもせずにつっぱねるなんてことはしないさ」
「本当なの? 小林ってさ。ねえ。はっきり言って性格最悪だし。わたしのこと嫌ってるし。頭ごなしに悪口言って終わらせるとしか思えないんですけど」
「いや、だ、だ、大丈夫だよ。一応もうどうも人を愛したことがあるんだから」
「ほんとなの?」
「ほんとほんと、と、とりあえず、ホームルームが始まる頃にはもうどうも来ると思うからさ。中にいようよ」
鈴音は頷きともかしげともとれぬように首を動かすとすり足ですっかり騒がしくなった教室へ入っていった。階段から教師たちの話し声が聞こえる。そろそろ始業する頃だ。果たしてもうどうは来るんだろうか。このまま一日雲隠れなんてことはやめてもらいたいものだ。何しろ今日も仕事はあるんだから。
教卓の周りで「陽の部類」に入る女子生徒たちがたむろしている。そこに国又利恵菜もいた。中学の時はああいう生徒たちと仲良くするたちではなかったと思うのだが。
席に座っておく。窓際の一番前。一つ後ろがもうどうの席。その隣が国又利恵菜の席だ。鈴音の席は同じ列の一番後ろ。
教師の頭が教室に見えると、みなくもの子散らして席に収まった。二重マスクで聞き取りづらいが「挨拶お願いします」と言ったはずだ。
「起立」と言われる前にみなのろのろと立ち上がる。
「気をつけ、礼」
「おはようございます」
「おはようございます、連絡をします」
どんな連絡だろうが頭には「鈴音と決めたこと」しかなかった。
右手の親指の爪で人差し指の爪の下の皮膚を軽く削った。
大事な頼み事をこさえた日に限ってもうどうはいない。大事な時に限って。
「オンラインの方でも、えー、連絡しましたが、転校生が来ます。といっても二年生が始まってからは毎日転校生が来ています。しかし誰の顔も知りません。教員の誰もそのことについて口にしません。ですから変な言い方ですが、期待はできませんね。どうしてかは大体見当がつきます。多様性を重んじている本校ですら受け入れ難い、宇宙で何やらしている二人の生徒のせいです」
担任は少し目つきを鋭くしてきつしの方を見た。他の生徒たちも倣って視線を送る。話を全く聞いていなかったせいでどうして自分に魔女を見る視線が送られているのか分からなかった。
「えっと、と、と、特に僕からの連絡はありません、け、け、けど」
意味不明なことを言ってしまった。見渡してみて気がついた。鈴音はこっちを見ていない。国又利恵菜は違う。誰よりも深い眼差しをこっちに向けていた。どんな意味を持った視線なのか。
「小林もうどうはどこにいる? 村山、彼は君としか話さない。私のことなぞ空気扱いだ。それに他人を軽んじてる。小林は前に人間という言葉を忘れたことがあっただろう」
「もうどうは、そ、そ、その、忙しいので」
「見え透いた嘘はやめろ! あいつは君抜きでは何もしないだろう」
怒鳴り声。クラスの空気が弓にかけた矢を射る直前のように緊張する。
「そそそ、そうですが、いつもというわけではありません。たた、た、例えばシャワーやしゅしゅしゅしゅ、しゅ就寝などは別々です」
「そういうことではない。怪しいこと、君らのしている宇宙を股にかける仕事のことだ」
「で、で、ですからいつもというわけではないですし」
「すぐに説明できない時点で怪しいことをしているわけだ。前だってそうだ。宇宙ペストに宇宙エイズ。生徒にも感染した。教室で銃の乱射もあったな。言ってなかったかもしれないが、次の会議で君たちの退学を決める」
「ちょ、ちょっと、そそ、そ、それは」
担任はきつしの言葉には何も言わず視線を戻すと、声を穏やかに戻して連絡を続けた。
張り詰めていたクラスの雰囲気も和らいでいく。
もうどうならこういう時気の利いたことを言って相手を黙らせる。自分にはできない。必ず相手にも一理あると思ってしまうからだ。弱さなのだ。
「一限目の集会で転校生を紹介する手はずになっていますが、嬉しいことに転校生はこのクラスに来てくれます。廊下で待機していますので先立ってクラスで紹介をしておこうと思います」
担任がドアに近づくと、外から勢いよく開けられた。
「これ、お土産」
もうどうは瓶が四、五本入ったビニールを担任に押し付けた。国又利恵菜の声が聞こえたような気がした。
「ケンタッキーバーボンの蒸溜所でテイスティングをしてた。それは今日付で退職届を出した客と勝負してまき上げたレピーズ・マビーだ。高級ビールだよ」
きつしはもうどうを見た。
「もうどう」
もうどうはきつしを見た。
「おう、きつし。今度は君も来てくれよ。あそこにいる客ときたらほんと、はは。笑っちゃうぐらいおかしいんだぜ。たった今クビになってきた奴とか昨日出所してきた奴とか。
ほんとにダイバーシティだぜ。この宇宙ほどじゃないけどな」
「学校をサボって何をしていたかと思えば、蒸溜所でティスティング? それは未成年飲酒をしてきたってことでいいんだな?」
担任がビニールを教卓に置きながら怒鳴った。二重マスクのせいでこもってはいるが。
「おぉおう。この、えーと……。なんだっけ、その……。そうだ、人間だ。なんだこの人間は?」
「担任だよ。君は今学期十日ほどしか学校に来ていない。それは村山も同じことだが」
「きつしが? おぉおう。きつしぃ」
「なに」
「お前、学校に行かないのはよくないぞ? 何せ学校ていうのはすごいところだからな。毎日同じ部屋に集められては合図で挨拶をしたりグラウンドでかけっこをしたり、まるで刑務所労働だ。休み時間にはスマートフォンでお、と、も、だ、ちと一緒にインスタトックやツイッター、フェイスブックなんかで暇つぶしだ。ほんとここにいれば自動的に立派な人間になれるんだからな」
「インスタグラムとてぃ、てぃ、ティックトックね。インスタトックじゃない。そそ、それにツイッターはエックスになったしフェイスブックなんて今時誰もやってないよ」
「おぉおう。今時? それは地球の話だろう。宇宙じゃなぜか今フェイスブックとフランスの大麻が大流行している。ここに参入すればまたボロ儲けできるかもしれん」
指だけでドアを閉める。
「まあ何はともあれ学校にはちゃんと来た。校門は通ってないから校門遅刻にはなっていない。教室にだって時間通りに来ていたのかもしれない。トイレに行っていて始業に間に合わなかっただけかも。嘘をつくなという前に考えろ? 俺が嘘をついている証拠はどこにもないし誰にでも起こることだ。始業前に突然腹が痛くなって個室にいたらチャイムが鳴って焦ったなんてこと、一度はあるだろ。それに、睾丸型モンスターがこのクラスの女子生徒に手を出すのだって食い止めた。他のクラスや学年は知らんが。おっと、廊下には出ない方がいいぞ。黄緑色の血がべったりだから」
「さっき自分でティスティングをしていたと言っていただろうが」
「ああ、確かに。だが『車』に乗ってアメリカから一万八百キロを飛んで帰って、たった今教室に着いたとは言っていない。昨日行ってきたのかもしれないし一昨日かもしれない。誰にも真実は分からない。だから、口を出すな。自分のちっぽけな考えで宇宙を測るんじゃない。もし測れると思っているならそれはおごりだし、お前たち、えーと、人間の狭い了見での話だ」
「村山にはさっき言ったが次の会議でお前たちを退学にするよう進言する。理由は分かるな。毎日転校生が来てもなぜか誰も教室に入ってこない。生物教室にエイリアンの卵を置いてる。この教室に武器を隠しているのだって知っているんだぞ」
「おぉおう。きつし、お前何をやらかした。どうして俺たちが退学になる」
「君だろ! せ、せ、先生、す、すみません。もうどうにはよく言って聞かせますので」
「てめぇは母親か」
「うるさい、き、君も謝って」
「どうしてだ。俺たちは時々世界を救ってるしこの学校を守ってやってるんだ。女子高生を狙う変態や睾丸型モンスターからな」
「転校生が睾丸型モンスターだっていうのか?」
「さっきも言っただろう、担任殿よ。地球的な考え方をするんじゃない。宇宙を感じて、科学に集中するんだ」
もうどうは怒りで爆発寸前の担任にウインクするときつしの後ろに座った。隣の国又利恵菜がチラチラともうどうの方を見る。もうどうは机の上で足を組んだ。
「どうした? ホームルームは終わりか?」
「やってくれたね。君のせいで退学だ。だ、だ、大体君が地球に戻ろうって言ったんだぞ。君が目的を果たすためにね。それなのに君は一向にそのために働こうとしない。それどころか呆けてる。だだ、だ、黙って消えるのもいいけど、その時は僕に連絡してくれ」
きつしは階段を降りながら自分より十センチ高いもうどうにこぼした。
「分かってる、分かってる、お前抜きで楽しいことしてきたから怒ってんだろ。次からは誘うよ。ちゃんとな。おぉおう。お前の女も誘った方が良いか? あの出っ歯のクソガキをよ。だがな、俺はちゃんと仕事をしにケンタッキーに行ったんだぜ」
「へぇ、仕事ね。ど、ど、どんな仕事だい。仕事だったらまず僕に発注されるはずだろ。いきなり君に渡るなんてシステムとしてありえない。そ、そ、そ、それに鈴音のことをそんな風にいうのはよせ」
二階まで降りると右に曲がって下駄箱へ通じる階段へ移動する。こっちの方が体育館まで早いのだ。二階は三年生は三年生のフロアだ。すれちがった生徒はみなもうどうを二度見した。
「じゃあどんな風に言えばいい。あの女がお前をたぶらかすせいで仕事に影響が出てるのは事実だぜ?」
「え、え、え、影響だって?」
「書類の用意や連絡を忘れることが多くなった」
「それは、きき、き、気を付けるけど、とにかく鈴音は関係ないから」
もうどうは話題を変えたかったのか小さく頷いた。
「おぉおう。バルト海の海底ケーブルをいじってたのさ」
「ど、ど、どっかから発注されたのかい?」
「いぃや、いやいやいやいや、そうじゃない。俺たちも地球に拠点を構えるならある程度通信網を整備しといた方が良いだろ? 争いは今の所地球には及んでない。それでも時間の問題だ。みんな追い詰められて最後の砦を食い潰しちまうかもしれない。そうなると余計な手間が増える。事前に防ぐためにも真空空間の電波も拾えるようにしとかないと」
「この星の人々守るのは、て、て、て、手間とは思わないよ」
「お前は思わなくても俺は違う」
階段を降りきる。下駄箱を通り過ぎて校舎の外に出る。校門の前の大きなくすのきの葉が揺れている。
「もし地球が狙われた時にでかいシールドを作るのは俺だ。武器を作って応戦したり、エイリアンどもに地球を狙わないよう説得したりするのも俺だ。だから前もってその面倒ごとが起きないようにしておくんだ」
「どどど、どうやって」
「ケーブルに細工してエイリアンどもが地球の電波を拾えないようにした。すごいだろ」
風が強く吹き付ける。
「どど、どうしてケンタッキーにいたのさ。バルト海はヨーロッパだろ」
「ヘルシンキのバーにはウイスキーがなかった。禁酒法時代の名残だな。それで仕方なく」
「ヘルシンキってフィンランド? な、なんでもいいけど飲酒は見逃せない。君がいくら天才的な科学者で、肝臓にアルコールをフィルターする機能をつけたりできるとしても未成年が飲酒をするべきじゃない」
「なんか勘違いしてないか? 俺が飲んでたのはオレンジジュースだぜ。グラスに一輪のオレンジが挟んであるやつ。ウイスキーがない店は決まってグラスにオレンジを挟んでくれない。あれが好きなのに。だからケンタッキーのバーに」
「ああ」
事実がどっちにしろもう面倒くさくなってきた。もちろん言いたいことは他にもあった。あの車ならケンタッキーから兵庫県なんて数十秒でつくだろとか。バーでオレンジジュースを出すのかとか。本当に酒はのんでないのかとか。でもアルコールをフィルターできるならいいじゃないか。そう思い始めていた。
くすのきの根っこを囲む丸石の上を通る。この学校は食堂の上に体育館がある。
もちろんだだっ広い体育館の下全部が食堂というわけじゃない。食堂の隣には運動部の更衣部屋がある。中世の監禁施設のようなところだ。部屋の一つ一つには冷たくて厚い金属のドアが備え付けられているし真ん中の小さな窓には内側からも外側からも格子がはめられている。何のためにそんなことしたのかは知らないが。通路は薄暗くて砂だらけ。外からの日差しは、体育館へ続く階段に遮られてほとんど入ってこない。
通路に入る。匂いは最低だが人を寄せ付けないという意味ではこれ以上にない仕掛けだ。右から順にバレー部、バスケ部、サッカー部、テニス部。左へ曲がると野球部の大層な部屋があるがそこには用はない。ラグビー部と女子テニス部の間に一つ、何にも使われていない部屋がある。
もうどうはその部屋のドアの前に立つとm65のポケットから鍵の束を取り出す。その一つを差し込んで右へぐるりと回す。ドアは内側に開ける。中は他の部屋と変わらない。
もうどうはおもむろに長椅子の前にしゃがみこむ。手前の左側の足をつかんで、右へ回す。少し地面が揺れて後方の壁の一部が横にスライドして階段が現れる。ちょうど人が二人通れるぐらいの空間が生まれた。
「お先にどうぞ」
きつしはその言葉の通りにした。
数段降りると右に曲がる。数段降りるとまた右に曲がる。また数段降りる。ドア。キーパッドに数字の組み合わせを打ち込むと開いてくれる。
「1216」
暗い。どことなく犯罪現場を思わせるものの置き方をしている。
長机の上には四つの電気スタンド。ドライバーやドリルなどの工具。ネジやビス、クリップといった細かいものから金属のプレートや溶接器具、レーザー装置まで散見される。奥の壁一面はびっしり金属ラックで隠されている。ラックには、道具や作ったものを詰め込んだ段ボール。段ボールに入りきらない大きなものがしまわれている。その他には文書保存箱。今までの発注記録や取引に必要な書類なんかをしまってある。部屋という感じではない。空間。扉も通路もなく、広い。石の壁に石の床、石の天井。照明はデスクとラックの上にあるものしか点けない。省エネの意味もあるし一々消すのが面倒くさくもある。
「ああ、ここに来ると落ち着くなあ」
もうどうは長机の上に座る。
「ガレージは男の城だ」
ドリルを手に取ってしみじみと言う。ガレージではない。こういう言葉の誤りを一々指摘するのはもう疲れた。
「早く済ませよう。休み時間は、じゅ、じゅ、じゅっぷんだけだ」
「おぉおう。俺たちはここに授業を受けにきてるわけじゃないんだぞ。授業をしにきてるわけでもない」
「た、た、た、た、担任の言葉を聞いてなかったのか?」
きつしは机の上に手のひらをついた。ドンという音が響く。もうどうは視線を合わせずドリルをいじくる手を止めない。
「退学にするっていってた。ぼ、ぼ、僕たちの態度が目に余るからって次の会議でそう進言するそうだ。ここを追われればどうなるか分かってるのか? 君のためにやってることなんだぞ。なのに君はちっとも真剣じゃない。ここにいられなくなったら困るだろ? 『あのこと』を忘れたのか? 今朝も勝手に消えた。ど、ど、どういうわけなんだ」
「きつし、落ち着けよ。あんなアホな教師連中の対策なんざ寝ててもできる。それよりも今日も取引があるだろうが。そっちの話をしたいんだが」
「も、も、も、も、も、もっともらしいことを言うな」
「分かった分かった、きつし。じゃあもし退学になったら教員全員の頭を弾き飛ばすことを約束するよ」
「そんなことは許さない。じゅ、じゅ、じ、銃を使わない解決策を考えなきゃ。記憶を消したり洗脳したりするのもなしだ」
「銃も記憶消去も洗脳もなしか? なら二千はあった解決法が一気に十二に減っちまうよ」
「と、と、とにかく、授業には出て、反省してるってとこを見せるんだ。そそそ、そうすれば分かってくれるよ」
「あー、分かった分かった。じゃあこれをさっさと終わらせて教室に戻ろうぜ。今は」
もうどうは時計を見た。タグホイヤーのアクアレーサーという奴らしい。
「今は八時四十三分。授業が始まるのは五十分。取引の説明は五分以下で済む。教室に戻るには二分弱。四十七分には教室に戻れる。これでいいか?」
「ああ、だ、だ、妥当だ」
「そうだろ?」
「うん」
「よし、じゃあ書類を頼む」
「分かった」
左から三番目の金属ラックの文書保存箱の前に立つ。青いラベルを貼ってあるものを探す。赤は「完了」青は「未決済」黄色は「発送待ち」緑は「ご破産」を意味する。今のところ青は四つある。インデックスを確認する。「サンバ」
「こ、こ、こ、これだ」
箱を机に置く。ふたを開けて書類を取り出す。
「相手はサンバ人。ドン・サンボーンの一派だ。天の川流域の小惑星帯で闇市場をやってる。この争いでは反政府側についてる。木星のバルカンルートを攻撃して政府の油源をつぶしたことで参入した」
「サンボーン?」
もうどうは顔をしかめた。
「ああ。ち、ち、地球かぶれの嫌な宇宙人だよ。元請けのど、ど、ど、ドン・フェンネルの紹介だよ。メッセージが入ってる」
「なんて」
「えーと『今日の取引が成功した暁にはさそり座のレストランで会食にしよう』ってさ」
「ドン・フェンネル。俺たちが武器を売る時初めて仲介してくれた業者か。体全体がオレンジで目が三つある変な男だがビジネスの手腕は確かなもんだ」
「そ、そ、そ、そ、そうだね。それよりサンバ人」
「サンバ人は昔、水星のしまを荒らしてたって話だ。ちゃちな海賊だよ」
「法律が整備されたせいで海賊業は上がったり。ここ数年は違法鉱物を専門に扱って他の細々とした組織を吸収して力を増してきてる。最近は物流にも手を出していてアンドロメダ銀河から流れてくる物資を月の営業所で仲介して、て、て、手数料を得てる」
「まてまて、月の営業所はおとめ座の管轄だろ。あいつらはよそものには商売をさせない。手数料なんかとれるかよ」
「争いが始まって、な、な、な、な、流れてくる物資の数が急に増えたから仕方なく雇ってるらしいよ」
「ああ」
発注書をもうどうに渡す。もうどうはドリルを置いて机からおりると品物の欄に目を通す。
「問題ない。衣料品に紛れさせれば警察が来ても大丈夫だろう」
「二重底?」
「そう、二重底。女物の服を詰めてる。いて座の小惑星での抗争が血みどろに終わった時に机に置いてあったのを盗んできただろ」
「ああ」
「とと、と、と、と、と、と、取引の一時間前には場所が送られてくるはず。事前にクリーンか確認しとかなきゃならない。どのチームに行かせる?」
「いつものでいいさ」
「じゃあシルビオに」
「で、で、電話しておく」
「手順はいつも通りだ。送金が確認できたら荷物を渡す」
「そ、そ、そ、それでいい。口座もいつも通りでいいか?」
「いいや、今回は違うのを使う。Jー37ーアップル」
「Jー37ーアップル……」
書類をめくる。
「ふ、ふ、ふ、フロント企業の名前はサザランドロジスティクス。担当エスクローはマニヴァージ有限会社」
「よし」もうどうは言葉を切って唇を舐める。「ほら、五分以下で終わった。じゃあ教室に戻るか」
「はいはい。ああ、それと、と、と、と、取引の時間はちょうど三限目に被ってる。どうする」
書類をファイルに直して、ドアに向かう。
「途中で抜け出すしかねえだろ」
「どうやって」
「そりゃ、腹が痛いとかいえばいいさ」
「ぼぼぼ、僕たち二人同時にか?」
パスコードを入力する。「1216」階段を上る。
「他にどうやるんだよ。記憶操作も洗脳もしたらいけねぇんだろ?」
「ま、ま、ま、ま、ま、ま、まったく、勘弁してくれよ。と、と、取引には行かなきゃならない。しししし、し、し、し、しかしそれには授業を抜け出さなきゃならない。だ、だ、だが抜け出すと退学になる。最高だな」
「最高なもんか」
更衣部屋に戻ってくる。椅子の足を回して壁をスライドさせ、階段を隠す。部屋を出て鍵を閉める。
「じゃあこうしよう。隕石を落とすんだ。三限目が始まってすぐに。メディアで取り上げられるぞ。そうしたら勝手にいなくなっても誰も気にしない。だって隕石が落ちるんだ。パニックでそれどころじゃないだろ」
「ち、ち、地球をぶっ壊すのかい? と、取引だけのために」
「いいや、隕石はちゃんと取り除くよ。取引が終わって帰ってきたらな」
下駄箱を抜けて階段を上る。
「ど、ど、どうやって隕石を落とすのさ」
「前に隕石を落とす装置を作っただろう? 忘れたか? 金星の奴らに発注されて邪魔な奴らを小惑星もろとも事故に見せかけて消してやっただろ。あれを使うんだよ。まだ大気圏に漂ってるはずだから遠隔操作して設定しよう」
三階に着いた。教室から暖気が漂ってくる。
「なるほどね。名案だ」
八時四十六分。
「ほうらな。ちゃんと教室についた。予定より一分も早く」
「そうだね。ああ、言い忘れてたけど」机の横にかけていたブリーフケースを取って、渡す。
「が、が、が、学校では制服でいなきゃだめだ。ほら」
「おぉおうおい。ここに制服をいれてるのか? いつも? だとしたら面白すぎるだろ」
「君がせ、せ、せ、制服を着てこないことが多いからね」
「あ、り、が、と、う、よ。着替えてくる」
もうどうは歯をむき出しにしてそう言うと、ブリーフケースを振り回しながら教室を出て行った。
椅子を引いて座る。ため息をついて指を組む。朝から疲れる日だ。退学になるならないの話は笑いごとではない。
ふと左を向くと鈴音を目が合った。すぐに逸らす。忘れていた。もうどうに頼んでいなかった。椅子を引く音がする。鈴音がこっちに来るぞ。いつもは友達と教室の真ん中で騒いでいるのに、自分を待っていたんだろう。
「大丈夫?」
「え?」
「いや、ちょっと疲れてるように見えたから」
「だ、だ、だ、大丈夫だよ。疲れてない」
無理に笑って見せる。
「それで、どうだった?」
「あー、その。じ、じ、じ、実は、い、いい、い、い、色々立て込んでて。まだ頼んでないんだ。ごめん」
「いや、いいよ。全然。ほんと、だいじょうぶ。ずっと考えてたの。小林がなんて言うだろうって」
「まあ八十パーセント無理だろうね」
実際のところ、百パーセント無理だろう。
「ですよねー……」
「ででで、でも、二人で決めたことだし。きっと実現させてみせるよ」
教師が教室に入ってきた。一限目は数学なのだ。鈴音は小さく微笑んで席へ戻っていく。
チャイムが鳴った。みな席に戻る。もうどうも教室に戻ってきた。どかっと後ろに座る。振り返る。
「間に合ってよかった」
「ああ」もうどうはいつも通りふざけた調子で唇を曲げた。
気のせいかもしれないが振り返った時、国又利恵菜がもうどうに並々ならぬ視線を注いでいるように見えた。
授業中に携帯を触っているとその日一日没収。放課後生徒指導室にて説教をされて反省文を書かされ、親に電話をされた上で返される。自分たちの場合、生徒指導室には絶対に行かないし、反省文も書かない。親もいないから、大した罰ではない。
それに自分たちが使う携帯は、スマートフォンではない。地球でいうトランシーバーのような見た目だ。番号のボタンがついていて太く長いアンテナがある。分厚いしかさばる。機能は暗号メールのやりとりと解読、通話、ちょっとした地図機能、GPS。ただのそれだけだ。
二限目が終わって教員が教室から出て行ったタイミングでブレザーの内ポケットから携帯を取り出した。引き出しに隠し気味にしてサンバ人からの連絡を確認する。
もうどうは後ろで机の上に足をのせながら飴をなめている。棒のついている、オレンジとピンクの渦巻きキャンデーだ。二限目が始まってからずっと教室中にオレンジと桃の匂いが漂っていた。
一限目も二限目もひどかった。一限目は数学。もうどうの専門分野だ。教師が舌足らずな説明をするといちゃもんをつけて前に出た。チョークで不足しているところを事細かに書きつけて皮肉と嫌味で訂正を求めた。女の教師だったのだが、授業が終わる頃には涙目だった。
二限目は世界史。第二次世界大戦の分野だったのだがこれまた教師が少し曖昧な説明をした。するともうどうはお得意の「おぉおう」を連発して不足している説明を求めた。その教師が悪かったのは「態度が悪い」と言ったことだった。もうどうは
「ただでさえ生ゴミ以下ほどの価値もない授業で適当な説明をするからそこんとこ明確にしろと求めたら態度が悪いだ? それとこれとに何の関係がある? もし俺とあんたの間で上下関係があるとか勘違いしているなら正してやろう。生徒と教師の間に上下関係はない。だからその無駄な特権にあぐらをかくのはやめてきちんと向き合え。それと、仮に上下関係があるとしたら上なのはこの俺だ。分かったか? 失礼だが先生、左手の薬指に指輪がないようだが?」
その教師がもっと悪かったのは「授業中は外すようにしている」と言ったことだった。
「おぉおうおぉおう。授業中は外しているときた。そういえばあなた毎日昼食はコンビニの弁当ですよね。シャツもアイロンがあたってないようだが? 顔色が悪いな。今朝は朝食を抜いてきたんすか? 毎朝自分で作っていて今日はたまたま時間がなかったから作れなかったと言うなら褒められたものだ。しかしながら、仮に、もし仮に結婚していたとして奥さんはあなたの分を作ってくれないんですか? それともあなたが時間がなかったからせっかく作ってくれたのを食べなかったんですか? だとしたら無愛想な話だ。よほどの倦怠期か、そもそも結婚していないかだね。それで、どっちなんです? ほんとは。倦怠期? 独身?」
その教師はきっと明日休むことだろう。自分たちがここに来てからずっとこんな調子なのだ。もうどうは教室にいるときは教師いびりかお菓子を食べることしかしない。
隕石発射装置の設定はしたんだろうか。後ろでデバイスを立ち上げる気配は一切なかったが。
画面をスクロールする。まだ連絡は来ていない。腕時計を見る。とうに一時間は切っているし、あと三十分しかない。今回の業者は少し危ないかもしれない。取引の作法を知らなさすぎる。万が一の時に備えてバックアップを用意しておくか。シルビオのチームを下見に行かせるつもりだが護衛のために取引の場にいてもらった方が良いかもしれない。しかし相手には自分たち二人だけと言っている。公にチームが後ろに構えていればいらぬトラブルに発展しかねない。何かの物陰に隠れさせるか空中に控えさせておくか。
「と、と、と、と、と、取引の場にはちちち、チームをつかせておいたほうがいいか?」
振り向くとオレンジと桃の匂いが強くなる。
「いいや下見ならまだしも取引の場には俺たちだけでいい。シルビオは明日娘の結婚式だろう。危険にさらすことはない」
「ああ、そういえばそうだったね。贈り物用意してたっけ」
「地球の牛乳が大好きだそうだ。おうし座の皇帝の腹みたいにでーっかいドラム缶に入ったのをいくつも贈ろう」
「おうし座の皇帝の腹? あ、あ、あ、あ、あれ頭だと思ってたよ」
「それより、奴らから連絡はきたのか」
「いや、まだ」
もうどうは足を机から下ろして姿勢を正した。
「無礼な奴らだな。海賊なんてやってた田舎者と商売するんじゃなかったぜ。今となっちゃ俺らの方が危険じゃねぇか。あいつらが取引の作法を知らないだけか俺たちをはめにきてるかだな。下見はなしだ。シルビオに連絡しておけ。もし罠だった場合、勘ぐってることを知られたくない」
「分かった」
「連絡が来たらすぐに教えろ。俺は今のうちに隕石をセットしておくから」
もうどうは、半ば独り言のように言い捨てると引き出しからタブレットを取り出した。
「お、あったぞ。おぉおう。懐かしいインターフェースだ」
「それなに?」
きつしはとっさに顔を上げた。もうどうは動じずに画面の上で指を滑らせる。
国又利恵菜。どうしても好きになれない女。この媚びるような目つきがどうもだめだ。
「ごごご、ごめん。利恵菜。今大事なことしてるから、向こういっててくれない?」
丁重にお引き取り願う。さっきまで友達と話してたはずだろ。どうしてこっちにくる。
「別によくない? もうどう、今日も毒舌だったね」
「よくない?」や「なくない?」といった言葉をよく使う。そこも気に食わない。
「だ、だ、だ、だ、だから、今は」
「きつしはどうして今朝一緒にいなかったの?」
「え?」
「札幌キャンサークリニックの横断歩道のところでもうどうに会ったの。元彼に絡まれてるところを助けてくれたの」
きつしはもうどうを見た。
「バルト海にいたんじゃないのかい」
もうどうはタブレットに顔を落としたまま、どっちの話も聞こうとしない。
利恵菜はもうどうの隣に座った。もうどうの方に体を向けるともうどうはようやく開口した。
「ほんと、余計なことを言ってくれる女だぜ。昔っからな」
「も、も、も、もうどう、どういうことだよ」
「別に。変なことをしてたわけじゃない。ケーブルにつける部品が不足してたから、あの札幌なんとかクリニックから機械をぱくってただけだ。それで必要な部品を手に入れてバルト海に戻ろうとしたらこの女に会っちまったんだよ」
「う、う、う、う、嘘つけ」
「嘘じゃねぇって。利恵菜。助けてやった恩を忘れたのか。余計なこと言いやがって」
「昔は優しかったのに」
今は、といいかけてやめたようだった。
きつしはため息をついた。この女の無神経具合。もうどうが昔優しかったということは、今は優しくないということ。どうして優しくなくなったか。分かるはずだ。「あのこと」があったから。嫌でも思い出すことになるというのに。どうして、そんなことを言ったのだ。
もうどうは何も言わず、何も考えずにタブレットを操作し続けた。
空間が凍りついた。利恵菜は顔をこわばらせて「ごめんなさい」と小さく口にした。
ちょうどチャイムが鳴った。素早く引き出しにしまう。その瞬間に携帯の液晶が光った。連絡がやっときた。今になって。こっそりと確認すると、座標が送られてきていた。もうどうに画面を見せると小さく頷いた。
駆け足気味に現代文の教師が教室に入ってくる。
取引が始まるのは十一時十五分。現在時刻は十時五十分。取引現場へは「車」で五分程度だから十一時五分にここを発てば大丈夫だが取引が始まる十分前には現場に着いておくのが常識というものだ。実際の出発は十一時になるだろう。
教師が挨拶を促す。委員長の「起立、礼、着席」の機械的な声が鳴る。もうどう以外はみなその通りにして席に着く。
中年女の教師は見て見ぬふりをして授業を進める。以前もうどうにめちゃめちゃに、やりこめられたことがあるのだ。
「どこまでやりましたっけ」
最前列の生徒のノートを覗き込む。
きつしはもそもそと引き出しから教科書とノートを取り出す。ノートは新品同様でほとんど何も書いていない。表紙に名前すら書いていない。一番初めの授業で配られたガイダンスプリントが挟んであるだけだ。
教師は普段通りに授業を進める。
きつしは机の中から細い形状のものを掴んで取り出す。シャーペンならいいなと思って見てみると赤のボールペンだった。
なんだよ。内心こぼしながら机に両肘をつく。形だけでも授業を聞いているふりをしておかなくては。
下半身が細かい振動を認めた。もうどうが長い足で椅子を蹴ってきたのだ。
「設定が完了した」ということなのだろう。つまりはもうすぐ隕石が落ちてくる。
左手でオッケーサインを作って後ろに向ける。
すぐ右の窓から隙間風が吹きつけてきた。身震いすると景色が変わってくる。
中学二年生の時分が思い出されてくる。
普通の学生だった。バレー部に所属し、学校では遅れずサボらず特にミスもせず。とはいえ自分には何もなかった。何かしてみようという意欲はあったもののやりたいことを見つけられずにうずうずしていた。そんな自分にとって小林もうどうは暇つぶし以上の存在になった。もうどうの隣にいれば他の生徒や先生の隣にいてもできないことができる。普通の人間同士だ。もうどうがすることが普通ではなかっただけで、もうどう自身は優しくて思いやりがあって笑顔が純粋な「一般生徒」だった。
「あのこと」
ゴッドファーザーという映画を見たことがある。
一作目と二作目は見ていない。ある取引で揉めて、土星人が貸してくれたジェットに飛び乗って逃げたことがある。もうどうは眠っていて、暇で暇で仕方がなかったからたまたま棚にあったゴッドファーザーPART IIIのDVDを再生したのだ。地球の作品だと知ったときには多少驚いたが土星では地球の文化が広く紹介されていたことを思い出して納得した。
一応眠らずに全て見た。ラストで主人公が娘を銃殺されて絶望するシーンがある。よだれをたらして叫ぶのだが、途中まで音声はない。たったの数秒、叫ぶだけの音のない映像が流れる。その後に爆発するような絶叫が聞こえる。
きっともうどうも「あのこと」が起こった時はそんな感じだったのだろう。声にならない悲鳴。世界の音がなくなってしまって、何が起こったかわからなくなって、時間差で理解する。その時に初めて音や感覚が戻ってくる。痛み。真の絶望はきっと、そんな感じなのだ。もうどうはその後すぐに失踪した。学校で一番近しかった自分にも何も言わずに、ただ消えた。数日すると目の前に現れ、何が起こったかを全て話してくれた。そして自分はもうどうについていくことに決めたのだ。嘘みたいな絶望に飛び込んで生きることを決心したのだ。
教室がざわめきはじめた。きょろきょろと首を動かして状況を把握しようとする。
教師と利恵菜と鈴音以外の生徒はみな立ち上がって窓辺に集まっている。
ああ、そうか。隕石だ。
「おい、行こうぜ。今のうちだよ。ニュースでも取り上げられ始めた。いい頃合いだ」
後ろでひそひそ声がする。
「ああ、分かった」
もうどうは長身をかがめて後ろの扉から出た。きつしもそれに続く。
早歩きで体育館へ向かう。機械のように素早く、正確に地下へ滑り込む。「1216」
「すでに荷物は積み込んでるからよ。もう出るだけだぜ」
もうどうは揚々と声を上げながら車庫へ向かう。地下を右に進むとドアがある。
銀色の金属板にドアノブがついただけのものだ。もうどうは昔ながらのドアノブつきのドアを好む。
「運転は君がするかい?」
「い、い、いや、遠慮するよ」
「あそう」
トランクを開けて品物を確認する。
大量の女ものの服。もうどうは手をつっこむと、板を外す。その下に大量の武器がある。
「そそ、そ、そ、そ、揃ってるかい?」
「ああ……。揃ってるなんてもんじゃないぜ」
板を被せてビニールに入った服をのせ直す。木のふたを被せて、ネジ打ち銃で素早く四角を閉封する。
「行こうか」
助手席に座ってシートベルトをしておく。
この車は左ハンドルなのだ。
もうどうは運転席に座るとドアを閉める。シートベルトはしない。ハンドルの横にキーを差し込んで回すと車全体が振動に包まれる。カーナビや計器が点滅する。ダッシュボードの上に寝ているリモコンを取るとスイッチを押し込むとそのまま後部座席へ投げた。
何の音もなく車庫の天井が開く。明かりが差し込む。
体全体がふわっと浮いたような感じがして頭もぐわぐわと揺れる。
水色の空がフロントガラスを埋め尽くす。毎度申し訳ないと思うのは、開く場所は地上で言うところの野球部の用具置き場なのだ。外出するたびに散らかしてしまうし片付けもしない。今は申し訳ないと思っていてもきっとすぐに忘れてしまう。
車はすぐに無重力に躍り出て、散らばる宇宙ゴミを避けながら目的地へ向かう。もうすぐ地球付近でも政府による交通規制が始まる。こんな宇宙のはずれにも影響が及んでくるのだ。それくらい、大きな争いになってきている。
「なあ。別に変な意味はないけどよ」
左でもうどうの声がした。片手をハンドルに置いて視線は前のまま。
「な、な、な、なんだい」
「銃、持ってるか」
「そ、そ、その質問で変な意味はないって? ああ、持ってるよ。それが?」
「どこに持ってる」
「どどど、どこって。腰に挿してるよ」
「そうか」
「ど、どうして?」
「落とし穴っていうのは、標的が気付かないから意味がある。もし落ちたとして命が助かる場合とそうでない場合がある」
「じ、じ、銃があれば解決できるのかい? その状況を」
「いや。状況を良くするのはいつでも冷静さと賢さと知識だ。銃は安心させてくれる。安心は冷静になるのに一役買ってくれる」
「……ああそう」
目的地の小惑星が見えてきた。時刻は十一時五分前。
土星の輪の影に隠れているし、おまけにガスの影響でほとんど目視はできない。
この一帯はほどよく酸素が充満していて窒素が少ない。カーナビで大体の位置は分かるが細かい隕石の破片が散らばっていて紛らわしいことこの上ない。もうどうは器用に破片を避けながら車を進める。
きつしはグローブボックスから双眼鏡と円形のレーダーを持ち出す。双眼鏡を覗き込む。見たところ相手はまだ来ていない。偵察機はレーダーに引っかからないし見張りもいなさそうだ。
この小惑星はもともと惑星の一部だった。何百年も前の争いで破壊されて見るも悲惨な星のかけらとなってしまった。
約束のポイントはかつて海岸だった場所だ。とてつもない温度の光砲が惑星に近づくと海洋は瞬く間に岩盤になってしまった。惑星がなくなった後も、その岩盤だけは壊れずに宇宙を漂い続け、衝突を繰り返しながら様々な場所を回った。そして偶然か否か、狂いそうになる時間の流れの中で元の場所に帰ってきた。やがて土星の輪が誕生するとその影に埋もれた。
目印は「希望の丘」と呼ばれた黒い直角三角形型の岩石だ。
徐々に高度を下げて、着陸させる。急ブレーキをかけると体が前に跳ねる。
もうどうは鍵を抜いた。カーナビや計器の光が消える。
シートベルトを抜いて服装を整える。制服での仕事は初めてだった。
「きつし」
もうどうはハンドルに両手を置いて下を向いている。
「な、な、な、な、なに」
「お前も分かってるかもしれないが今回の取引はちと危険かもしれない。さっきお前に銃があるかどうか訊いたのは万が一の事態になったら先手を打つためだ。むこうが銃を抜いてからじゃ遅い。だからといって向こうが抜く前にこっちが抜けば正当防衛で通らなくなる。だから、銃を抜くそぶりを見せたらすぐに、撃て。抜くんじゃない。撃つんだ」
「わかった」
「ドアは開け放しておく。いざとなったらドアに隠れて、な?」
「あ、あ、あ、ああ、わかった」
「なあきつし」
肩に手をのせてくる。もうどうの目をじっと見据える。
「今の俺にとって、生きてる者の中で大事なのはお前だけだ。他の連中。お前の女も含めてのことだが、俺にしたらどうでもいい。きっと目の前で誰が死にかけていても助けんだろう。だがお前の場合は違う。俺はきっと、お前が目の前で撃たれれば助けずにはいられない。そうすると守りが崩れる。最悪の場合俺も被弾するだろう。だから、撃たれるな。後生だから無事でいろ」
「ああ。もちろんだ。君を独りにはしない」
緊張はしていなかった。もうどうの視線に応える。ふと、右腰に密着する銃の感触が強くなった。二十五メートル。四十口径のプラズマ銃。
下を向く。
銃身は多少他の銃よりも分厚いが大きさも重さもさほど他の銃と変わらない。だが弾丸は電気と熱エネルギーだ。腹にくらえば一気に肉がただれ、衝撃で全ての臓器が動きを止める。出血はするがすさまじい熱のせいですぐに固まる。飛び散った血もそのままで固まる。出血部から固まった血がぶらさがっているのも見たことがある。頭にくらえば終わったことすら気が付かない。撃ったことはある。相手が苦しむことはない。恐ろしい武器だがある意味、残酷ではない。
「来やがった」
もうどうは忌々しげに呟いた。
視線を前に戻す。
仰々しい船が大袈裟に着陸する。タラップを兼ねているドアが開くとスモークが噴き出る。大きな図体の生物が降りてきた。頭に腕が生えており、ピースサインを作っている者、中指を立てている者、順番に折っては開く動作を繰り返す者。
上裸、赤色のボロ布で下半身を隠しただけの格好。おそらく背中に武器を隠している。
中央の金色の布をまとった、頭の腕が中指を立てている者を六人が取り囲んでいる。
「いくぞ」
ドアを開け放して車を降りる。
いつもの手順通り、もうどうが取引相手に挨拶。きつしが品物を用意。品物を試す前に送金手続きをさせる。送金が済めば残りを発送する。
「コバヤシ、もうどう」
金の布をまとったサンバ人がもうどうに笑いかける。
「我が種族の、頭の、腕は、感情を表すのだよ。緊張したり、動揺したり、怒ったりすると、握り拳を作って上げ下げするようになる」
「俺たちの種族にも、興奮するとおったつものがある」
「そうか、そうか、そうか、そうか。君の評判は聞いている。今や軍需産業は全面的に君のテリトリーだ。この宇宙のどの業者よりも優れた武器を作るそうじゃないか」
「まあね。あんたの評判も聞いてるよ。ドン・サンボーン。今度月の営業所を任されたってな。まったく、サンバ人の機転の良さと効率主義には脱帽だね」
「我が種族に敬意を表してくれて嬉しいよ。今度、反政府軍勢の会議にも出席する。争いにおける我々の功績が認められてね。だからもっと良い武器が必要なんだ。それで、フェンネルに紹介されて君に連絡したというわけだよ」
もうどうが指を鳴らす音が聞こえた。きつしはトランクから荷物を下ろして荷台に載せた。
「ああ、君が、噂に聞く、天才科学者コバヤシもうどうの唯一無二のパートナー、きつしだね。君にずっと会いたいと思ってきた。波乱万丈で、変わり者の天才科学者を扱うにはどうしたらいいのかな?」
ずっ、ずっ、ずっ、と笑いを漏らす。きつしも愛想で笑う。
「日本語お上手ですね」
「そうだ。わたしは、きみたちの惑星の文化をとても気に入っていてね。日本語も勉強しているんだよ。特に絵画が好きでね。きつしくん、アントワーヌ・ジャン・グロが描いた『パストゥール夫人』という肖像画を知っているかね」
サンボーンは嬉しげに鼻をひくつかせる。
「いえ、初耳です」
「そうかね。一度見てみると良い。『パストゥール夫人』に関する資料は少なく、研究に乏しいが、とても美しい人だ。彼女は首飾りをしているんだがね。それはおそらく夫から贈られたものだ。……彼女にはきっと、他に男がいたのだよ。浮気妻だよ。そこでだね、わたしは考えるわけだ。肖像画を描いてもらうにあたって彼女は最初浮気相手から贈られた首飾りをしていた。しかし浮気相手のことを勘付かれてはならないからと夫から贈られた首飾りに変えた。どうだろう。この絵にはだね、そういう想像をさせる、なんというか、魔力があるんだよ。美しさが、あるんだよ」
地球かぶれ。こういうことか。ところどころ日本語も間違えているし、回りくどい。自分たちが、すぐに覚えた英単語を言いたくなるようにこの生物も覚えた日本語「魔力」や「研究」を使いたかったのだろう。
「品物です」
バールでふたをこじ開けて、中身を見せる。気づかなかったが、あたりでは霧が出始めている。
「悪趣味な、いて座模様の服を頼んだ覚えはないがね」
サンボーンの頭の腕がひくひくと動く。もうどうは木箱に手を突っ込み、羽目板を外す。サンボーンは中身を覗き込むと満足そうに唸った。
「良さそうな、武器だ。これが全て君の手作りとはな」
「品物はオーダー通りに揃えてる。四五口径のプラズマ銃。分解式のバズーカ。五十二口径プラズマライフルレフト。五十四口径プラズマショットガンライト。それぞれ二十丁ずつ。送金が確認でき次第残りを発送する」
「結構だ。これを戦地に送ればようやく平等に戦えるというものだ。敵も味方も君の作った武器を使っているからな。今のところかなり不利な状況だよ。まあこれで形勢は変わる」
「よかったじゃないか」
「しかしまあなんだ。知ってるか? 政府は君を指名手配者第五位から四位に昇格させた。戦争犯罪で、しかも武器の製造、販売、供給を一度にやって指名手配されるのは宇宙の長い歴史でもきみだけだそうだ。だけど、政府の馬鹿どもときたら、気づかずに君の武器を使ってるんだ。ほんと若いのに大したもんだ。どうやって政府にも武器を売りつけてるんだ? まさか連中は君の武器だとは知るまい。え?」
「それは企業秘密だからねえ」
土星の輪が霧で見えなくなった。風が吹いて周囲の音が聞き取りづらい。
「確かに、そうだな。まあなんだ、この戦争は金になっただろう」
もうどうは聞こえなかったのか、聞こえないふりをしたのか、何も言わなかった。
「おーい、お前ら」
サンボーンが頭じゃない方の手をこまねくと六人が駆け寄ってくる。
「おい、これが品物だ。試してみろ」
部下たちは武器に手を伸ばす。もうどうは武器の上に平手を打ち付けた。
「送金が済んでからだと説明したはずだ。試してもいい。だが先に金を払え」
サンボーンやその部下たちの頭の腕が握り拳を作る。
「少しくらい、いいじゃないか。触って試し撃ちをするだけだ」
「取引の初期段階で言ったはずだ。そういう例外は作らない。相手が誰だろうと、こっちの手順に従ってもらう」
頭の腕の握り拳が、少しずつ上下に揺れる。
「君はさっき我が種族の機転の良さと効率主義には脱帽だと言ったはずだ。これが我が種族のやり方なのだ。その手をどけるんだ。さもなくば侮辱とみなす」
「好きになさい。あんたら分かってないようだが、俺たちを困らせて良いことは一つもない。俺たちが機嫌を損ねれば武器は手に入らない。武器が手に入らなければあんたらは負ける。負けりゃああんたは震えながら『食われつつある銀河』に雑魚逃げだ」
「分かっていないのは君だ。我々を甘く見ない方が良い」
「と言いながら俺から武器を買うのかい?」
「ドン・サンボーンにその口のきき方は許されない」
部下の一人が銃を抜いた。もうどうの手の上に突きつける。他の五人も武器を手に取る。きつしにも銃口が向く。
唇を噛む。
一手遅れた。せめてもの救いは銃に手を伸ばす前だったことだ。もし自分が銃を手にしていればおそらくすでにここは血の海だったはずだ。
サンボーンは頭の握り拳を激しく上下させながらもうどうに顔を近づける。もうどうは視線をやることも眉一つ動かすこともせずただ、石のようにそこに立ち尽くしていた。
「我が種族の機転の良さを君も見習った方が良い。事前に取り決めた手順がなんだ。我々は客だ。君が優れた科学者で、同時に業者だというのは認めている。君のこともすごく気に入っている。しかしだ。侮辱されるのは許されない。侮辱という行為は死に値する」
「…………」
「理解をしてくれたかな?」
「ああ……。十分理解した。たとえこの宇宙での闇取引の作法を全く守らず、客として然るべき礼儀を持ち合わせていないとしてもそれは種族として誇るべき慣例だというんだろう」
何が起こったか。分からないことはなかったが反応は多少遅れた。
もうどうは銃を突きつけている部下の腕を、瞬きほどの時間もかけずに持ち上げて捻り上げた。銃はすぐに地面に落ちた。その瞬間、きつしは考えるより早く銃を抜いたのだった。目の前の部下に向けて一発撃つとすぐに車のドアに隠れ、そこから撃ち続けた。
もうどうは部下を突き飛ばして間合いをとるとすぐに銃を抜いて、三人を殺した。撃たれた者たちは固まった血をプラプラさせながら倒れていった。もうどうは隠れることも後ずさることもせず地獄への片道切符を配り続けた。
もうどうは一人につき二発ずつ撃った。
きつしは一人につき一発ずつ放った。
二人撃ったうち一人はすぐに倒れたが、一人は急所を外した。すぐに頭に向けて発砲すると握り拳を作っていた、頭の腕が吹っ飛び、倒れた。
サンボーンは生き残った部下に守られながらタラップを登っていた。
もうどうはさほど接近もせずに生き残った部下の頭に空洞を作った。すぐにサンボーンの足にも同じ空洞ができた。
サンボーンは叫びながらタラップをどうにか登り切った。タラップが引っ込んで、ドアが閉まろうとするが部下の死体が引っかかってドアが閉まりきらない。サンボーンは迷わずに死体を蹴って、落とした。船はまるで汗を飛ばして逃げる漫画のキャラクターさながら真空空間に滑り出た。もうどうは船に向かって撃ち続けた。着弾したかは分からないが、とにかく、撃ち続けた。
船が見えなくなると、銃を下げた。もったいつけて腰に戻す。
「帰るぞ」
踵を返すときつしを見ずに吐き捨てた。
なぜかやたら車が揺れた。
話し出す気にもなれずずっとダッシュボードの右端を見ていた。
「こ、こ、子供が欲しいんだ」
なぜ言ったのかは、分からない。もっと適したタイミングはあったはずだ。それでも沈黙を破りたかったしとっとと言ってしまおうと思ったのもあった。これ以上引き延ばしておくと完全に機会を逸するような気がしたのも事実だ。そう、これが頼み事だ。鈴音と二人で決めたことだっった。
もうどうは鼻を鳴らした。
「子供だ? 何言ってやがる。女ならいるじゃねぇか。子供が欲しけりゃ相手の両親を殺してベッドインだろうが」
「そ、そそそ、そういうやり方をしたいんじゃないんだ。なにせ、彼女はそういう知識はな、な、な、ないからね」」
「へー。それで俺にどうしろと。お前らのDNAを半分ずつ抽出して培養液にぶち込んで化学物質漬けにして人間を作れっていうのか。断る」
「ど、ど、ど、どうしてだい」
「意味ねぇからに決まってるだろうが! 何が子供を作りたいだ。お前、自分で何言ってるのか分かってるのか? それにあのクソ出っ歯は賛成したのかよ」
「ああ、したさ」
「また、どうしてそんな風に思い立ったんだよ。前々からお前の倫理観は多少人とは違うところがあるとは思ってたがその片鱗がそんな風に現れるとはな」
「も、も、も、も、もっと、愛を育みたいと思ったんだ。ほら、ぼ、ぼ、ぼ、僕はこの三年君と一緒にずっと根無草の生活をしてきただろ。多様性二百パーセントの宇宙でさ。存在してる、が、が、が、概念や無限とも言える時間の流れの中では、い、い、い、意味のあることは一つもないだろ? 人との関わりだって、そうさ。だけど、地球に滞在して気付いた。や、や、や、やっぱり関わりは大事だ。人間は、み、み、みな『行きつけ』を作って安定すべきなんだ。だ、だ、だ、だから、もっと結びつくために、こ、こ、こ、こ子供を持とうと決めたんだ」
「あたま、おかしいね。病気だよ、おめぇは」
「き、き、き、きみにだけは言われたくないね」
「まあ病気だって言うのは認めるが俺は子供を作ろうとしたりしないからな。頭を冷やせ。あの女にうつつを抜かして、仕事に手抜かりをしてるうちは子供なんか作るんじゃねえよ。お前自分のこと何歳だと思ってるんだよ」
ハンドルを殴る。
「そもそもその女も頭おかしいんじゃねぇか。だって、子供作るんだぞ。どうしてそんなことに同意したんだ。意味分かってねんじゃねえのか」
「鈴音と二人で決めたことなんだよ。も、も、も、もっと、関係を深いものにしたいんだ。か、か、か、彼女はきちんと意味を理解しているよ。ただ、出産はリスクが大きいから、き、き、き、君に作ってもらうことに決めたんだ」
「そんなこと訊いてるんじゃねぇえよ。どうしてどうするに至ったかと訊いてるんだ」
「ぼ、ぼ、ぼ、僕が言い出したんだ。時間がたって二人の存在が当たり前になっていくにつれて、愛が薄れていくき、き、気がしたんだ。それで、二人が共通して大事にできるものがあればいいなって、それで子供を持とうって」
「なるほどな。二人が永遠に別れられないように赤ん坊という鎖を作ることを思いついたわけか。名案じゃねぇか。別れを切り出す方には罪悪感も残るし束縛からの解放よりも現状維持を望むように仕向けられるし」
「そんなんじゃないよ」
「まあとにかく断る。仕事が失敗した後だし。取引相手をほぼ皆殺しにしたんだ。これからどうするか考えなくちゃいけない。クソみたいなことを頼み込む前にドン・フェンネルに何て説明するか考えなきゃなな。今回の客はあの人の紹介だからな。今回の失敗は尾を引くぜ」
「す、す、す、少しぐらい僕の頼みを聞いてくれたっていいだろ。いつも自分のことばっかり。今朝だって勝手に消えて。僕は、い、い、い、今まで君の無茶苦茶に文句も言わずに協力してきたのに、僕が、たたたた、頼み事をしたらそれはクソだゴミだといって、ひ、ひ、ひ、否定するのかい」
「ほう。次は俺を責めるか」
「だ、だ、だ、だ、第一、僕は君が学校に来ない間も教室で教師のいびりに、た、た、た、耐えてたんだぞ。それに、べ、べ、べ、別にどうでもいいことにだって、いちいち反応して、共感してあげてる、す、す、す、少しぐらい」
「分かった、分かった、分かった。もう黙れ。帰ったら小さい出っ歯のラブドールを買ってやる」
大きなため息をつく。
「だ、だ、だ、だ、だ、だめだっていうなら、無理にでも作ってやる」
「てめぇ何言ってるか分かってるのか。それは無理矢理するってことなのか」
「だからそういうやり方じゃないってい、い、い、言ってるだろ」
「じゃあどういうやり方で? 俺の頭をスキャンして作り方を知ろうってか? 好きにすればいいが俺の脳は、レベル4の危機を察知するとその危機を排除するウイルスが作動するようになってる。分かる? レベル4。脳のスキャンってことだよ」
「じゃあどうすれば良いのさ」
「諦めろ」
「あ、あ、あ、あかちゃんはかわいいから君も抱いてみれば癒しになるよ」
「いらねぇよ。それに俺は自分が赤子の時の写真を見たことがないし、今さらくそったれの両親に赤ん坊の時の話を訊こうとも思わない。だから赤ん坊がかわいという意見に対してどう言うこともできない」
意外にも少し驚いた。発言の汚さにではなく両親の話をしたことだ。もうどうが今まで両親の話をしたのはこれが二回目だった。一度目は簡単な概略だけ。仲が悪いことや家出をしていること。絶対に戻るつもりはないことなどを言われた。
ためいきをついて、窓から外を見た。
きっと何か些細な行き違いがあったのだろうと勝手に想像していた。もうどうの天才が故の感性が家族との確執の原因になっていたのだろうと考えていた。そうではなさそうだ。「くそったれの両親」まるで両親に非があるような言い方。完全な他責だ。何があったのか踏み込む気はなかった。ただ、引っかかったのだ。
車は勢いよく大気圏を抜けて日本列島へ突き進んで行った。学校の上にくると、もうどうはドアスイッチで車庫の屋根を開けた。野球部の道具が散らかっている。毎度申し訳ないと思うが片付けることはないだろう。
車から降りる。渡すはずだった武器は、トランクにしまいっぱなしにしておく。なんとなく片付ける気分にならなかったのだ。きっともうどうもそうだろう。教室に戻る。
忘れていたが隕石が飛来していた。もうどうが作った隕石だが。
地球に戻る時も言い争いをしているせいで見えていなかった。だがこの様子だともうすでに衝突秒読み段階に入っているらしい。間に合って良かった。
「もうどう」
「次はなんだ。兄弟が欲しいか? 姉や妹が欲しいか? それもムラついてる時にしゃぶってくれるような都合の良い姉か妹か?」
「そ、そ、そ、そ、そんなこと言うわけないだろ。隕石だよ。な、な、な、なんとかしてよ」
「ああ、そうだったな」
教室に入る。
「天にまします神様。まもなく我らに降りかかる厄災から我らをお守りください。人種差別に地球温暖化。よく分からないタレント上がりの中年女性を総理大臣に選んだこと。修学旅行費を盗んで職員室のコーヒーメーカーを新調し、あまつさえ生徒たちの管理不足のせいにしたこと、誘拐事件の緊急通報を無視したことを反省します。どうかあなた様の大地にしがみつく小さな生き物に寛大なココロをお示しください」
なんてことだ。迫り来る隕石を目の前にして人類がとった行動。それは祈ることだった。教師は教卓の上で正座をしながら手を合わせている。生徒はたった二人を除いてみな机の上で正座している。利恵菜と鈴音は一切動揺していない。きっと自分やもうどうが何とかすると思っているのだろう。
ニュースを開いてみる。「人類滅亡」と題された大きな見出しの下で若い女性のニュースキャスターが嗚咽しながら何かを読み上げている。世界終末の絶望はすっかり地球を覆っているようだ。
「え? あ、あ、あ、アメリカの大統領がやけになってロシアにミサイル発射?」
「いいことじゃないか」
「『ロシア野郎のケツから出るキノコ雲を冥土の土産にしよう』って言ったらしい」
「ははは、あのおっさんならやりかねない。しばらくこのままでもいいかもな」
「何言ってんだよ。は、は、は、早く隕石を破壊してよ」
「はいはい」
もうどう机からタブレットを取り出すとわざと液晶に爪を立てて「コツコツ」という音を鳴らす。
「天にまします神よ。環境汚染とバードストライクを反省します。口では多様性を認めると言っておきながら同性愛の生徒の成績を下げました。なんなら三者面談の時に知っていると思ってご両親の前でばらしてしまいました。障害者差別はだめだとパワーポイントでスライドを作っておきながら車椅子の生徒が邪魔だから真冬に廊下で授業を受けさせました。何もかも反省します。ですからどうぞご慈悲を」
教師が罪の告白を終えたところで隕石は内側から爆発して粉々になった。教師も生徒も、数秒そのまま固まった。生徒は次第に席に座り直した。教師はゆっくりと教卓を降りて、何事もなかったかのように授業を再開した。
ニュースサイトが更新された。
「あー、も、も、も、もうどう。隕石の破片がミラノとコートダジュールに墜落して壊滅的な被害だってさ……」
「なんだと?」
「あー、それとロシアにミサイルが着弾して政治中枢が壊滅した。ウクライナとのせ、せ、せ、せ、戦争は終わったけどロシア市民がアメリカへの敵対意思を表明して、ゲリラ軍が出発したってさ」
「アメリカの大統領はなんて言ってる」
「……じ、じ、じ、自殺した……」
「まあ、いいじゃねぇか。な? 地球の掃除だと思えばさ」
「ろ、ろ、ろ、ロシアとと、あ、あ、あ、アメリカの大統領はまだ分かるとしてミラノとコートダジュールはどうなるの」
「科学は万能じゃない。何かが生まれれば何かが死ぬんだ。完璧なことなんてない」
いつも通り「はいはい」と言おうとすると、生徒や教師の訝しげな目がこちらに向いているのに気付いた。
どの生徒も、一様にこっちを見ている。教師までも。
「なんだ、なんだ。お前らこのクソ教師が告白したことを聞いてたのか。同性愛差別に障害者差別。修学旅行の金をくすねてコーヒーメーカーを買ったそうだぞ? 責めるのは俺じゃなくそっちだろうがよ」
「何か問題かね」
「うおっ。びっくりするなあ」
もうどうときつしはシワがれた妙に高い声に、ぱっと飛び退いた。
「どうした、二人とも。そんなに驚いて。私だよ」
「ドン・フェンネル。来るなら一本ぐらい電話いれてくださいよ」
クラスのみんなは、大きな頭のボディガードに守られている、オレンジの肌で頭が大きくて、目元がしわだらけの宇宙人が教室の入り口にいることではなくもうどうが敬語を使ったことに対して驚いているようだった。その宇宙人が黄金色の着物を着ているにしても、そんなことは気にならないようだった。
もうどうはボデイガードの一人に軽く顎をしゃくった。ファブリシオという名前の乱暴者だ。
「きつし、久しぶりだな」
「ご、ご、ご、ご、ご無沙汰しております」
「そんなにかしこまらんでもいい。ああ、それはそうと。この前はすまなかったな。木星でのパーティで、このファブリシオが酔って、君の左目を殴ってしまった。これは、ほんの気持ちだ。すまなかったな。火星人が地下で蒸留した酒の入ったチョコレートだ。ガールフレンドと食べなさい」
「き、き、気にしてません。ありがとうございます」
きつしは金箔のはってある紙袋を受け取って、ちらっと鈴音の方を見た。そのあとフェンネルの後ろのファブリシオを見た。
「あのファブリシオを始末する時は俺に言ってくださいよ」
もうどうは声を低くしてフェンネルの耳元に顔を近づけた。ファブリシオは少しく目つきを鋭くしてこちらを見た。
「まあまあそう血走らんと。これから大変だからな。聞いたぞ。取引相手をサンボーン以外皆殺しにしたそうじゃないか」
「ドン・フェンネル。その話は仕事場でしましょうよ。ここはアホで向上心のない凡人がたくさんいる。もしあなたのことを他に漏らしたらたまったもんじゃありませんよ」
もうどうは小声でそう主張した。
「いいや、気にせんよ。入ってもいいかな」
「ええ、それは、いいですけど。本当にここで大丈夫なんですか」
フェンネルは太い足を重たそうに持ち上げて教室に入った。ボディガードも二人、ついてくる。
「いや、君たちはそこで待っていてくれ。彼は信頼できる友人だから」
フェンネルはゆっくりと言って、もうどうの隣に寄る。ファブリシオは浅く頷いた。教師や生徒は、二年生が始まって十二回目の宇宙人来訪にまだ慣れていない様子だ。
きつしはいつもしているように、もうどうの少し後ろで前で手を組んで直立不動になった。
「こちらが提示した取引の手順を守らなかったんで仕方なく」
「いや、それは問題じゃない。取引の手順を守ったとか守らなかったとか。そういうことが問題なんじゃないんだよ。分かるか、もうどう。全ては損得勘定なんだ。あっちを始末してこっちが得するならそれはそれで構わない。しかし今回あっちを始末してこっちは得をしたか?」
「いえ、まったくですよ。仲介業者に払う手数料はカットできますがね」
「はははは。そういう冗談は嫌いじゃない。が、しかしだ。私は君らが初めてこの市場に参入した時から知っている。一番初めの仕事を手当してやったのも私だし君たちの物流ラインの設立に一役も二役も買ったのもこの私だ」
「それはありがたく思ってますよ」
「じゃあなぜ奴らを始末した」
「メンツを守るためです。例外を作って、送金が終わっていないのに武器を試させてはなめられます。我々がなめられるということはつまりあなたがなめられると言うことだ。ドン・フェンネルのしまで商売してる我々が甘く見られるってことはあなたが甘く見られることに他ならないからですよ」
「話は分かる。君たちも私の組織の一員だから、君たちが独自に持っている組織やネットワーク上で行われるビジネスは私のビジネスでもあるというんだろう? そしてその逆もまた然りだというんだろう。まさにその通りだ。しかし私にも商売がある。私にも元請けがいる。君らが参入するまで、宇宙一の武器を扱うのは私の元請けだった。しかし三年前君の作った武器は他の武器をゴミに変えた。だから私は君たちをとりたてた。多少無茶をしても大目に見てきた。それでも今回の結果は受け入れ難い」
「悪いと思ってますよ」
もうどうは少し不機嫌そうに首を傾けた。
「それは当然だ。しかも問題はそれだけじゃない。君らはまだ宇宙の地下社会に参入して日が浅い。にも関わらず市場をほとんど独占している。それをよく思わない連中の存在は知っているだろう。今回の事件が知れれば彼らは勢いづく。君を追い出そうとするかもしれん。勢力を失いかねないぞ? 特にサンボーンのしまがある北側で」
「あなたの元請けや他の組織とは合意があります。攻撃するようなことはしてこないはずです」
「それは知ってる。確か他の組織や業者に仕事と金を分配するというようなものだったか。だがそれにも問題はある。今やこの戦争に参加していない犯罪組織はない。私はしていないがね。まあなんだ。彼らは不満なんだよ。若造の君から武器や金や仕事をもらわなければいけないだけでなく、君の武器がないと勝てないということにね」
「それこそ俺の知ったことじゃありませんよ。嫌なら俺から武器を買わなければいい。一丁前に戦争に一枚噛むからには俺の武器が必要だ。俺を敵に回すということは戦争で不利になるということですよ」
「まあそうだろう。だが安心しろ。元請けも説得した。ベッツィ以外は皆納得しているし私は怒ってはいない。サンボーンの連中が失礼だっていうのには賛成だからな。取引作法を弁えていないというのも事実だ。私はこれからサンボーンと食事をする。組織間での話し合いだよ。できれば君にも出席してほしいんだが」
「遠慮しますよ。ベッツィは納得していないんですか」
「ああ。パッツィオ・ファミリーのドン・ベッツィとは犬猿の仲だ。昔からな。先の選挙で奴は当選した。組織の合法化を図っているが私への邪魔立てはやめない。一度大きな戦争もしたが、まだ懲りないと見える」
「……クソ野郎ですよ。俺にも寝返らないかと打診してきた。礼として営業所を三つ吹っ飛ばしてやりました」
フェンネルは笑った。
「まあまあ、それはいい。それより君の組織にもを相談役を入れたほうがいいぞ? 良い組織の共通点は、相談役が有能なこと、そして長の人柄が良いことだ。私の組織の相談役は宇宙一だ。そして私の人柄も宇宙一だ」
フェンネルが笑うのにつられてもうどうも笑った。愛想笑いだろう。
「ああ……。あと、それとだね」
フェンネルはもうどうの耳元に首を近づける。
「今回の件だが、少し妙な点が浮上した」
「妙と言うと?」
「ああ。サンボーンの連中に、君たちの噂を吹き込んだ連中がいるらしい。しかもたちの悪いことに取引を決めた後にだ。そしてもっとたちの悪いことに、それは君の組織内の誰かだ」
きつしは視線をフェンネルに向けた。
「……どんな噂です?」
「なんと言ったらいいかな…………。君たちが、例外を認めるというような……そういう甘い業者であると。そういうことだよ」
「ドン・フェンネル。はっきりと言ってくださいよ」
もうどうが噛みついた。
「ああ、だからだね……。君たちが相手を選んで商売をするといった内容の噂だよ。相手によっては、例外を認めて、送金が終わる前に武器を試させてくれると、逆に言えばその程度の業者だとね。分かるだろう。例外を認めると言うことの意味が。きっちりと体系化された手順がない業者だと、甘く見られているのだよ」
「俺たちの組織の誰かが俺たちの評判を落とそうとしてるってことですか」
「私たちの評判だ。それで、サンボーンが取引を決めてから連絡した相手を調べた。通信は完全に暗号化されているが、君なら簡単に解くことができる」
フェンネルは着物の裾から折り畳まれた、一枚の紙をもうどうに手渡した。
「これが、サンボーンの連絡した相手のリストだよ」
「待ってくださいよ。裏切り者を探せと? どうして俺たちの組織にいると分かるんです」
「起こり方が妙だ。他の組織の仕業ならもっと直接的なはずだ。しかし回りくどいとは思わないか? わざわざ評判を落とそうだなんて。内側の、中枢にいる者にしかできない」
「……裏切り者ですか……」
「そうだ。君の組織の、ひいては私の組織の危機だ。もっと言えば私の元請けの組織の危機でもある。情報漏れがあり、誰かが評判を落とすような噂をささやいているとしたら早急に対応せねばならない。もうどう、もうどう。頼むぞ。探す方法は問わない。君のやり方で、いつも通りやってくれればいい」
語尾を暗くして言い終えると、フェンネルはボディーガードにつきそわれて消えた。
もうどうはしばしそのまま考えるようにして立ち尽くしていた。何を考えているかを想像することは簡単だが、どう思っているか想像するのは難しかった。もうどうは単純な男ではない。裏切り者がいることを知って始末する方法やコストなどを考える反面、少し違った感情もあったに違いない。誰が、どうやってどうして。傷ついたココロにさらなる刃が降りかかることは残酷だ。この宇宙では残酷なことが起こるのだ。自分にだって関係ないことでないのだ。もうどうの組織は自分の組織だ。二人で作り上げたネットワークにビジネスに。何もかもが自分たちのやってきたことの結果なのだ。今それが崩れようとしている。もうどうのように上手に動揺を隠せないことは分かっている。だから意識的に冷静に考えるようにしようと思った。
もうどうはクラスの方に向き直る。視線は尚も自分たちに向けられている。
「なんだなんだ。お前らに関係ないだろ。特にそこのクソ教師」
もうどうは長い中指で教師を指した。
「お前俺がさも異常者みたいな感じで見てるけどお前の方がやばいからな。俺は有能と無能を区別しても差別はしない。宇宙ではマイノリティやらメジャーやらsなんて概念はない。なぜなら一人一人が個性を持った有機体だと考えられているからだ。地球のような劣った考え方はしない。不安を消すために集団を作ってそれ以外の奴らを排除しようとするなんて火あぶりものだぞ。調子に乗るなよ」
生徒たちはまだ訝しげな目を向ける。一応言っておくとこの目はもうどうにだけ向けられているわけではない。自分にもしっかり注がれている。
「だから、何なんだよその目はよ。修学旅行費を盗んでコーヒーメーカー買ったって自白したんだぞ、どう見たってそっちの方がやばいだろ」
依然変わりなく、視線は二人を攻撃する。
その日は嫌な視線を浴びながら六限目まで終えた。家には帰らず地下で残務処理と、同僚への説明をした。取引が失敗したことは思った以上の悪影響をもたらしていた。早くも喉通りの悪い人員が
もうどうは必要なくなった武器のスクラップをしていた。一晩中、グラスに一輪のオレンジが挟まったオレンジジュースを飲みながらよく分からない歌を歌っていた。時々パソコンのモニターを見ては目を細めていた。人員を整理して、誰が裏切っているかを定めていたようだった。
書類と電話の対応に時間を取られすぎたせいで睡眠時間が著しく短くなってしまった。
結局地下の長机で目を覚ました。もうどうはいなかった。また、どこかをぶらついているようだった。呆れながらも怒りはなかった。机の上に散らばった書類。こんなことがあった次の日はどこかでほうけたくもなる。車庫の隣のバスルームでシャワーを浴びて、身支度を整えるとシャツを取り替えて、教室へ向かった。
嫌な視線はまだ消えていなかった。
始業してももうどうは現れなかった。
四時限目。授業は地学。担任が担当する科目だった。もうどうがいないことを指摘しては鬼の首獲得モードできつしを攻撃した。取引が失敗したり、裏切り者がいることを告げられたり、頼み事をあっさり断られたりしたせいでさすがに軽く流せなくなっていた。何度目かのいびりで本気の舌打ちをしてしまった。教室が凍りついた。後で鈴音から聞いたところ、「普段穏やかな人が怒ると怖い」とのことだった。
四限目を終えるチャイムが鳴ると、教師はそそくさと出ていった。
昼休みになるとどのクラスも廊下も騒がしくなる。食堂ががとても暖かいことから何も買わない生徒も無駄に集まってきて、コンサート会場の様相を呈する。
取引相手をドン以外皆殺しにした。時間が経つと意味がのしかかってきた。
今まで受注した仕事は全て完璧にこなしてきた。それで莫大な利益を上げ、宇宙でも有数の評判を手に入れた。「コバヤシもうどうの作る武器は宇宙一」この言葉を業界の誰もが言った。仕事だけではない。個人的な取引。物件の売買契約や他の組織や会社の買収手続きなんかも全て引き受けていた。もうどうはものだけ作っていればそれでいいだろう。
しかし仕事の受注、書類の用意、クリーン口座の保持、金の選択の手続きなど、事務的な全てをやっていたのはきつしだ。これからの残務処理や他の取引相手に出す声明を考えるのもきつしだ。
噂を流して仕事が失敗するように仕向けた奴がいる? しかも身内に?
両肘を机について頭を抱えた。胸騒ぎ。胃の辺りに重いものが生まれる。これからの仕事はどうなる? 今まで必死に守ってきたネットワークや組織は。これが引き金になって全てを失いかねない。
裏切りは今までもあった。若くしてこれだけの組織を築き上げた自分たちをよく思わない連中は少なからずいる。そして部下たちにも少なからず、若造に使われるなんて馬鹿らしいと思っている者がいた。今まで裏切りがあればその度に徹底的に対処してきた。雨漏りを直すには、床にばけつを置くだけではいけない。屋根に登って修繕しなければならない。他にも漏ってるところがないか探さなければならない。それだけではだめだ。時には屋根ごと変えなければならない。
三年前業界に出て最初に学んだことは、ある一つの暗黙のルールだ。「利益を上げるためならばどれだけ卑劣なことをしてもいい。どれだけ悪いことをしてもいい。しかし仲間の評判を傷つけることだけはしてはならない」今回の裏切り者はそのルールを平然と破れるほど大胆で緻密であり、今や宇宙の犯罪市場では誰も知らない者がいないほどの自分たちの組織を敵に回しても身に危険が及ばないと考えている人物。それでいて金もコネもふんだんにある者だ。間違いない。
周りがどんどん騒がしくなっていく。思考が中断されて嫌な気持ちだけが残る。
きつしは普段、昼休みには「地下」に行ってもうどうと仕事の話をしながら軽いものを食べるのだが肝心のもうどうがいない。午前中に様々起きすぎて食欲もなかったから、地下で書類でも見ながらさっきから携帯にかかってきている、同僚からの電話を処理することにした。席を立つと、足が床をこする音が近づいてきた。
「大丈夫?」
鈴音は笑顔を見せながら言った。顔を見てすぐにかわいいなと思える相手がいるのはこの上なく幸せなことだ。仕事は失敗する、相棒は急に消える、周りからは冷たい目で見られる。もうこのまま鈴音を抱きしめて死んでしまおうか。明日が今日よりも良い日だとどうしても思えないのだ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、きびしいかな」
バレバレの作り笑いを浮かべてそう返すのがやっとだった。
「小林はまたどっかいっちゃったわけ?」
手に弁当を持っている。きりんがプリントしてあるランチョマットに包まれた小さな弁当だ。
「そうだよ。も、も、も、も、も、もうどうってどうしていつもああなんだろうね。どんな大変な時でも自分のことしか考えてない」
「なんかあったの?」
「し、し、し、し、仕事のことは話さないよ」苦笑いしてみせる。「君を巻き込みたくないしね。大体想像で分かるでしょ。な、な、な、な、何をしてるかは」
「小林が武器を作って取引したけど、色々こじれて失敗しちゃったのね。しかも失敗の原因は身内?」
「ど、ど、ど、ど、どうして知ってるの」
「想像よ」
鈴音は勉強は苦手だが時々、もはやテレパシーめいた想像でものを言うことがある。半年以上付き合っていても慣れない。
「ああほんとに……」
「ねぇ、ほんとにだいじょうぶ? 死んじゃいそうなんですけど」
鈴音の口調から冗談ではないことは分かった。
「おい、きつし」
席の隣の窓が急に割れた。パリーンやガシャーンといった音ではない。ばきぃ、という例えるならそういう音だった。
「おぉおう。きつしとくそ出っ歯。ちょうどよかった。ちょっと付き合えよ」
もうどうは教室のガラスを破って、空中で一回転すると、肩にガラスの破片が突き刺さったまま言った。
「は?」
「歯じゃねぇよ。俺は虫歯は一つもねぇ。そっちのくそ出っ歯にはあるかも分からんけど」
「い、い、いやそうじゃなくて、なんでガラスを?」
「こういう登場一回してみたかったんだよ。よくあるだろ。バットマンとか思いっきり回転しながらガラス突き破ってくんだろ? あれをやりたっかたんだよ」
案の定、教室に残って弁当を広げていた生徒たちの目は不審一色に染まり、もうどうに注がれる。全く気にする様子は見せず自分と鈴音の腕を引っ張ると、教室から連れ出す。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。どこに連れていくのさ」
「想像してみろ」
「子供を作ったから見せようと地下に連れていくつもり?」
足を止める。
「このくそ出っ歯何で知ってるんだよ」
「知らないよ。想像しろっていうから想像したの」
階段を降りて下駄箱を抜ける。くすのきに一瞥をくれて食堂を通り過ぎる。門の外にいつもはない黒いセダンが停まっている。後ろで視線を感じて目を向けると、食堂の入り口に利恵菜がいた。他数人の女子に囲まれて中身が分からないどんぶりを抱えている。
目つき。今から三人でどこ行くんだ。何するんだ。どうして一番もうどうと関わりが長い自分が腕を引っ張られてなくてお前らが連れられてるんだ。
嫉妬。執念。もうどうへのただならぬ感情。きつしは密かに背筋を震わせた。
薄暗い通路に入って誰も使っていない更衣室に入る。機械的に壁を開け、階段を出現させる。
「出っ歯はそこに座れ」
「出っ歯じゃないし」
「おぉおう。鏡見たことあるのか? なんならそこにあるぞ。見てみるか? あ?」
「い、い、い、いいすぎだろ。それで、なんのようなの」
「さっきこのくそ出っ歯がそ、う、ぞ、う、してただろ。お前らのガキを作ってやったんだよ」
「ほんとに」
きつしは思わず机に思い切り両手をついた。
「驚き方が怖いな。まあついてこいって」
ラックが並ぶ壁のとなりに奥の部屋へ続く扉がある。扉はこの地下にあるどれよりも大きく、常に開け放されている。その部屋は明るい照明で満たされており目が痛いぐらいだ。壁や床、天井も白い。ここでは生物学的な実験やら発明やらをするそうだ。もうどうに続いてきつしと鈴音も部屋に入る。
「この部屋は、まあ人体実験スペースだよ。きつしはともかく出っ歯、お前には想像もできない科学がこの部屋では行われている」
水道や冷蔵庫のような保管庫が多数。緑やオレンジ、青や赤色の液体が入ったガラス瓶。培養液、金属張りのベッド、司法解剖部屋のような印象を受ける。歯医者にあるようなライトからは黄緑色の光が出ている。ただ照らすだけのものではないことは一目瞭然だ。
「お前らのDNAはすでに保存してる。きつしが死んだら俺が困る。出っ歯が死ねばきつしが動揺する。きつしが動揺すれば俺の仕事に差し支える。よって二人ともが死んだら、クローンを作れるように保存してある。それが」
冷蔵庫から、ラップがされたペトリ皿を二枚取り出す。血液が保存されている。ラップの上のラベルに「きつし」「出っ歯」と手書きされている。
「こっちがきつし。こっちが出っ歯」
左手に持ったペトリ皿と右手に持ったペトリ皿を見せる。
「血なんていつとったの」
鈴音が眉をひそめながら言った。
「お前が寝てる時にな。目一杯楽しんだ後に注射器で」
「おい、そ、そ、そ、それはダメだろ」
「ああ、冗談だって。こんな出っ歯ではできん。とにかくだな」
「何を楽しんだの」
「き、き、き、気にしないで。ふざけてるだけだから」
「まあとにかくだな。この血液からDNAを抽出してデジタル変換して、コンピューターに取り込んだ。人間の長くてくだらない歴史の中でDNAがどのように遺伝するのかを分析して確率化するプログラムを作った。そのプログラムでランダムにDNAの掛け合わせを行った。次はそのDNAをアナログ変換して受精卵を作った。光反貌物質を加えて赤ん坊に成長させた。そして? これが出来上がった子供だ」
冷蔵庫から布がかけられた培養液を持ち出す。ベッドの上に置く。
布を取る。
緑色の溶液の中で、ぷくぷくと小さな泡を吐いている、ソフトクリームのような胎児。
自分の子供。小さな背中を丸めて小さな両手で小さな両足を抱えるその生き物。自分の子供なのだ。
鈴音はすり足で培養液に近づいて手をついた。
出産ドキュメンタリーというものを見たことがある。母親が出産の末、初めて我が子と 対面した時は正直なところ作り物の匂いがすごかった。映像を見てすすり泣くタレント、号泣する母親と赤ん坊、感動的な音楽ともったいつけたナレーション。どうしてもテレビカメラから通して見る映像では、映画やアニメと同じ感動しか得られなかった。
番組終わりに、クレジットの後ろで母親が保育器越しに我が子を見る映像が流れた。
透明なプラスチックだかガラスだかに手をついて上から我が子を見つめる。その目は完全なる母親だった。今までお腹の中にいた我が子だ。痛みを乗り越えてこの手にした我が子を俯瞰する。その目を見た時、自分は静かに泣いた。そこからは作り物の匂いはしなかった。純粋な「なまもの」鮮やかな自然さ。母が子を見つめる目。それにはなぜだか何事にも変え難い美しさがあった。何物にも変え難い感動があった。
鈴音は培養液の中の子供を見つめていた。
「どうだ。お前らの子供だ。男の子だ。そこに、ボッキペニスがあるだろ。抱いてみるか」
「あ、ああ。な、な、な、なんて言ったらいいか」
「我が子と対面してもどもるんだな」
「ありがとう、もうどう」
「いや、こんなの暇つぶしだよ。おい勝手に開けるなって」
鈴音はどうやったか、培養液のふたを開けて黄緑色の液体にまみれた子供を抱いていた。鈴音の腕が培養液で濡れる。床に培養液がこぼれる。赤ん坊は泣き出す。きつしにはその泣き声が、記憶にある鈴音の笑い声と同じに聞こえた。
きつしは泣いた。淡々と泣いた。自分が何者であるかということも忘れて。ここがどこか、何があった後か、もうどうのことすらも忘れて泣いた。涙は出ていない。ただ、あふれた感情が顔中で氾濫していた。涙にならぬ感動の震えで、立っていられなかった。
その子は自分の子供だ。自分は父親になったのだ。母親は泣き声を聞いて我が子を判別できるという。きつしも、その時それに似た確信を持っていた。
「まあ説明しておくと」
もうどうの声も聞こえなかった。すぐに鈴音に駆け寄り、右手を鈴音の肩に置いて左手を赤ん坊の濡れた頭に置いた。赤ん坊は鈴音の腕の中で四肢を振り回して泣いていた。左手でどうにか、鈴音の顔を触ろうとしている。その手に鈴音の涙が落ちる。
「そいつは確かにお前たちの子供だ。生物学的に正しい遺伝により生まれた。栄養も十分だし、今日生まれた他の赤ん坊と何ら変わらんだろう」
もうどうの足音が近づいてくる。
「ちょっと落ち着けって。ちゃんと説明聞いとけ」
もうどうは赤ん坊を取り上げると金属のベッドの上に寝かせる。
「かわいそうでしょ、そんなところに寝かせたら」
鈴音はすぐさま抱き上げる。
「うるせえなあ。母性氾濫くそ出っ歯が。じゃあきつし。お前はちゃんと説明を聞いとけ」
「説明があるのかい? ほ、ほ、ほ、他の赤ん坊と育て方が違うのかい?」
「いやぁ、そういうわけじゃないが。注意点がある。出っ歯。おい出っ歯」
「なによ」
「赤ん坊の腕を触ってみろ」
鈴音は言われた通りに赤ん坊の左腕に触れる。
「なんなの?」
「どんな感じだった」
「どんな感じって、その、わたしと同じような感じだけど」
「そうだろうな。じゃあ耳たぶを障れ」
言われた通りに耳たぶを触る。
「別に、なんともないけど」
「だろうな。いいか? そいつは確かに人間だ。クローンでも何でもない。普通の人間の赤ん坊だ」
もうどうは目を瞑って語気を強める。
「所詮その赤ん坊は作り物だ。科学は万能じゃない。そいつがどういう風に育ったとしても誰にも責任はない」
「わたしたちが育てるんじゃないの」
「その通りだ。だが人はなるべきものになる。お前は出っ歯に。俺は科学者に。その流れは誰にもいじくれんものだ。我が子に期待なんかするな。過剰に干渉するな。その子の好きなようにさせてやれ。子供が科学をやりたいと言ったら無理にバイオリンなんか弾かせずにそうさせることだ」
「……何の話?」
鈴音は舌足らずにそう言ったが、きつしははっとした。
「何でもない。重要なことだから言っておくが、そいつはお前らの遺伝子を半分ずつ持ってるんだ。だからどうなろうがそれはお前らの一要素の拡大化にすぎない。だからもし自分たちの期待外れに成長しても文句はいうなよ。これは」
もうどうは金属ベッドの下から怪しげな黒いダッフルバッグを持ち出した。
「この中には赤ん坊の情報が入った物理フォルダや育児に必要なものが一式入ってる。当分はこれで事足りるだろうから」
バッグをきつしに押し付ける。
「ありがとう」
「育てる場所も手配してある。家からも学校からも近い。住所を渡しておく鍵はカバンに入ってる」
もうどうは住所の書かれた紙切れを手渡す。
「ありがとう」
「じゃあくそみたいな育児生活を楽しんでな。ていうか出っ歯。お前、親には何ていうつもりだ。さすがに四六時中母親が一緒にいないのは子供がかわいそうだ」
「ほ、ほ、ほ、ほんとだ、どうしようか」
「修学旅行ってことにするわ」
「想像力があるなら発揮してみろ。そんなんで通ると思ってるのか。もういい、出っ歯のクローンを作って生活させよう。当分はそれでいいだろう。大事なことだから口をすっぱくしていうが、変に期待するな。それにその時分で子供を持つなんて間違ってるんだからな。あとで俺に『だから言ったのに』って言われないようにしろよ」
「ああ、ありがとう?」
「てめぇ、出っ歯。てめぇのことだろ。なんだその返事は」
「だっていきなりクローンとか培養液とかよくわかんないんだもん。あと説教はうざい」
「分かった、分かった。理解しなくていいからもう消えろ。ほら、とっとと育児でも家事でもしてこい」
鈴音は泣いた赤ん坊を抱いたまま部屋を出た。
きつしはバッグを肩にかけた。
「も、も、もうどう。ありがとう」
「別にいい。ただの暇つぶしだ」
「これから君はどうするのさ」
「フェンネルの言う通り、裏切り者を見つけて始末する。そのために今からサンボーンが取引を決めてから通信した相手を調べる。かなり複雑に暗号化されてるが、まあ大丈夫だ」
「て、て、て、手伝おうか」
「ポーズだけの言葉はいらない。早く、あの出っ歯について行ってやれ。二人で愛を育むんだろ」
「そうだね。ありがとう……」
扉を目指す。部屋を出ようとして、やめる。
「あの、さっき言ってたことだけど」
「なんだ」
もうどうは床にこぼれた液体に雑巾を投げていた。
「あ。あ、あの、教育のくだり。人はなるべきものになるって。。子供が科学をやりたいと言ったら無理にバイオリンなんか弾かせずにそうさせることだって言ってたでしょ。あ、あ、あ、あれは君のことかい」
「いや」
「ほんとに? き、き、き、君とご両親の間に色々あったのは何となく分かるけど、もし辛くなったら、ぼ、ぼ、僕に話してくれていいんだよ」
「さっき否定しただろう。あれはただの例え話だ。世に親なんて五万といる。そういう親
もいるだろうという推測だ。そしてお前らはそうなるべきではないという戒めでもある」
「ああ。そ、そ、そうなの。分かったよ」
「さっさと行け。俺は忙しいんだよ。当分はお前が隣にいない仕事を楽しむさ」
「そ、そ、そっか。ありがとう。じゃあ、もう行くね」
きつしは部屋を出た。鈴音がドアの前で待っていた。
パスコードを入力する。「1216」
鈴音は駆け足で階段を登っていった。後を追う。少し変な気持ちだった。もうどうのあの言葉。否定されても何を言われても、頭から離れなかった。
正直、退学になったり教師に怒られたり、どうのこうのというのはもう、どうでもよかった。親になるんだ。
住居もある。学校から徒歩一キロ圏内の一軒家だった。こんな物件を契約した覚えはないからきっともうどうが一から作ったか、勝手に買っていたか。
住所を画像検索する限り、住宅街に佇む小さな家屋という感じだ。それも奥まった場所にあり他の民家やマンションで囲まれて、外側からは完全に見えない。玄関までの道のりは広いが公道から住宅地の通路に入って右に曲がる必要があるため複雑であることには変わりはない。
とりあえずおくるみをしようと思って、更衣室でダッフルバッグのファスナーを開けた。大きな今治のタオルがあった。とりあえず我流で子供をくるんだ。ダッフルを開けた時に真っ先に目に入る紙があった。「正門のすぐのところに自動車が停まっているからそれで家まで行け」という内容だった。その下の封筒には鍵が入っていた。
「運転できるの?」
「で、で、で、できるよ」
「ほんと?」
「ほ、ほんとだよ。どもってるだけで別に焦ってるわけじゃない」
泣き叫ぶ我が子をあやしながらそっと更衣室を出て正門を目指す。まだ昼休みは終わっていない。人がいない時を見計らってそそくさと学校を出る。本当に車が停めてあった。黒いセダンだ。開錠して素早く滑り込む。
鈴音は赤ん坊を抱えて助手席に、バッグは後部座席に置いた。
すぐにエンジンをスタートさせて家を目指した。
学校の周りは商業施設が多く、常に人で賑わしている。正門を出て真っ直ぐのところにファミレスがある。道路を挟んだところにはイタリア料理の専門店もある。その隣はクリーニング屋だ。そしてそのまた隣は居酒屋。ファミレスの隣は信号があり、渡るとラーメン屋がある。隣は月極駐車場。隣はスイーツショップ。その隣は格安スーパーマーケット。その斜向かいはレンタルビデオショップだ。ついでに言うならそのビルの二階はリサイクルショップ。色々と恵まれている環境だが家はその序列にはない。信号を渡って鳴尾駅の方に向かう。商業施設地帯を離れて閑静で色味のない住宅地を走る。住所の向かい側の駐車場も世話されていた。車を停めて、赤ん坊と荷物を抱えてそそくさと玄関に向かう。玄関までのみちのりは広くて通りやすいがドアが奥まっているせいで結局、狭い通路を通る労力と変わらない。
車の鍵が入っていた封筒に家の鍵も入っていた。
グレーの金属の扉を開ける。玄関はそこまで広くないが廊下は長い。ドアの数も多い。
一番奥のドアがリビングに通じるものだろう。
泣き叫ぶ我が子を抱えながら、きつしはドアを開ける。右側にシステムキッチン。正面に白いレースカーテンのかかった大きな窓。深緑のカーペットが敷かれており、左側の壁にはテレビがかかっている。座卓やソファも用意されている。家の中はそこまで寒くはないが、暖房はつけておく。
「中々いい感じの家じゃない」
「そ、そ、そ、そ、そうだね」
バッグを置いて、ソファに子供を寝かせる。
「ちょっと。ソファに寝かせたら寝返り打った時に落ちちゃうじゃん」
「え? そ、そ、そ、そうなの?」
「そうだよ」
鈴音が右手の人差し指を振り回した。きつしは急いで子供をカーペットの上に寝かせた。
「ず、ず、ず、ずっとこうしておくわけにもいかないね」
「そうよ。バッグの中は何が入ってるの?」
きつしはダッフルバッグのファスナーを開けて、中をまさぐる。タオルが二、三枚、哺乳瓶、粉ミルク、おむつ、注射器ケースとオレンジ色の筒状のピルケース。中には錠剤が入っている。ラベルには「抗ヒスタミン」とある。何に使うんだか。十中八九もうどうのおふざけだろう。
「ほ、ほ、ほ、哺乳瓶とかこ、こ、粉ミルクとかおむつとかはあるけど」
「毛布とかはないの?」
「な、ない。た、た、た、タオルが二、三枚ぐらい」
子供はまだ泣いている。しわくちゃの顔をもっとしわくちゃにして、両手を振り乱している。
「お、お、お、お腹でも空いてるのかな」
「ミルク作ろうよ」
「そうだね」
きつしはバッグから粉ミルクと哺乳瓶を引っ掴むと、キッチンテーブルに置く。キッチンの設備も整っている。ゴミ箱の上に空のペットボトルが何本かある。冷凍庫を開けると、ドライアイスが座っていた。鍋にフライパンに炊飯器、ケトル。戸棚を開けてみる。箸やスプーンもきちんとある。シンクに水を流してみるとちゃんと出た。せっけんもタオルもある。手を洗っておく。
「み、み、み、み、水があればいいんだけどな」ミルクを作るにはきっと水が必要だろう。
冷蔵庫を開ける。右の収納に2Lミネラルウォーターのペットボトルを取り出してケトルに注ぎ、スイッチを入れる。
鈴音が子供をあやしている。小さな手を握って微笑んでいる。
「な、な、な。名前、どうしようか」
「ほんとだね。名前がないと呼べないもんね」
「な、な、な。何がいいかな」
「きつしジュニアとか?」
鈴音は自分のジョークで笑いを我慢をできなかったようだ。
「な、な、な、な、なんでだよ」
「でもよくない? よくあるじゃん。きつし二世みたいな感じで。だからきつしっていうのもいいかもよ」
「い、い、いやだよ」
「じゃあかつしは? ほら、漢字の『勝』に『士』かっこよくない?」
「いいね、そ、そ、そ、それ」
ちょうどお湯が沸いた。粉ミルクのパッケージの裏に書いてある作り方を見る。すりきり一杯分を哺乳瓶に入れてお湯を入れればいいらしい。引き出しを開けてみる。はさみがあった。粉ミルクのパックの、はさみマークが描かれている部分をまっすぐ切る。チャックを開けてすりきり一杯を哺乳瓶に入れる。
「ちょっと待ってよ」
鈴音の声がする。手を止める。
「ど、ど、ど、どうしたの」
「最初に哺乳瓶に入れるのはできあがりの量の三分の二よ」
「そ、そ、そ、そうなの?」
「家庭科で習ったじゃない。
「あ、あ、あぁ……そうなの?」
鈴音は呆れたように上を向くとすり足できつしの隣に来た。
「それより、この哺乳瓶消毒したの?」
「え? わ、わ、わ、わかんない。バッグに入ってたのをそのまま使ってる」
「だめじゃないのよ。ちゃんと消毒しなきゃ」
「ど、ど、ど、ど、どうやって消毒するの」
「鍋で煮るの。水が沸騰してから三分から五分ね。それにプラスチック製は変形する恐れがあるから最初は水につけて鍋の底につかないようにするのよ」
「な、な、な、な、なるほどね。よく知ってるね」
「家庭科で習ったでしょ」
仕組みを理解すれば支配するのは簡単だが。その仕組みは複雑で入り組んでいる。様々な生物の利益と私欲とが。かくいう自分も利益を追求するために入り組んでいる一人である。
もうどうは自分でも意外なぐらいに気楽に、車を運転していた。窓を開けて外に腕を投げ出すということはできないから、椅子を少し倒して鼻歌を歌いながらハンドルを握る。
「宇宙での軍需」というレッドオーシャンで頭角を現し、生き残って頂点を目指すには自分なりの方法や秘訣がある。それも一つや二つではない。大切なのは「組織」の存在だ。
体系化されたグループのことではない。契約だ。厳密にグループの一員というわけではなくともいつでも仕事を発注できて、何よりも最優先で最高の結果を出してくれる者を集めることだ。それには金と忠誠心が必要だ。この二つは似て非なるもの。時々忠誠心を金で買う者がいる。これはタブーだ。損得勘定の上に成り立つ主従関係ほど簡単に崩れるものはない。大切なのは友情、思いやり、助け合いだ。もちろん恩を売ることもある。これも安売りは禁物だ。価値が薄れていく。
今向かう先にいる相手にはその恩を売ってやった。ギャンブルでこさえた大きな借金を消してやった上に家のローンも払ってやった。当分の生活費も都合したしアルコール依存のリハビリ費用も出してやった。休日には家族で出かけられるように車も買ってやった。おかげで彼は離婚を免れ、今は幸せに過ごしている。見返りは声をかければいつでもすぐに自分に協力することだ。
金星を通り過ぎたあたりにヨルダン星座がある。この星座は何千年か前には惑星帯だった。小惑星の集まりなんかではない。地球のような、文明が発展した大きな惑星がゴロゴロ集まっていたらしい。しかしある時点で、中心に存在していた太陽が爆発して全てがちりになった。太陽のあまりの熱さに、真空空間でも完全に冷却されず以降何百年かは惑星の破片が光っていたらしい。その光はやがてお互いに干渉し合い、また一つの文明となった。
あまり知られていないが一つの星座の中には一万を超える文明が存在している。
宇宙電力供給通信会社もその文明の片鱗だ。宇宙中に張り巡らされた通信電波網を管理する会社。あの会社に入れば人生安泰と言われるような大企業。今のところ地球以外の全ての惑星、星座はこの会社の通信網に頼っている。地球がいつまでたっても宇宙人と接触
しなかったり、宇宙人が地球を見つけられない理由の一つとして知的レベルが低いことが挙げられる。宇宙に存在する知覚生命体は本能的に知能のある生物を見つけることができる。近年では知覚生物を見つけることのできる機械も(その機械はすでにもうどうがわずか十一歳の時に作ったものだった)ようやく実験段階に入った。地球の生物にはそういう能力がないのだ。だから宇宙人と接触することができない。
ヨルダン星座の惑星は異常気象により、年に数回は滅亡の危機に瀕しているが科学(もちろんその科学はもうどうが非公式に供給したものも含まれる)の発達により危機はただの学説になりつつある。
会社の近くまできた。軍隊にの行進が行われている。ヨルダン星座は政府側で戦っている。今のところ彼らの担当する戦域では優勢のようだ。
アルコールのリハビリ施設の外で会う約束をした。
薄黄色の空の上では車が走り回っている。赤色の雷がちらついている。町中高層ビルだらけだ。
リハビリ施設の駐車場に停めた。普段はつけていないナンバープレートを、トランクから出してつけておく。いらぬトラブルは避けたいものだ。ナンバーは「S1216」
施設に入る。騒がしいのなんの。診察待ちの者、受付にずらりとできた列。彼らは頭が極端に小さくて右手にだけ水かきがあり、身長がと知能がとても高い。巨人症には悩まされてきたがこういう時は恩恵を感じる。
奥の待合スペースのソファには点滴のパックを伴っている者、盲導犬を連れているものなどがぎっしり座っている。この病院を選んだのは設備が充実していること、患者の数からも分かる通り医療スタッフが優秀なことだ。
待合ソファの四列目に座っているらしい。
「ワイオミング」
「もうどう」
抱擁を交わす。水かきが背中に当たる。瓶底眼鏡、チェックに三角形が重なった模様のシャツのオスのヨルダン人だ。
「きつしはいないのかい」
低い声を出す。
「ああ、奴は育児ってやつで忙しいらしい。いやぁ、それにしても」
もうどうはワイオミングの腕を叩く。
「カシオペヤ座でのパーティは良かったな、ワイオミング。ビーチが人で溢れていて、丘陵地のほったて小屋でやりたい放題だった」
「あぁ、ほんとに。酒もあったし女もいたし」
「そうそう」
「君はグラスに一輪のオレンジが挟まったオレンジジュースをいくつも頼んでた。あの日を思い出すたびに、断酒が馬鹿馬鹿しくなってリハビリなんか辞めちまおうと思うね」
「おいおい、しっかり終えてくれよ。そのために高い金払ったんだ」
頬をぺちぺちと叩いてやると、ワイオミングは三角形の口角を上げた。
「ところで。娘さんは元気か」
「あぁ。おかげさんで。昨日もあんたが買ってくれた車で隕石の衝突を見てきたんだ。グロッグの奴も喜んでた。戦争犯罪で手配中の最重要逃亡犯には感謝しかないってね」
「いいんだよ、そんな。君と家族が幸せでいればね。何よりも君には元気でいてもらわなくちゃいけないから」
「あぁ、ありがとう。ほんとに。で、今日は何の用かな」
「実はね」
もうどうは、体をワイオミングの方へ向けると右肘をソファの背もたれに乗せて両手の指を組んだ。
「ある、仕事があった……。武器の売買だよ。結論から言えば失敗しただ。血が流れた。金も、武器も、時間も、全て無駄になった。俺と、俺の組織と元請けの信頼を失墜させる、実に致命的な失敗だよ。しかしながら、これはある者が密かに企てた陰謀だということが分かった。身内の者が、取引相手に俺たちに不利な噂を吹き込んでね。裏切りだよ。俺の組織の誰かが俺を裏切っている」
ワイオミングは大きな喉仏を上下させる。
「それで取引相手が、俺と取引を決めてから通信した相手を調べた。これがそのリストだ」
もうどうはネイビーのm65ジャケットのポケットから四つ折りにした紙を取り出す。
「複雑に暗号化されている。これの解析を頼みたい」
「全然いいけど、これくらいなら君でできるんじゃないか」
「俺は別の線で追う。数学と同じだ。複数の解き方を心得ておくことでより早く答えに辿り着ける」
「ああ、まあ、そうか。だが、君の取引相手は闇業者だろ? 僕たちが供給してる表のネットワークで通信なんかしてるかな」
もうどうはまた、ポケットに手を突っ込んで小さな封筒を取り出す。
「……これは……?」
「俺が作ったソフトウェアの入ったメモリだ。取引相手の通信アルゴリズムは非常に複雑で特異なものだがそれゆえに特定は容易だった。奴らは君らの供給する通信網で暗号のやりとりをする。その暗号はお互いで傍受し合って変換し、メッセージを解読する。その変換には違法の二層式暗号システムなどが使われている。言ってる意味分かるな?」
「あ、ああ」
「そこで、このメモリに入っているソフトは奴らの暗号化システムと二層式システムのソースコードだ。リストに書かれている暗号化された通信を照らし合わせて」
「暗号を解いて、うちのシステムで照会した後そのソフトウェアで逆引きすればいいんだね」
「そうだ。頼めるか?」
「君のためなら、もちろん。任せとけ」
「ありがとう」
もうどうは左手を差し出す。ワイオミングは右手を差し出す。二つの手は硬く握り合われる。
「じゃあ」
もうどうは立ち上がる。ワイオミングも立ち上がる。もうどうはそのまま出口へ向かう。
病院を出ると、赤い雷が光った。それから立て続けに三回ほど点滅した。
「結果が出ればすぐに教えてくれ」
「分かった」
「じゃあ、奥さんによろしくな」
「あ、ああ。ありがとう、もうどう」
もうどうはナンバープレートを取り外してトランクに押し込むと、車に乗ってエンジンをスタートさせる。
離陸する。
ふとバックミラーを見た。ワイオミングはまだ自分のことを見送っていた。
「こ、こ、こ、こ、これでいいかな?」
「上手ね」
鈴音は笑った。
腕の中のかつしは、哺乳瓶の乳首をくわえて、くっ、くっ、くっ、とミルクを飲んでいる。首があまり動かないのが気になるが。
「く、く、く、首を動かせないのかな」
「赤ちゃんて首が座ってないから、上向いたりできないの。ちょっと動かすのも難しいみたい」
「そうなの?」
「そうよ」
そうなの? 子供に訊いてみた。こっちを向きもしない。ミルクを飲むことに夢中で父親のことなんか気にもならないらしい。
「か、か、か、か、かわいいね、ほんと」
「そうよね」
「こ、こ、こ、この目元のところとか、きみに似てるよね」
「ほんと? 適当に言ってるんじゃなくて?」
「いや、ほんとだよ。ほ、ほ、ほ、ほんとに似てると思ってさ」
「そう?」
「そうだよ」
なんとかミルクはやれたが、まだ問題はある。寝かせるところがないこと。ダッフルバッグには雑にたたまれた毛布が何枚か入っていたがずっとそれを使うわけにもいかない。
ベビーベッドが必要だ。
「ず、ず、ず、ずっとこうしとくわけにもいかないよね」
鈴音を見た。
「まあ、そりゃそうだけど。バッグにさ、折り畳みのベビーカーとかベビーベッドとかないの」
「いや、な、な、な、な、な、なかったと思う」
「か、か、か、か、か、買いに行こうか」
個人の銀行口座にはもちろん大金があるが地球では引き出せない。地球の金は用意していることにはしているが別の場所にある。手元の財布には一万円と五百ぐらいしかない。きっとベビーカーやベビーベッドはもっと値がはるはずだ。
「とりあえず、ベビーベッドはいるわよね。ずっと床に毛布敷いただけのところに寝かせておくのはかわいそうだし」
「じゃじゃじゃ、じゃあ、ベビーベッドだけ買いにいこうか。どこに売ってるんだろ」
「ホームセンターとかに売ってると思う。あとアカチャンポンポとか」
「そ、そ、そ、そうなの。じゃあ行こうか。あー、だ、だ、だ、抱っこ紐ってどうやって使うんだろ」
「それも家庭科で習ったんですけど」
「ど、ど、ど、どうやるの」
「見てて」
鈴音はバッグから抱っこ紐を取り出すときつしの腹に当てた。きつしは一度かつしをリビングの毛布の上に寝かせた。哺乳瓶も机の上に置いた。
「ウエストベルトを装着するのよ。まずは」
鈴音はするするとゴムループを通して、ストラップを調整した。
「これで」
かつしを抱き上げると、背中が当たる部分にもたれかけさせた。きつしはかつしの背中を支える。
「膝を持ち上げながら脚を開くのよ」
「こ、こ、こ、こうかい」
言われた通りにする。脚も温かくて、ぶにゃぶにゃしていた。
鈴音は抱っこ紐で背中をカバーすると、きつしの頭にストラップを通す。
「それ、肩通すのよ」
右手を通して左手を通した。
「あとは」
鈴音はストラップの紐を引っ張った。
「どう? ちょうどいい?」
「も、も、もうちょっと緩めがいいかな」
「ほんとは、自分でやらなきゃいけないのよ」
「か、か、か、家庭科は苦手なんだ。それに、授業にはほとんど出てないし、し、し、し、仕事があるから」
きつしは脇のあたりに出ているストライプキーパーを浮かせて、多少紐を緩めた。かつしの腕と脚を抱っこ紐の外に出してやると、心地良さそうに動かしていた。お腹も膨れたようで泣き止んだ。きつしは本能的に体を左右に揺らした。かつしはきつしの脇にしがみついて何か、力を入れている様だ。手の硬直具合で分かる。赤ちゃん特有の特に意味のない行動のようだった。そしてそれがこの上なく微笑ましい。
ハンドリガード、という言葉を思い出した。家庭科の授業ではないがどこかで聞いたことがあった。赤ちゃんが自分の手だけをじっと見ることを言うそうだ。
眠っているかつしを支えたまま暖房を消すとダッフルバッグを引っ掴んだ。鈴音はすり足できつしの後についていく。
玄関の鍵を閉めて車を解錠しダッフルバッグを後部座席に投げる。携帯で近くのホームセンターを探す。甲子園球場を超えたあたりに一つあった。二キロ先。このあたりに住んでいる人間は大体甲子園球場を越えると「遠いなあ」と思ってしまう。それを抜きにしても、いつももうどうの車に乗っているからたかが三キロぐらいでも遠く感じてしまう。ベビーグッズを売ってる店を探した方が早いか。
ネットで検索をかけると二キロ圏内で二つ見つかった。甲子園駅に近い方と鳴尾駅に近い方がある。二つともショッピングセンターに入っている店舗だ。店舗ごとのレビューが掲載されている。ベビーグッズの品揃えはよさそうだ。ただ、甲子園駅の方はレビューを見る限り狭そうだった。鳴尾駅に近い方に行くか。
鳴尾駅前のライフを超えて高速道路下の信号を目指す。車を飛ばす。鈴音はしゃべらない。かつしが泣いていればそこから何か会話が始まりそうなものだがあいにくか幸いか、かつしは自分の胸の中で熟睡している。
パトカーとすれ違った。運転席にいたのはふてぶてしく口髭を生やした警官だった。日本の警官は髭を生やしてはいけないという話を聞いたことをなくもなかった。
信号で止まる。横目で歩道の信号が赤になったのを確認する。信号が青になる少し前にスタートする。まっすぐ行くとたちまちショッピングセンターの黄色い壁と、黒いフェンスの駐輪場が見えてくる。駐車場は駐輪場のすぐ隣にあった。正確には駐車場に向かうための螺旋状の道だ。屋上の駐車場の空いているスペースに停めた。太陽が照りつけて眩しいったらありゃしない。
ダッフルバッグは持って行かない。鈴音は車を降りると、眩しさに目を細めて両手を眉毛のあたりに上げていた。
眩しさを抜きにする、屋上の駐車場というものは中々男心をくすぐるものだ。どこか特別な感じがして良い。下を見たくなる。砂だ。中学校のグラウンドのようだ。商業施設の壁で囲まれている中学校なんてありか?
駐車券を取ってエレベーターに乗る。自分たちの他には誰もいない。ドアの上のフロアマップを見る。ベビー用品が売っているのは三階だ。
かつしはまだ寝たまま。
エレベーターはすぐに三階に連れて行ってくれた。
ベビー用品売り場、アカチャンポンポはロフトの真ん前にあった。そこまで混んではいないがすかすかでもない。
「ど、ど、ど、どんなのがいいんだろう」
「え?」
困惑したような鈴音の声が聞こえてくる。
「どうしたの」
「さっきパトカーとすれ違った時でしょ」
「そ、そ、そ、そ、そ、それがどうしたの」
「抱っこ紐しながらの運転は違法なのよ」
「そ、そ、そ、それも家庭科の知識かい?」
「いや、ショート動画で回ってきたの」
「そ、そ、そ、そうかい」
店に売っているベビーグッズは、なんというか進化していた。自分が使っていたものなんて覚えていやしないがとにかくこんなものがあるのか、と思わされるものばかりだった。AI搭載ベビーモニターや冷風ファン付きベビーカーシート。思わず手を伸ばしてしまいそうだ。店内で流れている音楽が「Dirty Deeds Done Dirt Cheap」だったのが少し気になったが。
細々したベビーグッズのあたりにはあまり人はいなかったが、ベビーベッドやベビーカーのコーナーになると人が増えてきた。少し視線が痛かった。きつしは長身だからなんとでもいいわけがたつ。しかし、制服姿の(リクルートスーツに見えなくもないが)鈴音はまだあどけない顔で、背も低い。子供を産んだようには見えないだろう。別に難しく考える必要はない。弟だか妹だかを産んだ母親を労って自分たちが買い物してるんですとか、いとこですとか適当な言い訳はたつ。
怪訝そうな視線には別段意識を向けずベビーベッドを探した。かさばらないものがいい。組み立て式のものが望ましいだろう。予算は一万円。正直その値段で売っているのかというのが最大の懸念点だった。
「これ、いいんじゃない」
鈴音が背伸びをした。上の段の、小さめの箱のものだ。
「よ、よ、よ、よく見つけたね」
自分の身長なら楽勝でとれるし、視認できるが鈴音ほどの背丈では見ることもできない。本当、毎日驚かしてくれる女性だ。
パッケージは赤ん坊と母親が一緒に写っているというありがちなものだった。
組み立て式のもので、大きさもちょうど良い。モビールなんかを備え付けることもできるようだ。赤ちゃんが勝手に出ることができないように柵の高さを調節することもできるようだ。裏を見てみる。組み立てには電動工具は一切必要なく、付属のネジとドライバーだけで簡単に組み立てが可能。折りたたむこともできて移動にも便利。値段は税込九千百十二円。
なんか、こう、胡散臭さが漂っている。
これだけの機能があってたったの九千円。他のものはもっと値段が張るが機能は少ない。良いものように思うが、体のどこかでアレルギーを示していた。取引的に言うと「話がうますぎる」というやつだ。まあでも、取引とは違って決断を誤っても死ぬことはない。ダメなら返品すればいい。一旦はこれでいい。
「こ、こ、こ、これにしようか」
「いいと思う」
なんか、含みのある言い方だったがにっこりしていたからかそこまで気にならなかった。
幸いなことにレジは混んでいない。カウンターは二つある。
「こちらどうぞ」
と言ってくれた方に行く。アルバイトだろうか、大学生くらいの若い女の人だった。メガネにポニーテール。奥では気難しそうな年配の女性店員がタグの確認をしていた。
「お品物お預かりします」
愛想の良い声だ。鈴音は少し後ろに下がった。変に怪しまれることを警戒してだろう。
デバイスに値段が表示される。店員から告げられる前に財布から一万円を取って青い皿のトレーの上に出す。
「九千百二十円なります。一万円お預かりします」
いかにもマニュアル通りの手続き。これがいい。この機械的なやりとりがいい。怪しみも訝しも、なにも含まないこの天然の声でいい。
「駐車券お持ちでしょうか?」
「も、も、持ってます」
馬鹿正直に駐車券を出す。これもいい。おそらく駐車券は持っているかどうか訊くのを忘れて今頃付け足したのだろう。このライブ感。このあくまでもマニュアルから抜けない感じ。とてもいい。このまま何もないまま、終われば尚のこと良い。
店員がレシートを切ったところで、奥の年配の女性店員と目が合った。特に気にせずにすぐに逸らした。
若い店員がレシートを渡そうとしてきた時、年配の女性店員がきつしは目の前に大きな手をつきだした。
「お客様、大変申し訳ありませんがこちらの商品、確認しましたところ身分証明証の提示が必須となっておりました。恐れ入りますが、運転免許証やマイナンバーカードなどご提示いただけますでしょうか」
後ろで鈴音が小さく声を出したのが聞こえた。
そうきたか。長身でごまかせると思ったが、しかしどうしてベビーベッドを買うだけなのに身分を証明しなければならないのだ。未成年だとして(実際そうだが)何か問題があるのか。抱っこ紐に赤ん坊を寝かせているし、何も怪しくない。重ね重ね疑問に思うがどうしてベビーベッドを買うだけで身分を証明しなければらないんだ。
「な、な、な、何か問題ありましたか?」
気になって訊いてみる。
「お客様、ご存じありませんか? 最近は反社会勢力が、稼いだお金を誤魔化すためにこういう安価なベビー用品を購入するんです。そういった犯罪を防止するためにもベビー用品の購入時はレジでの身分証明証の提示をお願いしております」
意地の悪い話口に顔。結婚指輪をしていない。独身か。大体分かってきた。
隣のレジに夫婦が来た。さっき見たAI搭載のベビーモニターを買ったようだ。運転免許証を見せた様子はない。すんなり会計をすませて出ていく。
「あ、あ、あ、あの人たちは提示しなくていいんですか」
若い店員が罰が悪そうに下を向く。いや、罰が悪いというよりは上司の嫌がらせを詫びるようだった。
「そちらの商品とは仕様が異なりまして」
後ろの鈴音がこづいてくる。焦っているようだ。
適当な言い訳でごまかせる段階はとっくに過ぎている。
きつしは、取引の場で見せるような無機質な表情を作る。二人の店員が少しく顔をこわばらせた。
「駐車券を持っていらっしゃるのですから、もちろん免許証は持っていらっしゃいますよね」
強がって、言ってくる。さっきほどは嫌味に聞こえない。
「…………」
きつしはなお、彼女の顔を見る。
制服のブレザーの内ポケットから「運転免許証」を取り出して若い方の店員に渡す。
底意地の悪い魔女のような店員は、その免許証を凝視する。
「中本大河」
もちろん偽名だ。ありとあらゆる可能性に備えている。車を運転していて警官を止められることだってあるだろう。そういう時に免許証がなければいらぬトラブルを招くことになる。
こういう時も然りだ。
まだ確認している。
公的機関に提出しても齟齬がないように作ってある。データベースで照会されても困らない。偽の記録を仕込んでいて、そこに行き着くだけだ。
魔女は疑いと狼狽の目を見せた。
「もう、いいですか?」
あえてどもらずに言ってみる。
「……失礼しました」
免許証を返してくる。鈴音の安堵のため息が聞こえたようだった。
レシートと駐車券、商品を受け取ってすぐに店を出る。
「死ぬかと思った」
「どうして?」
「だって……。あんな嫌がらせにあったの初めてだもん」
「まあ、そうだろうね。き、き、き、君のご両親に嫌がらせをしようだなんていう人はいないよ」
鈴音はため息をついて、きつしの手を握った。
とりあえずは、安心だ。
別の線というのは、自分の組織の人員の口座を調べることだ。身内が裏切る原因は色々あるが、その中でももっとも多いのは「鞍替え」だ。別の組織に乗り換える時、手土産として自分が元いた組織の評判を落としたり仕事を奪ったりするのだ。身内に裏切り者がいるとしたら、それはどこかの組織の誰かから報酬をもらって指示された可能性が高い。
もうどうは水星近くの小惑星へ車を飛ばしていた。腕時計は宇宙の磁界に対応できるように改造しており、地域によって時刻が自動で調整される。見ると「12時16分」だった。
組織の人員の情報は全て分かっている。あらかじめ裏切りそうな人員もリストアップしている。そいつらからあたるのも良いが、もっと確実な方法がある。火星、木星、おうし座、いて座には武器の保管倉庫があり、発注内容に合わせて発送できるラインが組み込まれている。そこは宇宙でもっとも金を産む場所だ。そこでは見た目は人間と同じだが習慣が著しく違う種族が働いている。
まあその習慣というのは変わっていて毎週金曜日に、その日に生まれた赤ん坊を食べるというものだ。
そいつらは知能が高く、物事の管理に長けている。働いている五人には悪い奴に借金があり、金星の貨物倉庫に飛ばされる寸前だった。金星の貨物倉庫というのは、いわば一種の地の果てだ。借金まみれのろくでなしが集う最後の砦。そこで働けば借金を返せるというのは意味のない看板文句だ。
借金を消して新しい人生を与えた。金貸しを説得してみなにとって良い合意をとりつけた、はずだった。しかし調べてみるとどうもその五人の口座にここ三ヶ月入金がある。自分が毎月、給料を入金している口座ではない。個人的なものでもなさそうだ。
偽名に、偽の住所に、嘘の記録で開かれた口座だ。地球でいうところの毎月八日に三十万レロ支払われている。大体二千万円ぐらいの額だ。全て実態のないペーパーカンパニーからの支払いで、少額に分けての送金になっている。
その五人を小惑星の廃倉庫に集めた。サンボーンとの取引でだめになった武器の廃棄を相談する、というのは表向きだ。
適当なクレーターに車を停める。扉は外側からチェーンで施錠されているだけだ。
「ようようよう。おぉおう。調子はどうだ」
すでに五人がさびだらけのパイプ椅子に座っていた。人種差別だのなんだのと言われるから人前では言わないことにしているが、この種族はみな同じ顔に見える。全員丸坊主だし吊り目だ。髪型やピアスなんかで特徴をつけてもらわないと誰か誰だか分からない。しかも五人とも黒の革ジャンに黒のジーンズと着てる。中に来てるシャツはそれぞれ違うが、それはそれで紛らわしい。
「絶好調だよ、もうどう。そっちこそ調子はどうだい」
「きつしはどうしたんだい」
もはやお馴染みの質問だな。
「ひょっとして、ストライキってやつかい? 地球ではよくやるんだろ」
いつも通りよそよそしい声だ。機嫌を損ねたらめんどうだとでも思われているのだろう。実際そうだが。
前に立って五人を見据える。
「ある農民は自分が助かるために盗賊に、他の農民が隠れている場所を教えた。つまりはその、そうだな」
平手を自分の頬になすりつけ、何度かゆっくりと叩く。
「自分が助かるために他の何十人もの農民を売ったのさ。もちろん子供も女も含まれていた」
「サンボーンのことは残念だった。みんなうまくいくよう望んでたし、事後処理もほとんど済んだ。あとは渡すはずだった武器をどうするかだ。別の取引に流用することはできない。中古だと知れれば評判が落ちる」
一番右に座っていた者が声を上げた。
「そうだな。フョードル。君の言う通りだ。冷静で、正しい判断だ。そこで、賢い君に一つ質問をしたい」
「なんだい」
フョードルは機嫌良さげに他の四人を見渡した。
「さっきの、はなしだ。農民がどうのこうのというやつ。盗賊に、寝返ったやつは、どうなったと思う」
もうどうは少し声を低くして、ゆっくりと話した。頭を下に傾けて目だけで前を見る。
「あー、その盗賊の仲間になったか、結局殺されたか?」
自信に満ちた声。半年前に金星にいた時とは大違いだ。
「それもある。しかし実際の結末はこうだ」
一旦言葉を切る。両手をゆっくり合わせて、眉根をひそめて元に戻す。口を勢いよく開けるが、何も言わない。結局普通にしゃべる。
「盗賊は農民から聞いた隠れ場所に押し寄せて、一人残らず皆殺しにしたと思っていた。しかしごく数人の農民は生き残っており彼らは数年の後に力をつけて復讐しにきた。盗賊のアジトに乗り込んで襲撃したんだよ。運の良いことにうまくいき、盗賊は全滅。裏切り者にも一矢報いた。しかし」
言葉を切って、上唇を素早く舐める。五人を一人ずつ見る。目と目が合うたびに、その目が収まっている顔は引き攣っていく。
「彼らはその惨状に目を向けた。信じていた者に裏切られ、襲われ、この目で仲間が無惨にも虐殺されていくのを見ていた。その情景と正義の名において、彼らは復讐を誓ったわけだ。しかし、どうだ。火を放たれた被害者から、今度は火を放つ、加害者になっていはしないか……。彼らは後悔した。あの時助かったことに感謝して、普通に日々を生きていけばよかったと。このやるせない気持ちと報われたはずの正義と良心の軋み。正しいことだと信じてやったことがそうではなかったとしたら?」
倉庫には自分の言葉しか響かない。五人、誰も大っぴらに呼吸しようとしない。息を押し殺してこの演説の向かう先を見定めているようだった。
「意味が分かるか? フョードル、マクファレン、ジーズ、ハロハロ、バティシーノ」
右から一人ずつ、ウェーブのように顔が上がる。
「君たちは火を放ったのか? 恩人である俺に対して」
「何言ってんだよ、もうど」
「今回の取引の失敗は単に我々とサンボーンの見解が食い違っていたというだけにとどまらない。何者かが今回の取引を失敗させるために、我々の評判を落とすために仕組んだことだった。そしてその裏切り者。火を放たせた農民はこの中にいると思うのだ。もしくは全員がそうかもしれない」
「も、も、もうどう。何の話かわからないよ。きっと何かの間違いだ。俺たち全員あんたに感謝してる」
「頼む、ジーズ。座れ」
ジーズは坊主頭を撫でると、静かに座った。
「お前らの口座を調べた。送金があるじゃないか。ここ三ヶ月。月に三十万レロ。大金だよ。人生が変わるような額だ。俺の支援がなくても十分生きていける。家族と一緒に。豪華ヨットを買って、天王星の広大な黄色い海に漕ぎ出すことだってできる。誰にそそのかされた。え?」
黙りこくる。誰もしゃべらない。
「よし、分かった。最初に話した者の家族には、手を出さないと誓おう。それ以外は、どうするかは分からない。君たちが好きだ。本当に。俺のために本当によくしてくれた。だからこんな風に終わるのは残念だし、ましてや君たちの大事な者を見せしめにしなければならないのは、残念以外の言葉が思いつかない……」
まだしゃべらない。みな下を向いているがお互いを伺うように横目でちらちらとアイコンタクトしている。
「裏切ってなんかいないよ。もうどう、聞いてくれ」
「ほう。ではどうしてお前ら五人の口座に九十万レロの送金があったんだ」
また黙る。
「なんだ? 聞いてくれというから質問をしたんだが。もういいのか。罪を認めるか? 俺を裏切ったらどうなるかは知っているはずだ。金星の貨物庫よりもひどい結末が待ち受けているぞ」
「フリーランスで仕事を受けたんだ」
「…………なに?」
「この三ヶ月で、売上が落ち込んだろ? あんたが地球に落ち着いてからだ。てっきり隠居して、ビジネスの方はもういいのかと、それで、他の仕事を受けたんだ。葉巻銀河から流れてくる物資をあんたの木星の倉庫でさばいてた。それで手数料を受け取った。ものすごい額だった。だからあんたにもいずれ言おうと、五人で話してたんだ。それで、あんたが今日招集をかけたから、ちょうどいいから言おうと思ってたんだ」
「そんなことが信じられるか? 売上が落ち込んだといってもたったの二パーセントだ。俺が隠居して商売をほっぽりだしただと? ふざけるなよ。毎月ここにきて直々に売上の確認をしてるし報告を受けてるだろ。商売がどうでもよくなったのならそんなことするか」
「いや、ほんとだって。詳しい書類を渡せる。取引相手のことも、全部教えれる。誓っていうけど、あんたの評判を落とすようなことはしないよ。ほら、これが書類だよ」
真ん中に座っていたジーズが革ジャンの内側から封筒を取り出して、渡してくる。
ジーズに目を合わせたまま封筒の中身を確かめる。
こいつらがフリーランスで仕事を受けたというのは葉巻銀河のクルンハットカルテル。
自動小銃と爆弾だけが収入源のちゃちな中小マフィアだ。この戦争では政府に莫大な献金をして犯罪行為をお目こぼし願っている。
流れてきていたのは自動小銃だ。基本的に武器取引というのは戦地に供給する前に検問所を通して書類をねつ造する必要がある。検問所を自分の木星の倉庫に設定していたというわけか。ここにいるバティシーノは書類偽造の専門家だ。雇い上げる理由は分かる。あとで詳しく調べるがとてつもない額だ。自動小銃三十二丁で二万レロとは。
「も、もちろん爆弾は扱ってない。あんたの爆弾嫌いは知ってるし、そっちの方が条件は良かったけど断ったよ……。自動小銃だけ」
説明されなくても、それは書類を見れば分かる。見たところクリーンだ。
「…………」
裏切り者はこいつらではない。他にいるということか。内心疲労を感じながらも怒りでそれを打ち消した。裏切り者探しが終わればこのクルンハットカルテルにも声をかけにいかなければ。
「いいだろう。今後は俺がこの取引を管理しよう。君たちの取り分は十五パーセントだ。それでこの流れは続けよう。後ほどカルテルと交渉してこっちに流す品物の量を増やしてもらう。これでみんなハッピーだ。疑ったことはすまなかったがこれから仕事を受ける時は必ず一言俺に相談しろ」
「あぁ、もちろんだ」
五人が口を揃えてそう言った。
「他に何か、隠してることはないな」
「あー、おれたちの他にもフリーランスで仕事を受けたやつがいるよ」
「そいつは誰だ」
「えっと。技術者のワイオミング・スターツベルクだ。あんたと知り合いだと言ってた」
「やあワイオミング」
「もうどう。ここは仕事場だ……」
ワイオミングは最後まで言えず、肩を押さえてうめくことになった。
硝煙の匂いと、すぐに固まって軽快な音を出して床に落ちる血しぶきには目もくれずワイオミングの目を凝視した。汚いオフィスだ。書類やフォルダがあちこちに散らばっているし棚からは紙がいくつもはみ出ている。酒と宇宙タバコの匂い。胸焼けがする。結局断酒はうまくいかなかったか。
「君のことはよく知ってる。奥さんの名前はもちろん、彼女の実家の住所も。娘さんが一番好きな動物は宇宙コオロギだ。毎週土曜は俺が買ってやった車でへび座のビーチにでかけてスパイシーフードアンドロスのひき肉料理を食べる。娘さんは果汁アレルギーだから余分に三マイクロレロを払って牛茶を頼むだろう。君の実家の住所も知ってる。君は知ってたか? 二ヶ月前に引っ越したそうだぞ」
「う、そんなの初耳だ……」
「親不孝者だから知らないだろうな。そりゃそうだ。君は生来のろくでなしなんだから」
銃を向けたまま、書類やフォルダを床に落として机の上に座る。
「どんな恩を受けても後ろ足で砂をかけるのが習い性だ。反省せず、過ちを繰り返し、それを隠蔽するためにさらに、砂をかけることになる。話せ。俺に黙ってフリーランスで仕事を受けてたって? どうして隠してた。たった二パーセント利益が落ち込んだぐらいで落目になったと思ったのか?」
「そ、そ、そ、そんなんじゃない。君が落ち目になっただなんて……う……」
「全て知ってるんだ。ここに来るまでの車内で徹底的に調べた。見落としてたよ。自分の口座じゃなくて他のやつらの名義で口座を開き、そこに報酬の金を分散させていたな。さすがといえばさすがか」
「ち、ち、違う、た、ただ」
また言葉は続かなかった。次は左膝を押さえる。
「考えてしゃべった方が良いぞ、ワイオミング」
「君にもらった、金が、そ、底をついたんだ。結局、ギャンブルをやめられなくてさ……。また借金をした。ギャンブルで、勝てば全部オッケーだと思って、借金を賭けたけど負けまくったよ。借金を返すために借金をして、とうとう車を取られることになった。そんなことになったら……、家族に面目が立たない。だから、仕方なく……君の不利になるような、噂を……。ケーブルを仲介して宇宙中に電子通信として広めたんだ。君の通信網は回避して、ばれないようにして……。し、し、仕方なかっ……」
また言葉は続かなかった。膝、股関節、膝の皿。穴が空いた場所が多すぎて押さえるのは諦めたようだ。両腕をだらしなく投げ出す。
「仕方なく、俺を裏切ったか? それで、誰に指示された。もうとぼけるなよ。そう指示したやつがいるんだろう」
「あ、ああ。じゅ、十二ページ。その、ファイル……。それと、あんたに頼まれてた記録の解析もすんでる……。十六ページに入ってる……」
銃と視線を向けたまま、目の前の黒いファイルの十二ページを開ける。ご丁寧に今まで受けた仕事を全てファイリングしているとは。
パッツィオファミリーのドン・ベッツィ。表向きは政治家の活動をしている奴だ。フェンネルの敵でもある。フェンネルを揺さぶるために下請けの自分たちを攻撃したか。他のページも見てみる。自分が今まで頼んだ仕事も記録してある。こんなの、もし政府のガサ入れがあったら有力証拠以外の何者でもなくなる。十六ページを開けてみると解析結果が入っている。何枚かの用紙に渡っている。
「も、も、もうどう。あんたのためなら……なんでもするよ。だから、頼む。見逃してくれ……。こんなことはしたくなかった……でも」
ファイルを閉じて左手に持つ。
「君の家族には手を出さない」
頭に風穴を作ってやると後ろに倒れた。m65のポケットから携帯を持ち出す。トランシーバーのような見た目だが、電話だ。クリーニング屋に連絡する。パスコードは「1216」死体は保存しておくように言っておく。
ギャンブラーは嫌いではない。何がなんでも勝ち残ってやろうという気概も悪くない。
だが、結局、良い方には転ばない。最終的に頭が吹っ飛ばないと、楽にはなれない。
鈴音はベビーベッドの柵にもたれてかつしの寝顔を見ていた。さっき外出前だか外出後だかに眠ってから一度も起きていない。心配になるほどだ。一度寝たら簡単には起きないというのはきつしの要素を継いでいるようだ。
ノートパソコンの画面に目をやる。もっとベビーグッズを買ったり食料を買ったりするにはもっと金が必要だ。銀行口座にアクセスして何十万か下ろそうと考えている。ダッフルバッグには一応、何枚かの毛布、紙おむつ、粉ミルク、哺乳瓶、おしゃぶり、ボロボロの絵本、鈴がついたプラスチックのおもちゃなどが入っていた。新品の、なんなら特注の数十万の絵本だって用意できるのにあえてボロボロの絵本を入れてくるのは、もうどうの悪意なのか遊び心なのか。
「か、か、か、か、かわいいよね」
「ほんと。信じられないくらい」
少し悶えた。母性に溢れた鈴音の声の方が、苦しいほどかわいかったからだ。もちろんかつしもかわいいが、赤ちゃんに対するかわいさと女性に対するかわいさは違う。今のはもちろん女性に対するかわいさの捉えだった。思春期で成長過程にある女性が母性を芽生えさせた時のホルモン状態とはどのようなものなのかと、そういうことも少し気になった。
もうどうはどうしているのだろうか。裏切り者を探すと言っていた。自分がついていないとダメだろうなとも思った。自惚れや慢心ではない。今までもそうだった。目的を追い求めるあまりにココロを忘れてしまうのだ。情熱、願望。不可能なことでも達成できてしまう技術と才能が残酷さに拍車をかけている気がする。今までもそうだった。裏切った者に慈悲は与えられない。その者だけでなくその者の一族すら追い込む。自分たちへの裏切りは末代まで長くに続く厄災となるのだ。このように銘打ち、見せしめておくと簡単には裏切れない。それが結局みなにとって良いのだ。
それでも裏切る者は、並々ならぬ覚悟を持っているとみなされ、どんな弁明をしようが最後にはみな同じ結末を迎える。
自分がいれば少しでも慈悲をかけてやることができるのだ。一度の裏切りに対してそこまでする必要はない。もうどうはもう昔のように慈悲深くはないのだ。今はされたことをし返すことしか考えられない。
「どうしたの?」
「え?」
「なんか、考えてるみたい」
鈴音は自分の背中しか見えていないはずなのに、見抜かれた。これも想像力なのか?
もはや一種の超能力のように思えてきた。
「ま、ま、ま、まぁ、そうだね」
「分かってるよ。どうして悩んでるのか」
「な、な、な、な、な、なに?」
鈴音はかつしの方を見ながら、きつしの隣の椅子を引く。
「小林のことでしょ」
暗くも明るくもない声。
「そ、そ、そ、そうだね。大体はそんな感じ」
「わたしも気になってるもん。どうして小林ってああなの。わたしのこと名前で呼んでくれたことなんて一回もないよ。ずっと出っ歯とか、くそ出っ歯とか。学校に来たら先生に暴言でしょ。それ以前に、どうして武器や、赤ちゃんとかを簡単に作っちゃうの。車も地下もそうだけど。それに付き合ってるきつしだって、はっきり言って異常よ」
「異常」のところは、笑いながら言った。
どう言ったものか。今まで一人で抱えていた気持ちを改めて人に言ってみようとするのは難しいことだ。ココロでは色々思っていてもいざ言語化する時は、戸惑う。
「も、も、も、も、もうどうは、元々ああだったわけじゃないのさ」
「……どういうこと?」
「ま、ま、ま、まあいいじゃないの。今は」
「ねえ」
隣に座った。
「教えてよ」
大切な人に優先するものはない。自分が嘘をつき続ける、というかごまかし続けるのは傷つけることにあたる。それは承知している。今までも鈴音が訊いてきことはあった。その度にごまかしてきた。知ることは、得ることだ。危険なものでも安全なものでも、一エ得るということは、そういうこと。もう知らない状態ではないこと。何が変わる。知る前と知った後とで、自分たちにどう影響する。そもそもどうして隠そうとしてきた。
「…………僕ともうどうは中学生の時に出会ったんだ」
その時はまだ平和、というよりは、普通だった。僕は普通の人間だったのさ。もうどうもね。今に比べたら全然普通だったよ。優しくて、慈悲深くて、言葉遣いも丁寧で、人の痛みがよく分かった。今とは大違い、というわけでもない。今も優しさはまだあるし、人の痛みはもっとよく分かるようになった。だけど、慈悲深くはなくなっちゃったね。
中学一年生の時にもうどうに出会った。あることをするから手伝ってくれって言われたんだ。もちろんそれまではもうどうと話したこともなかったし面識もなかった。いきなりだよ。聞いてみたら、科学実験だった。よく覚えてるよ。色素感応物質の広がりの変化を見たいから手伝ってくれって。もちろん何のことか分からなかったし、少し怖かったよ。
だけど柔和な頼み口と、そこはかとない笑顔がもうどうという人間を物語っていた。怪しい者ではない、というのは少し違うけど本当に、その時点で僕はもうどうが悪い人間ではないということを悟ったのさ。後から報酬を提示されたわけでも何かあったら助けてやるからと交換条件を出されたわけでもない。僕は放課後に彼の住処で実験を手伝うことを決めた。その実験は失敗してね。ほんと、笑っちゃうぐらいね、思いっきり失敗したよ。溶液が爆発して部屋中に飛び散った。体にも降りかかって。途中何が起きたか分からなくて、数年ぐらいそのまま固まってたよ。実際には数秒だったんだろうけど、数日にも数年にも感じられた。その後で笑った。転げながら笑ったよ。それから僕は彼を手伝うようになった。お互い、パートナーだと思っていたよ。もうどうは自分の家族を嫌っていた。十歳で家出をしたそうだ。僕も家庭で居場所を見つけられなかった。だからある意味、似た者同士の僕たちが出会ったのは運命だと言えるのかもしれないね。
彼は苦しんでいた。本来両親から受けるべきの根本的な愛情を知らず、両親に対する憎しみと期待の空回りは反発して、他人を守る強さに変わった。いじめられても、他の子がいじめられないようにじっと耐えていた。何か言われても、受け止めていた。なんの意味もない嫌がらせや中傷にすら意味があると考えていたから。
中学二年生になった頃だ。
もうどうはある女の子と付き合い始めた。国又利恵菜の友達だった。名前は海野沙織。
その子の誕生日は12月16日だった。
もうどうは誰からも受けたことのない愛情を彼女からもらった。もうどうは彼女を愛して、守ると誓った。
沙織はとても優しい子だった。
もうどうの苦しみ、内に秘めた、誰かに認められたいという欲求を満たしたんだ。沙織はこの宇宙で、ただ一人。もうどうがココロから愛した人間だったんだよ。まさに太陽のような存在だった。人を疑うことを知らず、利用されてもそれで相手が得をするなら我慢するような人だった。
「虹色の気配」を持った人だった。
みんなのことを愛していた。
その頃のもうどうの顔は知り合ってから一度も見たことのないくらい、晴れやかだった。沙織ももうどうを受け入れて、愛していた。二人で色々したんだと思う。かけがえのない経験をね。僕はといえば、二人の邪魔にならない程度に手伝いをして、沙織に嫉妬の視線を投げかける国又利恵菜の質問責めから逃げていた。
月は、太陽があれば月光として輝ける。そして賢い人間は幸せが永遠に続かないことを知っている。大切な者ほど早く離れていく。だからもうどうは最愛の人と一緒にいてもどこか落ち着かなかったはずだ。
大切な者ほど早く離れていく。
その時はあまりに早く来すぎた。
もうどうはとある研究で行き詰まっていた。その日は、奇しくも二人で迎えた一回目の沙織の誕生日だった。12月16日。
沙織はもうどうの住処にいた。僕は別の部屋で事務作業をしていたよ。もうどうは、沙織を愛していたけど、仕事場に立ち入ることは禁止していた。科学は時に残酷な結果を生みうる。暴発や危険な液体の飛び散りなんかが彼女を襲うことを恐れていたんだ。
恐怖は行動の引き金だ。
恐怖は行動の引き金。
行動の引き金。
引き金。
沙織はその日、何を思ったかもうどうの作業部屋に行ったんだ。もうどうも今日ぐらいはと、許した。二人で座って、その「行き詰まっているもの」を沙織に説明したりしたんだろうか。
そしてその部屋は二人目の招かれざる客を受け入れることになる。
男が現れた。もうどうと同じ背丈で、同じ雰囲気の男がね。
その男は「行き詰まっているもの」をすでに完成させていたんだ。その男はもうどうに「行き詰まっているもの」の素晴らしさを説いた。何ができて何ができなくなるか、何がを得て、何を失うか。その結果もうどうは拒絶した。「行き詰まっているもの」も、その男も、科学そのものも。
「変わらないものなんてない。発明も人間も滅びるからいいんじゃないか」
もうどうは男に対してそう言ったそうだ。
男は何も言わず、部屋を出て行った。
その夜だった。
三人で一緒に夕食を食べに行った。僕はボディガードとして同じテーブルに座っていた。レストランにね。小さくも大きくもない普通のファミレスさ。まずは飲み物を頼んだ。沙織はオレンジジュース。グラスに一輪のオレンジが挟まったやつだ。僕はミルクセーキ。もうどうはただのお茶。それから料理を注文した。料理がくるまでどうでもいいことを話した。思い出せないほどどうでもいい。だけど、思い出せないからいいんだ。思い出せるものは記憶にあるものだ。特別なものだ。だけど、特別ではない日々、何でもない日々は決まって平和なんだ。だから、この日も、思い出せない、平和な日々であるべきだったんだ。
注文した料理が全てきて、手を合わせようという時だった。もうどうが正面に座っていた沙織を凝視した。正確には沙織ではなく沙織の向こうの「景色」を。
あの男が座っていた。こっちを見て、笑うでもなく、何を言うでもなく。足を組んで何かを飲んでいた。その直後だ。机の裏で嫌な、高い音がしたんだ。
まるで、何かのスイッチが入るみたいな音がね。もうどうと僕はすぐに机の裏を確かめた。
僕らはすぐに立ち上がった。もうどうが沙織を見た時。地獄の結末を予想した時。沙織がもうどうを見て、何かちっぽけな異変を感じ取っただけの時。
「それ」は勢いよく弾けた。
料理も、机も、店も、沙織も、月があまり見えなかった夜空さえも。全てを吹き飛ばした。僕たちも吹っ飛ばされたよ。だけど僕たちは生き残ったんだ。
生き残ってしまったんだ。
ただのそれだけだ。
他の人はみな死んでいた。僕らの前にいた人も後ろにいた人も全部。僕たち以外はみんな粉々になった。
そう。僕たちだけが生き残ったんだ。僕たちだけが。
まるで最初からそう設定されていたかのようにね。
目を覚ました時、もうどうはどこにもいなかった。木端微塵になったなんてことはありえなかった。意識がなくなる直前、もうどうは僕の隣で倒れていたんだから。その男に連れ去られた可能性も低かった。もうどうを殺さずに、大切な人間を奪ったのはもうどうを苦しめるためだ。その男は、もうどうに拒絶され彼の大切な者を奪った。それ以上も以下もないはずだった。僕に分かるのはその男は、ひどく小心者でプライドが高いということだけだった。なにせ、言ったことを跳ね除けただけでこんなひどい仕打ちをするような男だから。
もうどうは消えた。何も言わずに消えた。
沙織の葬儀にも来なかった。何が起こったか、その日のことを誰も受け入れられなかった。ご両親は娘を亡くした。国又利恵菜は友達を失った。そしてもうどうは最愛の人をもう見つけられない。僕は幸せな親友を失った。永遠に。
もうどうをこの宇宙でただ一人受け入れてくれた女性はもういないんだ。どうやったってもう会えない。死んだ者は蘇らない。もうどうの科学をもってしてもそれは覆らなかった。
一週間した頃、もうどうは僕の寝室に現れた。もうどうの住処にいることもできたけど、そこか不吉で、それよりも立ち入っては申し訳ないような気がしてた。
「準備が整った」と言った。そのまま倉庫に向かった。僕が知りもしない場所の、見たこともない倉庫だった。
武器を作っていたんだ。戦争に参入して、莫大な利益を上げようと。
この宇宙には、政府がある。銀河政府と呼ばれてるけど。全ての銀河系に幅を効かせてる。簡単に言えば彼らは宇宙に存在してるたくさんの種族をまとめあげることができなかった。ところどころで火花が散っていても気にしなかった。それが爆発を起こした頃には手遅れだったわけさ。 この宇宙は本当に広いんだ。一般的に知られてるような惑星や星座だけじゃない。星座にも文明は存在するから、合計すると何万とあるんだ。ほんとに。
基本的に全ての惑星や星座は政府の管轄内だ。だけどそれらの惑星に存在している犯罪組織はそうじゃない。今や惑星の政府よりも一介の犯罪組織の方が強い場合がほとんどなんだ。種族間戦争のようなものさ。同じ惑星の中で戦争が起こるんだ。それがどの星座や惑星や星系でも起こってる。第三、第四勢力と呼ばれる組織は有利な方に参入する。戦争の半分は彼らの利益誘導さ。戦争はとにもかくにも金になる。武器も設備も人も飛ぶように売れる。続いてくれた方が助かるんだ。イタチごっこさ。僕たちが金に困らない理由が分かったろ。全ての勢力に武器を売ってるんだ。しかもとても優秀な武器をね。
s今までのもうどうなら絶対戦争なんかを食い物にはしなかった。倫理と正義を欠いた研究も発明も絶対にしなかった。
その時僕は直感的に分かったんだ。目の前にいるもうどうはもうどうであってもうどうではない。
初めて会った時もうどうの笑顔を見て彼は善人だと悟った時のように、僕はそう直感したのさ。
もう一つ分かった。もうどうはその男を見つけ出して、後悔させる気なんだ。テーブルの下に爆弾を仕掛けて沙織を殺したその男を見つけ出してココロの底から後悔させるつもりだ。そのために金が必要だから、戦争をだしにするつもりなんだ。言われたことは一度もなかったけどそう確信した。
もうどうはもう「僕」とは言わなかった。「だよね」や「でしょ」のような優しい関西弁を使うことはしなかった。もう昔のように笑わなかった。
僕は、黙ってその後をついていくだけでよかった。あの時のもうどうには「止めてくれる人」が必要だった。目的のために何もかも見失ってもまだ、完全に堕ちないように見張っててくれる人が必要だったんだ。その役に、もうどうは僕を選んだ。ただそれだけのことだった。
もうどうは言った。どうして奴がお前を殺さなかったと思う。俺の大事な者を奪うならお前も殺すはずだ。そこに奴の狙いがある。だからお前には一緒に来てほしい。奴をおびきだすためじゃない。二人で狩るためだ。俺にはお前が必要だ。お前には俺が必要だ。
それが全てだった。その時のもうどうのココロはそれが全てだった。
その時すでに、というよりはそれよりずっと前から、あの時出会った時、それよりも前から、僕らが同じ年に生まれた時すでに僕はもうどうの相棒だったのさ…………。
「で、見つけたの?」
「抑揚がない」今、鈴音の言葉を聞いた時の第一印象だった。すぐに、心配や不安を見せないためにあえて特徴のない声で言ったのだと思い直した。
「見つけたの? その男」
下を向いた。向くつもりはなかったが、自然に頭が下がっていた。どうしてか、急に寂しくなった。他人事ではないと思ったからだった。自分ももうどうと何ら変わらない。愛情を知らず。鈴音を愛している。そしてこの生活がいつまでも続くわけがないと分かっている。自分を賢い人間だと思うつもりはない。事実として、そしてデータとして「賢い人間は幸せがいつまでも続かないことを知っている」この言葉がただのフレーズではないことを分かっていた。いつまでもは、無理だ。きっと。
「見つけてない」
「見つからないの?」
「ああ。地球に戻ったのもそれが目的だけどね」
「その男が地球に隠れてるかもしれないから?」
「いや、そういうわけじゃない。だ、だ、だ、だ、だけどその男がち、ち、ち、地球に関わってるのは明らかだ。それで、追ってきたんだ。も、も、も、戻ってきたと言った方がいいかもしれないね」
今回は、言った後で複雑な気持ちになることもなかった。重しがとれたというかずっともやもやしていたことが晴れたような感じだった。
「……なんていったらいいか」
鈴音は細切れに言った。
そうだろうな。冷めた声がココロの中から聞こえた。信じられたとしても理解はできない世界だ。
「最初、小林とあなたが学校に来た時はそんなことがあったなんて想像もできなかった。何してるかも隠してたでしょ」
「ま、ま、ま。まあね。もうどうの考えだよ」
「そうなの? だけど一週間もたなかったわよね」
「そ、そ、そ、そうだね。睾丸型モンスターを殺したせいだ」
「イケメンの転校生が睾丸型モンスターだったなんて今でも信じられない」
「そ、そそ、そ、それから毎日転校生が来てるけど、みな同胞の仇うちにきてるだけさ。その度に、か、か、か、か、隠れて殺してるけどね」
「…………」
「お、お、お、面白くもない話だよね。だけど、君の質問には答えた。もうどうは苦しんでるんだ。その反動で君にひどいことを言うかもしれない。時々神の真似事をして世界を創ったり破壊したりする。だけどココロは満たされない。そんな感じ、想像したことある?」
鈴音は目を逸らした。これも、不安や心配を悟らせないためなのだろう。声に本音は出ないが目には出ると自分でも分かっているのだろう。
耳をつんざくような泣き声が聞こえてきた。脊髄反射でベビーベッドの方を見た。鈴音は自分よりも早く席を立ってベビーベッドに駆け寄った。すぐに追いついてかつしの様子を確認する。
「ど、ど、ど、どうしたんだろ」
鈴音はおでこに手を当てる。
「あついわ」
すぐにダッフルバッグの中を漁った。もうどうは赤ん坊の情報が入った物理フォルダが入っていると言っていた。ないぞ。そんなものは。入っているものを全部出してみても見当たらない。赤ん坊の情報ということはアレルギーや臓器機能についての記載があるはずだ。もしかしたら与えたミルクが良くなかったのかもしれない。まさかもうどうが嫌がらせで臓器を欠損させていたとか、そんなことはないだろう。祈るようにバッグの底を両手で押した。
硬い。ここか。よく見たらポケットになっている。紛らわしい。ココロにかかった霧の一つが晴れていく。すぐにフォルダを取り出して、開く。赤ん坊の写真と基本的な生体情報。性別や身長、体重、血液型といったような情報だ。ご丁寧に赤ん坊の製造過程の写真まで。緑色の培養液の中で産声を上げる、四肢のあるぶよぶよの物体。地球の高画質なんて比べ物にならない。培養液に写る、写真を撮るもうどうのニヤニヤ顔まではっきりと見える。とっさに目を背けるものでもないが、ずっと見ていたいものでもなかった。
書類はざっと見ただけでも十枚はある。どこかにアレルギーに関する項目はないか。目次みたいなものがあればいいんだが、と思っていたら最後のページに目次があった。なぜか「mokuji」だったが。
そんなしゃれには一ミリの関心もくれてやらずに「アレルギー」の文字に目を血走らせる。人間に取扱説明書がついているだなんて。改めて手が震えてきた。
見つけた。排泄に関する項目の下だ。
「アレルギー情報 オレンジ カゼイン そば粉」
どれも与えていない。多分。どういうことだ。オレンジやそば粉はどんなものか大体検討がつく。だけどカゼインはちょっとよく分からない。何かに含まれる成分か。それとも、それ単体の食べ物か飲み物なのか。どっちにしろカゼインなんていうのは聞いたことがない。かつしの泣き声がどんどん強くなっていく。どんどんココロに隙間ができていく。風が吹き抜けて、悲しい気持ちになる。鈴音のあやす声も戸惑いを帯びたものになっていく。開けていたノートパソコンでブラウザを立ち上げてカゼインを検索する。
こういう時に限って中々表示されない。検索バーの下の細い青い線を睨みつける。
「牛乳タンパク質の約八十パーセントを占めておりアレルギー反応の中心となるタンパク質」ページをスクロールする。「粉ミルクなどに含まれているため、乳幼児に与える際にはアレルギーに注意しなければならない」
粉ミルクだ。粉ミルクに含まれていた。それがいけなかった。
「ちょっと、きつし」
「ど、ど、ど、どうしたの」
音の速さで鈴音の隣にいく。
「これ、どうなってるの」
かつしが布団の上で痙攣している。がくがくと四肢を震わせて。よだれを垂らし、布団の下も濡れている。匂いはしないがすぐ分かった。下痢だ。おそらくショック症状だろう。身体中真っ赤だ。熱で死んでしまうんじゃないか。
焦るな。焦るな。焦るな。今までもっと難しい局面も乗り越えてきた。大丈夫だ。今回もきっとうまくいく。そう。こういう風に考えていたら、どもりと一緒にパニックは消えていく。心臓はいつも通りのステップを取り戻す。
「多分、アナフィラキシーショックだ。確かダッフルバッグにピルケースと注射器ケースがあった」
鈴音はすぐに駆け出して、ダッフルバッグに飛びついた。
「ピルケースはオレンジ色。注射器ケースは銀色だ」
かつしの両頬に両手を当てて、落ち着け落ち着けと念じた。実際、子供が苦しんでいても親は苦しみを分かってあげられるわけじゃない。真に寄り添えるわけじゃないんだなと、冷めたことを頭の片隅で考えていた。
後ろで鈴音がバッグを漁る音がする。
「あった」
錠剤がケースの中で転がる音がする。
「かして」
注射器ケースを開ける。ふたの裏に「エピペン アドレナリン物質自己注射 間に合わなかったらあの世で後悔せえ」のラベル。
もうどうめ。
とにかくこれを打てば大丈夫。注射器の先端のケースを振り取る。
「注射するんだったら、太ももにしなきゃだめなのよ。それより、これほんとに、大丈夫なの、間違って死んじゃったりしないよね」
息切れした声。ああ、大丈夫とか大丈夫じゃないとか、結局どうすればいいのかわからない。だけど我が子が苦しんでいて解決策の入った注射器を右手に握っている。自分は父親だ。自分が治してやらないで誰か治してくれるというんだ。
注射針を見る。
気持ちとは裏腹に慎重に太ももを掴んで注射針を刺す。暴れられたら終わりだ。かわいそうだが動かないように力を入れて持ち上げる。液体を押し込む。
抜く時も油断ならない。棚の下の隙間、際どいところに転がったレゴブロックをとるときのような緊張。間違えれば、レゴブロックはもっと奥に行って取り出せなくなる。注射針、もし折れでもしたら。いいや、悪いことは考えない。いつもそうしてきたんだから。
サンボーンとの取引が失敗した時も、悪いことは考えずにとにかく撃ちまくった。金星ではめられた時も一目散に銃を抜いた。自分ともうどうの身を守るために。今はこの子を守るために悪いことは考えない。
注射針の先端が見えた。
痙攣は止まった。泣いてはいるが。でこに手を当てる。あつくは、ない。自分の手の方があつくて汗をかいていることに気がつくとそれ以上に安心したことはなかった。
もはや大声とも呼べる安堵の吐息を漏らす。後ろに倒れ込む鈴音が受け止めてくれた。
「ご、ご、ご、ご、ごめん」
「ほんと、安心した。死んじゃったら、どうしようかと思った」
死んだものは蘇らない。作り物だろうが天然物だろうが同じ。この事実が今日ほど重かったことはなかった。足の震えが止まらない。安心しても、まだ脳は揺れている。
鈴音の腕を取って、体を預ける。鈴音ごとカーペットに倒れる。落ち着かない時は誰かに身を委ねるのが一番なのだ。赤ん坊のように。
泣き声は徐々に小さくなっていく。
が、しかし。もうどうだ。
こうなることが最初から分かっていた。自分たちに育児は無理だと言ったつもりだろう。わざと子供をカゼインアレルギーにして、カゼインの含まれている粉ミルクをバッグに入れて自分たちに渡した。アレルギー情報などが入ったフォルダも読まないことを知っていた。赤ん坊の情報はもうどうから聞かされたので十分だと思っていたし、いくら人造人間とはいえ電化製品のように説明書があるとは思わなかった。大体アレルギーだなんて重要な情報は口で説明するべきだろう。それにずっと気になっていたことがある。排泄をしていない。さっきフォルダを見た時ちらっと目にした。排泄に関する項目。
きつしは鈴音から離れて立ち上がると、フォルダを読み返した。
「排泄に関する項目。その一。『ぼろ布を拾う時には大小便が染み込んで取れないものは拾ってはいけない』道元 正法眼蔵 袈裟功徳 なんてな。次が本題だ」
そういうのはいいから。
「基本的に大小便はしないが一日に一回汚物を吐くので要注意。ばけつかなんかに受け止めてあげれば。ちなみに予兆は高熱がでること。アレルギーの症状と勘違いするなよ。カゼインアレルギーの症状には高熱なんてないからな」
高熱? ということは。ベビーベッドの方を見る。鈴音がかつしを抱き上げている。
まずい。
ばけつなんてのはどこにもない。バッグにもなかった。どうする。おいおい、かつしが頬を膨らませている。なにかが、出てきそうだぞ。
考えるより早く鈴音からかつしを取り上げてキッチンのシンクの上に連れていった。ものの数秒もかからず、シンクは緑色の汚物まみれになった。しかも飛び散る。横に立てかけてあったまな板、近くにあった炊飯器、ケトルにも飛んでいく。匂いがしないのがたちが悪い。
鈴音は何が起きたか分からず、キッチンカウンターに手をついて、ただ見ていた。
口が空いている。驚いた時はみんなそんな顔になる。
かつしはそのまま数分吐き続けていた。
考えることは同じ。もうどうもうどうもうどうもうどう。
もうどうがわざとやったのか? それとも人造人間故の特徴なのか? わざとやったのだとしたら意地が悪すぎる。いや、どれもこれも自分が最初にフォルダを見なかったせいだ。自分が悪いのだ。子供に罪はない。アレルギーを知っていればカゼインの入ったミルクは与えなかった。汚物を吐くと知っていればバケツだって用意した。自分たちは親になるには未熟すぎる。それもそうだ。誰の力も借りることはできないし。自分の母親は生きているが二度と会いたくない。鈴音には良い両親がいるが子供を育てるだなんて言えるはずがない。しかもいかれた科学者の作った人造人間の赤ん坊を。鈴音は家庭科だかショート動画だかで育児の知識を仕入れていた。だけど自分はどうだ。自分ができるのは闇で武器をさばくこと、銃を撃つことだけだ。
赤ん坊はようやく吐くのをやめた。シンクには目も当てられない。匂いはしないが、見ているだけでこっちも吐いてしまいそうだった。もうどうが臭いのしない汚物を出す設定にしたのか、それとも人造人間故の偶発的特徴なのか。この二択を考えるのも疲れてきた。かつしを持ち上げている腕がどんどん疲れていく。ココロに吹き付ける隙間風もだんだんと強さを増していく。
鈴音を見た。自分と同じような顔をしている。後悔はしていなさそうだった。というよりかはそう思いたかった。
「……そ、そ、そ、掃除しよっか」
「わたし、シンク綺麗にする……」
「いや、ぼ、ぼ、ぼ、僕がやるよ」
「いや、いいよ」
「いいんだ。ぼ、ぼ、ぼ、僕がやるから」
「…………じゃあ、この子を綺麗にしてあげなきゃね」
鈴音にかつしを渡す。キッチンの戸棚や引き出しを開けてみる。雑巾やタオル類は全く入っていない。水に流すわけにはいかない。固形なんだか流形なんだか分からないがとにかく、ビニールか何かで…………。
思考はそこで止まった。疲れた。体中の力が抜けていく。倒れるほどではなかった。それがまた、もどかしかった。倒れてしまいたかった。よっぽどその方が楽だったはずだ。
それでも手はビニール袋を探し続けたし足は歩みを止めなかった。子供のために、親である自分がこんなではいけないと、本能的に動かしているんだろうか。鈴音を見た。カーペットの上で毛布を広げてかつしを寝かせて、口の周りを拭いている。目は暗かった。
「こんなはずじゃなかった」そう思っているのは確かだった。子供を責めることはできない。どれもこれも自分たちが悪い。そういう子供なら、受け入れてやらねばならない。人と違っていても、それがその子の個性であり、良さであり、愛すべき点なのだと思っていやらねばならない。それが親のつとめというものであるはずだ。
「ねぇ、きつし」
鈴音の声がした。すぐに駆け寄る。
「ど、ど、ど、どうしたの」
「今の聞こえなかった?」
「なに?」
「……お、う、あ……つ……」
「え? しゃべってるの?」
「そうよ。何か言おうとしてる」
鈴音の、喜びに満ちた声がココロに沁みていく。
「しゃべったのよ!」
鈴音が自分の両腕を掴んで揺さぶった。
「え? 生後一日も経ってないんだよ?」
フォルダには成長が早いなんてのは書いてなかったと思うが。
「天才児なのかもよ。ちゃんと教育したら、もしかしたら世界的な有名人になったりして」
こんなのありか? 落差というかギャップというか。少し拍子抜けた。分からない。この感情を言語化するには自分には語彙力が足りない。複雑で、不思議で、嬉しくはあったがどうしてか、同時にまた不安も感じていた。
「ちゃんと、教育しましょうよ。今から数学とか理科とか教えたらすごい研究者になったりするかもしれないよ」
鈴音は浮き足だって喜んでいる。それもいいかもしれない。生後数時間で話せるだけの能力があればきっと何にでもなれる。この子のやりたいことを見つけるためにも何か学問を教えてみるのも手だ。この子が幸せになるために。
「そ、そ、そ、そ、そうだね」
そう言ってやると、鈴音は笑った。今まで見たこともないほど嬉しそうで、綺麗な形だった。
「おい、その酒は最後の一本だぞ。気をつけて運べ」
顎が異様なまでにしゃくれあがった灰色の皮膚の宇宙人は一本目と二本目の腕でナイフとフォークを使い、三本目の腕で金色のネクタイを整えた。
「了解しました。ドン・ベッツィ」
「ここではただの客だ。パッツィオファミリーのボスでも、議員でもない。普通に呼べ」
ウェイターは後ろの座席に座っている大柄なボディガードを見た。七人だ。この一団のためにフロアの机や椅子を全て退けて、キッチンが見えるようにした。ガラ空きになったフロアの真ん中に最高級の机と椅子を用意してこの、政治家でもギャングのボスでもある宇宙人をもてなしている。後方に座席を作って部下やボディガードたちにも酒や料理を出す。照明はほとんど点けない。料理の音が聞こえるように料理人たちはあえて音を立てて調理している。それがベッツィの好みなのだ。
「お客様」
「そうだ」
ベッツィは満足そうに顎をしゃくった。
「食事は、静かなところでするに限る。君は、どこの星系の出身だ」
ベッツィは「ひとつ目」のウェイターに訊いた。
「キボデイ星系です」
「ほう。なら分からんと思うが、我らの種族には命より大事なものが二つある。それは食事と酒だ。特に酒は生きる意味を教えてくれる。どんなときでも、その液体があれば我々は生き返れるというものだ。どんな悪い状況でも酒があるから生きていようと思える。キボデではどんなものを大事にしているのかね」
「キボデイ星系です」
「なに?」
「キボデ星系ではありません。キボデイ星系です。お客様がお食事とお酒を大切になさるように私は故郷の名前を大事にしています。ですから失礼を承知で申し上げますが発音なさる際は正しくお願い致します」
ベッツィは目を細めてウェイターを見た。ウェイターもベッツィを見た。後ろのボディガードたちもひそひそ話をやめた。
しばらく沈黙が続いた後ウェイターは盆に載せた酒をテーブルに置いた。
「こちら、木星の青ワインでございます。最後の、一本。選挙結果、拝見しました。おめでとうございます」
ウェイターは静かに言い置くと、背中を見せた。
「待て」
ベッツィのしわがれ声が引き留めた。
ウェイターは歩みを止めた。
「若いのに中々骨のあるやつだ。こっちを向け」
ウェイターはその通りにした。
「おまえさんみたいなやつは今時貴重だ。もしも、ちょっとした小遣い稼ぎがしたくなったら」
懐から一枚の紙切れを取り出して差し出す。
「この番号に電話をしろ。良い仕事を紹介してやろう」
ウェイターは紙切れとベッツィの顔を交互に見た。
「受け取れ」
ボディガードたちを見る。確かに七人。
ウェイターはゆっくりと腕を伸ばした。紙に指を乗せる。これからの動きを頭の中で想像した。その時には、扉が開く音と銃声は重なっていた。雇い主が来たのだ。
ウェイターは素早くエプロンの下から銃を取り出してベッツィの首に腕を回して立たせると、盾にしながらボディガードたちに発砲した。雇い主の放った弾丸はキッチンのコックたちを皆殺しにすると、ボディガードたちにも降り注いだ。ボデイガードたちは固い血しぶきをあげて次々に倒れていく。
暗闇の中で銃弾と絶叫だけが光る。銃声と倒れる音、呻き声だけが聞こえる。
銃声が止むと、電気が点く。
「座らせろ」
雇い主の言われた通りにした。今までの雰囲気は台無しだ。
「ど、どういうことだ。おい」
「手荒な真似をして悪かったな。ドン・ベッツィ」
「コバヤシもうどうか? きつしはどうした。何の真似だ。このウェイターは、君の手下か。それにきつしはどうした」
「放してやれシルビオ。それで、あんた。ドン・ベッツィ。両腕を机に置け。失礼、三本腕を机に置いてくれ」
シルビオはその通りにしたが銃は構えたままでベッツィに向けておく。ベッツィも言う通りにした。
もうどうはm65ジャケットの前を開けると、キッチンから椅子を取ってベッツィの真ん前に座った。足を組み、胸をそらし、首を少し傾けて宇宙人を見た。銃は向けたままだ。
「ドン・ベッツィよ。あんたも堕ちたもんだ。裏ビジネスを隠すために政治家連中のけつの穴をなめてるのか? 昔はフェンネルよりも立場が上だったのにいつのまにか追い抜かれて。挙げ句の果てには因縁をつけて商売の邪魔だてかい。昔のあんたならきっと、下請けの俺たちを攻撃するなんてこすい真似はしなかった。フェンネルともめてるなら直接文句を言いにいったはずだ。まあ、全部聞いた話だがな。それはそうと、当選おめでとう。あんたも一端の政治家だ」
もうどうは皿の上のナッツのようなものをとると口に放り込んだ。
「ううん。オーガニックか? 飯のセンスだけはいんだからさ」次々に取っては口に放り込む。
ベッツィはもうどうの手の動きを睨みつけていた。
「どうした? 食事を邪魔されて嫌だったかい? まあそうだな。その気持ちは分かる。商売を邪魔された時と同じ気持ちだろ。え? 違うかい」
「食事を邪魔したことは決して許さない。しかも今日のような良い日の食事をだ」
「じゃあ俺も許さないこととしよう。特に最近は良いこともないが、仕事を邪魔したことを」
「何の話かな」
「それはあんたが一番分かってるだろう。俺んとこの人員をたぶらかして不利な情報を流した。そんでもってサンボーンとの取引をだめにした」
もうどうは銃を腰に戻すと、手を木星の青ワインに伸ばす。ベッツィは体を揺らして腕を伸ばし、阻止しようとしたがシルビオはその動きを見逃さず、頭に銃を突きつけた。ベッツィは一つ深呼吸してからゆっくりと腕を元の位置に戻した。
「ははは。ご覧の通り、シルビオはいざとなると血の気の多い男だが頭はいつでも非常に冷静だ。傭兵としてこれ以上ない資質を持った男でね。褒めてやってくれよ」
「なんだっていいが、私はあんたが怒るようなことはしていない。フェンネルともめているのは事実だが商売に手を出したりしない」
ベッツィは首を回すと、顎を突き出した。
「御託を並べなさんな。見苦しいぞ。知っての通り、俺は宇宙の犯罪史始まって以来最も若くして、武器市場を掌握した」
「それが私に何の関係がある」
もうどうはぎらりとベッツィの方に目を向けると、酒瓶をいじり回していた左腕を振り上げて思いきり机に叩きつけた。破片と美しい酒は四方八方に飛び散った。ベッツィはまた体を揺らした。
「ふざけなさんな。証拠は揃ってるし証人もいる。こっちはあんたを始末したくてうずうずしてるんだ。これ以上しらを切り通すっていうならこっちだってそれなりのことをする。ベッツィ、ベッツィ、こっちを見ろ。俺を見るんだ」
「私は何もしてないと言っているだろう! 思い上がったクソガキめが! この私を敵に回すとどうなるか教えてやるぞ」
机と料理が揺れる。
もうどうは瞬き一つせずにベッツィを見る。首を少しばかり右に傾けて、口を少しだけ開けた状態で。
「シルビオ、離れていてくれ」シルビオは静かに後ろに下がった。
「聞いているのか! こっちを見ろだと? ふざけるな。貴様のような青二才の新参者がこの私に対してこっちを見ろと言ったのか。なんたる非礼だ!」
二本の腕で机をぶった叩く。皿が少しく浮いた。
「大体貴様らは前からいけ好かなかった。この私だけではなく他の年長者のことも見下している。貴様らが今好き勝手に商売できているのは私たちが基盤を作ったからだ、違法取引や密造の、根幹に関わるネットワークとライン合法非合法の網目を整え、犯罪地図を形成した。いいか。これから少しでも私に無礼を働いてみろ。貴様らをこの宇宙から追い出して」
結局言葉は続かない。頭に四発、心臓に三発。残念なことに、でかい頭は皿に突っ込み料理はぐちゃぐちゃになった。立ち上がって手に持っていた酒瓶の欠片を見た。わずかに残っていた青ワインを頭にかけてやる。欠片はその辺に捨てる。
「クリーニング屋に電話して今日中に終わらせろと伝えろ。死体は全部保存しておくように言っておけ」
シルビオは静かに頷いた。
「目的は聞かなくてよかったんですか」
「大体分かっているからな。あとで奴の身辺を調べるが、おそらくフェンネルへの攻撃だ。俺たちを攻撃すればフェンネルの商売が止まると思ったからだろう。浅はかな生き物め、ずっと嫌いだったよ。シルビオ、娘さんの結婚式を抜け出してよく来てくれた。この恩は一生忘れない」
「いいんです。ミルク、ありがとうございました」
学校ではなく家に直行した。一応住居は構えているのだ。地球に戻ってきた頃は車があるから学校に近い場所に住む必要はなく、ふざけてオーストラリアの図書館やカッポーニ宮に住んでいた。きつしが鈴音と逢引きするようになってからは鈴音の家の近くのアパートに移った。
丘の上のアパートで、隣に雑木林がある。時々レーダーに猪なんかが映る。シャッターのついている車庫もあるし普通の駐車場も広い。二階建てで各階は六部屋ある。全ての壁が綺麗な白色で、三角屋根のみが黒い。階を行き来する手段は綺麗な赤色で塗られた階段のみ。部屋のレイアウトは全て同じで窓にはブラインドもついているし入居して一ヶ月は光熱費や水道費など全て物件のオーナーが負担する。こんな素晴らしい物件なのにも関わらず、入居者はあまりいない。一階は三部屋、二階は二部屋しか埋まっていない(自分たちが一番奥の角部屋とその隣の部屋を所有している。実際に生活するのは角部屋だが、襲撃に遭った時に横に逃げられるように借りている)のは本当に解せない。
車はシャッター付きの車庫には直さずに普通の駐車場に停める。普段から駐車場に車が停まっているのは見たことがない。その上アパートの住人には誰にも会ったことがなかった。きつしの奴が一度一階に住んでいる老婆に会ったことがあると言っていたが。
駐車場からは丘の下の街並みが一望できる。走る電車や行き交う車も。遠くの山さえもここから手が届きそうに思える。この眺めは宇宙のどこにもない。
車を停めるとジャケットのポケットに手を突っ込んで鍵を取り出す。
赤階段を登って一番奥の部屋のドアの鍵穴に鍵を突っ込む。右に回して扉を開ける。
このアパートの特徴として、玄関はない。他の住人がどうしているかは知らないが、自分たちは土足で生活している。両脇が壁になっている。少し進めば左はもうキッチン、右は居間。
「いぬー。いぬ。どこだ」
飼い猫の名前なのだ。メスのスコティッシュフォールドで、きつしが半年前に拾ってきた。
いぬが毛をふさふささせて足元に擦り寄ってくる。アーモンドのような瞳に自分はどう写っているのだろうか。背中の硬い感触にも慣れたようだった。最初は重そうにしていたが今ではぴょんぴょん走り回っている。いろんなところにぶつけるからそれはそれで修理が大変なのだが。
抱き上げてやる。高い声を出して鳴く。耳を肩にすり寄せてくる。甘える時の仕草なのだ。
「よしよし。もうこの世界で俺に甘えてくるのはおまえだけだな……。留守電再生」
いぬの背中の機械が反応する。赤いランプが点滅して甲高い音がなる。
『家具の修繕で困っていませんか? 棚、テレビ台、机など。家具と名のつくものなら何でもござれ。ジーニアス家具修繕店にお任せを』
次が再生される。
『あー、もうどう。ザッハトルテだ。これを聞いたら連絡してくれ。水星に輸出する分の武器が足りない。どこかの倉庫に足すように命令してくれ』
次。
『ドン・もうどう。電話での報告になってすまない。サンボーンとの取引が失敗したそうだな。しかも取引相手を撃ったそうじゃないか。今回の件を受けて他のやつも色々動いてるそうじゃないか。こちらの人員とも話し合った結果、我々シナトラファミリーは今後あんたと手を切る。すまないな』
いぬを床に下ろす。すぐに走り去っていく。あの猫の背中についているのは留守電をためこむ装置だ。生命維持装置にもなっている。丘の下の大きな木の枝に刺さって死にかけていたのをきつしが拾ってきて、治療してやったのだ。
ジャケットを脱いで扉のそばのコート掛けにかける。シャツの二番目のボタンを外して、居間の一人がけのソファに腰を下ろす。ホルスターが革にすれてギイイという音がする。肘掛けをパンパンと叩いて、ため息をつく。
シナトラファミリーが離れたか。彼らは銀河の南側の物流を支配する上で重要な役割を担っていた。ちくしょうめ。この間ドンが交代したばかりだ。二代目と食事した時にすぐに無能だと悟った。やはり間違った決断をしたか。先代なら今の情勢だけを見て決定を下すような真似はしなかったはずだ。南側で幅を利かせられなくなると問題が生じてくる。
物流ハブやステーションスポット、貨物ラインをいくつか手放さなくてはならないかもしれない。ポケットマネーで損失分を賄うことはできるが、どっちにしろマイナスだ。今回シナトラファミリーが離れたことで他の団体も考えが揺らぐだろう。そうなると北側の利益に頼らざるをえなくなる。しかし北側にはサンボーンの拠点が含まれている。これから大変だ。
全面戦争してもいいが、すでに勃発している戦争に飛び火してしまう。そうなるともっと面倒なことになる。
とはいえそれは目先の問題だ。ひとまず裏切り者は全員処刑したし指示した者も死んだ。これ以上の水漏れはないと思いたい。
テレビのリモコンに手を伸ばしてスイッチを押す。テレビ台の上の赤い光が緑に変わる。宇宙のチャンネルに合わせてある。地球のつまらないニュースはお呼びでない。
ヌークリアドラゴンの赤ちゃんが生まれた、新種の緑ワインが発見された。別にどっちだっていいニュースだ。
「宇宙郵政の郵便システムが攻撃され、疎開している子供たちの手紙が家族に届かないという事態が起こっています。政府は昨日の会見で大戦の激化によるライフラインへの影響を重く見ているとし、敵国に不必要な攻撃は行わないよう訴えています」
郵便システムが壊れている。ほう。となるとまた金になる。公共事業部門に連絡して修理を請け負うよう指示しておこう。しかし疎開先の子供たちの手紙が届かない云々は見逃せない。足がつかない程度に技術の供給を増やして郵便システムをアップグレードすればどんな環境でも物理の手紙が届くようにできるだろう。それも指示しておく。
携帯で公共事業部門を任せている部下に諸々を伝える暗号メールを送る。
修理代でシナトラファミリーの抜けを補えるといいが。
戦争は日を増すごとに激化している。その方が金になるから良いと言えば良いが、不必要な衝突は見過ごせない。自分にできることがあればいいが、こういう時は関わらないことが役に立つことになる。深入りは禁物だ。足がつくことになりかねないし状況は好転しない。政府に正体を隠して武器を売ったり、クリーンなフロント企業を介して公共事業を手掛けたり、これらは常にギリギリの綱渡りだ。ハイリスクハイエストリターンでなければ続けない。
「十六日の選挙で当選し、政府議員に就任したグライド・ベッツィ氏が先ほどかみのけ星座付近の惑星のレストランで数人の遺体と共に発見されました。プラズマ銃での撃ち合いの末死亡したとの見方が強く、関係当局によりますとこの事件はギャング組織との関与が疑われていた氏の疑念を決定づけるものとしており、氏の当選を良く思わない何者かによって送り込まれた暗殺者一人によって引き起こされたものであるとのことです。また、銀河政府は今日付でベッツィ氏の自宅と所有する物件を捜索する令状を発行しており疑念を徹底的に追求する方針を示しました」
クリーニング屋は良い仕事をしたようだった。当選を良く思わない者の犯行に仕立て上げるとは。高い金を払う価値はある。いや、値段以上だ。今日殺した分は全て倉庫に保存されているはずだ。ある目的のために使うから置いておかなければならない。
一つあくびをしたところでドアがノックされた。のろのろと立ち上がる。
誰だ。覗き穴を見る。げっ、国又利恵菜だ。何だか知らないが絡んできやがって。撃ち殺してもいいがな……。こんな奴に使う弾丸がもったいない。居留守を使うか。ドアから離れると、いぬが飛びついてきた。猫らしくにゃんにゃん鳴いている。くそ。いることを悟られるだろうが。よりによって今か。
「もうどう?」
外であの女の忌々しい声が聞こえる。
「いるの?」
ああちくしょう。
「何の用だ」
帰れ帰れと思いながら覗き穴を見続ける。
「昨日のこと、謝りたくて。その、沙織のことを言ったことを」
別に何とも思ってないから早く消えてくれ。うっとうしい。
「あー、なんでもいいから別にさ、その、なんていうか、気にしてないから早く消えてくれ。おぉおう。もういいからさ」
「そんなこと言わないでよ。わたしも時々悲しくなるの。まだ、沙織の写真、スマホから消してないの」
沙織。
下を向いた。意図しない動きだった。
虹色の気配が、背中に思い出される。
麻痺だよ。まだ麻痺していない。まだ痛いんだ。キリキリと痛むんだよ。朝起きるだろ。そしたらまだ、今日は沙織に会ったら何を言おうとか、考えてしまうんだよ。どうしてそのことを言ってくる。どうしてわざわざ俺に絡んでくる。どうして放っておいてくれないんだ。
瞬きをした。何度も何度も。涙を抑えようとしているんじゃない。もう出てこないものを抑えようとしても仕方ないんだから。ただ、なにか、目の前にあるものを消そうとしている。目の前に浮かび上がってくる、思い出すと死にたくなるあの綺麗な姿が浮かび上がってくるのを防いでいるだけなんだ。
頭の中で重低音が響く。まるでヘリコプターのプロペラが近くで回っているような音だ。フラッシュバックか。耳鳴りがしてくる。銃声のような音も。金属が転がる音も。沙織は銃で死んだわけではないのに、どうしてこんな音が聞こえてくる。まぶたの裏に焼きついていても、見ないようにしてきた光景がじんわり浮かんでくる。爆発寸前の沙織の表情。何も罪はない。何も知らなかったのに。どうして。
ドアについていた両の平手が大きな振動を感じた。外側からドアが、何か叩かれたかのような衝撃が。これもフラッシュバックなのか。いや、違う。覗き穴から利恵菜の姿が見えなくなった。その代わり遠くに銃身のようなものが見える。
おい。襲撃されたのか。ここ。え、嘘だろ。ということは利恵菜は死んだのか。撃ち殺されたのか。今手術すれば助かるか。
いや、でも。まあ、仕方ないか。
いきなりココロが冷静になっていく。
まあ仕方ない。こいつは死んでも当然だ。悪人でも罪人でもないが自分にとっては邪魔な人間だ。いずれ始末するつもりだった。それをどこだかの誰かがやってくれたんだからありがたいと思うべきだろう。
このまま踵を返してソファに座る。絶対にそうしてやる。猫を抱っこしながら今後の情勢を見極めよう。
銃を抜いてドアを開ける。即座に発砲方向を見極めて敵を探す。前方だ。アパートの入り口の道路。
敵三人の頭には腕が生えている。
利恵菜はドアノブに手をかけて倒れていた。腹には五つの銃創がある。敵の弾が屋根やフェンスやドアの周りの壁に当たる。耳をつんざくが、あの日から続く耳鳴りには勝らない。
埃、壁の素材の雨。利恵菜をドアで隠す。
敵の装備はプラズマライフル四五口径。一人倒れる。もう一人倒れる。三人目は完全に殺さない。足と腕を撃つ。すぐに銃を落として倒れる。体を仰向けにして苦しそうに咳をしている。
フェンスを乗り越えて地上に飛び降りると、走って倒れた敵のもとへ急ぐ。近づくにつれてそいつのうめき声と怒りが増幅していく。
「余計なおしゃべりをするつもりはないから質問に答えろ。言う通りにすればすんなり殺すことを約束しよう」
うめき声しか返ってこないが返事を求めて拷問している暇はない。
足を胸の上に乗せて銃を頭に突きつける。
「サンボーンの指示か?」
頷く。
「なぜだ」
頭を横に振る。
「サンボーンはどこにいる」
何か言おうとしている。顔を耳に近づけてやる。
「月の営業所の……事務所……」
約束を果たす。
空を見た。曇り空の自分のココロをあざわらうかのような晴天だった。
まだ終わっていない。まだ水は漏れている。裏切りの黒幕はベッツィではなかった。
この考えだけが強い確信となってココロに落ち着いた。証拠はない。たまたま襲撃してきただけかもしれない。しかし自分の直感はそうは言っていない。
頭を振る。
死体の処理は後だ。利恵菜のやつが死にかけている。階段を駆け上がって抱き上げる。
脈も息もある。銃創を確認する。幸いかあいにくか急所は外れている。すぐに治療できる。これも幸いかあいにくか、プラズマ弾丸の温度で患部は熱血されていて出血はない。
「もう、どう」
「しゃべるな。治療するから」
「なん、な……の」
「こっちのセリフだくそめ。しゃべるなって」
「さ、むい、わ……」
「そうだろうな。ショック症状」
部屋に運び込む。
いぬが駆け寄ってきて心配そうに鳴く。
「こんな奴心配しなくていいからな」
「ど、う、するの」
「手術するから、黙っとけって」
利恵菜の体から力が抜けていく。頭がかくんと垂れる。
「くそめ、死ぬな。新しくお前のクローンを作らなきゃいけなくなるだろうが」
「これはなに?」
「ああううだあん」
「違うでしょ。これは、電車でしょ」
鈴音はダッフルバッグに入っていた乗り物の絵本をかつしに見せていた。
かつしはあまり泣かなくなり、ちゃんと座って母親の話を聞いていた。
自分はこれ以上見落としがないようにかつしの情報が入ったフォルダを読み込んでいた。もう五周目だ。これから六周も七周もすることになるのだろう。暇だ。かつしがしゃべられるようになって鈴音は狂喜乱舞で、すっかり教育ママになってしまった。きつしがやることといえば三時間に一回バケツを用意することとカゼインが含まれていない粉ミルクを作ることだ。
鈴音は絵本や学校の教材やらをかつしに見せては空回りしている。かつしが話せるようになったとは言ってもまだはっきりとした単語や文章が話せるわけではない。こちらも聞き取れない、ぼんやりとした単語のような言葉を話しているだけだ。しかし、どこか聞き慣れた音だ。
例えばさっき言っていた「ああううだあん」はっきりと聞き取れたのは「だ」と「ん」だけだ。
直前の文字は「あ」と「う」だ。少し違和感がある。「あ、う、だ、ん」はっきりと思い出せはしないがどこか不吉というか、変な響きだ。
「じゃあこれの続きは?」
数学の教科書だ。なんとかという定理の証明の続きだ。つい五分前にはよく分からない言葉と数式の羅列が聞こえていた。
「い、お、ご、お、し」
「だから違うって。さっきから言ってるじゃないの。任意の正の整数で始めて偶数ならば二で割って奇数なら三倍して一を足すという操作を繰り返すと?」
かつしは両手を振り回して教科書を叩いた。
「ちょっと。さっきもやったじゃない。コラッツ予想でしょ。百年近く解明されていない証明でしょ。シリコンバレーの企業が一億円の懸賞金をかけてる。学校でも課題が出たわよね。きつし」
「も、も、もうどうが解いちゃったよね」
かつしは右手で左足を持とうとして転んだ。
「じゃ、く、さ、う」
「何言ってるのよ。さっきから。ねぇきつし。この子わたしたちには似てないわよ。どっちかというと小林よりなんですけど」
もうどうのやることだから自分の遺伝子を受け継いだ子供を自分たちに渡したとしたとしても納得はいく。それにしてもまだ新生児なんだから勉強を強いるのは少しかわいそうなのではないか。
「ねぇ、鈴音」
「なに」
「そ、そ、そ、その、まださ、赤ちゃんなんだからべ、べ、べ、べ、勉強とかはまだ早いんじゃないの」
「だってこの子しゃべったのよ? まだ赤ちゃんなのにしゃべったのよ。だから今から勉強して立派な人にしなきゃ」
「で、で、で、で、で、でも、この子は勉強したがってるのかな。もっと違うことをしたいと思うんだけど」
「例えばどんなこと?」
「ほら、普通にさ、そ、そ、そ、そうだね。あの、なんか、手遊びとか」
「手遊び? どんな」
「ど、ど、ど、どんなって。『おててどこ』とか?」
鈴音はかつしを持ち上げると、右手を握り拳にしてきつしのお腹に軽く打ちつけた。
「なに」
「手遊び」
「いや、それはべ、べ、べ、べ、別にいいけどさ。暴力だよ」
「あなたたちも暴力じゃない」
「それはそうだけど、ち、ち、ち、ち、小さい子に片棒を担がせるのはどうかと思うよ」
「片棒を担ぐっていう言い方」鈴音は軽く吹いた。
「言い方なんてなんでもいいでしょ。今は勉強じゃなくて、なんていうか。じょじょじょじょ、常識みたいなのを教えるのがいいんじゃないの」
「ひとごろし」
「え?」
「わたしじゃないわよ」
ひとごろしって確かに聞こえたぞ。まさか。
鈴音に抱かれているかつしの口元を見た。
「ひ、と、ご、ろ、し」
「……なんて?」
「お、ろ、せ」
鈴音は肩を震わせるとかつしを床に下ろした。かつしは自分の足で自立すると、「よちよち」でも「よろよろ」でも「はいはい」でもなく『きびきび』と歩き始めた。
「うそでしょ」
鈴音がぴゃっと飛び退くとかつしは鈴音の方を見て
「ひ、と、ご、ろ、し」
直感的に危機を悟って抱き上げようとしたがかつしは身をかがめて自分の足の間をはってキッチンの方へ逃げた。鈴音の目を見た。鈴音は自分の目を見た。「外に出してはいけない」二人のココロでその声が響くと、かつしに向き合った。かつしはおおよそ赤ん坊とは思えぬ形相でにたりと笑った。鈴音は不意をつかれたように後退りした。その時、かつしはコンロの上に飛び乗って正面に走り、きつしがその先をカバーするとかつしは、ぴょいと隣にジャンプしてリビングに飛び降りた。
「鍵を閉めて!」
自分の声で鈴音は玄関に駆け出した。かつしはソファに飛び乗った。急いであとを追ってソファを確かめたが、かつしの姿はどこにも見当たらない。
どこだ。どこに行った、と思っていたら、足を引っ張られる感触があった。前につんのめってソファに倒れたが、それだけにとどまらず体重がかかって机に鼻をぶつけて、血を出した。
階段を駆け上がる音がする。鈴音が追いかける音も。
「うぅっ」
ありがちにうめいてティッシュで鼻血を拭いた。これは、この凶暴さはもうどうが設定したことなのか、それとも、自分たちの育て方が悪かったのか。どっちも考えたくない。
上の階で交通事故でも起こったのかと思うほどの音がしている。鈴音の悲鳴を聞くとすぐに飛び起きて、三段飛ばしで階段を上がった。
二階には行ったことがなかったから分からなかったが一階よりも部屋の一つ一つが狭い上に数が多い。隠れられたら見つけられない。迷路の方が何倍もやさしい。
「きつし!」
鈴音の声がする。右だ。
「鈴音!」
すぐ右の部屋のドアを開けると段ボールの上で、鈴音がトイレットペーパーでぐるぐる巻きにされて倒れていた。部屋は一面段ボールで埋め尽くされている。ガラクタをしまっているものらしい。足の踏み場がない。
「だ、だ、だ、だ、大丈夫?」
つまずきながら鈴音に駆け寄る。
「大丈夫だけど、どこに行ったか分からない」
「ひ、と、ご、ろ、し」の「し」とドアが閉まる音が重なった。
おむつ姿のかつしがこちらを見ている。
「ひ、と、ご、ろ、し」
「ちょ、ちょちょちょ、ちょ、ちょっと落ち着いてくれない? 何が不満だったのさ」
「ひ、と、ご、ろ、し」
「シンクに汚物を吐かせたのがやだったのかい? 高熱を出したこと? あ、あ、あ、あ、あらかじめ情報を見てなかったのは悪かったけどここまで恨むことないだろ」
「ひ、と、こ、ろ、す」
「ちょっと待って。汚い言葉は使っちゃだめなんだよ」
奇声をあげて飛びかかってくる。立ち上がって腰でブロックするが、ひっついて離れない。制服のブレザーの中をまさぐる。
「ちょ」
右腰のホルスターの銃が揺れる。
まさか。それだけはだめだ。
「ちょっ……と」
腰を右に振ると重さがなくなる。かつしは正面の段ボールに突っ込んで倒れた。段ボールの中に入っているものがガチャガチャと音をたてて落ちていく。かつしの姿は段ボールと埃に埋もれて見えなくなった。
「だ、だ、だ、大丈夫?」
鈴音の手をとって立ち上がるのを手伝う。
「だいじょうぶ……」
「ならよかった」
肩で息をしていると、つんざくような泣き声が聞こえてくる。二人の視線は崩れた段ボールに向く。きつしは鈴音を見る。鈴音はきつしを見る。
自分たちが何をしたか思い返す。子供が欲しいとせがみ、友人に作らせて、しかし出来上がった子供に最初は然るべきケアもできず過度な期待をかけて少しいたずらをすれば目くじらたてて追いかけた。子供は悪くない。さっきまで敵と戦うように子供に向き合っていた。今だって、かつしより先に鈴音に歩み寄っていったではないか。子供を持つには未熟すぎるし簡単に考えるべきことでもなかった。大変などというレベルではない。命を預かるのだ。組織の人員のように他人の命を背負うのとはわけも重みも違う。自分の子供。
この世でたった一人、最後まで自分を信じるであろう人間。
すぐに段ボールをどかして、かつしの姿を探した。もしも死んでいれば。十分可能性はある。自分のことを許せないとか、一生後悔するはめになるとかそういうのじゃない。その子のために、愛情をもって探すのだ。鈴音もこっちに来る。
ふと正面を見た。凄まじい何か。今まで何度も宇宙で感じたことのある感覚が背中を伝った。右に鈴音がいる。鈴音に飛びかかって、避けた。
さっきまで鈴音の頭があった場所の段ボールに穴が空いている。煙が出ている。穴の周りは青く焦げている。もしよけていなかったら、鈴音の頭に風穴があいていた。弾道を辿る。後ろには銃を持った赤ん坊がいた。とっさに右の腰をまさぐる。空のホルスター。
おむつは埃で薄茶色く汚れている。
目は完全に殺気で支配されている。肩で息をしている。小さな肉が、呼吸の乱れで小刻みに揺れている。自分が初めて銃を撃った時のことを思い出した。指や手、腕の震えは一切ないのだ。その代わり下半身の筋肉が弛緩する。立っていられない。呼吸は信じられないほど浅くなり、酸欠になる。目は次の獲物を探し出す。耳はずっと銃声の反響を追いかけ続ける。頭の奥でぽくぽくと音がするのだ。これは生きることの反動だ。銃を撃つということは全くそれと同じことだ。命を奪うこと、奪おうとすることを理解する。自分の行為のおぞましさ、卑劣さ、恐ろしさ、とにもかくにもひどいことだと認識して避けようとすればその場に得物を落とすだろう。二度と触れることはない。しかしその感情を受け入れて「続けられる」と思えば指は自動的に引き金を引く。
生きていることの反動を感じる。お次は自分だ。その恐怖で、なぜか表情が綻び、笑顔になる。「殺される」そうならないように、全ての可能性を消すために、その目が認める生き物を殺し続ける。
かつしはどうだ。
足の肉がプルプルと揺れ、口は半開きで口角が上がっている。銃を落とす気配は全くない。目は自分たちを探す。すぐそこにいるはずなのに、どうしてかわざわざ探すような動きをする。ゆっくりと銃身がこちらに向く。鈴音を抱えてドアを突き破る。
かつしは家から出たかったわけではない。自分たちを閉じ込めて楽しみたかったのだ。
隣の部屋に逃げ込む。段ボールをドアの前に積み上げてバリケードにする。
「は、は、は、は、は、反抗期にしては早すぎないかい?」
「第一反抗期は案外すぐくるものなのよ」
鈴音は汗をかいていた。口調とは相反して、目には恐怖が色濃く滲み出ていた。
「生まれて数時間でもかい?」
外でびたびたと何かが垂れる音がする。汚物放出の時間になったか。
小さな足音が通り過ぎる。別の部屋を探しにいったのか。
「どうして、こんなことになっちゃったのよ」
泣きそうだ。
「かつしはわ、わ、わ、わ、悪くないよ」
「わたしのせいだわ。変に期待してしたくもない勉強をおしつけたから……」
ついに涙を流した。
「ちがうよ。きみのせいでもない。僕が悪いんだ。さ、さ、さ、さ、最初にフォルダを見なかったからね」
ドラマや映画で、最悪の事態になってから登場人物が次々に責任を認めるシーンがある。あんなの脚本の都合だと思っていたが実際同じ状況に直面するとそんな風に考えていた自分をひっぱたきたくなる。
「と、と、と、とにかく、あの子を止めなきゃ」
「でもどうするの。銃をとられたわ。わたしたち撃たれるかも」
「君が撃たれたら僕は悲しむだけさ」
「そんなの……」
「嫌かい? 僕は銃を取られて良かったと思っているよ。もし手元に銃があったら撃っていたかもしれない。かつしを狙わなくても、当たっていたかもしれない。我が子に弾丸があたる事態を避けられたんだから、喜ぶべきだよ」
達観した、とは言わないか。元々親はこうあるべきなんだろう。愛をもって育てるというのはきっとそういうことなのだろうから。
鈴音の腕が震え出す。自分の腕を掴む。不安な時は何かを掴みたくなる。よく分かる。
父親がいなくなった頃、自分もよくベッドの脚を掴んでいた。もうどうもそうだった。
「大丈夫。大丈夫だから。大丈夫。絶対に大丈夫だから」
隣の部屋で段ボールが崩れる音がする。発砲の音も。
不安は簡単に伝染していくのに、安心は簡単に広まらない。
鈴音の顔を見る。今日死んだらおかしいなんて日は来ないし、そもそも存在しない。毎日が「今日死ぬかもしれない」だ。だから何ら不思議ではないしそこに疑いはない。
なぜだ。今までもっとひどい状況だって切り抜けてきたのに、どうしてか今日でもう終わりだと思える。強く確信した。今日、自分は死ぬ。全てを置いて、全て消える。それは隣に大切な人がいるからだ。大切な人のためなら死んでもいいと思えるからだ。
「幸せというのは、思い出を誰かと共有した時だ」という言葉を何かで読んだことがある。
「初めて会った時、覚えてる?」
腰を段ボールの上に落ち着けて鈴音を見た。鈴音は静かに泣きながらゆっくりとこっちを見る。
別の部屋のドアが開く音がする。発砲音も。
「え?」
「だから、初めて会った時、覚えてる?」
「覚えてるけど……。わたしたち殺されるわ。自分の子供によ。どうすればいいの」
「まあまあいいから。絶対大丈夫だから」
「何が大丈夫なのよ!」
両手を段ボールの上に叩きつける。
「落ち着いてって。大丈夫だから」
「どうしてあなたはそんなに冷静なの? あなたがどもらなくなる時ってすっごく冷静な時。今までもこんなことばっかりだったから?」
「まあ、そうだけどね」
笑いが漏れた。それも変か。鈴音の肩に手をのせる。小さな肩だ。
「フェンネルさんのボディガードに左目殴られたりしてればそりゃそうなるわよね」
「まあ、あれは痛かったけどね。まあファブリシオも酔ってたんだよ。パーティの席だったからね。もうどうは本当に怒って殴りかかったけど、フェンネルさんが止めたんだ」
「あなたも止めた?」
「そりゃそうさ」
「小林はお酒飲んでたの?」
「いや、もうどうはいつもオレンジジュースさ。グラスに一輪のオレンジジュースが挟まってるやつ」
「あなたはお酒飲んでないわよね」
「飲んでるわけないでしょ。僕はいつだってミルクセーキさ」
鈴音は少し笑った。この笑顔を見ると、死ぬことなんてなんでもないと思える。鈴音は涙を拭うときつしの目を見た。鈴音の目の中の不安や恐怖は小さくなっていた。あるのは希望だった。好奇心と、希望。生粋の冒険家の目つきだ。
「……初めて会った時はあなた、怖かった」
「怖かった?」
「うん」
「どうして?」
「だって、ガチガチの革のジャケット着て、小林の隣で睨みきかせてたから。こう前で手を組んで」
鈴音は両手を合わせて腹の前に当ててみせた。
「だって、あの時は。外出先じゃずっともうどうのボデイガードだったから」
「小林がそう命令してるの?」
「いや。僕が好きでやってたんだ。ボデイーガードっていうのも意識してなかったけど、とにかくもうどうの前に立って守ってた」
「小林のことが好きなのね」
「僕の人生で大切なのは君とかつしともうどうだけだよ。今君と一緒に死にかけてるのも、宇宙に飛び出して素晴らしいものをたくさん見れたのも全てもうどうのおかげだ。もうどうがいなければ、僕は、僕はきっと今頃生きていられなかった。特に今年はね」
「……なにがあったの?」
「仕事のトラブルとかね」
「そうじゃなくて。きっと今頃生きていられなかったって。想像できない。思えば、あなた、自分の昔話は全然しないわよね」
「まあね」
「どうしてなの」
「話す必要がないからね。僕を一方的に大切に思う人たちよりも僕が大切に思える人を大切にしたいと思うから。もうどうと同じだよ。家族に愛情を見出せなかったのさ。実際、家族も僕を愛してはいなかっただろうね」
特別しんみりした感じで言ったつもりはなかったが、少しピリついた空気が流れた。
「……ごめんなさい」
「いいんだ。全然いいんだ。意味のないことは何もないっていうのも、もうどうと一緒に宇宙に出て学んだことだよ。家族との生活だって意味があったんだ。愛がどういうものか知らなかったからこそ、僕は君との生活で愛を知れた。最高の愛をね」
鈴音は泣き笑い、というには少し泣きすぎているけれど笑いながらきつしの胸に体を預けた。きつしは優しく抱きしめた。抱き「しめる」というのは圧迫しているようで少し乱暴な感じがする。「抱く」というのは優しく包み込んでいるイメージがある。この「抱きしめる」という言葉が何よりも好きだった。矛盾しているようでしていない。意味を考える度にそのイメージが変わる。「抱く」が強いイメージの時もあれば「しめる」の方が強いイメージの時もある。今は「抱く」の方が強い。
足音が聞こえる。反対側の部屋に入ったようだった。
ドアに発砲したようだ。どうやってドアノブに手をかけているのか不思議だが、とにかく部屋から部屋を探し続けている。探している、というよりは「待っている」に近いのかも知れない。
そう考えると少し背筋が冷たくなった。こころなしか背中の上の鈴音の手も強張ったような気がする。
「待っている」
自分たちが恐怖の頂点に達するのを待っているという意味だ。
わざと別の部屋を探して、物音を立てたり銃声を聞かせたりする。そうして、こちらの恐怖をかきたてて楽しむのだ。今まで争った相手にもそういうタイプがいた。自分と相手がいる場所をショーのステージだと思っているのだ。観客がいて、後ろにはスクリーンがある。舞台照明が光々と照りつける中を狂気いっぱいに演じる。
鈴音にああは言ったがもしももうどうが赤ん坊を作るにあたってこんな設定にしていたとしたら流石に恨む。すぐに話せるようになって人を殺したくてたまらなくなる赤ん坊だなんて。カゼインアレルギーで、汚物を口から吐くのはまだ許容できる。しかしカゼインアレルギーだと分かっていながらカゼインを含んだ粉ミルクをバッグに入れていたり、バケツの一つも用意しないのは少し意地が悪いのではないだろうか。
しかし、一応もうどうはフォルダに全ての情報を書いてくれていた。最初にそのフォルダを見ていればバケツだって買ったろうしカゼインが含まれていないミルクを買っただろう。だから結局は自分の責任だ。これももうどうの計画なのではないかと思える。自分たちが責任を感じるように、そういう風にしているのではないかと思う。
銃声。
ドアノブが落ちる。
すぐに鈴音を後ろに逃す。
ドアがゆっくりと開く。
おむつをした赤ん坊が現れる。
なるほど、ドアノブを壊していたのか。
銃が向く。
「なあ暴力では何も解決できないんだよ。見せかけているだけなんだ。銃や暴力だけでは何も収められないんだよ」
「ここが父さんが普段働いている仕事場だよ」
頭から腕が三本生えている宇宙人はドアを開けながら言った。
「綺麗なところじゃない。ジャネット」
「そうだろ。妻である君にもずっと、来てほしいと思ってたんだ」
ジャネットは、妻と娘をオフィスの中央へ案内した。娘は母親の手をしっかり握って指をくわえている。三年前生まれたのだ。
ジャネットは小さな娘を抱き上げてデスクの上のトロフィーを見せる。腕の中で頭の腕を上下に振った。抱き上げた時は必ずこの動作をするのだ。
思い返してみれば「ノー」を突きつけ続けた人生だった。
大学に入学した頃自分たちの種族が生業としていた海賊業が廃れた。高校時代の友達はみな海賊として一旗あげるんだと言って、中学の頃から自分の宇宙船を持つことを夢見ていた。高三の二学期に行われた進路希望調査で自分以外の全ての男子生徒は「海賊」と記入した。
教員もみな若い頃は海賊だった。制圧したしまが多いほど良いポジションに天下ることができた。三者面談の時には怒鳴られたものだ。なぜなら自分が書いた進路は「大学進学」だったからだ。
人口の男性の九割が海賊となる社会で大学というのはもはや図書館と同じ扱いだった。試験はあってもみなが出入りできる資料室。電子地図に載っていない小惑星や星座を制圧する時に特徴なんかを調べるために年に数回訪れるか訪れないかの施設だった。たったそれだけのことだった。
わざわざ学費を払って大学なんかに何をしにいくのかと訊かれると「特技のプログラミングで、情報技術を進展させたい」と答えた。
何のために、と訊かれると
「海賊業者同士の通信網を整備してコミュニケーションを円滑に進める技術を開発するため」と答えた。
自分にはそういう夢があったのだ。
もちろん親には反対された。父親は、かのドン・サンボーンの海賊組織の幹部だった。
水星の物流ネットワークをたったの一人で制圧した英雄だった。教科書にものっているし伝記にもなっている。
父親は息子を殴った。怒鳴って叱責した。母親は泣いた。兄は無視した。
それでも自分は我を突き通した。家を出て学校に住むようになった。教師たちからは猛反対されたが、大学の学費を思ってアルバイトを始めた。生徒が下校した後、トイレや窓、教室の床なんかを全て掃除する仕事だ。時給はたったの三ミリレロ。前に本で読んだ地球という惑星の日本という国の通貨にして約七百二十円だ。学校が終わると勉強して掃除。そのあとも勉強してまた掃除。意識がなくなるまで勉強してそのまま就寝。そんな生活を一ヶ月も続けると、教師たちも呆れて放っておくようになった。
校門の前を掃除していると、時々父親の姿が見えた。そんな時は決まって気付かないふりをしてさっさと廊下のモップがけにうつった。
試験に合格して苦心の思いでためた学費を納めながら必死で講義を受けた。教授もやる気がないが、質問攻めにしてやると熱意を取り戻した。三年後トップの成績で(とはいっても生徒は自分だけだったから当たり前なのだが)卒業すると、電子通信網整備士の資格をとって通信網整備会社のエンジニアとして就職することに決まった。
一人だけの卒業式が終わった後、最後の学費を納めに事務室へ向かった。この三年間いつもテレビが点いている部屋だった。普通は銀行口座での引き落としになるのだが口座の開設には両親の同意が必要だった。
金の入った封筒を事務員に渡すと控えとお祝いの言葉をもらった。その瞬間に、部屋の奥でいつも点いているテレビのニュースが海賊時代の終焉を告げた。それが意味するのは人口の九十パーセントの失業と「自分の勝利」だった。
新聞で見たところ、銀河政府が海賊業を禁止する法律を強化したことが原因だった。ここ三年で海賊行為を行った組織や個人は多額の賠償金を払うことになり。甚大な被害を出した者は逮捕されて懲役をくらった。
父親は組織から切り捨てられて逮捕された。戦争での兵役と引き換えに減刑する条件も出されたが拒んだために銃殺刑になった。当然だと思った。人様の惑星に乗り込んで残虐行為を働くなんてのは最低の行いだ。よって父親は最低だった。死んで当然の人間だと思った。
就職して一年は大変だった。ありがちだが思い描いていた仕事と実際の仕事には大きなギャップがあった。それでも自分が正しいと信じて働き続けた。三年目には新規プロジェクトのリーダーを任されるようになった。そこで自分はようやく、通信網の整備に着手することができた。
海賊業の衰退で惑星の犯罪率は八十パーセント増加した。警察機関は機能しているが、通信網が複雑なせいで、通報が無視されることもあった。
公共事業として海底ケーブルや空中の電子通信網を整備すると、警察は動きやすくなったようだ。仲間同士の無線も通報も一括で管理でき、個人がすぐに現場に向かえるネットワークを作り上げた。
実装してから二ヶ月で警察と政府から感謝状が届いた。三ヶ月でとある機関に引き抜かれた。それはドン・サンボーンの組織だった。海賊から足を洗い、物流や空運業にシフトしていた。戦争に参入して、一旗あげて勢力を取り戻そうとしていた。彼は、ぜひ自分の技術を組織の連絡通信網の改善に役立ててほしいと言ってきた。選択の余地はなかった。
サンボーンのもとで働いてからはすぐに組織の中の重役を担うようになった。おとめ座と交渉して月の営業所を管理することになった。自分はそこで流れてくる物資の管理だけでなく。通信網のメンテナンスを行なっている。
もちろん彼の暗黒なビジネスにも関わった。戦争に参入するにあたって武器が必要になるとフェンネルという業者とコネができた。彼はコバヤシもうどうという業者を紹介した。なんでも彼は宇宙一の天才科学者で彼の作る武器を使うと必ず勝てるらしい。サンボーンは浮き足立って取引を決めたが、通信網にはとある噂が回ってきていた。コバヤシもうどうという業者が信頼されている要因の一つとして取引の作法を大事にすることが挙げられる。しかしそれは表向きで実際は送金の前に品物を試させたりするそうだ。この情報は彼の評判を落とすことにつながる。すぐにサンボーンに報告すると、嬉々として取引に向かっていった。結果的に取引は失敗した。撃ち合いになったそうだ。仲間を全員殺され、サンボーンも被弾した。報復としてコバヤシもうどうの女を銃撃したそうだ。
「そのトロフィーが何なのか教えてあげたら?」
妻のパネッティの声がする。
「言っても分からないよ」
今まで自分は夢と仕事に生きてきた。だけど今は妻と娘のために生きたい。妻はいつでも自分を支えてくれた。サンボーンの紹介だった。いわゆる政略結婚だったが愛し合っていた。ありきたりな言葉だが、この生活が永遠に続けばいいのにと思っていた。
「なんなの? この音」
パネッティが不安気な声を出す。
何か外が騒がしい。窓から外を見てみると、倉庫が燃えている。倉庫を守っている人員の死体が散らばっている。今、この営業所にサンボーンが来ている。すぐに連絡しないと、と思ったところで上から落ちてきた閃光に包まれた。意識を失う直前、部屋の全てが黒焦げになるのを見た。
車はミサイルやロケットランチャー、マシンガンなどありとあらゆる武器を積んでいる。
月の営業所はおとめ座のやつらのものといえどサンボーンのものだ。もちろんめちゃめちゃに破壊してやるつもりだ。おとめ座の奴らが何と言おうと知ったこっちゃないし。
ロケットランチャーは次々に倉庫を吹き飛ばし、中継センターを火の海にしていく。
ドアの窓から火に包まれる月を見下ろす。
マシンガンで逃げ惑う者どもをロックオンすると、発砲する。花火のように色とりどりの血が飛び散る。すでに破壊したところにも弾丸をお見舞いする。利恵菜のことを思い出すと、操縦かんを握る手にどんどん力が入っていく。
営業所は月の半分以上にも及んでいる。カッターでその部分だけ切り取る方が早かったか。
真空空間に向けて発進する宇宙船がレーダーに引っかかる。自分だけ逃げようとはあつかましい。ミサイルをくれてやる。綺麗な花火だ。サンボーンは自分の手で直々に処刑する。おそらく一番大きな事務所に隠れているはずだ。レーダーはサンボーンの姿形を記憶しているからどこに隠れようと無駄だ。それが、そういうことなのだ。それが、自分を怒らせるということなのだ。自分だけではない。他の誰だろうと、自分への攻撃が身近な者へ波及すれば許す者はいないだろう。
サンボーンはやってはいけないことをした。利恵菜だ。
嫌いなのだ。あの女は。正直、自分でもこの行動は合理的ではないと思っている。うっとうしくて、嫌いなんだ、あの女は。あの女を見ていると沙織を思い出す。なぜならあの頃、利恵菜の隣には必ず沙織がいた。友達として。沙織の隣には必ず利恵菜がいた。友達として。
自分の隣に、恋人としている時の沙織とは違う。別の物体、いや、流動体。背中に何かが流れているような、違和感。それでもその場に収まっているものを見ている、満足感、納得。沙織は流動体だった。いろんな人の体に流れ出ていって、親しくなる。やがてその流れなしでは生きられなくなる。突然いなくなると、狂ってしまうのだ。全ての人に平等で、優しく。その優しさの本質は愛だった。誰のことも愛している、というよりは愛せる。手がつなげたり、抱きしめられたり、キスできたり、セックスできたりするわけじゃない。そういう愛ではない。逆に言えばそれは、誰のことも愛せる人間。ただそれだけのことなのだ。科学的に言うと、誰でも愛せる人間からもらう愛には価値はない。それは基本的にゼロかけるゼロだ。沙織は自分に愛はくれなかった。彼女がくれたのは笑顔だ。
常に笑っている太陽よりも時々笑う月のほうが好きなのだ。
彼女はいつも笑っていた。
だけどそれは、違うものだった。笑顔ではない。ただの他人のために繕った表情のバリエーションの一つ。自分に見せたのは完全な輝きだった。口角や目の開き加減、そういったものは一切関係なかった。いや実際、笑っていなかったのかもしれない。それでも、自分には彼女が最高の笑顔を見せているように思えた。
自分の頬を涙が伝うことはない。枯れてしまったからだ。その代わりに、痛みは蘇ってくる。焼き払って、生えてこないようにしたはずの懐かしみや苦しみが再び芽を出してくる。
怒る。悲しみを押し殺して怒る。ただ、操縦かんを握り、花火を打ち上げる指に力を加えていく。
カーナビから電子音がした。レーダーがサンボーンをとらえた。東の中継所の三階。階段の隣の部屋。金庫室のようだ。
車を三階の壁に突っ込ませる。壁や内側の部屋はめちゃくちゃになったが車には傷一つつかない。レーダーを見ると、サンボーンの部下がドアの前に棚を設置した。バリケードのつもりだ。正直そうしてくれた方がやりやすい。
車を降りてトランクからグレネードランチャーとショットガンを取り出す。弾が入っているか確認して、サンボーンのいる部屋を探す。
「銃を、出せ」
「はい」
「よし。奴は、必ずこのドアを、突き破ってくる。その瞬間に撃つんだ。確実に殺すんだぞ。奴らはたった二人だ。コバヤシもうどうときつし。こっちには四人いる。大丈夫だ」
サンボーンは金と証券を詰め込んだバッグを抱えてボデイガード四人の後ろで縮こまった。四人とも軍隊出身の傭兵だ。ライフルとショットガンを構えている。コバヤシもうどうだろうときつしだろうとこの人数には勝てないだろう。
女の件はやつの自業自得だ。取引の場でこちらの部下を全員殺した。その上自分の足も撃ったのだ。手術はしたが、関節の重なる特殊な部位が損傷していたため、一生まっすぐ歩けない。このドン・サンボーンを敵に回したからにはそれ相応の目にあってもらう。この場を切り抜けたら奴の商売を破壊する。奴は自分との仕事を失敗して南銀河での勢力を失った。北側には自分のしまがある。そこで奴のバルカンルートや貨物線を破壊すれば行き場をなくすはずだ。奴にとって評判が落ちて仕事がなくなるのは死ぬよりつらいはずだ。どんなことよりも。
まだこないか。建物全体が揺れるほどの衝撃が来てから五分になる。どうしてまだこない。何か意図があるのか。だとしたらなんだ。
空気がどんどん冷たくなっていく。指先をつたう冷や汗が床に落ちた音すらはっきりと聞こえる。ドアの前に配置したバリケードは簡単には破れない。グレネードランチャーかロケットランチャーで破壊してくるだろう。しかしその程度ではあのボデイガード四人は倒せない。
後から思えば、自分は正面の城壁が攻められることしか考えていなかった。
左の壁が破壊されるなんて夢にも思わなかった。
煙とがれきと爆風に吹き飛ばされて、反対側の壁にぶつかった。反応の遅れたボディガードたちは次々に撃たれていく。
あいつは、グレネードランチャーを捨てると、鮮やかな動きでショットガンに切り替えて次々に発砲した。取引の時に自分の部下を次々と殺していった時のように。光景が思い出される。まるで劇だった。あいつに殺されることが脚本で決まっていたように、それを演じただけのようにみなやられていった。
ついに最後の一人の頭が撃ち抜かれた時、コバヤシもうどうは自分の姿を認めた。
もうどうはショットガンを落とすと、腰から別の銃を抜いた。
サンボーンはバッグを掴んだまま机の端を持って立ち上がるとドアを目指す。がれきにつまづいて何度も転げた。
もうどうはゆっくりと、がれきを避けながらサンボーンに追いついた。
「やめろ」
「撃たれた女に言うんだな」
もうどうはサンボーンの頭の腕を掴むと壁に叩きつけた。
至近距離で頭の腕を吹っ飛ばす。
「うがあああぁぁあっっぁあああ」
倒れて煙の舞う、がれきの中にうずくまる。
「全部自業自得だろうが。貴様が、こっちの部下を皆殺しにして、取引をだめにしたから」
「お前が根も葉もない噂を信じたからだろう」
「なんのことだ」
「俺が主義を曲げて、送金の前にものを試させるという噂だ。この噂がどういうことを意味するか分かるだろう。評判が落ちるんだよ」
「それは、信ぴょう性のある情報だ」
「誰から教わった。最初からあんたに聞くべきだったよ」
「部下からに決まってるだろう。通信網を整備していた部下だ。ジャネット・ガウモントだ」
「その情報はしっかり調べたのか?」
「もちろんだ。発信元はワイオミング・スターツベルク。あんたの部下だった」
「ほう」
「ほんとだ。うそじゃない」
「信じるよ。いや、俺は何も取引がうまくいなかったことを怒ってるんじゃない。取引の失敗でいえばあんたも被害者だ。愚かなワイオミングが流した噂を信じたあんたもそのジャネットとかいう部下も大まぬけには違いないが。俺が怒ってるのは何に対してか分かるか」
「女を撃ったことか? それはお前が」
言葉を続けることなんてできないんだ、結局。サンボーンの頭の腕はどちらもなくなってしまった。
「うあがあががわああぁぁぁぁあああっああ」
「直接攻撃をしかけずに周りの者を傷つけて回るのはもっとも恥ずべき卑劣な行為だ。いいか? お前がしたことは、この先お前が何をしても許すつもりはない。かといって今ここですぐに殺して、償わせたことにするのも納得がいかない。だからお前を生かす」
もっとも恐ろしく、もっとも悲しいのは「信じて疑わなかったことが疑うべきだったと分かる時」だ。自分が沙織と一生幸せに過ごせると信じて疑わず、疑うべきだったと思ったように。それが一番、嫌なのだ。
「なんだと……? わ、我が種族の誇りである頭の腕を両方とも失って、そのまま生きろと? そうして恥を晒しながら生きろと? お前はそう言っているのか」
「そうだ。殺してやろうか? お前が種族の誇りを失って生きるより死んだほうがマシだと考えられるほど高尚だとも思えないがね。そうだろ? 死ぬよりは恥を晒して生きるほうがマシだろう」
サンボーンは口をつくんだ。
「じゃあ、まあ。ほら立ち上がって消えろ。とっとと失せるんだ。二度と俺に関わるな。てめぇのちっちゃな組織の内輪揉めで死ぬまでせいぜい楽しむんだな」
銃を下ろすとそう放った。サンボーンは足を引きずってもうどうを睨みながら、ドアの前の棚をどかす。うめきながら、やっとの思いでどかすと、ドアを開ける。
最後に一度もうどうの顔を見る。もうどうは何も見ていなかった。顔こそサンボーンの方にあったが、それより後ろを見ていた。
サンボーンはドアの外に足を踏み出した。そう、踏み出しただけ。そのまま倒れた。
この小物の宇宙人には後頭部の銃弾が通った跡が残るのみだ。組織はもうどうに利用されるだろうし、資源も契約も財産も売り飛ばされるだろう。幹部連中も処刑されるだろう。
しかしそれこそ仕方のないことだ。この宇宙でこの小林もうどうを敵に回すというのはそういうことなのだ。もうどうはそのままサンボーンの死体を見ていた。結局裏切り者は見つからなかった。引っかかる点が増えていくばかりで線になっていかない。このまま泣き寝入りをするつもりは絶対にない。金がどれだけかかろうとこの裏切りの真相は突き止める。
全てのことを思い出す。最初から順に。
仕事が失敗。フェンネルから裏切りだと教わり、サンボーンの直近の通信相手のリストをもらった。ワイオミングに調査を頼み、別の線として自分の組織の人員で金の増えた者を調べた。彼らはフリーランスで仕事を受けただけだった。逆に裏切っていたのはワイオミングで、処刑したのちにファイルを持ち去った。自分だけでなく他の者から受けた仕事をご丁寧に記録として書類に残してファイリングしたものだった。そこには自分が頼んだ「記録の調査」の結果も含まれていた。それには目を通したが意味はなかった。特に怪しい点はなかった。ファイル記録からパッツィオファミリーのドン・ベッツィが噂を流すよう指示したと判明し、ベッツィの一味を処刑した。これで終わりかと思われたが、サンボーンの襲撃に遭う。月の営業所を襲撃してサンボーンの重要な仕事と資源を破壊し、人員を殺し、サンボーンも処刑した。
ますます分からない。きっと自分以外はもう裏切り者は処刑されているんだから気にするなと言うだろう。一から並べ立てて整理してみるとそう見える。だが、何かが引っ掛かるのだ。直感的に終わりじゃないと分かるのだ。このどうしようもない気持ち悪さを放っておいていいはずがない。
もう一度考える。
仕事が失敗。フェンネルから裏切りだと教わり、サンボーンの直近の通信相手のリストをもらった。ワイオミングに調査を頼み、別の線として自分の組織の人員で金の増えた者を調べた。
自分の組織の人員で金が増えた者。
利恵菜を治療したのは執刀専門医のハヴァキャンプ。
楕円形の顔面をした青色の皮膚の宇宙人だ。
どんな難しい手術でも成功させた政府の医療機関お抱えの医者だったが政府医療の腐敗を糾弾したことで惑星から追放され医師免許を剥奪された。財産も没収された。貧富の差が激しい宇宙で、財産を没収されて追放されるというのは死刑と同じだ。
半年前にケンタウルス座のスラム街を散歩していたところ暴行を受けている彼を見つけた。不良どもを蹴散らして助け出して近くのファミレスで話を聞くと、高名な医師だったと分かった。雑誌でその医師の研究を見たことがあった。生活費を出してやって住む場所と新しい身分証、仕事を世話してやった。自分が呼び出したらすぐに駆けつけてくれる緊急医療ユニットの執刀医としての仕事だ。
利恵菜が負傷した後も連絡一つですぐに指定の場所に来てくれた。こぎつね座の中惑星の廃倉庫にビニールブースで無菌室を作り手術器具を持ち込み、呼び出して十分以内に手術を開始した。
月の営業所から出ると「用事」を済ませてその中惑星に向かった。
手術が終わったという連絡は来ていない。時間がかかるから容体がよくないというのも早計だろう。時間がかかりすぎないのは理由が極端に二分される。治療がすぐ終わったか、死んだか、だ。
九兆キロ程度離れていても、月からのぼる煙が見える。サンボーン一味の断末魔が聞こえてきそうだ。
倉庫の中に車を入れる。
この中惑星の平均温度は二十六度。周りの惑星と比べると四季がはっきりしている方だが、一年中暑い。冬は少しマシになるが、少し涼しいというぐらいのものだ。
ネイビーのm65ジャケットを脱いで手に持つ。
青衣に身をまとった医師たちが中でいそいそ動いている。利恵菜は寝ている。このまま意識は戻らないかもしれない。仲間の手術はたくさん見てきたが、今のような感情を持ったことはなかった。
ビニールブースが見えた。
感情。自分の目はどんな感情も反射しない。快感も、苦痛も、それ以外も、何一つ。
どうしてこうなったのかは明確だ。怒りに燃えているからだ。怒りに燃えて武器を作り、怒りに燃えて裏切られ、怒りに燃えて裏切り者を探した。怒りに燃えて「あの男」を探す。
ビニールブースから少し離れたところのベンチに座る。ベンチとはいっても、そう見えただけだ。元々何に使われていたかは分からない鉄の塊。腰を下ろすと、ひんやりと冷たかった。
なんとなく右腰のホルスターの銃を触る。不思議なものだ。自分は今大勢殺してきた。しかし同じ時間、この中惑星では医師たちが命を救っていた。
自分が腰に下げている銃は命を奪うものだ。ビニールブースの中の医師が持っているメスは命を救うものだ。だが奪うこともできる。メスは所詮刃物だ。首に突き立てれば致命傷になる。銃も同じだ。撃つ相手が例えば女を苦しめる奴であれば、それは女を救っていることになる。
使う人間によって物の解釈が変わる。面白く思うと同時に当たり前だと思う自分がいた。
「もうどう」
ビニールブースからハヴァキャンプが出てきた。
「あいつの具合はどうだ」
「弾は全て貫通していました。幸い重要臓器の被弾はなかったので治療は簡単でした。出血がない分、体内にたまっている窒素が爆発する可能性があったのでエックス線でのアプローチを試みました。リスクは承知でしたが、無事に全ての縫合を終えました」
ハヴァキャンプはマスクを外しながら言った。マスクをくしゃくしゃと丸める。手術後にマスクを丸めるのがこの医者のくせなのだ。
「ありがとう先生。あいつと話せるかな」
「もうすぐ、目を開けると思います」
「ありがとう……」
ビニールブースから他の医療スタッフも出てくる。全員出るのを待ってから、中に入る。
利恵菜は手術台に寝ていた。半目だ。まだ意識がはっきりしないのか。
緑色の手術着を着て、白い布に体中覆われていた。右腕は点滴されていて、左手の指にはパルスオキシメーターがつけられている。体内の酸素を測る機械らしい。ブース内の手術器具は地球のものとほとんど同じだが、弾丸の熱によって固まった患部を冷却するためのチューブは珍しいものだ。
ベッドの左脇に置いてある丸椅子に座ると首をこっちに向けた。
「調子はどうだ」
利恵菜は少し顔をしかめた。顔色が悪い。手術着の着心地が悪いようだ。分からなくもない。
「最高」
「うそつくなよ」
自分でも声が優しくなっているのを感じた。利恵菜は笑うと、咳をした。手術後に急に横隔膜を動かすと痛むというのを聞いたことがある。
「大丈夫か。急に笑うと縫合した部分がほどけるぞ」
「大丈夫じゃないわよ。痛いわ……」
「悪かったよ」
どうして謝っているのだろうか。勝手に家に来たのはこいつだ。
「そっちこそ大丈夫なの」
声がかすれている。
「なんで」
「色々あったんでしょ」
「どうして分かる」
「分かるわよ。小さい時から顔見てるんだから」
「お前は今も小さいけどな」
また笑った。その時は咳もセットだ。
「ああ、ごめんごめん」
肩に手を置いてポンポンと叩く。この動作で痛みがおさまるのかは知らない。
「撃たれたとき絶対死んだって思ったわ」
消えいりそうなカスカスな声だ。
「撃たれれば誰だってそう思うもんだ」
「発射されたのはレーザー弾でしょ? なのになんで、金属の弾丸が落ちてたの?」
「何を言ってる?」
「アパートの廊下に。わたし、撃たれた時、金属の弾丸が体を突き抜けていくのを感じたの。落ちた音もしたし」
「ああ。金属の弾丸の中にレーザー弾が入っているタイプなんだろう。着弾するとレーザーが爆発する。それでからっぽの弾丸だけが外に出る」
「そういうこと……」
「そういうことだよ……」
手を握ってくる。パルスオキシメーターが少し邪魔だったが、握り返してやる。
うっとうしいが、目の前で苦しんでいる。
こいつが撃たれたのは自分の責任でもある。
少し驚いた。
さっきまで勝手に家に来た方が悪いと思っていたのに、自分のしていることのせいで人々が傷ついていくことを自覚し始めていた。大切な人を失っていく。利恵菜のことを大切な人のくくりにしているわけではない。ココロで必死に言い訳する。だが本音は違う。利恵菜のことが大事なのだ。それが本当なのだ。利恵菜は沙織のことを覚えている数少ない人間だから。時々とてつもなく寂しくなる時は、利恵菜に会いに行きたくなる。こいつの胸で泣きたくなる。沙織のことを話したくなる。手を握る力が強くなっていく。痛がらない程度に、握る。
「その銃と同じなの?」
「何が」
「わたしが撃たれたのって」
ジャケットを脱いでいたせいで、利恵菜に銃が見えていた。
「いや、正確には違う。さっきも言ったようにお前を撃ったのは金属の物理弾丸の中にレーザー弾が入ってるタイプだ。俺のは完全に充電式のレーザー弾丸だ」
「人を撃つっていうのは変わらないわ……」
「まあ、そうだな」
「たくさん撃ってきたの?」
「ああ。争いの数だけ撃ってきたよ」
「……傷つけたの?」
「まあそうだな」
「この三年でどれくらい撃ったの……?」
「分からんよ。そんなのは」
「撃たれたこともある?」
「まあな」
「痛かった?」
「そりゃ痛いさ」
「そう……」
「ねぇ」
「なんだ」
「教えてよ」
「何を」
「何があったか……。三年間、消えてる間に何があったか教えてよ……」
「…………だめだ」
「どうして……?」
「…………」
「……そう……どうしてわたしを助けたの?」
「…………」
沙織の顔が浮かんだ。ずっと思い出さないようにしていたのに、 今ははっきりと目の前にいる。虹色の気配が、あの暖かい空気を、はっきりと思い出してしまった。
「沙織の遺言だからだ」
声が沈んだ。
「…………」
「沙織が死ぬ前にそう言ったわけじゃない。ある時ふざけてそう言ったんだ。自分にもし何かあったらお前を守ってくれって。それが現実になるなんて二人とも夢にも思ってなかった。彼女がいなくなってから、思い出した。記憶にならない平和な日々を探しては、泣いたよ」
「…………ごめん……」
「謝ることはない」
「…………」
「この三年は、麻痺させるための冒険だった。傷心旅行みたいなもんだ。犯人を探しながらあちこち駆けずり回って。色々やってきた。仲間も敵もできた。お前はその敵に撃たれたんだ」
「その敵はもういないの?」
「ああ……。そいつが敵になった原因も、もういない。全員、死んだよ」
利恵菜は少し涙目になって、もうどうの目を見つめた。もうどうも利恵菜の目を見つめた。
こうし座に小惑星というには大きすぎる惑星がある。惑星の地質状況から中惑星にはなれないが、中惑星にも負けないぐらい大きい。
そこには宇宙で名うての犯罪組織の長、ドン・フェンネルの持ち物である物流倉庫がある。青や黄色、すすけた赤色の倉庫がいくつも並んでいる。管理人はそこを練り歩いて、書類と時計を確認して荷物が来たら受け入れる。しかしもう荷物を受け入れることはできない。管理人は脳みそを赤色の倉庫にぶちまけて死んだから。
もうどうは利恵菜の目を見つめた。利恵菜は少し涙目になって、もうどうの目を見つめた。
くじら座には大きく発展した文明が数多く存在する。綺麗な水色の空と薄黄色の雲の下で住人は平和に、忙しく暮らしている。最も栄えているのは金融業だ。宇宙の金融の中心地の一つで、大きな銀行がいくつもある。その中でも一番大きい銀行ではみなが忙しい。
くだらないヒエラルキーも頭取争いも、この銀行には存在しない。全てがお客様の利益のために動いているからだ。私腹を肥やすことだけを考えている者はいない。
事務員の若い女性は常務に頼まれていた書類を届けようとエレベーターで九十四階のボタンを押した。エレベーターはとても早く、目的地まで届けてくれるが乗っていてもスピーディーには感じない。快適だ。
常務室は碁盤の目のように整理されたフロアのちょうど真ん中だ。
先週までこの銀行は傾きかけていた。宇宙で名うての犯罪組織の長、ドン・フェンネルとうちの常務の関わりがリークされたからだ。契約は次々に打ち切られ、電話や面会での苦情が絶えなかった。
もちろんそれはデマで、常務は徹底的に潔白を証明した。証明できたから良いものの特ダネを面白がるメディアが偏向報道をこじらせていればきっと今も苦情の電話に喘いでいただろう。常務が潔白を証明するとそれまでのてんてこまいが嘘のように、業務は元に戻った。しかも前以上の利益を上げた。この一週間は間違いなくこの銀行の歴史に残るはずだ。
本当に常務は頼りになる人だ。みながデマに惑わされても一人だけ冷静に対処した。次の頭取はきっとこの人になる。この若い女性の事務員も、密かに彼に想いを寄せる女性の一人だった。
ドアをノックする。少し色気のある声で呼んでみる。
「失礼します、常務。ご注文の書類をお持ちしました……」
「入りたまえ」と、格好良い声で言われたら、ドアを開けて色っぽく微笑んでやるつもりだ。急いで口紅を厚塗りする。口紅のケースを出す。唇に塗って、元に戻してじりじりしながら待つ。
「常務ぅ?」
いつまでたっても返事がない。
「常務? 入りますよ?」
ドアを開けるなり気絶した。
なぜってそこは一面血の海だったのだから。常務は左腕を引きちぎられて死んでいたのだから。
利恵菜は少し涙目になって、もうどうの目を見つめた。もうどうは利恵菜の目を見つめた。
宇宙でもトップクラスに治安の悪いこの街では、がらの悪い連中が幅を利かせている。
当たり前のことかもしれないがそこで生き残っていくには悪くなってステータスを得るしかないんだよ。たとえば宇宙でも名うての犯罪組織の長、ドン・フェンネルの下で働ければそれは良いステータスになる。
高級スーツに身を包んで帽子とサングラスをかけて、がっちりしたボディガードに守られていればもう誰も手を出せないよ。この街の連中は自分より下の連中にがんつけるのがうまいが、自分より上の連中を避けるのはもっとうまいんだ。
そしてこの街で最も恐れられているのはとある二人組だ。ダブルブレストの高級スーツに中折れ帽子にコートという昔ながらのギャングの格好をしている、なんでも物流と密輸の責任者なんだそうだ。行きつけの店はブルネイダースというファミレス、チキンハンバーグが宇宙一うまい店。
みなから恐れられる彼らにも、他の奴らと同じように弱点がある。確かに彼らは物流や密輸戦略の天才かもしれないが、犯罪の世界では未熟者だ。頭が強い人間に限って一度この世界で成り上がると一丁前にギャングな格好をしてみるものなのだ。そして自分の能力を過信して犯罪者にとって重要な「生活にパターンを作らないこと」を実践しなくなる。
大きな大きなボディガードもその油断を手伝っていることだろう。
上には上がいる。そんな風におごっているともっと賢くて、もっと悪くって、もっと狡猾なやつにパターンを見破られることになるんだ。
行きつけの店はブルネイダース。二人組。
行きつけの店はブルネイダース。二人組。
もう行けないな。二人組でもなくなった。ブルネイダースも当分営業停止せざるを得ないだろう。
窓ガラスは割れ、二人組が座っていたところはコーヒーと血とチキンハンバーグの破片でベトベトに汚れているから。重たいボディーガードだって、ずっとずっと寝ているんだから。二人組はお高いスーツにたくさんたくさん穴をあけてもらって倒れているんだから。
もうどうは利恵菜の目を見つめた。利恵菜は少し涙目になって、もうどうの目を見つめた。
天才に変わり者が多いというのは単なる寓話ではない。高い技術を持っている者、そして使い方を知っている者は確かに優秀なのだがその変わった性格と前衛的なこだわりのせいで、常人は彼らについていけない。
この男は天才だった。そしてご多分に漏れず変人だった。
十六歳で宇宙で最も難しい工科大学を飛級して卒業し、銀河政府のIT部門からスカウトされ、働き始めた。間違いなく優秀なのだが同僚は次第に一回りも二回りも年下の彼の傲慢な態度にうんざりし始めた。三年もすれば盛りのついた彼は、彼自身の少し変わった性癖を隠さないようになった。オフィスに尻の軽い女を連れ込んではロープや手錠と一緒に空いている会議室や清掃用具入れで揺れた。
驚くべきことに職場の誰もそれに気が付かなかった。それは彼が部門内の会議室の予約表を秘密裏に書きかえていたことだけでなく誰もが彼に関わろうとしなかったからだ。横領した金で豪邸を一括払いで買ったりもした。同僚や上司がそれに気づくことがなかったのは、彼が独自のプログラミングコードを使ってさも合法な支出があるように見せかけていたからだ。IT部門ではコンピューターの入れ替えが激しいため、一度に億単位の支出があることも稀ではない。
二十一歳でクビを言い渡されるまで、悪事がばれたことはなかったが粗忽な振る舞いや横暴な態度のせいで退職金はおりず、豪邸も退去せざるを得なくなった。一括で金を払っているのだから住み続けたっていいはずだと抗議したのだが、当然維持費を払わなければ住めるはずもなかった。維持費を払うつもりはないときっぱり言うと、でかい男たちにつまみ出された。
金も行く当てもなく、お定りごとのようにスラム街をうろうろするようになった。カジノに出入りするようにもなった。ルーレットを見ていた。ただ回って、偶然に数字を出すという単純なものではなかった。ギャングから金をもらって勝たせるためにコンピュータ制御されていたのだ。パターンを見抜いたのだ。一分間に何回か、同じ動きをする機械を不審に思った客を彼だけだったはずだ。
電気屋から盗んだパーツと中古のコンピューターで作ったプログラムマシンでそのルーレットをハッキングしてボロ儲けするとカジノのオーナーから目をつけられ、ギャング連中に睨まれるようになった。そのカジノに足を踏み入れたのが彼の人生最大の不運だったと同時に、人生最大の幸運だった。
そこにドン・フェンネルがいたのだ。
ギャングやオーナーに袋叩きにされる前にドン・フェンネルは彼をかばって酒をおごってくれたのだ。そして夢のような言葉を言った。
「宇宙でも名うての犯罪組織の技術者にならないか」
いくら今まで馬鹿なことをしてきたからといって、その提案を断るほど馬鹿ではなかった。
乾杯すると、次の日にはアタッシュケースいっぱいの金と新しい身分証と住所の書いた紙切れが届いた。その住所は見た目は普通のアパートだったが、指定の部屋は最新式のコンピューターやマシンで埋め尽くされていた。
豪勢な暮らしを取り戻せたのは全てドン・フェンネルのおかげだ。彼は他人のことをこれ以上ないほど見下しているがドン・フェンネルは別だった。決してドン・フェンネルを裏切るような真似はしなかったしどんな買収話にも屈しなかった。だからエンジェルスイートホテルの百四十五階の五十一号室、ベッドの上で路上娼婦と一緒に撃ち殺されるはめになったのだ。
利恵菜は涙目になって、もうどうの目を見つめた。もうどうは利恵菜の目を見つめた。
この宇宙の司法の腐敗具合ときたらひととおりではなかった。戦争が始まってからは判事や警察にお目溢し願おうと大金を払う犯罪組織が増えたものだから、警察や判事にしてみれば真面目に働く方が馬鹿馬鹿しいのだ。
裁判所というのはそういう犯罪組織にとってもっとも都合の良い施設だった。わざわざ路地裏で交渉しなくても面会時間を伝えれば希望の判事といつでも会えるのだ。
あとは用件を伝えて金を渡せば良い。人生が変わるほどの額の入ったアタッシュケースを。
「あなたもいつかドン・フェンネルに感謝する」
この言葉が持つパワーは計り知れない。
忠誠を誓うドン・フェンネルのために仕事を終えて、裁判所を出ると手を挙げてタクシーを呼ぶ。
自分の人生を思い出す。真面目な人間ほど腐敗に蝕まれるのを拒む。それは正しいことだ。正しいことをした。なのに自分は追放された。司法の腐敗というのはここ最近の話ではない。もう百年以上も前から続いているのだ。三十年前、ドン・フェンネルは自分の痛みを分かってくれた。そして組織に招いてくれた。
司法組織出身の自分は、犯罪組織の中では疎まれた。それでも真面目に働いた。組織の法律担当として真面目に働いた。ドン・フェンネルは人のココロが分かるお方だ。自分のことを引き上げて、幹部にまでしてくれた。清らかなはずの司法組織の水面はこの上なく濁っていた。自分はそこでもがく雑魚にすぎなかった。しかしどうだ。濁っているはずの犯罪組織ではこの上なく清らかな水が流れている。自分を評価して、仕事を認めてくれる。
受けた恩は計り知れないし、生きているうちに全て返せるとも思わないがドン・フェンネルのために、組織に骨を埋めるつもりだった。
タクシーが来た。ドアが開く。
「バルゾイン通りまで頼む」
ドアを閉めながら言った。
運転手は返事もせずに車を発進させた。
無愛想な運転手だな、と思っていると、窓ガラスが割れた。破片が左腕に刺さった。それよりも頭に穴が二つ空いた。
運転手は無反応に車を走らせ続けた。
もうどうは利恵菜の目を見つめた。利恵菜は涙目になって、もうどうの目を見つめた。
相談役ほど骨の折れる仕事はきっと表にも裏にもないはずだ。何よりも書類仕事が多すぎる。業務内容は機密だから助手を雇うわけにもいかない。廃棄する書類は全てシュレッダーにかけてから燃やす。そのあと水をかけ、生ごみと一緒に捨てる。最初はその作業もどうということはなかったのだが仕事が増えるとかったるくなってきた。
長きに渡って栄え、利益を出し続ける犯罪組織には共通点がある。長の人柄が良いこと、相談役が優秀なこと、だ。
ドン・フェンネルの組織が宇宙の犯罪市場に台頭して実に二百五十三年になる。その間自分はずっとドン・フェンネルの隣で仕事をしてきた。最初は普通の弁護士としてだったが組織が拡大するにつれて地位が上がってきた。最初にいたメンバーがそのまま成り上がるわけではなく仕事をこなす能力で役職が決められる。ドン・フェンネルは日陰にいた自分を日向に連れ出しくれた。父親からの虐待で傷ついたココロを癒してくれた。受けた恩を大切にする自分たちの種族にとって、彼に一生ついていくのにはそれだけで十分な理由だった。
書類をクリップでまとめてファイルにしまう。そのファイルをかばんに入れる。ようやくひと段落ついた。今からドン・フェンネルのところへ行く用がある。一つ憂鬱な報告をしなければならない。物流と密輸の責任者と連絡がとれないのだ。何かトラブルに巻き込まれているかもしれない。杞憂に終わればいいのだが。トラブルは小さい内につぶしておかなければならない。
ドアの近くのテーブルを見てみると、小包があった。そうだ。さっき届いたものだ。なんだろうか。何かを注文した覚えはないが。
紐を切って開けてみる。中身を確認することはできなかったが、大体分かった。
オフィスは綺麗に吹き飛んだ。
利恵菜は涙目になって、もうどうの目を見つめた。もうどうは利恵菜の目を見つめた。
「どうしますか」
「あいつの言うとおりにしろ。連絡しろ、今すぐだ」
「分かりました」
男は上等のネッシーの革のカウチに腰掛けながら、目の前の部下の死体を見た。
無惨にも腹を割かれて死んでいる。当然の報いだと思う気持ちもある。この部下は自分が長である組織を裏切っていた。横領したのだ。
しかし……。だからといって、ここまでむごたらしくやる必要もあるかとも思う。
「フェンネルのことはどうしますか」
「それも言うとおりにしろ。切り捨ててコバヤシもうどうに乗り換える。フェンネルにはまだ教えるなよ」
「どうしてですか?」
「あいつが止めた。考えがあるからまだ言うなと」
「どうしてそこまであの男の言うとおりにするんですか。あなたはこの宇宙で最も力を持つ犯罪組織の長なんですよ。今まで千年近くもこの宇宙の頂点として君臨してきたのに。フェンネルでさえあなたの下請け業者なんです。コバヤシもうどうときたら、フェンネルの下請け。我々から見れば下請けの下請けもいいところです。史上最年少で軍需産業を独占したとしても我々の敵ではない。衝突を恐れる理由はありませんよ」
「言うとおりにするんだ。私も若くはない。コバヤシもうどうのような男と真っ向から戦って、正直勝てる自信はない。コバヤシもうどうと手を組めばこちらも大きな利益を出せる。その時は新たなビジネスパートナーに敬意を払わない者を消さなければならない。お前のことは大事だ。大事な相談役であり、息子だ。だから、あいつのことを、失礼。ミスターコバヤシもうどうのことを良く思っていなくとも口には出すな」
「……分かりました」
もうどうは利恵菜の目を見つめた。利恵菜は涙目になって、もうどうの目を見つめた。
「怖い……」
利恵菜はもうどうの手を握る力を強めた。
「怖くて当然だ。でももう何も心配はいらない。全て片付いた。これからは、撃たれるなんてことは絶対にない」
利恵菜は反対を向いた。泣いているところを見られたくなかったのだろう。
「……ねぇ、沙織の話をしない?」
反対を向いたまま言った。涙が、恐怖によるものなのか、沙織を思い出してのものなのかは分からなかった。
「……そうだな」
「沙織って、不思議な子だったよね」
「ああ。その不思議さが魅力だった」
「誰に対しても、優しかったよね」
「ああ。利用されても、利用されたと気付かない。鈍感でもあった。気付いた時もあったが、許していた。それで相手が幸せなら、とな。俺がそいつらを許したことはなかったが…………」
「いっつもオレンジジュース飲んでた」
「ああ。何よりも好きだと言ってた……特に、グラスに一輪のオレンジが挟まったやつだ。店であれが出てくると一日中笑顔だった」
「沙織は、一輪のオレンジジュースって言ってた。よく分からないことを言うのが好きだったよね」
「……ああ。彼女が死んでから、俺も飲むようになった。一輪のオレンジジュースをな。一時なんかは、でっかいオレンジジュースのボトルに一輪のオレンジを挟んで飲んでたもんだ。ボトルの底に、彼女を探してた……。なんていうか、どんどん忘れていく。沙織のことを。苦しい記憶だからな。脳が、自動的に忘れていく。忘れていたかったよ。だけどココロのどこかではまだ覚えていたいと思ってた。だからオレンジジュースを飲むんだ。グラスに一輪のオレンジが挟まったやつをな……」
目頭が熱い。膝が濡れた。小さく濡れた。涙だ。もう出てこないと思っていた涙が、頬を伝っていく。だめだ。
手を離して立ち上がった。ビニールブースから出る。
泣いているのを利恵菜に見られたくなかった。それに、これ以上思い出すことは自殺と同じだと分かった。ココロが死んでいく。沙織のことを思い出すと同じ場所に行きたいと思うようになる。それを避けるために今まで思い出さなかったのだ。
ハヴァキャンプはビニールブースの入り口で待っていた。
「他のスタッフは休憩してます。すぐ呼んできます」
「ああ、頼むよ先生。後に障害が残るなんてことになったら困るからな」
「はい、そのようなことがないように、しっかりと事後治療をします。えと、あの。大丈夫ですか?」
「大丈夫、俺のことはいいから。治療が終わればいの一番に連絡してくれ。迎えにいくから」
「分かりました」
もうどはハヴァキャンプに握手するとm65を着て、車に乗り込んだ。
これから頑張らなきゃいけない。組織はもっとでかくなる。そう、もっとでかくなるんだ。今までの分も、これからの分も、泣いてる暇はない。涙はココロを錆びつかせる。
もう十分錆びついているし、これ以上錆びると生きていけない。
ハンドルを強く握った。
深呼吸で心臓が落ち着くというのは正直ひどいデマだ。深呼吸することで体全体が落ち着いて冷静になると逆に状況の悪さを直視してしまって余計に混乱する。
きつしと鈴音は段ボールの後ろに隠れていた。段ボールを部屋の前面に押し出して、後方を空洞にする。その空洞に隠れて窓を見つけようとしていた。窓さえあればそこから脱出できるのだが。
かつしに見つかってから体当たり的に別の部屋に移動して今この状況だ。かつしももちろんこの部屋に来たわけだが、自分たちの姿はまだ見つけられていない。別の部屋かもしれないと疑い始めている頃だろう。段ボールに囲まれた狭い空間だが、足音の響きは広範囲に伝わる。
自分の子供に殺されかけているなんて。スターウォーズを思い出した。ルークスカイウォーカーが父であるダースベイダーと対決し乗り越えていく、いわば「父殺し」カイロレンが父であるハン・ソロを殺し、悪の道に両足をつっこんでいく。「父殺し」
かつしが自分を殺すことで成長できれば別にそれで良いのだが、そういう感じではないと思っている。
銃弾は段ボールを簡単に貫通するが別の物体に当たることで軌道は逸れる。自分たちを狙って発射したとしても必ず段ボールを貫通することになる。貫通すれば自分たちには当たらない。逆に言えば、自分たちを狙わずに段ボールを貫通すると、軌道が逸れた弾みで自分たちの方に跳弾する。まさに綱渡り、ギリギリの抜き差しならない状況。
発砲音。自分たちの方を狙ってはいない。右だ。
動かない方が賢明だ。案の定軌道がそれた。右の段ボールを貫通したのに左の壁に着弾した。
鈴音がびくっと肩を震わせた拍子に、段ボールに当たった。段ボールがボトボトと倒れていく。チャンスかもしれない。
発砲音が重なる。訳が分からずに連射しているようだ。こういう時は絶対当たらない。
急いで扉を開けて一階に降りる。
このまま外に逃げてもうどうに助けを求めることもできる。もうどうが家や学校にいなかった場合どうなる? もうどうと合流するまでにかつしは自分たちを追い求めて外に出ていく。その過程できっと人を殺す。無実の人々を巻き込むことはできない。
直感的に分かる。かつしは人を殺したくてたまらないのだ。自分たちである必要はない。ただかつしは自分と鈴音以外の人間を知らないから執拗に追ってくるだけなのだ。一度外に出て、他にも人間がいることを知ればどうなるか。きっと最後の一人を殺すまで殺し続けるだろう。だが、こう考えることもできる。
かつしが完全に自分と鈴音の遺伝子を受け継いでいるとすれば、この凶暴性と殺さずにはいられない性分は自分たちの性質とも言える。つまりは自分たちの責任だ。
この家の中でけりをつけるしかない。教育するのだ。
かつしが階段を転げ落ちる音が聞こえる。歩くよりも早いと気付いたのだろう。
「風呂場に隠れてて」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だから。早く、隠れて」
「……分かった」
鈴音は風呂場へ行って扉を閉めた。
一つため息をつくと、リビングに入った。ソファを整えて、座った。余裕ではなかったがとにもかくにも少し落ち着きたかった。
「教育って難しいな……」
子供に殺されるかもしれないなんてある意味光栄なことかもしれないが。
左手を握って、指をごにょごにょと動かした。緊張しているわけではないのに、どうしてかこの動作をしていた。
もうどうはこうなることが分かっていたんだろうか。子供が自分たちの手に負えないほど凶暴化することを。
かつしはどうしているんだろう。階段を転げ落ちる音はもう聞こえない。だとすると一階に降りたのは降りたのだろう。ドアを開ける気配はない。ドアのすりガラスに姿が写った覚えもない。まさか外に出ようと。
舌打ちをして立ち上がり、ドアまで走る。
直感的に外に出られれば終わりだ。
ドアを開ける。玄関のドアを見る。鍵は閉まっている。かんぬきもかかったままだ。
どこに行った?
足元がぐらつく。どうした。不安なのか、怖いのか。そうじゃない。そんな精神的なものじゃない。足元を見ると分かることだった。かつしはそこにいたのだ。銃口がこっちを向いている。頭はこっちを向いていないのに銃だけが、こっちを睨んでいた。
体を反らせる。顎をプラズマ弾がかすめた。振動で歯が震えた。顔の毛穴が一つ一つこじ開けられた気分だった。穴という穴に嫌な風が吹いた。
もう一発来る。
直感だった。次は下半身だ。とっさに扉を閉めてキッチンで武器を探す。子供相手ではない。完全に「敵」相手に戦おうとしていた。銃声が響いた。ドアノブが床に落ちる。
嫌な音だ。金属が落ちる音。「同じもの」同士ではないものたちがこすりあわさって弾ける音。結局は、不快なのだ。
ドアが開く。顔の肉がぶにぶにの赤ん坊が銃を向ける。
引き出し、戸棚、全て探すがろくなものがない。じゅうぶん武器になりそうなものはあるがそれを使うと怪我をさせてしまう。箸やスプーン、魔法瓶のふた、果物などを手に持つと、我が子に向き合った。
「君の気持ちは分かる。僕らのことが憎くて仕方ないんだろう?」
「ひ、と、ご、ろ、し」
「僕は誰も殺してないよ」
これは嘘だ。
「ひ、と、こ、ろ、す」
「人に銃を向けるのは論外だけど、そういう言葉を使うのもいけないことなんだよ」
発砲。カウンターに身を乗り出してリビングの方へ逃げる。着地に失敗して足をくじいた。りんごが一つこぼれ落ちる。
すぐに立ち上がるが右足首にずきり、と鋭い痛みが駆けた。かつしの頭が見えた。勝機というか救いはある。足が短いから移動に時間がかかるのだ。
身の回りを見た。右ポケットには箸とスプーン。左ポケットには魔法瓶のふたと四枚ほどのティッシュにおしゃぶり。尻のポケットにはれんげがはいっている。両手にはりんご、みかん、レモンがたくさん。これがいいんだ。このフルーツがいいんだ。床に転がす。食べ物を無駄にしているとか言われそうだが、後でもうどうに綺麗にしてもらえばいいさ。
かつしはじっとこちらを見据えた。かつしをじっと見据えた。
銃を持つ右腕が上がる。足元は見ていない。左足を振り上げた。
きっと、発砲なんてできないだろうさ。
かつしの太い指が引き金にかかろうとした時、体は宙に浮いて果物の上で踊った。果物につまづいだのだ。しかし誤射。全く狙いの定まっていないプラズマ弾がキッチンカウンターの壁にめりこんだ。
転げたかつしは両手両足をばたばたさせて立ちあがろうとするが周りにつかむものがない。歩き出そうとすると果物が足をすくう。その度にレモンのクッションに受け止められる。
銃を。
走り寄って手を伸ばす。その瞬間に天井の照明が砕けた。プラズマ弾の跳弾がテレビを貫いた。ガラスが降ってくる。とっさにかつしの上に覆い被さった。破片が肩を刺したのが分かった。
銃口が腹にもろに当たった。明かりを失った中で、わずかにさす太陽の光を頼りに後ろに飛び退く。
棚にぶつかった。置いていたものが落ちてくる。何を置いていたかは忘れた。
おいおいおいおい。
赤ん坊の成長速度が目覚ましいというのは聞いたことがある。銃がなんなのかということはもう知っているはずだ。それは、疑いようもないだろう。ただ、今かつしはその機能について知らなかったことをさらに知ってしまったようだ。銃の側面にあるつまみ。グレーのつまみ。表面がぎざぎざになっているところ。赤ん坊はそういう飛び出たものが好きだというのも、今思い出した。赤ん坊はそれをつまむと右に思い切り捻った。
それが何を意味するか。つまみを右に回すほどプラズマ弾丸の粒子破壊度が強まるのだ。右に近づくにつれて当たった物体は細かい物質になって消えていく。
速い話が当たったら、砂になって消える。
立ち上がる。かつしも立ち上がった。銃が握られている以上、逃げることしかできない。棚をつかんでかつしの方に投げた。案の定、発砲しまくる。命中すると棚は砂になってかつしに降り注いだ。
左に逃げる。キッチンとバスルームが見える床だ。
このまま弾切れを待つなんてのは愚かな作戦だ。その間に殺される確率が高いし、プラズマ弾の場合動力はバッテリーだから一週間はもつ。だからといって逃げ回っているのも同じくらい愚かだ。天井の照明を固定するチェーンがみじめな自分を嘲笑っているかのように揺れた。照明どうしの感覚は二メートルないかぐらいだろう。どうして揺れたのか。発砲の振動か。
かつしは目を瞑って、体に降りかかった砂を取り払っている。
この間に次の策を練らなければ。
ポケットに入っているものは正直何の役にも立たない。捨ててもいいが、後から後悔することだけはしたくない。
ここから行ける場所はキッチンとバスルームだけ。バスルームには鈴音が隠れている。
間違ってもそこへいくことはない。
またキッチンか。迷路に迷い込んで最初の地点に戻ってきてしまうようなものだ。それでも進むしかない。かつしが目を開けた。さっとキッチンに体を飛ばす。
右肩が冷凍庫に当たった。小さな足音でも大きく聞こえてくる。
行き止まりだ。迷路で追い詰められる時はきっとこんな感じだろう。
いや、それでも。
待てよ。おかしいんじゃないか。これは、逆とも癪とも思わないけれど、どこか違うんじゃないか? どうしてこうなってるんだ? 相手は赤ん坊で、自分の子供だ。その自分の子供という意識がことを難しくする。じゃあ抜きにして赤ん坊を相手にしていると思えばどうだ? まず赤ん坊は首が座っていない。上は向けない。思い出してみれば。さっきドアを開けた時も、首はこっちを見ていなかった。銃口だけがこっちを向いていた。
上を向けない。
冷凍庫を開ける。
思った通りだ。
指で二、三個切り取る。痛い。かなり、痛い。ゴミ箱の上にペットボトルがあったはず。素早くキャップを開けて中に詰め込む。ふたを閉めて密閉する。出来上がった三つのペットボトルを抱える。徐々に膨らんでいくのが分かる。
かつしの姿が見えた。まだ体に砂がついている。ケホケホと咳をするとまた銃を向ける。
自分の方には向いていない。電子レンジが砂に変わる。笑っている。命中したものが姿を変えるのが楽しいのか。電気ケトルが砂に変わる。無邪気な笑い声が大きさを増す。
「ケトルを撃っちゃったらミルクを作れないよ」
まだ笑う。銃が回る、踊る、笑う。
「お腹空いてないならいいけど」
自分に向いた。
「……やっぱりそろそろ、お腹すいたんじゃない?」
ペットボトルの膨らみが最高潮に達した。スリーポイントシュートを放った瞬間に「入った」と分かる時があるように、ペットボトルを持っていた手がそういう間隔を掴み取った。三つとも。
放り投げる。
かつしがぶにぶにの顔で驚きの表情を作ったのが一瞬見えた。ペットボトルは弾けて、大量の冷気と煙に変わった。部屋中が瞬間的に冷たい煙で包まれる。
銃口が何回か光ったが、かつしの悲鳴が聞こえたのち、見えなくなった。
害のあるものじゃないがまだ色々な感覚を未体験の赤ん坊にとってはこの冷たさは恐怖のはずだ。しばらくは撃ってこないだろう。
すぐさま天井の照明のチェーンに飛びつく。ぶらついた足を別のチェーンにかける。間隔は二メートルないくらい。上半身を捻って下を向く。足を一本ずつ離して、かけなおす。
自分の身長は百八十センチ程度。ぶらさがって下を見るにはじゅう分な高さと幅がある。前方には大きな窓がある。ここからかつしが外に出る心配はあったが今は、何よりも自分を殺したいはずだ。外には出ないだろう。そして一心不乱に自分の姿を探すだろう。
良いことに赤ん坊は上を向けない。首が座っていないからだ。さらに良いことにまだ煙は充満している。中々消えないだろう。だからドライアイスを入れたペットボトルはふたをしちゃいけないのか。
小学生の時分、理科の授業でよく言われた。ドライアイスを密閉してはいけない。
それからどれくらい経つかだなんて明白だった。極めるところ、この体勢を保っていることは苦痛でしかなかった。いつになく足元が不確かでどこもかしこもなくなってしまいそうな感じがしていた。
いつもどこか宙に浮いているような感覚だった。大事な取引の時も処刑に立ち会う時も裏切り者を探す時も、常にもうどうの隣にいてその足場は何よりも強固なもののはずなのに部分的に見るとふわふわと歪んでいた。自分は本当はここにはいないんじゃないかという疑い。実体を伴わない虚像。小林もうどうという疑いようのない実像の隣にいる虚像。
仕事仲間はみな、二人で一人のような言い方をすることがある。ドン・フェンネルもそう言ったことがあった。それは正解のようで不正解でもあると思うし、自分では自分のことを空気のように思うことがあるから周りから大きな存在として感じられていることが驚きだった。
今は。
全ての関節が悲鳴をあげている。幸と言うべきか、痛みを無視する方法は心得ているつもりだった。
煙はなお部屋に立ち込めている。さっきと比べるとましになっているが、足元がおぼつかないのは変わらない。かつしは銃を握りしめて空をきりながら進んでいる。杖のように周りを確かめながら父親を探している。時々面白くって何かを砂にすることはあっても決して上を見ることはなかった。見れないと言った方がいいかもしれない。
バスルームに近づきはしないかという不安はあったが、未熟なハンターは目の前の獲物のみを追い求めるという習性を思い出した。一度狙って仕留め損ねた獲物は、いつか自分を狙いにくるかもしれない。生物の生命危機回避本能的に殺し損ねた者を最優先に殺すようになっているのだ。
かつしの歩方はキッチンに向かった。手探っている。探し物が見つからなくて一番最初に探したところをもう一度見てみるような感じだろう。キッチンに隠れているんじゃないかという発想だ。キッチンのどこに、ろくに隠れられる場所があるかという疑問は赤ん坊には難しすぎる。
一旦攻撃から逃れたとはいえ状況は何一つ好転していない。敵の死角にいるだけだ。
考えないと。何か、あの赤ん坊の弱点を。致命的であってはならない。ただ、しばらく動けないぐらいの、そういう弱点が欲しい。
時計を見る。一時三十二分。
そろそろ昼休みが終わる頃だ。クラスのみんなはどうしているのか。きっと自分の状況なんか想像もできないはずだ。当たり前だろう。いや、利恵菜は違うかもしれない。もしかしたらもうどうと自分がいないのを気にして色々勘繰っているかもしれない。もうどうはどうしているだろうか。やりすぎていなければいいが。過度な報復と見せしめはかえって逆効果だ。周りに恐怖を与えることになる。普段恐れない者たちが恐れた時は危ないのだ。今のままで良かったことが悪くなり、悪かったことがもっと悪くなるかもしれない。そういう状況を引き出すのだ。伝染していく恐怖というのは。
水漏れを一箇所見つければ五箇所はあると思え。
裏切りも同じだ。些細な裏切りでも元を辿れば一つの大きな事実に行き着く。大多数の組織は小さな裏切りを無視する。仕掛けた側はその「無視」を利用するのだ。あとは簡単だ。洋服から飛び出た糸を引っ張ってバラバラにするだけ。
組織の乗っ取りとして手垢のついた手法だが、今でもよく使われる。
自分たちも使った。まだ宇宙で名前が知れ渡っていない頃どうってことないが、後ろ盾が大きかったり、資源が豊富だったりする組織に仕掛ける。「無視」させればそれで勝ちなのだ。火事を遠くから見たら小火のように見えるように、パトカーのサイレンが遠くで鳴っていても気にしないように。そういう小さな、たったそれだけのことと思えるようなことをしかけるのだ。その小さなことに、組織の命運がかかっているとしても大抵のボスは気にしない。変に経験と知識があり、慢心しているからだ。その点でいえばどの組織もちょろい。これも同じだ。今の状況と。
「未熟なハンターは目の前の獲物のみを追い求める。一度狙って仕留め損ねた獲物は、いつか自分を狙うかもしれない。生物の生命危機回避本能的に殺し損ねた者を最優先に殺すようになっているのだ」
だからもうどうは裏切りに過剰に反応する。やってきたことが、いつか自分に返ってくるかもしれないという恐怖があるからだ。何もかもを自分から奪うかもしれないと分かっているからだ。賢い人間は良い状況がいつまでも続かないと知っている。激動にいるほどそれは早くやってくると知っている。だから沙織が隣にいてもそれは本当の幸せではなかった。沙織と別れたくない気持ちはあったろうに。別れを防ぐことは一つもしなかった。
彼女を死なないようにするとか、そういうことはできたはずだ。どんな厄災からも守ることはできた。それでもしなかったのは、変化を好み、維持を恐れていたからだ。
「人間も、文明も、発明も、滅びゆくからいいんじゃないか」
本当にそうだったのか。もうどうは、沙織を失った時その言葉を思い出したろうか?
そうじゃない。答えは今のもうどうに滲み出ている。滅びゆくのがいいと思っているなら、組織内の裏切り者を探す行動は矛盾そのものだ。沙織がいればきっと裏切り者を許すことだってできたはずだ。沙織はただの演算記号じゃなかった。もうどうにとって自分を含めて世界や宇宙のもの全てがそうであるように。もうどうの行いはただの処理でしかない。そう考えれば「裏切り者の処理」と軽く片付けられるのかもしれない。
組織を失いたくない本当の理由は沙織だ。もうどうの全てのリソースは初め、「沙織を取り戻すこと」に注がれていた。できないと悟ると「あの男」を探す方に切り替わった。
そのために金を稼ぎ、そのために組織を大きくする。
ただそれだけのことなのだ。
もうどうはきっとやりすぎているのだろう。今。必要ではない者まで攻撃しているはずだ。怒りをぶつけているはずだ。自分がそばにいてやればなあ。驕りか? 違う。後悔だ。こんなことになって。
子供に殺されそうなんだ。
教育を間違えた。こんなに早く。純粋な赤ん坊を猟奇殺人鬼にしてしまった。
いや、間違えたというか。考えれば考えるほど混乱してくる。そもそもが人造人間なのだ。もうどうが作った人間。もうどうがそういう風に作ったとも十分に考えられる。それでも、かつしが持つ遺伝子は半分自分ので半分鈴音のものだ。
そう考えると別に変なことではないのかもしれない。自分と鈴音の子供がこのかつし。つまり自分たちにも猟奇殺人鬼の性質はある。逆だ。子供の性質から自分たちの性質を発見した。普通は自分たちの性質から子供の性質をある程度推測したりするのだろう。
足がむずかゆい。感情ゆえのかゆさか。いや、違う。まて、違うぞ。何かが、変だ。
足。右足。何かが這っている。
くもだ。
分かった。ぬるぬるしたものを撒き散らしている。聞いたことがある。ある種のくもは死ぬ時、体を爆発させる。そしてその前には体内の糸を全て吐き出す。家にいたくもが天井にへばりついている自分の足を登って、しかももっと悪いことに死にかけている。スタンドバイミーという映画で主人公の男の子が川を渡った際、一物についているヒルを見つけて泣きそうになるシーンを思い出した。男の子の名前はゴードンだったが、ゴーディーだったか。今まさにそんな感じだ。この、生き物が、体をぬるぬる這う感じ。何物にも変え難い不快感がある。しかも死にかけているんだ。爆発するんだぞ。耐えられない。
落ち着け。たかだかくもじゃないか。今までくもの爆弾を抱えるよりひどいことをしてきた。手榴弾をくわえたこともあるし宇宙人のゲロ袋に手を突っ込んだこともある。
だけど、どうして。この状況が信じられなかった。信じたくなかった。どうしてこんな目に。チェーンにかけていた右足を離して下に向けて振る。ちょうどかつしが下にいる。
慌てて足を引っ込める。
気づかれたらおしまい。そんなことはわかってる。だったら、くもの爆発ぐらい我慢しろ。
待てよ。タレテル。垂れてるぞ。垂れてるって。くもが吐き出した糸が、垂れてるじゃないか。すーっと、そんな単純な表現では言えないほどの正当性としなやかさで、確実に地上を目指している。かつしがこのままこっちを向かずにキッチンまで進んでくれればそれでいい。その間にこの糸を、たぐりよせて。
かつしの頭が糸の方に向いた。
心臓が止まった。
明らかに今まで部屋の中になかったものが垂れてきている。赤ん坊故の好奇心からか、ハンター故の疑心からか、その糸を見つめた。小さな指で触れる。
固唾というやつが喉を鳴らした。
上から垂れてきているものだと知ったようだ。
糸から手をはなすと、少し、後退る。
なんだ、何が始まる。
倒れた。べちゃりと、床に頭をつけて、上を見たのだった。
目が合った。
なんとも嬉しそうに、笑った。にやりと、口の端をあげて。もう、人間の顔になっていた。
銃が向く。
チェーンから足を離す。
発砲音。プラズマ弾の光粉。
チェーンから手を離す。体が宙に踊る。
今の今まで大事に握っていたチェーンが砂になる。足から、くもがひらりと降りていく。その体は、たくさんの糸と共に粉々になった。
窓ガラスにつっこむ。破片がポケットに入っていくのが見えた。外に投げ出される。
家と家に囲まれているから外とはいっても、家と家の狭い隙間だ。背中が外の家の壁に叩きつけられる。首が曲がる。そのままずり落ちる。頭が地面に打ち付けられるのを手で防ぐ。捻れた体が狭い路地に転がる。
痛みで何も考えられなかったというのは嘘だ。かつしが追ってくる。すぐに。そしてついに外に出る手段を与えてしまった。すぐに立ち上がった。身体から何かが折れる音や破れる音が聞こえた。少し遅れて感覚も伴ってきた。両足首を捻挫した。右手の肘から血が出ているのが分かった。服は破れていないのに。どうして出血したのか。血管疲労、筋肉疲労というやつか。
鈴音は。
次に考えたのはそれだった。かつしは自分は死んだと思って次は鈴音を狙うかもしれない。
遠くで、水が流れる音が聞こえてきた。何か不吉な音だ。聞こえてきた、というよりは今までも流れていたのかもしれないが隠れるのに必死で気が付かなかった。
鈴音が、危ない。
家に身を乗り出す。
銃まだ自分に向いていた。どうしてさっきまで見えなかったのか。そんなことはどうでもよかった。銃が向いていた。
左によけた。ガス給湯器に鼻をぶつけた。鼻が熱くなった。後ろでガラスをじゃりじゃり踏む音が聞こえた。かつしだ。ガラスを踏んで怪我してはいないか。
給湯器を乗り越えて、明るい場所に出る。種類が分からない木の葉に顔を叩かれながら、路地を抜けて外に出た。地面に倒れる。
「危ない!」
女性の声がした。自転車のタイヤも見えた。体を思い切りよじると、自転車も止まった。タイヤがあるのはさっきまで自分が寝ていた位置だ。
「す、す、す、すみません」
咄嗟に謝る。女性が自転車から降りて駆け寄ってきた。
女性は大学生ぐらいの年だった。身長は自分よりも低い。ダウンジャケットにライトグレーのスラックス。さっぱりとした顔で、目鼻立ちは整っている方だ。自転車はいわゆるママチャリというやつだ。
女性の方は異常を感じ取ったようで「大丈夫ですか?」と訊いてきた。カバンからスマホを取り出した。時間を確認しているのか。急いでるなら、早く行けばいいのに。
「けがしてるんですか?」
顔を近づけてきた。まだあどけない顔だ。雑な化粧に気付いた。寝坊でもして遅刻したんだろう。遅刻した日というのは調子が狂うものだ。今も、どこかに遅れそうなのか。それでも自分に構ってくれるのか。
追い詰められた時のちょっとした優しさは何よりの救いだった。
「い、いや」
なんとなく左手で右肩を触った。なんとなくというか、ほこりを払うような感じだった。女性は、自分の左手を見ると、目を輝かせた。
なんだ。
「あの」
「え……?」
「時計、詳しいんですか?」
は? ああ、ロレックスをしているからか。一目でロレックスと分かったのか。
「あの、父の誕生日が近くて、時計プレゼントしたいなって思ってて。よかったらアドバイスもらえませんか?」
しばらく瞬きができなかった。
決して、良い出会い方をしたわけじゃないのに。純粋に、相手にそんなことを言えるなんて。
虹色の気配だ。この世の全ての人間に対する好意だ。
沙織と同じ。
優しさ。驚きではない。思い出だった。沙織だ。沙織はこんな感じだった。もうどうの隣でニコニコしている沙織はいつも、誰に対しても興味津々で、優しかった。この女性を、もうどうに会わせてあげたい。もうどうは、また幸せになれるかもしれない。
もうどうのことを好きになってくれないかい。
「あ、あ、あ、あの」
何かが光った。
砂が降り注いだ。目に入ったが、全く気にならなかった。今気付いた、絶望が隣にいる。いつもそうだ。優しいココロの人間は必ず傷つく運命にいるのだ。
もうどうも。沙織も。さっきの名前も知らない女性も。
前を見た。
硝煙を上げる銃。にやにやする赤ん坊。砂のついたおむつ。ブニブニの腕と足。
目の前にいるのは、悪魔だ。赤ん坊の皮を被った、何か。
「そうそう、その辺だ。ああ、そうそう、そこだ」
フェンネルはベッドの上に寝そべって自分の足をもんでいる女のマッサージ師の頭を見た。
綺麗な形をしている。もうどうと同じ種族だ。人間だ。地球人ではないが綺麗な人間だ。
「ファブリシオ、ファブリシオ、飲み物をくれ」
ベッドの側に立っていたうすらでかいファブリシオはのっそりと体を動かすとテーブルの上のコセ・ドゥ・ア・マランをグラスに注いだ。
金星の黄緑ワインは極上だ。
「ありがとう」
年齢を重ねるのは嫌ではないが声がしわがれるのだけは我慢ならない。グラスを受け取り、唇をつける。いちごとメロンの混ざったような香りが鼻腔を一気に突き抜ける。重さやコクはそこまでではないのだがなめらかさは別格だ。このワインの愉しさは単に香りや味だけでなく風味がいつまでも残ることだ。一杯飲むだけで口の中にいつまでもドゥ・ア・マランが踊っている。二杯目三杯目と飲んでいるうちに味が変わる。それも愉しい。
そしてもっとも良い点は酔いが回りにくいことだ。一時間程度ならずっと飲んでいられる。単にアルコール度数が低いわけではない。むしろ高いのだが、秘密は原材料の除梗にある。金星の連中は除梗器ではなく自分たちの体を使う。金星人の体はワインの製造に特化していて、左乳首に原材料の果実を入れると骨と筋肉で粉砕が始まり、腎臓のあたりで蒸留される。細かいプロセスは知らないが、そのまま血管と血管の間を通って左足から出ていく。
金星人の体内を流れる血液やタンパク質は雑菌を駆除し鮮度を保ちながらも栄養価を引き上げる効果がある。金星人の老廃物は、飲むと健康になると言われているほどクリーンな物質なのだ。
酒に酔うんじゃない。味に酔うのだ。飲めば飲むほど健康に良いワインなんて最高じゃないか。
ファブリシオはテーブルの上を物色している。自分も何か飲もうと思ったらしい。
「六十年製のバーバラ・ビスコッチを試してみろ。今朝港についたものだ。上等だぞ」
「いただきます」
スラム街の喧嘩自慢出身らしい使い慣れない敬語だ。ファブリシオは人身売買業者に囚われていた。三十年前の奴隷カーニバルの時に引き取って育ててやったのだ。子供の頃から腕っぷしが強く、組織でもずいぶんかわいがられたものだ。将来最強の軍人となることは誰の目から見ても明らかだった。
ずっと彼は軍人になるものだと思っていたしそのために支援をしてきた。体が大きくなってくると、入隊した時に有利だと思って激化しつつあった紛争に参加させたりもした。
銃の扱いを教えていなかったのにも関わらず無傷で生き残った。
組織の者とは基本的に仲が良かったが、同じ頃組織に加入した法律担当のクリスタレのことは兄のように慕っている。クリスタレには幼い頃スラム街で暮らしていた時に餓死した弟がいた。その弟を思ってか、ファブリシオには他の者よりも一層愛情を持って接していた。彼が軍隊塾学校に入塾できる年になると皆が別れを惜しんだが、ファブリシオは当たり前のように組織に残ると言った。そう、軍人になる気なんぞなかったのだ。自分たちが早とちりをしていただけで。今までと同じようにドン・フェンネルのボディガードでいるんだ、と言った。皆呆れながらも笑って喜んだものだ。それからの活躍は見事なものだ。持ち前の戦闘スキルと体の大きさを駆使して戦場では英雄と言われ、取引の場では睨みを利かせてこちらの利するようにことを運んだ。怪我をしたことは五本の指で数えられるほどしかない。
しかしファブリシオには一つだけ弱点があった。喧嘩っぱやいことだ。腕っぷしだけで成り上がった者の行き着く先は大体ここだ。全てをパワーで解決しようとする。ビジネスに必要なのは損得勘定だ。大切なのは感情よりも理論だ。酒を飲むと簡単に手を上げることもある。実際食事の席でもうどうの相棒のきつしを殴った。左目を。今となってはどうでもいいが。
とはいえ良い人員に恵まれた。組織の者たちには仕事仲間としてではなく友人として仕事を頼めるし、みな家族だ。若手の参入で多少厳しくはなってきたが彼らともうまくやっている。生物は進化の初期段階で競争を覚えるが糖尿になるほどの砂糖を与えられれば争わないという思考が働きだす。莫大な金と引き換えに若手の持っている技術を買ってやれば自分たちに牙をむくことはない。
電話が鳴った。ファブリシオが取る。
「ああ、なに? そうだ。わかった。伝えておく」
建物の外、霧の立ち込める路上。ホテルほど豪華でなくとも旅館ほどつつしんでもいない。
手袋はめて、ジャケットのポケットから金属の装置を取り出す。側面のネジをドライバーで緩めると生暖かい蒸気が漏れる。この装置の影響範囲は半径四十二メートル。これではだめだ。こんなに広範囲に設定していては足がつく。ダイヤルを左に回す。このビルだけに影響すればそれでいい。たった一つの、部屋に限定できればもっと良い。
「どうした」
ファブリシオは青い顔を一層青くしている。何かトラブルだろうか。だとしても大したことはないだろう。こっちには金も人も資源もたっぷりとある。
「こうし座の物流倉庫の担当者が死にました。撃たれて、殺されたようです」
「なら、別の者を送れ。損失があれば取引先に連絡して事情を説明しろ」
「…………」
「どうした」
「…………金庫番も殺されました。物流と密輸の責任者も、IT部門の技術者も相談役も……法律担当の、クリスタレもです……」
体を起こす。マッサージをしていた女がゆっくり手を離す。
「いつだ」
「先ほど全員、死体で発見されています」
「金はどうなった?」
「消えました……。全部です。金庫番に預けていた分は全部。つまり、全財産が……」
ダイヤルを直径二十五メートルに合わせて高さを九十四メートルに設定する。ここからだ。今のままではビル全体に影響してしまう。四分位範囲だ。ディスプレイに映る間取り図を参考にして第一四分位数をターゲットの部屋の入り口の壁に合わせる。第三四分位数を部屋の反対側の壁に合わせる。二つの数値の差が四分位範囲。差の数値を直径の範囲に設定する。
「…………代わりの者を派遣して銀行に向かわせろ。金を探させるんだ」
「無理です。二重の意味で。まず銀行が倒産しました。何者かが、金を任せていた常務と我々の関係を示す新たな情報をリークしたようです。先ほど銀行に政府の職員と特殊部隊が突入しました。二つ目に、相談役が死んだことで契約していた人員が皆離れました。代わりの者は派遣できません」
「では銀行のデータベースを調べてなんとかしろ」
「それも無理です……。IT部門の技術者が死んで組織の全データとコンピューターにアクセスできなくなりました。緊急コードも変えられていたそうです……」
「ではここを離れる。持っているセーフハウスに身を移す。情報を照会してくれ」
「…………」
「どうした、早くしろ!」
「法律担当のクリスタレが死んで……。持っていた不動産と移動手段が使えなくなりました。全て彼が買う手続きをしているので。場所が分かりません……」
「……では貨物船で移動するまでだ」
「だめですよ、ドン・フェンネル。だめなんですよ。物流と密輸の責任者が殺されたので全ての港、ルート貨物船が使えなくなりました」
四分位範囲はデータを小さい順に並べた時中央のデータがどの程度散らばっているかを示す値だ。部屋の大体の位置を割り出してその平均に照準を合わせる。それが結局部屋の位置なのだ。これだけではまだ足りない。部屋の半分より奥。奴らがいる位置にまで絞り込む。ディスプレイに映る間取り図にはベッドがある。踏み込めば奴らはベッドより前には絶対に出てこない。ベッドの位置まで第一四分位数を下げる。これでスイッチを入れ直す。
「……では、どうすることもできないというのか?」
「それだけじゃありません。金庫番には金以外にも鍵や絵画や金庫などの貴重品も預けていた。もうないんですよ。物流と密輸の責任者が管理していたネットワークがつぶれたことでどこの港にも入れません。取引が遅れて、損失が出ます。激怒した顧客から追われるかもしれません。IT部門の技術者に管理させていた契約や取引、人員情報にアクセスできないとなると二度と商売ができない。クリスタレが担当してた取引や契約の最終決定と書面での証明書。様々な保証書が消えると我々を守るものは何もなくなる」
「もういい!」
いつしか肩で息をするようになっていた。
「もっと重要な問題があります。こうし座の物流倉庫の担当者が死んだんですよ……。ただ死んだんじゃない。殺されたんだ……。頭を一発、きっちり一発だけ撃たれて……。誰の仕業か分かってるでしょう。我々はその担当者に金を払ってコバヤシもうどうに不利な噂を流すよう依頼した。方法は問わなかった。全部コバヤシもうどうの仕業ですよ」
「……こちらの人員の口座を調べたのか……それで我々が特別に送金していたことを知った。しかし他の者にもカモフラージュで送金しておいた」
「全員を尋問したとすれば……いずれ答えに辿り着くでしょう。逃げましょう。ここにいては危険だ」
立ち上がって上着に手を伸ばす。
しゃがみこんでいたマッサージの女が倒れた。頭に穴が空いている。すぐに正面の視線を戻す。ファブリシオが銃を抜く。
「外に重力井戸発生装置を置いてきた。スイッチが入っているよ。こっちからの衝撃は何倍にもなってあんたらに伝わるが、ちょうどあんたらが立ってる位置から出発する衝撃はこっちに届かずに跳ね返る」
「コバヤシ、もうどう」
「ファブリシオ。落ち着けよ。酔ってるのか、きつしの目を殴った時みたいに? さっき言っただろう。分からないかなあ。もしそっちがぶっぱなしたら、弾丸は全部あんたらんとこに跳ね返るんだよ」
m65ジャケットの前を止めたもうどうは左手をポケットに突っ込みながら右手で銃を構えた。
「まあ座れよ」
フェンネルは顔を引きつらせないようにしながらゆっくりとベッドに座る。
「お前は銃を捨てて立ってろ」
そう言ったのに、ファブリシオの間抜けは自分を睨んで銃を構えたまま。立ち尽くしている。
「おいおい、頭の悪いお前でもさっきと今の言葉ぐらいは分かるだろ。お前が撃てばその弾丸はお前に当たるんだぜ。だから銃を捨てろ」
「ファブリシオ、やつの言う通りにしろ」
フェンネルが低く言うと、ようやく銃を床に置いて下がった。
「両手は見えるように上げておくんだぜ」
これも言う通りにした。
フェンネルに銃を向ける。「あんたもだよ」ファンネルはゆっくりと両手を上げる。
銃を下ろす。
テーブルのそばの椅子に座った。フェンネルに向き合ってテーブルの上の瓶を物色する。オレンジジュースがない。一気に疲れが体にきた。
銃でグラスを叩く。チッチッという音と、マッサージの女が血を流す音だけが響く。
「それで? これからどういう予定なんだ? もうどう」
ねばっこい口調で、フェンネルは訊いた。
「そうだな。とりあえずはうだうだとしゃべった後であんたら二人を処刑する」
「どうしてだね」
「どうして? なるほどな。すっとぼけるとは。まあしかし一度冤罪で殺しているから。きちんと説明してやろう。まず」
背筋を伸ばして、足を組む。
「俺を裏切っていたのはあんただ。俺の評判を落とす噂を流させた」
フェンネルは自分の目をじっと見つめた。
何を考えてる。まるっきり分からない。これからどうなるか。分かっていないんじゃないか。いや、確信が故の沈黙か。ある意味の達観。この老人ならそういうことでも納得はできる。
「まあそんな目をせずに聞きなよ。全部説明してやるから」
銃をグラスに当てる。フェンネルは依然黙ったまま、ぼーっとしている。
「最初俺はあんたから渡された通信相手のリストに意味があると思っていた。しかしあれはミスリードだ。俺を間違った方向へ誘導するための小道具だよ。実際はこうし座の担当者に金を渡して俺の部下であるワイオミング・スターツベルクを調べ上げて一時的に雇い、情報を流させた。しかしこれだけで終わらない。ファイルをすり替えたな。ワイオミングが今まで受けた仕事をファイリングしていると知ると、今回の仕事をあたかもベッツィが依頼したかのように見せかけたな」
フェンネルは目をそらさない。自分もそらさない。時々ファブリシオの動きをチェックしながらもフェンネルを睨み続ける。
「あんたはベッツィと敵対してた。あいつが消えてくれればもっと大きな利益が出せると思ってた。だから俺に始末させた。殺させるよりも裏切り者として処刑された方が都合が良かったんだろう」
フェンネルは一つあくびをした。早く殺せという意味ならそう焦るな。
「しかし考えたな。俺が自分の組織の人員を疑うと知っていてわざわざワイオミングを裏切らせるとは。しかも俺がワイオミングを消すところまで読んでいた。そこでファイルを見つけさせて俺にベッツィを始末させる。俺は裏切り者を消すことができたと満足し、あんたは邪魔者を排除できる。さすがはあんただ」
なぜか急に風が吹いた。生暖かい風だ。
「サンボーンとの会食で俺たちに報復しないように釘を刺したんだろう? しかしあの馬鹿野郎は俺の身近にいる女を撃った。あんたは分かってたんだ。裏切り者の始末を終えた後でそんなことがあれば俺が疑わないはずがないとね。その疑いが閃きに変わればあんたは追い詰められる。だから保険をかけた。残念だったな。あいつさえ言うことを聞いていればあんたは逃げ切れたろうに。実際俺は閃いたわけだがな。自分の組織の人員の金を調べたがうまくいかなかった。答えは意外なところに隠れてた。あんたの組織の人員の金を調べたら、五人も怪しいのがヒットした。一人ずつ調べていったらこうし座の担当者があんたに頼まれたと吐いたわけさ。しかし甘く見られたもんだな……」
フェンネルは両の口角をくっと上げてみせた。
これがこの男のやり方だ。相手をいらつかせて揺さぶるのだ。そうして少しずつ自分のペースに持っていく。組織を破壊して金も人も使えなくしたとしてもまだ諦めていないはずだ。
「……君を甘く見たことなどないよ」
ようやく開口した。
「しかし、周りの者も心配している。君が市場を独占したせいで、他のところの利益が急激に落ちた」
「対策をした。南側と北側を統合して関係する業者に利益と仕事を分配してる」
「覚えているよ。私の提案だからな。本当に、君のことは気に入っている。しかし今年に入ってから一回の取引につき君らの取り分は七十四パーセント」
「他の組織への分配が九パー。仲介役の手数料が二パー。あんたへの上がりは十五パー。文句はないはずだ」
「私の手元に十五パーセントが渡っても、そのまま残るわけではない。私の元請けにもライセンス料として八パーセント支払っている。仲介役への手数料が四パーセントだ。私のところに残るのはたったの三パーセント」
「上がりの少なさで俺を裏切ったのか……。情けない、情けないよ、ドン・フェンネル」
「そうじゃない。君の横暴さに皆が、正直怯えている。これまではうまく均衡を保ってきた。全ての組織やファミリーの間に形式的な上下関係があっても主従関係があるわけではなかった。みなが対等に仕事をができたし、そもそも一人の業者に飽和するほど仕事が集まるなんてことはなかった。しかし君が現れてからはどうだ。君の天才的な科学技術をもってして作られた武器や設備はまさに一級品だった。今まで流通していたものはゴミに見えた。戦争も激化していたから、みな君の武器にとびついた。私もそのうちの一人だった。私は君たちを市場に参入させて有名にした。君たちがいなければ回らない仕組みを作り上げた。その分武器が売れて金が儲かるからだ。だからこの市場の独占状態は私の責任でもある。だから責任をとったまでだ」
「俺の評判を落として仕事を失わせようとしたのか」
「いいや。平均値にしようとしたまでだ」
「俺のおかげで儲かったくせにな。三パーと言っても、母体が大きいんだぞ。それだけで一生遊んで暮らせる金だ」
「だから言っているだろう。問題は金ではない」
「じゃああんたは怖かったんだ。いつか俺に寝首をかかれるんじゃないかってね。あんたなんか生きてたって俺の仕事には何の支障もないのに」
「私は君たちを守ったんだ。私がやらなければ他の組織が、もっと恐ろしくて残忍な組織がやっていたまでだ。私の元請けとかがな」
「ああ、その件だが」
銃を膝の上に寝かせてフェンネルを狙った。フェンネルは銃に一瞥をくれて自分の方に向き直った。ファブリシオはフェンネルを見ていた。
「あんたの元請けとも話をつけた。今後はあんたと仕事をする気はないそうだ。代わりに俺に全ての利権と金を預けてくれた。あんたが持っていて、彼らが管理していた分だ。金額にして七千万テラレロ。すごいだろ?」
フェンネルは何も言わなかった。
「あんたは組織を失ったんだ。幹部連中やイエスマンを全員殺した。おっと、法律担当と相談役は他の奴らに頼んだ。遠くてね。だから俺の判断で爆弾を使ったなんて思わないでくれよ」
「クリスタレは爆殺されたのか」
「法律担当のことか? いや、爆殺されたのは相談役の方さ。何度でもいうが爆弾は嫌いなんだ。くれぐれも俺の判断で使ったと思わないでくれよ。他の奴がやったんだからな」
フェンネルは少しずつ現実を見てきたようだった。さきほどから瞬きの数が多い。鼻をすする回数も。
「それだけじゃない。財産やデータ、取引や契約の記録、送受金の履歴は全部俺が握ってる。今まで百何十年分かのな。全てを失ったことなんて初めてだろう。だけど俺はすでに経験してる。大事なものを失ってるんだ。その点で言えば俺の方が先輩だぜ? ドン・フェンネル」
「それはどうかなもうどう。私を殺した時が君が破滅する時だ」
「いいや、やっぱりあんたは分かってないよ」
もうどうはとろりとした口調でゆっくり言った。自分からはもうどうの目が、光の加減で暗くなって見えていなかった。
「私を殺したら元請けが黙っちゃいない」
「ほうらな、分かってない」
もうどうは左手をひらひらさせた。
「あんたの元請けは、あんたから俺に乗り換えたのさ」
「私の元請けだって、君を攻撃することに同意したんだぞ」
「だから言ってるだろ」
もうどうは銃を上げて自分の方を指す。
「彼らとは合意に至ったんだ。だけどあんたとはもう何の合意もない。そして悪い奴らからも利用価値はなくなった。あんたの組織はこれから俺が管理する。全ての財産、持ち物はもう俺のものだ。そしてあんたの存在はいずれ忘れられる。裏社会では表向き、ややこしいな。偉大なるドン・フェンネルは病死したということになる。真実は裏にも表にも出ない。俺があんたを殺したという真実も、あんたが下請けの俺をはめた真実もな。伝説のまま死ねるんだ。良かったな」
何も言わなかった。言えなかった。
ふと、自分の名前の意味を考えた。両親からつけてもらった名ではない。裏社会に台頭してから自分から名乗った名前だ。故郷の惑星での意味は「革命家」地球に自分と同じ名前の花があるらしい。黄色の花を咲かせる。花言葉は「裏切り」
どうして今そんなことを思い出したのかは分からなかったが、一つだけ、死ぬということは確かだった。
「俺も、あんたのことは好きだった。だけどな。こうなった以上やることをやるしかない」
「ああ、そうだな。分かってるよ。この稼業を始めた時、私は敵に殺されると思っていた。時には想像もできないような残酷なやり方で殺されるんだと悲観したこともある。しかし組織が大きくなるにつれて不安は消えていった。逆にどう殺すかを考えるようになっていた。君を今この場で始末できることならしてやりたいよ。そうすれば私は組織を取り戻せる」
「残念だが、無理だよ。それでは、何か言い残すことはあるかい、ドン・フェンネル。俺はあるぞ。あんたに持っていってもらうことがな。正直辛いよ。あんたを撃つのは。最初に仕事を紹介してくれたのはあんただった。俺が今この地位にいるのは間違いなくあんたのおかげだ。ずっと他人を疑ってきた。他人は信用ならない。家族でさえも信用できなかった。だがあんたは親父か親戚みたいに面倒をみてくれた。本当に感謝している。永遠に忘れないだろう。しかし、そんなあんたに裏切られたと分かった時はさすがに傷ついたよ……。今まで大勢失った。仲間も、本当に大事だった者も。それにあんたを加えなきゃいけないのは本当に辛い。しかもこんな形で」
もうどうは自分を見た。自分はもうどうを見た。ファブリシオはただそこに立っていた。
「俺は、比較的許す男だ。だから恩人が殺されるのを見るのは許してやる」
もうどうは視線をくれずしてファブリシオの左目に穴を空けた。
「…………」
ファブリシオは黄色い血を噴き出す左目をゆっくりと触って、手を離した。ファブリシオはもうどうを見たがもうどうの視線は自分に向けられていた。自分の視線はファブリシオにあった。
二発三発と、ファブリシオは穴を増やしていく。膝をついた時には胴体はトムとジェリーに出てくる穴あきチーズのようになっていた。いや穴というよりは、えぐられていたのだ。
「酔ってたんだろ、ファブリシオ。俺も今相当へべれけだぜ」
それでもファブリシオの方は見ない。
ファブリシオはなんのうめき声もあげずに、ただただ忠誠を誓った相手を眺めながら倒れていった。
地獄へ滑り落ちる数秒前はもうどうの方を見ていた。
ファブリシオにかけよる。何も言わず、さほど期待もこめずに体を揺さぶった。ファブリシオは動かなかった。当然のことなのに、何かすごく、それがおかしなことに思えてならなかった。全てを失ったような感覚がしていた。実際、組織を失ったがそういう感情ではなかった。自分の全てを側で見てきたこの男を失ったということは、どこか自分が自分ではなくなってしまっていることに似ていた。
「俺は比較的許す男だ」
フェンネルを見た。
両者の瞳には怒りや震え、恐怖はなかったはずだ。なにかお互いを認め合ったような、向き合えたような色が流れていた。
「それでも、平気で仲間の部下を裏切らせたり、敵とはいえ今回の件においては潔白の者を殺させるような奴は許せない。そして自分も許せない……。悪人とはいえ無実の者を殺したんだ……」
瞬きをした。右目だけ。ゆっくりと一回だけ。そうしてから口を少しだけ開けた。深く息を吸った。違う種族の死体の匂い、酒の匂い、オレンジの匂いがしたのはなぜだろうか。
「何か言い残してくれ……。頼むから………………」
もうどうから目を逸らして下を向いた。血まみれの手を見た。何も思い出すことはできなかった。幼い頃も、成長した後も。何も思い出がめぐってこなかった。
地獄に流れ落ちる直前、最後に思い出したのは本名だった。顔も知らない親がつけたであろう名前。ラバイヨーネ・ズドウィッチ。ラバイヨーネはボロ雑巾という意味だった。
「もうどう……」
実際のところ、言葉は続かない。一発だった。心臓を一抜き。
自分を裏切ったフェンネルの最大の罰は、死ぬことだった。
無実の者を殺した自分の罰は、師を失うことだった。
しばらく師を見ていた。硝煙の立ち上る銃を向けたまま。足を組んだまま。そこから何一つとして動かさず、じっとしていた。
床に転がる三人と椅子に座る一人は、もう誰一人として動かなかった。
歯の震えは止めようと思っても中々止まらない。自分では無理だ。中々、だめなのだ。
鈴音はバスルームの、冷たく少しぬめった四角形のタイルが敷き詰められた床に座っていた。体育座りをしていた。自分一人と分かっているけどきちんとスカートを膝の下までかけていた。一人だからといってだらしなく座るなんて考えられない。
寒い。
肩の震えは、両手でおさえることでなんとか治る。制服のシャツと肌の間のわずかな熱気だけを頼りにして、凌いでいる。
十二月だというのに、浴槽にはなぜだか冷水が張ってある。このバスルームも、この家も小林が何かをするために使っていたのだろう。小林が何かするということは、もちろんきつしも、ということだ。
靴下が濡れているのに気付いた。床が少し濡れていたようだ。入ったときは気が付かなかった。水は出していない。どうして濡れているのだろう。
肩をさする両腕の中に顔を埋める。息が白くなって出ていく。
リビングの方に耳を集中させる。さっきから嫌に静かだ。何も存在していないみたいに。そもそも何もなかったかのように。
どこに行ったのだろう。
ドアを開ける音が聞こえた。
身を乗り出して、状況を掴み取ろうとする。
のけぞる。
銃を撃つような音が聞こえた。
もしかして、やられたんじゃ。
ドアを閉める音が聞こえた。
胸にかかっていた不安の霧が一気に消え失せた。
大丈夫だ。今のところまだ大丈夫だ。自分に言い聞かせた。
背中の力が抜けていく。腹の下側にたまるものを感じた。
「………………」
ここでするわけにはいかない。したくない。だからといって我慢の限界を迎えるのも嫌だ。なんとか、こらえるしかない。
別のことを考えて気を紛らわせようとした。伸ばしている爪をいじりながら、何かを思い出そうとしてみるが、こういう時に限って何も出てこない。模試や体育の実技テストなど集中しなければいけない時には関係ないことがずるずる出てくるくせに。
ホワイトストライプスのセブンネーションアーミー。
やっとの思いで浮かんだのはこの単語だった。
ホワイトストライプスのセブンネーションアーミー。
まだ付き合っていなかった時、デートしはじめた時期。始めて宇宙に出かけた。小林の車で水星のテーマパークに遊びに行った。
送迎係は小林だった。きつしが専用の車を持っていなかったから。必要ないと考えていたようだし、今もそのようだ。
銃声がした。
夜のデートだった。自分で考えつくいっぱいのおしゃれをして。めかしこんだつもりだった。家族に見つかるのだけはごめんだった。でも外に出るには絶対にリビングを横切らなければならない。リビングの扉はいつも開け放されていて、必ず誰かがこっちを見ている。そういう家なのだ。その時だけマスクをつけたり、ジップパーカーのフードで顔を隠そうというのも考えたが実際にやろうとしてみると気が引けた。家族を騙すなんてことはできなかった。たとえどんなつまらないことだとしても。今まで嘘の一つもついたことがなかった。そういう家で、そういう自分なのだ。
二階の自室で思い悩んでいると、約束の時間になった。迎えにいくから家にいてと言われた。普通はそう言われたら家の外で待っておくだろう。出てすぐのところで。
どこかで待ち合わせて行ける場所ではないというのは理解していからそれは素直に聞き入れたわけだが、どうやって家を出ようかと思っていた。
でもきつしは、それも含めて自分のことを理解していたのだ。
青黒い夕空がいきなり明けたのかと思った。でも違った。もっと良いことだった。
窓から入ってくるその光の正体は車のライトだった。軽自動車のような見た目の車。両側に円形のエンジンがついただけの車。タイヤが下を向いているわけでも大層な翼があるわけでもない。ただそのエンジンと、そり滑りをする時のボードを大きくしたようなものがついただけの車。
音も、風もなかった。ただ静かに自分を迎えにきたのだった。シンデレラが王子様に迎えにきてもらった時はきっとこんな感情だったのだろう。
車はおもむろに右に回った。ドアが開いた。きつし。少し照れくさそうに、手を振っていた。
涙が出そうになったのを覚えている。どうしてかは分からない。ただ、その窓を開けて彼の手を取るだけで全く違う世界に行けると考えると、それだけで高鳴りが胸を破りそうだった。
銃声が、した。喉がきゅっと、締め付けられるのような感触だった。
箱に閉じ込められた人生だった。過保護というわけではないけれど、周りの子よりはどう見たって世話を焼かれてきた。自分が手のかかる子供だったからじゃない。両親がそうしたいと望んだからだ。そういう子供であってほしいと望んだからだ。だからその通りにしてきた。そう努力してきた。私立小学校に私立中学校。わざわざ高校で受験し直したのはそういう堅苦しい、お姫様気分にうんざりしていたからだ。自分は特別でもなんでもない。ただの女の子なのに。お金持ちやエリートと結婚することが決まっているような子たちと一緒にいては息が詰まりそうだった。
窓を開けた。車はこっちに近付いた。彼の手をとって、車に入った。ただそれだけのこと。ただそれだけでよかった。学校、家、時々遊びに行く場所。それ以外の場所を知ることができる。ただそれだけで、彼の手をとるには十分な理由だった。彼はそれを許してくれる。自分が知ることを。自分が冒険したいと思うことを。自分が別のことに興味をしめすことを。だから好きなのだ。
「ごめんね」
ところがきつしは開口一番そう言ったのだ。どもらなかった。
理由はすぐに分かった。
後部座席には胸を撃たれたエイリアンが乗っていた。
吐き気とは違う、もっと別の、汚いものが込み上げてくるのが分かった。きつしはそれを受け止めてくれた。自分が座れるように、助手席からどいて、後部座席に移動してくれた。その車は左ハンドルだった。ハンドルを握っていたのはもちろん小林もうどう。
エイリアンは血を噴きながら、何か言っている。日本語じゃない、地球の言語ではないことだけは分かった。
「どういうことなの?」今まであげたこともない金切り声をあげた。
「だから言っただろ。そんな女放っておけばいいのさ。理解できっこない」
「り、り、り、り、理解してもらおうとは思っちゃいないよ。ただ、好きなんだ」
ただ、好きなんだ。二人はまるで自分が存在していないみたいに内輪の会話を繰り広げた。
「お前がどの穴を選ぶかは別に自由だが、おぉおう? しかしその出っ歯とは趣味が悪いねぇ。なあ、そう思わないかい。ミスターインプロスキ」
それがエイリアンの名前らしい。小林の言葉に応えるように何かを言ったが、分からない。
「だ、だ、だ、だ、大丈夫ですよインプロスキさん。もうすぐハヴァキャンプ先生が見てくれますから」
またエイリアンはうめいた。
「ごめんね」
きつしはまたそう言った。
もう理由は知っていた。
「でも、す、す、す、す、水星には行けるから」
どの言葉も、耳の外にいたままだった。
「ただ、好きなんだ」この言葉がこれほど理性を失わせるものだったとは思っていなかった。両親に今までしつこく説教されてきた。
「男には気をつけろ。どんなに上っ面が良くってもそこに綺麗さはない」
きつしを見た。エイリアンの介抱をしながら小林の話に付き合う彼を。彼には気をつけなくていい。そう思った。
「おい、出っ歯。聞いたか? こいつ、村山きつしはお前のことが好きなんだってさ。それであろうことか俺に水星のテーマパークを貸し切らせて、おまけに送迎までさせようという魂胆だ。ほんと。なめられたもんだぜ。まあなんだ。テーマパークには連れてってやるからよ。その前に火星に寄るぞ。倉庫がある。そこで最高の執刀チームがこの患者を待ってるんだよ」
言ってることは全然入ってこなかった。どうやら「ただ、好きなんだ」の魔法がかなり長いこと効くらしかった。きつしが後ろで困った顔をしているのは見なくても分かった。
外を見ると、すでに地球にはいなかった。真っ黒な宇宙空間。時々キラキラしたものが見えるだけで、本当に何もない空間。ちょっとすると惑星が見えた。クレーターの具合から、月だと分かった。
「ちぇっ。サンバ人がいるよ。俺あいつら嫌いなんだよ。最近フェンネルと仲良くしてるからもしかしたら一緒に仕事しなきゃいけないかもしれねぇ」
「ああ。ち、ち、ち、地球かぶれの嫌な連中さ。しっかりしてくださいよ」
きつしは小林の話に付き合いながら死にかけているエイリアンを介抱していた。
「気を紛らわすために音楽でもかけてやろうか」
小林はそう言うと、カーナビを操作した。すぐに聞いたことのない洋楽が車いっぱいに響いた。
「ああ、これこれ。『ホワイトストライプスのセブンネーションアーミー』って曲が歌詞にある曲だ。確かポストマローンのケミカルだったか? この曲は。好きなんだなこれが。歌詞がしゃれてるんだよな」
銃声。体の力が抜けていく。
結局その後すぐに火星について、死にかけのエイリアンを運んだ。
車の中で待って、何も見ないように顔を伏せているよう言われたけど気になって、こっそり見ていた。
廃倉庫のようなところに入っていくと、青い服を着た医師団が患者を受け入れていった。小林、医師団の長のような人物の肩に手を置いて何やら熱心に説明していた。他のスタッフたちは、すぐに患者をストレンジャーにのせて点滴やら酸素マスクやらを準備した。きつしは、小林の隣で、ただ立っていた。そういう役割なのだと分かった。小林の隣で立っていること。それがこの宇宙ですごく意味を持つことなのだと、直感的に理解した。
十分ぐらいした後に水星に向かった。道中小林は言いたい放題言って、自分たちが困るような雰囲気を作ってから送り出した。
そのデートは最悪だった。いや、最高だったのだが、アトラクションは異星人向けのものばかりで(肛門洗浄マシンや、体内に意思を持つボールを入れて転がすやつなど。意味は分からなかったがレイプショーというのもあった。ちなみにこの言葉の意味は今も分からない)地球の人間が耐えられそうなものは数えるほどしかなかった。普通のジェットコースターやメリーゴーランド。結局そういうものに何回か乗って、レストランで食事をした。レストランにいた時間の方が長い。何回か乗ったといっても、貸切で何を何回乗ろうがただだから、ここで一回しか乗らなかったら損な気がしただけで乗っていただけだった。
従業員のエイリアンたちはみな親切にしてくれた。入場する時も支配人らしき人物がわざわざ出てきてきつしの手を硬く握った。
「もうどうさんときつしさんにはいつもお世話になってますから」
そういう言葉がちらちらと聞こえた。きつしは笑って「いいんだよ。そんなこと」と返していた。
少し怪訝だった。
レストランの料理も妙なものだった。豪華で、綺麗で、文句のつけようがなかったがメニューがなく。店に入ってすぐに血をとられた。
血の状態から、今本当に欲している食材と必要な栄養情報が分かるらしい。
出てきた料理はガレットのようなものだった。端に野菜のコンソメあえのようなものがあった。お好みでつけられるドレッシングとマヨネーズのグラス。良い匂いだし味もおいしい。幸せだった。地球では絶対に食べられないとも思った。脳が喜んでいる、というやつだった。
金星の黄緑ワインもでてきた。アルコールの代わりに健康物質の入っている、ほとんどジュースのような味だったが、口の中の繊維やら肉やらに細かく深く入り込んで味がずっと残った。
流れている音楽も、天井の水槽も一級品で、五感が甘やかされた時間だった。
何よりも楽しかったのはきつしとの会話だった。
いろんな話をした。思い出せるものから思い出せないものまで。幸せだった。心底、幸せだった。思い出せない思い出、それがいいんだ。そういうもの。そういうぼんやりしたものにキスしてあげたい。ココロ一杯のキスを。思い出せるものに手を振るよりも、思い出せないものを想ってキスする方が、価値があると思う。
両親は絶対許してくれなかったろう。それもいいのだ。両親は絶対に許さない。冒険を禁ずる。好奇心を殺す。でもこの時だけは生まれて初めてココロの底から息づいていた。
きつしの話は信じられないものばかりだった。月並みな表現だが、本当にそうだった。
宇宙での仕事、というのがそもそもよく分からなかった。詳なことは話してくれなかったが大体は分かった。
宇宙では戦争がある。戦争には武器が必要。高品質な武器を作って売っている、ということらしかった。他にも色々やっているらしかったがあまり覚えていない。
小林のことも話題に出た。あんなひどい性格の人なかなかいないわよね。と言った。
彼は言った。それはもうどうのせいじゃないんだ。暗く言った。それ以上は聞かなかったけれど。
僕はもうどうのことが好きだ。彼も同じだといいんだけどね。恩があるんだ。いざとなったら助けてくれる。自分のことをほっぽり出して、一番に助けてくれる。それは、ある意味自分のことをどうでもいいと思っているからなのかもね。もうどうは本当は優しいんだよ。死にかけていた猫を連れてきたら治療した。うちで飼ってるよ。学校にすずめの家族が住みついてるのが問題になったろ? 子供のすずめは足を怪我していたんだ。
ある日突然いなくなったのは覚えてるよね。先生たちが排除したみたいな噂もあったよね。違うんだよ。もうどうはその家族を見つけると、子供の足を治療したんだ。薬を与えて化膿しないようにした。それからずっと経過を観察してた。時々、笑いながら話しかけたりもしていた。普段は見ない笑いだよ。静かで、おとなしくて、物悲しそうな、そういう笑い。すずめが学校からいなくなったのは、完治したからだよ。学校にいる方が危険だ。素行の悪い生徒や偏屈な教師が追い払ったりしたらまた怪我をするかもしれない。だからそうなる前にもうどうが安全な場所に連れていったのさ。
だけど、それが、もうどうなんだよ。だから僕は一生もうどうのそばにいることにしてるんだ。同じ墓に入ろうとすら思ってるんだ。もっとも正当に埋葬されるような生き方はしていないから。同じ場所で死のうと思ってる、の方が正しいかもね。
彼がどもる時とどもらない時の違いも、その時分かった。冷静になったらどもらない。
自信に満ち溢れている時はどもらないのだ。普段冷静ではないとも思わないし自信がないとも思わないが、ともかくそういう区別をした。
帰り道、小林は一言も喋らなかった。自分たちが後部座席で大声でしゃべっていたからかもしれないが、きつしが話してくれた小林のこと。それらを鑑みると、ただ空気を読んでいただけだとは思えなかった。
帰ったのは真夜中だった。両親が、綺麗に整った箱の中で育てた娘がベッドの中で眠り姫になっていることを疑うはずがなかった。
その日は寝つけなかった。まだ、まだ終わりたくないと思っていたからだ。心臓が駄々をこねていたからだ。
二人は転校生ではなかった。二年生の始業式の後、新しいクラスメイトが集められた教室に、ずかずかと入ってきたのだ。小林はほとんど破れた黒のダメージジーンズにネイビーの、四つポケットがあるジャケット。シャツは白色だった。きつしはグレーのパーカーにレザーのジャケット。黒のスラックス。担任が小林を不審者扱いして、触れようとした時、きつしはその手を思い切り掴んで担任の目をじろりと見た。
そこにあったのは「関係」だった。信頼。友情。そんなものではない。小林は自分が好きに行動できるのはきつしが側にいるからだと理解している。きつしは自分が今生きているのは小林のおかげだと信じている。
羨ましい。何よりも、ココロの線のようなもので繋がっている、二人は死なない。一人が死んでも、一人が生きている限り、もう一人も生き続ける。だから、そう。そういう関係なのだ。
水が垂れている。
自分の顔から、髪から、上から。体が倒れているのにも気が付いた。遠くの銃声にも。
シャワーヘッドだ。体の力が抜けて倒れていくにつれて、肩がハンドルに当たったのだろう。それで水が出たのだ。
身体中びしょびしょだ。また気が付いた。下腹部の圧迫がなくなっている。
最悪の予感と、自分への失望で、目を閉じて上を見た。シャワーヘッドの細々した水があたる感触がむしろ優しく感じられた。
ガラスの割れる音がした。
自分のココロの中の音ではなく、確かに耳がとらえた音だった。
強まった震えと一緒に立ち上がると、おぼつかない指先でドアに触れた。
音がしないようにゆっくりと、開けた。
実際遅刻していても、遅刻、遅刻、と思いながら向かっている人間なんていないだろうというのが自分の意見だった。大抵は急いでいても何か他のことを考えているはずだ。
今朝は大学にも遅刻した。遅刻した日というのはなんとなく調子が悪い。
午後から研究の一環で駅に取材に行っていたのだ。事前に駅員さんにアポをとり、こういう大学のこれこれこういう事情でお話を伺いたいのですがよろしいでしょうかという感じで会いにいった。一時間ほどの予定だったのだが駅員さんが妙に饒舌になって、二十五分もオーバーしてしまった。大学には連絡しておくと言ってくれてたが、遅れれば咎められることに変わりはない。
熱心になりすぎる、と言われることがよくある。相手の話を熱心に聞くのは良いことだけど、それで相手が喜んで話に拍車がかかるとこっちの時間を奪われることになる。
学校の授業で高齢者施設を訪れた時も、あるおばあさんの話に長いこと付き合っていたせいでみなに置いて行かれた。
話を聞いてあげないとかわいそうだと思うわけではない。相手に気に入られたいと思うわけではない。きちんと聞かないと失礼だと思うのだ。それ以上に、相手が自分に向かって話しているだけで喜んでくれるのが、この上なく嬉しいのだ。
「熱心になるのはいいけど取捨選択しなさい。誰にでもココロを開きすぎるのはかえって危険よ」
母親に常々言われていることだ。「もう大学も卒業するんだからいい加減に自分の状況と照らし合わせて、考えられるようになりなさい。人を信用しすぎないようにしなさい」
どういうことなんだろう。
友達からも言われる。警戒心がなさすぎる、と。「誰に対しても優しく楽しそうに接せられるのは羨ましいけど変な男に引っかかったりしないようにしなよ。キモい男に勘違いされたら厄介だよ」
良く言えば博愛主義、悪く言えば世間知らず。そういう印象を持たれているらしい。
別にいいじゃないの。意識してるわけじゃないし、優しくされて嫌がる人なんていない。疑うよりも信じたいだけなのだ。
大急ぎで自転車を漕ぐ。
角にぶつかるたびに左に曲がっていけば、大学につける。
頬にぶつかる空気に歯を鳴らしながら、前だけを見る。
お父さんはいいよね。クリスマスプレゼントも誕生日プレゼントもいっぺんにもらえて。
幼い頃の会話を思い出した。もうすぐ父の誕生日だ。
今年こそは、自分で稼いだお金で何がプレゼントしたいと思っていた。時計が一番いいだろうと思っていた。今年の春から内緒で本屋と飲食店でバイトをしていた。それなりに稼いだつもりだ。
時計は目玉が飛び出るほど高いというイメージがあり調べてみると確かロレックスは三百万が相場。流石に無理だ。
父が好きな俳優(確かディエゴ・クラテンホフ)がつけているのがタグホイヤーアクアレーサーのクロノグラフ。通販サイトで見てみると大体二十五万円。買えなくはない。父にぴったりだしプレゼントすればきっと大事に使ってくれるだろう。ただ、もっと他にも良いものもあるんじゃないかという気持ちもあった。一つの選択肢を選ぶことによって失う別の選択肢。それに得られたであろう結果などを機会損失というらしい。
その機会損失がタグホイヤーよりも良いかもしれないという心配を抑えられない。
前から車が来た。
右の歩道によける。
車が去ると歩道から出て、車道を走る。
左に駐車場が見える。右には植木が。なんだか閉じた空間だ。
ブレーキをかけた。
とっさだった。
目が何を見たかということを脳に教える前に、ブレーキをかけていた。
「危ない!」
自分の声の大きさにびっくりだ。
人が、落ちてきたのだ。正確には、横から滑り落ちてきた。
家と家の間の溝から落ちてきた。しかも怪我をしている。
自転車から降りてかけよる。
身長の高い、優しい顔の男の人だった。自分より年上にも年下にも見える。ブレザーとシャツ、制服のようなものを着ている。あちこち汚れていて傷も見える。
「す。す、す、すみません」
相手は謝ってきた。
「大丈夫ですか?」
救急車を呼んだ方が良いのか。自転車のカゴのかばんからスマホを取り出す。でも、このままでいいのか? 怪我をしている。もしかしたら誰かと喧嘩でもしているのかもしれない。だとしたらずっとここにとどまっているのは危険だ。救急車を呼ぶにしたって、彼はそれを望んでいないかもしれない。
「けがしてるんですか?」
相手の目を覗き込む。怯えているような、警戒するような目だ。しまった。寝坊したせいで化粧が雑なんだった。ばれてないといいけど。
「い、いや」
男の人は左手で右手の肩を触った。ほこりを払うような感じだった。ふと、左手首の輝くものが目に入った。腕時計だ。文字盤には王冠と「ROLEX」の文字。ネットで散々調べて、もう覚えていた。
「あの」
「え;…?」
「時計、詳しいんですか?」
無礼を承知で、訊いてみた。だってプレゼントとして贈る時計を悩んでいる時にロレックスをした人が目の前に現れた。しかも落ちてきた。ロレックスをしているんだから時計には詳しいはず。いや、一概にはいえないのか? でもこの人はいい人そうだ。それに、この制服。見覚えがある。自室のクローゼットの一番右端にかかっているブレザーと同じ。後輩くんだ。この人はきっと良い人。
「あの、父の誕生日が近くて、時計プレゼントしたいなって思ってて。よかったらアドバイスもらえませんか?」
相手は、少し驚いた顔をしていた。当然だろう。ぶつかりかけた相手にいきなり時計のアドバイスを求められるなんて。驚くはずだ。でも、教えてくれるはず。この人は絶対に良い人だから。
かたまっている。怖がっているのかもしれない。いや、違う。懐かしむような目をしている。誰かを思い出しているようにも見えた。きっと、近しくて、親しかった人だろう。自分に似ているのか。そう思ったら少しおかしかった。期待しているようにも見えた。希望で、瞳が震えている。
「あ、あ、あ、あの」
その人の声と、その人の顔はしばらく意識に残っていた。何が起こったか分からなかった。
「起こったこと」について何か感じることも、触れることもできなかった。ただ、終わった。
前を見た。
硝煙を上げる銃。にやにやする赤ん坊。砂のついたおむつ。ブニブニの腕と足。
目の前にいるのは、悪魔だ。赤ん坊の皮を被った、何か。
きつしは、悶えた。ココロの中で。奥深くで。苦しんだ。ゴッドファーザーPART IIIのワンシーンをまた思い出した。マイケルコルレオーネが叫ぶ場面。娘を失って叫ぶ場面。
最初、音のない映像だけが流れて、その後に叫び声が戻ってくる場面。
土星人のジェットで見たあの映画。
善人の死と自分の子供が人を殺したという事実。しかも他人を。何の罪も犯したことのない、平穏の中に生きていた人を。虹色の気配を持っていた人を。
銃口はまだ自分に向いている。
止めないと。この悪魔を止めないと。
体が動かなかった。動かなくなかった。
赤ん坊は近づいてくる。それでも、無理だ。絶望と拒絶で、体が動かない。むしろ倒れた。右に。震えている。こんなのは初めてだった。精神的なショックで体が麻痺していく。過呼吸になっている。小さな足音は確実のこちらに近づいてくるというのに。体が、動かないんだ。
銃が目の前まで迫った。
赤ん坊は笑っている。にやにやにやにやにやにやと。無邪気に、笑っている。晴れやかだ。とても、楽しそうだ。
体をよじると右のポケットから、おしゃぶりが転がった。
おむつはすっかり黒くなっている。砂で、汚れている。それだけ、撃ったのだ。
息子に殺される。そうじゃない。それが嫌なんじゃない。むしろそれでもいいと思っている。許せないのは、自分を殺せば次は鈴音だということだ。そして他にも無実の人を殺すだろうことだ。この二つだけは、許せない。でももう、どうすることもできない。もうどうの言った通りだ。子育ては並大抵の覚悟でできるものじゃない。今まで世の中の、ネグレクトや育児放棄に憤りを感じてきた。だが今は、ある意味理解を示している。全てが終わる。何もかも。良きことも悪しきことも。もう、終わりなのだ。
銃が下がった。それが、そういうことだ。もう、それは、終わったということなのだ。目の前から、下がっていく。
だけど、感覚が、あった。歯が震える感覚。日差しを感じる肌の感覚。絶望に触れるココロの感覚。
生きる、生きること。それを、まだ、していた。赤ん坊は、どこに。銃が落ちている。
考えるより、早く、希望を、見るより早く、拾い上げてホルスターにしまった。
なにがおこったか。
おしゃぶり。右のポケットから落ちたおしゃぶり。かつしは、おしゃぶりを拾い上げて、手で弄っている。
家から走ってくる鈴音の姿が見えた。きちゃだめだ。まだ。
かつしを見た。地面に這いつくばって、ブニブニの指でおしゃぶりを触る。
あわ、あわ、という赤ん坊らしい声を出して、笑っていることに変わりはないが、さっきまでの銃を持っていた時の感じはなかった。無邪気で、純粋な、赤ん坊らしい、笑顔。
鈴音は濡れている。どういうわけだか、分からないが。
どんなだ。
二人は、じっくりと、我が子を見つめた。これから何が起こるかを見極めた。
道路は、静かだった。車も、自転車も通らない。人も、誰一人として通らない。まるでこの空間だけくり抜かれたみたいに。それだけで生きてるみたいに。
ごろり。
きゃっ、きゃっ、あわ、あわ、きゃっ、きゃっ、あわ、あわ、くっ、くっ、くっ、くっ。
おしゃぶりをくわえると、そのまま静かになった。
どういうわけだか。理屈ではなかった。
赤ん坊らしいものを見たり触れたりすると凶暴さがなくなるのか。それも自分たちの要素の一つだというのか。受け継いだ要素の一つである。そういうことのだけなのか。
うんざりだった。そういう遺伝やら要素やら。そういうものが自分たちの中にあると、そういやがおうでも突きつけられているのと同じことだ。この赤ん坊と同じなんだと。自分たちは。そう言われているのと同じことなのだ。
動き出さない。かつしは、もう安全だった。直感でそう分かった。もう誰のことも傷つけない。ただし、おしゃぶりをしている間だけだ。とってはいけない。
「どうする?」
鈴音は、か細い声でそう尋ねた。
考えるまでもなかった。
「も、も、も、も、もうどうのところのつれていこう。もうどうの言う通りだよ……。僕たちに子育てなんかできるはずがなかった。二人の愛情を深めるだなんて、そんなことに一役買えるはずがなかった。だって……。もういいさ。僕らは大丈夫だ。何を恐れて、そんな風に考えたのかは、もう、お、お、お、お、お、思い出せないけど、とにかく、もう無理だ」
家はそのままにしておいた。泥棒が入るとか、迷惑だとかは、考えれらなかった。とにかく、毛布でかつしをくるんで、間違ってもおしゃぶりがとれないように、そっと、そっと、車に乗せた。
今か今かと待ち焦がれる時が最も辛い。自分に物事の期待を委ねることに慣れていなかった。
仕事ではそんな風には思わない。むしろじれったく言葉を荒めて催促する奴輩には嫌悪感を抱く。
もうどうは教卓に座って、たばこをくゆらしていた。たばこといっても地球のものではない。宇宙で流通している未成年でも吸えるたばこだ。見た目は普通のたばこと変わらないが煙は青い。味はソーダだ。オレンジ味がないから仕方なくソーダ味で我慢している。
ここからだとクラスメイトの顔がよく見える。女も男もそうでないのもアホ面アホ面の千秋楽。フォアグラを作るように先公が知識を詰め込んでくれるのを待っている。しかもその知識は間違っているときている。こっちを見てくるやつはいるが目を合わせてやると大体はすぐに逸らす。利恵菜は目が合ったら嬉しそうにするが。
裏切り者たちの始末を終えてすぐに迎えにいった。利恵菜は五限目は出席しそこなったが命には変えられない。今は体はすっかり良くなっているはずだ。渡してやった薬を一日二回、朝と夜に飲めば傷口が化膿することもないだろう。学校にいる奴らは利恵菜が撃たれたなんて知りもしない。昼休みに抜け出して自分に会いにきたのも。思ってみると少しくすぐったくあった。
裏切り者はいなくなったしもっと大きな組織とのつながりも手に入った。解体したフェンネルの組織を再利用するにはもう少し時間がかかるだろう。技術者が持っていた情報は全て手に入ったし金も贅沢品も金庫も手中だ。銀行の貸金庫にいくつか、鍵があった。特殊な形状のもので今まで見たことがないものだった。それの解明もしなければならないがフェンネルの遺品を漁る以上に、物流倉庫や不動産などの持ち物を精査したり離れていった人員をかき集めて使えそうなのを見極めたりもしなければならない。これから大変だ。もっと仕事が増えるし、組織はもっとでかくなる。力もつくだろう。戦争も激化する。自分の仕事が捗るというのはそういうことだ。今は、別に気にしない。
「ちょっと」
いつもは気弱な地理の教師が睨んできた。新卒の若い女だ。ショートカット、黒っぽい化粧でいつまでたってもリクルートスーツを着ている。他の若い教師のようにスタンドカラーシャツにカーディガンなんかを合わせてみたりもしない。「フォーマル」ではない「堅苦しい」「とっつきにくい」授業をまともに受けていない自分でもそう思うのだからきっと他の生徒はなおさら敬遠してることだろう。かといって地味ではない。メガネもかけていないし不細工でもない。目鼻立ちが整っているから余計たちが悪い。
大学生に毛が生えたような奴が一丁前の授業ができるのか。
「なんだよ」
「なんだよって……。授業中に教卓の上に座ってたばこ吸ってたら声のひとつぐらいかけるでしょ」
格好とは違って言葉遣いはラフなんだな。
「分かった分かった、ほらよ」
もうどうはポケットからたばこのケースを取り出して差し出した。
「ふざけてるの?」
「いいや、大真面目だよ。ほら、欲しいんだろ? とれよ」
泣き出すまで数秒ないだろうな。親に怒られた時のように、その女は上目遣いで睨んできた。言葉も行動もなしに。たばこと自分の目を行き来する。
くるぞ。泣くぞ。
教室のドアががらりと開いた。
ボロボロになったきつしと出っ歯の鈴音。それにおくるみされた赤ん坊。くるぞくるぞと期待してはいたがお前らじゃねえよ。泣くぞ泣くぞと期待してたが赤ん坊じゃねえよ。しかも泣いてねぇし。
「どうしたきつし。しけたつらだなぁ! クラスメイト一人一人の顔面を見てみろ。将来への期待と知識を得られる喜びに満ち溢れてるだろうよ。実際はそうでなくとも、学校ではそうあれって教えるんだよな」
最後のところで教師の方を見てやった。
きつしは笑わない。髪がボサボサだ。何かあったことは分かる。出っ歯は水浸しだ。制服のスカートから水が滴っている。
きつしはおくるみされた赤ん坊を机の上に置いて広げた。おしゃぶりをくわえた乳幼児があらわになる。
もうどうは教卓から飛び降りた。一番前の席の横にかけてあるかばんに足がぶつかったが意に介さずきつしに近づく。
たばこをゴミ箱に投げる。入らずに床に落ちて青い粉末が散らばった。口を右手のひらで拭う。
「で? 父親母親ごっこはどうだったよ」
「君、わざとやったのか」
きつしが自分の肩を掴んだ。動じずにきつしから視線を外さない。
「わざとやったのか……? 汚物を口から吐いたり、人を殺したくてたまらなくなるように、君がわざとそういう風に作ったのか?」
「落ち着けって。何があったんだ」
「落ち着けるわけないだろ」
きつしにしては珍しく怒鳴り声を上げた。
「君が、わざと、そういう風にしたのか?」
たばこの箱の中を覗いた。コーラが一本。メロンが一本。コーラは直接的な味で、メロンは遠回しな味がする。
「聞いてるのか」
「なあ」
手のひらをぐっと出してきつしを押す。きつしは少しく体をこわばらせた。
「最初に言わなかったか? その子供がどんな風に育とうと所詮はお前と出っ歯の要素だ。俺がどんな風にその忌々しい生き物を作ったって遺伝子は俺のじゃない。お前らの遺伝子にそういう側面があったということだよ。人を殺したくなる? 口から汚物を吐く?それはお前らにそういう側面があるからだ。自覚していなくとも、それはお前らの遺伝子の情報の一部だ」
「だけど……。あり得ないことが起こったんだ! 銃を奪われて、僕たちを殺そうとした。実際外に出たときに他の人を殺したんだ。無実の人をね。僕らにそんな一面があるっていうのかい? それに、カゼインアレルギーを知っててカゼインの入ったミルクをバッグに入れただろ。それに、汚物のことだって知ってただろ。フォルダに入ってた書類に書いてたんだから」
「だからそれはお前らの要素なんだって。そういう風に作ったんじゃなくて、体が出来上がった後に、検査したら分かったことなんだ。だから注意書きをしただけで俺がそう設定したわけじゃない。やろうと思えばいくらでもできたよ。ミルクの件にしたって、俺がミルクに含まれてる成分をいちいち気にするはずないだろうが? 適当に盗んできたものの詰め合わせがあのダッフルバッグだ。むしろありがたく思ってくれていいんだぜ? カゼインアレルギーの症状と汚物発射の兆候を混同しないように注意書きもしてやったしエピペン注射も用意してやったろ。大体、説明書きを読まずに使う方が悪いだろうが」
「『使う』って……もういいよ。とりあえず、君がやったんじゃないんだね?」
「そんなことするわけないだろ? いいか、俺は科学者だが科学を信じてるわけじゃない。万能なんかじゃない。永遠に続くわけでもない。いつかは滅びるんだ。だからいいんだろうが。そういう不確実性の中で色んなものを作る。子供だってそうだ。人工的に作るなら説明書きがあって然るべきだろうが。わざわざ用意してやったのに、読まなかったのはお前らだ。それで? 何のようだ。どうしてわざわざ俺のところにつれてきたんだ?」
きつしは鈴音とアイコンタクトすると罰が悪そうに自分の耳に口を近づける。
「子供はもう手に負えないよ……」
「そらきた!」
手を叩いて笑った。きつしは深く目を瞑って指で目の上をこすった。
「絶対そう言うと思ったよ。分かってた。お前らがちゃんと子育てできるわけがねぇ。ちょっと待ってろ」
黒板の横の掲示板の下側を触ると壁が上に移動して冷蔵庫が現れた。嬉しげに開けて、オレンジ色の液体の入った大きな瓶を取り出した。
「ラベルを読んでみろ」
瓶を見せる。きつしは呆れたように頭を振ると瓶に顔を近づける。
「『だから言ったのに』のボトル、中身はオレンジジュース……」
「どうだ? いいだろ」
「ふざけてないで早く対処してよ。おしゃぶりとか哺乳瓶とか赤ちゃんっぽいものに触れてるときは普通の赤ん坊になるけど飽きるとまた人を殺したくなるんだよ」
「分かった分かった。その前に『だから言ったのに』のボトルを開けさせてくれ」
m65ジャケットのポケットから栓抜きを取り出すと、ゆっくりとした動作でボトルの栓を開ける。冷蔵庫からグラスを取り出して注ぐ。口をつけかけて
「危ない危ない。これを忘れるところだった」
ボトルを近くの生徒の机の上に置いて冷蔵庫の中に手を突っ込む。一輪のオレンジを取り出してグラスに差す。
「チアーズ!」
きつしと鈴音や生徒の視線なんか気にせずにゆっくりじっくりと飲み干す。グラスを勢いよく口から離して近くの生徒の机の上に置いた。衝撃でグラスは割れた。座っていた生徒は飛び退いた。それでクラスが多少ざわついた。
「さて。なんだって?」
「だから、子供を何とかしてくれよ。凶暴性が下がる血清を注射するとか、まともな人間になるとかそういうのできるでしょ。子供を育てたいとはいったけど、猟奇殺人鬼にしたいとは言ってないよ」
「別に子供が悪いわけじゃないぞ」
「分かってる! 分かってるさ。僕らの要素だっていうんだろ。だけど危なすぎる。他の人を傷つけてまでこの子を尊重することはできないよ」
「やれやれ、本心が出たな。結局お前らは自分の手に負える範囲の鎖が欲しかっただけなんだよ」
きつしと鈴音の間を練り歩く。赤ん坊はくっくっとおしゃぶりを動かしている。
「二人がずーっと一緒にいられるようにしたかったんだろ? 何があっても別れられないようにそういう鎖が欲しかったんだろ? 子供がいい鎖になると思ったか?」
鈴音に顔を近づける。すぐに目を逸らした。
「まあ俺も、お前らと同い年であまり偉そうに言うとひんしゅくを買っちまうから表現を、まあ、柔らかくするが、とにかく学生で子供を持とうなんていう発想をする奴は決まってクソカスだ。頭の悪い、将来の見えていないぼんやりしたゴミクズのどもり野郎か出っ歯女だ」
きつしと鈴音は俯いた。教師は相変わらずこっちを睨んでいる。生徒たちは怖がって物音を立てない。
「お前らは子供が欲しいとせがみこの天才につくらせた。しかし今は? もういらないか。まるで楽しみにしてた品物が不良品だと分かった瞬間にいらなくなるみたいに。結局自分の望む子供じゃないと分かると育てる気がなくなったんだ。人を殺したくなる? 口から汚物を吐く? 結構じゃないか。いらん人間なんぞこの世には腐るほどいるんだ。そいつらを殺させときゃいい。汚物だって肥溜めに吐きゃ良い肥料になる。子供を本当に愛腹を痛めて産んでないから、出産に苦しむ女の姿を見てないから簡単に人に何とかしてくれって頼めるんだ」
「分かった、分かった、鈴音はともかく僕はクズでゴミだ。それでいいよ。確かに自分が期待していた子供じゃない。だけどそれでも精一杯愛そうとした。今も愛してるよ。撃ち殺されかけたり他人を巻き込んだりしたって自分の子供だって意識してるからこうして君のところに連れてきたんだ。子供のために君のために連れてきたんだ。このまま育てばいずれもっと人を殺す。無実の人もだ。だからその性質を取り除くために、この子が警察に捕まったり賞金首になったりすることのないように君のところに連れてきたんだ」
「……なるほどな。いやあいい話だ。自分たちが育てたくなくなったというのを子供のためだという責任感にすり替えて伝えることで共感を勝ち取った。今回はお前の勝ちだ。その親としてのけじめに免じて今回は俺が対処してやろう」
言ってやるときつしと鈴音は心底安心したようにため息をついた。
ポケットの中のたばこに触った。
「それはそうとお前。直接的なのと遠回しなの、どっちが好きだ」
「え?」
「いいから、直接的なのと遠回しなの、どっちの方が良い」
「そりゃ、直接的な方が好きだけど」
「そうか。銃を奪われたと言っていたな。今は持ってるのか?」
「あ、ああ。取り返した」制服のブレザー越しに右の腰をポンポンと叩いた。
「そうか、じゃあとっとと終わらせよう」
もうどうはきつしのブレザーのサイドベンツのスリットをひらりと上げると銃を抜き、そのまま赤ん坊の額に押し付けて引き金を引いた。脳と顔の部品、おしゃぶりのかけらと血が飛び散る。教室は銃声と破裂音におののいた生徒と教師の悲鳴で埋め尽くされた。
「おぉおう。どうした? そんなに騒いで、羨ましいのか? お前らも撃ちたいのか? それとも撃たれたいのか?」
怒声をあげると静まり返った。鈴音は失神して倒れた。きつしは赤ん坊に寄っていった。
「きつし。分かると思うがもう死んでる。これでいいだろ。どうせあと数日しか生きられない体だったんだ」
「どういうこと……」
「お前らが子育てに飽きるのが大体四日だと計算してた。その日数に達するとバイオプラスチック爆弾が炸裂するようになってる。だからどっちにしろ赤ん坊は死んでた。しかし一日で飽きるとは思ってなかった。もう切り替えろ。死んだ者は戻らない。どうやったってもう二度と会えないんだ。どれだけ泣いたって涙の泉から復活するわけじゃない」
「簡単に受け入れられるわけないだろ。こ、こ、こ、こんなこと、もっと解決策が他にあっただろ? 君なら、暴力性だけをなくせたはずなのに……。どうして殺す必要があったのさ……」
声が暗い。望んだことをしてやっただけ、恨まれたり被害者ぶられる筋合いはない。
「もう、耐えられない」
後ろで女教師の声がした。女の方を見る。
「今すぐ、会議を開いてあなたたちを退学にするよう提案する。本当は今日の放課後だったけど待ってられない。みんな言ってるの。あなたたちを退学にするって。吐きそうよ。もう、無理。あなたたちがどうしてこの学校にいるのか理解できない。どうしてこの学校にいて、周りの人たちに迷惑をかけ続けるのか分からない。勝手にやればいいのに」
ヒステリックな女は嫌いだ。しかし本当に吐きそうな顔をしている。別に知ったことではない。教室が汚れても少しだって困らない。
きょとんとした顔で見ていると教室から出ていった。
きつしはもうどうの顔を見た。動揺は消えていた。
「きつし、お前のせいで退学になっちまうぞ。どうすんだよ」
きつしは立ち上がって、少し赤ん坊の方を見てすぐに自分の隣に立った。もういつものきつしに戻っていた。
「き、き、き、君が銃をぶっぱなすからだろ」
「ここに連れてくるから悪いんだろうが」
「そもそも、ま、ま、ま、前々から君に問題があったんだろ。学校にこなかったり制服を着なかったり、ま、ま、ま、麻薬を換気ダクトの中で爆発させたり。今でもそうじゃないか」
「お前だって学校には行ってないだろうよ」
「し、し、し、仕事がないときは極力行くようにしてるだろ」
「いつも俺と一緒にいるのに俺よりも学校に行ってるって? 小学生の方がもっとまともな言い訳ができるぜ」
「と、と、と、とにかく。退学になるのは君のせいだろ。僕はいつもあ、あ、あ、あ、あやまりっぱなし。だから今度こそ、君がなんとかしてくれ」
「分かってる分かってる。心配すんな。ちゃんと手は打ってる。あとは会議室とやらに乗り込んで説明するだけだ。いいな?」
「あ、あ、ああ」
「いいか?」
「ああ、分かった」
「そうだ。何の問題もないだろう? お前らが時間を無駄にしてる間に、裏切り者も始末できたんだ。これからもっと組織はでかくなる。楽しみだな。じゃあ準備をしようじゃねえか」
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。組織がでかくなるってど、ど、ど、ど、ど、どういうことだよ」
「それは後で説明するからついて来いって」
揚々と教室を出るが後からついてくる気配がない。
舌打ちをして教室に戻る。
案の定、赤ん坊のことを気にしてしゃがみこんでいる。意味のあるものじゃないのにどうしてそこまで拘泥することがあるのか。教室は葬式の雰囲気だ。女どもは目を逸らしている。震えている者もいる。男どもは怖いものみたさからか数人、ちらちらとこちらをうかがっている。
「もういいから」
我慢の限界だったし自分が理解できないことを他人がし続けるのは不快そのものだった。
「だけど、このままにしておくのは……」
「いいって別に」語気を強めると流石に立ち上がった。「ほら、行くぞ」
「待ってよ」
次はなんだ。失神している鈴音に近づくと姫抱きして自分の前を歩き出した。教室に地獄の空気を残してその場を後にする。すぐにきつしに追いついて前を歩く。
「こ、こ、こ、これからどうするのさ」
「お前の言うとおり、現実を見て問題を片付けて退学を免れようじゃないか」
自分より十センチほど低いきつしに言った。
「ぼ、ぼ、ぼ、ぼくがって言うけど退学になって困るのは君だろ」
二階まで降りると右に曲がって下駄箱へ通じる階段へ移動する。こっちの方が地下まで近いのだから。
「分かってる分かってるよ。ほんとお前には世話になってる。ありがたいと思ってる。本当だ」
階段を降りきって下駄箱を通り過ぎ、校舎の外に出る。
「君の、き、き、き、気持ちは分かる。さ、さ、さ、さ、沙織のことは本当に残念だったよ。君は昔の愛を取り戻そうとして、躍起になってた。でもぼ、ぼ、ぼ、僕は今の愛を大切にしたい。子供を持つっていうのは確かにひどいアイデアだったと思うけど、それはぼ、ぼ、ぼ、僕たちなりにお互いを大切するために考えたことだったんだよ」
「分かった分かった。良い教訓になったな。変なことをすれば変な代償が伴うってな」
「確かにね、分かってくれたら、も、も、も、も、もう鈴音を出っ歯とかいうのはやめてよ」
更衣室が連なる通路に入る。
「そいつは約束できないな」
「換気ダクトの中で麻薬爆発。宇宙ペスト伝染。体育館での銃乱射。宇宙エイズ伝染。睾丸型モンスターの襲来。野球部の用具置き場荒らし。吸血鬼の何か」
書類の上には人間の理解の範疇を超えた文章が連ねられていた。校長になる前は家庭科教員として常識に収まった授業と生活をしていた。家庭科というのはそもそも常識を教える科目なのだ。校長になってからはめっきり教科書には触れなくなったし、学校経営者として「常識に囚われない」という文字列をよく目にするようになった。
メガネを外して無機質な会議室全体を見た。二年生学年団の教員たちががん首揃えてこちらを見ていた。右列に座っているのは教頭、生徒指導、学年主任。左列に座っているのは各クラスの担任、八人。空調の音と、自販機の中身を入れ替えにくる業者のトラックの音だけが聞こえる。
一番奥に座っている八組の担任が手を上げた。世界史の教師だ。
「はい、なんでしょう」
「その文書にある通り、小林もうどう、村山きつしを学校に通わせ続けるのは我々や生徒にとって、危険であり、脅威であります。即座に強制退学通知を発行し、退学させるべきです。特に小林もうどう。彼は我々や他の生徒を非常に軽んじており、麻薬の爆発や銃の乱射にもあるように人のことを全く考えません」
「さきほどの授業では赤ん坊を殺していました。しかも教室の壁を改造して冷蔵庫を設置しています」
中央あたりに座っている女の教師も発言した。地理が担当の新卒だったか。
「授業に口を出して中断させるだけでなく、知識のささいな誤りを指摘しては暴言を吐き人間性を否定し、中傷します。授業になりませんよ。彼らの言動が生徒たちにとって悪影響を与えていることは間違いありません。彼らが通学するようになってから学年全体の成績は十一パーセント下がりました」
学年主任も口を開いた。書類をめくると小林もうどうの記録が現れた。顔を見る限り、普通の学生なのだが。鋭い目に茶色の短髪、鼻筋は通っているし口元もきりっとしている。とてもではないが不良には見えない。生年月日や緊急連絡先、考査の成績などの欄があるがほとんど空白だった。担任と学年主任の評価はくそみそだ。ほとんどが授業態度と通学に関するもので、よっぽどのことがない限り全行埋まらない改善点がびっしりと小さな字で書き詰められている。健康状態欄には巨人症とある。身長はなんと百九十六センチ。
「へえ……」
思わず驚きの声が漏れた。
親しい友人の欄には「村山きつし」と「国又利恵菜」の名前がある。この二人も問題児なのだろうか。
めくると村山きつしの記録があった。彼も不良には見えない。小林よりも優しい感じでまさに好青年といった感じだ。
村山きつしという名前を見て思い出した。
数年前、とある男子中学生が失踪した。
ニュースでは名前は報道されなかったが教育委員会の会議でははっきりと「村山きつし」という生徒名が上がっていた。警察も動いていたが見つからず、捜索は打ち切りになったようだった。顔写真を見てみると、二人は確かに似ている。彼が通い始めてからは確認する時間もなかったし皆同姓同名の別人だと思っていた。一度本人なのではないかという話も出たが他人の空似だろうと流していた。この機会に確かめてみてもいいかもしれない。
彼にも生年月日や緊急連絡先の欄の記入がない。小林とは違って健康状態欄も空白だ。
改善点は最後の一行を除いて全て埋められていたが内容は小林ほどひどくなかった。
「小林に振り回されることなく自分の人生を生きてほしい」という旨のことが書いてあった。そんな大げさなと思ったが、実際に彼らを見ているわけではないから一概には言えないか、と思い直した。
親しい友人の欄には「小林もうどう」と「しお花鈴音」の名前がある。国又利恵菜の名前がないのに違和感を覚えた。
「この……国又利恵菜としお花鈴音も授業妨害などに加担しているのですか?」
「いえ」
「二人との関係は?」
「国又は小林の幼馴染で、しお花は村山と交際しているようです」
「なるほど……」
書類をめくると小林の問題点がぎっしりと書かれていた。細かい字だ。
顔を近づける。
宇宙で何やら怪しいことをしている。
「宇宙?」
さっきの苦情の書類にも宇宙エイズや宇宙ペストという単語があった。
「私も最初は信じられませんでしたがエイリアン相手に何やらものを売り捌いているようです」
「はあ……」
半信半疑で返事をして続きを読む。
科学知識と技術はずば抜けており、自分でなんでも作れるという旨の発言をしている。
実際に教室にも改造を施している。野球部のグラウンドから飛び立つ車の目撃情報が寄せられている。村山は小林のそういった怪しい仕事や科学実験に協力しており、理解を示している。
「校長。もう十分でしょう。これだけ問題があるんですよ。このまま放置すれば人の命が失われるかもしれない。この学校がどういう学校か、もう一度よく考えてください。県内でも三本の指に入る進学校なんですよ。バスケットボール部は毎年インターハイで良い成績を残しているし、来年は今は学外には漏れていませんが、この惨状が地域や教育委員会に知れれば……。大体ね、彼らは正当な入学手続きすらしてないんですよ。だから退学という言葉もへったくれもない。今すぐにでも追い出せばいい」
「…………彼らは今校内にいるのですか?」
「分かりませんが、明日にでも呼び出しましょう。登校すればですが」
その場の全員が頷いた。みな賛成ということらしい。ここまで退学意見が強ければ仕方がない。実際彼らは教員や生徒、学校にとって悪影響を与えているようだし、考えてみれば逆に退学にしない方が変だ。
その時、部屋の扉が勢いよく開いた。
覚悟はできていた、が実際に目前にしてみると申し訳なさが勝った。いずれは教師たちの前で自分たちがしていることを説明して釈明する時がくることは分かっていたのだ。
きつしはもうどうの隣で取引の場や組織同士の交渉でやっているように表情を固めて手を体の前で組んだ。地下で、鈴音を介抱して家に帰した。制服からいつもの仕事着に着替えた。グレーのスラックスに黒のコーデュロイシャツ、アクションプリーツのついた革ジャンだ。肩に突き刺さっていたガラスもとったし血も拭いた。
これから起こることは全て嘘だ。言い訳、ここに居座って目的を果たすための。もうどうを不幸にした「あの男」を探すための言い訳だ。
もうどうが引き戸を開けて会議中の教師たちを見下ろすと、彼らはまさに狐につままれたような表情で自分たちを見た。
「おじゃまでしたか? いやぁ、さっきからくしゃみが止まらないもんでね。何か自分たちについて並々ならぬ噂がささやかれているような気がして、この部屋に近づくたびにくしゃみが強くなって」
「小林、何をしている。会議中だぞ」
「俺たちを退学にする会議だろ? だったら俺たちにも参加する権利はあるはずだぜ」
「校長、見ましたか。これ、これですよ。この態度と物言い」
校長はもうどうの方を見た。もうどうも校長の方を見た。校長の顔は福井県警の女性本部長によく似ていた。メガネをかけてはいるが、似ている。
「今、わたしのことを福井県警の女性本部長に似ていると思ったでしょう」
校長の言葉は意外にももうどうではなく自分に向けられていた。すっかり仕事モードに入っていたせいで「はい」と正直に、硬く答えてしまった。
校長は少し笑ってメガネをとった。まさに瓜二つだった。
「似ていて当然です。双子なんですよ。わたしは妹です。まあわたしは姉のようにえんじ色のワンピで通勤なんてことはしませんが」
きつしは少し口角を上げて返事と変えた。校長はゆっくりと立ち上がると机に両の手のひらをついてもうどうを見た。
「小林くんと村山くん、かな」
「そうですよ? ここにいる教員全員、俺たちのことが特に俺のことが大好きなようで苦情を並べ立てては退学にしろとうるさかったでしょう。でもね、いやよいやよも好きのうちっていう言葉もありますから」
「彼らの意見を聞いて、正直わたしもあなたたちを退学に処した方が良いと考えています。あなたたちにいくつか質問をしたいのですがよろしいですか?」
校長の言葉を聞くと、もうどうはにんまり笑って開口した。
「あなたのように礼儀をわきまえた綺麗な人間とは話しますよ」
校長はその言葉を聞き流すように視線を下に落として書類をめくった。
「まず、あなたの仕事について。宇宙で何かをしているというのは本当ですか?」
「本当です。戦争中の宇宙人たちに武器や設備を売っています。また、表向きのビジネスとして戦争で破壊された街などを治す公共事業も手掛けています」
教師たちが多少ざわついた。
「証拠はありますか?」
「もちろんあります。ですがあなたたちに見せるつもりは一切ありません」
「それはどうしてですか?」
「あなたたちには決して理解できないからです」
部屋の空気が弦をピンと張ったようにピリついた。
「……なるほど。では学校で科学実験などを行っているようですが、校内で宇宙ペスト、宇宙エイズを流行らせたのは故意ですか?」
「いえ。完全なる事故でした。感染した生徒や教員には然るべき治療を施しました」
「吸血鬼の何かというのは?」
「この学校に吸血鬼がいたので排除したというだけのことです。体育教師として人間社会に潜伏していました」
また部屋がざわついた。
「……青山先生が? 交通事故で亡くなられたのではなく?」
「そうです。気味の悪い生き物ですよ」
校長は顔を歪めて書類に目を落とした。顔はきつしの方に上がった。
「村山くん」
「はい」
「あなたにも二、三質問をしても構わないですか?」
「大丈夫ですよ」
相変わらず硬く答える。校長は右の手のひらを握り拳に変えてごにょごにょと動かした。緊張している時はああするんだろう。自分と同じだ。
「村山きつし、と見ると我々教員は必ず、三年前失踪したある男子生徒を思い浮かべます。中学三年生でした。周囲からは両親から虐待を受けているというような報告も受けていました。警察も捜索したようですが、ついに見つかりませんでした。行方不明者リストには今も名前が載っています。ご両親は遠方に引っ越されたようで、連絡がとれません」
「そうなんですか。一日も早く彼らが再会できることを祈ります」
機械的に答える。
「行方不明者リストに載っている顔写真とあなたの顔を見比べてみると、非常に似ています。そこで質問ですがあなたは失踪した村山きつしくん本人ですか? それとも同姓同名の別人で、他人の空似というだけのことですか?」
校長と、他の教員の顔がこっちに向いた。もうどうはずっと校長の方を見ている。こういう時にどう答えれば良いかは心得ている。大層なものではない。嘘をつく必要はない。
ただの真実を教えてやればいい。
「いいえ。自分はその失踪した村山きつしくんとは何の関係もありません」
校長は黙ってきつしの方を見た。目を逸らさない。表情筋を全く動かさずに見返してやる。
「……分かりました。それでは質問は以上です。ええ、特に質問の内容を鑑みて決定を下したというわけではないのですが、それに本来はこのような形で、当事者に勧告されることはないのですが教員の意見や事実確認の上であなたたち二人を退学に処すことを決定したいと思っています」
教師たちの首がウェーブのように縦に振れる。校長はテーブルについていた両手で書類をまとめた。
「校長」
もうどうが声を上げた。校長が向くと、両手を体の前で組んで肩を回した。
「なんですか」
「そちらの要求通りに質問に答えたのですから、我々にも釈明する時間を与えていただけませんか」
「ダメに決まってるだろ。お前たちは退学だ。ほら、出てけ」
担任が立ち上がってもうどうに食いかかった。もうどうはドブネズミを見るような目で担任を凝視した。
「構いませんよ」
校長は冷静にそう言った。担任は校長の方を少し見てゆっくりと体勢を戻した。
「ありがとうございます。あなたが他の教員、というよりも教員と呼ぶ価値すらない自己中心的で独断的でどこか自分の授業と思想に価値があると勘違いをしている社会の爪弾き集団たちのように判断力がない人じゃなくて良かった」
「わたしを褒めてくれるのは嬉しいですけど、他の教員を中傷することは許しませんよ」
「あなたの言うことなら聞きますよ」
「……それで、釈明というのは」
「ええ。釈明にあたって、あなたと他の人間にグラウンドに出ていただきたいのですがよろしいですか?」
「グラウンドに何があるんですか?」
「それはお楽しみということで」
部屋にいた教員たちと校長はもうどうときつしの後ろを歩いて、グラウンドへ向かった。
六限目を自習として緊急的に会議を行なっていたから、グラウンドで幅跳びのテストが行われているなんてことはない。太陽が元気に地面を照らして、眩しいくらいだったがそんなことは誰も気にしていないようだった。校長と教員たちはみなもうどうの言う釈明がどんなものかと期待しているようだ。ほとんどは嫌味な期待だろうが。
南側のフェンスで遮られた日光が穴あきの影を作って無尽蔵な砂の上に落ちていた。
中央あたりに緑の防球ネットが集まっていた。中心にあるものを隠すようにして配置されていた。
ネットの前にたどりつくともうどうはきつしにアイコンタクトした。どかせという意味らしい。きつしは言われた通りにネットをどける。
「きゃっ」という数学教師の悲鳴を皮切りに次々に動揺の声が上がった。
「これは……?」
校長は訝しげにもうどうを見た。
「この学校に潜伏していたエイリアンの死体です」
きつしはずらりと横に並べられた死体を見た。優に十は超えるだろう。何の感情もなかったわけではないが、どこか冷めていた。事実の重さのせいかもしれない。この死体が意味するものは自分たちのさらなる勢力の拡大。大いなる力の証明。
「説明しても?」
もうどうは馬鹿丁寧に言った。
「お願い……」
校長は吐き気を抑えてなんとか言葉を捻り出したという感じだった。
「まず、彼らの身元を紹介しておきたい。左から順に」
「ラバイヨーネ・ズドヴィッチ。仲間からは『フェンネル』と呼ばれていました」
もうどうは全て計算していたのだ。地下でこれらの死体を見てすぐに悟った。裏切っていたのはドン・フェンネルだったのだ。それ以上の説明もそれ以下の動揺を見せることもなく、もうどうは淡々と作戦の説明をした。
顔馴染みの死体もあった。技術者のワイオミング。それにファブリシオ。左目を撃ち抜かれていた。ファブリシオが酔った勢いで自分の左目を殴ったからだとすぐ分かった。
その隣はパッツィオファミリーのドン・ベッツィ。取引が失敗したサンボーンまで。他にも名前の知らない奴らがずらりと並んでいた。みな、身体中に穴がある。
「その隣がファブリシオ・フランキスタ。グライド・ベッツィ、アーミテイジ・サンボーン、ワイオミング・スターツベルク、クリスタレ・パワーズ、以下略」
教師は目元をひくつかせて口を歪めて手を震わせた。当然だ。宇宙人を見ているのだ。全員、すぐに目を逸らした。顔ごと。
みな肌の色や目の数、身長、腕の生えている位置が違う本物の宇宙人だ。まずこれだけで教員たちは自分たちの話が嘘ではないと分かったはずだ。
「こ、こ、この人たちは……いや、この宇宙人たちは、みな、死んでるのか」
担任が訊いた。
「そうです」
「お、お前が……や、やったのか……」
「そうです」
数学と現代文の教師は失神して倒れた。今日はやけに失神する女性が多い。他の教師が何人か気にする。
「説明しても?」
もうどうは校長の顔を窺った。
「……お願い……」
さすがの校長もクールな目元を歪ませている。もうどうは校長が動揺しているのを確認するとにっこりと笑った。他の教師陣の狼狽はどうでもよく、校長が怯えるところを見たかったようだ。
「彼らはそれぞれ宇宙で名うての犯罪組織の一員でした。ラバイヨーネ・ズドヴィッチはリーダー格の男です。彼が手下に命令してこの学校を調べさせていた」
「この学校を……?」
「そうです。我々が通うよりもずっと前からこの学校についてあれこれ調べていた」
「どうして……?」
もうどうは下唇を突き出して首を左右に揺らした。
「こうなってしまってはもう分からない」
校長と教師たちは恐る恐る死体を見た。
「彼らはそうして良からぬことを企んでいた。だから我々が察知してこの学校に通学し、始末するチャンスを虎視眈々と狙っていたわけだ。つまり、この学校に通うあんたらと生徒を守るためだったんだ。それだけのことです。宇宙エイズや宇宙ペストも、彼らが持ち込んだものだ。しかし真実を教えるとあなた方は動揺して外に漏らしかねない。だから我々が罪を被っていた。さも我々が、特に自分が、実験の過程でウイルスを流行させたかのように見せかけていた。納得いただけたかな?」
納得、というよりは一応理解したような感じで校長は目を深く閉じると
「分かりました……。事情は、よく分かりました……」
と言って失神せずに立っている教師の方を見た。教師たちは険しい顔をして小刻みに頷いた。もうどうはそんな彼らを見ると満足そうに顎を撫でた。
「まあ、一連の脅威は一旦排除されたわけだが、またいつ狙われるか分からない。理由もはっきりとしないままだし。だから俺たちが退学になってこの学校にこなくなると、もう誰もあんたらを守れない。まあとはいえ、俺たちは迷惑をかけたし、潔く、なぁ? きつし」
きつしはこっくりと頷いた。
「いえ、退学は」
もうどうが目を見開いて首を傾ける。
「……なしとするので……」
校長は両手を振り乱した。
「じゃあ、通学し続けてもいいんですか?」
「……はい、ただ、銃の乱射など生徒たちに危険が及ぶようなことになれば、その時はきちんとした処分を下します」
校長は苦虫を噛み下したような顔で捻り出した。
「授業妨害した時もな」
後ろで縮こまっていた野郎どもが息巻いた。
「そうです。授業妨害も、これからは許しません」
「了解ですよ。我々はこの学校を守る代わりに、通学して時には仕事のために抜け出しても良いんですよね?」
「授業には、ちゃんと出ろ」
「待ちなさい」
校長は担任の怒声を左手でぴしゃりと静止した。ゆっくりと手を下ろして自分より四十センチほども高いであろうもうどうをじっくりと見た。
「……あなた方の仕事や、科学実験が、そのような脅威から、この学校を守るために必要なのであれば、それが授業中であろうとも許可します……。ただし、明らかに授業妨害行為とみなされるようであればその時は処分を下します」
「上等です」
「いいですか?」
「もちろん。なあきつし」
きつしは頷く。
校長は肩を回して息をつくと、踵を返した。教師たちは無様に背中を丸めてそのあとをついていった。どう見ても触るのが目的の男教師たちは、倒れた女の教師を抱き抱えて帰っていった。担任は恨みがましくもうどうの方を見たが、もうどうは嫌味たっぷりの笑いで返していた。
校長たちの姿が見えなくなるともうどうは死体に向き合った。
「せ、せ、せ、せ、せ、説明してくれてもいいんじゃないか」
低く言ってみると、もうどうはジャケットのポケットから宇宙たばこを取り出した。お子様用だ。
一本くわえると
「まあ、色々大変だったわな」
たばこをくわえているせいで聞き取りにくかったが、大体の意味は分かった。
「ふぇ、ふぇ、ふぇ、フェンネルさんだったんだね……」
「……ああ。その他にも大勢な…………」
「片付けるか」
防球ネットの裏に折りたたんで隠していた荷台を持ってくると、その上に死体を載せていった。珍しくもうどうが全ての死体を積み込んでくれた。その間何もしゃべらなかった。地下に運び込んでクリーニング屋に電話すると車で死体を指定の場所に運んだ。カシオペヤ座付近の小惑星のクレーターの中だった。
それをすませると家に帰った。
駐車場に車を停めて階段を登る。もうどうがポケットから鍵を取り出して扉を開けた。
「こ、こ、この銃弾の跡どうしたの」
ドアと付近の壁についている青い穴を触る。まだ熱い。床にはエネルギーが抜けた空の銃弾も落ちている。ドアノブが少し赤く見える。
「あー、十年後に話してやる」
もうどうは家の中に入っていく。きつしは少しの間だけ壁の穴を触って空の銃弾を全て拾ってから中に入って施錠した。いぬが足元に擦り寄ってくる。頭を撫でてやる。
相変わらずもふついている。いつまでも触っていたい。軽々しく抱きついてくる。背中の装置にも慣れたようだ。
「毛がちょっと伸びたんじゃない?」
「そんなことないよ」
キッチンからもうどうの声が聞こえる。冷蔵庫を開ける音も。
「ほら」
オレンジジュースとミルクセーキを持っていた。オレンジジュースのグラスには一輪のオレンジが挟まっている。キッチンの真向かい、玄関のすぐ隣のリビング(とはいっても本棚と丸い机と一人がけのソファが二つあるだけの狭い空間だけれども)の机の上に飲み物を置いて、どかっとソファに腰掛けた。m65ジャケットを脱ぐのも忘れて体を沈めている。
「座れよ」
「そ、そ、そ、そ、そ、そうするさ」
きつしは革ジャンを脱いで、名前の分からないなんかすけすけの足のついているやつにかけるとソファに座った。
もうどうは足を組んで足首をぐるぐると回していた。カラフルなジョーダンが回ると三色旗の掲揚のように見える。
もうどうはテレビのリモコンに手を伸ばしてスイッチをつけた。宇宙のチャンネルに合わせてあるのだ。チャンネルが九百二十個もあり、大体どのチャンネルに合わせてもニュースがやっている。もうどうはつまらなさそうにチャンネルを切り替えていく。リモコンに九百二十個もスイッチがあるわけにいかないから裏側の入力切り替えスイッチで組み合わせを変える。
一つのチャンネルがジェントロヴェルーンウェン銀行の倒産を報道していた。もうどうは鼻を鳴らすとすぐに別のチャンネルに切り替えた。ピザ人間のインターホンの営業番組だった。リモコンをテーブルの上に放るとオレンジジュースのグラスを手に取る。
しばらく何も話さず営業番組を見ていた。
ミルクセーキを何度かすすった。
「ぐ、ぐ、ぐ、具体的にどんな裏切りだったのさ」
ずっと気になっていることを言ってみた。フェンネルが裏切っていたことは死体を見て一目瞭然だ。しかしどうして分かったのかは知らない。ビジネスパートナーとして知っておこうという気持ちもあったし単なる好奇心でもあった。
もうどうはグラスから口を離すと、机に丁寧に置いた。ソファから体を起こす時一つ唸り声を出した。
「どんなのかって?」
「う、う、うん」
「…………」もうどうは指を絡ませて親指と人差し指の間に顎をつけた。
「フェンネルからもらったリスト、サンボーンが取引決定前後に通信した相手のリストをワイオミングに調べさせた。ワイミングが調べてる間俺は自分の組織で金の増えた人員を調べた」
「……ほ、ほ、ほ、報酬を貰ってると考えたのかい? 評判を落とす代わりに」
「そうだ。いや、普通はそう考えるだろ。それで水星の倉庫に勤めてるやつら五人が容疑者として上がった」
「ま、ま、ま、マクファレン、フョードル、じ、じ、じ、ジーズ、ハロハロ、バティシーノかい?」
「ああ。だがそいつらは裏切ってなくてフリーランスで仕事を受けただけだった。逆にワイオミングが裏切ってたんだ。実際に噂を流して評判を落としたのはやつだ」
「だ、だ、だ、だから死体に……」
「そうだ。奴から聞き出した依頼主はドン・ベッツィ」
「ふぇ、ふぇ、ふぇ、フェンネルさんと敵対してた」
「そうだ。俺たちを揺さぶることでフェンネルを攻撃しようしたんだと思った」
「こ、こ、こ、殺したのかい?」
「ああ。シルビオと一緒にな」
「け、け、け、結婚式だろ?」
「仕方ないだろ。他の傭兵は使いたくなかった」
「と、と、と、と、とにかくそれで裏切り者探しは終わったのかい?」
「いや。その後にサンボーンから襲撃されたんだ。利恵菜が撃たれた」
「え? ここに来てたのかい?」
「ああ。間の悪いことにな」
だから入り口に銃弾の跡があったのか。ドアノブが若干赤く濡れていたように見えたのもそのせいか。
「そ、そ、そ、それで? 教室にはいたけど、無事だったの」
「ああ、治療した」
「ハヴァキャンプ先生?」
「そうだ」
「ぼ、ぼ、ぼ、僕も診てもらったことがあるよ。あの人はゆ、ゆ、ゆ、ゆ、優秀だから、利恵菜には何の障害も残らないだろうね」
「不満か?」
「そういうわけじゃないけど、じゃ、じゃ、じゃ、邪魔と言えば邪魔だろ」
「まあな」
もうどうはオレンジジュースのグラスに手を伸ばした。グラスは汗をかいていた。
「そ、そ、そ、それで?」
もうどうはグラスから口を離すと、右手で少し揺らした。もうほとんど残っていない。
「刺客がサンボーンからだと分かって、直感的に『終わってない』と思った。そこでふとフェンネルの組織を調べることに決めた」
「そ、そ、それがビンゴだったの」
「そうだ。数人、直近で口座に金の増えたものがいた。それも複雑に暗号化されてな。クリーンなら普通に送金するはずだ。全員を尋問すると、こうし座の物流倉庫を担当してた奴が黒だった」
「ほ、ほ、ほ、ほ、他のやつは」
「カモフラージュだ。本人たちは手違いだと思っていたらしい。まあ、手違いでもそういうことは上司に報告するもんだ。黙ってるような人間は雇いたくないもんだな」
もうどうはオレンジジュースを飲み干した。
「じ、じ、じ、尋問して全て吐いたのかい」
「ああ。フェンネルが噂を流すように頼み、そいつがワイオミングを買収した。そしてそれをベッツィの仕業に見せかけた」
「ど、ど、ど、ど、どうやって」
「俺も知らなかったことだが、あいつは今まで受けた裏の仕事を全部記録していたんだ。普通の赤色のファイルにな。もちろんあいつはフェンネルの手先から受けた仕事のことも記録する。そのファイルごとすり替えたんだ。奴がどっかで酒でも飲んでるうちに盗んでコピーをとったんだろう。いい加減な奴だからファイルが変わったことにはまず気がつかない」
「……それで、ベッツィを殺したのかい」
「ああ」
「き、き、き、き、君が言ってた組織がでかくなるっていうのは、フェンネルさんの組織をの、の、の、の、の、のっとったからかい」
「そうだ。奴の組織の根幹に関わる者を皆殺しにして財産を奪った。金庫番、相談役、法律担当、業務の責任者、技術者。最後はフェンネルの元請けとも話をつけた」
「ふぇ、ふぇ、ふぇ、ふぇ、フェンネルさんの元請け?」
「そうだ。奴らも一枚噛んでたようだな。俺が市場を独占するからと……」
「は、は、は、は、話をつけたって、どういうことだよ」
「今回のことは水に流すから二度と逆らうなってな。あんたらのために金を稼いでやるから好きにさせろっって」
「そ、そ、そ、そ、そんなのやつらが聞くと思うのかい」
「いいや。だからこそ泳がせるんだ。いずれは俺たちが全てをいただくんだからな。それに、俺はフェンネルを追い詰めたんだ。あいつらも相当びびってるだろうさ」
「さ、さ、さ、サンボーンはどうしんだい。襲撃されて君が放っておく思えないけど」
「月の営業所を襲撃して皆殺しにした」
今までで一番、冷たく言った。
「べ、べ、べ、べ、ベッツィはとんだとばっちりだね。きっと、ふぇ、ふぇ、ふぇ、ふぇ、フェンネルさんと敵対してるから選ばれたんだろうね」
「そうだろうな。ほんと、あのフェンネルは抜け目のないクソジジイだ。しかしこうし座の担当者さえ始末しておけばばれなかったのに、どうして生かしておいたんだろうな」
もうどうは空になったグラスの底を眺めた。失った者を見つけようとするかのように目を細めた。そこにはガラスと刻印とオレンジジュースの残り香しかないだろうに。時々一輪のオレンジが視界をかすめたって結局は何もないのに。
きつしはミルクセーキのコップに触れた。まだ暖かい。
「……ふぇ、ふぇ、ふぇ、ふぇ、フェンネルさんは、どこか君に、ばれてほしかったんじゃないかい」
「そんなはずがあるか。狡猾に、抜け目なく、非情にやってきたからこそ今まで生き残ってきたんだ。俺にばれればどうなるかは分かっていたはずだ」
もうどうは指を組み替えた。声はどこか悲しげで、低かった。視線はいつのまにか床に落ちていた。営業番組だけが空気を読まずにまくしたて続けた。
「……ぼくらを裏切って後悔していたんだ。特に君のことを。だけど、やるしかなかったんだよ。元請けからプレッシャーをかけられていたんだろう。当然さ。ぼくらの仕事がうまくいくのを良く思わない連中の存在は知っていただろ? 前から。それに君が裏切られたままであっさり終わるはずがないと分かっていたはずだ。それでも裏切り通した。この件に関して無実の者も大勢まきこんで、それはどうしてか。君に殺されたかったんだ。他に知らない誰かから殺されるよりも、弟子同然の君を裏切って、暴かれて、始末されることを選んだんだ」
もうどうは首を右に傾けた。
何かを感じ取ろうとしているように見えた。沙織を失ってから何も感じることのできなくなった目で、何か、冷たいものでも暖かいものでも、掴みとろうとしているように見えた。
「彼は、最期、満足だったはずだよ。君がもし真実に辿り着かなかったら期待はずれと思ったはずだ。しかし君はきた。彼の元に、彼の命を終わらせに。それが彼の望んだことだったんだ」
寒い。なぜか、寒い。どうしてか、もうどうのココロに触れたような感じになった。どうしようもなく冷たかった。死ぬほど、冷たかった。ココロそのものが冷たいわけじゃない。暖かいものを一切拒む、その姿勢が冷たいのだ。
もうどうは二回まばたいた。もう一度グラスを手に取って、オレンジを抜いた。口に放り込んで噛み砕いた。
「どうだっていいぜ。あんなやつのこと。物語はまだ進む。どれだけ悲惨な起承転を見たとしても結がまだある。それに期待しようじゃないか。フェンネルの金庫番から得た情報をもとにやつの財産を全て手に入れた。その中でいくつか気になるものがあった」
「なんだい」
「鍵だ」
「何の」
「分からない。別のやつに調べさせてる。解析が終わったら連絡してくる手はずだ」
「自分でもできるでしょ」
「賢い者は自分の分をわきまえている。何を自分でして、何を他人に任せるべきか。巨大な組織を運営していくのにも同じことが言える。外注とはいわば信頼関係の上にのみ成り立つビジネスだ。外注することで、信頼を示す。そうしてビジネスを回していく」
「なるほどね……」
「さて。仕事は入ってないか?」
きつしは携帯を確認した。受信箱を開いて確認する。
「あー。七大組織が、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、僕らを交えて会議をしたいって言ってるよ」
「快い返事をしてやれ。だがまずは『アバッキョ・ファミリー』に確認しろ。これからは奴らが俺たちの元請けだ」
「アバッキョ・ファミリー。この宇宙で一番の犯罪組織じゃないか。ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、僕がいない間に百年ぐらい歴史進んだんじゃない」
「子育てなんてしてるお前が悪いんだろうが。仕事ではお前にいてもらわないと調子が狂うんだよ」
「今日はちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、調子が狂ってたのかい」
「いいや」
このモードに入ると、反応する方が負けなのだ。「どっちだよ」と言うのは簡単だがこれから続く意味不明なやりとりはごめんだ。ここで聞こえないふりをすることが大事。聞こえただろうと思われても構わない。これ以上続けるのは時間の無駄だと言うことは今までで分かっているのだ。
もうどうは立ち上がってm65ジャケットを脱いで扉の側のコート掛けにかける。シャツの袖のボタンを外してまくる。腕を動かすたびに時計が上下する。ホルスターは外さずに、もう一度座る。
相変わらずテレビはうるさく営業番組を放送し続けている。本当にうるさいと思っていればスイッチを切ればいいだけだ。だが自分ももうどうもしようとしない。
しばらくピザ人間の営業文句に文句をつけたり製品を評価したりしてすごした。
カマホリ電球のおひたしが紹介され終えたところで、ドアがノックされた。ロレックスは四時四十二分を表していた。
もうどうが立ち上がる気配はなかった。ひじかけに両の手をついて立ち上がると、覗き穴を目指す。インターホンはあるにはあるが、ここを訪れる人はみな押してはいけないと分かっている。
覗き穴を見る。
鈴音だ。ついでに利恵菜も。
何をしにきたのか。
鍵とかんぬきを外してドアを開ける。
「ど、ど、ど、ど、どうしたの」
鈴音だ。ボタンの二つあるブラックデニムとオレンジのタートルネック、上から黒いレザーのジャケットを羽織っていた。目元は黒ずんでいる。
「黒ずんでいる」という表現が合っているのかは分からないが、とにかくそういうメイクをしていた。
利恵菜はまだ制服だった。学校が終わったのがおそらく十五分ほど前だから納得だ。女子高生特有の制服で色々行動するというやつではなさそうだ。
「ごめん、いきなりきちゃって。利恵菜ちゃんとちょっと寄ってみようって」
「邪魔だった?」
「いや、別に、じゃ、じゃ、じゃ、じゃ、邪魔ではないけど。まあ、入ってよ。寒いでしょ」
ドアが閉まらないように支える。鈴音と利恵菜はするすると入っていく。利恵菜は壁の銃弾の跡を少し気にしていた。二人が入るとドアを閉めて再び施錠する。
「は? お前、は?」
もうどうは二人の姿を認めると、案の定立ち上がって憤怒の声をあげた。
鈴音は特に何も言わない。利恵菜は鳴きながら擦り寄ってくるいぬの頭を撫でている。
「おい、いぬ。その女にはよるな。下着の色は紫だし左足の小指が異様に長い。きったねぇぞ」
「ちょっと、見たの?」
「撃たれたお前を医者のところに連れて行ったのは誰だ? 見たわけじゃないぞ。見えたんだ」
「見たんだから一緒でしょ」
「だが紫は気色悪いよ。欲求不満色じゃねぇか。出っ歯は何しにきたんだよ」
「別にあんたに会いにきたわけじゃないから。きつしに会いにきたの」
「ほう。子供を作らせてごめんって言いにきたのかと思った」
「悪いとは思ってないわよ」
もうどうはテレビを消してリモコンを奥に投げた。
「飲み物なんか出さないぞ。早く出ていけ」
「まあまあ、もうどう」
きつしは両手に緑茶を持ちながら宥めた。飲み物は、ちゃんとあるから。
「せ、せ、せ、せ、せっかくきてくれたんだからさ。ちょっと話でもしようよ」
もうどうは珍しく黙ると、ため息をついて椅子に座り崩れた。
きつしは飲み物をテーブルに置くと、右奥の部屋からパイプ椅子を二つ持ってきた。鈴音をソファの方に座らせる。
「何の話をするんだ? くそみたいだ。俺たちは忙しいんだよ。とっとと帰れ」
「テレビ見てたじゃない」
利恵菜が咎めた。
「宇宙の情勢を見極めてたんだよ」
「へーそう」
「お前、この腰のものが見えないのか?」
「ま、ま、ま、まあまあ」
「うるせえ、きつし。てめぇは出っ歯とやっとけよ」
「ふ、ふ、ふ、不謹慎だぞ」
「黙れ。てめぇ胸糞悪い生き者を俺に作らせて、挙句始末させたくせに」
「あれまだ教室にあるよ」
唐突に鈴音が言った。
これが、本当なのだと思った。
今までしてきたことは偽物だったのだと、本気で思える。宇宙人と戦いながら組織を拡大? 武器を作って売り捌く? そんなのは何か、よっぽど感情移入のできる映画かドラマだったのだ。親友と恋人と、友達と家でしゃべるなんて普通かもしれない。だけど普通であることこそ最高の思い出であり、幸せなのだ。今日の日はずっと覚えていても、この瞬間のことはいずれ思い出せなくなるだろう。でも、それでいい。それがいい。忘れる日常が一番幸せなのだから。傷ついてもきっと、その時のことを思い出せばいい。いつか忘れた日常がそこにあったことを思い出せばいい。
そんな日常にキスしてやればいい。失った者をグラスの底に探すよりも。
「掃除はしてよね」
「きつし、言われてるぞ」
「一緒にするのが筋だろ」
うるせえ。
そ、そ、そ、そ、それは違うんじゃないかい。
もういいじゃない。
でも、掃除はしてよね。
しない
す、す、す、するよ
ほんと?
信じられないわよね
仕事は好きだ。それでも嫌いになる時はある。そんなの誰だってそうだろう。当たり前のことだ。いつでも好きでいられる仕事なんてない。
どうしようか、というのが最初の言葉だった。というより、こういう場面で声が出たのが初めてだった。
もうどうさんに電話しないと。そう思った。実際そう言われたのだ。この鍵がどんなものか分かったらすぐに連絡しろ、と。彼の命令に逆らえるはずがなかったし、強制されずともそうするつもりだった。彼のことが好きだ。善人なのだ。
だからこそ、電話したくなかった。
この鍵。
机の上に肘をついて、めがねをとった。目頭を抑えて疲れを癒す。目の前には巨大なモニター。キーに汗のついたキーボード、マウスがある。いつも通りの光景だ。奥には大きなコンピューターがいくつも。そういう仕事なのだ。肘掛けを触る。背もたれに体を預ける。
この鍵。
どうしたものか。彼は一体どこで手に入れたんだろう。どうして知りたがったのだろう。
深呼吸する。
考えていても仕方ない。
電話をとる。彼の番号にかける。
一つ咳払いをして唇を舐めた。
コールがいつもより長く感じられる。
だめだ、出ない。留守電に切り替わった。
深く息を吐く。
一応入れておくか。
あー、もうどうさん。すみません。グリップルです。頼まれていたことが完了しました。それでなんですが、電話でお伝えするのは少しリスクが伴うかと、判断しましたので差し支えなければどこかで会いたいのですが、これを聞きましたらすぐに連絡してください。正直、ものすごい渦に足を突っ込んだ気がします…………。
電話を切る。
持久走を全力で走り終えたような疲労感と心臓の圧迫感が襲ってくる。学生時代、体育の持久走で最後の一人になると「ダイエット」と馬鹿にされたものだ。
最後の渦がどうのこうのというのは自分でも考えついたのが不思議なくらいだ。普段本は読まないしそういう表現をしている人間を冷ややかに思うタイプなのだ。
鍵を持つ。
見る。
見る。
見る。
見ただけだった。いや、見ようとしただけなのかもしれない。最後に考えたことがそれだったからそう思うのか。
頭に穴が空いたことは分かった。痛みは自然となかった。鍵が指から離れる感触だけが残った。
鍵を持って写真を撮る。ビニールの袋に入れて、内ポケットにしまう。メールで「終わったこと」を伝えて、踵を返した。仕事が終わったことを、だ。
鼻をすする。
渦、か。まあ悪い表現ではなかったな。
執筆の狙い
小説家になりたい高校生です。自分の書いたものがどれだけ評価されるのかを見たくて、投稿してみました。ぜひ、ご評価のほどお願いします。