また、逢えたね—小さなウソの恋物語—
——午後八時過ぎ。開店したばかりのJOE’s BAR——
カウンター越し、微かな二つの芳香が程よいシンフォニーを奏で、しっとりと流れるジャズの演奏を色めかせている。
岩下の前に置かれたグラスの縁を、琥珀色の灯りが細く反射している。
「やっと会えるんですね」
凛花が少しだけ身を乗り出して、言った。
「社長が前々から熱心に話してた、その——"絵画"に」
「まとうだけで物語が生まれる……か」
東海林が磨いていたワイングラスをかざし、曇りひとつないガラス越しに、静かに目を細めた。
岩下のスマートフォンの画面いっぱいに映し出されているのは、先日撮影された一枚の写真だった。
真紅のドレスをまとった夕凪。
ガラス細工のような透明感と繊細さの奥に、ドレスの紅(くれない)にも劣らない熱情を、確かに秘めた佇まい。
岩下は画面を覗き込んでいる二人を見ながら、ふっと微笑んだ。
「本当に苦労したんだから、あの子を口説き落とすの」
グラスを軽く揺らしながら、楽しそうに続ける。
「私ね、勝手に“がんこちゃん”って呼んでたの。岩みたいに頑なに断り続けたから。“岩子ちゃん"」
「その岩子ちゃん……夕凪さんを落とした最後の一手は、何だったんですか?」
「それがね、あの子から突然頭を下げてきたの。『お願いします』って」
「"岩子ちゃん"だったのに、ですか?」
「ええ」
岩下は頷き、グラスを手にした。
「多分ね、弟くんだと思う」
「え?」
「一度、現場に夕凪が連れてきたの。歳の離れた弟くんを。しゅんくん……だったかしら」
リキュールを一口飲み、岩下は続けた。
「夕凪、その子の前ではまるで別人でね。冬の寒空の下でも、春の陽気を思わせるような。現場の空気までガラッと変えちゃうんだから」
岩下の声が、少し温度を帯びる。
「今となれば合点がいくわ。あの子がなぜ、喉から手が出るような大手のスカウトをすべて突っぱねてきたのか。東京へ行けば、もっと大きなお金も名声も手に入る。でも、そうなれば弟くんとの生活は壊れてしまう。あの子にとっては、世界を魅了するトップモデルの座よりも、その小さな手と過ごす日常の方が、何百倍も大切だったのね」
岩下は自嘲気味に、ふっと目を伏せた。
「あの子のあの眼差しを見てしまったら……。敏腕社長なんて言われているけれど、私は心の中で白旗を振ったのよ。こっちが降りるしかない……ってね」
「夕凪さん、弟くんのこと、本当に大事に想ってるんでしょうね」
凛花から受け取ったスマホの画面を見ながら、岩下が頬杖をつく。
「影の立役者がいたってことか」
東海林が拭き上げたボトルを陳列棚に戻しながら、呟いた。
——カラン——
ドアベルの音が短く響いた。
「いらっしゃ……いませ」
東海林のどもる声と惚けた表情を見て、岩下は背中に"彼女"を察した。
「お待ちしてました。どうぞ」
凛花が岩下の隣へ迷いなく手を差し出し、席へと促す。
夕凪は軽い会釈を済ませ、岩下の隣りへと歩み寄った。
「来てくれてありがとう、夕凪。とりあえずは、グラスを合わせましょうよ」
夕凪は立ったままの姿勢で、すかさず口を開いた。
「岩下さん——」
その呼びかけに一瞬、違和感を覚え、岩下は夕凪を見つめた。
電話口でモデルの仕事を辞めると告げられた時。その最後の時までは"社長"と呼んでいた夕凪だった。
「一方的にこんな形でお仕事を放棄したこと、お詫びします。申し訳ありません」
夕凪は深く頭を下げた。しかし、その瞳には、譲らぬ意志をハッキリと湛えていた。
岩下はその視線を受け止め、直ぐには言葉が出なかった。背筋を正して立つ夕凪の輪郭は、あまりに鋭く、そして潔い。その決心は、どんな説得も、好条件も撥ね返してしまうほどに強固なものだと、岩下は直感で悟った。
「……いやね、そんな改まっちゃって」
岩下は、先手を取られ面食らった面持ちで、上擦った声を発した。そして、ふぅっと、大きく息を吐き出した。
「参ったわ」
表情を緩めた岩下は、知らず強張っていた身体が、ふっと緩むのを覚えた。ここで落ち合う為のメッセージを夕凪に送った時には、既に諦めはついていた。
「そうよね、あなたは"岩子ちゃん"だものね」
岩下は独りごちた。
かつてトップモデルとして名を馳せ、今も業界を牽引し続ける女社長の凛とした顔は、ふっと綻び、穏やかな微笑みを湛えた。
「乾杯しましょう、夕凪」
岩下の言葉で場の空気が和らいだ事を感じ、静かに二人を見守っていた東海林と凛花が顔を見合わせ、安堵の表情を共有した。
「マスター! 一番いいシャンパンを出しなさい。今日は業界の女王の完全なる敗北、『完敗記念日』よ。あなた達も祝ってちょうだい」
「喜んで!」
東海林は弾かれたように頷くと、セラーから一本のヴィンテージ・シャンパンを取り出した。
「さぁ」
岩下は夕凪の腰に手を当て、席へと促した。夕凪はようやく、スツールへと静かに腰を下ろした。
抜栓の低く弾ける音が響き、クリスタルのグラスにゴールドの液体が次々に注がれた。
「乾杯!」
四つのグラスが合わさり、軽やかな音を立てた。
「ごめんなさいね。謝らなければいけないのは、私の方だわ」
シャンパンを一口飲み、岩下が切り出した。
「あなたの痛みに気づけなかったこと……本当に、申し訳なかったわ」
岩下の言葉に、夕凪は微動だにせず、ただ静かにクリスタルのグラスを見つめていた。
最後の撮影の日、夕凪から「モデルを辞める」と切り出された時、動揺と困惑から、電話口の向こうの温度のない声と、表情の見えない夕凪に叱責を浴びせてしまった。
だが、夕凪は一言の言い訳もせず、理由を尋ねても、口を閉ざしたままだった。
岩下は夕凪の横顔を見て、そして続けた。
「スタッフに聞き取りをしたわ。機材撤収が終わってみんなが引き上げた後、佐伯とあなただけがスタジオに残っていたそうね。実は以前から、他のモデルからも彼の不適切な距離感については相談を受けていたのよ。だから私、本人に聞く前に、監視カメラの映像を確認したわ」
夕凪がグラスを持つ手に、わずかに力がこもる。
「……映っていたわ。仕事を盾にした、彼の卑劣な行為のすべてが。プロのカメラマンとして以前に、人として到底許されることじゃない。即刻、佐伯との契約は解除したわ。業界内でも今回の件は周知させる。二度と彼が、カメラを武器に誰かを支配することはないように」
夕凪はただ黙って岩下の言葉を聞いていた。
「……もう一度、なんて軽々しくは言えないけれど。もしあなたがまた表現することを選びたいと思うなら、次は私が、あなたの壁になるわ」
夕凪の、ずっと張り詰めていた肩の力が、目に見えないほどわずかに抜けた。
「美味しいです」
夕凪は岩下に微笑みかけ、黄金色の液体を飲み干した。
※ ※ ※
二杯目のグラスを空ける頃、岩下の頬はほんのりと赤らんでいた。隣に座る夕凪の横顔を熱っぽく見つめている。
「ねぇ、夕凪。……あなた、自分がどれだけ『罪な女』か自覚してる?」
唐突な問いに、夕凪はグラスを止めて岩下を見た。
「私ね、最初はビジネスだと思ってた。あなたのその圧倒的なビジュアルを、どうやって高く売るか。そればかり考えてたわ」
岩下はくすっと笑い、自分のグラスの縁を指でなぞった。
「でもね、いつの間にかモデルとしての夕凪じゃなくて、あなた自身に……『夕凪』っていう一人の人間が、どんな景色を見て、どんな風に生きてきたか、知りたくてたまらなくなっちゃったのよ」
カウンターの脇でグラスを磨く東海林と、隣で聞き耳を立てていた凛花が、思わず動作を止める。
「こんな野暮なこと、プロ失格だから口が裂けても言わないつもりだったけど」
夕凪は、何も言わずに岩下の言葉を飲み込んでいる。
「もしかしたらね……」
岩下は少し声を落とし、琥珀色の照明を見上げた。
「佐伯も、そうだったのかも知れないわ。あなたという底知れない存在に触れたくて、暴きたくて、それがどうしようもなく歪んだ形で溢れ出しちゃったのよ」
岩下の言葉は、決して佐伯への同情や擁護などではなかった。
むしろそれは、避けることのできない夕凪という存在そのものへの警報だった。
岩下は用意されたチェイサーを、クイっと飲んだ。
「あなたは、良くも悪くも人を惹きつけすぎてしまう。モデルを辞めても、その『何か』は消えないわ」
岩下は、カウンターに置かれた夕凪の手に、自分の手をそっと重ねた。
「その事を、決して忘れないでね……気をつけなさい」
夕凪は、重ねられた岩下の手の温もりをじっと感じていた。
「……はい、社長」
「あら、今は岩下さんでしょう?」
岩下が悪戯っぽく微笑むと、ようやく場の空気がふわりとほどけた。
黙って成り行きを見守っていた凛花が、おずおずと口を開いた。
「あの、夕凪さん、もしよかったらなんですけど……うちで、バイトしてみないかなって」
夕凪の目が、わずかに見開かれた。
「ちょうどクリスマスシーズンに向けて人手が欲しくて。それに……」
凛花はチラリと東海林の方に視線をやった。東海林は慌てて顔を逸らし、シャンパンの空きボトルを磨き始めた。
「夕凪さんがカウンターに立ってくれたら……席を埋め尽くす賑やかな光景が、もう目に浮かびます。既に、浮かれてるヤロウがここに一人いますし」
くすくすと笑いながら言う凛花に、東海林が「おいおい」と苦笑する。
「お客集めまで計算済みとは、あなたもなかなかやり手ね」
岩下が感心したように呟いた。
「……少し、考えさせて下さい」
凛花を真っ直ぐに見つめ、夕凪は答えた。
「ええ、もちろん。急な話ですもの。またゆっくり、あなたの答えを聞かせて」
「それでいいわ、夕凪。自分の居場所は、自分で吟味して決めなさい」
岩下も満足そうに頷いた。
程なくして、珍しく早い時間から常連客や一見客で席が埋まり始め、あっという間にJOE’s BARは満席となった。
賑やかになった店内を背に、凛花がドア越しの客に申し訳なさそうに、謝っている。
「ごめんなさい。見ての通り、珍しく満席になってしまって。また待ってるわね」
ドアが閉まり、凛花がカウンターの中の東海林に歩み寄った。
「林田くん。ハルト君も一緒だったわ」
「そうか。あいつらも運がねえな」
東海林が肩をすくめ、手際よく次のオーダーのグラスを準備する。
熱気を帯びていく店内。酔って突っ伏した岩下の背を優しくさすっていた夕凪の耳には、その会話は届かなかった。
JOE’s BARのドアの外にまで漏れ聞こえる賑やかな声。その喧騒を背に、やむなく入店を拒まれた二つの足音が、行く宛を彷徨い遠ざかっていった——。
———
——土曜日の午後七時。開店を一時間後に控えたJOE’s BAR——
夕凪は、貸し出されたばかりの黒いエプロンをきゅっと締め、スツールを一つずつ丁寧に拭いていた。
先日、岩下に呼び出されて訪れたとき、凛花に提案されたバイト。
東海林と凛花の温かな人柄、それに、店を埋め尽くした客達の猛烈なアタックもあって、週末だけお試しで働くことを決めた。
カウンターの奥、スツールの脚元を掃き掃除しようとした時、夕凪の手が止まった。
暗がりに、小さな影が落ちている。拾い上げてみると、それは使い込まれて黒ずんだ、手のひらサイズの小銭入れだった。
そこに施された歪な刺繍。それが目に入った瞬間、夕凪の心臓が"ドクン"と音を立てた。手にした小銭入れを見つめたまま、夕凪は動けないでいた。
『Xmas’』
アポストロフィの位置が間違った、不器用な文字。
——遠い記憶、幼い日のクリスマス会——
まるで昨日のことのように、『あの日』の情景が夕凪を包み込もうとした、その時——。
「あら、それ……」
背後から凛花が声をかけた。
「ハルトくんのだわ」
——ハルト——
その名前が耳から流れ込むと同時に、夕凪の思考が一時的に止まった。次の瞬間、全身を目に見えない何かが熱を持って、包み込んだ。
「アイツ昨日、珍しく酔ってたからな」
東海林もカウンターから顔を覗かせた。
「……ハルト……さん」
夕凪の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「夕凪さん、知り合い?」
そのままの姿勢で動かない夕凪を、凛花は少し不思議そうにしながら聞いた。
「……いえ、そういうわけでは」
「そう。まあ、今日にでも取りに寄るんじゃないかしらね。会社の帰りにでも……と言っても、もうこんな時間か」
「あの、ハルトさんはどちらにお勤めでしょうか?」
「え? ……あぁ。ここから十数分のところにある、七階建ての古いビルよ。四階のIT会社だけど」
「私が、届けてもいいでしょうか?」
「えっ?」
凛花が声を上げ、東海林も目を丸くした。
「良ければ、ですけど」
凛花は少し考え、それから柔らかく微笑んだ。
「そうね。彼が今夜来なければ、明日は日曜でうちは定休日だし。ね!」
凛花は東海林に同意を求めた。
「おう。わざわざごめんね、夕凪ちゃん」
「いえ。私がそうしたいので」
——リーン、リーン——
BGMのジャズを割って入るように、カウンターの隅でベルが鳴った。
凛花が手際よく受話器を取る。
「はい、JOE’s BARです。……あら、ハルトくん」
凛花の視線が、夕凪の手元にある小銭入れに落ちた。
「ええ、あるわよ。……えっ、しばらく来られないから預かってて欲しい? 」
凛花は夕凪に笑いかけて続けた。
「昨日話した新しいバイトの子がね、月曜日にわざわざあなたの会社まで届けてくれるって言ってるわ」
受話器の向こうで、ハルトの慌てた声が漏れ聞こえてくる。
『えっ? イヤ、悪いですよ』
「本人がそう言ってるんだし、お任せすればいいんじゃない? 月曜日の昼休み、一階のロビーで待ち合わせって事で。それでいいわね」
凛花は一方的に電話を切ると、夕凪に微笑みかけた。
「って事だから、夕凪さん。宜しくお願いね」
「分かりました。ありがとうございます」
「昨日、超絶美人って話してあるからなぁ。アイツ、この忘れ物を口実に今にでもすっ飛んで来るんじゃねーか?」
東海林が煙草に火を点け、ニヤリと笑ってみせた。
夕凪はバックヤードに行き、畳んであった自分のブルゾンのポケットに、小銭入れをそっと仕舞った。
※ ※ ※
深夜二時。仕事を終えた夕凪は、静まり返ったアパートの自室にいた。
初めての『JOE’s BAR』での仕事は、心地よい疲れを彼女に残していた。 心を落ち着かせるジャズの旋律。それがいつしか、客達の賑わいの喧騒へと入れ替わった。
カウンター越しに交わした何気ない会話や、カクテルグラスが触れ合う澄んだ音。不慣れな手つきで差し出した一杯に、「ありがとう」と微笑んでくれた客の顔が浮かぶ。
ふっと視線を移したテーブルの上に、駿からもらった白い貝。その横に、あの古びた小銭入れが置かれている。夕凪は小銭入れを手に取り、指先で『Xmas’』の刺繍をなぞった。
「持っててくれたんだ」
まるで駿を見つめるような、温もりを宿した視線で、小銭入れを見つめた。
持ち主の名前を耳にした瞬間、真っ白になった頭。気づけば、届け出る事を申し出ていた。
「ハルト……くん」
いつぶりだろうか。唇もその記憶をとうに忘れた名前を、夕凪はそっと呟き、目を閉じた。
※ ※ ※
「イテテ……」
真夜中の静まり返った部屋のドアの向こう、郁人の絞り出すような小声と、廊下を擦るように進む足音に、布団の中のハルトは目を覚ました。
「腰、だいぶ悪そうだな」
ドア越しの郁人に声をかける。
「あぁ。トイレ、手伝ってくれるか?」
「えっ!?」
慌ててハルトは起き上がった。
「ハハ、冗談だ。そこまでじゃない」
「……なんだよ。気をつけろよ」
今朝、突然のギックリ腰に見舞われた郁人を気にかけ、ハルトは仕事を終え足早に帰宅した。今まで分担していた家事も、暫くは一人で担う心構えだ。
トイレのドアの開く音を聞き届けて、ハルトは再び横になった。
(忘れ物を受け取るくらい、寄れば良かったな)
あの小銭入れを思い浮かべながら、ハルトは目を閉じた。
——ハルトと夕凪、二人の意識は、白く煙る遠い冬へと、ゆっくりと沈んでいった——。
※ ※ ※
地区の公民館。ストーブの灯油の匂いと、子供たちの熱気が入り混じるクリスマス会。
同じ地区の子供達、二十名程が集まった会。その中に小学六年生のハルトが居た。クリスマス会のメインイベントは、プレゼント交換だった。
♬『ジングルベル』の陽気な旋律に合わせ、輪になった子供たちがプレゼントを隣へ、隣へと回していく。
「はい、そこまで!」
音楽が止まった。ハルトが手にしていたのは、地味な包装紙に包まれた、歪な形の包みだった。
一斉に包みを開ける子供たち。キラキラした文房具や、中には最新のゲーム機のソフト等の、高価な物もある。
歓声が上がる中、ハルトの包みから出てきたのは、まるで「おばあちゃんのお下がり」のような、布製の小銭入れだった。
「うわ、何これ。ダサっ!」
ハルトの隣りの子が声を上げる。
その声に釣られ、子供達の視線は一斉に、ハルトの手元に注がれた。
「誰の? おばあちゃんが間違えて入れたんじゃないの?」
「かわいそう」
周囲の子供たちが口々に冷やかし、嘲笑の声が上がる。ハルトは恥ずかしさと苛立ちで顔を真っ赤にし、押し黙った。この迷惑なプレゼントの送り主を見定めるように、子供達で作られた円を、ぐるっと見回した。
ハルトの目に止まったのは、両膝をギュッと抱えて俯く少女。その小さな身体を更に縮こまらせ、顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。
ハルトは、プレゼントの送り主がその少女——夕凪——だと察した。
戸建て住まいのハルトと、アパート住まいの夕凪。ちょうど二人の家の中間に位置する、砂場と滑り台と鉄棒だけの、小規模な公園。
数年前、そこでハルトは夕凪をよく見かけていた。
当時、小学三年生だったハルトは友達と走り回り、一年生の夕凪は砂場の隅で、一人静かに山を作っていた。
珍しく大分市内でも雪が散らつき、凍りつくような寒空の下。そんな中でも他の子達と違い、マフラーや手袋もしておらず、季節の移り変わりを無視したような格好の夕凪。
子供ながらにも、「変わった子だな」とハルトは思っていた。
ある日、寒くないのかと思わず夕凪に声をかけた事があった。夕凪は不思議そうにハルトを見ただけで、何も答えず砂の山を作り続けた。
その雪のように白い手と頬は、冷たい空気に晒されて、りんごのように赤らんでいた。
そのうちに、ハルトがおもちゃのスコップを持ってきて、夕凪の砂山を手伝ったり、ハルトが誘い、男の子組に混じって、夕凪も鬼ごっこや隠れんぼの遊びに夢中になった。
けれど、いつしかそんな無邪気な季節は通り過ぎ、ハルトは小学六年生、夕凪は四年生になった。二人は通学路ですれ違えば、さり気なく目を合わせるだけの関係になっていた。
この年のクリスマス会。夕凪はプレゼントの相談を、母親に出来なかった。夕凪が目にするのは、パートを終え、疲れ切った様子で家事をこなす母親の背中ばかりだ。最近では、父親とまともに会話する姿も見ない。それどころか、喧嘩も増えていった。
時折聞こえてくる罵り合いに、堪らず布団に潜り込み、耳を塞ぐこともある。
大人の顔色を窺い、空気を読み、『自分のことは自分で』と、あまりに早く"聞き分けの良い子供"であることを、選んでしまった夕凪。
クリスマス会のプレゼントに、何か体の良いものをと、夕凪が家中を探して見つけ出したのが、以前、祖母からもらった小銭入れだった。
せめてクリスマスらしさをと、最近、学校の家庭科で刺繍を習った夕凪は、慣れない手つきで何度も指をチクリと針で刺しながら、時間をかけてその文字を縫い上げた。
『Xmas’』
スペルを間違っているそれを掌に包み、ハルトは夕凪を見つめた。
周囲の"騒音"は、いつしかその耳から遠のいていった。
「……これ」
ハルトが口を開いた。
ひどい言葉をぶつけられるんじゃないかと、恐れるように夕凪は身をすくめた。
「これ、欲しかったんだ! この文字かっこいいじゃん。俺、こっちの方が好きなの!」
意外な言葉に驚いて、夕凪はハルトの方を見た。小銭入れを高く掲げたハルトが、一瞬だけ、夕凪にニコリと笑いかける。
その瞬間、夕凪の中に溜め込んでいた感情が溢れた。ハルトはその嘘で、夕凪と、夕凪が抱える寂しさを、そっと包み込んだ。
夕凪は、絆創膏を巻いた指先を軽く摘みながら、涙で揺れる視界の先のハルトを見つめた。
※ ※ ※
クリスマス会場の公民館の外では、いつの間にか、粉雪がちらつき始めていた。
「雪だー!」
子供達は、目を輝かせながら空を見上げたり、小躍りしている。
「どおりで冷えるはずだわ」
迎えに来た親たちは、コートの襟を立て直し、身を縮める。
それぞれの家路に向かう賑やかなざわめきの中、ハルトと夕凪を静寂が包んだ。
ハルトは手袋をはめようと、ジャンバーのポケットに手を突っ込んだ。
取り出した左手の手袋をはめたその時、ふと夕凪の裸の両手が目に入る。人差し指の先には絆創膏。
ハルトはもう片方のポケットから取り出した手袋を、夕凪にためらいなく差し出した。
「えっ?」
夕凪は思わずハルトを見つめた。
「はい」
ハルトは夕凪の手に、手袋を押し当てた。
「……ありがとう」
夕凪の手には少しばかり大きめのそれを、右手にはめた。
ハルトは無言のまま、夕凪の裸の左手を見つめると、自分の裸の右手を夕凪に差し出した。
ハルトの目を見て、その気持ちを感じとった夕凪は、冷たくなった手をハルトにそっと預けた。包み込むように、夕凪の手を握るハルトの手の温もり。夕凪の小さな胸の奥に、ぽっと灯りがともった。
「コレ、大事にする……ありがとう」
ハルトは上着のポケットに入れた手で、夕凪からのプレゼントをそっと握った。
「……うん」
夕凪はハルトと繋いだ手を、キュッと握り返した。
家に向かってゆっくりと歩幅を合わせ、ハルトと夕凪は歩き出した。
二人の頭に肩に、心に——。ふわりふわりと粉雪が舞い降りては、溶けていった。
※ ※ ※
窓の外、澄んだ夜空の星を見上げる夕凪。
仰向けの姿勢で、常夜灯の淡いオレンジを見つめるハルト。
長い年月を超えた再会の足音が、枯葉を散らす風の音に紛れて聞こえてくるようだった——。
———
週の始まり、月曜日の大分市街地。普段と変わらず、スーツ姿や作業着に身を包んだ人々が、颯爽とした足取りで忙しなく行き来している。通りには既に、排気ガスの臭いが立ち込めている。
その一角にある七階建てのテナントビル。四階フロアの自動ドアを抜けると、少し雑然としたオフィスが広がっている。整然と並んだデスクの間を、社員達がそれぞれの役割を抱えて行き交っている。
ハルトは自分のデスクに腰を下ろし、モニターに表示されたメールを確認していた。特段、問題は無いようだ。ハルトはホッとした表情を浮かべ、缶コーヒーをひと口飲んだ。その直後、一通のメールを知らせる着信音が鳴った。
差出人の名前を見て、ハルトは僅かに眉間にシワを寄せ、後ろを振り返った。数メートル先のデスクに座った林田が、寝癖で跳ねた後頭部の髪を寝かせつけながら、ハルトに視線を送っている。林田を一瞥した後、ハルトはメールを開いた。
『寝坊→朝メシ抜きで死にそうです。今日の昼はガッツリいきましょう!』
ハルトは呆れた表情を浮かべ、キーボードを叩いた。
『社用PCを使うな! ついでだから返信するけど、今日の昼は一人で行ってくれ』
コーヒーを飲み、パソコン横の資料に目を移した瞬間、再び着信メール。
『もしかして、まだ怒ってるんですか? あの事』
ハルトは鼻をフンッと鳴らし、デスクを立った。ツカツカと林田に向かって歩み寄っていくハルト。林田は「えっ? えっ?」と、座ったままの姿勢でけ反っている。自分の前に立ちはだかったハルトに、林田は作り笑いを浮かべた。
「もう許してくれたんじゃ——」
「ほら」
ハルトはシャツの胸ポケットから栄養食品バーを取り出し、林田の頭に置いた。
それを手に取り、「サンキューです」と言いつつ、早速封を開けている林田にハルトは言った。
「お客さんが来るんだよ」
「お客さん……。コレ、飲みもんないとな」
無関心な林田にハルトは頭を掻いて、自分のデスクに戻っていった。
椅子に深く腰掛けたハルトは壁の時計をちらりと見た。午前十時ちょっと前。"来客"との対面まで、あと二時間ほどだ。
ハルトは冷めた缶コーヒーを、グイッと飲みあげた。
※ ※ ※
三階フロアのお手洗い。鏡前で、沙苗は念入りにメイクをチェックしていた。
前の晩に、アレコレ悩んだ挙げ句に選んだ、タイトなミニのワンピース。
今朝、普段より時間をかけて髪を整えた。周囲の男たちの視線が自分に刺さるのを、いつものように快感として受け流す——はずの沙苗だが、今日は違う。この服も髪も、かけた時間も、たった一人の男の為のものだった。
一通りチェックを終えた沙苗だが、鏡をじっと見つめ、両手で頬を軽くマッサージした。それから、できるだけの柔らかな表情を作り、ニコリと笑ってみせた。これで完璧と言わんばかりに、満足げな足取りでその場を後にした。
自動ドアを抜け、沙苗は派遣先オフィスの自分のデスクに腰を下ろした。その足元に紙袋が置かれている。中には丁寧に畳まれた、あのダサいジャンパーが入っている。
先日、ハルトと訪れた大観峰。そこで寒さに震えている沙苗を気遣って、ハルトが着せたジャンパー。帰り道、自宅近くで降ろしてもらった際、クリーニングして返すからと、沙苗はそれを半ば強引に預かっていた。
デスクの上にはミルクティー。いつもは決まってブラックコーヒーだった。あの日から、沙苗はミルクティーの甘さを求め始めた。まだ温かい缶を頬に当てると、短くも濃いハルトとの時間の記憶が、リプレイされる。
足を挫いて動けずにいた自分をおぶってくれた、あの広い背中の温もり。何故だか分からないけど、「ありがとう」と言いながら、見せてくれた屈託のない笑顔。寒さから守る為のジャンバー、挫いた足の為の湿布。
あの日のハルトの優しさが胸に去来する度に、チクリとした微かな痛みを覚える。それは、沙苗にとって初めて抱く感情なのかも知れない。
——朝比奈ハルト——
同僚女性達の井戸端会議の通りすがりに、何度も名前を聞いていたし、ビル内で幾度も見かけていた。確かに女性社員が放ってはおかない容姿ではある。
『あの朝比奈さんが童貞かぁ』
ハルトの同僚の誰かが呟いたあの一言。沙苗が本当にハルトに興味を引かれたのは、そこだった。
——割と裕福な家庭の次女として生まれた沙苗は、その愛らしい容姿で幼い頃からおだてられて育った。
クラスの男子も女子も沙苗を放ってはおかず、いつも輪の中心に笑顔の沙苗がいた。何人もの男子生徒から告白され、交際もした。しかし、終止符を打つのはいつも相手だった。
思ったほど悲しくはなかった。『可愛い』と言われ、『綺麗だ』と褒められ——それでも、誰も沙苗の内側を見ようとはしなかった。いや、見せなかったのは彼女自身だった。
別れの度に空虚な心を置き去りにし、蓋をしてきた。そうして、選ばれるのではなく、自分が選ぶ側だと思い込むことで、自尊心を保ってきた。
両親の寵愛は、いつも沙苗の七つ上の姉に向けられていた。幼心に感じていたその"違和感"は、薄情にもドア越しに聞こえた祖母のあからさまな一言で、白日のものとなった。
「産んでよかったんかねぇ。絵里奈だけやったらね」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。しかし、頭より先に心臓の鼓動がその意味を知らせた。沙苗は小さな身体をこわばらせ、息を殺してドアの向こうの母親の返事を待った。
——否定の言葉も、思い遣りの言葉も聞こえなかった。
ただ、苦しかった。哀しかった。あの日から沙苗は、"必要とされること"に飢えていた。自ら愛を与える余裕などない。沙苗は選ばざるを得なかった。ただ誰かに愛を与えられることで、自分の価値を証明する生き方を。
——与えられる愛——
自分が思っている以上に求めていたもの。ハルトによって、まざまざと思い知らされた。
——あの朝比奈さんが童貞かぁ——
何が彼をそうさせているのか。彼は何を抱え、どう生きてきたのか。ハルトを知ることが、沙苗自身の渇望を満たす、唯一の道標だと思えた。
——午前十一時過ぎ。昼休憩までは、一時間をきっている。足元の紙袋から覗くジャンパーが目に入る。
とうに温もりの消えたミルクティー。沙苗はそれ以上、口をつけなかった。
※ ※ ※
大分市郊外の古いアパート。夕凪の自室のテーブル上には、駿がくれた白い貝、その隣にはあの小銭入れ。手に取り『Xmas'』の不器用な刺繍を見つめた。
持ち帰った日から何度も触れ、夜にはあの雪の日の光景を手繰り寄せながら、眠りに落ちていった。
遠い昔の、小さな手を包んでくれた温かい手のひら。大事にすると言って微笑んだ、優しい顔。会えるだろうか。覚えていてくれるだろうか。いや、覚えていなくてもいい。ただ、"二人を繋ぐ大切な忘れ物"を返して、あの日のお礼を言いたい。それだけだ。
夕凪は小銭入れをジャケットの胸ポケットに仕舞った。左胸の鼓動に、直接触れているような感覚。
「ハルトくん」
声に出して名前を呼んでみた。じんわりと胸に温もりが宿る。
テーブルの上の貝が、カーテンの隙間から差し込んだ柔らかな光を反射している。夕凪は立ち上がり、ジャケットのジッパーを引き上げた。ヘルメットを抱え玄関扉を開けて、駐輪場のCBRへと向かった。
※ ※ ※
信号待ちのシールド越し、七階建てのテナントビルが視界に入った。
夕凪は迷わず駐車場へとバイクを滑り込ませ、エンジンを切った。ヘルメットを脱ぎ、バイクを降りてビルのエントランスへとまわった。自動ドア数メートル手前で足を止め、ビルを見上げた。
ハルトが居るはずの四階の窓を眺め、夕凪は左胸ポケットの上から、小銭入れの感触を確かめた。その奥の胸の鼓動までもが、手の平に伝わってくるようだ。
一度、深く息を吐き出すと、彼女は再び歩き出した。
ウィーンという音と共に、自動ドアが開く。ロビーに足を踏み入れた瞬間、壁に掛けられた時計が目に入った。
――十一時五十八分。
人気のない静まり返るロビーの中、時計の秒針の音と、鼓動音とが重なる。夕凪は自販機の傍らに立ち、壁に背を預けて静かにエレベーターホールの方を見つめた。
エレベーターの階数表示の『4』が、オレンジの光を放っている。やがて、その数字が消え、『3』へとバトンを繋いだ。
——ピーン。
三階で停止を知らせる電子音が、静かなロビーに響いた。
再び、階数表示が動き出した。
『3』から『2』へ。
夕凪は表示灯から目を離せず、下降してゆくその数字を追う。
『2』から『1』へ。
——ピーン。
一階到着を告げる音。夕凪の身体が、わずかに緊張で強張った。
シューという音と共に、エレベーターの扉がゆっくりと開き始めた——。
———
——シュー。
エレベーターの扉が、最後まで開いた。
「今日はパスタどう?」
「えー、昨日も麺だったじゃん」
「アミュプラザの新しいカフェに行ってみない?」
笑い声を弾ませながら、三人の女性社員がロビーを横切り、自動ドアの向こうへ消えていく。
その背中を、夕凪はぼんやりと見送っていた。視線を戻したエレベーターの奥。そこに、もう一つの影が現れた。
紙袋を両手で大事そうに抱えた女性——沙苗——が、笑みを浮かべ、ゆっくりとした足取りで歩み出した。
長椅子に腰を下ろし、紙袋を膝の上に置いた沙苗の視線が、ロビーの一角で止まった。
真っ直ぐ前を見つめている一人の女——夕凪——が凛とした佇まいで立っている。
自分と同じ、まるで誰かを待っている。沙苗はそんな気配を感じた。
その時、夕凪が胸のポケットに手を差し入れた。ゆっくりと引き出されたのは手のひらサイズの、布製の——小銭入れ。何気に視線を送っていた沙苗だったが——。
「——ッ!」
"ドクンッ"という心臓音と共に、呼吸が止まったような感覚。
次の瞬間、椅子から立ち上がった沙苗の膝から、ガサっという音を立てて紙袋が滑り落ちた。
その音に、夕凪が静かに顔を向けた。夕凪と沙苗、二人の視線が交差する。
立ち尽くしている沙苗の表情は、尋常ではなかった。
驚き、困惑、そして——何か、切迫したもの。
——ゴオォォォン……。
正午を知らせる軽快な電子音が、沙苗の耳には、まるで天国から地獄へと引きずり落ろす、冷徹な檻の下降音のように響いた。
——朝比奈ハルトの物を、何故この女が?
沙苗の目は、夕凪の手に握られた小銭入れに、釘付けになったまま、一歩、また一歩と夕凪へ近づいていく。
——コツッ、コツッ——
夕凪。沙苗。二人だけの静まり返ったロビー。沙苗のヒールの足音が、冷えた空気を揺らすように、響き渡る。
夕凪は、小銭入れを握りしめたまま、近づいてくる沙苗を見つめた。
「……それ」
夕凪の前に立ちはだかる沙苗の声が、震えていた。
突然現れた、会ったこともない"はず"の女の手の平に収まっている小銭入れ。そこに施された『Xmas’』の刺繍。自販機前で何度も目にしていたそれは——間違いない、ハルトの物だ。
「それ、どうして……あなたが」
震えながらも沙苗の声は、まるで鎖のように夕凪の両肩をがっしりと掴んで離さない。
「これは……落とし物を、お返しに」
まるで見えない何かに拘束されたかのように、夕凪の身体は硬直した。
「落とし物……? 誰に……誰に返すの?」
逃がさない。逃れる事など、決して許さない——沙苗の眼差しに宿る異様な熱量が、更に夕凪の呼吸を追い詰める。
「……ハルト……朝比奈さんに」
「——ダメよ!!」
沙苗の悲鳴にも似た拒絶の言葉が、鋭い刃と化して夕凪を貫いた。
「私に……返して」
「え……?」
「朝比奈……ハルトのもの、私に返して」
狂気と切望の入り混じった、沙苗の懇願に息を呑み、たじろいだ。
——この夕凪でさえも。
「分かり……ました」
手の中の小銭入れに、夕凪は最後にもう一度だけ視線を落とした。愛おしそうにそっと指先でその感触を確かめてから、差し出すように手を伸ばす。
「……お願いします」
夕凪のその言葉を遮るように、沙苗は小銭入れを剥ぎ取るように奪い取った。——その瞬間、夕凪の脳裏に鮮烈な光景がフラッシュバックした。
秋風の吹き荒れる大観峰。拾い上げたあの帽子を、同じように無遠慮に奪い去っていった一人の女。
そこまで記憶の糸が繋がった瞬間、夕凪の全身を、言いようのない熱が支配した。
——一緒に居たあの男性——
視線が交差した刹那、時間の流れを狂わせるような、言い知れない感覚に襲われた。そして、彼の瞳にも同じ"揺らぎ"を感じたのは、間違いじゃない。今、夕凪にはそれがハッキリと理解できた。
遠い昔の幼い日、手を繋いで雪道を歩いたあの少年が、長い月日を超えて目の前に立っていた。
「もう行って結構よ」
沙苗の冷ややかな言葉に、夕凪はハッと我に返った。沙苗越しのエレベーターの階数表示の数字が、上昇していく。表示灯が『4』で停止すると同時に、『ピーン』という鋭い電子音が響き渡った。
誰かを連れたその数字が再び下降を始める。
『3』……『2』……。
一階一階、現実が近づいてくる速度に合わせるように、夕凪の鼓動は激しく加速していった。
「何をしてるの? 早く行きなさいよ」
沙苗のその言葉に押されたからではない。夕凪は自身の内側に溢れ出した激しい混乱に弾かれるようにして、沙苗とその奥のエレベーターホールに背を向けた。そして、足早にエントランスへと歩きだした。出口の前で一瞬立ち止まり、振り返ってエレベーターの扉を見つめた。
——きっと、また逢える。
夕凪はその想いを抱え、前を向き、自動ドアをくぐった。
エントランスを出て行く夕凪の後ろ姿を見送り、沙苗はハルトのジャンパーの入った紙袋を、床から拾い上げた。手には、まだ夕凪の温もりを残しているかのような、小銭入れが握られている。
——ピーン。
エレベーターが到着し、沙苗の背後で扉が開いた。その瞬間に、あの鏡の前で作り上げた笑顔。その面を、歪んだままの自分の顔に貼り付け、後ろを振り向いた。
ハルトが立っている。その横に居る林田には目もくれない様子で、沙苗が駆け寄る。
「ハルトくん」
沙苗の高揚した声に、ハルトはあからさまに戸惑いを浮かべた。名前など呼ばれた事はない。それに——。
「これ、助かったわ。本当にありがとう」
ジャンパーの紙袋を差し出すその穏やかな口調と、柔らかな笑顔。先日の大観峰での奔放で享楽的な沙苗とは、別人のようにすら見える。
「……あ、あぁ」
紙袋を受け取ったハルトの目に、沙苗の容姿にあまりにも不釣り合いな"異物"が、その手に握られている事に気がついた。
古びて黒ずんだ——小銭入れ。
「それ!」
——何故、この子がこれを? ハルトは混乱した。
「えぇ、預かっておいたわ。いきなり押し付けられて驚いちゃったけど」
「そう……か。ありがとう」
ハルトは小銭入れを受け取ろうと、手を伸ばした。咄嗟に沙苗は、後ろ手に小銭入れを引っ込めた。
訝しげに沙苗を見るハルトに、沙苗は悪戯っぽく笑う。
「ランチ行きましょ。イタリアンなんてどうかしら」
——まただ。この女は何かと引き換えに、何かを提示してくる。
ハルトはわざと大きなため息をついてみせた。
「悪いけど、苦手なんだ」
「そう。じゃ、"今日は"中華で——」
「こういうの、無理なんだよ」
「——こういう……って?」
「正直言って困る」
ハルトは強くハッキリとした口調で言った。
「そんな……困らせるつもりなんて……」
そう返すのが沙苗の精一杯だった。
「……あ、じゃあオレはこの辺で——」
呆気に取られた様子で傍観していた林田が、そそくさと立ち去ろうとし
た。
「オマエ、何が食いたい?」
引き止めるようにハルトは林田に声をかけた。
「えっ? でも、お客さんって……えっ?」
訳が分からないといった様子で、林田はハルトと沙苗を交互に見る。
抜け殻のように立ち尽くす沙苗の手から、ハルトは小銭入れをさらった。
「これ、アリガト」
素っ気なくそう告げると、「行くぞ」と林田をせき立て、俯き黙り込んでいる沙苗を置き去りに、ロビーを後にした。
「いぃんスか、先輩?」
沙苗を気にしながら林田が訊ねる。
ハルトと林田がエントランスを一歩出た瞬間、冷たい秋風が横から吹きつけ落ち葉を舞い上げた。咄嗟に反対側に顔を向けたハルトの視界に、駐車場から出てきた一台のバイクが飛び込んできた。
鋭い加速音を立てながらみるみる近付き、向かい風を切り裂くように目の前を走り抜けたのは、見覚えのあるワインレッドのCBR。
——大観峰のあの女——
ハッとして、ハルトは反射的に、そのナンバーに目をやった。
『184』——間違いない。
何故、彼女がこのビルに? その答えはすぐさまハルトの脳裏に駆け巡った。まだ手の平の中に握ったままの小銭入れを見つめる。
——彼女がこれを返しに。
咄嗟に車道の脇に駆け寄った。立ち並ぶビル街に、吸い込まれるように消えていくバイクの後ろ姿。
ハルトはその赤い閃光をいつまでも見つめていた。
執筆の狙い
現在、執筆中の連載です。
完結作品ではない為、読んでくださった方には読みづらさと消化不良な感じを与えてしまい、もう申し訳ありません。
過去に、第十話までを投稿させて頂きました。
今回、第十四話まで書き上げましたので、続きを読みたいとおっしゃって下さった方もいらしたので、投稿致します。
宜しくお願いします。