作家でごはん!鍛練場
のべたん。

夏風邪

 夏風邪をひいた私は、世話がしやすいからと、普段客間として使われている六畳の和室の中ほどに寝かされていた。
 父と母は、勤め先の病院へ行ってしまい、お手伝いのおキヌさんがひとり、朝から看病をしてくれていた。けれども、このおキヌさんというのが、齢七十を超える腰の曲がったお婆さんで、細々とした頼みごとをするのには少々気が引ける。生ぬるい氷嚢を首筋に当てがいながら、今度おキヌさんが来たなら、氷を新しくして貰おう、そうしてなにか、冷たい飲み物をお願いしよう、そう思いながら、熱で白く濁った頭を、庭の方へと向けた。
 庭に面した障子と、縁側の硝子戸は、換気のために開かれて、あかるい夏の日射しが庭の地面を白く照らし、その上に濃い影を落としている。
 白い土塀の前に置かれた、横長の飾り台のうえに並んだ朝顔の鉢は、父と母が、入谷の朝顔市で買って来たものだ。
 鉢の縁に沿って刺された、数本の長細い竹の棒の真中と末端には、竹を円環に加工したものが、針金で固定されている。これは、蔓が満遍なく空間を使えるようにとの、作り手側の工夫である。その甲斐もあってか、蔓は鉢いっぱいに這いまわり、青々とした葉を繁らせている。
 朝に水を撒いたあとには、大きくひらいた濃い紫の花びらに、いくつもの雫を光らせて、瑞々しい命の輝きさえ感じさせるのに、この昼過ぎの、白い日射しが差し込むいまとなっては、末期老人のように、黒く萎んでしまっている。
 変哲のない庭である。すぐに見飽きてしまう。
 なに、どうせ暇だろうと、出掛けに父が枕元に置いていった朝刊のことを思い出して、手を伸ばす。
『金閣寺全焼』の見出しが目に入り、舐めるような赤い火の舌が、金色に輝く鳳凰を呑み込む画が頭に浮かぶ。けれどもその後に続く文字の配列を理解しようとすると、文字と文字との繋がりが、ほどけてバラバラになり、意味を理解できなくなって、仕方なく、天井の黒い木目に目を向けた。
 熱に侵された人間は、頭で考えるような、理性的なものよりむしろ、美しい景色や心地の好い音楽といった、肉体で感じられる本能的なものに、強く惹かれるのではないかと(理性的に)考えていると、廊下側の襖が微かな音を立てて開き、お手伝いのおキヌさんが、泥棒のような仕草で顔を覗かせ、私と目が合うと安堵した表情に変わって、紀子さんがお見舞いにいらっしゃいましたよ、と言ったあとで、その後ろからひょいと現れた紀子さんの姿を見た途端、ぬるい氷嚢や渇いた喉のことなどは、頭のなかからすっかり飛んでしまって、体温が二度くらい上がった気がした。体温だけではなく、鼓動までが、ばくばくと早まるのを感じた。熱のあるときに、紀子さんと会うのは毒だ。殺生だ。私が、そんなことを考えていることも知らないで、部屋に入ってきた紀子さんは、涼しげな白いワンピースを着て、手に持った竹の編み篭には、夏蜜柑が盛られていた。
 紀子さんのしなやかな足が、真新しい畳のうえを、音もなく滑らかに近づいてくるのを、頭の右半分を枕に沈めて私は、黙って見ていた。
 近づいてくる度に、ばくばくばくと、心臓が高鳴り、汗が吹き出して、もう本当に、死んでしまいそうになる。
 そうして、私の枕元に寄り、膝を曲げて静かに座ると、長い黒髪が揺れた。いまにも泣き出しそうな顔が、こちらを見下ろしていた。
「お身体は」
「まだ熱が、すこし」
「お父様はなんと」
「プール熱と」
「そう」
 二日前、わたしと紀子さんは、連れだって、市民プールにいったのだ。
 もしかしたら、紀子さんは、私が病に罹った責任を感じているのかもしれない。
「紀子さんのせいではありません」
 それには答えずに、紀子さんは、胸元から清潔そうな絹のハンカチを取り出して、
「可哀そうに」
 と、そう言って、私のべたべたした首筋を、額を、頬を、柔らかい果物でも撫でるように拭いてくれた。
「伝染ります」
「いいの」
 私は薄く瞼を閉じた。淡い光のなかで、睫毛のカーテン越しに紀子さんの腕が、右へ左へ動くのを、ぼんやりと見ていた。私は身体を動かさず、されるがままで、すべてが紀子さんの手のなかにあった。首から下が、あたたかい湯のなかにいるようであった。もういっそのこと、このまま《死んでしまおうかしら》と思った。そうありたいと願った。それが正しいことのように思われた。
 紀子さんの優しさが、なによりも苦しく毒であった。このとき私は確かに彼岸にいた。そうして、こちらともあちらともつかず、ゆるやな、緩い流れに身を委ね、どちらかといえばあちら側の方へ、このまま揺蕩っていきたい、などと考えていたが、そんな私の意識を引っ張ってきたのは、鼻先を掠めた、柑橘の微かな匂い。
「お蜜柑」
 と私は言って、目を開けた。
 枕元にある夏蜜柑が、生の匂いを放っていた。
「ええ、おばあ様が、持っていきなさいと」
 紀子さんのおばあ様の微笑む顔が、光のなかに浮かんだ。とても、笑顔の可愛いお婆さん、私はこのお婆さんのことが、とても大好きなのです。
「そんなに汗をかいていて、きっと、喉が乾いているでしょう」
 紀子さんは、瑞々しい緑の蔕(へた)のついた夏蜜柑を、ひとつ取り、掌にのせ、皮を剥いていく、親指の爪先が、艶めく蜜柑の皮に、ぬぬぬと食い込むと、香りはいっそう、強くなった。
 皮をすべて剥かれた蜜柑は、幼児の握った柔らかい手を思わせた。蜜柑の皮を屑籠に入れる紀子さんの爪先は、微かに黄色く色づき、光っていた。
 紀子さんは、私の汗を拭ったハンカチで指を拭いながら、
「喉が乾いているでしょう」
 もう一度、決めつけるような口調で言うと、
 裸になった蜜柑をひと房、指先でつまむように取り分けて、
「お開け」
 私は、力なく口をあけた。
 そうして、目を閉じた。鮮やかな青と緑の残光が、黒い瞼の裏に瞬いた。
 私は、口をあけて、待っていた。そうして、乾いた口のなかにひと房の蜜柑が優しく放り込まれると、舌の付け根の左と右のあたりから、唾液がじわ、と漏れ出るのが分かった。
 ゆっくりと口を閉じ、舌で蜜柑を包む薄い膜に触れ、奥歯の方で軽く噛むと、膜がぷち、と破れて酸味の強い果汁が一気に溢れ出た。酸っぱい汁は、唾液と混ざりあって、そのまま流れるように、喉を通って落ちていった。
「も一つ如何」
 私は、目を瞑ったまま、黙って口を大きくあけた。喉の奥にあるひだ、さらに奥の黒いところまで、恥ずかしいところを、紀子さんに晒している自分のことを思うと、また熱がいくぶん上がったような気になって、呼吸も苦しくなってきた。
 いま、自分はいったい、どのような顔をしているのだろう、どんなはしたない面を、うつくしい紀子さんの眼前に、ぶら下げているのだろう。
 紀子さんの背中越しに見た自分の面を想像してみる。
 私は目を閉じ、両頬を赤く染めながら、歯科でするように、口を開けていた。
 並んだ白い歯の奥に、赤く腫れあがった扁桃腺が、見えている。内臓まで繋がる黒い喉の奥からは、水気を帯びた白くて熱い息が、みじかい間隔で吐き出されている。
 そうやって、口を開けていると、だんだん、顎の付け根が痛くなってきて、溜まった唾液は細かく泡立ち、だらりと一筋よだれが垂れて、顎までつーっと、つめたく流れていった。
 私は目を閉じ、それを見ていた。
 嗜虐的な笑みを浮かべた紀子さんは、手に持った蜜柑の房を、自らの口のなかに含み、柔らかく顎を動かしたあと、血色のよい唇のあいだからとりだした蜜柑の房は糸を引いて、それが光った。
 優しくて、気品に溢れた紀子さんが、そんな淫らな真似をするわけがないことくらい、分かりすぎるほど、分かっているのだけれど、それでも紀子さんは、細かい泡の付いた蜜柑の房を、彼女の目下で阿呆のように口を開いて待つ、私の赤く濡れた舌のうえへ、そっとおいた。(実際、そのとき舌のうえに、蜜柑の房がおかれた。)その際に、紀子さんの指先が、一瞬だけ、舌の肉に触れたのを感じた。私は、口端を綻ばせながら口を閉じ、今度は味うように、しつこく、舌の先で蜜柑を転がして、舐めまわしながらそれを食べた。あとに残ったちいさい種は、噛み潰して飲み込んだ。
 そうして、なにも言われていないのに、嬉しくなってまた、口をあけた。
 ふふ、あなた、雛鳥みたいですよ、暗闇のなかから、悲しくなるほどうつくしい声が響いてきた。
「でもあんまり食べすぎて、お腹を壊しますよ」
 私は薄目をあけて、
「いいのです」
 そのとき、緩やかな風が入ってきて、布団から出た顔に触れた。
 紀子さんは、風の入ってきた方を見て、
「風鈴をつければ、きっと涼しく感じられますよ」
「はい」
「きっと、よくなりますからね」
「はい」
 

 ちりん、
 遠くの方で、風鈴の揺れた音が聞こえた気がした。

夏風邪

執筆の狙い

作者 のべたん。
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1950年代を想定して書きたかったのですが、いまは2026年なんですよね。それで苦し紛れに、金閣寺全焼の記事を出しました。昭和とか、いまより昔の時代を書くときに、読み手がストレスなく入っていける、よい方法あれば教えてほしいです。

あと、終盤で主人公の『私』が、頭のなかで妄想して自分を俯瞰して見てますが、必要でしたか? わたし個人の意見としては、主人公の身勝手さが出て良かったのかな、とは思ってるんですが。

その他、気になった所がありましたら、教えていただけると幸いです。

コメント

巻菱湖
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読ませていただきました。
「自分を俯瞰する」場面ですが、

>つめたく流れていった。
>一瞬だけ、舌の肉に触れたのを感じた。

これらは『私』側の感覚であって、

>嗜虐的な笑みを浮かべた紀子さんは、

これも紀子さんの背中越しに見定めることができるのかもしれませんが、やはり『私』側かと。要するに俯瞰するにしても中途半端に感じます。しかし私は俯瞰するならちゃんと俯瞰しろと言うつもりはないです。何故なら問題の本質は、この作中のアイデアが小説的にあまり面白く働いていないからです。端的に言うならば、視点の移動を伴うのならもっと面白くしてやってくれ、ということになります。

時代設定は必要あったのでしょうか?
「金閣寺」だけでは取ってつけたようで、むしろ浮いてしまいますので全体的に1950年代を醸し出す文体が必要になりますし、またその方法に関しては作者の個や腕の見せ所なので、安直な方法を取るよりももっと考えていく必要があるのだと私は思います。
総じて、このようなスケッチ様の小説にはもっと文学的野心が欲しいところです。

のべたん。
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巻菱湖 さん


感想ありがとうございます。

〉端的に言うならば、視点の移動を伴うのならもっと面白くしてやってくれ、ということになります。

面白くする、というのは私が考えなければいけないことですので、これから色々と学んでいこうと思います。
また、時代設定を1950年代にしたのは、庭のドアを開けたいこと、エアコンつけろよとツッコミが入るのを避けるためでしたが、安易な手を使ってしまったみたいです。

飼い猫ちゃりりん
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のべたん様。お久しぶりです。
まず率直な感想として、中々素晴らしい作品だと思いました。

60年代ならまだしも、50年代を感じさせるって、とても難しいですね。かなり年配の人じゃないと想像もつかない時代だから。
金閣寺消失も悪くないとは思うんです。ただ、その事件の影を、この作品全体に投影させるべきかと。じゃなきゃ「取ってつけた」作為になってしまう。

紀子さんの描写も、かなり踏み込んでいて、のべたん様の気迫を感じさせる。でも、ちょっとやり過ぎかな。

蜜柑の房の薄皮をやい歯で裂き、淫らな細糸が引くまま口に運ばれる。

くらいでどうですか?

他にも説明し過ぎな箇所が散見され、作品の雰囲気を壊している。
全部はあげませんよ。推敲すればわかることだから。

まず題名。『夏風邪』
これは題名からして「説明」になっている。正し過ぎる。正確な事実説明です。
飼い猫案としては、『夏の病』『夏のやまい』『熱病』です。雰囲気があって想像をくすぐるでしょ。

ああラスト。

>ちりん、
>遠くの方で、風鈴の揺れた音が聞こえた気がした。

これはあかん。せっかく演技は良かったのに、着地失敗。残念。最後はバシッと決めてください。
かと言って、代案も浮かばない。まだ削除の方がいいかな。
こう言うときに金閣寺を利用したらどうですか? 最後で回収。

もう一工夫すれば、すごく良い作品になりますよ。

偏差値45
KD059132064172.au-net.ne.jp

>1950年代を想定して書きたかったのですが、
>金閣寺全焼 1950年(昭和25年)7月2日
終戦が1945年(昭和20年)8月15日なのでおよそ五年後。
時代背景としては弱いかな。そもそもが現代人にとって金閣寺全焼を認識していも何時の出来事か
分かる人は少ないかもしれない。

むしろ、その時代を代表するようなアイテムであったり、
カルチャーが話題に出ないとその時代の雰囲気は醸し出せない気がします。

あとは推測の領域かな。
>父と母は、勤め先の病院へ行ってしまい、お手伝いのおキヌさんがひとり
裕福な家庭なのだろう。

>出掛けに父が枕元に置いていった朝刊
新聞を読める程度の年齢。この当時の新聞はやや難しいので、高校生以上なのかな。

>二日前、わたしと紀子さんは、連れだって、市民プールにいったのだ。
紀子さんの年齢は分からないけれど、比較的に近い存在なのかもしれない。
18〜25歳前後かな。

で、一つ問題に感じるのは、主人公と紀子さんの人間関係だね。
親戚なのか。近所のお姉さんなのか。学校の先輩かもしれない。
そういう人間関係が明確に分からないと、言葉の意味が正確に伝わらないこともあるね。
個人的には、そこが不満かな。

飼い猫ちゃりりん
118-105-118-90.area1a.commufa.jp

のべたん様。金閣寺をふたりの思い出の場所にしちゃえば良くないですか。
紀子さんと主人公は恋人未満友達以上の関係に描けばいい。
例えば、偶然金閣寺でデートしちゃう設定。紀子さんと、紀子さんのお母様と、主人公の三人で散策する予定だったけど、お母様が当日風邪をひいて、ふたりだけのデートになる。
ふたりにとって金閣寺は思い出の場所になる。しかし金閣寺は消失し、ふたりは心の傷を共有することになる。互いの傷を舐め合い、ほのかな恋心が。
それで最後の風鈴と金閣寺の鳳凰を重ねて描写すればどうですか?

夜の雨
sp160-249-17-12.nnk02.spmode.ne.jp

のべたん。さん「夏風邪」読みました。

美しい情景が目に浮かんでくる掌編でした。

>1950年代を想定して書きたかったのですが、いまは2026年なんですよね。それで苦し紛れに、金閣寺全焼の記事を出しました。昭和とか、いまより昔の時代を書くときに、読み手がストレスなく入っていける、よい方法あれば教えてほしいです。<
で、「金閣寺全焼」の新聞記事が御作にあるインパクトを与えているのですが。
ただ「1950年」の印象付けにほかならず、主人公とは関連付けられていません。
新聞記事だけだと、あまり意味はなかったかと。

御作自体は主人公が夏風邪で寝込んでいる風景に「紀子さん」という美しい女性をからめて描いているので、それはそれで主人公の気恥ずかしさみたいなものがあり、面白く読めるのですが、金閣寺全焼のエピソードがもったいないなぁと思いました。
何かしら金閣寺と主人公や紀子さんと関連付けると御作に重みが出るのでは。
まあ、掌編に近い作品に金閣寺全焼との関連付けで重みを出すのも、きついかもしれませんが。

「金閣寺全焼」を調べてみると、放火犯は、ほかの寺の住職だった男の21歳の息子のなのですよね。母親は息子の放火を知り自殺しています。

たとえば金閣寺のエピソードとして主人公が直前に見学に行っていたとか。
その時に「林」(放火犯の徒弟僧)を見かけて話をしていたというようなエピソードを挟み込んでも面白いかも。

で、御作に戻すと。
主人公が寝込んでいて紀子が見舞いに来て、横に座って蜜柑を食べさす立ち振る舞いとかが、なかなか絵になる描写でよかったです。
かなり丁重に描かれていたので。
少し官能の部分があったのもよかったですかね。

作品全体では完成度の高い掌編だったのでは。


>あと、終盤で主人公の『私』が、頭のなかで妄想して自分を俯瞰して見てますが、必要でしたか? わたし個人の意見としては、主人公の身勝手さが出て良かったのかな、とは思ってるんですが。<
違和感はなかったですね。

 >紀子さんの背中越しに見た自分の面を想像してみる。<
これから後ですよね。
官能部分もあり、主人公の気持ちがよく伝わってきましたが。

>徒弟僧である林 承賢(当時21歳)が、国宝の舎利殿(金閣)に放火し、同建築および、同じく国宝の足利義満像を全焼させた<
この林 承賢と主人公が知り合いだったら、面白いなぁと思いましたが。

かたや金閣寺の放火犯でかたや夏風邪で紀子のような美人に見舞いに来てもらい蜜柑を口にいれて食べさせてもらっている男。
えらい違いだなと(笑)。


飼い猫ちゃりりんが、上で、
>のべたん様。金閣寺をふたりの思い出の場所にしちゃえば良くないですか。<
と、書いていますが、良いアイデアではありませんかね。


それでは創作を頑張ってください。

夜の雨
sp160-249-19-226.nnk02.spmode.ne.jp

飼い猫ちゃりりん様が、上で、
>のべたん様。金閣寺をふたりの思い出の場所にしちゃえば良くないですか。<
と、書いていますが、良いアイデアではありませんかね。

失礼しました「様」(敬称)が、抜けていました。

飼い猫ちゃりりん
118-105-118-90.area1a.commufa.jp

夜の雨様。私もよくやるので、気にしないでください。
試しにAIでサクッと書いて、私が清書してみました。


『熱病』

 夏風邪をひいた私は、世話がしやすいからと、普段は客間として使われている六畳の和室の中ほどに寝かされていた。
 障子と縁側の硝子戸は、涼しい空気を通すために開け放たれ、煌めく夏の日射しが庭の土を照らしている。白壁の前に並んだ朝顔の鉢は、数日前に父と母が入谷の市で買ってきたものだった。

 朝には瑞々しく開いていた濃紫の花は、昼過ぎのいま、息を詰めるように萎んでいる。生き物はみな熱を抱え、やがて冷めていく。私はそんな当たり前のことを、今更ながら思考の底に沈めた。

 枕元の朝刊に手を伸ばす。
『金閣寺全焼』
 その見出しを見た瞬間、赤い炎が金色の鳳凰を包み込む光景が、はっきりと脳裏に浮かんだ。だが続きを読もうとすると、文字がぼやけ、意味は掴めず、私は天井の木目へと視線を逃がした。

 金閣寺。

 春の終わり、紀子さんと、彼女のお母様と、三人で訪れるはずだった。けれど当日の朝、お母様が風邪をひき、起き上がれなくなり、私と紀子さんだけが、予定通り京都へ向かった。

 それは観光であると私の理性は言うが、心と体は従おうとしない。恋人と言うには早く、友人と言うには近すぎる、その宙吊りの距離が、春の空気のなかで、危うい均衡を保っていた。

 金色に輝く舎利殿の前で、紀子さんは、「きれいですね」と、ほとんど独り言のように言った。
 私は隣で頷いた。
 鳳凰は空を仰ぎ、私たちは並んで立っていた。ただそれだけの記憶が、いまも胸の奥に残っている。
 まだ春なのに、やけに暑い。気温のせいではないと、うすうす感づいていた。
「暑いですね」と言って汗を拭くと、紀子さんが、「サイダーが売っているわ」と言って、一本だけ買ってきた。
「最後の一本でした。どうぞ。お飲みになって」
「いえ、自分は結構です」
「なら半ぶんこしましょう」
 紀子さんは少し飲むと、瓶の口をそっとハンカチでふいた。
「どうぞ。お飲みになってください」
 私には口をつける勇気がなかった。
「どうか、しましたか?」
「こんなところを、知り合いに見られたら、どうしますか」
「構いませんわ。かえって面白い」
 朝顔のような笑顔だった。

 廊下の襖がかすかに鳴り、お手伝いのおキヌさんが顔を覗かせた。

「紀子さんがお見舞いに」

 その名を聞いた瞬間、胸の奥で別の熱が弾けた。脈が速まり、脳裏に血の音が響く。

 紀子さんは白いワンピースを着て、竹の編み籠を抱えていた。中には夏蜜柑と、小さな風鈴がひとつ入っている。畳の上を音もなく進み、私の枕元に腰を下ろした。

「お身体は」

「まだ、少し」

 紀子さんは黙って、私の額に手を当てた。
 ひんやりとした掌が触れた瞬間、熱を帯びた皮膚が、そこだけ輪郭を取り戻す。指先が、わずかに力を込め、私の熱を確かめるように留まる。

「高いです」

 その声が近い。
 私は目を閉じた。逃げる理由も、抗う気力も残っていなかった。

 額から離れた手は、絹のハンカチを取り出し、首筋へ、頬へと移る。拭うたび、皮膚の下に溜まった熱が、静かに揺すられる。私はされるがまま、身体の重みを布団に預けていた。

 ふいに、柑橘の匂いが鼻先を掠める。

「お蜜柑」

 紀子さんは籠から夏蜜柑を一つ取り出し、掌に載せた。蔕のついたそれを、ゆっくりと剥いていく。爪が薄皮に食い込み、香りが空気を満たす。

「喉、乾いているでしょう」

 私は口を開けた。
 房が舌の上に置かれる。歯で薄皮を裂くと、切れぬまま伸びた細い糸が、蜜柑と唇のあいだで微かに揺れた。酸味の強い果汁が一気に溢れ、喉の奥へと流れ落ちる。

 呼吸が乱れる。
 それを見下ろす視線を、私ははっきりと意識していた。

「もうひとつ、いかが」

 私は再び口を開けた。もはや子供だ。恥じらうという感覚が、熱の底に沈んでいた。

「雛鳥みたい」

 含み笑いの混じった声が、私の心をくすぐる。

 食べ終えると、紀子さんは立ち上がり、籠から風鈴を取り出した。

「さっき、これを見つけて。下げてあげようと思って」

 縁側へ出て、軒先に風鈴を結びつける。白い硝子の中に、短冊が揺れた。

 紀子さんが戻ってくると、ちょうど風が入り、澄んだ鈴の音が鳴った。

「涼しく感じますか」

「はい」

「きっと、よくなりますから」

 私は頷いた。
 焼け落ちた金色の鳳凰は、もう形を持たない。けれど音だけが、記憶だけが、こうして胸の奥で揺れている。

「紀子さん」
「はい」
「金閣寺が、燃えてしまったんです」
「構いませんわ。思い出は消えませんから」
 そう言うと、紀子さんは私の胸にそっと手を当てた。その掌の下で心臓が震えていた。
 私は金閣の消滅を喜んでいた。あの日の金閣は、永遠に二人だけの秘密になった。風鈴は鳴る。金色の伽藍を弔うように。

飼い猫ちゃりりん
118-105-118-90.area1a.commufa.jp

あ、紀子さんが抜けた。やり直し。

『熱病』

 夏風邪をひいた私は、世話がしやすいからと、普段は客間として使われている六畳の和室の中ほどに寝かされていた。
 障子と縁側の硝子戸は、涼しい空気を通すために開け放たれ、煌めく夏の日射しが庭の土を照らしている。白壁の前に並んだ朝顔の鉢は、数日前に父と母が入谷の市で買ってきたものだった。

 朝には瑞々しく開いていた濃紫の花は、昼過ぎのいま、息を詰めるように萎んでいる。生き物はみな熱を抱え、やがて冷めていく。私はそんな当たり前のことを、今更ながら思考の底に沈めた。

 枕元の朝刊に手を伸ばす。
『金閣寺全焼』
 その見出しを見た瞬間、赤い炎が金色の鳳凰を包み込む光景が、はっきりと脳裏に浮かんだ。だが続きを読もうとすると、文字はほどけ、意味は掴めず、私は天井の黒い木目へと視線を逃がした。

 金閣寺。

 春の終わり、紀子さんと、彼女のお母様と、三人で訪れるはずだった。けれど当日の朝、お母様が風邪をひき、起き上がれなくなり、私たち二人だけが、予定通り京都へ向かった。

 それは観光であると私の理性は言うが、心と体は従おうとしない。恋人と言うには早く、友人と言うには近すぎる、その宙吊りの距離が、春の空気のなかで、危うい均衡を保っていた。

 金色に輝く舎利殿の前で、紀子さんは、「きれいですね」と、ほとんど独り言のように言った。
 私は隣で頷いた。
 鳳凰は空を仰ぎ、私たちは並んで立っていた。ただそれだけの記憶が、いまも胸の奥に残っている。
 まだ春なのに、やけに暑い。気温のせいではないと、うすうす感づいていた。
「暑いですね」と言って汗を拭くと、紀子さんが、「サイダーが売っているわ」と言って、一本だけ買ってきた。
「最後の一本でした。どうぞ。お飲みになって」
「いえ、自分は結構です」
「なら半ぶんこしましょう」
紀子さんは少し飲むと、瓶の口をそっとハンカチでふいた。
「どうぞ。お飲みになってください」
 私には口をつける勇気がなかった。
「どうか、しましたか?」
「こんなところを、知り合いに見られたら、どうしますか」
「構いませんわ。かえって面白い」
 朝顔のような笑顔だった。

 廊下の襖がかすかに鳴り、お手伝いのおキヌさんが顔を覗かせた。

「紀子さんがお見舞いに」

 その名を聞いた瞬間、胸の奥で別の熱が弾けた。脈が速まり、脳裏に血の音が響く。

 紀子さんは白いワンピースを着て、竹の編み籠を抱えていた。中には夏蜜柑と、小さな風鈴がひとつ入っている。畳の上を音もなく進み、私の枕元に腰を下ろした。

「お身体は」

「まだ、少し」

 紀子さんは黙って、私の額に手を当てた。
 ひんやりとした掌が触れた瞬間、熱を帯びた皮膚が、そこだけ輪郭を取り戻す。指先が、わずかに力を込め、私の熱を確かめるように留まる。

「高いです」

 その声が近い。
 私は目を閉じた。逃げる理由も、抗う気力も残っていなかった。

 額から離れた手は、絹のハンカチを取り出し、首筋へ、頬へと移る。拭うたび、皮膚の下に溜まった熱が、静かに揺すられる。私はされるがまま、身体の重みを布団に預けていた。

 ふいに、柑橘の匂いが鼻先を掠める。

「お蜜柑」

 紀子さんは籠から夏蜜柑を一つ取り出し、掌に載せた。蔕のついたそれを、ゆっくりと剥いていく。爪が薄皮に食い込み、香りが空気を満たす。

「喉、乾いているでしょう」

 私は口を開けた。房が舌の上に置かれるを待ち焦がれて。
 紀子さんが歯で薄皮を裂くと、切れぬまま伸びた細い糸が、蜜柑と唇のあいだで微かに揺れた。酸味の強い果汁が一気に溢れ、喉の奥へと流れ落ちる。

 呼吸が乱れる。
 それを見下ろす視線を、私ははっきりと意識していた。

「もうひとつ、いかが」

 私は再び口を開けた。もはや子供だ。恥じらうという感覚が、熱の底に沈んでいた。

「雛鳥みたい」

 含み笑いの混じった声が、私の心をくすぐる。

 食べ終えると、紀子さんは立ち上がり、籠から風鈴を取り出した。

「さっき、これを見つけて。下げてあげようと思って」

 縁側へ出て、軒先に風鈴を結びつける。白い硝子の中に、短冊が揺れた。

 紀子さんが戻ってくると、ちょうど風が入り、澄んだ鈴の音が鳴った。

「涼しく感じますか」

「はい」

「きっと、よくなりますから」

 私は頷いた。
 焼け落ちた金色の鳳凰は、もう形を持たない。けれど音だけが、記憶だけが、こうして胸の奥で揺れている。

「紀子さん」
「はい」
「金閣寺が、燃えてしまったんです」
「構いませんわ。思い出は消えませんから」
 そう言うと、紀子さんは私の胸にそっと手を当てた。その掌の下で心臓が震えていた。
 私は金閣の消滅を喜んでいた。あの日の金閣は、永遠に二人だけの秘密になったのだ。
 風鈴が鳴った。金色の伽藍を弔うように。

浮離
KD182249022074.au-net.ne.jp

1950年代も金閣寺も個人的にはどうでもよくて、もっと肝心な部分で問題を抱えたもののような気がしてなかなかにストレスの多い読書でした。

年代問題もディテールも、なにより表記なり文体なりにもその手口とでも言いますか、つまりはわからないことはないしその上ですべてが模倣丸出しであることを承知の上で丸出しに留めて然るべきとして振る舞って、例えば雰囲気だとか、想定を預けるのって言い方悪いかもしれないですけどカラオケで高評価を競うやつみたいっていうか、むしろ素人の嗜みとしては上等なのかもしれないですけど、同じく素人の嗜みとしてずいぶん飛距離のないことをわざわざやりたがるものだと思わないでもないですし、真に受けて付き合うことがマナーなり態度みたいなことで穏便な嗜みに耽るか有り難がられたいらしい姑息な読み手どもには退屈しか思いつけない気がしてしまいますよね相変わらずとして当たり前として。

問題は、年代という舞台なんですか?
それがないと表現にふさわしくないなり、お門違いな有り様になりかねない、ということなんですか?

個人的にはそんな建前みたいなこと以前に、この語り手こそいつどこでなにを語ってるんですか? ってそんな違和感ばかりで少しも真面目に付き合う気分にさせてもらえなかった気がするんですね。
嗜みとして下手ほどの書き手ではないはずなので、承知の上で書かれている部分もわかるんですけど、その上でわかってないことも明らかなことをわかりたくないらしく下手くそのマナーだか礼儀だか知らないですけどそんなもんに知ったふう扱いされて嬉しいならこの程度からその次の景色でも目論見でも好きに眺めたらいいと思うんですよね。

絶対に上手くならないですけど。


このお話は妄想に耽る変態の話のはずなんですけど、あたしにはただ無自覚なだけのまぬけの戯言に読めて仕方がないんですよね。
酷いこと言ってしまうと、年代なり想定問題ですか? それって、まぬけを耽美とかに化かしたいための設定だとか、なんなら小手先の言い訳でしかない、っていうのは悪口ではなくて書き手自身がその程度として相応しく書き損じた、企みに堕ちた証左でしかないはず、そう見えて当たり前ってことでしかないので勘違いしないで欲しいんですよね。

なに言ってるかわからないのは馬鹿な読み手どもだけとして、書き手にはわからないはずないと思うんですよ。
わかっているつもりとして、目を閉じた私を眺める私、っていう手っ取り早い手口を企んだ、効果的な手口に思えたことくらいまともな読み手ならわからないはずはないと思うし、もう一歩進めればそれがないと書けない程度、その程度の俯瞰なり自覚の上に立つ筆力ということくらい当たり前にわかる書き振りのはずかと思うんですよね。

耽美な変態をただのまぬけに書き落とすも真に受けて読み過ごすも似た程度のやり取りでしかない有り様にははっきり言ってあくび出ますし、素人の嗜みとして許容することなんて簡単ですけど、素人なりの当たり前程度の観察を述べるだけのことを癇癪甚だしく批判したがるたかが無知のまぬけたかがど下手くそどもに付き合わされる謂れはないですよね実際。
どっかで下手と腰抜けとたかがほっかむりの恥知らずがじめじめとなんか言ってますけど。


この語り手はいつどこでなにを語る何者なんですか。


まぬけに仕立て上げられた語り手の"私"のせいで、耽美に昇華するはずの"私"を台無しにされる、それってキャラクターっていうただの不幸でしかないと思うんですよ。
恥じらいの様を相応しく昇華して気取らせるはずが、ただの自慰行為みたいに押し着せられる有り様ははっきりとむごいし、金閣寺に舞台設定を丸投げ出来る気がする程度にはキャラクターにも丸投げの働きを求めたような杜撰さばかりが目につく気がします。

厳しい言い方をさせるのはこのサイトのまぬけさ故のことでしかないですし、たかがバランス係くらいとしか思ってないので書き手のせいでも見下してるわけでもないので馬鹿な恨みとか思い付きたがることはなるべくなら避けて欲しい気はしてます。


改稿以前に書きたいことをまともに書くための観察力が明らかに足りない気がします。
頑張ってください。

飼い猫ちゃりりん
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のべたん様。しつこくてごめん。

『熱病』

 夏風邪をひいた私は、世話がしやすいからと、普段は客間として使われている六畳の和室に寝かされていた。
 障子と縁側の硝子戸は、涼しい空気を通すために開け放たれ、煌めく日射しが庭の土を照らしている。白壁の前に並んだ朝顔の鉢は、数日前に父と母が入谷の市で買ってきたものだ。

 朝に開いた紫の花は、昼過ぎのいま、意気消沈したかのように萎んでいる。生き物はみな熱を抱え、やがて冷めていく。そんな当たり前のことが、今更ながら感慨深い。
 なぜ朝顔は美しいのか。そこに芸術の奥義があるかもしれないと色めいた。答えは「種の保存」と知り、ため息が出た。虫を誘き寄せ、花粉を撒き散らす美だ。

 父が置いていった枕元の朝刊に手を伸ばす。
『金閣寺全焼』
 その見出しを見た瞬間、赤い炎が金色の鳳凰を包み込む光景が、はっきりと目に浮かんだ。だが続きを読もうとすると、文字はぼやけ、意味は掴めず、私は天井の黒い木目へと視線は彷徨う。

 金閣寺。

 春の終わり、紀子さんと、彼女のお母様と、三人で訪れるはずだった。けれど当日の朝、お母様が風邪をひき、起き上がれなくなり、私と紀子さんだけで京都へ向かった。

 それは観光であると理性は言うが、心と体が納得しない。恋人と言うには早く、友人と言うには近すぎる、その宙吊りの距離が、春の空気のなかで、危うい均衡を保っていた。

 金色に輝く舎利殿の前で、紀子さんは、「きれいですね」と、ほとんど独り言のように言った。
 私は隣で頷いた。
 鳳凰は空を仰ぎ、私たちは並んで立っていた。ただそれだけの記憶が、いまも胸の奥に残っている。
 まだ春なのに、やけに暑い。気温のせいではないと、うすうす感づいていた。
「暑いですね」と言って汗を拭くと、紀子さんが、「サイダーが売っているわ」と言って、一本だけ買ってきた。
「最後の一本でした。どうぞ。お飲みになって」
「いえ、自分は結構です」
「なら半ぶんこしましょう」
 紀子さんは少し飲むと、瓶の口をそっとハンカチでふいた。
「どうぞ」
 口をつける勇気がなかった。
「どうかしましたか?」
「こんなところを、知り合いに見られたら、どうしますか」
「構いませんわ。かえって面白い」
 朝顔のような笑顔だった。
「紀子さん。なぜ花は美しいのか、わかりますか」
「急にどうしたんですか」
「紀子さんの考えが知りたくて」
 違う。紀子さんを知りたかったのだ。
「そんなことを、女に聞くもんじゃありませんわ」
 また朝顔のような笑顔。紀子さんは大人。自分はけつの青い少年だった。熱くなった顔を、鳳凰に向けて誤魔化した。

 廊下の襖がかすかに鳴り、お手伝いのおキヌさんが顔を覗かせた。

「紀子さんがお見舞いに」

 その名を聞いた途端、脈が速まり、脳裏に血の音が響く。
 紀子さんは白いワンピースを着て、竹の編み籠を抱えていた。中には夏蜜柑と、小さな飾りのようなものが入っている。
 典子さんは畳の上を音もなく進み、私の枕元に腰を下ろした。

「お身体は」
「まだ少し」

 紀子さんは黙って、私の額に手を当てた。
 ひんやりとした手が触れた瞬間、熱を帯びた皮膚が、そこだけ静けさ取り戻す。指先にわずかな力がこもり、熱を確かめるように留まる。

「高いです」

 凛とした声がまた涼しい。
 私は目を閉じた。逃げる理由も、抗う気力もなかった。

 額から離れた手は、絹のハンカチを取り出し、首筋へ、頬へと移る。拭うたび、皮膚に溜まった熱が、静かに消えていくようだ。私はされるがまま、身体を紀子さんに預けていた。

 ふいに、柑橘の匂いが鼻先を掠める。

「お蜜柑」

 紀子さんは籠から夏蜜柑を一つ取り出し、掌に載せた。蔕のついたそれを、ゆっくりと剥いていく。爪が黄色い皮に食い込み、香りが弾けるように広がる。

「喉、乾いているでしょう」

 私は阿呆のように口を開けた。房が舌に触れるを待ち焦がれて。
 紀子さんが歯で房の薄皮を裂くと、切れぬまま伸びた細糸が、蜜柑と唇のあいだで微かに揺れた。
 酸味の強い果汁が一気に溢れ、喉の奥へと流れ落ちる。

 乱れる呼吸を見下ろす視線を、私ははっきりと意識していた。

「もうひとつ、いかが」

 私は再び口を開けた。もはや恥じらいを放棄していた。紀子さんの手が運ぶ果肉。それだけを渇望していた。

「雛鳥みたい」

 含み笑いの混じった声が、私の心をくすぐる。
 食べ終えると、紀子さんは立ち上がり、籠から風鈴を取り出した。

「さっき、これを見つけて。下げてあげようと思って」

 縁側へ出て、軒先に風鈴を結びつける。白い硝子の中に、短冊が揺れた。
 紀子さんが戻ってくると、ちょうど風が入り、澄んだ鈴の音が鳴った。

「涼しく感じますか」
「はい」
「きっと、よくなりますわ」

 私は頷いた。
 焼け落ちた金色の鳳凰は、もう形を持たない。けれど音だけが、記憶だけが、胸の奥で揺れていた

「紀子さん」
「はい」
「金閣寺が燃えてしまったんです」
「知っています。でも、思い出は消えませんから」
 そう言うと、紀子さんは私の胸にそっと手を置いた。その掌の下で心臓が震えた。
 私は金閣の消滅を密かに喜んでいた。あの日の金閣は、永遠の聖域になった。何者にも汚されない、ふたりだけの世界。
 厳かに風鈴が鳴る。金色の伽藍を弔うように。

のべたん。
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飼い猫ちゃりりん さん

お久しぶりです。
感想ありがとうございます。
金閣寺の取ってつけた感、そうだと思いました。
時代を説明するために、アイテムのように使ってしまった浅はかさというか、手抜き感が出てしまったと思います。
色々と新しい案を頂きましたので、参考にして、より良いものへ、作品作りの助けにしようと思います。ありがとうございました。

のべたん。
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偏差値45 さん

感想ありがとうございます。

主人公と紀子さんの人間関係が分からなかった、というご指摘。
作者の頭のなかでも、二人の関係性は曖昧なもので、ただ一方的に主人公が好いている、すこし年の離れた女性を想定していました。

こちらが説明しなければ、関係性は読み手は想像するしかないです。
けれどもあまりに説明しすぎると、私の場合、どうしても不自然な感じになってしまい、難しい所です……。

ご指摘いただいた点、自分のなかで色々試してみます。

ありがとうございました。

のべたん。
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夜の雨 さん

いつも感想ありがとうございます。
金閣寺を物語に絡めるというアドバイスは、そうだと思います。手直しをしたいと思います。

ありがとうございました。

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