永遠のブレン
とおいとおい昔ブレン・ミュアエは、永遠に歳をとらない少女だったらしい。そしていまでは、すがたの無い少女だ。
それは夕暮れ、子ども部屋に一人きりでいるときに視界のはじぎりぎりに居るおぼろげな黒い影としてあらわれる。どれだけ工夫しても鏡ごしのじしんの背中を見ることが叶わないように、どんなにサッとすばやく振り向いてもその容貌を視界にいれることは出来ない。
かくして幼いぼくにとってミュアエは恰好のあそび相手となる。両親はそんなぼくのことを『空想のお友だちと隠れんぼをしているひとり遊びの幼児』という牧歌てきな風景として捉えていた。ミュアエはぼくのみならず他の誰のめにも映ったりはしなかったのだ。
しかしただ声だけが明瞭に聞こえてくる。『あの魔女が、魔女が。腕を捥いでいきやがって。でも、つぎはこうはいかない。血まみれだ』などと物騒な呪詛を繰り返している。
だけど幼いぼくにはまだその意味が理解できず「ちまみれ、ちまみれ」とくちに捕まえたその語尾を繰りごとなどしていた。いったいどこでそんなコトバを憶えてきたのかと両親が目をまるくする。そのわきで
『そうだいいぞいいぞ、血みどろだ。』背後からくろいもやのような少女がそう嬉しそうに囃したててぼくのあたまを撫ぜつける。『いいか。次はかならずやり返してやる。あいつが悍ましい暴力で根こそぎにした血も腕も魂のかけらのその瑣末なひと粒ですら、すべて利子つきで贖わせる』
りし、ってなあに?
『復讐というものは時を経たからといって薄れてきえるものではない。むしろより深く濃く運命が煮詰まってゆくわけさ』ミュアエがそう、ぼくの首もととひたいに指で触れるのでなんだかぼくは肌がちりちりとした。
『まあ、あたしを殺しきれなかったのが魔女の運の尽きということだ。さあ来たるべき取立の目録でもかぞえあげるか。あたしたちから奪いさられてきた凡てをこれからおまえに教えてやろう。』
学校がえり、公園で友だちとスイッチのローカル通信であつもりをあそんでから家にかえるとやはりあの人がいる。あ、すんません。そう小声で食卓についたオジサンは夕食のあいだあたしたちとひと言も喋らない。ずっと子ども部屋に住んでいるが、家族ではない。それであたしはもう高学年になるというのにじぶんの自室がないんだ。
オジサンは食事が終わるとそそくさと二階の子供部屋にもどってゆく。そのあとでお父さんやお母さんやあたしはお風呂に入るのだけど、オジサンがお風呂にはいるところを見たことがない。べつにクサいわけではないのであたしがもう寝たあと入っているのだろうか。
子供部屋のある二階には洗面所とトイレもあるため平日は食卓いがいはほとんど接点が無いのだけど、夏休みで両親が不在の日とかで、それも友だちと遊べない雨の日なんかには二人きりで過ごすこともあり、しょうじき少し気まずい。
あるとき私はお風呂のあと、オジサンのいないリビングで両親にこう問いかけた。
ねえなんでオジサン大きいのにずっと子ども部屋に住んでいるの? いつになったら出てくの?
「オジじゃなくて従兄弟なんよ。オマエとたしょう歳は離れてはおるけどね。」父が言う。「それに、この家や土地はカイくんのもんやからね」
なんで? あたしはさらにそう問う。
「なんで、って。これは兄さんの建てた土地やからーーそれに、見たら分かるやろ。カイ君が一人で生きるんはたいへんや。だからいっしょに暮らしとる。」父は、言葉を切って思案する。
「ええかマキ、いまみたいなコト決してカイくんに話したら駄目やで。この辺りで土地持ち一戸建てに住まうなんて普通の稼ぎじゃ土台ムリなんやからな」
そういえば、相続税とかだいじょうぶだったのかしらね? 母がそう、良く分からないことを言う。
「カイくんの未成年者控除と障害者控除で相殺済やから心配せんでええ。まったく不幸な事故やったけど、このことだけはまったく悪いことでもなかったんやな。て」
父はそう無表情のままビールをあおった。
夏休みまえの終業式は午前でおわり、家にかえってももちろんお父さんやお母さんはいない。玄関の鍵を閉めてただいま、と口にしても、もちろんどこからも返事はない。だけど階段の上にある子供部屋にはあのオジサンがいる。あたしの知るかぎりオジサンがこの家から出ることはない。
家にかえってから少ししてアムステルダムがえりのハト時計が午後一時をくるっぽう、くるっぽう、と告げるとオジサンが降りてきてレタス炒飯とブロッコリーの茎でなんかヘンなザーサイぽいものを作る。まあけっこう美味しい。
「食べたら遊びに行く」
あたしだってもう高学年なので口の利きかたを意識するけれど年の離れた親戚に『行くよ』でいいのか『行きます』なべきなのか、よく分からず語尾をぼかすとどこかぶっきらぼうな響きになった。まあそんな気にしなくてもいいか、と玄関でクツをつっかける。明日からはいよいよ夏休みなのだから。
従姉妹の夏休み初日はさっそく台風らしい。可哀想にどこにも遊びにいけないし。両親の仕事は台風でも休みにはならない。むしろ遅刻をしないようにいつもより早めに出かけてしまった。
「ねえオジサンさ。」朝食のサラダをフォークのさきでぐじぐじしながらマキは言う。
「オジサンがうちから出てけ、って言ったら私たちは出ていかなきゃならないの? ソウゾクとかコウジョってなに?」
いったいだれに、何を聞いたの。
「どうして大人なのに働かないの?」
これを見ればわかると思うけど、そう左腕のぺたんと垂れた、夏だというのに七部丈のティーシャツの袖をしめす。
「あんなに上手に片手でタマゴを割ってごはんを作れるのに?」
もしもぼくが就職活動ーー仕事を探しはじめたならきっと、お父さんとお母さんはとても不安になると思うよ。
「でも働いてないのにお金もらっているのは卑怯だとおもう。」
年金のこと? しかしきみだって働いていないのにお小遣いをもらっているだろう。
「でもオジサンはおとなでしょ」そうもういちど問いかけて、「ねえ車って運転できるの?」とマキはテレビを指さす。
画面の向こうでは雨ガッパの裾をほぼ水平にはためかせたアナウンサーがばたばたと、あざといほどに風でかき消された声で実況中継をしている。その背後では街路樹がわんさと揺れ、あたまを手で覆ったひとが足ばやに過ぎさってゆく。
「あたしもあんなふうに、街に出て駆けまわりたい。あとぜったい行くなって言われてるそん川のちかくまでいってそのスゴいのを見てみたい。」
それは、いいね。ぼくはうなずく。はじめて免許を取ろうと思ったよ。すなおにいった。テレビの向こうにある景色に行ってみたいという願望が、ぼくにはもうなかった。それはあの日いらいもう絵画や映画の景色を見るようなもので、この現実いがいの場所にじぶんが立っていたらという想像すら抱くことが出来なかった。
朝食後。一日めくらいは予定表どおりにやっておこう、とあたしはリビングで宿題をやる。だけどそとの景色が気になってしかたがない。昼なのに黒々と渦を巻く雨雲と薄ぐらい景色がモノトーンの水墨画みたいだし。ふ、と鎮まったかと思うと出し抜けに吹き荒れる強風に掻き乱れる街の景色がカーテンのあいだから否応なしに目を惹きつけるのだ。
昼になると降りてきたオジサンがインスタントのカップ麺や焼きそばの袋をテーブルにあける。
めんどくさくなったから。どれかで良い?
でもうちの親、こーいうの食べさせてくれないんだ。
じゃあちょうど良いだろう。
え?
さっきのはなしだと、きみは親や大人にするなと言われていることがやりたいんだろうから。
ああ、そうかじゃあーーと選んだ焼きそばは付属の芥子マヨネーズをかけるとこれが暴力てきな食べごごちで、旨みも塩味もとにかく濃くてあたしはコーラをがぶがぶと飲んだ。
ーーよく食べるの? そう訊くと、
ひとの居ない昼とか夜とか、たまに食べたくなったときに。そう応えるオジサンはカップ麺を啜りながらその合間に缶ビールをかたむけている。
昼間からお酒飲むって、無職がやっていいの?
良いかどうかは分からないけど、こうして台風の昼間に飲むビールはさいこうだ。きみも大人になったらそのとき試してみなよ。
お父さんとお母さんが、いなくてよかったね。
ああ、両親がいなくて良かったとおもえる時があることは健全な証拠だ。オジサンはそうまた、あたしには良くわからないコトを言った。
あとさあ、そろそろ自分のへや欲しいんだよねあたし。あたしが言うと「ごめんあの部屋を出るわけにはいかないんだ。外出、というか運転免許にはきょうみを持ったけどね」とオジサンが二階の子ども部屋にもどっていくのであたしはソファに寝転んでゲームをするのだけど『ネットはまだはやいから』とオンラインプレイのプランに入れてもらえていないので、すぐに飽きてそのまま寝てしまった。
翌日からは土日でお母さんとお父さんがいえに居たしそこから晴天がつづいて、翌週からは晴れでプール開放があったり友だちと遊んだりで、オジサンとの接点はほとんど無くなった。
ある朝すこし寝坊しておきるとお父さんとお母さんはもういない。かおを洗って食卓につくとオジサンがあたしの分のお茶碗をよそってくれている。あいかわらず片手しか無いのに器用なものだ。おかわりをしたらどうやって其れをやっているのかを見せてくれるんだろうか。
オジサンの野菜炒めは地味においしい。たかが野菜なのにいくらでもご飯を合わせられるかんじだ。
「だって、きみのために作っていないからね」オジサンは言う。「中華で重要なのはさいしょ、香辛料を油に馴染ませてゆくプロセスだ。」
うん。
「あとは味の素を憚らずにしっかり入れるあたりかな」
「あ、でもお母さんがゴウセイチョウミリョウは良くないって」
「なるほど」オジサンはおかずを箸にチューハイの缶へとくちを着ける。片手なのにその一連のどうさにはすこしも淀みがない。「我ながら、うまい。でもお母さんはおいしい料理よりもマキの未来をねがってるんだろう」
「お母さんはオジサンの健康も心配してたよ? いつも家に引きこもっているから、って」
「うん」
「オジサンが死んだらすごいソウゾクゼイがかかるんだってね」
「それはまあ、間違いないな」そう考えると、ぼくの命にもそれなりの価値があるんだなあ。つぶやいて、いつも猫背のオジサンがそう少し胸を張ったので、あたしは冷蔵庫からお代わりの缶をもってきて畳みかける。
ねえオジサンはカード持ってるっしょ。あたしのアカ、オンラインのプランに入れてくれない? フォートナイト、やりたーい!
「ぼくが言うのもなんだけど、無職の人間にたかるのはやめなよ」オジサンは言ってビールを啜る。「で、ゲーム。そんな、面白いの?」
わかんない。でもまえの登校日もみんながフォトナのコトいっぱい話してたんだ。『みんな』って具体てきに何人なんだ何割なんだとか、くだんないことは言わないでよね。
「そう。そんな面白いんだ。」
らしいよあとボイチャで話せるからさ、オンラインやれないあたしみたいな子のわるぐち言われてるんじゃ無いかって。
「それは怖いな。」
オンラインは怖いって、オジサンもそうやっておかあさんみたいなこと言うの? みんなけっこーやってんだよ?
「いや怖いのはネットじゃなく、て。ーーきみの預かり知らないところで友だちが人間関係を涵養させたり、讒言をしたりするかも知れないことに耐えられないんだよな。分かるよ」
よおく、わかんねーよっ! こどもをバカにしやがってっ!
「仲間はずれは怖いってことだ。」
まあ、そう。そうなのかな。
「わかった叔父さんにそう説明をしてみるよ。」
やめてこんな話で、気をかけさせたくない。
わかった、オジサンがうなづいて、「しかしぼくだってときにそうして勝手な心配をする。これからはもう少し注意するんだな。」
翌日、あつ森の天気予報をみるために起動したSwitchには数ヶ月はオンラインサービスに加入するに十分なポイントが入っている。選択は、あたしの両指にゆだねられていた。
まったくそれが親戚とはいえひと月あたり二百円ていどの恩義をかけられてしまったあたしの人生はこの先どうなってしまうのだろう。
そしてある朝お母さんとお父さんが死んでいた。相変わらず朝寝をしたあたしがリビングにいくと父さんはテーブルのわきに仰向けに転がり、母さんは食卓にかおを突っ伏していた。声も出せず過呼吸になったあたしが救急車を呼ぼうとアタフタしていると、「もう死んでいるよ」すぐ背後からオジサンがいって、それでようやく喉がとおったあたしは、長くながく長い悲鳴をあげた。
あなたが殺したの。無職っていじめられる暮らしに耐えきれなくて?
いやまさか、そもそも叔父さんと叔母さんはいちどもぼくのコトを「無職」だなんて、きみのように蔑んだりはしなかった。そんなのきみだけだよ。
じゃああたしへの復讐のためにその両親を殺したの?
「ざんねんながら」オジサンはいった。「きみのコトをおもしろい女の子だとは思うけれど憎むほどの重みはないかな。」そしてテーブルに突っ伏した母さんの肩ぐちをつかみ引き起こす。オムレツのケチャップで塗れた母さんのかおが仰向けになり天板のはじからダラリと手がぶら下がった。
あたしはもう声も立てられず、そのかわいそうな姿に胸が痛く。ただ涙が止まらない。
「やはり怪我をしているようには見えない」オジサンが言ってお母さんのこめかみを指さす。そこにはなにか、見知らぬ記号でかたどられたような緑いろの刻印が刻まれている。「たぶんこれが『照準』だ」
照準?
宇宙には超新星爆発や太陽表面からの高エネルギーなガンマ線バースト飛び交っているが、そのほとんどは地磁気にねじ曲げられて地表には届かない。けれど太陽公転軌道上にそれを収束してレーザー化するレンズ天体が多数配置されていて、対象となった『照準』の刻印されている人間の脳髄を即座に焼き切るんだ。いわゆる最後の審判が始まったということだ。
どうしたらいいの? あたしは母さんの死んだからだに取り縋る。その指さきがすでにつめたく冷えているのをどうしてもみとめられずに、それを両手でくるんで擦ってもんだ。再生をねがい愛おしむように、そのかつての温もりを記憶に焼きつけるように。
どうしようもないんだ。レンズ天体は日中に入った地表の人類の脳髄をことごとくほとんど光速で焼き尽くしていくので、長くて一日でその殲滅はほぼ完了する。
なんでそんなコトに? あたしが問うと。
「知るものか。」オジサンが平坦にそう言った。「ところできみはいま何歳だっけ?」
十一。
「じゃあぼくはきみより十年いじょうの時を過ごさなければ、その過程でまたああして左手を失わなければ、このポイントに辿り着けない。新しいはじまりまであと数時間か十数時間かわからないが、最期のときまでは好きに過ごさせてもらうよ。」
引きこもりのはずのオジサンはそうして玄関から外に出ていった。
あたしは母さんと父さんの死体といっしょの部屋のすみで終末のときを待った。そらからは可視光の域を超えたひかりが強く降りそそぎカーテンを貫いて、電離した大気の構成原子が荷電粒子として電磁場をかき乱す。チェレンコフ光のせいでまぶたを閉じてもなおせかいが白くひかって見えた。とうじのあたしはその原理については知るよしもなかったけれど、ほんとうにせかいが終わろうとしていることは理解した。
あたしは握りしめていた母さんの手をそっとテーブルのうえに置いて、二階にのぼり子ども部屋に入った。カーテンを開けると窓からの景色は赤く滲んでいた。またそらを見ると普段とはぎゃくに遠くなればなるほどモノが大きく見えているようで地平線ちかくで天上に伸び上がるビルのてっぺんを目で追ってしまい、その遠近感にくらくらしてあたしは尻もちをついてしまう。
「あのさきに事象の地平線がある。その奥には特異点があって空間が歪んでいるんだ。そこに向かって太陽が吸い込まれてすごい速度で遠ざかっているので、赤方偏移でそらがこんなにも赤くみえる。」
背後でオジサンがいう。いやそれはオジサンではなかった。話ぶりや口調が似ているだけでたぶん年はあたしと一緒くらいだし、うでも両方あった。
「つまりこの世のおわりだ。北欧の神話にあるように太陽をかいぶつが飲み込んでせかいがおわる。」
うそだ。
だって、太陽はひどくうす暗くなり輪郭を潰れた目玉焼きみたくぐちゃぐちゃにゆがめつつも、まだしっかりとそらにあった。大きさでいえばかつてよりもずっと大きく、そらの三分の一ほどをその像で満たしているようにみえる。
「あちらの遠ざかるスピードが早すぎるので相対論の効果で時間がほぼ止まって見えている。」オジサンであるかれが言った。「大きくみえるのは重力レンズのせいだ、言うなれば万華鏡の筒のさきに入っているような球体レンズのなかに、もうこちらも入っている。事象の地平線に飲み込まれるのも時間のもんだいだ。」
なんで、こんなことに。
何故ってきみが十一になる夏休みにこのカタストロフィが訪れるのが重力定数や光速度やプランク定数のように、この世の摂理のひとつなんだ。
秋に木の葉が色付くように、
冬に虫が死に絶えるように、
春に新芽が芽生えるように、
この年の夏に
こうして
いつも
2
あるときふと思いついて、手鏡をかおのまえにかざすとぼくの背後に立つそのすがたが詳らかになる。するとなるほど、少女にはたしかに左うでが無かった。そのうえかおが血みどろで、ガラスのようなつるつるの瞳と口もとから覗く欠けた前歯だけがひかりに瞬いている。
「ひどい」ぼくは思わずそう、声にこぼした。
すると鏡むこうの幽霊はそれにたしかに反応をした。「たしかにひどいよ。だけどそれは誰のせい?」言って「ほんとうに今回はこっぴどくやられたもんだ。」そうぼくの背後から肩越しに身を乗り出して、じぶんのすがたを手鏡を覗きこむようにするので、手にかまえる鏡の内がわは、その赤いかおと透明な眼差しでうまってしまう。振り向いてもやはり何にも見えないのに、耳もとには『すぅはあ』という吐息と、背中に暖かく柔やわとした肉のかんしょくまでも感じた。いまだ乾ききらない血のにおいも。
「いったいどうしてこんな有り様になっているのか。でもたぶんすこし、想像がついてるよね」見えない少女は言って、身をはなす。
おまえのせいさ。さきの経路ではあたしのコトことを途中から信じて呉れなかったからな、魔女の言うなりになって、あたしのことを無いものとした。物理てきな厚みのある寄生主をうしなった相対論的生命体なんて無力なもんさ。おまえから追い出されてマキのところに戻れたときにはもうボロボロでね。なにもできずに時間軸を最短距離でマイナス方向に逃げかえってきた。つまり、ぜんかいの収穫はゼロだ。
ごめんなさい。幼いぼくは、よくわからないけれどじしんの行いが他者をそのように傷つけたという事実にからだがふるえる。鏡をおろしてミュアエからかおを背けた。
いやあ、むしろこっちの問題だな。しばしあった後ミュアエはそう、すこしぼくのあたまに触れる。うまく教えることができなかった、もっと育ったときのおまえにあたしの実在をしんじさせることをだ。あたしたちはか細いそんざいだ。宿ぬしに観測されることで相互作用してもつれあい、そのもつれが持続するうちしかこのように干渉をしあえない。観測をやめさえすればおまえにとって全く縁もゆかりもない素粒子の波でしかないんだ。さいしょからアドバンテージはあちらにあった。いいか、憶えられそうなら憶えておけ。あたしとちがい、魔女は受肉している。肉の誘惑に引き摺られるなよ。
なんの話だか、まったく、わからない。
ああだから『憶えていられたら』で良いんだ。すがたの無い少女がのどの奥でくふり、と笑む。
あたしに姿があるようにみえるなら、それはまだおまえがあたしを見つめつづけているというじじつに他ならない。そうしてどのみち、やがておまえにはあたしのコトが見えなくなる。『消えるまでみていて』なんてねがいを口にできるほどツラのかわが厚くもない、つまりまあ、おまえがどこであたしのコトを見限ったとしてもおたがいさまさ。
あのぼくは、ミュアエのすがたをきちんと見たことなんてないけどーー
そうか、そうだったな。ミュアエがわらう。まああたしがこうやってわけの分からないグチを言いだしたときには、べつの『経路』のおまえを恨むんだな。
けいろ?
そうそ、たしか経路積分だろう? ありえる可能性のすべてを足し合わせて未来を運算している最中なんだ。おまえが生きるのはつねに、無限次元の積分をおこなっている永遠のなかのせつな。
やはりまるで、わからない。
まあ人間には不可能だ。でも、相対論的生命体であるあたしたちは熱力学てきエントロピーの増大則に縛られないからーー。ただやはり、時間対称性がわずかに破れているらしいのがやはり気になるよね。あたしはおまえとマキとの往路をくり返すうちに慎まやかに、ほんの僅かづつ変化しているらしい。けれどそれをじかくするコトはできない。
ねえさっきから出てくるそのマキ、ってだれ?
かわいそうな女さ。いままでの一度も十二まで生きれたこともないんだから。その理由がわかるかい?
もちろんそれを知るべくもないぼくはただ黙ることでミュアエにつづきをうながす。
ーーそうして十一のときに決まってあたしを殺すのは、たぶん子どもをつくれないように。そのときのあたしにはまだいつも、生理がきていないから。あいつらはなによりもあたしから生粋のブレン・ミュアエが産まれてくることをおそれている。
当時のぼくはまだ幼く彼女のいっているコトがわからなかった。女性が子どもを産むことについての知識がまだなかったのだ。なので何年かしてからもう一度ミュアエにその意味するところをたずねた。
なんでほんもののブレン・ミュアエが産まれちゃだめなの?
「意思が偏在化するから。ねえあたしほんとうは、こうしてあんたみたいな一人の個体に憑くんじゃあなくって、種ぜんたいにあまねく感染するために創られたの。」
きずの癒えるにつれて少女のしぐさは時折りどこか人間じみて、まるで同いどしくらいの子どもと話すような感覚になっていた。
「だけどまだあたしたちのいずれも、そのほんらいのレーゾンデートルにとおく及ばない。最終的にゴールに辿りつくのはどれか一つでいいわけ。だから宿命てきに争いあう。」
レーゾンデートルってなあに?
「存在意義ーーじぶんがなんのために存るのかを問う営為のこと」
わかった。でもなんでそうわざわざ、難しそうなコトバで言うの?
「おまえの所為だろ、おまえの!」
ミュアエはめずらしくそう気色ばむ。「いったい将来じぶんがどれだけ理屈っぽい人間になるのか、いまはとても想像がつかないだろうけどなあっ」でもまあそれは、そのような生きかたしか許されなかったのかもしれない。そうミュアエがだれかに問いかけるように語調をおとして口をつぐみ、ぼくはそうした時にはいつもそうするように、無言でミュアエのことばを待った。
「まあつまり、あたしたちはそうして争いあうように造られてんだよ。魔女はここ数千年来ヒトゲノムと同化をする戦略をとってきた。そのマーケットにあたしが喰い込むのがゆるせないワケね。」
歳をとることのない少女はそう人類もしくは地球のことを『市場』と言いはなったわけだが、その言動がいみするところはまだぼくには推しはかれない。ただなんとなく不穏な予感にのどの下がざわざわした。
ぼくは十歳になっていた。そのころにはミュアエはずいぶん回復して視界のはじの暗いもやもやや、鏡像としてのみではなく、ぼくの視界の中心にかなり近いところまで近づいていた。でもやはり、じかに焦点をあわすと消えてしまう。
ねえ、どうしてミュアエはぼくに見させてくれないの。
だってそんなにはっきり認識ーー観測されてしまったら波動関数がかんぜんに収束して『もつれ』が解けてしまう。
そうすると、どうなるの?
あたしたちはそれぞれに別個のそんざいになってしまうわけ。もう二度と話すこともできない。
そんな。いやだよ、ずっと一緒にいるのに。
わかっている。だからいつも向かい合わせにならないようにしているんだ。
でも、こうして視るのが鏡ごしならいいの? そうぼくは手鏡ごしの背後へとそう問いかける。鏡ごしに不可視のあいてと対話をするぼくのことを母親がものすごい目で見つめている。ごめん母さん。しかしそのころにはもう、ぼくは余人には見えないものが見えているのだと母はとうぜんにわかっていたろう。ぼくはいつも思うのだけれど、母さんはいちど切りの人生でよかった。ぼくが生きなおすたび苦しみをつみ重ねるひつようが無いのだから。
この宇宙ではパリティ対称性が破れているから、あたしの鏡像は正確には映らない。なのでこれもまた、量子状態を壊さないていどの弱測定にとどまるわけ。鏡むこうで少女が笑むが、まだ左のくちびるのはじが裂けているので、ちょっとこわい。
でもーーだからまあ良いんだってさ。つまり視線の交換があたしたちに及ぼすのは可塑てきな準静過程というやつでーーまったく、人間というのはヘンな理屈をかんがえつくもんだ。
よく分からない。
あんしんしてあたしもあたしもっ。そう言って背に身をよせて、ミュアエはきっと笑んだのだろう。けどぼくにはその仔細を見つめることができない。鏡ごしに見ることのできるのは肩ぐちにかかって揺れるその髪と裂けて歪んだ口もとだけだ。でもきっとぼくと同じくらいの年ごろの少女だってそのころにはあたりがついていた。十一か。それはきっと彼女が死んだときのままの姿なんだ。
そこからミュアエに教わったままのみらいがつづく。事故で家族と左うでを失い、ミュアエも消えて、入院して、長いリハビリを終えて、退院して、叔父夫妻と暮らしはじめて、夫妻にマキが産まれたのを契機にかつての住まいへと引っ越した。それはそれでながいときだ。しかしあらかじめ知っている出来ごとの連続なのですごく薄っぺらだ。なぜって思い返しても悩みも後悔も見あたらないのだから。金曜ロードショウの二時間のほうがまだ幾ばくかの厚みがある。
ミュアエはいつ帰ってくるのだろう。子ども部屋でずっと閉ざしぱなしのカーテンをのこった右ゆびで開けると陽光がみえる。
いや。もう帰ってこないのだろう。だってすべてを教えてくれた、やがてくる別れも。だけどそのあとの再会について彼女はなにも語らなかったのだから。
朝、腹部につよい衝撃を受けたぼくは生存本能に叩き起こされる。どんな災害が起きたのかと見わたせば夏布団のうえに一匹の少女が横倒しに埋もれている。ただ飛びこんだだけではこうはならないだろう。どうやら胴回し蹴りふうみに回転しながらボディプレスをしたらしい。
こういうのは、危ないからやめた方がいい、とぼくは肩口から身をおこす。
からだへの打撃でめざめた身体は口中がどこか血腥い。
「そっちがわるい。早起きだって言ったじゃないさ、きょうはっ」掛け布団にうつぶせでひじを付いた少女がいう。
ねえきみのお父さんとお母さんはさ。寝ぼけまなこでぼくが応じる
「うん。」
おまえに出来るだけ長生きして欲しいんだって。
「それ、なんだか遺言みたい」そうしてすん、としてしまった従姉妹のあたまに手をおく。
ごめん。へんな夢を視ただけだよ。
「ううん。家族が死ぬゆめって、視るよね。
それでほんとにお母さんとお父さん、きっとあたしよりも早く死んじゃうんだよね。
いつまでも死なないクスリが出来たらいいのに。」
それは、社会保障費が高騰するな。
「なんのはなし?」
なんでもない。身支度をすませてリビングに降りると「朝からコロッケ!」と従姉妹がうって返って狂乱している。だらだらに伸びた部屋着のシャツのうちがわから右のうなじを掻きながらなおも箸で好物をむさぼっている。
「だって、きょうは運動会でしょ?」叔母がそう、台所からこちらの食卓に視線をめぐらせる。「その作りすぎのぶん。のこりはお昼だからね。」と娘に言い聞かせるようにする。そして、
「はーい! お母さんまたねー」
と玄関をぬけて従姉妹がそとに駆けていく。
外は晴天。どうやらせかいはまだ終わらないらしい。
他のひとには見えないものが見えるというのはそれが子どもならべつだん珍しくもないんです。イマジナリィ・フレンド、空想のお友だち。診察室で医師は母親に向いてぼくについてをそう告げた。たぶん母親よりも年上だがまだ老人というほどでもない女性の医者だったと思う。
虚数をご存知ですか。
はあ、と母親が目をまるくする。それは文字どおり黒眼がぜんぶ露出するぐあいだった。
イマジナリィ・ナンバーというのですが、それを二乗するとマイナスの符号になるという、ご都合主義の産物です。もともとは総ての二次方程式に対応する解を与えるためだけに造られた仮定の概念だった。しかし後年にはその実在を疑うものはいなくなりました。ウソから出たマコトというやつですかね。
お母さんも大人の気をひきたくて、子どものころにたあいもない嘘をついたりはしませんでしたか。親から優しくされたいがためにお腹の痛いふりをしたり、ちょっとした苦痛に大げさに泣きさけんでみたりです。虚偽がバレているかいなかはともかくとして、あなたの感情はちゃんとご両親に響いたはず。
はあ。と母親が繰り返す。
どこまであたりならば作り話として演じきれるのか、害の無い嘘として看過されるのか、というのを周囲の反応から推し量りつつ社交性として身につけていくわけです。
だいじょうぶ、そうしてすべての親が昔は嘘のヘタな子どもだったのですから。私も、あなたも、その作法をわきまえることで斯うしてここまで生き延びてきたのだから。
つまりね。お子さんにそのミュアエという子が見えているかどうかというのは本題ではないんです。
「ですがブレンはみえません。すがたが無いから」ぼくはいいかげん、黙っていることにがまんできなくなってそう言った。しかし女医はぼくのほうを向こうともせず母にむけて「あらあら、結構設定が細かいんですね。微笑ましいなあ」とまがおでそう告げた。
けれどもうあなたにとっては、そうではない。お子さんのはなしをジョークとして受け取れなくなった、害意を向けられているような疑念が芽生えたのでお子さんを受診させたのでしょう。子どもはじぶんのことを検査して欲しいなんていい出しはしませんからね。まあ空想のおともだちーーイマジナリィ・フレンドはこのくらいの子どもにはあたりまえのものです。それが思春期のころにはもうたいていが、じぶんにしか見えないそれが居たことすら忘れてしまう。
いくつかお薬を出しておきますので、またすこし時期をおいてお越しくださいーー。女医がそう、電子カルテ端末への入力をおえる。
でも、ご迷惑では。この子のウソにおつき合い頂くのは。母がいう。
お気になさらず。医師はそういって柔和にぼくを見る、そしてひざのうえに握りしめたぼくの手の甲にすこしだけ触れて、母に向き直る。
「じつは私、ひと助けが趣味なんです」
思い出した。母がぼくのことをウソつきな子どもだと考えていたことを。死者を回想するなかでのそうした類の気づきはけっして心地よくはない。だって弁明の機会がもはやないから。母さんは、ぼくのことを最後まで信用してくれなかった。今さらどうしてそんな記憶が思い出されたかといえば、日記のなかに出てきたその近所の医院がまだ存続していることを知って訪れたからだ。
診察室に入るとお久しぶり、とキーボードを打っているようすの女医のせなかが出迎える。空想のお友だちはお元気? それとももうあちらに行ってしまったのかしら? そう椅子を回転させてこちらに向く。
それに応えようとして彼女をみて、ぼくはすこし止まってしまった。なぜなら彼女は十年ほどまえに会ったときの記憶よりずいぶんと若く見える。
その違和感を無視して看過しようと努めたがどうにも、隠しきれそうにない。なのでなるたけ穏当に、
「ご無沙汰です先生。すこし雰囲気かわりましたね」と言った。
彼女はぼくのかおを見てなにかを悟ったようにうなずいて「私は君の主治医ではない」と告げた。「あれは先代の院長ですよ」
「そうですか、先生とあんまりに似ていてびっくりしました」
もちろん似ている。親子だもの。
でもそれにしたってーー。ぼくは、久しぶりの人物と再会したような、その感触をどうにも拭いきれない。「ならさっき、なんで『久しぶり』だなんて。」
あーそれはね、医者は斜め上方に視線を向けて「ーーそう、小さかった頃のあなたに会ったことあるのよ。診療所、自宅に併設しているからね。あのころはいろんな人を観察するのが趣味で、待合室で本を読みながらよく患者さんを眺めていた」
「なんだか、イヤな医者ですね」
「同感ですね」医師が笑む。「だけどまだ医者じゃなかった。あのころの君ほどじゃないけど私もまだ若かったわけ」
本当だろうか? むかし母親といっしょにこの診療所の待合室にいたとき、そこに若い女性なんていただろうか。子どもやその付き添いの母親や老人ばかりだったように思う。それに、
「なぜ、当時のぼくの病状のコトまで知っているんですか。まだなにも話してないのに」
「電子カルテってのは便利なものでね。過去の診療記録をすぐに参照できる。きみが受付で保険証を出してからここに来るまでというのはその過去を知るのに十分なじかんです」
「その年でクリニックの院長ですか。すごいですね」隻腕の無職にはもう、それを羨むという発想すらなくすなおにそう告げた。
「べつに、親から継いだだけです」
「でも医者になれたんだからそれだけで普通じゃないですよ」
そうでもない。と女医は言った。それは個人経営のクリニックに産まれたものの義務に等しいです。
それ以外の人間が医者になるというゆめを抱いたところで努力を怠る理由は無数にあるでしょう。だけど私には選択肢がなかった。それは『夢』ではなく『義務』だからね。言って女医は電子カルテ端末を指さす。
こういった医療機器というものは高額で、とても親から子に相続できるものではない。なのでこの病院も敷地にある自宅も名目上は医療法人の所有物であるというていで、私は院長でありそこの理事長でもあるので親の残したそれを好きに運用することもできる。
しかしもしも、私が医者になれなかったらどうか。どこかから医師を雇い入れるしかない。賃金を払わなくてはならないし、私は医師資格のないお飾りの院長か事務長ということになり、法人の理事会でも非常に立場が不安定になる。もともと法的には病院も自宅も親や私の所有物ではないのだから、これはホームレスの危機です。というわけで勉強しない選択肢などなかった、もしあまりに頭のできが悪ければ、医者の婿でも取らされていただろうし。
女医はそう、どこか遠いばしょを眺めるようにして言った。
なんか、お医者さんもなかなかたいへんなんですね。
不幸なのはじぶんだけだという思い込みも子供の特権だ。
子どもじゃありませんよ、もう。
すまない、すまない。あの可愛らしい男の子の面影がどうしても抜けないんだよ。
わかってますよ。世なれていないせいで幼くみえるってことは、従姉妹にも言われるーー
従姉妹、か。彼女はそうあごを揺らし「その子のことをいちど診させてもらえませんか」と言った。「じつは幼いころのきみのMRI画像に家族性の病理が疑われる所見があったらしくてね。それを母はちょっと気にしていたみたいなんです。」そう女医はじろじろと、ぼくの身体を見わたす。
「まああなた自身は罹患しなかったみたいですがーー。ごくごく低い可能性ですが、かりにこれが従姉妹さんにも遺伝しており、またもし病原化するならば小児のころだから念のためにいちど疑っておいた方が良いかと。未発見であると二、三十代ころに致死的になるケースがおおいです。」
無意味だなあ、と思う。だって、マキはどうせそんなにながく生きられない。
「あの、どうでしょうか。どんなに低い確率でも当人や親はそのリスクにショックを受けるんじゃないかな」
「杞憂で終わるならいいじゃあないですか」女医がそうきょとんとしたかおをする。
ああまったく、どう言ったらわかってもらえるのか。
すると
(先生どうぞ笑いませんか?)とっくに死んだはずの母がとなりから医師にそう告げる。
この子ってばまだじぶんにだけ見える空想の友だちがいるって言い張るんです。無遠慮にそんなして言うのでぼくは羞恥でほおが熱くなった。母さんは十年もまえに死んでしまったので、ぼくのことをまだ幼いこどもと思っているんだ。すっかり動転したぼくはとりあえずくちを動かした「教養のないものが医者をきらうのは死がこわいからです。観ないこと考えないことでそれをわすれてしまうほか遣り口をしらないか ら。そんな莫迦な凡夫にとってはね、先生。医者というのは死神にひとしい」
「死がこわいことを、笑いやしませんよ。それにだれに漏らしたりもしません。守秘義務がありますから」きまじめに女医が応える。となりを見るがもちろん死んだ母はもういない。
「予約はいつにしますか」カルテになにがしかを入力しながら女医が言う。「こんな小さなクリニックですが時間や曜日によっては混みますから」
「だから、従姉妹なら連れてきませんよ」
「いや、あなたのほうですよ」女医は向きなおり「じぶんに治療が必要なことはご自身がいちばん理解されているはずです」
「わかりました。そうまでして会いたいなら従姉妹にはてきとうに理由を言いますから、ただ場所は、病院じゃないどこかで良いですかね」
女医はすこし黙ってじ、とこちらを見つめたあと「わかりました」と電子カルテに向いて背を向けた。
「あとね、不思議だな、とおもって。カルテに書かれていないハズの左腕について、先生は触れないんだ」
すると振り向かない儘のせなかで女医が言う。「まあ、他人はあなたが思うより存外に気にしないものですよ」
※
けっきょくは『人よりたしょう変わってても気にするな』っていうことね。
なんどめかの診察のあと、ぼくの手をひき診療所からの家路をあゆみながら母はそう独りごちた。
うん。
まあ医者になるなんてひとは随分と変わっているんでしょ。だってあのひと「だれかのコトを救いたい」だなんて。診察室ではずっと強ばっていた口もとがくふり、とほどけて蔑んだ笑みになる。ほんとうは母さんは感情のゆたかな女性なのだと、もちろんぼくはそれを理解していた、けれどその事実を知っているものはきっとそう多くはない。
そして母のあてはまったく外れたということになる。母はぼくが虚言ではなく真実を預言しているのだと言ってくれる医者をずっと探していた。そしてもろもろの検査を済ませたあと、あながちお子さんはウソをついているとは限らないのかも知れない、と女医はそう告げたのだ。実のところほんとうは母さんはずっと、じぶんとぼくのコトをきちんと否定してくれる専門家をもとめていたのに。それでぼくらはもう、戻れなくなってしまった。
なにがそんなにおかしいの? そうやって嬉しそうにわらう母さんに尋ねると、
だってそりゃああの人、普通はああした子どもの言い分を大人は信じたりはしないものさ。「たぶんいい人だろうとは思うけれど」楽しそうに笑う母さんを視ているうちにしかしぼくはふ、と寒けのような不安にかられた。
母がこれからぼくと共有している二人だけのひみつを今この場で拒絶するのでは無いかと怖くなったのだ。だから、
うん。ちゃんとあのひと、こっちに目を合わせてきたよ、とかおの横に立てたゆびであたまの上を指さした。もちろんウソだ、ミュアエはだれにも見えないし、それを信じてくれるフリをするのも母さんしか居ないのだ。けれどそうして医師をバカにしている母さんといっしょになってふざけることで、いくぶん母の気が安らぐだろうという予感があった。母親はいい加減ぼくの話を真面目になって聞くのに疲れてしまったので、ぼくの話を真面目に聞いてくれる他者との邂逅がうれしくて、それで彼女のことをバカにしているのだ。おろかな自身を鏡うつしで嗤うようにして。それはつまり迂遠にぼくのことを、嘘吐きな子どもだと告げている。母はそんな息子に付き合うことへの馬鹿々々しさについて女医への共感を込めた嘲笑をしているのだった。
そこでぼくはぼくが先ほど披露したミュアエの話についての話を繰り返す。かおの横をゆび指して、なおもそれが物理的に存在しているかのように振舞って観せるのだった、まだそれを母が面と向かって嘘吐き呼ばわりしたりしないと言うことをちゃんと確認するため。『いまここにミュアエのかおがあるんだよ?』と。まったく、うざったい子供だな。
母親がため息をつきながらぼくの頭に手をおいた、その感触が再生されて、病室のベッドでそれをたしかめるように自分でじぶんのあたまに触れてみる。
あれ、おかしい。母さんはぼくのことをウソつきな息子と疎んでいたはずなのに。これではまるで愛されていたかのようだ。
思いだす度に書き換わってゆく記憶や過去というものにいったいなんの意味があるのだろう。
何気なしに嚥下してそのお茶のつめたさにふ、と我に帰った。くちびるから喉へ醒めたあじの感触がくだり、それも直ぐさまぬるく境い目をなくしてゆく。
没頭していた思索が身体のがわからあたまの方にもどってくる感覚があった、けれどその思惟が何についてのものであったのかという覚えはおぼろげで、それを思い出そうとする営為になお掻き乱れて霧散する。水のうえに塗料が描いた模様のように、掬い取ろうとするはじから壊れて意味をなくしてしまうのだ。つまり。ぼくは、先ほどまでのぼくをすっかり見失った。
それで気がつけば、すでにお茶がないな、味など気にとめる間もなくごくごくと飲み干してしまったのか。では先ほどまでのぼくはひどく喉がかわいていたのかも知れない、といってももう、その乾きもわすれてしまったが。
逆むけた湯のみから吸いこんだ氷を舐めて、そうやって喉の乾いたひとの真似をしながら考えるのだけど。ぼくがいくらぼくのフリをしてみても先ほどまでとは別ものだった、そうした考えはすこしほおをチリチリとさせた、けれど空っぽの湯のみの縁をいくら舐めても其のかわきはいっこうに収まることがない。
からになった湯のみを机にもどしてから、そのわきに置かれていたふたつの茶菓子の包装を剥いて咀嚼した。くちが粉っぽくなった、それでお茶を飲もうとしたのだがもう先ほどに飲み終えており空っぽだ。そうやってひとしきり無駄をやってからようやく机に向きなおる。
いいかげん逃げるのをやめてノートに目を落とす、じぶんで書いた文字のはずなのにとてもそんな気がしない。日記は計七冊あり、広げているのはその三冊目の半ばあたりだった、といっても表紙にタイトルも日付もないのでノートどうしの見分けはつかない。たんじゅんに今回の順番でたまたま三冊目に開かれたというだけだ。
しかしそれを読んで気づく。ぼくがまだそのノートの内がわにいること。そしてきみのために用意していたお菓子とお茶をすべて一人で飲み食いしてしまったことに。
さて、ノートによればつぎのシーンはドアをたたく音からはじまる。
『コン、コン、コン』
記述どおりにノックの音が鳴った。ぼくはそれでちゃぶ台の天板から目をあげて背後に向くのだがそのころにはすでに、この先に起こる展開のほとんどは食べ尽くしてしまっていた。
大変なことが起きたの。いつか何処かで聞いたことのある少女のこえが再びオオカミの住まう部屋の襖のフチを器用に、ドアノブのように叩いている。
わかったよ。開けるとマキが切羽つまったかおでぼくを見上げる。
「どうしたの、お母さんがしんでいた?」
するとその、あまりにも不謹慎なセリフに呆気にとられたようにかおを顰める。聞けば今日は午前中登校日でそのあとにクラブの催しがあるのに、弁当が必要なことを両親に伝え忘れていたらしい。
「どうしよう」まごつくマキに、ぼくは思案して、
「タッパーにフルーツグラノーラを詰めて、魔法瓶にいれた牛乳で食べたらどうかな」くすり指を立てたみぎてで提案する。
そんな、みなしごみたいに可哀想な役をよそおうぐらいなら、ふつうに弁当わすれたアホな子演じたほうがよほどマシだわ。
いや演じてないし現実だし、ぼくはさいど思案し、
「最寄りで買った弁当を保冷バッグに入れていくとか。」
いや、あのね。いまここで一食抜くかどうかのはなしをしているワケじゃあ無くて。他校の子たちともいっしょに食べるわけで、そこで交流を上手くするためには手作りのやつがいるわけよ。
オジサン料理はできるし作って昼にとどけてもらえないかなあ? きょうは車空いてるしーーって、免許ないのか。
「自動車免許にかんしては前むきに考えているよ。調べたら自動車の改造費用も補助がでるので実質無償らしい。ただ、そのためには一時的に車の名義をぼくに変えなきゃならないから、叔父さんへどう話をもってくかだな。」
じゃ、バスでもいいから、と硬貨を数枚わたされる。しかし、
「バスの乗りかたが分からない。」ぼくがそうカーテンを開けておもての道路のとおりを眺める。それを見て、
あ、そっか。マキがそう強ばった笑みで応える。ごめんムリ言ったね、あたしもう出なきゃ、と玄関をでていった。
『ひきこもり』とドアのむこうからそんな囁きが聴こえた気がした。たぶん、気のせいだろうけど。
卵焼きに、ウインナーに、冷凍の海苔巻きチキンあたりかな。ぼくは無難と思われるあたりを容器に敷き詰めてゆく。彩りにえんどう豆とニンジンと筍の炒めもののアルミカップをすみに安置してからランチボックスのフタを閉じて、あまりものを摘みつつビールを飲んでいるとマキが帰ってきた。昼にはまだはやいうえにずぶ濡れだった。雨で午後のクラブ活動は中止になったらしい。
※ ※
なに、それ。脱衣所で着替えてきたあたしはタオルであたまを拭きながら、冷めたよこめでテーブルのうえの弁当の巾着袋や缶ビールを見やる。
「ああ学校、調べたら歩きでも行けそうだったから。」
「ちょっと、お酒のんで学校来るなんてやめてよねー。そもそもがそんな見ためなのに」言ってあたしはハ、として「ごめんなさい」そう青ざめた。かおのよこに握りしめた髪から肩口に生ぬるく雫が滴る。
「なにが」
なにが、て。マキはうつむいて、「傘もお弁当もわすれてバカみたい。お弁当どうしようってコトばっかしんぱいで天気予報もみずに。そんなじぶんにイライラして八つ当たりをした」
気はすんだ?
ぜんぜん、よけいにみじめになる。そして「オジサンはどこもわるくないのにきっとあたしは酷いことを言った。ごめんなさい」と謝罪をくりかえす。
そうだな。とオジサンは言う。「考えてみれば、学校へ届けものをするまえにビールを飲むのは非常識なのだろうし、ぼくの見た目が奇異なのは疑いようもない。べつに怒ってなんかいないよ。」
そっか、そうだ。みんなはーーお父さんやお母さんはケンカしてくれるのにオジサンはしてくんないんだった。そう口もとだけでなんとか笑んで、テーブルのむかいでお弁当のフタを開けた。「いただきます」
オジサンも向かいで詰めた残りものをつまみながらビールを再開する。「お弁当ってのはビールに合う。だって冷めてもおいしいように味つけが濃く調理されている。これはまだ温かいので、すこし塩からいかもしれないな」
だけどあたしは義務てきな反応としてすらも其れに応えられず、ただもそもそと箸をすすめた。
※
「あ、このあいだ、お弁当美味しかった」真っ赤な西陽につらぬかれた子どもべやで脳漿に塗れた少女がいった。今回はたまたま寝坊しなかった彼女のめのまえでカタストロフィが起こり、ガンマナイフでもろくなっていた父親の頭蓋がぶつけたテーブルの角でタマゴを割るように砕けたのだ。
マキはもう涙もながさず、青ざめたかおで緘黙したまま。ただ、ぼくが家のそとに出ようとするとついてこようとする。ぼくは仕方なく外出をあきらめて従姉妹といっしょに子ども部屋にあがる。渦動する電磁場の所為でからだも頭もじりじりとさわぐ。苦しまなくて良い、もうせかいが終わるのだとぼくが告げるとふいにマキがくちを開き、さきのように言ったのだ。
「お弁当美味しかった。なのに『ありがとう』の一言がもっと容易くでてこないんだろう。そうすればずっとかんたんなのに。それでどこかちゃんと、叱ってくれよっておもってた。大人の役割ばかりを押しつけてすみません」
「だからべつに良いよ」
「だから良くないんだって」少女がそう苦わらいする。「ケンカしてくれなくても良いからさ。怒ってなくてもいいからさ。せめて、だまって謝らせろってコト。そしたら、きぶんが少しはラクになるから」
気まずい思いはしなくてもいい。さいごのときにそのようにくだらない後悔などしなくていい。どうせ人間はすぐに忘れてしまうんだから。そのようにぼくは言いながら続けざま、すぐさきの発言を反故にするようにこれまで言えずにいたことが口を吐いた。
「じつはぼくはいま医者にかよっている、病人なんだ」そう言うと。
マキは、『なにを今さら』と少しおどろいた体でこちらをみた。
「ほんとうにな」どうせもうぜんぶ終わるのに。
「ううん」少女がいう。「ぜんぶ聞いた、憶えた、わすれない、ってさ」そうじぶんのかおの横を指さす。
赤光の照らすその横がおを見れば、感情の色の混じり気のないとうめいなひとみ。
そうか、ずっと疑問だったんだ。審判の日のところまでぼくの未来を教えてくれるけど、ぼくから居なくなったあとどこからぼくを見ていたんだろう、って。
どうかいまのぼくらのことを憶えておいて。
わかった。いまや肉の厚みのある少女が応える。
それでぼくに教えてやってくれ、みっともなくも絶望しきれない往生際のわるい存在のことを。ああ死ぬことが怖い。無になることが。
わかった。
うずくまるぼくのあたまに手の置かれた感触がある。それできづけばぼくは、幼いこどもになっているじぶんを発見する。
約束する、憶えておく、消えない。闘争に勝って生きながらえるのはあたしだから。かつて『永遠のブレン』と呼ばわれたその相対論的生命体がそう誓約する。
その請願が『もうすべて終わらせてくれ』ならかんたんな話だった。すぐさま救いをあたえることも出来ただろう。
しかし悲しいかな、カイはいまわの際にも未来を欲する可能性の化物だ。そう指が、ぼくの恐怖に泣きぬれたほおに触れる。いいか聞け。しかしすぐに忘れてしまうだろう。あらたな契約が結ばれた。あたしと人類とを縛りつける四本目の鎖が。あるいは其れは『呪い』とも呼べるかもしれない。あたしはおまえの要請にしたがい永続し、あたしのつづく限りおまえは存続する。そうした縺れ合いのがんじがらめだ。
どうしたのオジサン? 気づけば、ちゃぶ台の向かいに座ったマキがびっくりしたようにぼくの泣きがおを見つめている。あれ、とうなずいて「え、と。これなに? なんなんだっけ。ゆめだよね」そう苦笑いの少女がくびを傾げるとほぼ同時に、地球と月はその乗り物に乗ったあらゆる物質まるごと潮汐力でバラバラの塵芥になった。
待ち合わせの場所につくと、
あれ、従姉妹さんは? ベージュのインナーに真っ白い絹の上着をきたウチカが言った。
やはり来ないことになりました。
なぜ。
子どもをじぶんの主治医に合わせるなんておかしな話だと気づいたからです。ほんらいインフォームド・コンセントというのは当人やその親とのあいだでやって頂くべきことで、ぼくの判断が介在する余地はありません。
まったくの正論だな。しかし今さら、ですか。
はい。じつはぼくは昔からあまりあたまの調子がよろしくなくて、今さらですけど。あと、先日に先生はぼくとの相互作用にヘンな介入をしませんでしたか?
相互作用? 介入?
ええ、ふいに死んだはずの親がぼくの耳もとであなたの声を代弁したりなど、です。しかしまあ、有り得ませんよね。それでは、と去ろうとすると
「待ちなって」と呼び止められる。「このために、きょうの午後は予定を空けてあります。そっちもヒマなら食事でもしようよ。」
おどろいた。ほんとうにお医者さんですよね? 向き直ってぼくが「手帳もちの男に金があると思いますか」とすなおにそう問うと
「そっちこそ。『男が奢るべき』だなんて旧弊な価値観にとらわれていたりはしないよね?」
「まさか? たぶん、ですけど」
「なにか食べたいものは? ウナギでもなんでもいいよ。」
じゃあ、ファミレスに行きたいです。ぼくが言うと、
はあ。とウチカがため息する。「遠慮しなくても。開業医の院長に金がないわけがないでしょ」
無職のぼくにとって、食事とはつねにこうしてご馳走になるものです。しかし従姉妹のお母さんーー叔母はとても心配性なひとで、化学調味料を諸悪の権化のごとく憎んでいます。
うん。
アイスクリームの浮いた緑色のソーダとか、そこに乗っけられた真っ赤なチェリーのシロップ付けとか、人工てきなまでに甘い人参のグラッセが添えられたハンバーグとか、でもそれはもちろん解凍されただけで、だいじなことにフライパンで焼かれてなどはいないんだ!
また、その皿にはほかにもケチャップであえられたパスタとか、サフランの入っていないバターライスとかが申し訳ていどに盛られている。そうしたくだらないものが、もういちど食べたいですね。ぼくの両親は、そうして子どもの食べたいものを与える低俗ですなおな人たちでしたから。
「良いけどさ、もうちょっとムードってものはないのか? きみのお母さんじゃないんだけど。」
「そういうものなんですかね? あいにく、両親をずいぶんまえに亡くしていまして」
「なるほどね。さあ、手をだして」
そう促されたぼくが右手をだすとウチカは広げたじぶんの両手の輪郭とそれと見くらべるように視線をいく度かめぐらせて、ひょいと人差し指でぼくのくすり指を吊り上げるようにして手の甲あたりを鼻さきですんすんとし、ついでにぺろりと舐める。
「ひょっとして、前世がイヌだったりします?」
「きみのように何度も繰り返していない、私の命はおおむね一度きりだけど、刻印が可視光ではないばあいもあるんだよ」
つまり?
「世の中に刻印のない人物はそうおおくない。こっちも確認してみる?」そう手をのべるが、「あいにく、ぼくのご祖先にイヌはいませんから」とそれは辞去する。すると、
「そう、そういうタイプじゃないんだ」と女医が差し伸べたじぶんの手の甲とぼくの顔へ交互に目をながす。それで、「まったく仕様がないな」とうなずく。「ファミレスでいいですよ。ああウナギ、食べたかったのに」
「お金があるんなら、好きに食べたらよいでしょう」
「ところが、女が一人で鰻屋に行って冷酒を啜るにはまだ歳がわかすぎる。男にはわからないでしょうが」
「はい、無職にはなおさら耳のいたい話です」
そして向かったファミレスは一階が駐車場のピロティになっており二階が食堂になっていた。女医とぼくとが外壁ぞいの階段をのぼって店内に入ると午後二時くらいの店内はがらがらで、ネコ型の給仕ロボットが二体、入り口のレジ向こうのバックヤードで給電をされている最中だった。
ざんねん。ネコロボットのあたまに触わってみたかったのに、いつものとおりの人間か。給仕にきた店員が去ると女医はそう嘆息して、じつは私、ミュアエのことを知っているんだ。といった。
でしょうね。それで、ぼくに近づいた。
十年いじょうまえにミュアエからその存在について聞いてはいたのだが、もうすっかりわすれていたので、とうじの日記でなるたけ復習してきた。まあせいぜいが子どもの絵日記なので詳細は把握できないが大枠のりかいは出来ている。
『血の魔女』其れもまた、その本質は相対論的生命体で、ミュアエどうようほかの経路の自身とも情報を共有しているはずなのだという。
「ミュアエっていうのはつまり君の従姉妹のことなのかな。いつ再臨するの。」
さあ、そのあたりの事はなにも教えられていません。ぼくはそう嘘を吐いた。ご馳走になったのにすみません。
「まあ、気にしないで。これはただの台本にあるセリフみたいなもので、本当の回答が返ってくるなんて思っていないから。」
はい。
「ところできみは運命のことを呪っている?」
はい。
「じゃあじゃあ、ちょっと、似ているね。」
お医者さまとじぶんでは、似ても々つかない。
「ところでそれ、すこし飲ませてもらっていい?」
そうかつてクリームソーダであったはずの、色と油脂との混ざった灰いろを指さし、ぼくの答えるまえに口に含んだ。そして「色がまずい」とかおをしかめる。
断りもなく、そう言おうとして、ぼくはあたまがぐらりとなる。そこから閉ざされた五感の内がわにただ彼女の存在だけが鳴動する。
まあそんなに怖がらないで、もうすこし話そうよ。と魔女がそうほほ笑んだところまでは憶えている。
あなたが易々と私のコトを食べてくれるようだったら話は早かったのだけでど。それでも皮質、髪、唾液などの体液からあるていどサンプルを摂取・解析できればそれを足がかりに、こうして素粒子てき実体のほうから意識に相互作用することぐらいはできる。ヒトが精神と称ばうものも結局のところは物理的な現象。で、こっちは腐っても相対論的生命だからね。
まさしく、魔法つかいだな。ミュアエも魔女も、それがなんで人間ごとき短命で卑小なそんざいにこんなにも拘泥してかかずらうんだ。
どうやらぼくは車で運ばれているようだった。
それは、問いの立て方が逆ですねえ。ウチカが言って、ぼくのほおに触れる。これだけの質量がコンパクトにまとまっていて、自己複製機能をもち、条件さえ整えればプログラムを数百年にわたって持続できるような、そんな存在はそうザラにはいません。
なんのことだ。
だいじょうぶ、とウチカが微笑む。
私がもっとあなたを喰べてあなたがもっと私を喰べれば、きっともっと互いによく分かるようになります。さあ『私をお食べ』ルイスキャロルの小説の一節のようにしてウチカと自称する魔女がそう告げた。
これはいったい、どういうカラクリだ。じぶんと他者が継ぎ目なく一体につながっているような久しぶりの感覚。背後につねにミュアエがいたあの日々のことをぼくは回想していた。すがたの見えない少女を背にしょったぼくはいつも独りではあったが少なくとも孤独ではなかったのだ。
なんだかヘンなきぶんだ。
最初のころはよく、そういう気分になるよね。真上からこちらを見おろしてウチカが言う。しかし、ぼくはいつ彼女のくちからその名を聞いたのかを覚えていない。
だって、これいじょう分かりやすい繋がりかたって無くないか? 物理的にも心理的にも。ーーねえ。性教育だとかで子どものつくり方を習ったとき、きみはどんなふうに感じましたか? 私はね、『あ、じぶんの両親は変態だったんだ。』って。
ぼくはその表情に違和感をかんじる。大人のかおなのにひどく潔癖で行動もチグハグだ。そして、どこか既視感のあるとうめいな眼差しーー
人間じゃないな。なるほど受肉した魔法つかい。ほんとうに、あなたじしんが魔女なのか。
さすがは雌獅子。世代ごとに情報のリセットされる抜け殻ひとつににここまで仕込むなんて。ていねいな仕事だ。
抜け殻?
ああ、もう相互作用によるもつれは完全に切れている。ほんとうはきみを踏み台にしてブレン・ミュアエにちょくせつ干渉できないものかと狙っていたんだけどね。そう腰をふかくかがめ込んで首にほおを擦りつけ、ぺろぺろと耳をはむ。
ちょうど良い機会だ。パルミラの賜物と称された雌獅子のしごとを此処でゆっくりと味合わせてもらおう。どこまで知っているかは知らないけれど、姉とちがって『肉』のがわに寄せているからもっと粗野で物理てきです。ミュアエが宿主の中枢神経系ネットワークに住まうように、私は遺伝情報に内在性ウイルスのように寄生するの。だから観測されることで擾乱されることもないけれど、肉を得たことの代償で、細胞レベルでの粗雑な干渉しかできない。ミュアエほど精妙にはやれない。
ぼくの反応を察知して動きを止めたウチカは腰をうかし身を転じてそれを口にふくむ。どくどくという下腹の拍動がやむと顔をもちあげて、どたどたと洗面所に向かったようだ。
お医者へぼくが言うのもなんだけど、お腹をこわしたりはしない?
お気づかいどうも、ベッドにもどってきたウチカがペットボトルの水をくきゅくきゅと喉にこごらせてから、となりにバタンと倒れこみ。『まずい』そうしかめた顔のゼスチャーで示してみせる。
まあ血や、十分な量があればほかの体液でも良いのだけれど結局、これがいちばん簡単だからね。
魔女というのはあんがいに刹那的だな。こういうの、だれとでもするの。
しないよ。ひつようが無ければね。
まったくほんとうにミュアエはさ、きみのことをきちんと調教したんだね。ウチカはそう天井にめを逸らし。「飲んだからもうぜんぶ分かっちゃうんだよ、すくなくとも今回のカイくんのことなら、全部。あなたたちがそれを『経路』って呼んでいるらしいことも」
そう。失敗したな。
そうだよ、雌獅子の飼い犬。運命にあらがうことを忘れたあわれなスフィンクス。本当は謎かけるなんじこそが謎なのにね。
そう失礼にも人を指さして言う。しつけは大事だし次からはちゃんとゴム着けるからね。
3
ぼくが毎日まいにち日記を書くのはそうしないと怒られるからだ。
ちがう、と背中ごしにミュアエが言下にひていする。文字の記録をのこすひつようがあるのは、人間があまりに忘れっぽいから。図体がでかいから情報をずいじ忘れながら生きてもまあなんとかなるのだろうけど、エントロピーをそう野放図に増やされては、それを巻き戻すがわにはたまらない。
エントロピー?
ほらまた忘れている。日記にかいていないからだ。ーーそれともまだ、おしえる前だったっけ? まあどっちでも良いこれからすることに変わりはないんだからな。しかし、あたしが教わったことを、教わったあいてに教えるというのは、やはりいつまで経っても慣れないな。そうよく分からない前おきをしてから。姿のない少女がうしろからぼくの右のてくびをつかみ、絵日記帳のまだ白紙のページに「フロイト」とうすく書いてそれを消しゴムで消す。
『人はまず忘れて、つぎに忘れたことを忘れることで忘却の機制が完了する』と十九世紀にコカイン中毒の医者はそう提唱した。いいか、忘却はコストのかかる能動的な行為だ、消さなきゃ文字は消えない。文字が消えるとおまえはやがて、文字を書いたことにくわえてそれを消したことまで忘れてしまうので、その支払いを知覚していないだけなんだ。ある情報を覚えてわすれてリセットし、また覚えて忘れてを繰り返すたびにコストは支払われエントロピーが増大してゆく。エントロピーは熱の増加関数だからそれはつまり熱が上がるということ。ほんとうに無かったことにして巻き戻すためには冷却のひつようがある。発熱と冷却によるこのサイクルはエンジンと同様だカルノーサイクルは覚えている?
なに、それ?
やれ、やれ。人間が痴呆症のおやを介護するときにはこんなきぶんなのかな。ミュアエがそう背後からぎゅ、とする。
熱力学の入門書をよめば必ず出てくるからなんか一冊よんでおくんだ。小学校の図書室にはないだろうけど、市の図書館には何冊もあるはずさ。理想化されたカルノーサイクルエンジンは実現不可能なのでエントロピーは徐々にではあっても常に増大していく。つまり、おまえにはあたしが時間を遡っているように思えるかもしれないが情報としての事態は遅々として微視的にしかし、かくじつに非可逆なかていを前にまえに進んでいる。
ああまあ情報というのはつまりーーと姿のない少女のうでがうしろから黒い影のように机のうえのぼくの日記をしめす。
そこに書かれている文字が情報だ。おまえにはそれに、重みや厚みがあるように見えるか?
ぼくは日記帳を手にもち視線と平行にかたむける、角度がいってい以上にあさくなると文字が文字として読めなくなり、あさく湾曲した紙面がしろい水平線となったころにはなにも見えなくなる。もちろん、文字が紙から浮かび上がってみえたりはしない。
『そう、おまえたちには文字という情報は目にみえるときにしか存在しない。しかし、だ。』ミュアエがいう。『あたしからすれば、実際には鉛筆で書かれたところには紙の繊維のうえに炭素の粒子が付着しているので書かれなかったほかの紙面とは明らかに様子がちがう。つまりおまえみたいに図体のでかいやつにはわからないだろうが。そこには重さも厚みだってある。』
ぼく小さくて、体育でならぶとき、まえから三番目なんだけど。
『まあ、ざっと見たところ十の二十乗から三十乗のオーダーの原子数だな。こっちからすればそれで良く「小さい」だなんて言えたもんだ。あと、大人になったときのおまえはそんなにせいの低いほうという感じでも無かったよ。』
え、未来のぼくをしっているの?
『これに関してはほぼそうだと言っていい。身長みたいな遺伝てきな要素は試行を繰り返してもあまり変動しないから』そういって、ミュアエはすこし首をかしげる。
と言っても、そのころのあたしはもうおまえには憑いていないので。マキからの視点による雑感ということになるだろうけど。
はあ。
まあつまり、情報というのも微視てきに見れば物理現象にすぎない。しかしおまえたちは情報と物理を分けて考えたがる、ありていにいえば、重みや熱さなど感覚でじかに捉えられるものは物理だ。光学顕微鏡でみえるもの、これもまあ物理だ。あと電子顕微鏡など、粒子検知器からの反応を疑似的に視覚化したもの。単純な反応の変換だし、まあこれも物理かな。おまえたち人間はそうなふうに考えるらしい。空気の振動についてもそのおおまかな周波数や強さは物理現象だ、けれどそれらのチャネルをとおして人が発する音声は情報だ。なぜならその音をフーリエ変換したグラフをみても人間はそれを読むことができないからだ。
そう言ってミュアエはこんどは背後からチリチリとぼくの視線をへやのすみに置かれたゲーム機へといざなう。宿題に集中できなくなるから、遠くに置いておいたのに。
『さいきんおまえが、いたくご執心のそのゲーム。おまえがそれをプレイするつど、ゲーム機はその進展を憶えていて次の起動時にもさきの状況を反映したポイントからプレイが再開される。そう、電源の入っていなかった時のあいだも、まるでおまえのことを憶えていたかのように。機械の中身は随時へんかしてゆくが、質量が重くなったり軽くなったりはしないし中の基盤をおまえたちが見てもなんら変化はない。情報は、書き換えられているのに。でもあたしからすればじっさいには、ぜんごでストレージのなかの電磁気てきな配列がへんかしている。昨日と今日とでは手触りからしてちがう、べつものだ』
もしかして、とぼくは思いたつ。ゲームを起動して、あるモンスターのステータス画面をひらく「こいつ、ずうっと能力とスキルがいちばんのヤツが欲しいんだけどダメなんだ。もしかして、そういうこともできるの?」
『できるよ。いまそこのメモリの電磁気情報が電流に合わせて擬似的に演奏をしている十の十乗ていどのオーダーのビット群の配列が全てなんだから。あたしはそれにじかに触れて相互作用することができる。改ざん検知の機構もあるようだけど、このていどのハッシュ関数なら偽装して書き換えぜんごの出力を衝突一致させることはたやすい。』まあでも、やらない。とミュアエはいう。なんだかおまえの今後にわるい影響をあたえそうだから。そうくつくつとわらう。
マキが十一になった夏休み、いつもどおりにしてこの世の終わりが来たる。
リビングで両親の死体をまえに泣き崩れるマキを尻めにぼくはミュアエに教わったとおりプローブとして行動する。家をでて最寄りの診療所までいって、インターフォンを鳴らした。
「分かっていると思いますが、もう終わりのときです」マイクに言ってしばらく待つが、へんじは無い。
「ミュアエはあなたと話をしたいとのことです。『左うでのことは水に流すと』」しかしやはり返事はない。伝言を済ませたぼくは二階の自室にもどり終わりを待った。
やがて泣き腫らしたかおで入ってきたマキが予想どおり、「だれですか?」と驚いたあと袖の垂れた左うでをみて「もしかしてオジサン?」と問う。
「もう次の経路がはじまるんだ。だから安心して、きみは消えるから」だから、そんなかおをしなくても良い。しかし、
「なんだろ、こんなことまえにも起こった気がするーー」マキがふと気づいたように思案をしはじめる。ひどく強い西陽の降りそそぐ、カーテンもかべも赤く灼けた子どもべやで。
そうしてあるときから妙なコトが起こりだす。終末のときがせまるにつれ、マキがべつの経路の記憶を思い出しはじめる。
なぜそのときがあるときだと分かったかと言えば、子どものころミュアエはそんな事をいちどもぼくに話さなかったからだ。これまでの経路ですでに起こった重要な事柄についてミュアエがウソを吐いたり伝え漏らしたりすることはないはずだった。つまり今この現在はミュアエも知らなかった可能性であり、彼女にとっては垂涎のじたいであるはずだ。一度きりの命と記憶しかもたない使い捨ての探査針でも、与えられた知見からそう判断できる。
「もしかして、産まれるよりまえの事を憶えているの?」
単刀直入にぼくは問う。
ぎゃくに。前回があることを知っているのに、あんたは憶えていないの?
頭の良い子だはなしが早い。そう褒めようとしたしゅんかん、近づいてきた事象の地平面がついに子どもべやごと地球を飲み込んで、せかいは終わった。
ぼくらの肉の身体は潮汐力でバラバラに、分子レベル、そしてイオン、さいごにはクオーク・グルーオンプラズマまで解体されて文字どおりすべての情報は失われた。
※ ※
物心つくころまでに物理の基礎とほかの起こった起こりえたすべての知識をミュアエからたたき込まれたぼくは、ミュアエのはなしの矛盾にきづく。
「原子どころか、素粒子レベルまで分解されたぼくの末路が良くもわかったね」
事象の地平線を超えたあとは演出というか、あたしなりの想像になる。ブラックホールの情報喪失もんだいはまだ未解決だからね。でもそのちょくぜんまではあたしがこの目でじっさいに『マキの目』をつうじて観測したものになるから、ほぼほぼ信じてもらっていい。
なるほど、これからはマキが他の経路の記憶を思い出すようになるかもしれない、と。
ぼくはそうミュアエからの託宣を日記におろす。あるていどそろえで買ったノートはもう数冊しか残っていないが、まあだいじょうぶ。ぼくはもう十一歳でそろそろミュアエは消えるのだから。
あたしとの融合がすすみはじめているんだ。あたしという相対論的生命体に引きずられて、マキというそんざいも時間軸の二次元方向に滲み出しはじめている。
ぼくには一向にそんな兆候はないようだけど?
あたしは寄生体、おまえは宿主。共生関係にあってもべつべつの生命。あたしたちの関係はあくまでそういうものだ。しかしあたしにとってマキはーーあれがすべての起点だから。
「なぜマキであるひつようがあるの?」ーーそれはなぜぼくではないの?
せかいが滅ぼされたときにあたしが憑いていたのがあの少女だった。そのころのあたしはもっと原始的なそんざいだった。人間のあたまにかぶさった重さのない透明なクラゲのように、ふらふらとただヒトの意識から意識へと移って寄生して生きていた。あたしの思考はこれほど明瞭ではなかったし、人間にとっても淡い違和感や耳なりのようなものとしか知覚されなかったろう。なにかを考えたりするひつようが無かったんだ。数万年まえにいちどひどい火山噴火のせいでかずが数千の単位まで減ったことはあるが、棲家である人間はいつも潤沢にいた。魔女もそんなあたしの存在など歯牙にもかけなかった。
ミュアエっていったい、いくつなの?
質問のないようが淑女への礼節にかけているから秘密だ。
ぼくがこれまでに見聞きするかぎり、レディーはそうして他人をぞんざいに『おまえ』呼ばわりしないものだ。ぼくはそう反論したが、すがたのない淑女はそれを頓着せず聞きながし、
「しかしえいえんに続くかと思われたじかんも唐突におわりを告げる。これからおよそ十年後、マキに寄生していたときに人類がぜつめつしてしまう。マキの脳髄が破壊されてから機能を停止するまでのさいごの瞬間に、相対論てき実在を広げて探査したんだが。惑星のどこにも、静止軌道じょうの国際宇宙ステーションにも、人間はひとりも生き残っていなかった。それで、あたしは初めて時間をさかのぼった。宿主をうしなったあたしがさいしょに死を意識したときだ。数百年さかのぼった。しかしまたマキに憑いている同じタイミングで人類がほろぶ。
マキいがいの存在に憑いてみたりはしなかったの?
いつもいつも、さいごの生き残りがマキなんだ。選択肢などというものはないよ。
なんだその偶然? たまたま終末の日に相対論的生命体が寄生していた少女がいつもさいごの生き残りになるなんて。そんなのは偶然ではなく意味のある必然にちがいない。
さっきも言っただろう、『起点』だって。ものごとの考えかたがぎゃくなんだよ。人類さいごの生存者であるマキにあたしがさいごの逃げ場所として憑いていたあの終末がすべての始まりで、そこから過去に遡ったあたしが再び起点に回帰しつつ、それを避ける方法をさぐる過程のひとつがいまこの現実。なのであたしはいつもマキのなかで死ぬ。つぎも、つぎもまた。そのころ、あたしは考えることをはじめた。宿主の内面をみつめて、人間の意識やことばを覚えることをはじめた。そうしてソフトウェアとしての人類をだいたい理解できたころ、行動をかいしした。終末の運命を変えるため、対話可能な最古の人類を探して時間軸を遡行した。
そうしてブレンに出あったのが十万年ほどまえのことだ。すごい人物だったよ。まだ文字も記号てきな観念もなく、寿命もすごく短かったのに。厚みのないあたしと対話して理解をしてくれた。あたしはブレンとの契約にしたがいかれの死後、しばらくはその子孫に憑いてその家系をとくべつな『巫覡』の家系として成立させた。そして起点への収束にともないいずれまたマキに憑くまでのあいだ、その名まえを借りることにした。それでもう一つの名を得たあとも、二つ名としてそれを名乗った。
マキはあたしにとって終点であるとどうじに起点なんだ。あたしの自我はあのさいごのとき、あの意識のなかで萌芽したんだから。いらいあたしはそこから時間軸をあたしがミュアエとなった地点までさかのぼり、そこからときを経てまたマキへとたどりつく、という試行をなんども繰り返して文字どおりに経路を積分している、できるだけ精度のたかい、終末の日の確率分布を導くため。今のところわかっているのは起点に近ければちかいほど直に干渉することは不可能で、その日に起きることを書き換えるには過去を経由するしかないということだ。そしてどうやらおまえという存在がマキと接触して相互作用をするというのはどの経路でも確定している。試行におけるもっとも信頼のおける変数だ。
つまりぼくは不可侵な終末の日へのプローブとして機能する、と。マキの両親とか、べつの人ではダメだったわけだ。
両親はガンマ線バーストでそうそうに死んでしまうだろう? 起点に近すぎてその事実を変えるエネルギーコストが莫大すぎる。もいちどインフレーション宇宙からやり直すほうがマシかもしれない。言ってミュアエがことばを区切る。
冗談だよ。わらえよ。起点ーーほんとうにせかいが終わるときに、マキのとなりに居るのがいつもきみだからさ。そのさいしょのときにも、おまえはあたしの隣にいたんだ。姿のない少女はそううなずいて、「やっぱり恨むか。おまえであるひつようは、それだけなんだ」
「試行実験を繰り返す科学者が使い捨ての探査針に『じつはきみは使い捨てなんだ』と明かす理由を考えていた。」
「ただの気まぐれさ。それより、気になることがあるんだけど。」
うん。
「きみは死ぬたび毎回リセットされるのに、どんどんとあたまが良くなっているようだ。」
それはたぶん、ミュアエがそう教育するからだ。相対論的知性体としてのきみの知性が高まるとともに、きみが探査針および話あいてとして求める水準も世代ごとに高まっているんだろう。
なるほど有りえるはなしだ。じゃあそーいうコトでなっとくをしておこう。
うん、とぼくは肯く。
「欧州のキリスト教宗教改革のころ、カルヴァンという改革指導者のひとりがこの様に考えた。死後天国に召されるか地獄に落ちるかは生前の信仰によって決まるが、信仰心もまた神からの賜りものであり、つまりその者が産まれたときから天国いきか地獄いきかは決まっているのである、と。
現世での行いに依らず結果が決まっているのであれば人々は怠惰に自堕落に生きるのでは。とうじからこの予定説をそのように見る向きはあったらしい。しかしじっさいにはカルヴィニストたちは、他のものたちよりも勤勉実直に働いた。
いまのぼくにはその理由がすこしわかる。」
教えてくれよ。ミュアエがいう。あたしはながいこと人間を観察しているがその答えをいまだしらない。
「真っ当に生きていれば信仰心をもった、神から選ばれし人間であると信じることができるから。じぶんが選ばれなかった人間ではないのかとうたがい恐怖するひつようがないから。そっちのほうが結局はラクなんだよな。人間がふしだらを好むようにみえるのはただラクに流されているだけで、価値観を転倒させられれば不真面目よりもラクな真面目さに傾倒してゆくことになる。」
※ ※
ねえ、とマキが訊く。
こうして最後のさいごのときになるといつもあんたが若がえる、っているか幼くなっているんだけど、あれなんで?
さあたぶんきみの目にそう見えているだけじゃないかな。たぶん異なる経路のきみのほうにミュアエが相対論的プローブ(探査針)を形成しはじめているんだ。
でもその子は普通のようすじゃあなくて。すごいむずかしいコト考えてそうな、それがすこし苦しそうなようすで。いまのオジサンみたいに朝からビール飲んでるみたくは全然ないんだよー。
せいかくな答えはつぎに教えてあげるよ。
いったい、どーやって? 死んだらぜんぶわすれちゃうんでしょう?ーー
つぎの経路のぼくにミュアエはきみがいま聞いたことと、その答えを教えてくれるだろう。だからきみが次のぼくにおなじ問いをしてくれれば、きっと応えるべき正解をこたえることができる。
あたしがいま知りたいのは、いまのオジサンがいま考えていることなんだけど。マキはそうしばし思案して、「て、いうか。こわくないの、死んじゃうのが。」そう、決心したようすでこちらを見あげる。
また死ぬのが怖くなったならこんどは手、にぎっていようか?
や、たしか、まえもそうしてもらったけど。ーーううんそーいうのじゃなくてーー、すこし恥じらったマキがそうくびをふるう。
そのミュアエってひとがほんとうに信用できるかどうかも分からないじゃない?
ミュアエはヒトじゃない。とぼくは言って、あとミュアエはきみ自身だよ。とつづける。
まさか。あたしは人間だし。
でも、ミュアエ自身がそういっているもの。経路のどこか、かぼそい可能性のさきにマキーーきみが受肉したミュアエとして、すべての経路のミュアエのハブとして顕現するせかいが、まだあるはずだって。
でも、それってもう十何年もまえのことでしょ? そんな頃にはあたしまだ居ないし。
しかし。ミュアエが言ったんだ。きみ自身のくちで。
するとマキがひどく不気味そうなかおをするので、
じゃあ此処からは別行動にしよう。じゃあまたと家の外にでる。それで魔女のいえに向かった。この最後の日についてミュアエから詳細に聞いてはいたのだけど、死ぬのははじめてで、ひとりになると足がガクガクとふるえた。マキに見られていないのがさいわいだ。
教わっていたとおり、さいごのときはひどく明るかった。太陽公転軌道近隣のレンズ天体が地球の大気や構成物質のチリを吸い込むことで形成された、降着円盤からのジェットがそらを四方八方にひかりの柱で切り裂いている。魔女のへやを訪ねるがやはり彼女はいない。それでぼくは子どもべやに戻る。不安げなマキがそこにいる。
そしてせかいが終わり、ぼくはバラバラの散り々りの熱平衡じょうたいの素粒子の海になるハズだった。事象の地平面のむこうがわ。ミュアエの想像するせかいのなかで。
しかし、ぼくだけがその状況から引き戻されてゆく、事象の地平面から遠ざかって、やがて重力のレンズから脱すると、こども部屋の窓からのぞく赤方偏移であかくゆがんだ太陽と風景そして、となりで立ちすくんでいたマキは描き割の舞台装置のように遠ざかり平板になり像が歪んでいく。やがて事象の地平面の表面にたっしたそのすがたはもはや、こちらからは氷ついたように静止をしてみえる。
ミュアエはそれをまるで意に介さないようすでどんどんと幼くなっていくぼくの手を引っ張って過去の、ぼくが産まれた座標まで、時間対称性に矛盾のない三プラス二次元の軌跡をえがき過去へと遡ってゆく。
まって、マキが置き去りだ。ぼくはそう手をほどこうとするが、もとより姿のない相対論てき存在を振り解くことなどできようハズがない。
あっちのあたしなら大丈夫。ミュアエがそううそぶくが、なにが大丈夫なものか。キュビズムの歪んだ絵画のように巨大なシュバルツシルツ面に張りついたマキが灼熱に染まってゆく。それは赤方偏移のためだけではなく、文字どおりにホーキング輻射で灼かれているのだ。進まない時間のなかで永劫にそれがつづく。そんな苦しみがほかにこの世にあるだろうか。
だいじょうぶ、それはこっちにそう見えているだけであっちのあたしの主観では潮汐力で全て粉ごなになってもうマキの意識も何もそんざいしないっ。
だから、そのどこが大丈夫なんだっ。
この経路が実現されなければいいだけだろう? 言い換えればこれはまだ観測されるまえのタダの波だ。弱測定で量子状態をさぐっているだけ。しかしここでおまえが向こうに行けば事態はかくていしてすべてが終わるぞ。
耳もとでミュアエがそう囁いて、暴れるぼくを静止させる。
さて、ここまでのマキのエントロピーはあっちの熱浴に捨てることでちゃらにできる。マキ・ミュアエはそういって、もはや幾何学では記述できないほどに歪んだ太陽の向こうの特異点を指ししめす。問題はむしろおまえだ。あたしたちにとって情報とは任意に操作可能な一種の物理現象だし、熱エントロピーと情報エントロピーに自明な境い目はない。つまり限定てきな断熱系においてはおまえたちが理論的に予想したマクスウェルの悪魔たりえる。あたかも、時間の流れを逆行させるかのような営為も可能、けれど第二法則からは逃れきれない、ありていに言えば、熱の捨て場所がひつようになる。エンジンが加熱と冷却のサイクルを繰り返すことで仕事をするように、あたしにとって人間という寄生先もまた、そうしたひとつの熱浴なわけ。つまり、
おまえはあたしの太陽なんだ。だけど太陽もいずれは燃えつきる、急がないと。
エントロピーとは情報量。その系にゆるされた自由度のなかでじっさいにどれほどの自由さが実現されているかという指標だ。この自由を、無秩序と呼び変えてもいい。真に心配すべきはマキではなくおまえだ。ミュアエはそううしろからぼくのこめかみに触れる。
おまえを起点に可能性を運算する経路積分の繰り返しの繰り返しのなかでそれは着実に増大しておまえを初期状態から変容させていく。といってもーーわすれやすいおまえの変わりにあたしが、それを記憶するのみなんだけど。
むずかしい。とぼくはミュアエから入手を指示された数学や物理の教科書に、そして彼女のせつめいに音をあげる。
「こーいうのはさあ、もっと大人になったあとにやるべきヤツじゃあないの?」
『おまえは正しいよ狂っているのはせかいのほうだ。』ミュアエがいう。『だけどさ、あたしはもうすぐ消えてしまうわけだ。初等の数学に相対論と量子力学、統計力学と熱力学のまではその概念の目星をつけておいてもらわないと。けっきょくはおまえが苦労する。』
じゃ、消えないでとは口にはせず、「ミュアエは、なんでそんなに難しいコトをしっているの?」そう訊いた。
『ぜんぶ、おまえたち人間がおしえてくれたんだよ。考えてみれば其れをおまえに伝えているというのも皮肉なはなしだ。』
皮肉?
ああどこかしら、おもむき深いってコト。そうミュアエがぼくの頭皮をかぐように身をかがめたので、その吐息がはだにふれる。
お母さんは幻覚だというけれどぼくにはやはり、それが実在であるようにしかおもえない。
『身がってなはなしだけどおまえには出来たら理解をしておいて欲しい。
最終的に脊椎動物の約八割にレンズ天体の標識が定められる。原生種の相対論的寄生体がエントロピーの捨て場所にするだけなら、それで十分だからだ。けれどあたしは人間のなかでおまえだけから照準を消した。なのでおまえだけが死なない。この例外のために、どれほどのコストと準備がひつようであったかどれだけ言葉や数式であらわしても言い尽くせない。ただせめて謝らせてほしい。おまえの時間軸で何年か先に起こる事故もこれから無限に繰り返されるわけだ。おまえを最期の審判ちょくぜんのセーブポイントに設定したこと。これはまったくもって此方の都合なので、おまえはきちんと、これを恨んでくれていい。』
もういいよ、昔のことだ。わすれた。
ああ、おまえは憶えていないだろうが、ミュアエがそうぼくの左の二の腕に触れるーーおまえの腕を見るたびに忘れることはない。ちから不足で、これいじょうは遡れなかった。この事実についての波動関数はもうかんぜんに収束してしまったんだ。
さいきんマキは公園でもプールでも遊べない雨降りでも、いつも朝食をたべるとすぐに出かけて両親の帰るころになっていつも帰宅する。どうやらさけられているらしい。
夕方、にわかにそらが暗くなって、そういえば傘を持っていただろうか、と思案していると帰宅したマキがノックもせずぼくの子ども部屋にはいってくる。
ノックも伺いも立てずに他人の自室に入ってはいけない、とぼくはそうやんわり咎めたが、階段をけたたましくのぼる足音でその正体にはすでに気づいていた。
「ふすまの部屋で礼儀正しくはいる作法ってあたし知らないんだけど。ほんとは、それってノックじゃないでしょ」
「うん多分、でも礼儀作法なんてぼくも知らないんだから、まあ良いのか」
「ダメでしょ」
だめじゃない。ぼくのへやに入ろうとする者なんてずっといなかったんだから。ルールなんていまきみが勝手に決めてくれたらいい。
「そんなんどーでもよくって、思い出したの」マキはいって、「あたし思い出した!」とさけんだ。
「ヘンなゆめだと思った。気持ちのわるい悪夢だって。だけどずっともやもやして、図書館で調べてみたらあのときーーあの夢のなかでオジサンが言っていたことのカガクテキコーショーがあながちデタラメじゃないことにさらに、気持ちわるくなった。それが夢だとしたら、あたしはじぶんの知らないことを夢に見ていたわけ」
「まえから思っていたんだけど、きみはけっこう地頭いいほうだと思うよ。あと今回はきっと、いつもにも増してはやいね。」まだ何日もあるのに、姪はもう結末をしってしまったのだろう。
応えたぼくを畳にひざ着いたマキが見上げて、
「『公転軌道上に無数に存在するレンズ天体を制御することで標を付けられた人間のあたまを破壊する。』だっけ。レンズ天体、ってつまりはブラックホールだよね。そんな天体があちこちにあったら人間はその降着円盤のあかるさやジェットのエネルギーに気づかないハズないし。それに人間が気づけないほど極小なマイクロブラックホールならすぐさま蒸発して消えてしまうはずじゃない?」
そう。ホーキング輻射のつよさはブラックホールの表面積に逆比例するので小さければ小さいほど三乗で出力が増えてさらに小さくなって、の積分でブラックホールは蒸発するんだ。勉強したね。
「プール解放への誘いも無視して時間はたっぷりとあったから、図書館で読んだ。おかげで神童か変人あつかいよ。」
奇遇なことにぼくもまったくきみと同じ疑問を抱いたことがある。思うに、レンズ天体の正体はおそらく特異点ではなく位相欠陥かもしれないと。
「なんそれ?」
特異点のないブラックホールみたいなもの。シュバルツシルト半径を形成しないのでホーキング輻射を起こさない。なので蒸発プロセスを想定しなくてもいい。
「で、そうだとするとどうなるの?」
「きみの身体は輻射に焼かれる永劫の責苦を受けなくてもいい」
「せかいがもう終わったあとの話じゃん。それって重要?」
さすがだ、とぼくは思わずそう口にこぼす。「うん、ミュアエならきっとそんな風に言うだろうな」とうなずいて、「でもちがった。事象の地平面にきみのからだがホーキング輻射で灼かれてゆくのを見ているぼくを見たとミュアエが言っている。ブラックホールが蒸発しないように何処かから質量が補充されているんだろう。いまの人類にはそうぞうもつかないような遣りかたで」
「だとすると、外宇宙からの侵襲?」
そういうこと。
「わかった。」
あいかわらず、話がはやい。
「うん分かったよ。オジサンもあたしも、もう狂人だということが。」マキはそううなづいて、「オジサンのお父さんとお母さんが死んだのも、あたしくらいの歳だったってほんとう?」
うん。とぼくは肯く。「山向こうの工業団地が誘致されるまではずっと田舎だった。本当に、ひとりでバスに乗った経験がないんだ」
「あたし、残りのじかんはお母さんお父さんといっしょに過ごすことにするよーープール行ったり、テーマパークであそんだりだとかさ。オジサンもどう? うち仕事のかんけいでUSJのファストパス取れるらしいんだ。」
遊園地か。いいかもね。ぼくは遠慮しておくよ、引きこもりのぼくが急にテーマパークに出かけるなんていったら二人がびっくりするだろう? 親子水いらずで楽しんでおいで。
「オジサンせっとく力、あるなあ。」マキがそう失笑して、まがおになる。「しょうじき、まだ信じられないんだ。あんなのが未来だなんて」とつぶやく。
「きみがそういうセリフをくちにするのを聞くのが何度めか、彼女は思いだすこともできないらしいよ。」ぼくは言った。「いったい台本の原本はどこにあるんだろう、とミュアエとぼくはそれをずっとさがしてまわっているーーたぶん、魔女も。だけど見つからない。どれだけ嘘くさくても現実はいまだにこの一つしかない」
それから何日かして叔父夫婦は娘のつよい願いでUSJに出かけてぼくは留守番だ。昼過ぎに窓のそとが赤くなりイベント・ホライゾンがせまってくる。まぶたを閉じても暗くならないーー可視光より透過性のつよい電磁波が皮膚と肉をつらぬき水晶体に散乱して網膜を感光させているのだ。そのまぶたの裏にしか存在しない青い虹をみつめながらぼくは、
彼女らは、ちゃんとUSJにたどり着けたのだろうか?
と考えていた。
叔父一家はちゃんとUSJまで辿りつき、一時間まちのジェットコースターにようやく乗れたあたりで逃げる間もなく、なすすべなく彼女の両親は死んだらしい。そして定めどおりにマキだけが生き残った。放射線で電装系の死んだカーゴは安全装置の作動によりレールのうえに固定され、マキは死んだ両親ととなりあったまま事象の地平面に飲み込まれたという。
ぼくは幸せがどういうものかよくは知らないが、それはそれで美しいさいごであったのではないかと思う。しかしミュアエいわく、それいこうマキがUSJを叔父夫妻にねだることはいちどもないという。
どうせ終わるのなら、思い出がだいじかとおもっていた。すこしでも長くいっしょに居るのが、新しい体験をできるだけ積み上げるのがだいじなんだと。でも、ちがった。かつてマキであったかおのまま、少しずつ瞳のひかりだけが老成してゆく少女がそういった。そして顔のいたいけな造形そうおうに顔をくしゃ、として目をとざす。お父さんと、お母さんが死んでいくのをもうこれ以上みたくない。
預言されたみらい、昼まえだというのに真っ赤なそら、そのもとで無数の無辜な人びとが死んでゆく、マキの両親も含めてだ。しかしあの風景がおとずれるまで、せかいが終わるまでのあいだにまだ僅かないとまがありそうだ。
きみはなん度目くらいなんだ。
たぶん一ヶ月まえくらいからの繰り返しが十度め、くらい? ーーさいしょのうちは夢かなんかかと思っていたから、すこし曖昧だけど。オジサンは?
きみみたいに記憶はないけれどね、ミュアエによればまだ五桁のうちだって。
そう。
まあつまり、死ぬのは初めてだよ。ぼくはすなおにそう告げる。しょうじき、怖くてたまらない。
万の単位かあ。あたしまだそんなに、こんなのを繰りかえさなきゃいけないの?
ねえ、かりに終末の日が来るまえにあたしが死ねば、こんな地獄みたいなせかいももう終わるのかな?
かも知れない。でも、マキが両親を救えるかもしれない未来もえいえんに失われるけど。
ああオジサンも『もしかしたら』って、望んでいるんだ。望んだことがあるんだ。マキはそうぼくの空の左そでをつまむ。
「いまのあたしならわかるよ、その呪縛が。そしてオジサンにそんなクソみたいなセリフを言わせるミュアエというあたしの事をゆるせそうにないーー」
夏休みのあさの食卓でみそ汁を飲んでそう息を吐くマキの両眼は窓からのひかりに虹彩があかるく浮かび、まるでありし日の雌獅子のようだ。しかし次のしゅんかんにふ、となにかに思いいたったようにひたいをテーブルに押しつけて号泣する。
『じかんが過ぎるのがこわい』とじぶんの涙にむせながらマキが嗚咽する。
しっている、分かっていた。たかが十なん回かの試行で擦り切れるほど子どもの期待と欲望はあわくない。その精神はきわめて可塑性に優れて頑丈なのだ。まだなにもあきらめきれない。どれだけ泣き崩れていても明日には希望をむねに立ち上がってくるのだろう。むしろぼくは、ぼくのことが心配だ。まえに涙流したおぼえはもはや他人ごとのようで。痛みの記憶がかんぜんに擦り切れて千切れてしまえばそのとき、ぼくはもう、このぼくでは無くなってしまうだろう。
その経路でのマキは、さいごの日を両親から離れて屋外ですごす事を選択した。
ぼくはもちろん電車の乗りかたがわからない。ホームでは右をみても左をみても大量の人間ばかりできぶんが悪くなる。子どものころ鉢植えの葉のうらがわをみたらアブラムシがびっしり付いていたときの感覚と似ている。なにを考えているのかわからない、得体のしれない存在が無数にいるのだ。ぼくは動けなくなって、けっきょくはマキにてを引いてもらった。
「しようがないなあ。きょうせかいが終わることは、オジサンにとってはしあわせだったのかもね」
すがたのある少女のせなかがそんなことを言う。
「反応うすいよ。じょうだんにはちゃんと応答して、それが悪趣味であればあるほど、いっそのこと殴り飛ばしてくれたらいいんだから」
「きみはやっぱりミュアエだ。いやーーこれからそのうち、ミュアエになるんだな」
祭りの会場につくと広々とした河川敷の公園にキッチンカーや屋台と、いろとりどりのパラソルの座席が並べられている。暑さに辟易していたぼくらはかき氷を買って手ごろなパラソルにすわる。まだ花火大会には時間があり空いていたのでいちばん川にちかいところを選んだ。
なあこんなストローのさきが申し訳ていどに開いているだけの匙でこれをキレイに食えるわけが無いだろう。ぼくがそう、体積が二合飯くらいはあるだろうブルーハワイのかき氷をまえに格闘としていると、少女が「ちょっと待ってすこし溶けたら固まって食べやすくなるよ」すましてそう言う。「出来たてふわふわのかき氷は食べるためじゃなくて、観るためにある」
「しかたないだろ。かき氷食べるのなんてもう十年ぶりくらいなんだから」
「えー、そんなかわいそうなヒトってほんといるの?」そうわらい、「あ、いたいた。ここにいた」と苺ミルクをくちに含む。
ぼくとマキはそろって夏祭りに出かけていた。しかしそのためにぼくはと言えば、初夏のうちから、従姉妹の世話をじゅうぶんにみれるくらいの社交性をアピールするひつようがあり、他者の行動を予測するよりずっとそちらの工作のほうが面倒くさかったのだが。
「まあ仕方ないこうしてマキとデートするためだものな」
「気持ちわりい言いかたすんなし」
「ふつうに、花火を見にいきたいって両親にたのんでみたら良かったのに」
「ううん、だめだ。きっと泣いてしまう」そう肩ごしにこちらを見やるちっこいせいに手を伸ばしたあたりで
どん、と腹にひびく音がとどく。ようやく花火の始まりか。闇夜にひかりの明滅が、叢雲の陰影を断続てきに浮かびあがらせる。しかしそれは花火ではなかった。ほおをひやりとした感触がなぜて、あたりの群衆のはしばしから歓声ともみまごうざわめきが伝播する。
ふたたび空がひかり、轟音がひびく。一拍あいて雷雨が降りそそぎ、人びとのざわめきは明らかな悲鳴に転じた。
いまにも雨音にかきけされそうなアナウンスが花火大会の中止を告げるなかマキとぼくはずぶ濡れで駆ける。いな、ヒトの波に流されてゆく。リュックのなかには折りたたみの傘がはいっているがそんなのはもはや無価値だ。服の左そでを掴むように、とぼくはマキにむかってさけぶ。手をひいて両手のふさがったまま転倒でもしたらぼくの方が足手まといになってしまうコトは明白だ。
はーい、と左そでをぐいぐい引きながら走りながらマキは
うわっはー、ゆめ、ひとつかなったぁ!
とはしゃいでいる。いつか言ったでしょう? ゆめだったの! 嵐のなかでこーやってっ! 風と、あめを浴びんのが。
こっちはそんなのもう、忘れてるから! ぼくはそうあたりの騒音に負けないようにさけぶ。とにかく、はぐれないように何処かにはいろう。
きゃらきゃらとわらい終えたマキが「変なゆめ」という。つづけて「だけどゆめじゃあ無いんだよね」とつぶやいて、ぼくのそんざいしない左手をひいて手近にあった家電屋のピロティの駐車場に避難する。あたかも『そこにその場所があること』をしってでもいたかのように。
カミナリが怖くないの? ぼくが問う。
なんで、たのしいじゃん。
万が一、あれがちかくに落ちたら死ぬんだよ。誘導電流で、有無をいわさず血が沸騰して。
そっか、オジサンとはもう、怖がりかたが違うんだね。あたしたちはあたらない宝くじがあたることないこと知っているから。ずぶ濡れの雌獅子がとなりでそうやって歯をみせる。
宝くじは当たるよ。それがどんなに低い確率であっても当たっているだれかは現実に存在する。
うん、それであたしはね。もし宝くじの一等が罷りまちがって当たってしまったなら、そのしゅんかんに死んでも良いじゃないかとか思うわけ。あとね。さいきん歯医者がこわくないの。『けっきょくは痛いだけでしょ?』っておもっちゃう。かるい虫歯を麻酔なしで削られるようなときなんかもね。なんだか、肉のからだからだんだん解離していくよう。
言って手のひらを見つめおとす。
すべて憶えている、思い出せる。あたしはどんどん変わってゆく。オジサンが変わらないからそのことがよくわかるわけ。
ごめん。ぼくはタダの人間なんだ。
うん、ごめんね。あたしたちみたいなバケモノに付きあわせちゃって。
気にしなくていいよ、こっちはどうせ、すぐに忘れるんだ。
4
じゃあミュアエは、毎回まいかい十万年もまえまで遡ってるの? ブレンってひとのところまで。
ミュアエの過去の冒険譚をきいてぼくはそう驚嘆する。
いや、ブレンとはいちど出会い、一度わかれてから二度とあっていないし、この先にあうこともないな。
そうか。気づいてぼくは、言葉をなくす。
どうした?
お父さんとお母さんは死んでしまうけれど、ほかのどこかの経路のぼくはまだいっしょに暮らせているんだとおもっていた。でもミュアエの目論みどおり最後の一日が訪れなければ、そこで波動関数は収束して、両親とぼくが相互作用することはもう二度とないんだね。
ああ。おまえはいつも、両親の死を目の当たりにするマキや、ホーキング輻射で星ごと灼かれていくマキを見つめるたびに『しあわせとは何なのか』内心にそう問いかけていた。あたしも聞きたい。人にとって人類のそんぞくが幸福なのだとあたしはかつてそう、疑いなく信じていた。おまえにとっての幸福とはなんだ?
ぼくが答えずにいると。マキはかぶりをふるう。ブレンには会おうとおもえばまた会えるさ。けれどもう会わないのは、かれがそれを望まなかったから。なのでもう、そんなに古い時代までは遡らない。あたしのばあいは寄生したって干渉の手段がかぎられるからな。すくなくともまずこうしてコトバでコミュニケーションできなければ仕方がない。ブレンだけが例外だった。
ヘロドトスのころようやく、顔は見えないがたしかに存在をする首なしの種族ーーブレン・ミュアエとして認知されるようになった。どうやらあたしのことを定住地を持たない騎馬民族の集団なのだとおもっていたらしい。きっと彼らからすればすさまじい早さで集落から集落へ飛びまわったりしていたからだろう。
じっさいには首長から首長へと飛び移り『背後のかげ』として神託を降ろして其れらをあやつっていたんだけど。
やりたい放題じゃん。
まさか、とミュアエがくびを振るう。いつもなるだけ目立たないように密やかにやったさ。まえにブレンの家系に憑いて巫覡の家系を立ちあげたとき、そこからがたいへんだった。なにしろ、魔女に見つかってしまった。
魔女ーー遺伝情報を架け橋に他者の情報ネットワークと相互作用して記憶や意識を読めるって。もはやそれは人間なの?
まあいまのあたしたちがやっているコトと本質的な差異はない。もんだいは娘もまた母親から血の記憶を引き継いでいる。そっちの方がよっぽどおおきな特色だな、魔女は母子に記憶を引き継ぐことであたかも不死の個体であるかのように自我の連続性を保っている。
すきなタイミングで宿主を代えて渡りあるけるミュアエのほうが有利に思えるけど。
そうとも限らない。ミュアエが言う。宿主に血のつながりがあるということは資産も継承出来るというコトだからな。現に最新の魔女ウチカは医者の母親のクリニックを継いでいるらしい。
産まれたときから命運がさだまっているというのも、なんだかきゅうくつそうだけど。
そーか? 隻腕の引きこもりよりはずいぶん、安定感ありそうだけど。
なるほど、とぼくは納得してしまう。そのとおりだ、ミュアエはなんでこんな行動半径のせまい引きこもりをプローブにえらんだの?
おまえときたら、冗談がつうじないからときどき心配になる。ミュアエがそうため息する。謝るよそして気にするな。あたしがあたしの都合でおまえに憑いているだけ。魔女ほどではないがあたしにも宿主を移行するさいの制約はある。
え、そうなのか。いままで教えくれてないと思うけど。
そこまで魔女におしえてやるつもりはない。だっておまえはいずれウチカと交わって体液と来歴とあたしとの記憶を魔女にわたしてしまうんだろう? おまえが童貞を捨てたあとまた、こうしてどこかで話す機会があったら、その経路のおまえには教えてあげる。
つまり二度目は無いってことか。ぼくはそう首をふるう。未来のぼくの行為のせいでなじられるのなんだか釈然としないのだけど、それよりもなによりもまず。ぼくはウチカってひととするまでは誰ともそういうコトをしないのは確定なの?
まあ安心して、ウチカはかならずきみを誘惑する。相対論的生命ーーあたしの残り香にさそわれて。おまえを踏み台にこちらに手を伸ばそうと。でもそのときのおまえはもう、あたしともつれていないんだ。魔女の落胆を想像するとくちが綻ぶよ。
なるほどそれで。諜報活動としてぼくと性交したあと、もう二度目はないってことか。でもさ、これだけ知ってしまったのに未来のぼくはまだその誘惑に転ぶのだろうか。
むしろあたしが聞きたいところだ。これほど聡明になったおまえですら、死をまえにすると動物に準じた振る舞いをする。せかいが滅ぶちょくぜんにおこなう生殖行為なんて、無意味でしかないのにーー。
魔女はーーウチカはどんなかんじなの。死をまえにして。
それはよくわからない。みらいの出来ごとはマキの主観でしか知らないし、今のところウチカとマキがちょくせつ会話をできるシーンはまだ訪れていない。無理もない、魔女とあたしの間がらでは互いに警戒しあうのはとうぜんだ。
ちょっと待って。でもマキ経由の情報でミュアエがしっている、ってことは、マキも知っているってことか。ミュアエと仇である魔女とぼくが性交したことにーーここまでしってなおまだ、ぼくはウチカと交わってしまうのか。
まあ、まだ十年ちかくあるんだ。宿業について好きなだけ考えるじかんはある。ミュアエがそう、ぼくのあたまに触れる。
魔女は人間か、という問いについてだけど魔女はあたしと違って宿主の意識ではなく遺伝情報とエンタングルメントしているからね。厳密にいえば魔女に寄生された人間はもはや人間というよりかは、あたしたちと融合したあたらしい霊長類ともいえる。さいしょにヒトとエンタングルメント可能な遺伝要素ーー仮に魔女因子とでも呼ぶかーーをもったヒトが出現したのは紀元前十世紀あたりらしい。だからその時代いこうからしか人類史には干渉できないし、魔女因子は性染色体上にあるので女性にしか寄生できない。
そんな時代から遺伝形質が途切れずにそんざいして来たのであれば、人口比てきに現代では十万人くらいは適合者がいそうな気がするけど。ぼくは問う。なんでこの時代の魔女はいつもいウチカさんなの?
なに、やっぱり一回セックスするとなるとさ、名前で呼びたくなるう? 背後からにっこにこのミュアエが(たぶん)マキのかおでそう言うのでスルーして。魔女とミュアエはなんで争うの? おたがいにおなじ目的で、異なる方法で時間軸をループしているんだろう?
理由は三つほど思いうかぶ。まずあたしたち『相対論的輻射生命体』はどうやら群れるようには出来ていない。喰らいあったあげく最後の一匹が次世代のマザーとなる、どうやらそんな野蛮な生き物だ。なので同じく人間を宿主とする個体どうしが争うのは本能てき必然ともいえる。
二つ目。ただし人間を宿主としたあたしたちはおまえたちを祖型にした知識や理性も得た。本能を超えてたがいの利害のために共闘するのもやぶさかではない。あちらもーー魔女だってバカではないしな。だけど目指す方向がちがいすぎる。ミュアエがそうため息する。
じっさいに魔女は周到だよ。紀元前数世紀のころザナスシュトラという神官をたらし込んで終末思想と選民思想を植えつけた。遠くないあるとき最後の日が来ること、そのときに救われるのは一部の民のみであること。最後の日に救済を求めて聖戦を戦うように人類をそう躾けようとしたんだ。
ちょっと待って、あんな、太陽系内に重力レンズをたくさん設えて制御するあいてに人類で立ちむかえって?
すくなくとも、魔女は本気だ。次の幾回の試行でザナスシュトラの終末論を西と東に伝播し仏教、キリスト教、イスラム教の基礎理念として不動のものとした。キリストとイスラムに於いては『聖戦』の概念も萌芽したのでこのどちらかの宗教が覇権をにぎるよう画策をはじめた。
そしてブレンに連なるものを、この星を造った造物主ではなく異界の女神を奉じる邪教、厭世てきなグノーシストとして排斥した。
まるで、見てきたように言うね。
見ていたよ。魔女がマグダラのマリヤとしてユダを唆してイエスを裏切らせるところもね。
なんでそんなことを?
ユダがとおくブレンに連なるもので、こころ密かにグノーシスの思想を持っていたからだ。そんなものが覇権をにぎってしまえば魔女の思わくは台無しだ。
グノーシス主義は言ってみれば終末論にひそむ癌のようなもので、このせかいは偽りの造物主によって造られた偽りのせかいだとする思想だ。グノーシス主義者も最終目標としてこのせかいの終末をねがっているが、永遠の来世は望まない。偽りのせかいに魂を穢されぬまま死んで、死後せかいのーーこの星の外がわにある真なる神、真なる魂の器に合一することを目的としている。
「ロックだな」
外宇宙からの原生種の侵襲も主義者にとっては真なる神の手になる死の恩寵と受け取られかねないからな。全人類が目的意識を共有して外宇宙の仮想敵に向けて終末論てき聖戦を挑むというシナリオとはどうにも相容れないわけさ。
このままに血と記憶をたっぷりと溜めこんで魔女は人類の潜在的指導者になるつもりだ。それであの夷狄を撃とうと。だけどそれでは、魔女の指さきの示すさきは、既存の人類の知恵とパターンの内側からしか出てこないじゃあないか。
まえにおまえに言った。あたしはあたしが何ものであるかをおまえたちから教えてもらったと。きっとあたしたちは人間に寄生するものであり、言ってみればストレージだ。倉庫にあたらしいものを生みだすことはできない。
あたしたちに指導されることで難を逃れたとしてそのさきの人類はどうする。寄生生物からの神託でもって未来を選択することをつづけるのか。それはもはや人類のみらいと呼べるのか。なあ、おまえはどうしたい。
ぼくはおもわず、わらった。
おい遊びで訊いてなどいない。分かるか? おまえ自身のことでもあるんだ。
「生き残ったってどうせ数十年でしぬ。」
ミュアエが応えず沈黙する。
「ぼくはきみみたいに人類のみらいなんてものに興味がない。ぼくが死んだあとのせかいにもーー。でもミュアエはちがう。だからこれからの人類がどうあるべきかはきみが決めなよ。」
「たまたま、たまたまだったろう。マザーから播種された種がこの星の人間の意識に寄生してあたしとなったのは。いまでは人がいなくては生きていけない。人にとって地球のようなものだ。そうしてこの情報のすべても人から受けとった、親のようなものだ。それがいま、自分でじぶんを呪い軽んじていることがいたたまれない。あの子どもを、こんなに擦り減らしてしまった。」目はそろったな。とミュアエがつぶやく。
「なんだかんだ永らくつづいてきたけれど、此れほど長いじかんを語らったあいてはおまえだけだった」おまえはそんなに、憶えてはいないだろうけれど。
なんのはなし?
あたしはまだもう少し、人類のみらいがみたい。魔女のところに行ってくるか。
そうして最後の日のあさ。子どもべやに来たマキのかおをしたミュアエが問う。
どうした、まだ終わっていないだろう。次まで待ちきれなかったの? ぼくはそう応え、初めて正面からミュアエをみる。
「答えを聞きにきた」おまえの答えを聞きたい。はぐらかされずにな。「おまえの望みはなんだ。」
藪から棒に、傲慢だなあ。
まさか、ミュアエがわらう。「十年も待ったんだから唐突なわけがない。」おそらくはそろそろ最後がくるから、終わるまえにあたしもあたしの総括をしておきたいんだ。
「まったく是非もない。ここにいたり人間に判断をゆだねるなんて。」
待ちくたびれた、といった具合でベッドから起きあがった魔女がウチカの喉でうなる。
「寝起きがわるいな。これまでどこでなにをしていた。せかいが終わるというのにいつもこんなところに隠れていたのか。夕暮れまではマキが訪れることのないこの場所にーー」
「姉さんにとやかく言われる筋合いはないな。どこでなにをしていようが自由でしょ? あいにく。あたしはどんな寝床でも寝れるんだ。昨晩はたまたま、この人間があいてだったというだけ。」
ウチカさん? ぼくはそう問いかけるが、ウチカのからだを纏った魔女はぼくをただ一瞥するのみだ。
「言ったろう。魔女にとっては手段にすぎないと。でも一度ならず何度もコトが為せたようだね。それで服着なよ。ちいさなころきみはとても聡明な男の子だった。」
そしてウチカに目をむける。
「魔女、そのウチカと呼ばれた身体。ちゃんとうちのカイくんにその身分と立場の申し開きをするんだ。」
どうせすぐに忘れるよ。人間などただの器だろう、ウチカのくちが言う。それに礼をつくす必要があるか。
ある。ミュアエがいう。「左手の貸しをいま此処でかえされたくないのなら。」
くだらない。魔女がいってため息する。姉ぎみが私を殺すならただ殺したいときにそうすれば良いのであって、私から介錯をねだるひつようはない。
着衣をととのえた魔女がそう言って立ち上がる。
まあそう言いなさんな娘さん。ミュアエはそうぼう読みに言って、ベッドのうえでぽんぽんと膝をたたく。
魔女は条件反射てきにそれに引き寄せられたようすであったがちょくぜんに立ち止まり、そのひざもとに座り込む直前のしせいで姉であるミュアエを睨めつける。
ははあ、此処にいたりまだ、この姉の肉を拒否しますか。ミュアエがそうほほえんで。 このカイくんから教えてもらったんだ。魔女がそんなに旧くから存在しているなら、魔女因子をもつ女性がこんなに少ないわけはないって。たしかにそのとおりだ。つまり、母娘の血縁で宿主を継承する魔女はその依代のリンクが薄まらないよう他の女系の子孫を根絶やしにしている。あたしたち相対論的輻射生命体にふさわしい、合理的な蛮勇だ。
そこであたしはもう何度もなんども試行をくり返して魔女に間引かれる娘をさらっては嫁がせたりを繰り返し重ねて血統をコーディネートした。てっとりばやく言えばこのマキは遺伝情報に魔女因子を有している。
うそだね。魔女が言下に否定するが。
遺伝情報っていっても所詮、分子のパターンだろ。なぜあたしにそれが処理できないと思う? これからその宿主は死ぬ。マキも死ぬけれどそちらよりは長くこの星の死までは生きのこる宿命だ。宿主をなくした妹は果たして、この逃げ場所を拒否して高潔な死をえらべるのだろうか、ってお話なわけ。
なぜ、手紙のへんじを返さなかった。雌獅子がそう魔女をねめつける。
血ーー物理てきな遺伝情報をメインの記録メディアにする魔女はおそらく、ウチカの死後せかいがなぜ終わるのかの原因を知らない。同胞の原生種の攻撃によるものである事実を。なのでカイとウチカを通じてそれを教えてやった。あたしは共闘のさそいを待ちながら、どうじに魔女を従えるためのながい術式の準備をはじめた。返事があまりに遅いのでこうしてさきに準備が終わってしまった。
星系外の蛮族に蹂躙されたあとで否応なくあたしに屈服するか。それとも共闘により夷狄を殲滅したあと、同族で殺しあうかってコト。あたしのあたまのよい妹ならこの損得を理解できるでしょ。
わかりました。魔女がうなだれる。では、『最期のとき』まで宿主とのリンクを切る。降伏せんげんはこれで足りるか。
ああ、そちらの相対論的輻射ネットワークと切り離してもらえばそれでいい。あとはこちらで適当に差配する。そう魔女との交渉をおえたマキ・ミュアエが「死を待つか、それともあらがってみるか。カイおまえがその、胴から切り離された魔女のあたまも含めて選択しろ」と雌獅子のしせんでそう告げる。
すると魔女の制御をはなれてひかりを取り戻したウチカの目とからだが震えだした。きとせずそれに伸びるぼくも手も、また。
幼いころのぼくはこれほどまでに運命を知ってしまったあとも、それに翻弄されておどることができるのだろうか、と疑った。しかしじっさいには定命の人間たちはただ運命に翻弄され、震えながら怯えて抱きしめあうしかない。それが無意な営為であればあるほど不思議とそれこそが、目の前の無常へと立ち向かう理由となるのだった。ほんとうに、不思議なことに。
さーー具体的にどうしたいのかを教えてくれ。そんなぼくらの人間としての振る舞いをいちべつしたマキ・ミュアエがそう問う。そうして応えがないのにうなずいたうえで、
「うん。ならあたしからか。カイ、おまえはあたしの希望だ。なのでこのミュアエのーー未来をあきらめきれない強欲がゆえ付き合わせてきた。それがあたしの望みだ。望みだった。おまえの其れを聴かせてほしい」
「望み」か。じゃあ理由はわからないが
うん。
「きみとマキの可能性はまだ続くべきだ。ぼくの代わりにマキの両親を生きのびさせたらどうだろう。もはやきみの貯蓄は、それを為しうる、因果律の改ざんに十分だろう。」
しかし。おまえも死んだらマキも早晩に死ぬぞ。
どのみち、遅かれはやかれという話だ。じゃあミュアエの両親のほうを生かすべきだ。
おまえは、生きたくないのか。
うん、ぼくはうつむく。どうやら、理由はいまいちはんぜんとしないのだけど。
ウチカはぼくのかおをチラリとみて、「人質の私にまで発言がもとめらているのかは分からないけど」と前置きする。「このひとの記憶を見たことがあるが、マキというその少女はそのことで姉さんにひどく腹を立てていた」
「もちろん。しっているよ。ただウチカさあなたはね、お行儀よく人質をやっていればいいわけ。泥棒ネコが当事者みたいに語るのってさ。やっぱりみっともないから」
なあミュアエ。中学に上がったころ、ぼくはそう語りかける。この相対論的輻射生命体がすぐぼくのまえから消えてしまうことを知っていたからだ。君にとって人間は、一晩ねれば前日の記憶を失ってしまうような存在だ。それになぜ、そんなにこだわるんだ。きみにとって人類が唯一無二の住処だということは理解している。だけどぼくなら、滅びかけたミツバチのコロニーを救うために一年も経たずに死ぬミツバチの一匹を啓蒙するようなやり方は選ばないとおもうよ。
気づいていないだろうな。おまえがもうすぐ十三をむかえるという事実について。すっかり影の薄くなった見えない少女がそう言った。
おまえがいつも、十年ていどでどれほど劇的に、多様にへんかするのか決してじしんで知ることが無いように、あたしがあたしの変化を知るのもおまえを通じていがいにはない。ミュアエはそう言って、「ねえダチョウをしっている?」とそう奇妙にささやく。
この国に生きる子どもでその存在をしらないものを探すことのほうが難しいだろうな。
よろしい。姿のない少女がぼく以外には聴こえないおとでわらう。「ダチョウというのは家族で群れをつくるんだが記憶力がよわくて、ちょっとビックリしただけで家族とほかのダチョウとの区別がつかなくなるらしい。なので事あるごとに頻繁に家族の成員が入れ換わる。母鳥がとなりの家族と入れ替わっても互いに誰もそのことに気づきすらせずその後の暮らしを続けてゆく。びっくりだろう? で、そんなダチョウのそんな側面をしっておまえはどう思う? それでダチョウの事をきらいになったりするか」
「嫌いにはならないけど、この生き物はなんのために生きているだろう、と考えたりはするかな。」そう応えて放課後、河川敷の土手にこしを降ろすと、
正解にかなりちかい。と、ミュアエのこえ。
あたしもおまえも生きている。しかし生きているとはなになのか、という問いはあたし一人の内がわからではまず沸いてはこないテーゼだ。『あたしは生き残りたい』という気づきと目的をうしなわないようにあたしはおまえを見つめつづけている。
なんだ、ダチョウはそっちじゃあないか。ぼくはそうわらう。「ぼくが死につづけるところを見ていないとじぶんが生きていることをわすれてしまうんだ」
ああ、そうだな。毎回がちがうおまえなのにだんだんその区別があいまいになっていく。そのどれもが違うおまえなのに、やはりどれもがおまえだから、じゃあまあどれでもいいか、って。あたしは時間軸を動き続けるなかわずかな時間対称性の破れで、そのせいで不可避てきにすこしずつ変化しているハズだ。けれど変わらないものもあるのだと。そう、錯覚であってもそう、信じさせてくれる。
また、大袈裟な。
ああ、だってどうせ次あうおまえはわすれて憶えていないからな。ならどれだけ大げさであってもいい。
うそつきーー
え。
なら、ぼくが大人になったときには背が伸びてるってのも、どうせウソなんだろう?
十年後にじぶんの目でそれを確かめたらいいさ。そこで文句があればあたしに言えばいい。
え、そのときにミュアエはいるの?
ああいるよ、終電のときには。
終電?
そう。終電の終点ですべてのものが居合わせることになる。
※
終わりの日、真っ赤な窓の子どもべや。眼のなかの水晶体にチェレンコフ光が発生して凡てが青く染まるまでのわずかないとま。
となりで座りこんでいたマキがきゅうに立ち上がってフラフラとあたりを歩きまわる。どうしたのだろう、死の恐怖に恐慌をきたしのだろうか。ぼくとは違い彼女にとって死はもはや慣れ親しんだもののはずなのに。それから何度かひざを曲げのばししたのち、片足だちのつま先でくるりと回転して、もういちど回って、三回目でいきおい余って畳のうえに転倒する。そうして倒れたまま動かないのでさすがに気になって脇にうでをいれて抱えおこすと、
「身体が重い。あたまがクラクラする。ぶつけたところが痛みであつい。こんなに情報がおおいせかいで人間たちは生きているのか、。しかしまあ、今回はだいぶリンクも安定したな」
「もしかして、ミュアエ? マキを食べてしまったのか」
「いうなれば一時的に、賃貸アパートに入居したようなものだ。この身体も意識も大家であるマキの所有物であることに変わりはない」
「これが、終点ってことか? だから、ブレン・ミュアエとうにんが降臨した」
「せいかくには、違う」そうマキ・ミュアエがくびをふるう。「ブレンというのはあたしが憑いたさいしょの人間のなまえで、マキというのがその最後の名だ。カイというのは終点のひとつまえの駅名。終末のおとずれを告げる目醒めの鐘。そしてつぎの電車でこの路線は終電だ。」
きっとうまいたとえ話なんだよね。けどぼくは電車に乗った記憶なんてほとんどない。ぼくが応える。まいかい、記憶喪失の引きこもりだから。
しかしだけどきみはかわってゆく。以前よりもかくじつに皮肉がうまくなった。
「なああたしはあたしの望みをかなえるために肉のからだを得ようとした。それが成就したいま言わせてもらうが、どうぞひとつ殴って欲しい。ほんとうのところ、二つでも三つでもいい。それで足りるということがあるのならその分だけ。」
「マキのかおしてそう言われてもな、やったところで寝覚めがわるい。」
やっぱりそう。ミュアエが苦笑のようなため息を吐く。「おまえが一度でもあたしのことを憎むとそうはっきり言って呉れたならこんな座標にはたどり着かなかったのになーー」
「これは興味ほんいで聞くのだけど、せかいが終わるまえにここできみを殺せばすべてがおわるのか。」
「無駄な仮定だ、おまえにはそんなことは出来ない。あらゆる経路に於いてあたしはまだ、そんな片鱗もみたことがない」とうめいな無表情でマキ・ミュアエがいう。「おまえの善良さがあたしの人間についての信頼を基礎づけている。血なまぐさい事態が避けえないのならば、おまえは其れを知らなくもいい。そちらはすべてこちらでやる。」
「ちょっと、よく分からないな。」階下のリビングでマキの両親が死んでいる状況のなかで、ぼくは首をかしげる「きっとなにか気をつかわれているんだろうけど。」
「あたしがその時までに演算しおえた可能世界の出来ごとを嘘偽りなく漏らすことなく伝えてきたと、あたしはいつもおまえにそう言ってきたが。あれはウソだ。」マキ・ミュアエは真顔で、そううそぶく。
「そんな、ひどい。そんなウソをバラされたら今後ぼくはなにを指針につづいて行ったらいいんだ。」と冗談めかしておどけたあと。というか、べつに良いのか。どうせ死ねばこうしてウソをバラされたことすら忘れてしまうんだからーーとなっとくを落とす。それでぼくはなにかを察して「そうか、ほんとうにこれで最後なんだな。つぎの列車にぼくは乗らないのか」そう、かおを取り戻した少女のかおを覗きこむ。「ブレン。変わらずあなたは誠実なひとだ。それでいて、少しだけ優しい」
「どうぞその名で呼ばないでくれ、昔の知りあいを思いだす。そしてみてのとおり、今はブレンではなくマキだ」言ってすがたのある少女が肩をすくめてみせるが、所作がいかにも演技じみている。これ観よがしに下げた両手のひらをこちらに向けて、それはまるで幼いこどもがテレビのなかの俳優の仕草を真似ているかのようだった。仕方がないだろう、こんなにも厚みのある大きなからだを動かすのなんてはじめてなんだから、と普段のマキよりもよほど無邪気な笑みをつくる。
「ああそうだ。おまえについたウソについてのはなしなんだが、それはぜんぶすべてじぶんのためだ。すべてが終わったばあい、あたしとおまえのエンタングルメントは完全に解消してまったく関係のない間がらになる。おまえにはあたしがまるで永久に静止したように見えるだろう。そしてあたしが瞬きをするまえにおまえの存在は崩れてこの地球というバリオンの海に流転する。『終わらない』というコトは、そうしてずっとつづいてゆくという事だ。嘘をかかえてとわに続くのではきぶんが悪いだろ?」かつて『永遠のブレン』と呼ばわれた少女がくびをふるう。
「きたるべき未来を理解したあなたが自らいのちを絶ったことがなんどかある。」
「なんども?」
「なんども、なんども」だけどあたしはそれを伝えなかった。
ありがとう。ぼくは言った。なんだか、じぶんが人間ではないかのように思えていた。どこか感情の歯車のくるった人物なのだと。でもミュアエが教えてくれたから、もしもこのさきが続くのなら、すこしは普通の人間のように振る舞うこともできるのだろうか。
ぼくはミュアエに未来をねがってそう告げた。
※
あるとき目覚めるとすでにぼくは二十二歳だった、いつもならあと何週かで終末の日にいたるとある夏の日で、ぼくは身体になじんだ習慣どおりにアパートをでてバスに乗る。せかいがまた滅びたのだろう。しかし、まえの経路の記憶がすべてあった。ほんらいであればぼくはまた産まれなおしてそれに憑いたミュアエが付きっきりで、前回のはなしも含めぼくにすべてを教えてくれるはずだった。
しかしもはや教わるまでもなく。前回の死、あの最期のゆがんだそらの記憶もせんめいだ。あのときのマキのひょうじょうも、つい先ごろの出来ごとのように瞼のうらに残っている。しかしマキとなにを話したのかいまいち判然としない。たしか公共交通機関についてのはなしをしたように思う。ぼくがバスの乗りかたを知らないコトについて詰られたのだろうか。しかしせかいの終わりにそんなくだらない話をするだろうか。まあそっちはいい、バスの車窓の風景を眺めながら考える。じゅうようなのは異なる経路の記憶がのこっているコトだ。せかいが巻き戻ったのにぼくの初期化が不完全におわってしまったのだろうか。
そのせかいでは両親は死んでおり、ミュアエも居なかった。そこはいつもどおりの二十二歳のぼくとおなじ。しかし左腕はあってぼくはそれを所与のものとして自由に使うことができた。そしてこの経路のぼくがこの二十二年を具体的にどのように生きてきたのかという覚えがあいまいだ。異常なじたいにぼくは混乱するが、やがて冷静になる。たしかにーー過去の人生の記憶はないのに、さきごろの未来の記憶だけがせんめいだというのは普通ではない。しかしここでいっぱんに言う「ふつう」というのがいったいどういうものであるのか、一度想起をしておいた方が良いのではないか。
いつもならミュアエは時間軸を太古まで遡り、ついでそれを順行し、やがてぼくの誕生までいたりぼくに憑く。そこで彼女にそって動きはじめたぼくの時間はふつうの赤子とどうように周囲の環境から情報を吸収しつつミュアエ経由で他の経路の過去と未来についての情報を伝授される。そしてやがてミュアエはいなくなり、カタストロフのあとでこの下りのあたまからやり直しがされる。
螺旋やそれを引き伸ばした波のように循環するこの構造の起点はぼくの誕生でも一番古い過去でもなく、もっとも遠い未来である最後の日だ。
あのカタストロフの未来からぼくの生誕のポイントまで遡る経路があらゆる可能性のなかにひとつも存在しなかったのでぼくは赤子からは始まらず、そしてそもそもが存在しない過去についても知りもしないのだろう。
そうか、この経路におけるぼくの生誕はなくなったのだ。いな正確にはぼくは生誕したためこうして生きているのだけど、その発生の座標は今やハッブル半径のそとがわにあり、時間軸のパラメータをどう加工してもそこに着地することが出来なくなった。時空のゆがみがいよいよひどくなり本来はほぼ保たれているハズの時間対称性が破れだしているのだ。
もちろんこの経路における一揃いの過去がかつてあった。しかし波の干渉による打消や金属のエネルギーバンドのギャップのようにそれがこれからも起こる可能性が無になっているのだ。
まいったな。前回の記憶はあるが今回のミュアエの記憶がないということはつまり、こにぼくは最後にして最新の神託を取りこぼしている、ということだ。いったいなにが起きているのか。
もう考えてもしかたが無いが、まず考えたのが、無限にちかい試行のなかで人類の歴史や肉の寄生主というエントロピーの捨て場所を使い果たし、妖精たちはひかりとして蒸発してしまったという可能性。もしくはわざわざ人類発祥まで遡らなくとも、もっとうまく行く未来への橋頭堡がさだまったのでそこをセーブポイントにつぎからはそこを始点に運算をはじめた可能性。
前者であればマキという少女はもうにどと両親を目の前で焼き殺される事はない。まあこの経路にマキはいないらしいし、これまでに一度もあったことは無いんだけれど。ならばミュアエももう、『この』ぼくの人生のさきには存在しないのだろう。
ただし昨日がどのようにあって今日とあすをどう生きればよいのかという事実については明白な認識があった。ぼくは大学生で、事故のせいで二年進みがおくれているので就活はまだ始めなくてもよいらしい。
そうしてぼくはながい夏休みを利用して、かつての実家をおとずれた。とりあえず絵日記をたぐって前回の記憶をたどりながらそれと今回との差異をさがしてみようと考えたのだ。
ただ確認したかったのは記憶と記録の整合だけだ。これまでに起こったこと、起こらなかったこと、それを確かめるためにぼくは生家に帰ってきた。いまでは叔父夫妻が住まうのだが、西向きの子ども部屋はまだぼくのために残されており、それでなんとなくまだ、昔のように振るまってしまう。日中はできるだけ一階に降りないようにしたりとか、風呂にはなるだけ遅くに入ったりとかーーここはあなたの家なのだと叔父たちはいうが、そうでは無いことはちゃんと知っている。
ただ、いつ帰ってくるのかというメールがいくつかのながい休みのまえにいつもとどくようだ。それも出迎えの準備をしたいのだという期待と催促を兼ねた文面で、このせかいにはマキがいないので、進学までともに暮らした親のいないぼくのことを、叔父夫婦はじつの子どものように思っているようだ。しかし、かんじんの『ともに暮らした』記憶がはっきりしないので、いっしょにいるとひどく疲れる。風呂にはいり夕食を終えて、叔父はまだ晩酌をつづけたそうだったが、いそいそと子ども部屋に退散した。
翌日、つよいかぜが吹く。樹木のざわめく音がして、曇りガラスからシンクに落ちるひかりがチラチラと無声映画のフリッカーのように風景を擬古的に衒わせる。まったくこのせかいはなんてウソ臭いのだろう。つぎに風の音がなるとにわかにそらがかき曇るようにして暗くなった。そんな中ぼくの手元にある器の縁だけが造りものめいて、音のない雷鳴にチカチカと瞬いている。通りあめの過ぎるまでそんな景色をただ見つめながら待った。いつもどおり叔父と叔母はその台風の日にそろって仕事にいってしまう。つまりぼくは留守番をしていたので、もし来訪者があればその見知らぬだれかを招き入れてやらなければと思ったのだ。しかしだれも来なかった。ふ、と思いたってぼくは、叔父の軽自動車を借りて河川敷の堤防をとおってみる。もちろん、ひとっこひとりいない。もよりの医院に行ってみるが閉業しており、ミュアエやマキのみならず、この経路にはウチカもいないらしい。
雨があがり蝉の鳴きごえが戻ってくる、冷蔵庫の容器から注いだお茶を持ちあげると水面にうすい虹がはった。二階の自室にもどっても湯のみはまだ冷たいまま、氷と表面張力の波のふちは澄んだ白と紅のあいだにゆらいでいる。
西陽のカーテンを閉めたがそらはなお生地ごしに熱を帯びたようにあかるく紅いまま。だが電灯をつけるとそれもいくぶん和らいだ。まだ、今日はその日ではないのだった。それでようやくまた、机のうえのノートに目を落とすことができる。
そうしていく日か経った夕方。ウイスキーをチビチビ舐めながらぼくがぼくの過去の記録を漁っていると、インターフォンが鳴る。玄関の引き戸をあけると、そこにウチカが居た。そのとなりにはどこかの私立小学校の制服をきたマキが、夕暮れの街なみを逆光にそこに立っていた。
「ただいま」
「おかえり」と反射てきにそう返してからぼくは訪ねる「マキ? ミュアエ? どっち?」
「どっちでも、都合のいいように解釈してくれればそれでいーよ」
「あの、どうも。ご無沙汰してます」ウチカが会釈をするので、ぼくもあたまを下げる。「いやあの、ぼくの主観ではそんなに久しぶりというわけでもくてーーそういえば、クリニック閉まってましたけど」
「ああ油断をしていたら国試、落ちちゃってね。予備校でバイト講師をしている」そうパンツスーツすがたで目線をおとす「医療法人は維持したまま塩漬け状態です。まあひと通りのごたごたが片付いたらもういちど受けなおすよ」
「なるほど、ごたごた」とぼくは肯く。「それに巻きこみに来たわけですか」
「カイの役目はもうおわったんだけどさ、さいごにもう一度会っときたい、てウチカが」マキのくちが言う。
「今日がその日か」ぼくは靴に足をつっかける。
「来るのかい」マキ・ミュアエがいう。「せっかく電車から降ろしてあげたのに」
「じぶんのあたまの上にいつ爆弾が降ってくるのか知らずに暮らすほうが怖いよ。」
「違うだろ。」ミュアエはぼくのかおを見て「ベトナム戦争とかイラク戦争に出兵してた帰還兵が平時の日常にうまく馴染めなくなるやつ。そんなに愉しそうに死地に向かうヤツはそーいう病気だよ。あたしは、おまえの将来がしんぱいだ」
「なにが起こる」
「いつもどおり。相対論的生命体の原生種がレンズ天体で人類の脳髄を焼き切って、あたしたち同胞の逃げ場をなくしたうえでさいごにこのマキという宿主を殺す」
「まえから思ってたけど、これ、人類にとってはかんぜんにとばっちりだよな」
「文句なら、この銀河にあたしたちを播種したマザーに言うんだな。」
それでねえ、ほかに君たちのなかまはいないの? マキーーミュアエ、とウチカさん。とぼくってなんというか、いつもどおりののメンツじゃないか。
以前はほかのも居たけど、全部ミュアエとたべちゃった。ウチカが言って露悪てきに舌を出す。まえにも言ったでしょう私たちって、ぞんがい野蛮なの。生きものというよりかは精子みたいな配偶子といったほうが良いのかもね。
「そう、ざんねんながら。あたしたちは共喰いもいとわない獰猛な可能性のけだものだ」マキ・ミュアエがうなずく「つまり、止めるには殺すしかない。きっとおまえの嫌うやり口だから、ないしょでこっそり済ませておこうと思ったのだけどウチカがさいごにって」
「何時もにも増して、しつこいな」ウチカがそうかおをしかめる。
「文字どおりさいごになるかも知れないんだから思いついたことはとりあえず言っておくさ」
「具体的には?」ぼくが問う。「こちらもブラックホールを誂えて、それをあっちのレンズ天体にぶつけて運動量を相殺してブロックしたりとかするのかい?」
「無茶いうなよ、レンズ天体へ運動に影響するほどのブラックホールが融合したら事象の地平面がひろがってその瞬間にこの星はその内がわに呑み込まれる。」そうしてミュアエは右手をぐっぱぐっぱして、「それにおまえら人間がどれだけ馬鹿でかいとはいってもあの原生種とは規模がちがう。このていどの質量エネルギーを原資にブラックホールを作っても表面積が小さすぎてすぐに蒸発してしまう」
「そんなにでかいの、原生種ってのは」
「人類を焼き尽くす。巨大な相対論的輻射ネットワーク。まあ少なくとも、地球と月の公転範囲をすっぽり包むくらいのひろさはあるんじゃないかな。といっても質量はそんなにない。人間にはほとんど真空にしか見えないとおもう」マキ・ミュアエはそううなずいて、こちらを見上げる。「そういう意味でいったらあたしもおまえの想像よりもきっと広いよ。あたしたちを構成する素粒子はほとんど光速でしか動けないから、そんざいはそれなりの広範囲にひろがることになる。でも波のひろがりは大きくても生きているところはほんの一部。樹木が樹皮のぶぶんしか生命活動を行なっていないのとおなじ。
ーーで、やつらは原生てきな種族で、あたしたちみたいにエントロピーの捨て場所をもたない。だから際限なく系を大きくし続けることで中核のエントロピーが増えすぎないようにしているのだとおもう。」
しかしぼくは考えるのだけど。この等方的で平坦な宇宙空間にエントロピーの少ない場所なんてあるのか? いな、あるか。それは『場所』と呼ばうにはあまりにも局所てきな現象であるが、エントロピーの増大則にさからう存在をもうぼくらは知っている。『生命』
「そう共喰い、か。きみたちは小さな若い個体を包摂することで知的生命としての矜持をたもって来たんだな」そうか彼らには時間がない、いずれ共喰いが終わればそのうちに情報が飽和して生命としてのていを保てなくなる。そこでミュアエや魔女はたがいに喰らいあうのではなく知性を得て、人類との共生によって存続するように進化した。ひょっとして、この銀河における相対論的輻射生命体の進化の分水嶺にいま人類は立っているのかもしれない。
「いや、やっぱり人類にとってはこれ、かんぜんに貰い事故じゃないか」
「ま、他ならぬおまえにはそう文句をいう権利もあるか」マキ・ミュアエがいう。「ところで、あたしじゃなくて、ウチカがおまえに話があるということできたんだけど」
あ、そうだった。「ウチカさん。ぼくに用向きがあるんでしょう?」
「もういい。ぜんぶ終わったあとでいい」とウチカがミュアエを睨めつける。
「良かった、ちゃんと終わらずに終わらせる目算があるんだ。」
「無いよ、そんなもの」とうめいなマキの表情がつげる。それでウチカ、と隣の妹にむいて「死ぬのがこわくてたまらない人間どうし、つよがっていないでさ、さっさと子どもべやに上がって抱き合っていなよ。ただしそのばあい魔女はこっちに預かっていく。ウチカえらべ。ヒトかけだものか。それで人間性をせんたくしたならこの手を取るわけ」
マキ・ミュアエはそう、左手を延べる。「判断材料は、この三年できちんと学んできたはずだ。」
ウチカがおずおずとその手を取ると瞬時、放出されたニュートリノと光子の結合反応であたりが眩く照らされる。
かつてヒポクラテスにヒステラと呼ばわれた魔女よ。おまえの娘は人であることを選んだので盟約にしたがい、その身柄は人類のがわで引き取らせてもらう。またおなじく協約によりこれから共同の自衛手段としてこの星の防衛戦線に参加する。
気づけば仕事から帰宅した叔父と叔母が玄関口で繰り広げられる三文芝居にめを丸くしている。
「どちらさまですか?」と問う叔母に、
おかあさん、ちいさくマキがつぶやいて、叔父と叔母のかおをじ、とみつめてから「はじめまして」とあたまを下げる。
「これはご挨拶が遅れまして」ウチカがそう満面の笑みをつくる。「カイ君のインターンさきの人事担当になります。お盆まえたまたま実家が近いとお聞きしまして。連絡したら彼も帰省中というコトだったので、ご挨拶に寄らせていただきました。なんのお土産もなくて恐縮なのですけど」
「まあぼくは両親がいないしね。ここで断っても心象がわるいでしょ」そうウチカに話を合わせておく。
「それで、そっちの女の子は?」叔母がそう目を向けるとマキはどこかむずがゆそうに、「不肖の姉です」と応えた。
「なわけねーだろ、姪ですよ歳のはなれたッ」ウチカがそう首をふるい「まったく、困りますねえ。このくらいの子は」とたおやかに告げて礼をした。
叔母さんごめん、きょうはこの人たちと食べるからご飯いいよ。とそれにつづく。見あげる暮れなずみの太陽はよく見れば、すでにその輪郭がぐじゃぐじゃに崩れはじめている。
ウチカの母が死んだ夜に上陸した台風は過ぎさって、その日は祭儀にうってつけの快晴だった。窓ぎわで火葬場の日本庭園を眺めつつ、ビールを啜るウチカいがいに弔問者はだれもいない。誰も呼んでいないしそもそも誰にも母の死を伝えていないので当然だ。ほかに施設の利用者もいないらしく、遺体が骨になるまでを待つ広々としたラウンジは彼女一人きりだ。
葬式なんてひつようない、必要な儀式は済ませてある。まだ温もりの残る死体の腕から採血して、ショットグラスに注ぐまで、大学の実習で習っていたので苦労はない。しかし問題はそのつぎだった。まったくヒトの体液というものは温くて生臭くてたまらない、だけど私はこの先いくどもあれを飲まなくてはいけないのだ。あの、舌の付け根から喉の奥へとへばりつくような感触が思い出され、それを洗いながすようにウチカはビールをいっきに飲みくだした。
そのとき、無人のはずのラウンジの入り口あたりに少女がいることに気づいた。まだ八つか九つくらいの少女は黒のワンピースに身をつつみ、ウチカのすがたをみとめるとそちらに衒いなくあゆみ寄り、
お母さまのこと、心よりお悔やみ申し上げます。と一礼した。
「いったいどこからーー」グラスを置いたウチカが目線をあわせるように身をかがめ、「一人でなにしてるの? お父さんとお母さんはいっしょ?」と問う。
「おねえさんは一人でなにしてるの」少女はいって、「当ててあげる。黄昏てたんでしょ?ーー魔女の娘になんてなるもんじゃねーな、って」
まさか冗談でしょう、マキ・ミュアエをまえにした魔女がウチカのくちで言う。無窮の雌獅子が命はかなきヒトのからだに受肉するだなんて。
そんな風に魔女が能動てきに動くのは、ウチカがその宿主になってから初めてのことであったため、彼女はすこし慄いた。
「それで、代替わりの直後を狙って不意打ちするつもり? もう宿主の移行は終わっている。こんどは右手のほうも千切ってあげようか?」
「あたらしい宿主のほうはそんな気分じゃないみたいだけど?」マキ・ミュアエに言われた魔女が、怯えの張りついたじぶんの顔に触れてかおを背ける。
「これまで一度も弔問者なんて来たことなんてないのに。どうやって?」
「ウチカから聞いたのさ、きっとまだおまえの知らない経路に差し込んだあたしのプローブがね。それでお母さまの亡くなっただいたいの時期と葬儀場がわかったので毎日かよいつめてウチカをさがした。最後の日に探査針越しにどれだけ呼びかけても応えてくれないから、アプローチをかえたわけ。」
「そっちこそ。カイくんはあなたに全然会わせてくれない」
「まあ仕方がない、あたしたちは互いにたがいのことを知りすぎてしまっているからな。あいてがどのタイミングで、なにを企んでいるかまで」そうミュアエは、じしんの右手に目を落とし手のこうと掌をひっくり返し矯めつ眇めつする。
「だけどやはり、可能性の運算はこちらの方がずいぶんと進んでいたみたいだ。まったくこんなにも重たいバリオン解を引き摺っていたら計算の効率もわるいわけだーーおかげで定石外しの先手を取れた」
「いま、姉さんがここに居るということは、カイくんは」ウチカがそういうので、
「やはり関係をもったあいてというのは気になるものなのか」とミュアエが問う。
「あれは、べつの私です」
「じゃあ問いなおす。それがべつの経路であってもやはりそういうのは気になるものなのかい?」マキ・ミュアエはそう笑んで「あたしじしんが斯うしてマキになったいじょう、肉のプローブはもうひつようない」と言った。
こんな経路見たことも聞いたこともない。いったいこのさきをどう生きればいいのか。ウチカが文字どおりにしてあたまを抱える。
ああ見通しの効かないみらいにどう生きて死ぬのか、というきわめて人間てきな問いのなかに、あたしたちもこれから生きるわけだ。
姉さん、なんだかずいぶんと理性的な雰囲気になったわね。落ち着きを取り戻した口調で魔女がいう。まえに腕を捥いだときはまさに獅子ーーもっと野獣みたいなかんじだったのに。
おまえに腕を捥がれたせいでずいぶんと理屈っぽいヤツと、永らくのときを過ごしたからな。さて、ああして服従の儀礼を済ませてもらったあと、回転のにぶいおまえの方もすこしはただしく状況の判断がつくようになったか?
ええ、いまさら姉さんといがみ合うつもりはない。ひとまずは。ただしもう、この肉とのリンクを切るつもりはない。服従はあれいちどきり。
一応かくにんしておくが、おまえの方もあの最後の日よりもさきに続いている経路は見つけられていない。それでいいか?
わざわざ聞かなくても、相対論的実体であり続けていた姉さんとは演算速度が桁が幾つも違うんだから。でもそれを停止したということは計算ーー積分が終わったの?
だったら良かったんだけどな、どちらかと言えば時間切れにちかい。
冗談だと言ってよ、まったくの無表情にくちもとの笑みだけ貼り付けて魔女が言う「『永遠のブレン』のセリフとはおもえない」
姿のある少女はからになったウチカのグラスに片手だけで瓶からビールを注ぎくちに含もうとするが、グラスをたおして天板を水浸しにしてしまう。
「やっぱりまだ、オジサンみたいに上手くはやれないな」と手のひらを見つめる。おまえのようにバリオンと融合したわけじゃあない。マキ・ミュアエが言う。「『マクスウェルの悪魔ごっこ』をするための暫定てきな措置。エントロピーの捨て場所として厚みのあるからだが必要だったから、時系列を越えて何度もなんどももつれあうことで脳の構成原子の半分いじょうと、あたしの相対論的実体をもつれあわせた。ちょっとくらい無茶をしてもこの結びつきが解けないように。」
なぜそんな事情をここで明かすの? ウチカがいう。もう人類なしでは存続できない私からすればありがたいはなしですが。そのぐらいの労力をつかうくらいなら、手近なべつの星にあたらしい知的生命体をみつけに行ったほうが早かったんじゃない?
ただの運命だ。あたしがあのときにブレンーー最初の人間にであったそのときにもう選択は為されていたんだ。ただ、それだけ。
ときに今はなしているおまえはウチカか魔女か、まだ区別はつくか?
「いーや、もうすっかり混ざりあってしまいました」ウチカが首をふるう。毎回ね、このラウンジで純粋なウチカとしてのアイデンティティに悩むという大事なイベントだったのに。いって壁際の給仕台に置かれていたダスターでテーブルを拭うウチカが、
「でも、マクスウェルの悪魔なら、覆水を盆にかえしたり、こうして混ざりあった魔女とウチカを分離したりできるわけ?」
「さあ、少なくとも莫大なエントロピーだ、おまえを殺すために浪費したりはしない。これから審判の日までのじかんは人間にとっては決して長くも短くもない。さて『これからどうしよう』おまえは先ほどそのように言ったな」
「ええーーはい」
なら決まっている。ここをどこだと思っているんだ? マキ・ミュアエがそう滑稽なほどおさなく細い肩をすくめてみせる。骨つぼをもっておまえは帰るんだよ、あたしにも、骨をひろうという経験をさせてくれ。
なるほど、違いない。テーブルを拭き終えたウチカが
しかし姉さん。おハシは上手につかえます? もしやフォークやスプーンのほうが良いんじゃなあい?
※
何億年かぶりに肉の牢獄を脱出した魔女は虚空にただよいながらかつての同胞の原生種をみつめる。もはや光学的に見定められるくらいにちかいはずだが、レンズ天体の事象の地平面にさえぎられて原生種の核はちょくせつには観測できない。太陽の輪郭がすこしひしゃげてみえるくらいの質量が、時空をぐしゃぐしゃにかき乱しながらむかってくる。まだこちらから手出しをできるほどにはちかくないが、そのシュバルツシルツ半径は絶望するにじゅうぶんな規模だ。あきらめようか。しかし『死にたくない理由がある』ウチカの精神の残り香としてのそんな思惟が転回をゆるさない。どうやらヒトのどろどろとした欲と希望が、いつしかたましいにこびり付いてしまったらしい。それに、まだまるで目がないわけではなかった。
やっと来たね、その呼びかけに、かつてヒステラと呼ばれていたその魔女が姉に向く。
「ああ何千何万と待ったとも。歳を摂らない女。すがたのない少女。未来を運算する雌獅子。ヘロドトスがはじめて記録にのこした化け物。あなたにとっては無限が無限に微分されたひとつの経路に過ぎないのでしょうが。私にとってはひどく永いときだった」
長ったらしい口上たれなくても、ちゃあんとわかっているよ。これは、何百万年とかかって張られた網だ。人間はえいえんを望むと同時に有限の生を愛している。だからお前はカミみたいな無窮を捨てて人類とおなじ歩調であゆむことを選んだのだろう。弱いヒトでもなく、不滅の神でもなく、半神半人の英雄のみが神話の誠実な語り手たりうるという作法にのっとって。
だけどそれでは間に合わなかった? 魔女が問う。
ああ、ちょっとだけ。おまえが、血の魔女がヒトの歴史をアクセラレートする加速をもってしてもまだ、人類があれに対抗するにはまだ早い。わかるだろう?
ヒステラという名の魔女がそれを肯定してあごを揺らす。人類がひとつの収束としてあの災厄を貫くにはまだ『心の統一』がたらない。もうちょっとお膳立てを待って。
いやもう、待てない。時間対称性のやぶれた時のなかを行き来しつづけて、エントロピーを溜めすぎた。あたしはマキとも、遠からず脱結合してしまう。
私のせいだっていうの? あのとき、姉さんのちからを削いだから。
まさかーーわれわれにとって姉妹はみな天敵だからな。あのときはおまえにしてやられた、というだけだ。
言ってるばあいですか。魔女がそう嘆息する。ひとまず人類を存続させるという未来において私たちは選択の一致をみたはずです。あの子どもたちは宥めすかせばまだすこしは持つでしょう?
ざんねんながら、あたしのほうがもう、持ちそうにないんだ。
死ねないのに?
そう、死ねないのに。じぶんが生きていることに気づいてしまった。
そっかあわれだね。魔女がそうウチカのかおで肩をすくめてみせる。
おまえ、すでにウチカではないな。人間の考えかたじゃあないんだよ。
姉さんはいつからか人間に染まってしまった。魔女はそううなずく。生存が第一義である所与の本能へ立ち戻るために。私からあの子を、肉の人間性を切断したの。たぶん、世代を越えてながく結びつくうちに人の欲望と諦観が混ざりはじめていた。するときっと、いまの姉さんみたいに惰弱なそんざいに成り下がるから。
ウチカとマキが生き残れなければ、ふたたび因子を持つX染色体にあてはあるのか?
そうやってあなたに心配されるほど考えなしじゃあないですよ。魔女がいう。じゃああなたは? そっちも、肉の厚みのある寄生主を置いてきたようだけど。
ああ、けつべつだ。とミュアエがいう。
「『どうして人類のみらいをそんなに心配するのか』と言われたよ。あの子はべつに、そんなものに興味はないって」
なるほど、それでそれで? きゅうに興味の湧いたように急かしてヒステラという名の魔女がわらう。
では、おまえは何によって生きるものだ。ミュアエが魔女に問う。物理てきに厚みのあるパンか? 否。すると再帰てきな自己観察の可能な意識によってか? しかし、それもまた、否。ちがうと言うなら反論をしてみろよ、あたしにその価値を示してほしい。
すると、かつてマグダラのマリヤと呼ばわれた魔女が哄笑をやめて沈黙する。
おまえ、ここで戸惑うのならさ、もうちょっと続けようよ。えいえんの少女がそう、大昔には姉妹だったそんざいに妥結を呼びかける。「でないときっと後悔する」
こうかい? ヒステラという名の魔女がそう、ようやく口をひらく。いま後悔って言ったの?
ああ、おまえもえいえんは退屈だろう? 喰らいあい融合するほかない無窮のあたしたちと違って、人間は産まれたあとにかならず死ぬんだ。神話の英雄とおなじで、いくら見ても見飽きるということがない。だからおまえも人間をえらんだのだろう?
「いいえ。あのとき、姉さんの言ったとおりです、どれだけ馴れ合っても人間と相対論的存在が交わるよすべはない」ややあってヒステラが姉に応える。
でもおまえ、カイと交尾したんだろ。
それ、こだわるなあ何回め? ヒステラが「だからそれは私じゃない、ウチカだよ」と拒絶する。
「ああ卑怯もの」うなずいて、「おそらく人間の正しさとは。」言ってミュアエはことばを切る。ただ無論それは人間の仕草をまねただけの演出にすぎない。バリオン塊との相互作用を失い、いまやひかりの速さで相互作用をする相対論的輻射生命体はすでに結論をえている。
「人間はおろかしく、けれどおろかしさについて忠実で。あたしたちもまた存在をしつづける以上、いずれ存在の意味を問うことは避けえない。それが諦めではないのなら」
「わかった」ウチカのかおをした魔女ヒステラがそう応じてくびを傾げる。「宿主のせいで私たちの意志や行為はずいぶん間違えやすく迂遠になった。けれど、それでも目的はほぼ一致している」妹はそううなずいて。「姉さん、勝算は? その目があるなら左腕をかえそう」
「やはりおまえがまだ持っていたのか。どれだけ時間軸をいろんなバリエーションで往復しても取り戻すことが出来なかったわけだ。」
「この左腕いっぽん分の質量を相対論的エネルギーに変換すればレンズ天体の背後にいる原生種は消滅させられるだろうけど、五体満足なマキとカイのみらいは恒久てきに失われる。それでいい?」
「おまえも、甘くなったな」そうミュアエはヒステラに向いて、良いんだろうか? 戦神雌獅子として思案する。原生種の攻撃は力まかせだが精妙で正確だ。ミュアエが事態に気づかないよう。それが寄生し相互作用している人間だけを避けて刻印を穿ち、まず殺す。それにより敵の逃げ道をふさいだうえで事象の地平面のうちがわに取りこんでこの宇宙から抹消する。しかしまあ、力まかせだ。このカイの左うでがあっても質量からいえばあっちが圧倒てきだ。
それで良いのか? 膂力に秀でる敵に対して強大ではあっても敵には及ばない膂力で応じるのではただの悪あがきになってはしまわないか。
これに対抗するためにはーー。ミュアエはいって相対論的実在をめいっぱいに拡大する。迫りつつある特異点のその背後にあるはずの旧い姉妹の原生種を呑み込むほどに。そして一気に凝縮して情報を集約する。ミュアエの相対論的ネットワークを構成する素粒子の三割ほどが重力の井戸に落ちて欠損する。そくざ、捩れきった時空の向こうに探知した原生種の座標にたいし、最短距離で光が到達する順路にむけて生えたばかりの左うでを放つ。光速の二乗に比例するフォトンの奔流はそのいっしゅんだけ宇宙の開闢を再現して、光子が電子と、電子がバリオンと結合する。その熱エネルギーそのものの一条が、不確定原理を破らないほどのせつな、重力に歪んだ空間を曼荼羅のように裂いて相対論的生命体原生種までとうたつする。
さいごの日の翌朝がくる。原生の夷狄の襲撃はどうなったのだろう。子どもべやから居間にくだると食卓にマキがいたので、たぶんぼくは大学生ではなく引きこもりの居候なのだろう。彼女はすぐに出かけてしまい、それがマキであるかミュアエであるか探るまも無かった。
秋のちかづいて低くなったそらのもと、そとに出た。言い忘れていたがぼくにはやはり両腕があった。これでほんとうに五体満足で無職の子ども部屋おじさんになってしまったのだろうか。どうかんがえてもこれでは年金はもらえない。このさきの野放図なみらいをこの先どうやって生きていったらよいのだろう。そうした人なみな絶望は、明日人類が滅亡するかもしれないという諦観とさほど重さはかわらない。
コーヒーでも買おうと散歩がてらコンビニに出かけると、見知ったかおがいた。まさか魔女ーーウチカさんに出会うとは。
もう魔女じゃないよ。輻射体との結合部をぶった斬られたからね。
いや、あれからどうなったのかな、って。気になってて。
私はもう気にならない。気にしてもどうしようもない。ほかの普通のひとたちとおなじように、一次元の時間軸を一方向に進んでゆくだけ。ただ分かるのは『さいごの日』のさきにまだ生きているという事実だけ。きっと魔女たちは試行を繰り返してなんらかの方法でとりあえず終末を回避したんじゃない? で、私たちはもう時間を遡ることができないから取り敢えず最後のポイントから、最新の時間軸を進んでいるだけで。
気づいていないだけでべつの時間軸でいっぱい死んでいると思うと、魂や精神の連続性とか考えるとなにか気持ちわるくなって来ますね。
「ふつう、ってそういうコトだよまあ。自分についても他人についてもほとんど何にも知らないまま生きるの。まあ気持ちわるいよね」ウチカが言う。
「けさ事情を従姉妹に訊いてみようかと思ったんですけどね、たぶんもう、あれはミュアエではない気がする。」
「じゃあ確実だあいつが居なくなったってことはもうここが戦場ではーー特別なポイントでは無くなったってことで。まあだから平和ってこと。未練がある?」
「いいえ。ぼくが突き放したんです。人類の行く末になんて興味がない、じぶんのコトだけだって。じゃあ、じぶんがどうにかする、って。ミュアエがーー」
「酷いな」ウチカがそうかぶりを振るう。
「はい。あの、ウチカさん。よければ気晴らしにちょっと二人で出かけませんか。」
「いいけど、飲まないよ、それで記憶をみたりもう、できないし」
「あ、じゃあ、いいです。」
「重ねがさね、残念なひとだね」
「ウチカさんに、これまで両手のあるぼくが、どのような人生をあゆんできたのかをおしえて欲しかったのに。」
「思いだせないの?」
「憶えてはいるんだけど、なんだかぼんやりしていて。もうみらいも過去もみえない」
「ほんとうに、最低だ。まあ話くらいは聞くよ。また仕事おわりに連絡する」言ってウチカさんが去っていく。
ぼくは公園のベンチにすわり、じぶんの背後にいる黒いもやのような人かげを想像する、そしてパッと振り返るとそこにマキが立っている。
「働いていないオジサンが居るってだけでも世間体によくないのに、そうやって不審なことをしないで欲しいなあ」
すがたのある少女がぼくにそう言った。
執筆の狙い
百数十枚ほどの小説。SFのつもりです。
忌憚のないご意見を頂ければさいわいです。