作家でごはん!鍛練場
飼い猫ちゃりりん

憎しみの河

 序章 悪夢

 丘の上に建つ教会。きらめく河が眼下を流れ、白百合が咲く谷間は天国のよう。
 荘厳な礼拝堂。一人の女が、若い神父に懺悔している。神父は聖セバスチャンのような美青年だ。
 女は跪いてはいるが、鋭い目つきで若者を見据えている。
「神父様。教えてください。悲しむ者は幸いですか?」
「はい。その人は慰められるでしょう」
「では証明してください」
 女は立ち上がると、若者を睨みつける。
「私は傷ついています。どうか慰めてください」
「私は主に誓いを立てた身です」
「イエス様は悪人です。あの方が罪を償ったから、人は永遠に犯罪者です」
「なんて恐ろしいことを」
「奴は私一人救えない。いや救う気もない」
 女の手にはナイフが握られている。
「サタンよ。去れ!」
「神父様。サタンは、あなたです」
 女が若者の胸に刃を突き立てると、彼はその場に崩れ落ちた。

 彼女が夢から覚めると、全身汗まみれで、シーツが濡れタオルのようになっていた。
 ああ神様。このままでは、本当に誰かを傷つけてしまう。
 
 第一章 奈津子

 淡い光に包まれた秋の日の午後、彼女は妹と一緒に川原を散策していた。
 川辺に咲く花でブーケを作り、妹の手に握らせた。
「お姉ちゃん。ありがとう」
「もっと可愛くしてあげる」
 草で冠を編み、妹の頭に乗せると、可憐な七歳の花が咲いた。
 辺りが薄っすらと陰り、紅葉に色づいた山々の上に、暗い雲が垂れ込めた。
「佳代子、帰るわよ」
「やだ。もっと遊ぶ」
「姉ちゃんの言うことを聞いて」
 奈津子は親から聞かされた鉄砲水の話を思い出す。
「佳代子、急いで」
 手を引っ張って側道まで駆け上がると、滝のように雨が降り始め、一気に水かさが増す。
 ふたりはずぶ濡れになり、家にたどり着いた。
「どうしたの」と驚く母に、「急に雨が」と奈津子。
 佳代子がくしゃみをすると、母はおでこに手を当てた。
「熱があるじゃない」
 母は佳代子を風呂場に連れて行き、濡れた服を脱がせると、シャワーで体を温めた。
 
 午後十時。雨がようやくやみ、山あいは静けさに包まれていた。
 両親は上流での決壊を心配したが、警報は解除され、川は穏やかに流れていると思われた。
 奈津子と佳代子は、二階の子供部屋でいつも一緒に寝ていた。
「佳代子、そろそろ寝るよ」
「お母さんと一緒に寝る」
「どうして」
「風邪をひいちゃったの」
 その夜、佳代子は一階で両親と川の字になって寝た。
 午前0時。奈津子は夢で川のせせらぎを聞く。彼女は佳代子と一緒に川辺を歩いていた。
 鮮血のような紅葉と真っ青な空。異様なほど鮮やかな原風景だ。ふと気づくと妹がいない。
 佳代子。どこへ行ったの?
 そのときベッドが細かく振動し、彼女は目を覚ます。
 振動はさらに激しくなり、ベッドがガタガタと音を立てる。明かりが消えて木がきしむ音が響き、家全体が船のように揺れる。
 彼女が悲鳴を上げると、揺れは収まり、不気味な静けさに包まれる。
 彼女は暗闇の中を駆け降りる。だが足が水に浸かって立ち止まる。手で壁を探ると、階段の電球が点滅し、灯りがついた。
 水面に顔を近づけると、薄っすらと濁った水中に、小さな人影が見えた。
 奈津子は妹の名を叫ぶが、水面は分厚いガラスのように冷たく、どんな叫びも通さない。奈津子には水に潜る勇気はなく、ただ泣き叫ぶしかない。
 やがて人影は押し流され、奈津子の視界から消えた。

 砂防ダムの決壊から二日後、奈津子は仮設された安置所で、家族の遺体を確認する。
 青いビニールシートに三人の遺体が並べられている。両親の体は傷ついていたが、妹には傷ひとつなく、ただ眠っているようにしか見えない。
「姉ちゃんだよ。起きて」
 佳代子は奈津子に編んでもらった草の冠を握りしめていた。
 この子は水の中で、あたしを待っていたんだ。
「佳代子。姉ちゃんを赦して」
 そのトラウマは悲しみを憎しみに変え、奈津子は自分の処罰を望む。処罰とは一種の救済である。親類が彼女を引き取らなければ、彼女は手首を切っていただろう。

 牧場を営む親類が奈津子を引き取った。その牧場は祖父母と、奈津子の母の妹である叔母と、その夫の四人で営まれていた。
「今日からここは、なっちゃんの家だからね」
「おばさん。お世話になります」
「思いっきり甘えていいからね」
 叔母夫婦には子供がいない。彼らは実の親以上の愛を心に誓い、祖父母も孫娘を優しく見守った。
 その甲斐あってか、奈津子に明るい笑顔が戻り、心の傷は遠からず癒えるものと思われた。

 奈津子が保護された翌年の夏、彼女が住む田舎町で事件が起きようとしていた。
 拓哉と慎吾が、駐車場で煙草を吹かしながら、コンビニの様子をうかがっていたのだ。

 第二章 拓哉

 彼は寂れた港町の公衆便所で産声を上げた。
 母親は若い頃からアル中で、吹き溜まりのような安酒場に入り浸り、春を売って酒代を稼いでいた。赤ん坊を放ったらかして飲んだくれ、眠っている拓哉を指差して、酒と交換しろと客にからんだりもした。
 母親は昼間から飲んだくれ、拓哉を運河の脇に置き去りにしたこともある。だが親切な浮浪者が保護し、事なきを得た。赤ん坊は警察から母親の元へ届けられた。
 ただ、それが赤ん坊にとって幸運だったのか。それは定かではない。

 拓哉は父親を知らず、母親からはクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
 冬の朝、酔い潰れて寝転ぶ母の足元で、凍えながら給食代を乞うと、「ゴミクズめ」と怒鳴られ、空き缶を投げつけられた。
 お腹が空いたと言えば、「自分で盗ってこい」と突き飛ばされ、万引したパンを持ち帰れば、「なんで一個だけなんだ」と怒鳴られて殴られる。
 顔に青アザを作って登校しても、教師は見て見ぬふりをし、荒れた家庭に介入しようとはしない。
 拓哉はひどく短気で、こらえ性のない少年だった。
 彼はシンナーに手を出してゲームセンターに入り浸り、万引きや恐喝に明け暮れる。
 ある日、拓哉は肩が当たったと言って通行人をいきなり切りつけ、警察が出動する事態となる。その逮捕劇も滑稽なまでに愚かだった。
 彼はナイフ片手に狂犬のごとく吠える。
「かかってこい。刺されたい奴はどいつだ」
「ナイフを捨てなさい」
「うるせえ。なめんじゃねえぞ」
 ついに警官は拳銃を構える。
「上等だ。撃ってみろ」
 目的は威嚇だ。撃つわけがない。
「おらおら、どうした。撃てねえのか」
 拓哉は調子に乗って腕を振り回し、手からナイフを飛ばす。彼は警棒で打ちのめされ、数人の警察官に取り押さえられる。
「奴がぶつかってきたんだ」
「大人しくしなさい」
「畜生! 俺は被害者だぞ!」
 馬鹿げた言い分ではあるが、見方を変えれば真実だ。それは見捨てられた子供の叫びだったから。

 拓哉は身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。彼は少年院でも些細なことで騒ぎを起こしたから、慎吾以外に相手をする者はいなかった。
 拓哉は慎吾のことを、「ちょっと変わった野郎」と思っていた。
 拓哉は人付き合いには、拳と刃物が付き物と思っていたが、慎吾を前にすると、それを使う気が起きない。
 慎吾はいつも冷静で、拓哉が粗暴な態度を見せても、軽い冗談で受け流すのだ。

 第三章 慎吾

 彼は小中ともに成績が優秀で、少年院で行われた知能検査の数値も高い。
 父親は家庭をかえりみない遊び人で、パチンコに狂い、持ち玉が尽きれば、幼い慎吾に玉拾いをさせた。
「このクズが。もっと拾ってこい」
 慎吾も拓哉と同じように、親からクズと呼ばれて幼少期を過ごす。
 殴られて唇を切った慎吾は、ゴキブリのように店内を這い回り、店員に注意されるまで玉を拾い集めた。
 慎吾の父は子供の愛し方を知らない。彼も虐待されて育ったからだ。結局、彼は女をつくって出て行ってしまう。
 慎吾には美咲という二歳年下の妹がいた。
 母親は育児放棄していたから、美咲の面倒はすべて慎吾がみた。だが給食や教材の費用までは、どうすることもできない。
「お母さん。美咲が使うノートを買いたいんだけど」
「あたしに何の恨みがあるの。とっとと出て行け」
 母親は髪を掻きむしって声を上げた。慎吾は父の拳以上に、母の金切り声が怖かった。
 結局、慎吾は万引きに手を染めることになる。たまに見つかったが、その場で叱られるだけで、警察や学校への通報はされなかった。

 慎吾は、美咲から友達がいじめられていると聞けば、すっ飛んでいって悪ガキどもを叱りつけた。
 数人のクラスメイト相手に殴り合いをしたこともある。それもイジメを止めようとしてのことだ。
 彼は優しく正義感のある少年だったが、ある事件をきっかけに人生の歯車が狂う。
 彼が中三のとき、美咲が河に身を投げたのだ。
 陰でいじめられていた美咲は、ある日、工場の跡地にある倉庫に呼び出され、クズどもに取り囲まれて自慰を強要される。総勢十人ほどの少年少女が、ニヤニヤしながら携帯をかざしていた。
 美咲は画像を拡散すると脅迫され、金がないなら稼ぐ方法を教えてやると言われる。勇気をふり絞って交番に行くが、学校で相談しろと言われて帰されてしまう。
 だが、学校で相談する気にはなれない。教師は隠蔽しか考えていない。それが生徒の中の常識だった。
 美咲は言われるまま春を売り、ずるずると地獄にはまり込んでいった。
 だが兄に相談をすることはなかった。慎吾は彼女が死んでから日記の存在を知る。涙で滲んだ文章が、彼が万引きしたノートに綴られていた。
「今日、おじさんにホテルに連れて行かれた。やめてって言ったら、叩かれて服を脱がされた。兄ちゃん、助けて。でも、こんなこと、兄ちゃんに言えない。言いたくない」
 慎吾は怒りと悲しみに打ち震える。
 なぜ俺は気づかなかったんだ。この糞野郎。お前が死ね。
 加害者の親たちは、自殺の原因は美咲の家庭環境にあると口をそろえて証言し、学校と警察は事件化を見送った。
 イジメ事件は教育者のキャリアの汚点になるし、警察にとっても、少年事件は、評価されない『美味しくない事件』なのだ。
 慎吾は美咲が身を投げた河を見ながら、彼女と過ごした日々を振り返る。
 放課後の校門で自分を待つ美咲。一緒に河原で道草をして、野良猫たちと遊んだ日が懐かしい。美咲が猫と遊びたいと言うから、彼が煮干しを猫たちにやり、仲良くなったのだ。
 慎吾は妹の後を追おうと思った。しかし、やるべきことがあった。彼は憎悪を抱きながらも、冷静に復讐の機会をうかがった。
 主犯格の二人は、彼と同じ三年生の男女だ。
 彼は平静を装いながら一部始終を観察し、彼らが美咲を呼び出した倉庫でやっていることを突き止める。
 彼は二人が卒業式の日も必ずヤルと確信し、式が終わると倉庫に先回りして待ち伏せをする。
 案の定、二人が現れてヤリはじめると、彼は鉄パイプを握りしめて絶好のタイミングを待つ。
 女子は作業台の上で股を開いてあえぎ、男子は立ったまま腰を動かしている。男子が女子の腹に撒き散らした瞬間、後頭部に鉄パイプが振り下ろされた。
 男子がのたうち回る間に、女子を後ろ手に手錠で固定し、ロープで作業台の脚に縛りつける。
 男子の体に鉄パイプを何度も振り下ろすと、スポーツバッグから斧を取り出して言う。
「おい。まだ死ぬなよ」
 男子を始末すると床が血の海と化し、女の方に振り向くと、口から血があふれていた。恐怖のあまり、舌を噛み千切ったのだ。
 慎吾は女の前髪をつかんで言う。
「どうだ。気分は」
 女は血の泡を噴くだけで言葉にならない。
「俺の妹はな、お前に殺されたんだ」
 慎吾がナイフでとどめを刺すと、女はがっくりと頭を垂れた。彼は死にゆく姿を眺めながら煙草を吹かす。
 俺が間抜けだから美咲は死んだ。すべて俺のせいだ。
 彼は煙草を握りしめるが、肌を焼く火でさえも、悲しみをかき消すことはできない。
 彼は自ら出頭して身柄を拘束され、お決まりのレーンに乗った。
 後追い自殺を考えた彼であったが、少年院で自殺を図ることはなかった。
 同じような境遇で育った者が大勢いたし、拓哉との出会いが大きかった。
 昼食のときのことだ。
「おい。この肉を食ってくれよ」と拓哉に声をかけられた。
「いいのか?」
「安い肉は食えねえんだよ。俺は上流階級の出だからな」
「本当か?」
「見りゃ分かるじゃねえか」
 慎吾がクスクスと笑うと、拓哉は声を荒げた。
「馬鹿野郎! 俺はセレブだ」
「そうだな。確かにセレブだ。でも悪いから、俺の飯を半分食ってくれよ」
「おう悪いなあ。やっぱ米が一番だぜ」
 慎吾は拓哉といると不思議に心が休まった。拓哉には裏表がない。ただ、ないと言うより、作れないと言った方が正しい。裏表を作る前に、爆発してしまうから。
 慎吾はトイレ掃除の際に、死んだ妹のことを拓哉に話した。便器を拭きながら復讐のことを話すと、拓哉らしい言葉が返ってきた。
「そんな奴らは挽肉にしてやりゃいいんだ。生き返らせろ。俺が料理してやるぜ」
 さすがに慎吾も呆れた。
「そんな料理、犬も食わないよ」
「てめえ妹が可愛くねえのか。俺ならソッコーだぜ」
「お前、俺の気持ちがわかるか」
「わからねえよ。俺はずっと一人だったからな。あーあ、俺にも妹がいたら良かったな」
 滑稽なまでに愚かな拓哉。愛を知らずに育った拓哉。ある意味において、慎吾以上に悲惨だった。
 慎吾はそんな彼を不憫に思い、社会への憎しみを募らせる。復讐。その冷たい炎を胸に秘め、拓哉とともに「その日」を迎えたのだ。

 第四章 愚か者の所業

 その日は猛暑となり、コンビニの駐車場は焼けるような暑さだった。
 拓哉と慎吾はバイクの横で煙草を吸いながら、店内の様子をうかがっていた。競争相手が少ないせいか、コンビニは妙に客足が途切れない。
 彼らは糞みたいな過去を振り返りながら、客が消えるのを待っていた。
 拓哉はつばを吐き捨てる。
「あの野郎、検査とか言って、俺のケツの穴に指を入れやがった。ありゃ絶対奴の趣味だ。どう見ても股間が大きかったんだ」
 慎吾はげらげらと笑う。
「いいじゃねえか。けつの穴くらい貸してやれよ」
「馬鹿野郎! あいつ、ぶっ殺してやる」
「おい、客がいなくなったぜ。そろそろやるか」
「おう。派手に行こうぜ」
 彼らは煙草を投げ捨てた。
「ちょっと待て」と慎吾。
 小さな女の子がまだ店内にいた。
「ガキなんて気にすんな」と拓哉。
「だめだ。あの子が行ってからだ」
「じれってえなあ。こういうのはパンパンといかねえと」

 女の子は店を出ると、陽炎の中へ幻のように消えた。
「行くぞ」と拓哉。
 彼らは目出し帽をかぶって突入すると、若い店員にナイフを突きつけた。
「じっとしてろ」と慎吾。
「長生きはするもんだぜ」と拓哉。
 拓哉がナイフで威嚇し、慎吾は電話線を引き千切ってレジの金を奪う。
「慎吾、ポップコーンも頼むぜ」
「どうでもいい。行くぞ」
 拓哉は「サツを呼んだら殺すぞ」と若者を脅し、ポップコーンを鷲掴みにして店を飛び出す。
 彼らがアクセルを回すと、カラーボールが拓哉のバイクのそばで弾け、彼のスニーカーを塗料で汚す。彼はバイクから降りると、リュックからバールを出した。
 慎吾は「ほっとけ」と叫ぶが、拓哉は完全に切れている。
「いくらしたと思う。ディオールだぞ!」
「盗んだ金で買ったんだろ」
「うるせえ! あの野郎。頭叩き割って脳みそ踏みつぶしてやる」

 警察は彼らを寸でのところで取り逃がし、県下に緊急非常配備を敷く。山あいにサイレンが鳴り響き、蝉の声がかき消された。
 慎吾の心配をよそに、拓哉はマフラーを吹かして御機嫌だ。鼻歌は尾崎の名曲。もちろんバイクは盗んだものだ。
 パトカーのサイレンが徐々に近づいてくる。慎吾は「山に入るぞ」と叫び、左ウィンカーを出す。
 彼らは車道から林道に入り、小石を跳ね上げながら走り続けるが、拓哉のバイクの前輪がバーストし、彼は派手に転倒した。
「拓哉、大丈夫か」
「畜生、貧乏人が。こんなポンコツを置いときやがって」
 彼らはリュックを背負って山中を彷徨い歩く。やがて薄暗くなり、疲労と空腹が身に染みる。
「腹が減ったなあ」と拓哉。
 ふいに森が途切れ、視界が開ける。彼らの眼前に牧草地帯が広がった。
「おい、あれを見ろ」
 慎吾が指差す先に、仄かな灯が揺れていた。
 その光に向かって歩き、大きな木造家屋のそばに身をひそめると、家族の声が聞こえた。
「楽しそうだな」と拓哉。
「家族団欒ってやつだろ」と慎吾。
 拓哉は唇を噛む。
「いい気なもんだぜ。こっちは腹ペコだってのによ」

 第五章 惨劇の夜

 その日の晩も、酪農家の食卓は賑やかだった。
 叔母夫婦には子供がおらず、奈津子が我が子のように思えた。祖父母も孫娘を温かく見守った。
 だが奈津子は甘えない。彼女は箸を置くと祖父に言う。
「なんでもやります。他人と思って下さい」
「よし。朝五時から牛舎で働け」
 祖父が笑みを浮かべると、叔母が怒り出す。
「なっちゃんは小学生よ。意地悪ね」
「お父さんは冗談を言ったんだ」と叔父がなだめた。
 そのときドアが閉まる音が響いた。
「あらいけない。鍵を掛けるの忘れたかしら」
「おばさん。あたし、見てきます」
 奈津子が玄関に行き、鍵を掛けようとすると、カサカサと草の擦れる音が聞こえた。
 ドアを開けると、メリーの鳴き声が聞こえてきた。
 どうしたの。何におびえているの。
 メリーとは母を屠殺された雌の子牛である。肉親を失った少女たちは、出会った瞬間に打ち解けた。奈津子はメリーを妹のように可愛がり、メリーも彼女に心を開いた。
 彼女がメリーの元へ行こうとすると叔母の声が響いた。
「なっちゃあん。誰か来たのお」
「誰もいませえん。でも、ちょっと牛舎を見てきまあす」
 メリーは奈津子を見ると鳴き止んだ。
「大丈夫。あたしが守ってあげる」
 彼女はメリーの頭に頬ずりをし、おでこに口づけをする。
 その様子を彼らが陰から見ていた。
「なかなか可愛いじゃねえか。やっちまうか」
「おい、いい加減にしろ」
「冗談に決まってんだろ」

 奈津子がドアに鍵を掛けて居間に戻ると、七時のニュースがコンビニで起きた事件を報じていた。
 祖母は箸をとめて祖父に言う。
「あんたがお酒を買う店よ。こんな田舎なのに物騒だねえ」
 ニュースは若い店員の死を伝え、防犯カメラの映像を流す。
 すると牛の鳴き声が響いた。
「見てくるから食べていてよ」
「おじさん。あたしも行きます」
「ひとりで十分だから」
 彼が食卓を離れると、叔母はまた祖父に文句を言う。
「小学生に朝の作業ができるわけないでしょ」
「わかってるよ。しつこい奴だなあ」
「あんたに似たのさ」と祖母が皮肉を言うと、牛たちの騒ぐ声が響いた。
「なにかしら。見てくるわ」
「おばさん。あたしもいきます」
「なっちゃんはいいの。ご飯を食べていてね」
 そう言い残し、叔母も食卓を離れた。

 歌番組の最初の演歌が終わると、祖父は味噌汁を飲み干し、お椀を食卓にことんと置いた。
「奈津子。酪農が好きか」
「はい。動物が好きなんです」
「メリーか」
「ほかの牛たちも大好きです」
「酪農はきついから、まだ無理だな」
「どんな試練も乗り越えてみせます」
 十二歳とは思えぬ受け答えに、祖父はほとほと感心した。
 そのとき木のきしむ音が響き、居間のドアが少し開く。
「お疲れ様。牛舎でなにがあったんだ」
 ドアの向こうから返事はない。
「早く入ってこいよ」
 ドアの向こうは暗く、何も見えないが、奈津子は不穏な気配を感じ取っていた。二匹の獣が手を振りながら笑っていたのだ。
 不気味な声が聞こえた。
「なっちゃん。試練が始まるよ。なっちゃん」
「誰なんだ!」と祖父が怒鳴ると、木のドアが全開し、彼らが姿を見せた。
「なんの用だ」と祖父が言うと、「飯食わせろよ」と拓哉が返す。
 彼らは土足で侵入し、冷蔵庫を物色する。
「娘たちに何をした」と祖父が言うと、「さあな」と慎吾が返す。
 拓哉はがつがつと料理をむさぼり、うめき声を上げる。
「畜生、いいもん食ってやがる」
 慎吾は鎮静系の錠剤をつまみにビールを飲み、静かにテレビを見ていた。
 しばらくすると画面が切り替わり、警察が容疑者を特定したとのニュース速報が流れた。慎吾は奥歯で錠剤を噛み砕き、拓哉は料理を口に入れたまま固まった。
 キャスターは、未成年だから氏名は公表できないとし、コメントを述べた。
「少年の人権は尊重されるべきです。しかし、何をしても赦されていいわけではありません」
 正論である。だが憎しみに支配された者たちに効力はない。
「俺たち死刑かな」と拓哉。
「だろうな」と興味なさげな慎吾。
「でも、俺たち未成年だぜ」
「三人じゃ無理だろ」
 サイレンが遠くで鳴り響き、それを聞いた祖父が罵倒を始める。
「人殺しめ。少年だから赦されると思うなよ」
「赦してくれなんて誰が言った」と慎吾。
「クズどもめ!」
 慎吾はため息をついて黙り込み、しばらくすると、妙なことを言い出す。
「なっちゃん。君はメリーが好きなんだよね」
「うん。メリーは妹なの」
「どうして」
「佳代子がいないから、今はメリーが妹」
「佳代子って」
「去年死んだ、あたしの妹」
 奈津子が水害のことを話すと、慎吾は深い悲しみに沈む。それは妹想いの兄の悲しみだった。
「でも本当は、あたしが佳代子を殺したの」
 慎吾は息を呑んだ。
「佳代子は水の中で、あたしを待っていた。でも、あたしは」
 慎吾は聞きたくないとばかりに顔を背けるが、しばらくして重い口を開く。
「お兄さんにも妹がいた。彼女も死んじゃったんだ」
「どうして」
「ひどいイジメに遭ったんだ。誰も助けてくれなかった」
「先生は」
「学校も警察も見て見ぬふりさ」
 慎吾はまた黙り込むが、何かを思いついたかのように口を開く。
「ところで、君はメリーの運命を聞いているの」
「運命って」
「やはり聞いてないのか」
「ステーキになるんだ」と拓哉。
「おい拓哉」
「なんだよ。本当のことだろ」
「納屋に斧があっただろ。持ってきてくれよ」
「なにするんだ?」
「なっちゃん。お兄さんも、メリーが大好きだよ」

 拓哉が斧を持ってくると、慎吾はそれを何度も振り下ろす。
 奈津子は耳をふさいで目を閉じるが、断末魔の悲鳴が聞こえ、鈍い振動が伝わってくる。
 慎吾はことを終えると、台所から濡れタオルを持ってきて、奈津子の正面に座る。
「目を開けてもいいよ」
 奈津子が目を開けると、慎吾が真っ直ぐに見つめる。
「お兄さんの顔だけを見て」
 慎吾は奈津子の顔に散った血飛沫を、濡れタオルで丁寧に拭い取った。
「なっちゃん。幸せになってね」

 第六章 ただひとつの道

 事件から二十四年。奈津子は三十六歳の主婦になっていた。夫と一人娘の三人家族。一見幸せな家庭に見える。
 奈津子は常々考えていた。憎しみに染まれば、いつか自分も破滅してしまう。そして家族まで不幸にする。
 彼女は家族のことだけを考え、過去を振り返らないようにした。だが、ちょっとした事件の話を聞いただけで、悲惨な光景が蘇った。
 家族に内緒で精神科にも通った。心的外傷後ストレス障害と診断され、処罰は一時的な満足に過ぎないと言われた。心理療法を続けてみたが、心が癒えることはなかった。
 ついに彼女は神の力にすがる。聖書を手に取り、イエスの言葉に救いを求める。
 マタイによる福音書5章
『隣人を愛し、敵を憎めと、あなたがたは聞いている。しかし、わたしは言う。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。』
 同福音書18章。
 ペトロはイエスに聞く。
『主よ、兄弟が私に罪を犯したら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』
 イエスは言う。
『七の七十倍までも赦しなさい』
 それが無限回を意味することは言うまでもない。
 奈津子は赦すことで憎しみを断とうとするが、それはあまりに辛く、不可能とさえ思えた。

 奈津子は悩み抜いた末、郊外の丘に建つ古い教会を訪ねることにした。
 石造りの礼拝堂はひっそりと静まり返り、ステンドグラスから差す光が、床に七色の模様を描いていた。
 神父は奈津子のために時間を割いてくれた。礼拝堂には他に誰もいない。
 彼女が深々と頭を下げると、若い神父は慈愛に満ちた声で告げる。
「悲しむ人は幸いです。その人は慰められるでしょう」
 奈津子が跪こうとすると、神父は言う。
「椅子に掛けて話してください」
 彼女は腰を下ろし、目を閉じて十字を切ると、震えながら懺悔を始める。
「私は子供のころ、家族を水害で失いました。あのとき、小さな人影が水の中に見えたのです。なのに私は飛び込まなかった。私は自分の妹を、見捨てたんです」
 涙がこぼれ、言葉が続かない。
「無理に話さなくても良いのです」
「大丈夫です。聞いてもらいたいのは、水害のことではありません。私を苦しめる憎しみについて、話したいのです」
 彼女は震える声で牧場での惨劇を語る。その光景が頭から離れず、一日たりとも憎しみから解放されないと告白をする。
「憎しみに取り憑かれ、気が狂いそうです。このままでは、誰かを傷つけそうで、怖いのです」
 そして彼女は核心へ迫る。
「赦すことで、憎しみを断つことができますか。それをできるのは、復讐ではないですか。犯人が死ねば、憎しみも消えるのではないですか」
 長い沈黙が訪れ、礼拝堂は静寂に包まれた。
 やがて神父は穏やかに話し始める。
「自分はアーミッシュと暮らしたことがあるのです」
 奈津子はアーミッシュを知らない。
「それは古い生活様式を守るキリスト教の一派のことです」
 神父はアーミッシュの村で遭遇した事件について話し始める。
「四年前、私はペンシルベニア州の教会に留学し、アーミッシュの村に滞在しました。彼らと一緒に聖書を読んでいると、遠くから銃声が聞こえました。武装した男が小学校に押し入ったのです。罪なき少女たちがショットガンで撃たれ、五人の命が奪われました。誰もが憎しみに呑まれても仕方ないほどの惨劇です。
 でもその夜、犠牲となった少女の祖父は、涙を流す孫たちに言いました。『犯人を悪く思うな。彼を赦すのだ』と。
 村の人々は、犯人の妻の家を訪ねました。泣き崩れる彼女に向かって、『私たちは彼を赦し、あなたと、あなたの子供たちのために祈ります』と言いました」
 奈津子は神父に問う。
「犯人を赦したのですか。五人もの子供が殺されたのに」
「そうです。復讐は誤った選択です。それをすれば、心はより深く傷つきます」
「私は、その人たちのように強くありません」
「赦しとは、主が人に課した最大の試練であり、ただひとつの道なのです」
 彼女は冒涜さえ怖れず、声を震わせて問う。
「神父様はどうですか。自分の子供を殺されても、犯人を赦せますか」
 神父は穏やかに答える。
「私は、ただひとつの道を選びます」
「なら犯人を赦せば、憎しみは消えるんですね」
「赦す者こそ真の王者です。安心しなさい。サタンは退くでしょう」
 奈津子の心に一条の光が差す。彼女は神父の言葉を信じ、大胆な決断を下す。

 第七章 悲しみの河

 奈津子は死刑に反対する。犯罪を助長するとの声が上がったが、彼女の意志は固かった。
 被害者遺族Xの意志が死刑反対運動に勢いを与え、当局が刑の執行をためらうと、死刑囚の一人である拓哉は手を叩いて喜んだ。
 彼は面会に訪れる支援者に、いつも愚痴をこぼしていた。
「俺がやったのはコンビニの兄ちゃんだけだ。牧場の奴らを殺したのは慎吾だぜ。二人以上が死刑の相場だろ。なら俺まで死刑なんて、おかしいじゃねえか」

 慎吾は相棒とは真逆な意志を表明する。彼は死刑反対運動に反対するのだ。
 慎吾は面会を拒んだから、奈津子は何度も刑務所に書簡を送り、愚かなことはやめて欲しいと訴えた。
「私は憎しみを捨て、あなたを赦します。だから生きてください」
 だが返信には、頑なな意志が綴られていた。
「なっちゃん。もう死刑に反対しないで欲しい。俺は死にたい。でも自殺はしない。俺は偽善者どもに殺しをさせるつもりだ。そうなれば、奴らも俺と同じ、殺し屋だからな」
 悲しくも愚かな復讐である。だが奈津子は諦めない。

 慎吾の説得は密かに行われた。奈津子は家族の目に触れないよう、局留めで書簡のやりとりを続けた。
 慎吾が生まれ育った境遇を知るたび、奈津子の憎しみは悲しみに変わっていった。
 慎吾の手紙には、妹を思う兄の優しさが滲み出ていた。
「美咲は猫を飼いたいと言ったけど、アパートじゃだめなんだ。俺は毎日河原に通い、猫の親子に餌をやって仲良くなった。美咲を河原に連れて行き、猫たちに会わせると大喜びだ。でもある日、処分場の回収車が堤防沿いに停まっていた。車の荷台から猫たちの鳴き声が聞こえた。美咲は『いやだ、いやだ』と泣き叫んだ。俺は『大丈夫。誰かが飼ってくれるから』って、嘘をついたんだ」
 彼の優しさが、佳代子を思う奈津子の気持ちと重なった。憎しみは溶け、悲しみとなって流れ出した。
 あの人を死なせない。必ず救ってみせる。
 奈津子の心に、希望の光が差した瞬間だった。

 実は、奈津子の他にもう一人、慎吾の手紙を読んでいる者がいた。ひっそりと目を通し、慎吾の過去に、己の現在を重ね合わせる者が。
 復讐の否定は卑怯者の言い逃れ。愛する者に対する裏切り。その者には、そうとしか思えなかった。

 第八章 綾香と麻弥

 奈津子には一人娘がいた。名を綾香という。
 彼女は中一の春に美術部に入ると、たちまち周囲を圧倒した。
 綾香は媚びることが嫌いで、周囲に合わせようなんて気は全くなかったから、部活はおろか、クラスでも常に浮いた存在だった。
 中二の春、一人の女子が綾香の前に現れる。それは運命的な出会いだった。
 麻弥(まや)はおどおどしながら教壇に立ち、クラスメイトに挨拶をする。
「よろしく、お願いします」
 淡い花びらのように存在が薄く、綾香でさえも、その才能に気づかなかった。
 麻弥は美術部に入り、綾香を驚かせる。綾香は自分を超える才能に初めて出会ったのだ。
 綾香の絵は異様なほど写実的で、妥協を許さぬ性格がにじみ出ていた。
 片や麻弥の絵は、牧歌的な光に包まれており、穏やかな性格をうかがわせる。
 素人の評価は圧倒的なものに傾きがちだ。だが才能は才能を理解する。
 綾香は晩飯時に奈津子に言う。
「お母さん。凄い子が転校してきたの。あたし、その子と友達になるつもりよ」
「良かったわね。なら、遊びに来てもらったら」
 綾香はキャンバスに向かう麻弥に声をかける。
「上手だね。あたしなんて足元にも及ばない」
「そんなことないです。綾香さんの絵、とても素敵です」
「さん付けなんてやめて。綾香って呼んで」
「あやか」
「麻弥。次の土曜、あたしの部屋で絵を描こうよ」
 こうして綾香の部屋は、ふたりのアトリエとなった。

 ただ、彼女たちは絵ばかり描いていたわけではない。好きな小説や音楽など、様々なことを語り合った。
「麻弥。聖書って読んだことある?」
「朗読を聞いたことはあるけど、読んだことはない。綾香は?」
「真剣に読んだことはないけど、お母さんがよく読んでいるから、ちょっと興味があるの。ねえ麻弥。聞いてもいい」
「なにもわからないよ」
「いいの。麻弥がどう思うか知りたいだけ」
 綾香は、神の子イエスが、神に見捨てられたことの意味を麻弥に聞いた。
 それはキリスト教の核心であり、実は綾香は、様々な見解を既に調べていた。だが、麻弥の言葉は意外なものであった。
「あたし、神様が気の毒でならない」
「どうして?」
「自分の子を見捨てるなんて、すごく悲しいことだと思うから」

 ある日、彼女たちは恋について語り合う。
「麻弥は、好きな子がいるの?」
 彼女は何も答えない。
「ねえ。教えてよ」
「いないと思う。綾香は」
「えっ、あたし。あたしも、いないと思う」
 綾香は慌てて取り繕うが、麻弥に目を見つめられて観念する。
「麻弥。あたしの好きな人はね」
 すると麻弥が言葉を遮った。
「綾香ごめん。あたし、嘘を言った。本当は好きな人がいるの」
「だれ?」

 夏休みに入ると、ふたりはクーラーの効いた部屋で大胆な手法を採用する。
「麻弥。あたしを描いて」
「うん」
「服を脱いでいい」
 麻弥の眼差しは、綾香の肉体の奥底にある実体に迫る。
 麻弥は描き終わると言った。
「綾香。あたしも描いて欲しいの」
「そう来ると思った」
「綺麗に描かないでね。嘘はいやよ」
「あたしが、そんな間抜けだと思う」
 ふたりは十四歳にして官能を知る。それは人間の手垢とは無縁な、清純な喜びだった。

 第九章 踏みにじられた官能

 夏休み明けのある日、麻弥のカバンからスケッチブックが消えた。
 そこには綾香の裸体が描かれていた。麻弥が想像で描いたデッサンだ。肉体はおろか、心まで描いたような小品だった。麻弥は言葉にできない思いを、その絵に託したのだ。
 麻弥はカバンの中にノートの切れ端を見つける。
『返して欲しいなら、明日の放課後、一人で体育館の倉庫においで。来なければ、絵をコピーしてばらまくからね』
 麻弥は綾香に相談をしなかった。
 あたしは、なんて馬鹿なんだろう。綾香の裸をカバンに入れて、教室に置いておくなんて。
 麻弥は自力で解決しようとするが、クズどもが彼女を待ち受けていた。
「よく来たわね」
 女は仮面を付けているが、同じクラスの女子だと声でわかる。彼女も美術部で、綾香を心底憎んでいた。綾香を傷つけるために、麻弥を狙ったのだ。
「お願い。スケッチブックを返して」
「これがそんなに大切なの」
 女は麻弥の足元にそれを投げ捨てる。麻弥が拾って倉庫から出ようとすると、五匹の獣が行く手をふさいだ。全員仮面を付けているが、クラスの男子だと声でわかる。
 彼らは麻弥の腕をつかみ、床に押さえつける。泣き叫ぶ麻弥の姿を、女がスケッチブックに描く。
「歯を立てるな!」
 鈍い音が響き、床に赤い斑点ができた。
「あーあ、こいつ鼻いったな」
「このまま返したらバレるぞ」
「兄貴に車を回してもらうから、マットの袋をはがせ」
「なんで」
「車が汚れるだろ」

 翌日の早朝、麻弥の携帯からメールが届く。
『綾香おはよう。郵便受けを見てね』
 綾香は郵便受けから麻弥のスケッチブックを取り出すと、何度も麻弥の携帯を鳴らす。しかし、いくら呼んでも彼女は出ない。綾香はメールを送る。
『麻弥、何があったの? お願い。返信をして』

 警察は容疑者を割り出すが、少年たちが麻弥を河に突き落とした証拠はなかった。
 彼らは麻弥は自分から車に乗ってきたと、口を揃えて言った。家まで送ると言ったら、一人になりたいと言うから途中で降ろしたと、全員が供述した。
 麻弥には精神科への通院履歴があった。軽い鬱症状があったのだ。
 また、犯行を疑われた少年の中に、地元を牛耳る議員の孫がいたことも、捜査に影響を及ぼしたに違いない。
 鼻骨の損傷は河へ落下した際にできたとされ、結局自殺として処理された。

 犯人たちは綾香を横目で見ては、明からさまに笑っていた。
 やがて彼女は、クラスの誰もがニヤニヤと笑っていることに気づく。麻弥が描いた綾香の裸体が、拡散されていたのだ。
 だが彼女は学校に訴えなかった。教師は隠蔽しか頭にないし、そんなことをすれば犯人たちは警戒する。
 両親にも頼れない。父に相談すれば担任に相談しろと言うだけだし、母は人を憎んではいけないと、口癖のように言っていた。
 綾香は犯人たちを油断させるために平静を装う。毎日クラスの風景をB5のノートに描き、彼らを静かに観察していた。
 日曜の午後。綾香は麻弥が描いた自分の裸体をずっと見ていた。気づけば、部屋が夕陽に包まれていた。
 綾香は麻弥のスケッチブックを閉じると、クラスメイトを描いたB5のノートと共に、机の引き出しの奥に仕舞う。
 麻弥。あたしの最高傑作を見せてあげる。
 その約束は、麻弥を手に掛けた連中への宣告だった。二週間後に迫る林間学校で、その「最高傑作」を完成させるつもりだ。

 第十章 憎しみの継承

 麻弥の死からほどなくして慎吾の元に薄い封書が届く。封を開けると、一枚の便箋に、奈津子の筆跡で書かれていた。
『一度だけ面会してください。あなたが、それでも死を望むなら、私は諦めます。』
「彼女」が指定された時刻に面会室に入って待っていると、やがて慎吾が現れた。
 ふたりはアクリル板越しに見つめ合う。彼女はサングラスを掛けたまま黙っているから、仕方なく慎吾から話しかけた。
「家族がいるんだろ。こんなことは、しないほうがいい」
 彼女は何も言わない。
「俺の意志が変わることはない。だから、もう死刑に反対しないでくれ」
 すると彼女はサングラスを外し、小さな声で言う。
「あたしが、誰かわかる?」
 奈津子の顔は慎吾の脳裏に焼きついていた。化粧をしても、見間違えるとは思えない。ただ、彼女の顔は少女のままだった。
「君は誰だ」
 彼女は刑務官をチラッと見てから、アクリル板に顔を近づけ、さらに声を潜める。
「やっぱり、お母さんにそっくりなのね」
「彼女の娘なのか」
「しっ。小さな声で話して」
 綾香は母の筆跡をまね、免許証を偽造したのだ。
「なんの真似だ」
 綾香は慎吾の目を見つめる。
「知っているのよ。あなたが優しい人だって」
「知ったような口を聞くな」
「美咲さんのことも、復讐のことも知っている。あたし、あなたの気持ちがわかるわ」
「黙れ。お前に何がわかる」
「お願い。ひとつだけ教えて。そしたら、すぐに帰るから」
「何が聞きたい」
「復讐したことを、後悔してる?」

 綾香が林間学校に出発する日の前夜、奈津子は海外にいる夫と電話で口論をしていた。
 奈津子は綾香を林間学校に行かせたくないと言うが、夫は耳を貸さない。
「お願い、わかって。どうしても行かせたくないの」
「どうして」
「なにか悪い予感がするの」
「なに馬鹿なこと言ってるんだ」
 あることが奈津子の不安を駆り立てていた。
 先週、綾香の部屋を掃除しているときのことだ。机の引き出しを開けると、綾香の裸体が描かれたスケッチブックがあり、それに寄り添うようにB5のノートがあった。B5のノートには教室の日常が描かれていたが、どの生徒の顔にも目が無いのだ。
 いつの間にか綾香がそばに立っていた。
「お母さん。あたし、みんなと仲良くなりたいの」
「でも」
「奈津子。そこに綾香がいるんだろ。代わってくれ」
 奈津子は娘に受話器を渡す。
「綾香。一人で絵ばかり描いてちゃいけない。気持ちを切り替えて、新しい友達を作りなさい」
「うん。そうする」
「持ち物は全部用意したのか」
「大丈夫。もう準備はできているわ」
 指定された持ち物はもちろんのこと、綾香はカレーに入れる特別な食材まで用意していた。わざわざ郊外の山奥まで行って採ってきたのだ。

 翌日は朝から青空が広がり、絶好の遠足日和となった。紅葉を迎えた渓谷で飯盒炊爨をし、キャンプ場の近くで合宿する予定だ。
「みんなでカレーを作るのよ」と綾香は嬉しそうに言う。
「綾香、お願い。行かないで。なにか悪い予感がするの」
「大丈夫、心配のしすぎ」
「綾香。本当に、クラスのみんなと仲良くなりたいの」
「お母さん。あたしは嘘が嫌なの」
 綾香はテーブルにつくと、目玉焼きを箸で食べ始めた。
「お母さん。フォークとって」
 食器棚からフォークを取り出し、テーブルの方に振り向いた瞬間、奈津子はそれを手から落とした。
 朝のニュースが、当時十八歳だった二人の死刑囚の最期を伝えたのだ。
 奈津子は床に崩れ落ち、手をついて涙をこぼした。
 致命的な瞬間だった。奈津子は赦す相手を永遠に失い、その喪失感は果てしない。片や綾香は処刑された者たちを犠牲者と認識する。
 奈津子が顔を上げると、綾香が目の前に立っていた。
「お母さん。なにがあったの」
「なんでもないの。気にしないで」
「お母さんは、なにか恐ろしい経験をしたんじゃないの」
「なに言ってるの。そんなことないわ」
 綾香は悲しげに母を見つめる。
「お母さん。ごめんね」
 綾香はリュックを背負い、部屋から出て行った。

 第十一章 憎しみの決壊

 その日の正午、綾香はクラスメイトと一緒にキャンプを楽しんでいた。
 真っ青な空と、鮮血のような紅葉。最高傑作に相応しい背景に、綾香は初めて神に感謝する。
 たまには、いいことをするのね。
 彼女は六つのカプセルをポケットに忍ばせていた。中身は粉末化された「食材」だ。
 綾香は飯盒炊爨を楽しんでいるように見える。笑顔の完璧さゆえ、彼女を嫌う者でさえ気を許す。
 ある生徒が玉ねぎは入れたかと聞けば、綾香はルーをかき混ぜながら「ごめん。忘れてた」と言い、申し訳なさそうに謝る。
 その視線の先には、女一人と男五人のグループがいた。麻弥を手に掛けた連中だ。綾香は服の上から六つのカプセルを握りしめる。
 彼女は六つの皿にルーを盛ると、大きなお盆に乗せて、彼らの元へ運んだ。
「あんたが作ったの」と女が聞くと、綾香は「頑張って作ったのよ」と笑顔を浮かべる。
「不味かった許さねえぞ」
「そんときゃ体で償ってもらうからな」
 綾香は涙を浮かべ、震えて見せる。
「ひゃはは。そりゃすげえや」
 麻弥を輪姦した者たちを、綾香は冷ややかな眼差しで見ていた。

 午後一時。奈津子が洗濯物をたたんでいると、学校からメールが入る。
『林間学校で食中毒が発生し、警察と救急隊が来ています。詳細は追って連絡します』
 テレビをつけると、黄色いテープが張り巡らされたキャンプ場が映し出された。真っ赤な紅葉を背景に、若い女のリポーターが早口で伝える。
「カレーを食べた六人の生徒が救急搬送されました。既に心肺停止とのこと。警察は毒物混入事件として捜査を開始しました」
 電話は繋がらず、奈津子は娘にメールを送る。
『綾香。大丈夫なの?』
『うん。心配しないで』

 残飯からトリカブトの粉末が検出された。それは現場周辺の森にも自生しているが、部外者がキャンプ場へ侵入したとは考えにくい。教職員も調べられたが動機が見つからない。
 被害者の六人は、いじめの常習犯と名前が上がったため、いじめの報復という線で捜査は進められた。容疑者は多数にのぼり、捜査は難航すると思われた矢先、綾香の名前が浮上した。
 被害者たちがキャンプ場で彼女を脅していたとの証言を、警察は聴取していたのだ。

 事件から二ヶ月後、黒いセダンが奈津子の家のそばで豹のように待機していた。
 ベテランの刑事はダッシュボードに駐車禁止除外車証を置くと、若い刑事に指示を出す。
「二人だと構えられるから、お前だけで行ってこい。居間に入ったら、さりげなく娘の部屋を見ていいかと聞け。無理はするなよ」
「わかりました」
 若い刑事はインターホンを鳴らす。
「どちら様ですか」
「警察です。少しお聞きしたいことがあるのですが」
 奈津子がドアを開けると、背広姿の若者が警察手帳を見せた。
「警視庁捜査一課の稲垣といいます。綾香さんのことで、少しお聞きしたいのですが」
「なんでしょうか」
「ここではなんですから、上がらせてもらってもいいですか」
 奈津子は彼を居間に通し、コーヒーを出した。
「娘が何かしたんですか」
「いや、例の事件のことで、生徒全員の自宅を周っているんですよ」
「そうですか」
「事件のことで、綾香さんは何か言ってませんでしたか」
「家で事件のことなんて話しません。暗い気持ちになるので」
「そうですか。もし良ければ、ちょっと綾香さんの部屋を見せてもらえないですか。無理なら結構ですが」
「いえ。別に構いませんが」
 彼は部屋に入ると、壁に張ってある絵に注目する。それは『聖セバスチャンの殉教』という絵画の模写だった。
「綾香さんは絵が上手なんですね」
「あの子は美術部だったんです」
「今は違うんですか」
「周囲に馴染めなくて、辞めてしまったんです」
「それにしても上手だなぁ。自分も学生のころ絵を描いていたんです。でも、とてもかなわない。綾香さんはきっと天才ですよ」
「いえ、そんなことは」
 彼は机の上の分厚いスケッチブックに指先で触れた。
「見てもいいですか」
「どうぞ」
 彼は描かれた人物を確かめながら、ゆっくりと紙をめくる。
「これは、お母さんですね」
「はい」
「この男性は知ってます。名前は忘れたけど、確か俳優ですよね」
「はい」
「この俳優さん。なんか悲しい目をしてますね」
 奈津子には、わかっていた。綾香は、虚像の中に真実を見るのだ。
「ご主人の絵は、ないのですか?」
「主人は海外に赴任しているんです」
「そうですか」
 ほとんどが奈津子の肖像画で、たまに俳優の絵が現れる。やがて絵は途絶えて白紙が現れる。それでも彼はめくり続ける。すると最終ページ近くで一枚の絵が現れた。
 それは、キリストの受難を描いた宗教画『茨の冠を戴くキリスト』の模写だった。天を仰ぎ見るイエスの表情に、奈津子は一瞬息を呑む。
「綾香さんはキリスト教に興味が?」
「いえ。そんなことは。気に入った絵を写しただけだと」
「そうですか」
 彼がもう一枚紙をめくると、暗い目をした男の肖像画が現れた。
「これは誰ですか?」
 奈津子がその男と対面したのは二十四年前。当時彼は十八歳で、奈津子は十二歳。顔の輪郭は変わらないが、目の雰囲気が変わっていた。当時は冷酷な目をしていたが、今は悲しみに満ちている。
 綾香は悲しみが氷結したような眼差しを、たった一度、それも数分会っただけで描き切った。
 奈津子は床に崩れ落ちる。
「大丈夫ですか!」
「貧血がひどくて」
「すみません。立たせたままで」
 彼は奈津子をソファーに寝かせた。
「突然お邪魔してすみませんでした。今日のところは、これで失礼します」
 彼は一礼し、ドアを閉めて出て行った。

 最終章 憎しみの大河

 その夜、奈津子は綾香に自分の過去を打ち明ける。牧場での惨劇を淡々と語り、幼き日のことを振り返る。
「母さんは子供のころ、土石流で家族を亡くしたの。あの夜で、すべてが変わってしまった」
 奈津子の頬を涙が伝う。
「なぜ話してくれなかったの」
「これは凄く恐ろしいことなのよ。こんなことに、あなたを巻き込みたくない」
「お母さん。明日、警察に連れて行って」
「だめ。そんなことをしても、亡くなった子は戻らないのよ」
「なら、あたし一人で行く」

 その夜、奈津子は綾香と一緒に寝た。だが、眠りたくはなかった。娘を抱いていれば、束の間の幸せを感じられたから。
 奈津子は憎しみの激流を予感した。たとえ、それに呑まれても、娘を決して離さない。そう心に誓うのだ。
「お母さん。ごめんね」
 綾香は母の人生を思い、その胸で泣き続ける。
 そのベッドは、憎しみの大河へ乗り出す筏だった。彼女たちは身を寄せ合い、永遠の漂流に旅立つ。
 もはや、ふたりには、互いの温もりしか残されていなかった。

憎しみの河

執筆の狙い

作者 飼い猫ちゃりりん
sp1-75-252-248.msb.spmode.ne.jp

AIによる作品紹介です。

『憎しみの河』は、赦しと復讐の狭間で世代を超えて連鎖する憎しみを描いた衝撃の長編小説。(19000字)
幼い頃に水害で妹を失い、罪悪感に苛まれる奈津子は、養父母の牧場で再び家族を惨殺される。犯人は、過酷な生い立ちから犯罪に走った少年・拓哉と慎吾。慎吾は妹の自殺への復讐を果たし、やがて死刑囚となる。
二十四年後、赦しを求めて聖書にすがる奈津子だが、娘・綾香は母の過去を知り、親友をいじめで失った憎しみを継承。林間学校で冷徹な報復を実行する。
赦しの理想と復讐の現実が交錯し、誰も救われない「河」は母娘を飲み込む。悲しみと憎しみの連鎖は、永遠に止まらないのか。

コメント

しいな ここみ
KD124209091124.au-net.ne.jp

『憎しみの河』、読了しました。

 レフ・トルストイさんの『火は早めに消さないと』を思い出しました。憎しみは何も産まない、早めに消すことが正しいという教えでしたね。

 しかしこちらの作品では、憎しみが連鎖することが説教臭くなく、ポリフォニックな視点から描かれていることで、読者の『考える自由』を許し、疑問を投げかける形を取っているのが良いなと思いました。

気になる点としては、あらすじみたいではないけれど、なんだかダイジェストを読まされている感じがありました。テンポよくぽんぽんと進んでいくのはいいけれど、早送りみたいで、もうちょっと落ち着いて読ませてほしい印象をもちました。この内容だと、最低でも四万文字は必要ではないでしょうか。

とはいえ、これだけの数の登場人物を無駄なく散りばめられるのは確かな技量ゆえと思いました。

飼い猫ちゃりりん
sp1-75-253-206.msb.spmode.ne.jp

しいな ここみ様。まずもって、このような作品を、お読みいただき感謝しております。Rなんたらと表示はしませんでしたが。

>気になる点としては、あらすじみたいではないけれど、なんだかダイジェストを読まされている感じがありました。テンポよくぽんぽんと進んでいくのはいいけれど、早送りみたいで、もうちょっと落ち着いて読ませてほしい印象をもちました。この内容だと、最低でも四万文字は必要ではないでしょうか。

そうなんですよね。この内容だと「本一冊だろ」、東野さんなら各章で50ページだと言われたこともあります。
ひとまず目標は四万字、今の2倍にしましょう。描写をもっと丁寧にすれば、意外といけるかなぁ。しいな様のようにサラッと40000字書ける力量はないしな。

それと余計な話ですが、AIはこの作品を絶対に読み間違えることが分かりました。AIは牧場で「メリーが慎吾に殺された」と読むんです。AIに答えを教えると、最悪のストーリーは避けるようになっていると言ってました。

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