その願い(未完成)
玲央は小学生の頃思った。
僕は、白鳥ではなくて超一流のあひるになる。もちろん、苦しみたいわけじゃないし、わざといじめられようとは思っていないんだ。でも、あひる道を究め、楽しみたいと思っている。それなのに、白鳥を目指せと、両親の期待が重石のように、のしかかってる。親に、期待されすぎって、笑えないんだよ。
だから、僕は決めたんだ。白鳥にはならない。超一流の、あひるになる道を貫いてみせる。後押ししてくれる存在が夢にも出てきたわけだし。
小学生の頃の僕は、頭脳明晰で、運動神経抜群。だけど、中学生になってからはクラスメートには秘密にしている。
中学生になってからは、わざと悪い点数をとるようにしているし、運動能力も振るわないようにしている。小学生の頃と比べ、いろいろ下がったと両親は小言を言ってくるけど、気にしない。
それにしても、楽しければそれでいいという僕のあひる道が、両親の目には身勝手と映るみたい。それが、悔しいよ。
白鳥は、厳しすぎて、僕には向かない。でも、あひる道の心得を実践し、ただのあひるではなくて、超一流がつくあひるになれたら、白鳥よりも素敵だ。
あひる道の心得。
一、頂を進む道にはあえて進まない。
二、とにかく誰よりも楽しむ。
三、自分で決めた飛び方、泳ぎ方をする。
このあひる道を、教えてくれたのは、幼少期の夢に現れた、土照大神と名乗る存在だ。そのときは意味がわからなかったけれど、夢の中で、まるで石碑のように頭に刻まれた言葉がある。?の部分は聞き取れなかった。
「お前を導く。厳しい道は、お前の?????では???を蝕む。そして、不幸になる?????になるのだ。白鳥であるな。あのあひる道の託しが導きの一つだ。???戦争に、巻き込む代わりに、幸福になるチャンスを与えてやろう。ただし、????はどちらにせよ、お前を不幸にするかもしれない。全てを語ることはできない」
両親は僕を白鳥に仕立てあげようとしていた。それも、僕が幼少期の頃からだ。夢に出てきた目元の主神、土照大神の夢を、本当に信じていいのか、幼少期はわからなかったんだ。だって、怖いよね。でも、それでもあの夢を信じたくなったのは、楽しむことを自分の心の核に置かないと壊れそうになったから。
◇◇◇
高校生になって間もなく、玲央は、自分の心血を込めて描いた漫画を破り、その断片を何度も踏みつける。
「こんなもの……こんなもの……!」 あひる道を、誰よりも楽しむって決めたはずなのに。自分で決めた飛び方、泳ぎ方をするって誓ったはずなのに。どうしてこんなに苦しいのかわからない。僕の描いた世界は、誰にも届かない。
僕は、白鳥ではなくて超一流のあひるになる。だからこそ、この心の涙は、絶対に誰にも見せずに、誰よりも楽しんでみせる。
その後、決心を固める言葉を吐いた。
◇◇◇
玲央の才能の一端が現れたのは、小学五年生の頃。バレーが得意で、頭角を現していたのである。たとえば、技術の中で一番得意なトス。誰よりも正確に上げてみせる事が出来る。トスの神様とあだ名がつけられる程、敵の意表を突くポイントに上げていた。味方の選手が玲央のトスの軌道を読んでボールを追っていけるのは、彼等がたゆまぬ練習をしているおかげである。玲央の縦横無尽なトスは、敵から「翻弄トス」と恐れられるほどだった。敵の選手達は、玲央のトスが上がるたび、緊張の面持ちで見上げる。生理的反応のせいだろう、油汗を流す者もいる。
ジャンピングサーブは速すぎて、三割も返せる人なんて、いなかった。一方で、玲央は自分のレシーブに自信を持っている。
もしも、自分のサーブを自分がレシーブするとしたら、かなりの確率でとれるだろう。
ダイヤモンドの輝きを持たないあひる達よりは、まだ自分の方が取れる。
スパイクも有能。ブロックは、不得意だったが、それでも、全国大会で通用するクラスだった。
しかしながら、両親はそれでも、「醜いあひると同じであってはいけない。白鳥は、これぐらいのレベルでは駄目です」「お前は醜いあひるじゃないだろ。白鳥になれないと意味がないぞ」と言った。そして、専属コーチとして指導してもらうよう、プロの選手に頼んだ。玲央は、これはいけないと思う。バレーはただの趣味。厳しい練習に打ち込まされている内に、少しずつバレーを楽しむ心を潰されていく。二か月後には、バレーを楽しめなくなった。
周りの空気が、錆びついてしまったように感じた。
◇◇◇
玲央が七歳の時、愛犬が亡くなった。その時の気持ちに似ている。崩れ落ちそうになったのだ。
愛犬はシュナウザーで、メルディ―という名前だった。メルディ―は独特の眉毛をしていて、目本初の連立政権の総理である村上に似ていると言う人が多くいた。
父や母にグッドラで村上総理の画像を検索してもらい、確かに似ていると、玲央だけ笑った。
メルディ―は友達と言っても差し支えない。同じ幼稚園の子らと違って親密で、あひるには思えなかった。玲央がメルディーの鼻先に手を差し出すと、いつも決まってその手を舐めた。朝に散歩をさせるのは、玲央の仕事になっていた。いつも、起きましょうと目覚まし時計から、溌剌とした幼い子供の声が流れると、玲央は支度を済ませる。そして、メルディ―専用の部屋に入る。そのたび、メルディーはいつも吠えた。散歩に連れて行けという意味だと、玲央は汲みとる。すぐにゲージの扉を開け、リードをつけて、邸宅の外へ連れ出し散歩させるのが日課だった。大きなゲージに、メルディ―を入れているのは訳があった。専用の部屋があるのに、ゲージに入れているのは、そこら中をトイレにされないようにするため。ゲージの下には吸水シートを敷いてあった。
玲央は父や母に叱られたら、いつもメルディ―のいる部屋に逃げ込む。
ゲージからメルディーを出すと、どうしたの? とでも言うように、泣いている玲央にそっとすり寄ってくる。叱られるたび、玲央はそのぬくもりにすがった。メルディーは、玲央の心の支えだったのだ。
◇◇◇
あひる達は楽しそうに笑いながらバレーをしているというのに、もう僕はそれも出来ないに違いない。あひる達にも何か悩みがあるだろう。
玲央のイマジネーションでは、テレビの中のあひる達と自分が見える。
どちらも、そこから抜け出すことができないと思っていた。
でも、あひる達は、カラーテレビの画面の中にいて、賑わいを見せている。それに比べ、僕は白黒。色が抜け落ちたテレビ画面の中にいる。色がないって、本当に寂しいんだ。
結局、主神のあひる道を信じバレーを辞めた。そして、サッカーをやり始める。両親は、またしても、専属としてプロに個人指導を依頼した。何かが違う、と思ってしまう。サッカー、そして、将棋、囲碁。両親がプロに指導を依頼していくたび、次々に辞めてしまったのだ。元々どれも、土照大神の言葉のせいにするつもりはないけれど、あの夢がなかったら、ここまで強く白鳥を拒めなかったかもしれない。白鳥を求められるたび、僕は好きだったことが嫌いになる。ただ単純に、あひる道で楽しみたいだけ。誰かに、特別視されても苦痛でしかなかった。
小学六年生の秋、玲央はその気持ちを両親に訴えようと決心した。夢にまた出てきた土照大神が、両親に言いいなさいと導いた。
両親の後ろから『米花寿司』と白い文字で書かれた黒地の暖簾を見た。木の引き戸を、父が開ける。店内に入っていき、母、玲央と続く。らっしゃいと、野太い声がし、檜の匂いが鼻腔をくすぐってきた。店内の左、声がした方、カウンター席の中に、青い割烹着を着た二人の寿司職人がいる。片方がこちらを見ていて、もう一人は黙々と寿司を握っていた。カウンター席は一人客が座っている。引き戸の正面には、濃い茶色をしているテーブルが手前と奥に一つづつ配置されている。そこには誰も座っていなかった。奥のテーブルの後ろには、青い作務衣を着た給仕の女性が立っている。玲央の記憶では、彼女より奥まったところに靴を脱ぐ場所がある。ここから見ると、洞穴の入口みたいに暗く映る。上がり框を上がった先には、廊下があって、襖戸の三部屋の座敷が設けられている。その座敷はいつも予約で埋まっている。
父と母が引き戸の手前のテーブルの椅子に着いた。珍しい。座敷に座る事が多いのに。両親は上座に並んで座っており、玲央は下座に着いた。給仕がお茶を運んできて、父が、お任せ三人前と言う。わかりましたと、声が聞こえた。
給仕が離れると、白鳥を目指すのは苦痛であると両親に訴える。
その途中で、給仕が長皿に入っている寿司を運んできた。テーブルに置かれた瞬間、玲央は、十貫並ぶ色とりどりの寿司にちらり視線を落とす。両親の目を真っ直ぐ見据えて言う。
「これから、僕はあひるを目指すよ。でも、超一流のあひるを目指すから、心配しないで、ね」
両親は、何も言わず静かに頷いた。意外だなと、思った矢先。
「あひるはないです」
母が言った。
「あひるはないな」
父も言った。
たぶん、さっきの頷き、二人とも突然の僕の言葉を一瞬では、呑み込む事が出来なかったんだろうなと思う。あひるを目指すなんて言われたら、そうなってもおかしくない。
長皿に置かれた寿司の中から穴子を、割り箸で掴んで、口に近づける。匂いがふわりとして、食欲がそそられた。口に入れて噛む。ふっくらとしたシャリとざらつくネタが口の中でほどける。シャリの酸味と穴子の旨み。そして、気品ある甘ダレは、玲央自身の風味がする気がした。また噛む。ゆっくりと何度も。シャリや穴子以上に甘ダレの味がいつもよりもやけに舌に残るのは何故だろう。
小学校の休み時間、玲央ははしゃいでいるクラスメート達を見て、思う。
僕は超一流あひるを目指すことになったが、ただのあひるのみんなみたいには楽しめない。
あひるの子達に混じって、ダイヤモンドをも上回る輝きを放っていた。それなのに……。もちろん、白鳥になれない自分を悔やんでいるのではなかった。超一流のあひるは白鳥よりも素晴らしいはずだった。それなのに現実は違ってて、僕より満ち足りている様子で遊んでいるあひるを見るのは心苦しくなるんだ。主神に騙されたのかもしれない。でも、信じたい気持ちがまだ残っていた。
玲央は席を立って、窓に近づいて行く。窓際から運動場を見下ろす。一面に散らばって遊んでいるあひる達に視線を巡らせる。
◇◇◇
小学六年生の冬のこと。玲央は、僕を誰も知らなさそうな遠方の中学に入りたいと両親に告げた。不思議と反対しなくて、拍子抜けをする。話をしてみて、両親は肩書ではなく能力を重視する成果主義だと初めて知った。
バレーで活躍をしていたということを誰にも知られたくない、と付け加えた直後。両親が、肩書はいらない、でも、その中学への入学を許可をする代わり、家庭教師はしっかりつけるという条件を提示した。それを聞いて、能力を底上げしたいのだとわかったのだ。
またか、と玲央は思う。その条件だけは譲れないと言われてしまっては仕方がない。
土照大神に騙されている可能性がないとは言い切れないけど、楽しみたかった。あひる道を究めるには、有名だった肩書を捨てた方がいい。名声は、時として、人間関係を歪にしそうだから。
◇◇◇
テストに合格し、玲央は、私立の中学校に入学した。進学校ではあるが、ずいぶんマイナーな、寂れていると言っても過言はないところ。
部活動は美術部にした。運動部ではないのだ。才能が発露して、厳しい道には進まされないと安心する。その上、玲央は絵を描くのは好き。
これで、楽しめる。
一年生の二学期後半、佳作をとった。キャンバスに、翻弄トスのように、縦横無尽にボールを飛ばすような感覚で色を散りばめた作品。地域のコンクール結果に、玲央は嫌な予感しかしなかった。
両親に、受賞報告をし、絵を見せた。
「絵を描く才能もあるんだな」
父が感嘆の声を漏らし、満面に笑みを浮かべていた。そして、いろんな角度から、じっくり絵を丹念に眺めている。
「配置が、少しよくないかしら」
母も玲央の絵を眺めていた。学生時代美術部に所属していたからか、玲央の絵に、ここは私ならもっと工夫を凝らすとか、ここはよく出来ているとか、いろいろ感想を言った。
父と母の目が、ぱちりと合ったのを見逃さなかなかった。
危ない、玲央の頭の中で、警鐘が鳴った。
「画家の指導はいらないから」
非常に強い拒絶の声色で機先を制することにした。玲央は、沈んだ光を宿した目で、二人を揺らぐ視線で見た。不安と警戒。
「まだ、何も言っていません」
母は玲央に柔和な笑顔を向け、穏やかな声で発生していた。が心中を察せない。
「まだ、何も言ってない」
父は目を伏し目がちにし、顔全体を硬直させている。
「言いたいことわかっているんだ」
ここは、はっきり言わないと。捕って喰われそうな痛手を負いそうだと気がする。
「僕が目指すのは超一流のあひるだよ。厳しい世界には入らない。厳しい世界だと楽しめそうにない」
母の口元がわなわなと震えている。母は口を開きかけたが、閉ざした。父が玲央の肩に、片手を、ぽんと置いたからかもしれない。
「でもな、玲央。もったいないぞ。バレーも才能あったのに辞めたし、お前は一体何をしたいんだ」
何をしたいかと問われれば、特に、何かを熱心にしたいわけではない。楽しみたいだけ。本当にそれだけ。
玲央は緊張しているのが自分でもわかった。二人の圧が強すぎるのだ。
玲央が両手の拳を握った。二人の視線が拳に降って、ぞくりとする。玲央は自分の緊張を見透かされてしまったのではないかと、動揺した。
「玲央、怒っているの?」
母の、眉尻が僅かに上がる。その上、目が見開き、指を震わせている。心配しているときの、母の様子だ。
一方、父は泰然と構えていた。
「いつも言っているじゃないか。怒りは自分にとって不都合なときに起きる。怒りは一番いらない感情だと」
怒っているわけじゃない、と思った。
「緊張しているだけだよ。話は変わるけど父さん、怒りは、感情としては普通だよ」
「まあ、ここではその話しはいい。余計だった。玲央、バレーのときもそうだったが、がっかりしたぞ」
父が両手を、胸のあたりまで上げて、開いた。
「僕は楽しみたいだけなんだ。そんなに、熱中していないし」
やや強めの声で言った。そんな玲央を両親が睨めつけた。
「勝手にしなさい」
母。
「勝手にしたらいい」
父。
噛み合わない。玲央は目を伏せた。その後の静寂が、諦めに聞こえた。諦め? と、玲央は深く思った。ただ、楽しみたいだけなのに、悔しい。両親の言葉も態度も、いつも通りの一致。割れた対応があったことを今まで一度も経験したことがない。この日も、同じだった。玲央は自分が生まれる前に、教育方針は同じにしようと示し合わせたのかもしれない、そんな想像を膨らませてしまうほど、揃いすぎるのがどこか不思議だった。
◇◇◇
玲央は絵を描くのをそこそこ楽しんだ。そこそこ。モノトーンの画面の中にまだいる気分。玲央にはもっと熱中させるものが他に出来ていた。小学生の頃から、アニメやゲームが好きだったが、中学になってからというもの、より好きになっていた。そんな玲央に両親は小言を言った。アニメやゲームには、一定の理解示してくれたが、はまりすぎと。羽目を外すには、遊びもいいが、あまりにも非生産すぎるものはどうかと言うのである。しかしである。アニメを見たり、ゲームをすると随分孤独感が薄まる。
美術部の顧問から、佳作の知らせを受け、賞賛をもらったとき孤独だった。美術部の生徒達は一応賛辞を贈ってくれたにも関わらずである。
玲央は、先輩にすらもろくに挨拶をしたことがなかった。入部してから、三日続けてしか、挨拶していない。両親からよく聞かされている、政治の話をしても、誰も目を合わせてくれない。アニメやゲームの話をしても、笑われるだけだった。政治や経済の話も、アニメやゲームの話も、どちらも玲央にとっては好きなことだった。
だから、ただのあひるに挨拶をするくらいなら、黙っていた方が楽。どうせ、僕の言葉は届かない。でも、玲央も漠然とはわかっている。
孤独を作り出しているのは、僕自身である、と。
玲央は、自分の好きな話に惹き込もうとはするが、部員たちに歩み寄るつもりはない。
本当は孤独が好きじゃない。でも、僕の好きなものを否定されるくらいなら、一人でいた方がましだ。歩み寄るには、何かを置き去りにしなければならない気がして、出来ない。僕の好きなものに関心がない人たちを、責めたくなる気持ちがある。
教室では、美術部と同じと言いたいが、同じですらない。玲央の絵の受賞を担任が賞賛したとき、教室のクラスメート達は、しんと静まりかえっていた。
クラスで、政治や経済の話についてこれる人はもちろん美術部員と同じでいないし、進学校のせいか、アニメやゲームの話しをすると、オタクだと笑われ、馬鹿にされるのだ。あの、国民的アニメ『ボラエモン』の話ですらも。
超一流のあひるである僕が、たかだか、ただのあひるにアニメの話題で近づいてあげたというのに、馬鹿にするのだなと苛つく。
教室では、誰かをいたぶるのではなく、楽しむための会話もある。笑いが飛び交っている。その輪の中には入れない。でも、みんなの輪の中に入るには、何かをそれは何かではあるけれど置きざりにしなければいけないんだ。孤独しか選べない。
◇◇◇
白黒の画面の中で、玲央が、パソコンでネットサーフィンしていたある夜のこと。うっすらとした希望に似た淡い輝きを見つけた。デイスプレイも光っているが、そうではない。『フィクションヘスティバル』というものの、スタッフ募集ブログが目に止まったのだ。溌溂としながら、目をブログの隅々へと、歩かせてみる。プロと素人の漫画を混ぜたあの有名である『漫画創宴』と言われるものと、プロと素人の小説を混ぜたやはり有名な『文学市』、これを融合させたものを地方で開催すると書かれていた。ヒィクションヘスティバルは、有名な二つとは違い、初めての試みだそうだ。実験的に何度か地方でやってから、いずれは首都西京でも開催するらしい。
テレビ画面の外に、何が広がっているのか、上機嫌になる。玲央は、漫画だけではなく小説の読書も嗜むので、漫画創宴と、文学市の融合は魅力的に映った。最後までブログを読み終えたとき、画面の中の色が変わった気がした。ピンクのような鮮やかな色がついたみたい。はっきりとした希望になっていて、輝きにもう淡さはない。
◇◇◇
懇意にしていている中年の運転手、中条に電話で面接のアポイントメントを取らせた。声変わりのあまりにも若い声だと、その時点で不採用にされる可能性がある。中条は壮年で、声は低く芯がある。アポイントメントを取るときも、力強かった。
面接で勝負だ。
フィクションヘスティバル面接は、開催場所の、地方の市民会館で行われている。邸宅から遠方も遠方の地方に行くには、車では時間がかかりすぎる。電車を使った。十二時を少しすぎた頃、市民会館のロビーに着く。エレベーターの前の案内板や壁や柱にヒィクションヘスティバルの受付の時間と場所が書かれていた。中条から聞いていた通り、受付時間は、十二時半、二階の第三会議室。
ロビーでなんとなく待ちたい。しかし、念のために、第三会議室とその前にある受付を確認しておきたい。エレベーターで二階に上がり、第三会議室を探す。すぐに、見つかった。受付にはまだ、スタッフは誰もいない。五人程、受付の周りにいる人等は、玲央と同じスタッフ希望者だろう。玲央はロビーに戻って、ぼんやりとすることにする。
時間が来て、受付に行くと、十人程並んでいる。玲央の順番が来て、受付スタッフに紙とペンを渡されて、自分の名前、天城玲央と、電話番号、メールアドレスを書いた。活動日は、土日にした。金曜日には、前日設営があるが学校で行けない。役割希望に、広報班、撤収にチェックを入れる。
受付の女性が、受付を済ませた方々から順番に面接をします、十三時三十分頃からになりますと玲央に言った。番号札の十二番も受け取った。玲央は、それまで、待つことにした。
そして、第三会議室の前では、次第に人が集まり始めていた。
十三時三十分頃、二度目の面接が終わり、第三会議室から五人が出てきた。番号順に入って下さいと受付の女性が言い、他の人に続いて、第三会議室の中に入る。
スーツを着た中年の男と若い女の面接官が座っていて、女性の面接官が左から詰めて座って下さいと言った。玲央を含め全ての人がパイプ椅子に座った時、女性面接官が玲央の顔をじっと見る。
「君若いね、年は?」
「十二歳です」
「中学生かな?」
「そうです」
女性面接官は、難色を示した表情をした。男性面接官も、女性面接官に同じ。
「中学生、それも、十二歳か——」
女性面接官の声の響きに考えている感じがする。
「一般的な考え方だと、仕事は高校生以上よ」
「やらせてほしいです。僕は漫画も小説も好きなんです」
「どうしたものかしら」
女性は男性面接官と顔を見合わせた。男性面接官は、紙を手に取って、見た。
「広報班と、撤収が君の希望だね」
男性面接官が優しい声色で言う。
「はい」
「撤収はみんなでやるし、広報班のときは、タッグを組ませてやらせたら、問題ないかな」
男性面接官は、女性面接官の顔を見た。
「それでも、何かあるかもしれませんよ」
「かもしれないな。だが、目がキラキラしているし、顔が気にいった。端正な顔立ちで、邪気を感じない。私は人相でだいぶん人を判断するからね。それに、なによりも熱量が私の心を打つ」
「人相……ですか。でも、いえ、なんでもありません。熱量は確かに感じますが」
女性面接官は不服そうな言い方で言った。
「その熱量をもっと見せてもらいます」
女性面接官がくっきりとした声で言って、玲央から視線を逸らし、他の者に目を向けた。
当たり前だけど、他の応募者にも興味を持つのは公平なこと。特別扱いはいらない。
その後、いろんな事がみんなに聞かれた。表現の自由とはとか、好きなジャンルや推しサークルはとか、どんな貢献が出来そうとか。表現の自由の質問は、玲央を除いた、みんなが少し考えてから話していた。玲央が即座に言ったのは、規制を緩和すべきです、その方が面白い作品がもっとできそう、と。
質問の後、フィクションヘスティバルの簡単な説明を受け、面接が終わった。結果、採用。
◇◇◇
フィクションヘスティバル会場で、玲央は、声の波がざわつく群衆の中を、別のスタッフと巡回しながら、フライヤーを渡していった。客の数は地方であり、知名度も低いせいか、漫画創宴や、文学市よりも少ない。
玲央は、土曜日も日曜日も、汗をかきながら撤収作業をこなした。誰にも褒められない。でも、心には楽しむという名の橋がかかっていた。
フィクションヘスティバルの打ち上げで、話が盛り上がりに盛り上がる。漫画の話は元気になる黄色、アニメの話はサバンナの入り組む草原みたいに、感情が複雑になる緑、ゲームの話は熱量がある赤、小説の話は高尚で紫。玲央は色づいていく。どれも、好きな話題だった。男性面接官だった人の話、恋愛シミュレションゲーム、『どきどきメモリアル』が記憶へと鮮明に入る。男性面接官は、若い頃、ゲームばかりしていて、現実にはいいことなんて一つもないと思っていたそうだ。でも、どきどきメモリアルをして、現実にもいいことがあると思ったのだとか。女の子と関わろうと、必死に喰らいついたら、二十代前半で彼女が出来たと感嘆の声を漏らしていた。
打ち上げの帰り道、玲央はホームに立って、電車を待っていた。ヒィクションの打ち上げで交わした言葉の数々が、耳の奥で反響している。男性面接官のほころんでいた表情を思い出す。
——現実にもいいことはある。
玲央の胸に、漣が立つ。
期待でフルカラーの色がつき、寂しさが、色の中に溶けていった。
邸宅で、初期のゲームステーションと、初代どきどきメモリアルを、通販で取り寄せることにした。
ゲームが届きやってみて、男性面接官の言ったことがよくわかった。でも、今は誰とも疎遠であるし、恋人なんて作れないと思った。
高校生になってから頑張ろう。そして、女の子と仲良くする手段として、漫画を自作し、見せたら、仲良くなるのに有用と考えた。
幸い、絵を描くのは得意だし、やれそうだ。
◇◇◇
中学二年生の期末テストの数学で、八十八点取ったら、両親は、なんて、頭の悪い子だと玲央に言った。九十点以上じゃないと、超一流のあひるですらないらしい。両親に期待させたくなくて、わざと答えを間違え、調整に失敗した。もっと、調整力をあげないと。いや、意図しての、間違いを減らせばいいだけだ。ほぼ、勉強しなくても、百点ぐらい取れるし。
小学生の頃は、百点をよく取っていた。八十八点を取って以来、玲央は少し成績を上げた。
◇◇◇
電灯の光が、リビングの中を照らしていた。
玲央が、ソファで映画を見、寛いでいると、ドアが開く音がした。誰だろうと、ドアの方を見る。中条が近づいてくる。
「ご視聴中、すみません、今、よろしいですか?」
「構わない」
映画の再生を、リモコンボタンで停める。
「明日の入学式、お乗りになられる車はなんになさいますか? 会長が晴れ舞台に、車を、若が選んでもいいと仰られています」
明日は、確かに特別だけど、中条は神妙な面持ちをしている。車種を決めるだけなのに、不思議。
「好きなリムジンにしようと思っている」
中条の顔色が曇る。
うん?
「重役の方々が、リムジンばかりに乗られる若を、金持ちアピールをしたいのだと毒づかれているのを耳にしています」
「あんな、うちで一番安い車で金持ちアピール?」
「はい、ですね。車のことがわかっていません」
中条が、目で再び尋ねてきているみたいに見える。車はリムジンで本当にいいのでしょうか、と。
「構わない、リムジンで。それにしても、重役達に僕は嫌われているな」
「そのようです」
「でも、うちの会社の重役達だ。有能なんだろうな、きっと。有能じゃないとうちでは務まらないし」
「左様でございます。でも、若の将来はもっと大成します」
「ありがとう、中条。世襲制の会社だから、よっぽど無能じゃない限り、僕は将来会長になる。そして、僕は有能だからね。僕が会社に入ったら、更に発展させられる自信がある。超一流のあひるだからね、僕は」
「若、どうせなら、白鳥の方がよいんじゃないですか?」
中条の言葉に、玲央は少しだけ笑った。
「その話は、前にしただろ? 白鳥は楽しむ道ではないって。僕は飛んだり泳いだりしながら、笑っていたいんだ。飛び方、泳ぎ方は、僕が決めてもいい」
誰かに見せるための色ではなく、自分のための色だ。そう思ったら、イマジネーションのテレビ、その中から自分の指がフレームに触れた気がした。
中条とは、絵の話もした。玲央が絵で受賞するたび、笑顔で楽しそうでいらっしゃると言ってくれた。両親のように、能力を底上げしようとは思わない、それが嬉しかった。
僕は超一流のあひるになる。自由に飛んだり泳いだりしながらだ。まだ、テレビの中にいるけど、でも、いずれはそこを出る。空の高さも、水の深さも、もっと知りたい。
◇◇◇
玲央は、目覚まし時計の電子音で目を覚ます。小学生の頃に使っていた目覚まし時計を今は使っていない。代わりに、アンティークの茶色い木製の目覚まし時計を使っている。ローマ数字の盤の左右に、羽を型取ったレリーフが彫られており、裏側にあるつまみを回せば音が止まる。ゼンマイ式で、この手間をかけなければいけないところが、愛着が湧いて好き。音を止めるのも、ゼンマイも、針合わせも裏側でやる。つまみを回し音を止める。外にいる何十匹もいるであろう雀の鳴き声が意識に入った。
起き上がって、キャビネットに吊るしてある制服を手に、自室を出、パジャマのまま、二階から一階にあるバスルームの脱衣所に向かった。
何かの木で編んだ大きな籠に、制服とカッターシャツを丸めずに入れ、一緒に脱いだパジャマもそこに。中が見えないように凝らされたガラス張りの白い戸を開いた。視界が明ける。銭湯と引けを取らない広さ。湯船から、湯気が立ち上っていた。白い石で出来た龍の噴水の口からは、ごうごうと音を立てて、湯が落ちている。左右に、十三本ずつあるグラディエーションで輝く、LEDキャンドル。入浴剤のラベンダーの香りがここにいてもふわり鼻腔に入ってくる。大理石の床に、足を踏み出す。ひんやり冷たく、滑らかな質感。視線を落とす。天井からの照明の光を、跳ねる石。角度によって、生き物のように表情が変わる。白地に、金色や灰色の筋が不規則に浮かんだ。ペタペタと、音を立てながら、歩き、浴槽に足を入れた。いつも、三十六度に設定している温度は、玲央にはちょうどよい。浴槽の真ん中にある龍の噴水の横に腰を下ろす。肩まで湯に身を沈める。骨まで、温まっていく。
龍の噴水の方へ顔を逸らし、見る。
幼少の頃、だだをこねて、両親を困らせた。父と、母に強い眼差しを送って、言った言葉。
「龍と虎なら、龍の方が強いから。龍じゃないと、やだ。龍、空も飛べるし」
両親と一緒に、風呂の湯で浸かっている時、そう言った。二人は、龍は幻想上の動物でいないからと言い、笑う。
「これからは、龍じゃないと、お風呂に入らないから」
湯を両の掌いっぱいにすくって、母と父の顔へ交互に浴びせた。二人の顔色に、明らかな湯煙ではないにごりが出来る。足音を残して、俄かにバスルームを出た。
そのときから、両親にしろ、使用人にしろ、風呂に入ってとどの様に言われても、入らないでいた。それも、夏場である。両親が、龍にすると言ったのは、四日後のことだ。そして、付け加えた。龍にするのに、時間かかるからそれまで、銭湯に行こう、と。
玲央は、両親へ交互に抱き着き、龍の噴水が出来るまでのあいだ、銭湯に通った。毎日、龍の噴水が出来るのを楽しみにしたものだ。
しかし、後悔している。幻想上の動物に憧れる年齢ではもうない。瞑目してみる。幼少の頃の自分の感受性がどこかに眠っている気もするが、似合いもしないと頭に浮かぶ。現実的な虎の方が、今はずっと好きだ。
石で出来た虎も吠えはしない、ただの、飾りの水の吐息にすぎなかった。でも、あの頃は、飾りであっても、龍の方がいいと思っていた。
あの頃の、僕、なんてことをしたんだ。今更、虎に戻してと言えない。でも、両親のことだ。成長したから虎に戻してほしいと言ったら、笑って許してくれるだろう。それでも、言えないな。
玲央は、溜息をつく。立ち上って来る湯気からのラベンダーの香り。フローラルな甘さや、わずかな土のアーシーさで、穏やかな気持ちになった。
確か、ラベンダーの匂いには鎮静作用があったなと、思い出す。抗菌や抗炎症もしてくれるし、皮膚ケアにもいいとも思い出す。
やはり、ラベンダーはいい。
バスルームの片側にある多くのLEDキャンドルを見遣った。玲央は、グラディエーションで色が変わっていくLEDキャンドルで、日課のイメージトレーニングをすることにする。漫画の創作に活かすために。
LEDキャンドルは全て、同じタイミングで色が変わっていく設定にしている。今は、赤が点いていて、血と生々しい痛み、バトルシーンをイメージした。オレンジに変わったとき、友情の温もりや、敵だった者が、心を開いていく過程をイメージした。緑に変わったとき、信号機のルールを頭に浮かべ、秩序を無視する歩行者から、反抗の概念をイメージした。青に変わったとき、北極や南極の氷を頭に浮かべ、冷たい孤独の中で届かない叫びをイメージした。紫に変わったとき、王族や貴族がよく使う調度品の感じがするので、権力に座るまでの代償をイメージした。
赤に戻り、繰り返し、今度は別のイメージをしていく。標準ぐらいの尺の歌が、二つか三つほど終わるぐらいの時間トレーニングを続け、バスルームを出る。脱衣所で、制服に着替える。
脱衣所を出、使用人室へ行く。紫を基調とした、黄味が入った仕着せを着ている一人の年老いた女性の使用人——都がいて、椅子に座っている。使用人の仕着せにも高貴な色を使う、父の趣味も考え方もいいと、いつも玲央は思う。
目が合い、髪を整える道具袋と道具を、腹に付けている都は、立ち上がる。挨拶を交わす。玲央の方は、軽く頭を下げただけだが、都は地面に向かう程の、おじぎをする。玲央は自分のウエッジカットの頭が今日も、ばっちり整うのを楽しみだと思った。
二人で、赤い絨毯が敷かれた階段を登り、玲央の自室に移動する。自室の戸を開き、玲央は黄色のカーテンと、レースを開ける。曇天の中、優しい、朝の陽射しが、室内に落ち着きを運んできた。玲央は机の下の椅子を引っ張る。革張りで、縁はアーチ状のレリーフがあるこの椅子を玲央は、小学生の頃から使っている。鏡の前に、椅子を移動させ、座る。
都がこちらに近づく様子を、観察した。今日も優雅で、お上品といってもいい——ゆっくりした歩き方。まるで、儀式のよう。都は玲央の前に立つ。
「お支度を始めますね」
使い慣れた道具を持ちながら、優しそうな微笑みを玲央に向けた。都の微笑みはいつも気分がよくなる。
僕が何も言わなくても、安らぎを欲しいのをわかってくれる感じがする。実際、今まで生きてきて、都とは癒し会話が何度もあった。メルディ―の代わりと言ってもいい。理解してくれている、そう思いたい。
玲央は鏡に映る都と自分を見た。都が、トリートメントのボトルから、自分の手の平に液を広げている。クリーミーな穏やかな香りが漂った。一層、玲央の気分がよくなる。
高校の入学式。晴れ舞台だというのに、いまいち気持ちがのらない。高校生活には期待がある。一方の心で、漠然とした不安。でも、不安のせいではない。何故だろう、玲央にもわからない。
都は温もりのある指で、髪に液を馴染ませていく。幼少の頃からの玲央の髪に、触れていて、今も、その頃と変わらない記憶の手つき。相変わらず気持ちいい。柔らかい感触に、思わず目を閉じた。
「気持ちがよろしいですか?」
玲央は目を開ける。
「都の手つきは誰よりも優しい」
「ありがとうございます。でも、こんな婆やですよ。十五の娘でなくてすみません」
「何を言っているんだ、僕の目にはしっかりと、都は十五の娘に映る」
「まぁ、嬉しいこと」
都も声色が、跳ねた。
都は、僕の言葉に頬を緩め、嬉しそうに微笑んだ。
「このトリートメントで、いつも通り、パーマの質感が引き立てられますよ。若は、美形ですから、どんな髪型でも似合いますが、好きなんですね、ウエッジカットのパーマが」
「ああ、気にいっている」
鏡で見る髪は、懐中電灯の光を帯びて夜道で反射する水溜りみたいに、煌めきをみせている。都が、ハンカチで手を拭き、玲央の部屋の洗面所に、優雅に歩いていく。戸を開け、中に入った。まえから玲央は都に洗面所で手を洗ってもいいと言っている。水が流れる音がし、止まる。部屋から出てきた。
「では、失礼いたします。十五分後にまたお待ちしています」
トリートメントが髪に馴染むのに、五分から、十五分はかかる。玲央の場合、十五分十秒かけることにしている。その時間を利用して、マインドフルネスの呼吸瞑想をするのが、いつものこと。
部屋の一角にあるコードから充電してあるスマホを取る。椅子に座る。玲央は窓に顔を向けた。一羽の鳥が飛んでいて、降る朝日の光の中、窓の枠の外へと消えていく。
あらかじ設定しているスマホのタイマーで十五分十秒のタイマーを押す。心中で、伸ばしますと言い、背筋を伸ばす。次に、心中で、力抜けますと言い、身体の力を抜く。そして、最後に、心中で、待ちますと三回言う。この間、十秒ぐらいの一連の流れ。
腹式呼吸で腹壁を意識しながら、吸う、吐く、吸う、吐く。と心中で言葉を繰り返す。今日の入学式がどんな感じになるだろうかとか、お腹空いたなとか、雑念が浮かぶ度、呼吸に戻るのを意識する。でも、多くの雀の泣き声などの外の様子、身体の痒み、そういうものは遮断せず、心中で実況する。
タイマーの音が鳴った。止めて、都が戻るのを待った。
それから、都が入室したのは、ここに、食べ物はないが、何かを三噛みするほどの、あっという間の時間だった。
玲央の傍で、彼女は、
「若、では、洗い流しましょう」
と、言った。洗面所の部屋へ二人して入る。玲央は洗面ボウルに頭を沈めた。都が蛇口を捻り、玲央の髪のトリートメントを洗い流していった。しっかりとした手つき。その後、やんわり髪を、そして、ぽんぽんと押すように顔を、タオルで拭かれる。洗面所を離れた。椅子に座る。いよいよ、スタイリングだなと思った。都が、少量のワックスを指先に取り、髪の根元からじっくり仕上げていく。既に、芸術の域にあるウエッジカットのパーマだが、都の手により、高度な作品へと仕上げられていく。都の手から、ぼんやりとした感覚が伝わってきて、整らえるごとに、玲央の自信は高まった。
玲央にとって、髪型はただの外見ではない。髪を整えるのは、自分自身を育てることに似ている。と、いっても、都に育ててもらっているわけだが。自分でやるにしろ、都にやってもらうにしろ、完璧なセットは大事だ。髪は、僕にとって命みたいなものだ。
髪型が完璧に整った。
「若の高校生活が上手くいきますように、婆やは願っていますよ」
玲央は頷いてから、ありがとうと言った。都が自室を出てから、洗顔や、歯磨きを済ませる。一階の食堂に向かった。中に入った。視界が開く。赤いカーテンは全て開いていて、三つある人の大きさより大きい窓からは、淡い光が差し込んでいる。長いテーブルと下にある椅子の幾つかを見た。女性の使用人が奥にいる。使用人の方へ歩いて行き、飲み物は、グリンジュースにしてほしいと、頼む。食事のメニューは任せているが、朝のドリンク一杯目は好きなものを用意してもらうことにしている。でも、グリーンジュースに混ぜる食材はその日ごとに変わるようにしていた。
「父と母は?」
「もうすでに、食事をなさっています」
玲央は二十脚ある椅子の一つ、一番奥に座った。暇つぶしに、テーブルに刻まれている何かの紋様のレリーフに指を添わせていると、使用人が、調理室に消え、グリーンジュースを運んできた。
「今日の、グリーンジュースは、小松菜、セロリ、檸檬を入れております」
「うん」
グラスを持った。そのとき、中に入っているグリーンジュースが揺れ、波打った。鼻を近づけ、香りを嗅いでみる。青臭さと檸檬の爽やかさが混じった匂いが、身体の芯まで、ゆき渡る。
ジュースを口に入れる。瞬間、檸檬の酸味が舌を刺す。と、思った矢先、口腔内から鼻に爽やかさと青臭さが混じった匂いが充満する。そして、また味覚が。セロリの苦味、その癖を、和らげる小松菜は、加えて、檸檬の酸味を少しだけ包む。三者の食材は調和している。好きな味。
少し少しと、飲み、そして、もう少しで、飲み終えるというところで、使用人が食べ物を運んできた。いつも出してもらっている近隣の国の台惑茶と、それから、スモークサーモン、クリームチーズ、ベーグルを。美味しそうな匂いが辺りを漂っている。ゆっくり噛み、味わいながら、朝食を済ませた。
自室に戻る。鏡の前に置いていた椅子を下に戻す。そして、机の引き出しから、取り出した硬質の手触りのノート。表紙は白地で、あとは黒だ。縁の内側にいろいろな模様が、長方形状に囲んでいる。上部に、EKAKIと、ローマ字で書かれ、その下には、菱形の黒で縁取られた中に、四つの酒杯が一つずつ、左右上下に描かれている。酒杯は、上は逆さになっている。その下には、東嘉店と、崩した筆書体。ビニール製の帯で巻かれている。十三歳の誕生日に、都からもらった特別な物で、気にいっている。
一頁目を捲った。表紙よりも硬質で型紙といってもいい厚さの黒い紙が、現れる。捲った。次から始まる無地の紙は、このノートの中では、一番柔らかい質感をしている。一頁目には、飛行機を鉛筆で描いている。手を滑らせながら、絵がまだ何も描かれていないノートの中程の頁まで、紙を繰った。幼少の頃に、バスルームにあった虎の噴水を、記憶の底から呼びだしながら、軽いタッチで、鉛筆で描いていく。虎の噴水は、見事に絵として再現できたと思う。上手に描けている、と再度思う。玲央は、その絵を書いたノートをそっと鞄の中に忍ばせた。
ノックの音がした。戸を開く。スーツ姿の父と母が立っていた。
「行くよ」
母が言い、玲央達は、車庫に向かった。一階に降り、車庫の戸を開いた。いつも通り、三台の車があり、中条がいる。ぽつぽつとして、どこかに植わった木のように、三台の車が各々の領域を保有している。中条が、おはようございます、会長、奥様、若、と言い、会釈した。真ん中にある、黒塗りのリムジンへ、皆で少し歩く。中条が、リモコン操作で、左右のドアを開閉させた。青を基調とした車内が目に入る。玲央が乗り込み、父が隣に座る。母は反対側のドアから乗り込んだ。中条が、ドア閉じ、運転席に乗る。中条が、リモコンでシャッターを開き、車のエンジンをかけ発進させた。そして、車庫に出たところで、中条がシャッターを閉じる。シャッターの開閉音は、いつも騒々しく感じる。
周りに散っている雀、その鳴き声が、より一層大きくなった。網状の鉄の門まで、ゆっくり、車は進んでいく。中条が、リモコンで門を開いた。車は外へ前進していく。門を通り過ぎたところで、車は止まった。中条が門を閉じる。門の開閉音は静か。門の脇に佇む守衛詰所の窓から、守衛が顔を覗かせている。
「行ってらっしゃいませ」
守衛が言う。皆で、ご苦労様ですと返した。玲央は制服の赤いネクタイを何気に締め直した。入学式の緊張がそうさせたのかもしれない。制服、ネクタイ、白シャツは、皴一つない。そして、革靴は、土埃一つも付いていない。新調しているのだから、当たり前だが、玲央は生まれてこの方、邸宅を出るときは、衣服も靴も汚れていためしがない。人件費さえ払えば、全く問題はない。
一分として、身だしなみで努力したことはなかった。発進する車の中、玲央は思った。
僕は恵まれている。父と母は、商社を経営しており、最低でも年収、一千二百億円稼いでいる。父は、CEOだ。そして、僕は、頭脳明晰、運動神経抜群、おまけに容姿端麗ときている。僕みたいに、運に恵まれている人間はそうそういない。
運がないにも関わらず、それでも何かを本気で、手に入れたいのなら、努力すればいいだけだ。でも、僕は、努力するつもりはない。努力しなくても、たいていのものは手に入る。超一流のあひるにさえなれれば、それでいい。でも、創作は別、あれは努力ではなく楽しむこと。
それにしてもと、玲央は思った。
中流階級や、下流階級の人々は、どうして、手に入れたいものに対する努力を怠るのだろうか。本気を出せば、手に入れられるもの多いというのに。父も、後ろにある出窓が三十六個ある石造りの邸宅を、努力なしでは手に入れていないだろう。
玲央は鞄の中から、ノートを取り出し広げた。
「父さん、母さん、これ覚えている?」
両親が、ノートに視線を落とした。そこには、虎の絵がある。
「懐かしいな」
父が言った。
「ね」
母は、笑った。
「あの頃、頑なにお風呂入るの拒んだから、仕方なく、龍の噴水にしたよね」
母が、柔和な目をしている。
「どうして、この絵を突然……」
父の戸惑う表情を浮かべながらの問いに、玲央は黙っている。
「噴水を、虎に戻したいのか? 入学祝いの一つとして構わないが」
玲央は、羞恥心を感じた。でも、正直に自分の気持ちを言うことにした。
「本当は、虎の方がいい。今となっては。でも、あの噴水には思い出が刻まれているから。絵を見せたのは、高校生になった門出として、みんなで思い出に浸りたかっただけなんだ」
「そうか、粋なことをするんだな」
父が、落ち着き払った声で言った。
「あの頃の話ですか、懐かしい」
中条が、会話の輪の中に入って来た。
「私も、会長や奥様から、若を説得するよう言われ、奮闘しました。でも、頑なでしたね、若は。あの頃の若は、可愛らしかった」
中条の声には、感慨深さが籠っていて、彼もまた思い出の余韻に浸っているようだ。
母が、吐息のような温もりを帯びた笑い声を漏らす。車内が、和やかさで包まれている。映画やドラマのワンシーン、また、アニメ、ノベルゲームでもいい、こういう場面ではBGMが変わって、視聴者を美しい余韻へと誘う筈だ。なのに、このシーンは父の声が、一変させる。メロディーの質を。
「玲央、決めたぞ。明日から、虎の噴水に戻す工事をする」
荘厳な物言い。
「どうして?」
父のくだらない冗談だろうけれど、反応はしておこうと思った。
「思い出は、壊し、再構築するものだ」
「ええ、私もそう思います」
母が、淡々とした言い方で同意した。
あれ? と、思った。おかしな方向性に進んでいないか? 確かに、今の僕の感性なら、虎の方がいいけれど。
「やり直そう、玲央」
父を見やる。父の目の深奥に決意が見て取れた。
僕は、恋愛をしたことない。でも、これって、別れたカップルがやり直すみたいに、なんだか勢いが強い、言葉や、目つきだ。恋愛経験は確かにない、確かに。でも、妄想ではいろんな女の子とつきあって、そして、別れるのを経験しているんだ。そして、またやり直すという想像も何度もしているんだ。
父が、僕の元恋人なのかと錯覚しそうになる。違うよな、父は元恋人であってほしくない。父と、そんな関係は嫌だ。
「帰ったら、すぐに建築業者に連絡しないと」
母が、さらっと言った。
二人の表情を交互に見た。これは、冗談ではない顔つき。ルームミラーに映る、中条の目を窺った。揺れている。その目は、だいなしにしていると言っているようでもあるし、何かの迷いを表しているようにも映る。玲央は、思わず苦笑いを浮かべる。玲央は、年齢に似合わず多くの物語に触れてきた。こういう思い出を残そうと話になったとき、みんなで雰囲気を共有し、いい気分に浸るもの。そして、噴水はそのままにしておくという結論に話が進むはずだ。この状況は、違うだろと思った。
でも、こういう異次元の入口かって雰囲気のときの、父と母は、意見も行動も変えない。黙るしかない。
「会長、奥様、虎の噴水の設計図は既にここに、この中条めが用意してございます」
「用意がいいな、中条」
父と母が陽気に笑う。
中条の設計図の言葉の切り込み、たぶん、誰よりも僕への冗談なんだろうな。楽しく、笑えないんだけど。苦笑いが深まるだけなんだけど。僕の、家系での中条の、冗談は冗談が冗談として、機能せず、いつも施工されてしまう。もちろん、設計図を中条は用意しないだろうけど、でも、これで噴水は虎に戻ると決まった、な。たぶん、来週には虎の口から、水が噴き出している。
「父さん、母さん、音楽流していい?」
玲央は、両親を交互に横目で見やった。
もう、こうなったら気分転換を図るしかない。
父と母から、言葉と目で同意を得た。
「望、ENOちゃんの、普遍を流して」
玲央が、いつもながらの、優しい声音で言う。
「畏まりました、玲央様」
AIである望の、二十台中程の女性の声が、そう答える。前にあるドリンクラックぎりぎりまで、降りてくるスクリーン。ENOちゃんの映像が展開する。と、ともに、車内で音楽が駆け抜けた。最近、玲央はこの曲を毎日聞いている。この音楽は、普通という言葉の感性を、別次元で捉えている。いまの状況にも、相応しい。でも、玲央がこの音楽を好きなのは、よくオタクなんだって、と蔑称を受けてしまうからだ。玲央は、アニメや漫画が好きと誰かに言うと、普通ではないという感覚をよく向けられる。
「漫画や、アニメは文明だよね」
玲央は誰に言うのでもなく、独り言のように言った。誰かは、反応するだろう、と思っていた。
「文明の一種でしょう」
母の一種という言葉がひっかる程に、玲央は漫画やアニメが好きだ。一種なら、まだいい。漫画やアニメを全くといっていい程に、文明と認識できない非教養な者も世の中にはいる。
「文明の一種って言われると、なんだか、美術館に展示されてる絵の一つみたいだね。一種という言葉がひっかるよ」
玲央は、母の方の窓の外を見ながら、呟いた。そして、ENOちゃんが映し出されているスクリーンに視線を戻した。穏やかな声で歌っている。
「展示されるほど価値があるってことよ」
その母の言葉は、コーヒーに入れるクリープや砂糖。一種という言葉の苦みに、ほんのりとした甘さが加わった。それでも、玲央の記憶から苦みが浮いてくる。
◇◇◇
『お前で、ガスを抜いているんだ。受け入れろ』
ずいぶん前、父が言った言葉だ。玲央の事を、オタクと言って主に馬鹿にするのは、父の会社の重役達である。重役達の名前を伏せ、オタクと言われて馬鹿にされると父に話したのだ。もちろん、名前を伏せたのは、解雇されないまでも、父から悪い印象を受けるかもしれない、そんな配慮からだ。父も、誰かと問うこともない。
『それにしても、馬鹿だな。その重役達は』
玲央が、どうしてと尋ねた。
『お前が、会長になったら、恨みを買っている立場である事を考えられない。いや、もうその頃にはその者どもは、年齢で退職しておそらくいないか。お前に、有能な者は私情で切り捨てるなと、常々、話しているが、二人の人間がいて、同じ有能さなら、人格がよりいい人間を優遇するだろ。私もそうするしな。ガスを抜く代償としては、大きい、そういう事を考えられないのは、或いは、考えられても、感情を自制できないのは、無能だな』
世襲制の会社のせいか、不満が多いのだろう。玲央は、心を削って、重役達の言葉を聞き流す作戦をした。会社のために。
父が不在にしているときの邸宅に来た重役達を一時的にもてなすのは、玲央の役割だった。両親が、人間力を成長させるため不在時の対応は任すと言い、嫌ではあったが承諾。重役達は、漫画やアニメの様々な嘲弄をした。ストーリーは、幼稚、絵は、地図記号にしか見えない。アニメは、シブリしか認めない、と。それこそ、無数だった。
シブリは、確かに有名でほとんどの人の心に届く。『もののけ』という作品が、玲央は一番気に入っている。『もののけ』の話題を振ろうかと思ったが、やめた。アニメは、シブリしか認めないって、言う間口の狭い人達に、『もののけ』の話をしても、盛り上がらないと思うから。
◇◇◇
「望、ドリンクラックを開いて」
「畏まりました、玲央様」
前にある、ドリンクラックの、ガラス戸が、左右に開く。中には、いろんな、リキュールや、ジュースが入っている。玲央は、紙パックのオレンジジュースを取り出す。玲央は、付属のストローを刺して、一口飲んだ。車内に鋭い光が差し、雷鳴が鳴った。ちょうど、その時、雨が降り出し、雨音がした。中条がワイパーを作動させ、窓を擦る音もしだす。
「傘を持ってきていないな」
父がぽつりと言った。玲央は、不安に思った。雨に打たれるからではない。
入学初日から、天候が悪いのはあまり、高校生活でいいことが起こらないかもしれない。
玲央は、験を担ぐ気質をしている。雨が、だんだん強まってきた。雨音が気にならなくなる程、不安が全身を駆け抜ける。目が、眩むほどの眩しい光。そして、雷鳴が鳴った。さすがに、玲央の意識が、内から、抜ける。本格的な雨音がしていて、窓の外に目をやった。空から、海が降ってきている、と、言っても差し支えない程の雨量である。車内に光がまた入った。轟く雷鳴。
吞まれるな、と、玲央は思った。ただの、天候の変化。そう思う事にした。でも、意識がどうしても内に入っていく。
知り合いと、会うだろうか、もしも、会ったとしても、ニュートラルの恐れる必要はない関係。小学生の頃も、中学生のときも、ほとんど、誰ともほとんど話していない。だけど、小学生の頃の知り合いに出会って、いろいろ話しかけられたら、嫌だなと思った。特に、バレーの話題をされたら困る。バレーは捨てた。いや、いろんなものを切り捨ててきた。
どれぐらい経っただろうか。両親や、中条の会話が遠ざけられてしまって、思考に委ねていたら、『九十九神高校』と刻まれた表札が掲げられている正門が、窓の先に佇んでいた。
九十九神高校という名の結界の中に、どうなるかわからない未来へ、ゆっくりとリムジンが進入する。
「ここが正門です。車をコンビニの方へ移動させますね」
違った。車は、正門に入らず、コンビニに向かう?
「どうして、コンビニ?」
「なんだ、聞いてなかったのか」
中条への問いに、父が、口を挟んできた。
「雨が、降っているだろう。傘を買うんだ」
「長いリムジンで、駐車スペース大丈夫かな?」
「この先の、コンビニの駐車スペースは広いですよ」
中条の言葉に、玲央は安心する。
コンビニに、リムジンは停められ、中条だけ降りて、四人分の傘を買ってきた。
「天気予報は、あてにならないな」
父が言った。
リムジンが動き出す。いよいよ、結界の中に入っていくのだ。でも、また、予想と違う。車が進んだ先は、結界は結界でも、学校の運動場。それもそうか、入学式に、何十台も停まるであろう車を、正門の中の駐車スペースが抱えきれるものではない。
「混雑を避けるため、正門の駐車スペースは使わせないようにしているのかな?」
「左様でございます、若」
やっぱりと、思った。
結界の境界線である門は開いている。その黒い枠が、雨を一身に帯び続けながらも、玲央達や他の新入生達を辛抱強く待ってくれているのだなと感じた。上に、真新しい横断幕が張られていた。白地に金で、『令平九年度、入学式』と書かれている。防水加工されているのか、幕はこの土砂降りの雨の中だというのに、滲みが全くない。何かがおかしいと、玲央は思った。風の音とともに、横断幕が靡く。じっと見て、そのおかしさに気づけた。
金色が、僕には相応しくない。ただの感受性の問題。
結界の中に、中条はリムジンを進入させた。運動場には、既に、何十台も整然と車が停まっている。中条も、他の車と同じくリムジンを軍隊の挙手のように揃えさせ、停めた。父は中条に待機を命じ、玲央達は、運動場に足を降ろす。玲央の耳に、雨音に混じって、泥のぐしゃりが響いた。地面の感触が気持ち悪い。視界が雨の帳に覆われていた。三人で傘を差しながら講堂へ向かう。傘の外から、縫うように入り込む雨が、新調した制服を濡らした。歩く度、泥濘と化した地面の感触がぬるりとし、靴に泥水が染み込むよう。
玲央は、新調した制服と革靴が汚れていくのを快く思わない。誰かに、任せれば奇麗になるとはいえ、初日から汚れるのを、よしとはできない。前を見ながらも足元に気を配る。水溜りにでも足を踏み込めば、大変なことになるからだ。やがて、講堂の石畳が見えてきて、踏む。思ったより滑らない。前には、傘を差した十人ぐらいが歩いている。皆、講堂へと入って行く。玲央達はカーペットで、充分靴の水気を取って、中に入る。雨音が遠のく。
百ぐらいはあるだろうか。講堂の玄関には、洗濯ばさみが付いたリングで輪を通された名前札が挟まれた靴が順序良く並んでいる。玲央達は傘立てに傘を置き、靴を脱ぎ、あらかじめ学校側からもらっていた名前札を挟む。
「踏んでしまうな。泥が外には点在しているし」
父が無数の靴に視線をやりながら、申し訳なさそうに言い、顔つきも申し訳なさそうにしていた。
「ごめんね」
母も無数の靴に視線をやっていた。
「ジャンプすればいいんだよ」
玲央はジャンプして、上がり框を超え緑の石の地面に着地した。
「玲央みたいに若くないの」
「そうだな」
両親が、靴を踏みながら上がり框の先に足を踏み下ろした。玲央達は、籠に用意されているスリッパを履く。鉄扉が少し奥にあり、くぐると、空気感が一変した。
近くに、スーツを着た壮年女性が佇んでいるのを発見し、次の瞬間には、いろいろなものが目に映る。
壇上の上に掲げられている金色の校章、壇上まで真っ直ぐに延びる赤い絨毯、両脇にある様々な色の花束、無数の蛍光灯から降る輝きは淡さこそあれ光、それら全てに祝福されているのだと感じた。
講堂内は、柔らかい声のざわめきもある。
父と母のように、スーツに身を包んだ者達、学生服を着た者達、玲央は視線を這わせていった。
と、そのとき。近くにいた壮年女性に声をかけられた。
「入学式、おめでとうございます。薔薇の花を胸に挿してください」
プラスチックの黄色い紐で、ピンと青い薔薇が被覆されているのを差し出され、玲央は受け取る。ありがとうございますと、笑顔を浮かべて礼を返す。よく見ると、女性の足元には、六個の木の籠があり、青とピンクの薔薇が分別されて、敷き詰められている。壮年女性は両親と、会釈だけを交わした。どうやら、薔薇は新入生だけ挿すらしい。玲央は胸に薔薇を挿す。
玲央を先頭に、両親と、ゆっくり歩みを進める。並べられた椅子へ向かったのだ。前で座っている人の背中を見ながら歩いていると、背筋を伸ばしている者、かがんでいる者、横を向いている者、様々。玲央達は、座っている人達の中の最後尾に腰掛けた。
玲央の横には女子が座っていて、緊張しているのか身体を震わせている。隣にいる父に視線をやる。細められた目と合う。父が、微笑んだ。玲央も微笑む。周囲を見渡すと、男子は青い薔薇、女子はピンクの薔薇と、決まっているようだ。身体を震わせている女子が、何か呟いている。その隣では、髪をきっちり結んだ眼鏡をかけた委員長とでも綽名を付けられそうな女子が、凛とした表情で、壇上に視線をやっていた。ハンカチに目元をやるスーツ姿の者を見かけ、彼の内心を想像する。立派に育ったなとかではないだろうか。でも、晴れ舞台には、涙は相応しくないと、玲央は自分の感受性で彼を裁いた。
マイクのキーンと音がし、耳に残ったかと思うと、一切の声のざわめきが消える。雨音がやけに、響いている。
壇上の上に、スマートな体形の老人が、演台の奥で立っていた。
「これから、国家を歌います。皆様、立ち上がってください」
立ち上がった。
「国歌斉唱」
国家を歌った。
「着席なさってください」
椅子が軋む音が、ところかしこで響いた。
「私は校長の晴山と言います。名前の通り、山を晴らすような晴れ男ですが、今日は生憎の雨になりましたね。私の力不足かと思いましたが、天気が私のような晴れ男を羨み嫌がらせをしたのでしょうね。逆怨みもいいところ。まったく、けしからん、天気に説教してやりたいです」
マイクの一声を聞いたとき、型を破って、ユーモアを入れるのだなと玲央は心の中で笑う。横目で、震えていた女生徒を見たら、彼女はさきほどとは落ち着き、穏やかな顔で微笑んでいた。
「さて、前置きはこれぐらいにして。本校は創立百三十七年。いろんな人材がこの学校から巣立ちました。伝統が、本校にはあります、しかし、教育理念は、時代と共に変わってきています。ここ数年での、教育理念は、問いを持ち、疑うことになりました。SNS、ニュース、広告、ありとあらゆる情報が皆さんを包んでいますね。でも、その情報を疑う目は必要でしょう。必ずしも、全ての情報が真実とは限らない。誰かに問うのもよし、自分の中でも問うのもよし。真実かどうか疑って、見極めてください」
これは、両親が喜びそうな教育理念だなと思った。マスコミのことを、マスゴミと両親は言っているし。両親を見ると、声を出さず頷いている。
校長が、先輩達の業績や、校訓を並べる。
「本校の伝説を大切にしてください」
玲央は、伝説? と、思った。聞き間違いだとすぐに気がついた。伝統だ、さっき伝統という言葉を使っていたし。伝説と聞こえたのは、どきどきメモリアルをやりすぎたせいだろう。どきどきメモリアルでは、『校庭に植えられている一本の古木、そこで女の子からの告白から生まれる恋人達は、永遠に幸せになれるという伝説が』という台詞がオープニングにある。いけない、と思った。ここは、虎の噴水のような現実。龍の噴水のような幻想がある恋愛シミュレーションゲームの世界である筈がない。集中しないと。
「続いて、教員の紹介をいたします」
名前を先生付きで呼ばれた教員たちが壇上に上がり、軽い自己紹介をしていく。校長が、教頭に演説を譲った。教頭は、新しい環境での心構えを語る。そして。
「教員一同、皆様の成長を全力で支援いたします。ここが皆さんの、居場所になるように、勤めてまいります」
そう言って、締めくくった。
玲央の学校生活には、今まで居場所というものがなかった。
これから、友達や恋人はできるだろうか? わからない。友達や恋人の輪の中に、居場所というものが作られる。外で降り積もる雨のように、不安という名の泥濘が胸に出来ていく。
でも、と思った。父のリムジンの中での言葉を思い出した。
『思い出は、壊し、再構築するものだ』
その通りかもしれない。前向きになろう。
「新入生代表の、本郷さん上がってください」
本郷と言われたのは、椅子を立ち上がった男子生徒だろう、壇上に進んでいく。教頭の声が、響く。本郷の実績を声で並べられるたび、玲央の心が揺れた。前の中学校で、座学は主席、剣道で全国大会、三位。玲央も、本郷とは違う前の中学校で、座学は主席だった。でも、部活動は地域の絵のコンクールで、大賞が最高実績だった。地域のコンクールでの大賞と、全国大会での三位の実績では、格が玲央よりも、遥かに上だ。もしも、と玲央は思った。
バレーを続けていたら、この壇上に立つ資格を与えられたのは僕かもしれない。そして、みんなに注目され、女の子にもてはやされたかもしれない。胸がざわついた。悔しさか羨望かそれはわからない。でも、この入学式の大事な場で、どきどきメモリアルとか、女の子にもてはやされたいとか、そう考えてしまう自分が気恥ずかしい。
玲央は、マイクで喋る教頭を除く皆と同じように冷たい鉄のような沈黙をしているが、裏腹に、はっきりと心臓が熱くなるのを感じた。羞恥心が顔面を焦がしたのだ。
まあいい、僕はバレーを辞める道を自分で選んだんだ。式に集中だ。女の子のことを考えるのを沈めておこう。
本郷の足取りには迷いはなく、きびきびと壇上に昇って行った。登ったのではない。昇ったのである。そう感じるほどに、彼が、立派に映った。自分が選ばなかった厳しい努力というものを続けたのだから。教頭がマイクを、本郷に渡し、壇上を降りて行った。
「僕は剣道で多くのことを学びました。剣道は礼に始まり、礼に終わります。対戦相手に敬意を払い、負けたときは、悔しがるのではなく、次はどう勝つか考えました。勝つことが全てでありませんが、負けたとき、這い上がる大切さを一番学んだんです」
そこで、彼は太く野性的な声をそこで切った。演出しているのか、間を置いているよう。その間に、彼の実績と言葉の重みが、拍手を起こさせたようで、音が天井まで昇っていくのを感じた。
玲央が、本郷をずっと見続ける。蛍光灯の淡い光は本郷だけではなく、みんなも照らしている。でも、一番照らされてるのは誰だろう。わかっている。
「これからも、僕と一緒にいてくれる仲間と共に、前を向き、より前進していきます」
本郷は、そこでスピーチを辞めた。またも、響く拍手が今度は天井を貫く勢いだ。彼は、壇上を降り、再び、教頭が代りに登る。そして、締めとして美辞麗句を言ったが、本郷と比べ、影は薄かった。
玲央の耳の奥に、本郷が言った仲間という言葉が反響するかのように、まだ残っている。
仲間か。
玲央は、仲間という言葉に、一家言あった。友達ではなく、仲間。一家言ありすぎた。
仲間、頭の中で言葉を反芻する。漫画の山賊王を目指すラヒィーのことが頭に浮かぶ。ラフィーは、仲間を大切にしていて、命をかけて守っていく。『ワンビーズ』は、玲央の好きな漫画の一つ。でも、ラフィーと玲央は思想的に違う場所にいた。玲央はラフィーの思想を否定するつもりは毛頭ない。ただ、仲間より、より濃度の高い人間関係、個人としての関わり、友達を求めている。山賊王を目指しているラフィーの夢に、仲間達が志を共にするけれど、あれは、誰の夢なんだろうか? 知っている。他ならぬ、ラフィーの夢だ。僕なら、と玲央は思った。
自分の夢のために誰かを巻き込まない。それよりも、友達や恋人の夢をもっと協力してもよいんじゃないか?
友達も恋人もいないにも関わらず、玲央はそんなことを考えた。大切にできる誰かがほしい。
再び国家斉唱をし、その後、閉式の言葉を教頭が述べた。
玲央達新入生の椅子の前に、女性教員が立った。彼女は一組の担任という役職、そして名を名乗り、一組の新入生と父兄の方、自分のクラスに来てほしいと促し、ぞろぞろと移動していった。違う教員が、また椅子の前方に立った。二組の若い教員で、玲央の担任だった。彼の案内で、二組に移動することになった。
「玲央これから取引がある。車よりも電車の方が早いから、中条に駅まで運んでもらい、またここに待機させる」
「家に戻ったら、どうだったか報告してね」
二人がそう言い、玲央は頷いた。
両親が、担任と軽く言葉を交わし、離れていく。
担任が、椅子を迂回し、講堂の手前へと歩いていく。玲央を含む多くの者が、担任の後を追った。
講堂を出、下駄箱に移動し、そこにある傘立てに皆傘を置く。
二組の教室の前まで来て、担任が、父兄の方はとりあえずここでお待ちくださいと、言う。そして、担任が教室の中に入った。玲央達新入生も続いて、中に入る。
担任が、教室の入口のドアを見ている。クラスメートが一人も入ってこなくなり、やがて、彼はドアを閉じた。
「机に、出席番号を書いたシールを貼っています。予め知らせておいた、出席番号の机に座ってください」
玲央は、出席番号一番の席に座った。皆が席に着いたとき、担任が言った。
「提出物を、出席番号順に出してください」
順々に、皆、提出物を出していく。
「今から、ロングホームルームを始めます」
担任が、玲央達に自己紹介し、激励の言葉をかけたあと、生徒達で自己紹介をしましょうと言った。担任と目が合い、出席番号一番の人と呼ばれた。玲央は立ち上がった。
「初めまして、僕は天城玲央と言います。ぼちぼちやるのが僕の哲学。無理せずやっていきます」
玲央はそう言って、席に着いた。玲央のあとに続いて、自己紹介を始めていくクラスメート達。出席番号五番の男子生徒は、玲央の中学にいた人だった。クラスが違っていたから、どういう人かは全く知らない。
「吾輩は、このクラスで諸君と仲良くしていくつもりだ。吾輩の名前を知りたいか? 久世陸だ。今後、見知っておくことだな」
使う言葉から、何歳だ、同級生だろと突っ込みたくなったけれど、玲央が突っ込まなくても担任に突っ込まれていた。次々と、自己紹介が進んでいく。
「私は御影澄と言います。漫画を描くのが好きです。いずれは、プロになる予定だから、私と仲良くしてくれる人には、サインをあげます、みんな私を大事にしてね」
玲央は、ほとんどの自己紹介を聞き流していたが、彼女は久世陸よりも記憶に残った。アニメ声優みたいな、美声で声音は明るい。普通の人よりも、喋るスピードが速い。もうすこし、喋るスピードが上がれば、早口言葉になる。漫画を描いているのが、好感をもてた。髪型も特徴がある。左右のバランスが違う、アシントメントリーヘアにしていて、ピンク色。この娘と、仲良くなりたいと思う。
その後、平凡な自己紹介が続いた。
「あ、あの、私は西山璃子です。先程、自己紹介をした澄ちゃんと、中学時代からの友達です。私も漫画家を目指しています」
地味そう。でも、たどたどしい喋り方が、かえって印象に残る。その後も、自己紹介が続き、中学のとき玲央と同じクラスだった者が一人いた。彼の自己紹介は印象に残らない。
全員の自己紹介が済んだ。父兄を担任が教室に招き入れた。
「父兄の皆様、外に待機していただきましたのは、自己紹介の中、生徒達の緊張を和らげるためです。これから、生徒と家庭でどのように接してほしいかを、私の方から話します」
担任の話で記憶に残ったのは、食堂はあるが弁当を作ってやってほしいということ。それが、家族の思い出として残るのだとか。でも、玲央は建前ではないだろうかと担任の言葉を疑った。食堂の混雑を少しでも、避けさせたい。そんな思惑が言葉の背後にあってもおかしくない。
玲央は、小学校時代も中学校時代も、給食を食べたことがなかった。家庭の方針で、給食は国が税金を使う庶民のためのものだから、食べるなと、言い聞かされ育っている。給食の時間、学校の外に出て、食べていた。遠足のときは、コックが作った弁当を持参。母の手料理というものを食べたことがなかった。家に帰ってから、担任が家族との思い出を作るために弁当を用意してやってほしいと言っていたと、母に話をしたら、心地悪くさせそうだ。この話は黙っておこうと思った。食堂を元々、使うつもりはなく、弁当も持参するつもりもなく、外食にする予定、問題はない。
担任が、スマホを取り出し、父兄を除く玲央達一人一人にキズナのバーコードを見せ、読み取らせる。それから、グループキズナにみんなを招待した。
ロングホームルームが終わり、物品購入の時間が設けられた。玲央は買う物がなかったが、購買部の位置を確認しておこうと思い、行くことにした。
購買部で、クラスメート達が、物品を購入していく。御影澄と西山璃子が仲睦まじく話しているのを見、おもいきりが必要だなと思った。玲央は、二人に近づき、声をかける。
「僕は、天城玲央。さっき自己紹介したね」
二人は、びっくりした表情を浮かべた。
「驚いた、急に」
御影澄はそう言って、玲央の顔をまじまじ見ている。
西山璃子は、何かはにかんでいるみたいに見えた。
「すまない。二人は漫画家志望なんだよね。僕は漫画を趣味で書いている。よければ、見せ合って感想を言いあいたくて」
「えっ、もちろんいいよ。楽しそう」
御影澄の目は垂れ、口元がほころぶ。黙って玲央を見ている西山璃子の表情は、目が大きく見開き、眉が寄る。少し後ろに身体を下げた。警戒されていると感じる。もっと、玲央は打って出て、仲良くなろうと思った。西山璃子を見、声をかける。
「璃子っちもいいかな?」
「璃子っち?」
びっくりした表情の御影澄。
「璃子っち?」
びっくりを通り越し、恐怖の色が一瞬表情に浮かぶ西山璃子。
玲央は焦った。
「いや、ちょっと璃子さんの緊張をほぐそうと思ったけど、失敗したね」
「緊張していたように見えた? ごめんね、璃子でいいよ」
璃子が、笑顔を浮かべる。
「私も下の名前の澄でいいよ。あなたのことは、なんて呼べば?」
玲央はまた打って出て、遊んでみようかと思ったがやめた。失敗しそうだ。
「……」
「どうしたの?」
澄が、不思議そうに言う。
「ああ、ちょっと考えていた」
「考えることかな?」
「いや、玲央座衛門助って呼んでほしいとか言うのは、あまりにもくだけすぎかなって」
「天然の人かなとは思うね」
澄はそう言った。
「だな。玲央座衛門はおかしすぎる。玲央と呼んでほしい」
二人といろいろな雑談で花を咲かせ、楽しんだ。
傘を差しながら、校舎の外に出た。雨の勢いが少し弱っているも、激しいことに変わりない。校舎の中にいたとき、たまに雷鳴が鳴っていたが、今はなりを潜めている。
また、鳴るかもしれないな。でも、こんな天気でも、もう悪い気持ちにはならない。二人と接点が出来たんだ。
中条からのキズナのメッセージによると、リムジンは最初に停めた場所にあるということで、そこへ向かって、玲央は歩いた。
リムジンの後部座席につくと、中条がドアを中から開けてくれた。玲央は車内に入る。
「若、タオルを後部座席に置いていますので、使っていただけれればと」
「ありがとう」
玲央はタオルで、制服や手を拭いた。その間に、リムジンが発進する。
「若はどうして、この高校を選ばれたのですか? 会長も奥様も理由を話してくれないと訝っておられます」
玲央は言うかどうか逡巡とした。
「いえ、仰りたくくないのであれば無理に聞けません」
「父と母には内緒だぞ」
「仰ってくださるのですね」
中条の声の響きには、嬉しさが籠っていた。
「中学三年生のとき、夢を見たんだ」
「夢ですか? 夢も二種類ありますが」
中条の慎重さに感心する。
「寝てるときに見る夢のことだよ」
「その夢の内容はいかがなものだったんですか?」
「目本の主神は土照大神から、お告げがあって、九十九神高校に入学したら、もともと不幸になっていた宿命が変わる可能性があるんだとか」
中条に、沈黙があった。
「ご冗談を」
沈黙のあとの、中条の声の響きは冷静だった。
「まあ、そういう反応になるよな。でも、僕は本当にその夢を見たし、お告げに従うことにした。冗談みたいな話だけどね」
「心配になります」
本当に、心配している声の響きがする。
「だから、両親には言っていない」
中条がまた沈黙した。
「その夢が若を幸福に導くことを願います、中条からはこれぐらいのことしか言えません」
「ああ、早々友達になれそうな人を二人みつけたよ。小学生の頃や、中学生の頃とは違ってね」
「左様でございますか」
中条の声には、覇気があった。
「だから、心配はするな」
「了解しました、若」
玲央と中条は邸宅の中に入った。
「会長と奥様からは、若を本邸に運んだら帰っていいと仰られていましたが、若はこれからどこかに行くご予定はありますか?」
「ないよ、ゆっくり休んだらいい」
「承知いたしました」
使用人室に行き、両親が帰ってきていないという情報をそこにいた使用人の一人に聞いた。それから、自室に行き、机の引き出しからプリンター用のA4の紙の束から一枚を抜いた。机の上の四段のプラスチックの箱から、鉛筆を取り出して、先程取った紙を机に置く。椅子に座る。紙の中心に、鉛筆で点を打った。その点に向かって、様々な角度から曲線を引く。曲線を引くトレーニングは、地味だが、漫画を描く基礎の練習になる。
三枚目の紙に曲線を引いているとき、ノックの音が聞こえた。父か母か、使用人かわからない。
「入っていいよ」
玲央はそう言って、ドアの方を見た。開くドア、立っているのは、使用人。
「どうした?」
「仕立て屋が来ています」
「ご苦労」
「では、下がらせていただきます」
玲央は自室を出て、エントランスに降りる。そこには、熟年の男がいた。この熟年の男の仕立て屋に、玲央は年齢の節目に、服を仕立ててもらっている。今日は、入学祝の一つとして、ブレザーを新調してもらうことになっていた。といっても、いきなりブレザーを渡されるのではなく、手順がある。
仕立て屋が、頭の天辺から足元まで、視線を這わせるのを感じた。
「なるほど」
彼は、凛とした声で一声を放った。ポケットから、メジャーを取り出し、玲央の目をしっかり見る。
「若、これからお身体に触らせていただきます」
「よろしく、頼む」
玲央は言って、自分に漸近する彼の所作に無駄がないのを見て、武道でもやってそうだと感じる。それから、間近でメジャーを玲央の身体の様々な部位へ滑らせる。その度に響く音は、凛とした彼の声に似て、鋭くはっきりしている。そして、一歩身体を引き、また言った。
「なるほど」
と。
「明日また来ていいと、ご両親から申し使っています。時間はいかがいたしますか?」
「十六時で」
「わかりました」
仕立て屋が翻って、やはり無駄のない動きで玄関扉に歩いて行く。玄関扉の前で、彼は踵を返した。お辞儀する彼に、玲央もお辞儀をし、礼を尽くす。
自室に戻った玲央は、また曲線を引くトレーニングをした。いつの間にか、両親との夕食の時間になった。
今日は、中華料理で、前菜はクラゲの冷菜。円形の器にある氷の上で、丸になるように一つずつ透けた琥珀色のクラゲが載っている。漂う胡麻油の芳ばしい香りが鼻腔に入ってきて、食欲がそそられる。玲央は箸で一つ掴んだ。クラゲが箸の中で、垂れる。口の中に、味よりも先に、冷たさを感じる。噛むと、弾力があり、コリッと音がする。胡麻油と酢の酸味が口の中で、花火になって散った。コックの竹田さんの料理は、いつも美味しくて満足する。
母が玲央の目を見て言った。
「ロングホームルームどうだった?」
「知人が二人出来たよ。中学のときの、クラスメート一人と、学級違いの人が一人いた」
「それだけ?」
母が訝っているように感じた。
「それだけ」
出来た知人二人が、漫画家志望なのは言わない。何かの拍子に、玲央自身が漫画を描いていることばれる怖れがあるから。ばれたら、プロの指導を受けさせようという話になっては厄介だ。
「あっ、そうそう。明日は、竹田さんに弁当を用意してもらおうと思っている」
「弁当? いつも外食なのに」
母が、目を大きく見開いた。
「出来た知人二人と仲良くなろうと思っていて、移動の時間が惜しい」
「へー、玲央がクラスメートにそういうふうに接するの初めてだね」
甘ったるい声で、母が言った。
「珍しいが、良いことだな」
父が、頷きながら言った。
「ああ」
「ところで、玲央」
父がクラゲを掴みながら、玲央を見、玲央も父の目を見た。
「しっかりしている教育理念だったな」
「そうだね、日本は偏向報道が多い。父さん、あのときは悪かったと思っているよ」
「あのとき?」
「僕が小学生だったとき、父さんがルクライナ戦争の予兆の話をしたよね。戦争になるから儲けないとなとなと言ってたの覚えている? 後日、僕嚙みついたじゃない、父さんに。青かったと思う。父さんが戦争を起こしにいったのなら、問題あるけれど。父さんが、起こしにいった戦争じゃない。だから、あの状況で最善の動きを父さんはとったんだと思う、うちは商社なわけだし」
「あれは、私も悪い。小学生にはまだ早い話をしてしまった」
父さんは、ルクライナ戦争の二週間前に、持っていたルーブルを全部売り安くなったところで買い戻した。
父は言っていた。
資源を持っているイゼルバイジャンのストライキや武装蜂起、そこに、ラシアが介入し、イーロッパもガザフスタンも何も言わない。そして、ラシアは周辺国の内政に軍事で介入するパターンを繰り返している、次はルクライナでも起こりそうだ、と。
その上、ラシアは訓練と称して、国境に十万人の部隊を置き、白海艦隊の配置換えを行っている。
ルクライナはラシアから借りているお金を踏み倒そうとしていて、おまけに、NETOに加入しようとしている。
エメリカのルクライナへの政策で、ルクライナの軍の装備は、少しルシアからエメリカのものに変わった。
その話を聞いたとき、玲央は、じゃあ、エメリカが戦争を起こそうとしているのと父に聞いた。
父は、事実をどう解釈するかはお前の問題だと言い、明言を避けた。
そして、話を続け、こういうのが何百も積み重なっている。戦争は、二週間後に起きると言った。そして、本当に二週間後に戦争が起き、玲央は戦争で儲けるなんて酷いと言ってしまったのだ。青い。
そして、今思えば、エメリカが戦争を起こしたとも断定できないし、いろんなことが複合的に絡み合って戦争は起きたのかもしれない。
父が、クラゲを一つ食べてからしんみり言った。
「お前も成長したな」
夕食を食べ終えて、玲央は自室に戻る。聖域である空間にも関わらず、入学式のことを思い出し、玲央の心に黒墨が湧いた。スマホのグループキズナを見てみる。誰も、まだ書き込んでいない。聖域は静謐だが、それを破る。自分の心の黒墨を文字でフリック入力し、誰かに、届くようにと打つと、スマホの音がし、わかっていたことだが、その行為をした音は歪感として残る。誰かの心の白さを、この黒色が穿つかもしれないが、ほんの遊び心である。
『今までの人生で、学校には居場所がなかった。仲間も友達もいなかった』
朝目覚め、グループキズナを見ると、クラスメート全員の既読がついていた。そして、玲央のメッセージに三件の返しがあった。
西山璃子『仲間になれるよ、きっと』
御影澄『居場所も見つかるよ』
久保隼人『仲間も居場所も見つけましょう』
担任の久保隼人のメッセージは無難すぎる。どうせ、学校を卒業したら関りがなくなる人の文字に何の意味があるんだろうか。ただ反応しただけではないか、そう思えて仕方がなかった。璃子はわかっていないように感じた。澄美もわかっていないように感じた。気分が悪くなってきた。
玲央は不快感情を心の奥底に沈め、朝の支度をすませた。中条が運転するリムジンで通学し、教室に入る。
すると、事件が起きた。
教室にいる十人ぐらいのクラスメート達が、玲央を見てどよめいたのだ。そして、心配そうな表情をしていた。
クラスメート達が、玲央に寄って、口々に励ますのである。玲央にとっては、グループキズナへの書き込みは、ただあひる道の心得——誰よりも楽しむを実践したにすぎなかった。ほんの一滴、黒墨を垂らしただけのつもりだった。嘘は書いていないし、問題ないとは思っていたけど、まさかこんなに心配されるなんて。
胸に罪悪感が芽吹く。
「深窓の令息の貴殿と昵懇してみたくなるグループキズナの書き込みだった」
そう言うのは、久世陸だ。口語で、難しすぎる言葉を使うのは、親の教育だろうか。そして、同情から近づきたいのかと、考えていたところ、久世陸が玲央の顔を見た。
「どうした? そんな怪訝そうな表情をし、緘黙しているのは?」
同情から近づいてきても全く問題はない、楽しい人ならだけど。
「久世さんが、口語でどうしてそんな難しい言葉を使うのかなって考えていた」
「うむ。中学の頃は平凡な話し方をしていたが、厨二病デビューすることにした。高校では、この三年間この口調のキャラで徹し、遊ぶ。高校を出たら、普通の喋り方に戻す。そうしないと、痛い奴と思われるからな」
充分、今でも痛い奴だが、面白いから放置しとこう。
「それにしても、深窓の令息の、貴殿か。普通に玲央と呼んでほしい。それから、令息ってよく知っているんだな」
「貴殿の知名度は、吾輩のクラスにも轟いていた。我輩達がいた中学では、成績が廊下に張り出されていたであろう。その成績で、ずっと貴殿は主席だった。どんな輩かと思い、貴殿のクラスの者がこちらのクラスに来たとき、給食を食べない、ボンボンだと話していた」
「ボンボン? 酷いな。気を使っているんだけどな。給食には税金が使われる。それに、給食はまずそうなイメージがある。弁当でもよかったけど、みんなが給食を食べている中、弁当は浮くかなって、外食にしていた」
「うむ。ボンボンはまずいだろと吾輩が言い、貴殿の異名を深窓の令息にしようと言うことになった。吾輩に感謝するんだな」
「ボンボンよりはマシだけど、深窓の令息もどうかと」
不服だ。
「そうか。吾輩のことは陸と呼んでいい。だが、吾輩は同級生の男は貴殿で統一するつもりだ」
面白いを通り越して、愉快な奴。
陸と雑談している間に、クラスメート達が何人もドアから入って来て、玲央を励ましていく。そして、またドアが開く音がし、澄と璃子が玲央と陸の会話に入って来た。
「玲央、大丈夫?」
心配そうな表情で、璃子が言った。
「泣きそうになったよ、グループキズナの書き込み」
澄もまた、心配している表情だ。
これは、遊び心で打った文字だと言ったら、取り返しがつかなくなりそうだ。適当なことを言っておこう。
「僕もいろいろ思うことがある」
「いろいろ?」
聖女かって思うぐらいの優しさが澄の身体全体の気配から滲んでいる。
「機会があれば話すよ」
「わかった」
澄が屈託のない笑顔を浮かべる。難なきを得て、玲央はほっとした。 彼女の笑顔は、弓から放たれた矢のようだった。 その矢の音を感じた刹那、玲央は胸を射抜かれてしまった。 キューピッドの恋の矢ではない。善意だけでできた鏃が、玲央の胸に届き、痛みだけを残していった。
昼休みになると、クラスメート達のほとんどは弁当を取り出し、食べ始めた。
担任の家族との思い出とやらの発言が、効いているみたい。疑ってもいいのに、どうやらこのクラス全体、白ではなく真っ白さんが多そう。僕に対する態度も真っ白さんだったし。
玲央は、ちらちらと澄と、璃子を見る。昨日の漫画を持ち寄って感想を言い合おうという話を早く実践したくて仕方がない。
キャビアとフカヒレのサンドイッチを食べ終えた玲央は、まだ食事中の二人を見て、そわそわしていた。
澄が食べ終えたのを見、自作の漫画を鞄から取り出し、彼女の席へ向かう。
「これが僕の漫画。澄の漫画は?」
「ちょっと待ってね」
澄が鞄から漫画を取り出した。紙に描かれただけのものではなく、冊子になっていて、ちゃんと表紙にも絵が描かれていた。絵は、可愛らしい系。玲央と澄は漫画を交換しあった。
澄の漫画は、主人公が、駅で転んだおばあさんを心配するシーンから始まる。すごく、親切におばあさんの世話をしていた。そのおばあさんとの交流する漫画は頁を繰る度に、優しい世界感が見え、くっきりと書き手の澄の輪郭が見えた。じんわりとした暖かさが玲央を満たす。読み終えて、澄に恋をしたのだ。感想を言おうと、澄に視線をやると、聖女の佇まいが消えている。目を吊り上げて、腕を組んでいた。こちらを睨んでいる。
澄の漫画を持つ玲央の手が震える。びっくりした次の瞬間、玲央は、不穏な気持ちになった。玲央の表情はこわばり、目の焦点が定まらない。
「ちょっとぉ、これ、真面目に描いていないでしょう?」
澄の言葉が、教室にあったわずかなざわめきの時を止め、しんと、静寂をもたらした。玲央はたじろいだ。
澄の表情の奥に何があるのか感じようとした。わからない。
「どこに、問題が……」
玲央の声が震える。
「私、漫画家目指しているから、いいかげんに描かれた漫画見ると苛つくんだよね」
「いや、精一杯平和感を出す漫画を描いたつもりなんだけど」
玲央は真剣に漫画を描いている。まさか、こんなふうに言われるとは思いもよらなかった。玲央はおどおどとした目で、澄を見る。
「ええ、そうなの! ごめん、精一杯書いているのなら、よし」
明るく爽快な弾ける声音で、澄は笑って言った。落差の激しさに、玲央は困惑する。
「貴殿女達、トラブルが発生したのかと焦ったが、何も問題ないようだな」
玲央は自分の隣にいつの間にか立っている陸の存在に気づいた。貴殿女という知らない言葉に意識が向き、貴殿と貴女の組み合わせた造語だろうと気づく間に秒針が少し進んだみたい。進んだのは、造語に気づいた一瞬の間、それだけではない。重なるように、玲央の心臓に張りつめていた気も、ふっと緩んだ。その直後、玲央が澄の机の上に、彼女の漫画をそっと置く。
澄の止めた玲央の平穏な時間を陸が進ませたのだ。教室に、ざわめきが戻っているのは、たぶん、澄が時を止めてしまった佇まいの色を、また彼女自身が変えたからだけど、玲央を落ち着かせたのは、陸。玲央は息を吐いた。
感謝。
それにしても、澄の創作姿勢は僕より遥かに高そうで驚く。
「で、私の漫画はどうだった?」
玲央は目を煌めかせている澄が可愛いと感じた。感想は、澄の漫画で、恋に落ちただけど、言えるわけがない。
「恋するほどすごい魅力的な主人公だったよ、あんなに一生懸命におばあさんに親切にしているのに、心が打たれる」
いきなり、澄に告っても成功しそうがないし、無難そうな感想で逃げておこう。
「えっ、嬉しいこと言ってくれる。改善したほうがいいところはある?」
「僕は見つけられなかったよ」
「貴女の漫画、拝読させてもらってよいか?」
「いいよ、玲央も漫画読んでもらう?」
澄が言った直後、璃子は漫画が描かれた紙を片手に持って、澄の席に来た。
「あとで、読んでもらおうかな」
玲央は、言って、璃子の漫画に視線をやる。
「璃子の漫画はどんなだろう」
「はい」
と、璃子が玲央に漫画を差し出す。玲央は受け取って読み始めた。
玲央は、頁を進ませながら、眉を顰めさせたり、息を呑んだりした。
漫画の中で、英語の授業のシーン。今日はアメリカの映画鑑賞をしますと、教師が言う。大きな口を開けて、ひきつるような笑い方をする登場人物が映画の中で出る。漫画で、クラスメートの一人が、主人公に雅ちゃんと同じ笑い方をするねと言う。主人公の雅が、そのクラスメートの言葉や、映画の登場人物に呼応するように、その独特な笑い方で笑う。次の瞬間、映画内でその登場人物が笑い方で馬鹿にされる。直後、主人公は顔をひきつらせ、もう笑っていなかった。それからというもの、その主人公はその後どんなときでも笑わないでいる。教師の行いが結果として、主人公から笑いを奪う。最後の頁を読み終えて、玲央は璃子の手にそっと漫画を戻す。
少しの沈黙が、玲央の気持ちの全てだった。
「悲しすぎるね」
玲央が目を伏せる。璃子が小さく息を吐く。
玲央の皆の漫画の感想は、絵は上手いんだけどねという含む言い方で散々だ。感想をまとめてるとこう。
・ドラマがない。
・仲睦まじく主人公とその家族が寿司食べているだけ。
・寿司美味しかったね終わりでオチがない。
玲央は静かに聞きながら、反駁した。自作を平和な日常の暖かい家庭を表現していて、素晴らしい。僕の漫画が三人の中で一番優れていると言った。
澄がしらけた目で、玲央を見た。璃子が溜息をついた。陸が玲央を睨んだ。
自作品以外の点数を付けあおうという話しになり、璃子が一番高い点数を獲得した。玲央は自分に次いで、澄の漫画が優れていると思っていたのに、好みの違いだなと思う。
「みんなは見る目がない。僕の漫画は百点はいっているというのに」
「貴殿の漫画の点数、みんなからの合計三十八点だったな」
からかうような言い方で、陸が言った。
「卑怯、自分でよいと思っても、周りの評価が全て」
「卑怯? ああ、畢竟か?」
「畢竟だ。貴殿は本気で自分の描いたのが一番優れていると思っているようだが、よく考えたらいい。本当に、優れた作品は他人が認めるものだよ、他人がな」
「うっ」
玲央は、言い返せなかった。それもそうだなと玲央は思う。もっと、頑張らないといけなかったんだ。
その後、雑談をした。
◇◇◇
玲央は、自室で、自作の漫画を破って、床に放った。足で、ゴミ屑になったそれを何度も踏み、こんなもの、こんなものと何度も言った。
「でも、僕はこういう平和な世界が好きなんだ。だから、もっともっと本気で僕の世界を描いたものを誰よりも楽しんで描く。でも、現状は澄から学ぶ」
次の日、通学した玲央は澄達に、ヒィクションフェスティバルの話をする。ヒィクションフェスティバルのスタッフとをやっているお礼。漫画家の設定資料集や画集、小説家のプロットを、プロのものをもらっているとも言う。三人共、玲央が持参したそれを興味気に見た。
「ところで、みんなヒィクションフェスティバルに来ないか。ヒィクションフェスティバルは、今まで、地方でやっていたけど、首都の西京でもやることになったよ」
三人共、乗り気だった。
「ヒィクションヘスティバルに来てくれるのなら、スタッフ特権として無料でリストバンド型参加証をあげるよ」
みんな承諾したが、澄だけが一歩踏み込んだお願いもしてきた。
「私、出店もしてみたいな」
「あっ、それいいかも。私も紙じゃなくて、ちゃんとした製本をして出そう」
璃子が言った。
「出店はできるかどうかわからないけど、上の人にかけあうよ」
学校を終え、邸宅に戻った玲央は、どきどきメモリアルを教えてくれた人に、ヒィクションフェスティバルに出店したい友達がいると通話してみた。ヒィクションフェスティバルの出店は予約で既に埋まっていると残念な知らせを受ける。でも、予約がキャンセルされたら、草創期のメンバーである君を内緒で優先すると言ってくれた。
玲央も破り捨てた漫画とは違うものを描いて、その上製本しようかと考えた。澄を見倣って、人助けの話を描こうと考える。澄がおばあさんを助ける話なら、おじいさんを助ける話を自分は描く。
漫画を描いていたら、ノックの音がした。両親だったら漫画を描いているのを知られるかもしれない。机の引き出しに漫画を隠し、部屋を開けた。立っている使用人が仕立て屋が来ていますと言う。
玄関に行く。仕立て屋が鞄を手に持ち佇んでいた。挨拶を交わす。
「若、これからお身体に型紙を触れさせていただきます」
「お願いします」
彼は、鞄を開いて、型紙を取り出した。玲央に漸近し、身体の部位毎に型紙を張ってはなるほどと言った。
「明日も来ていいとご両親から申しつかっています」
「また、今日と同じ時間にお願いできますか?」
「わかりました」
玄関扉を出て行く彼を見送った。
次の日、学校では、三人と自分たちの親が好きなアニメの話をした。玲央の両親は、シリアルエクスぺりメンツ・リンというアニメが好きだったが、意外なことに、陸だけじゃなく澄や、璃子も知らない。随分前の、アニメだけど、今でも、公式のホームページがあり、ハッカーがその公式ホームページに、ハッキングしたのは有名。シリアルエクスぺりメンツ・リン、ではなく、みんなリンを好きになろうとホームページの名前を大胆に変えた。
そういう雑談をしたら、みんな驚いていて、楽しい。
学校を終え、自室にいると、仕立て屋がまた来て、次は、布を着せられた。彼は、一週間後にブレザーをお持ちしますと言う。
一週間過ぎる。その頃になると、玲央は、少しづつ、学校生活に慣れていき、澄、璃子、陸との関りに満足していた。
仕立て屋からも、出来の言いグレーのブレザーを受け取り、満足。
玲央は、使用人を束ねる使用人長の長田という初老の女性に、使用人室に使用人を集めるようにと命令した。
使用人達に、ブレザーとそれ以外のお披露目をしたい。
使用人室に入り、ブレザーをお披露目しながら、モヒカンのカツラをかぶった。
「このブレザーはよいだろう。これにこのモヒカンのカツラをかぶって、経協連のパーティーに参加するんだ。そしたら、僕は有名人になれる」
長田の眉が、上がったり下がったりする。
「若、それは悪目立ちですよ」
クスっと、若い女性の使用人の笑いを漏らし、長田はその使用人に注意でも促すように、一瞥する。一瞥を受けた、使用人は失敗だったという表情をし、取り繕う。
冗談通じないな、長田は。笑った、使用人はわかっているようだ。
「いやいや、長田冗談だ」
「冗談?」
「ああ」
「若、困ります」
「悪い」
「ブレザーは似合っておりますよ」
長田が、俳優のように、笑顔をその場で作るのがわかる。口々に、ブレザーを皆、褒めたたえる。
嬉しくない。それよりも、冗談だ。冗談のほう。若い女性の使用人にはうけたようでよかったが。
マイクラーレンスピードテールで、中条が使えないのは仕方がなかった。玲央と母は後部の補助席に座っている。父が運転しているマイクラーレンスピードテールは、三人乗り。経協連の立食パーティーに向かう途中、玲央はよくいつもよく乗るリムジンとは違う車内風景を楽しむ。玲央が、一番乗らない車で、内側は、運転席が真ん中にあり、後部に二つある補助席で、三角形のような配置。
うちの車で一番値段が高く、二億八千万したらしい。外観も、流線形をしておりだいぶん目立つ。
父が車を駐車場に停めた。玲央達は上に開くドアから、降りた。
そこに、まさかいるとは思わなかった。近視では見えないぐらいの距離で澄が、こちらに視線をくれている。
玲央が、澄の方に寄ろうかと思った瞬間、彼女が玲央に手を、上げて降ろした。幼児のような速度で、闊歩してくる。ふらついた。
玲央は、心配になって澄に駆け寄った。
「体調悪いのか?」
「うん、ちょっとだけ熱が。ここに来る前病院に行って、風邪ではないからって診断されたの。そしたら、他人にうつす心配はない。立食パーティーに澄も来てほしいと親に言われて」
澄はいつもとは話す速度が落ちていた。彼女も親には苦労してそうだ。
「そっか、無理すんなよ。パーティーでは、体調が悪い人や、ご老体の人用に会場の隅に椅子が用意されているし、そこに座っても大丈夫だよ」
「ありがとう」
「じゃあ、両親の元に戻る、会場でまた会おう」
「うん」
体調が悪いのに、来させられている澄。彼女を不憫に思い、ここに連れ出したその両親を、玲央はそっと一瞥したのだ。善良そうな顔立ち。でも、澄の体調よりも体裁を優先しているようだ。どうしても好感は持てなかった。玲央は、自分の両親の方へ歩いていく。二人の元に戻った。
「知り合い?」
母が言った。
「この前、話したね」
玲央がそう言ったら、母が顔をほころばせた。
「やるじゃない。美人系ね、高校生には珍しく、可愛らしい系じゃなくて」
「いや、知人だから」
「かといってもう狙っていたりして」
「狙っていない」
玲央は平常心で、嘘をついた。
「あの娘が玲央を、よ」
玲央のそれはないだろという表情が顔に浮かんだのか、父が言った。
「わからないぞ、お前ぐらいの年頃はちょっとしたことで浮かれやすいからな」
「ちょっとしたことはないから」
「作ったらいい、ちょっとしたことを、な」
「もういいから、二人ともパーティーに行こう」
玲央はそう言って、二人から退散する。
パーティー会場の前へ行く前に、重役二人と合流する。そして、会場の扉に立っている男に招待状を父が見せた。
中は、数十人の人々が既に入っていて、父が名刺交換をしはじめた。うちの息子ですと紹介をされるたび、バレーで有名だった小学生の頃の玲央をほとんどの人が褒める。
小学生の頃とはいえ、玲央をオタクだと言って、ガス抜きしている隣にいる重役達は面白くないだろう。玲央は、重役達に視線をやったが、顔色一つ変えていない。それどころか、他社の者に便乗し、玲央がいかに素晴らしいかと言っている。こういう場でも本音を隠せなかったら楽しいんだけど、合理性がさすがに働くようだ。
玲央の両親は澄の両親とも名刺交換をした。その傍で体調が悪いのに、澄は気丈に振舞っている。
名刺交換が一通り終わり、玲央は澄を探す。椅子に座っていた。
「大丈夫か? 何か食べたいものある? 持って来るけど」
「ははは、玲央は優しいね。体調はもう実は回復したんだ。そろそろ、立とうと思っていたところ」
「そっかぁ、よかったよ。じゃあ、二人で食べ物取りながら、話そう」
「そうね」
澄が笑った。
玲央達は、小皿を取り、その上に箸とフォークを置いた。いろんな食べ物を小皿に載せる。玲央は澄となら、ルクライナ戦争のコアな話をしてもついてこれそうだと思った。
「ルクライナ戦争は酷いけど、儲けないといけないよね」
「私は、そうは思わない」
「うん?」
玲央の不思議そうな声が空を斬る。
「多くの人が死ぬのよ。私の家も経協連に来れるような末席にはなれるような会社にはなったけど、戦争で儲けるのは正しいとは思わない」
「澄、僕も小学生の頃は戦争で儲けるのはいけないと思っていた」
「今は違うの?」
「うちの会社が起こした戦争じゃない、状況に便乗するんだよ」
「便乗……か」
悲しそうな声だった。
「いけない?」
「この話はよしましょう。うちの会社もあの戦争で儲けたようだけどね。したくない、その話」
「僕が優しいと、さっき言っていてたけど、澄は優しすぎるね。でも、話したくないならやめよう」
「ところで、すごくいい車に乗ってきたね。上にドアが開いていたし。うちでは、買えなさそう」
「うちの両親は車に執着していないけれど、付き合いってものがある」
「付き合い?」
「車を買って、他の物を買ってもらったりとか、ね」
「ああ、わかる」
「取引先とは持ちつもたれつ。でも、取引先とはだよ」
「どういうこと?」
「客にはテッシュを配るような撒き餌戦略はしない。もちろん、撒き餌で儲けている会社もあるけど、いい商品があればそれだけで買ってくれるからね」
「うちは、撒き餌いっぱいやっているよ」
「まあ、それで儲かるんならいい」
「うん」
その後、漫画の話題を楽しんだ。
邸宅に戻って、玲央はリビングで両親に澄の家の事業について聞いた。御影貿易商事といい、うちの傘下だという。中規模で、そこそこ収益を出しているらしい。なかなか対等の規模の会社はない。会社が傘下とはいえ、澄との関係性をこちらが変えるつもりはない。でも、澄の方が変に気を遣ってきたら、嫌だ。でも、澄の性格でそれはないかと、思考を沈める。
ヒクションヘスティバルの空きが、出来たと連絡が来て、玲央は嬉しくなった。
これで、澄や璃子に喜んでもらえる。陸はどうかわからないけど、祝福ぐらいはしてくれるだろう。
通学した玲央は、空きが出来たと、三人に伝えた。反応は予想通り。玲央は自分の漫画も置かしてくれないかと、澄と璃子の目を交互に見て言う。
「いいよ、というか玲央のおかげで出店出来るんだし」
澄がいつもより大きな声で、嬉しそうに言う。
「もちろん、大丈夫です」
璃子が、落ち着いた声で言い、顔は笑顔になった。浮かべるという表現ではなくて、張り付くといってもいいぐらいに、長い間、崩れなかった。
「で、新しい漫画持ってきたから、また、昼休みに読んでほしい」
三人に、承諾を得、昼休みまで待った。
昼休みに、漫画を見せたら、前よりはいいということだった。でも、明らかに澄の影響を受けていると皆言う。独自性がないらしい。
「独自性か……」
玲央が呟く。
そんな玲央に皆、頑張っているからと励ます。
頑張っているか? 楽しんでいるんだけどな。
「ありがとう」
皆の言葉を斜に受けながら、玲央は言う。皆、笑顔でもっと巧くなると思うよという旨の言葉を残した。
「ブースの前に、ボードを置いてそこにサークル名、値段表を書いたポスターを張りたい。陸は、もちろん作品出さないから、三人で考えよう。あと、フライヤーも作った方がいいね。フライヤーのイラストには僕らのサークル名を書き、各々の漫画の主人公のイラストを書く。これで、いいかな?」
澄と璃子が、顔を合わせ、頷きあう。
「それで、いいと思います」
璃子が言う。
「いいね」
澄が言う。
「サークル名は何にする?」
二人共、考え込んでいた。澄は、何がいいかなとか、うーんとか、呟きもしている。
「三人でやるからね、それぞれの名前の頭文字を取るってどう?」
「頭文字を繋げるんですか?」
璃子が玲央の目を見た。
「そうそう、たとえば、僕が、玲央、そして璃子、澄だから、RRSサークルとか?」
璃子が自分の片手を、顎に持っていき考える仕草をした。
「ゲームとかだったら、ガチャでSSRとかってあるけど。スーパースペシャルレアの略だし」
「SSRサークルって、結構いい名前だけど、反映されてないな。Sが一人Rが二人なわけだし」
玲央が困ったように言った。
「柔軟に考えて、スペシャルレアな三人の漫画の頭文字を使ったって意味で」
「うーん」
玲央はしっくりこなかった。
「澄はどう思う?」
「え?」
「え? って、ああ考えていた考えていたから、サークル名本当に何がいいんだろうね」
澄は今までの話どうやら聞いていなくて、自分の世界に入って考えていたみたい。玲央は、一から澄に説明した。
「それ、すごくいいよ」
「えっ、いいの?」
玲央は驚いた。
「これで、決まりね」
澄が言った。
「ええっ」
玲央が、それは駄目じゃないかという言い方をする。
「だって、スペシャルレアな三人だから」
「決まったね」
璃子が笑顔を浮かべた。
「まあ、二人がいいって言うんなら」
そんな、玲央達の話の中、陸は黙っていたが、最後に吾輩は楽しみだと残した。
学校から、邸宅に戻った玲央は、印刷会社に足を運ぶ。漫画を冊子として印刷してもらうのだ。玲央は、従業員に漫画の原稿と表紙のイラストを渡し、三十冊作ってほしいと言って、お金を支払った。
中条が運転するリムジンで、西京ビッグサイトに向かった。西京ビッグサイトの逆ピラミッドみたいな会議棟が見える。近くで車を降りる。その際、一緒に平台車と玲央の漫画を入れているダンボールを二箱降ろした。平台車に段ボールをゴム紐で固定してから、リュックを車から出して、背負う。リュックの中は折り畳みの、テーブルとボードでパンパンだ。淡い朝日を受けながら、平台車をゴムで引っ張りながら歩く。歩くたびに、平台車のタイヤが地面を回転する音は、耳障りだ。
第七ホールの一つに玲央達はブースを与えられていた。ホールの中で一番遠い。といっても、ここから十分ぐらいの距離のところ。
第七ホール前に着く。係員のリスト型参加証を確認する視線を感じた。
「お疲れ様」
玲央がそう言うと、
「お疲れ様」
と、係員が返した。
第七ホールの、ぬー18a。いちばん隅である。そこに着くと、まだ澄達は来ておらず、玲央は折り畳みのテーブルを設置した。隣のブースとの共有テーブルがあるが、これだけでは置けるスペースが限られている。幸いヒィクションヘスティバルは、まだ新しいイベントでルールが緩く持ち込みテーブルが許可されているのである。隣のブースの人からスペース取りすぎと注意されてしまう心配はあるが、大丈夫と思いたい。
玲央は、ボードも設置した。ボードに貼るポスター、そしてフライヤーは澄達が持って来る事になっている。
執筆の狙い
AIに冗長だから削った方がいいと言われてしまいました。どうしても、削りたくありません。まだ、未完成のこの物語、どう映りますか? その上、ご指導もしてほしいですが。