また、逢えたね——
肌寒さで季節の変わり目を感じるようになったこの頃。別大国道を見下ろす空も、心なしか高く澄んで見える。
阿蘇大観峰へ向けて走る車内では、懐かしの昭和歌謡がゆったりと時間を刻むように流れている。
朝比奈ハルト(30)は、浮かない顔でハンドルを握っていた。
その助手席には、女優気取りの大きなつばのハット。豊満な胸を強調する露出の激しいトップス。風と相性最悪のフリルスカートに、今にも折れそうなピンヒール。
そんな装いの芦刈沙苗(28)は、身の置き場がないといったように縮こまっている。
質素で生活感ただよう車内。
その中で、沙苗の服装だけが異世界から紛れ込んだように浮いている。
フリルの裾を指先でもて遊びながら、沙苗はフロントガラス越しに眩しく走るオープンカーを、ただ凝視している。
――IT企業勤めって、もっと高級車じゃないの?
――これ、学年担任の“ハゲ山”と同じやつじゃん。
「はぁ〜……」
胸の内で吐き捨てるように思い、小さく溜め息が漏れる。
沙苗の装いとは対照的に、ハルトは厚手のトレーナー、ジーンズ、スポーツシューズといったラフな格好。
だがそれさえ"サマ"になる。
なんせ、175センチの高身長に、綺麗な弧を描く涼しげな目元、スッと通った鼻筋。
きちんと手入れされた顎ヒゲは、精悍さを際立たせている。
非の打ち所がない、いわゆる"イケメン"である。——"見た目には" と、付け加えた方が正確かもしれない。
どこでどう漏れ伝わったのか——
30年間、頑なに守ってきた“秘密”を、よりによって同じビル内に勤める沙苗に勘づかれてしまった。
それをネタに揺さぶりをかけてきた面倒な女。沙苗はハルトにとって、それ以上でも以下でもない存在だ。
そんな女との意図しない大観峰へのドライブが、ハルトの表情を曇らせている原因だ。
――この容姿で信じがたいけど。
――まさか、童貞だなんて。
沙苗は、撫で回すような視線をハルトに這わせ、胸の奥でほくそ笑んだ。
誰にも気づかれたくなかったハルトの秘密。それは未だ女性経験ゼロだという、まさに"信じがたい"事実だ。
「——その帽子……」
長く続いていた沈黙を終わらせたのは、ハルトだった。
沙苗は咄嗟に笑顔を取り繕い、堰を切ったように喋り出す。
「素敵でしょ! あのハリウッド女優も被ってて、え〜っと名前なんだっけ」
作ったような甘い声。
ハルトは、苛立ちを飲み込みながら短く言った。
「運転の邪魔なんだけど」
「——そう……」
"鳩が豆鉄砲を"とは、まさにこんな表情だろう。そのまま沙苗は押し黙った。
落胆した様子で帽子を脱ぎ、膝の上でつばをキュッと掴む沙苗。
バツが悪そうに視線を泳がせると、後部座席に置かれた『優しい園芸』という雑誌と、色褪せたソフトバンクホークスのジャンバーに目が止まった。
沙苗は眉をひそめた。
「あの、まさか……園芸が趣味とか……?」
沙苗が恐る恐る話しかける様子を察したハルト。
「ん? あぁ、オヤジのな」
素っ気なくだが、先ほどよりは抑揚のある声で応えた。
「よね〜! そうよ、そうよ」
沙苗は一変して明るい声を出し、ピンヒールの足を跳ね上げた。
――このダサいのも、お父さんのに違いないわ。
再びジャンバーを見て、胸を撫で下ろす。
沙苗の現金な態度に、ハルトは内心でため息をいた。
※ ※ ※
10日ほど前、ハルトの勤務先のテナントビル内にある自販機前。それが沙苗と初めて言葉を交わした場所だった。
昼休憩終わりのハルトはいつものように、自販機前に立っていた。
愛飲しているのは『さくらんBOY』
可愛らしいチェリーのデザインがラベリングされてある。
午後イチはいつもコレと決めてある。
パンツのポケットから小銭を出し、投入口に入れようとしたその時だった。
沙苗がハルトの前にスッと割って入り、スマホを自販機にかざすと——"ガタンッ"という音と共に、さくらんBOYが排出口に落ちてきた。
呆気に取られるハルトの手に、それを差し出しながら沙苗は笑う。
最近、決まってこの時間、この場所で遭遇する子だ。
遭遇? 本当にそうだったろうか?
背後からいつも感じていたむず痒さは——。
「やっぱり、これなんですね」
「ハッ?」
「チェリーボーイ」
沙苗は不敵な笑みを浮かべ、ハルトの持つ缶を指差した。
「な、なんで!?」
心臓が跳ね上がった。
ハルトは思わず缶を後ろ手に隠し、後ずさる。なぜ彼女が、俺が「未経験」であることを知っているのか。
パニックになるハルトに、沙面は携帯番号をメモした名刺を押し付けた。
沙苗はそのまま、踵を返してエレベーターへと向かった。
扉が開き、ちょうど出てきた人々の間をすり抜け、中へと入っていった。
すぐさまハルトの方を振り返り、声を飛ばす。
「チェリーボーイのお返しは結構なんで、先ずはドライブしましょ」
「チェ、チェリーボーイじゃなくてさくらんボーイ——」
エレベーターの扉が閉まり、沙苗の姿が消えると同時に、ハルトは自販機に手をつき、そのままうなだれた。
以来、ハルトが『さくらんBOY』のボタンを押すことは、二度となかった。
※ ※ ※
車内の昭和歌謡は、いつの間にかニ周目に入っていた。
「なんだか渋い音楽ね。ん〜、私にはちょっと」
沙苗は勝手にCDを止め、FMラジオに切り替えた。
流れてきた流行りの曲に軽く身を揺らし、上機嫌にハミングしている。
右手に広がる別府湾に投げやりな視線を送るハルト。
日差しを遮った雲が、車ごと影で包んだ。
———
流行りの音楽に乗せ、ハミングから調子っぱずれの歌唱にまで昇華していった沙苗の上機嫌が、いつの間にか鳴りをひそめていた。
ハルトが沙苗の異変に気づいたのは、"大観峰"と表記された青色の道路標識を目にした時だった。
これまで無意識に近い感覚でハンドルを握っていたことに、ハルトは今気づいた。
"ミルクロード"の金一色に波打つススキ野原。
悠然と横たわる阿蘇のカルデラ。
放牧された牛や馬が草をはむ、のどかな光景。
それら全てがハルトの目には、色褪せた古い記録映像のようにしか映っていなかった。
目的地の大観峰は目前だ。ここを右折し数百メートルほど走れば、ハルトにとって久方ぶりの景色に出会う。
"懐かしい"や"懐古"などという言葉を、この場所にだけは持ち込みたくない。
それは、ハルトの意識の奥底にへばりついて、剥がせない感情だった。
※ ※ ※
日曜日の昼過ぎ、空は快晴とあって、所狭しと停められてある他県ナンバーの自動二輪、ファミリーカーなどの数々。
前方両脇の車列を縫うように見やりながら、ハルトは首を伸ばし気味に
空いた駐車スペースを探していた。
「何処でもいいから早く!」
いつからか押し黙っていた沙苗の絞り出すような断末魔の声に、ハルトは彼女の存在を再認識した。
車を降りるや否や、沙苗はお手洗いの方向へと一目散に駆け出して行った。そのぎこちなく小走りする後ろ姿に、ハルトは口を歪めて鼻をフッと鳴らし、笑いを抑えた。
ゆったりとした足取りで、沙苗の後を追う。
談笑する革ジャン姿のライダーたち。スマホを掲げ、自撮りに夢中なカップル。老夫婦の連れている小型犬に駆け寄り、"お手"を促す幼い兄妹。
ハルトの目に映る全ての光景が、肌寒さを和らげてくれる温もりを持っていた。
だが何故か、胸に微かなざわつきを覚えた。
いや、"何故だか"でも"覚えた"でもない。
それはハルト自身が創り上げた、フィルター越しの自己防衛の感情だ。
ハルトはキツく目を閉じた。
軽やかな笑い声や、時折聞こえる感嘆。漂ってくる焼きとうもろこしの匂い。
それらが遠い記憶の断片と混ざり合い、一つの黒い塊となって背後から手招きしてくる。
(やめてくれ……)
声に出さずとも、ハッキリとした意思表示を突きつけた。
その瞬間——
「お待たせ〜」
沙苗の声が、ハルトの背後をクリアにし、"現在"(いま)に連れ戻した。
キツく閉じていた瞼を開けて振り返ると、ぎこちないキャットウォークでこちらへ向かってくる沙苗がいた。
ハルトはその姿に、ついさっきの小走りでお手洗いへ向かう沙苗を重ねた。
そのギャップにたまらず吹き出した。
「……ははっ、あはははは!」
ハルトは躊躇いなく声をあげて笑った。
まるで、さっきまで背後に居た黒い塊に見せつけるように。
「え……なに?」
いきなり高笑いを始めたハルトを見て、沙苗は怪訝そうな表情を浮かべた。
ひとしきり笑い終えたハルトは、一呼吸置き、穏やかな声で言った。
「ありがとう」
目元を緩ませ、穏やかな表情で微笑む。
すると、沙苗は弾かれたように目を丸くし、そのままハルトを凝視した。
沙苗は何かを言いかけたが、すぐに視線を泳がせた。
「……『ありがとう』って、なによ。意味わかんない」
沙苗は急に顔を赤らめ、誤魔化すようにそっぽを向いた。
ハルトはこの大観峰を、新たな場所にしたかった。
——何でもない女と来た、特に何でもない場所——
童貞をネタに、名前も知らない女から突然ドライブに誘われた時には、肝を冷やした。だが、降って湧いた好機だと捉えなおし、今日のドライブを決行した。
謂わば、互いにとっての"利用"だった。
何でもない場所。
——その瞬間(とき)までは、確かにそうだった。
———
突風に煽られ、沙苗の"ふりふりスカート"が派手に捲れ上がった。
「キャッ!」
咄嗟に両手でスカートを押さえる沙苗。その様を見て、ハルトは父親に何度も見せられた古い映画のワンシーンが浮かんだ。
地下鉄の通気口の上で白いスカートをなびかせる、あの有名なハリウッド女優の姿だ。
「ププッピドゥ……」
つい口をついて出たハルトの呟きに
、沙苗は首を傾げた。と、同時に大きなくしゃみを一つ。
身震いしながら沙苗は両腕で自分を抱きしめた。
ハルトは小さく息を吐いて、自分のトレーナーを摘んだ。
(これ、脱ぐわけにいかないしな)
沙苗をベンチに促し、ハルトは自販機で買ってきたホットカフェオレを沙苗に手渡した。
温かい缶を両手で包む沙苗の表情が、少し和らいだように見えた。
ハルトは沙苗の前にかがみ、ピンヒールのパンプスをじっと見ると、躊躇いもなく手を伸ばした。
「ちょ、ちょっとなに!?」
戸惑う声を無視してパンプスを脱がせると、「すぐ戻るから」そう言い残し、それを持ったまま駐車場へと足早に引き返した。
数分後、ハルトは後部座席に放り込んであった「あのダサいジャンバー」と、クロックスを抱えて戻ってきた。
ベンチで裸足をぶらつかせ、心細そうに待っていた沙苗が、ハルトの姿を見て顔を輝かせた——が、その手に持たれたアイテムを見るなり、一転して絶望の色を浮かべた。
「……嘘でしょ」
「はい」
沙苗の足元にクロックスを置き、ジャンバーを差し出すハルト。
「いやいや、こんなの着ちゃったらせっかくのコーデが——」
拒絶を遮るように、ハルトは沙苗の肩へ強引にジャンバーを羽織らせた。
「風邪でもひかれたら迷惑だし」
有無を言わせぬ真っ直ぐな視線。沙苗は一瞬気圧されたように口を噤むと、真っ赤な顔をしてジャンバーの襟元を掴んだ。
※ ※ ※
展望所へと続く遊歩道。
遮るものもない開けた場所で、からかうように風が沙苗の髪を踊らせている。
「ヤダッ! 待って〜!」
突然の強風が、沙苗の“女優帽”を奪い取り、空へと放り投げた。
沙苗の悲鳴を背に、ハルトは帽子の行くえを目で追った。
その視界に入り込んだシルエットに、ハルトの意識は一瞬で引き寄せられた。
——世界の音が、ふっと消えた。
頬を撫でながら風になびく、艶やかな長い黒髪。
凛とした佇まいだが、その横顔には、どこか寂しさが滲んでいる。
黒のレザースーツとのコントラストが映える白い肌は、今にも消え入りそうな儚さを感じずにはいられない。
目前に広がる阿蘇の雄大で美しい景色でさえ、ハルトにはまるで彼女の為に用意された舞台背景のように感じた。
——映画のワンシーンのような、切り取られた絵画のような——
ハルトは釘付けになった。
会ったこともない。
これから会うはずもない誰か。
なのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような、チクリとした痛みが走る。
沙苗が帽子を追いかけて騒ぐ声も、吹き荒れる風の音も、ハルトにはもう届かなかった。
ただ、微かに聞こえる得体の知れないの鼓動を、ハルトは無視出来ずにいた——。
———
夕凪は腰まで届きそうな黒髪を一つに束ねながら、意気揚々と展望所へ、売店へと向かう人々のざわめきを背に、駐車場へと引き返した。
遠目にも目立つワインレッドのCBRに歩み寄ると、おもむろにシートに跨った。
手慣れた手順でエンジンを始動させると、馴染んだ音と振動が瞬時に身体を包んだ。
束ねたロングヘアをフルフェイスに収める。
途端に周囲の喧騒は消え失せ、ほっとした安堵感と、走行へ向けての少しの緊張感が交差する。
グローブをはめクラッチに指をかけた瞬間、夕凪の脳裏を"見知らぬ"男性の顔がよぎった。
ハルトの顔だ。
——顔。
いや、あの目だ。
親しみのあるような、何処か懐かしいような——。
それが何なのか、何故なのか。
夕凪はふぅっと小さく息を吐き出した。スモークシールドにかかる白いもやが一瞬、視界を濁した。
夕凪は深い思考に陥るのを制止するように、シールドを下ろした。
高く澄んだ空を見上げ、アクセルをゆっくりと開け、夕凪のCBRは大観峰を背に走り出した。
※ ※ ※
『現在、高速道路・一般道ともに大きな混雑は見られませんが、
夕方にかけては、行楽帰りの車で混雑が予想されています』
交通状況のアナウンスが、静まり返った車内に流れる。
裸足の足首をさすりながら、沙苗は小さくため息を漏らした。
その様子を横目に、ハルトは一番近くのSAに向けて車を走らせた。
※ ※ ※
売店で買った湿布を手に車に戻って来たハルトは、運転席に座り、それを沙苗の膝に置いた。
「——アリガト」
封を切り、取り出した湿布を左足首に貼り付ける沙苗。
車は駐車場からゆっくりと走り出し、加速車線から本線へと滑り込むと、大分市内へ向けてスピードを上げていった。
※ ※ ※
控えめなスピードで前方を走る大型車。ハルトはそれを追い越そうと、バックミラーに目をやった。
映り込んだのは、赤いCBR。
ハルトがウィンカーを出すより早く、追い越し車線を夕凪のバイクがスピードを上げ、一気に通り過ぎた。
その後ろ姿の女性らしいフォルム、黒のレザースーツ。
ハルトは大観峰の女だと認識した。
咄嗟にナンバーに目をやる。
『184』
追いかけるように、ハルトも車線を変えた——が、夕凪のバイクはみるみる遠ざかって行った。
『イワシ』
そんな呟きに耳を傾ける沙苗。
(今晩はオヤジとイワシだな)
———
灯りのついていない提灯と看板。暖簾は仕舞われている。
日曜で定休日の『こいき』の店内からは、店主・谷山のしゃがれた声が漏れ聞こえている。
「日曜の夜にむさくるしいオヤジと二人で晩酌かぁ。ハルト! お前のイケメンがカビるぞ」
かっぷくのいい白髪頭の谷山が、腕組みをしながらハルトをはやし立てる。
「むさくるしいオヤジはお前もだろ、谷山。むしろ俺は"イケオジ"だ」
ハルトを差し置いて、父親の郁人(ふみと)が割って入る。
白髪は混じっているが、60近い年齢の割には若く見える方だ。
郁人はお猪口の日本酒を呷り、天井の隅を見やった。
形を崩した蜘蛛の巣が垂れ下がり、暖房の微かな風に小さく揺れている。
「店と共にお前もくたびれたもんだな」
「おっ!? 言うじゃねえか。美人とのデートをほっぽらかして、この休みに店を開けてやったってのに」
「谷山さん、すいません。無理を言って」
小上がりで胡座をかいていたハルトは、慌てて正座に体勢を整えた。
「同級生の腐れ縁だ。気にするな」
「ありがとうございます」
「今度は綺麗なおネエちゃんと来いよ、ハルト」
太鼓腹をポンッとひと叩きし、谷山は厨房へと向かった。
一瞬立ち止まり、ひなびた木のカウンターのヒビ割れを、そっと手の平で撫で、目を細めた。
そのまま厨房へまわり込み、ギシッという音を立てながら丸椅子に腰を下ろした。
小上がりでは、郁人がイワシフライを口に運ぶ。
衣がサクッと音を立てる。ゆっくりと噛み締め、口いっぱいに広がった風味を鼻にもくぐらせ、飲み込む。
うん、うんと一人頷く。
「店主はさておき、ここのイワシは絶品だ」
その瞬間、聞こえてるぞと言わんばかりの咳払いが、厨房から飛んできた。
気にも止めず、郁人が続ける。
「イワシ嫌いのお前が、ここのだけは際限なく食うんだからな」
「際限なく……ん、まぁ」
訂正するほどの嘘でもないので、ハルトはイワシの刺身と一緒に言葉を飲み込んだ。
付けすぎたワサビがツンと鼻にきて、眉間にシワを寄せた。
その様子に、郁人の目尻がフッと下がった。
「しかし、お前からここに来ようってのはいつぶりだろうな」
徳利の酒をお猪口に注ぎながら郁人が言う。
ハルトは大観峰帰りの『184』のナンバープレートを思い浮かべた。
「イワシが走ってた」
「あん?」
「イヤ、大観峰……」
「ん?」
「行ってきたんだ。今日」
「……そうか」
お猪口を口に運ぶ郁人の手が一瞬止まったが、一気に呷った。
郁人につられるように、ハルトもグラスに注がれた泡の消えたビールを飲み干した。
※ ※ ※
——十一年前。季節はちょうどクリスマスを目前に控えた、十二月半ば過ぎだったろうか。
高校を卒業後、地元大分の企業に就職。ハルトには社会人二年目の冬だった。
仕事を終え、普段通り大分駅に向かった。
下りの電車に乗り、二つ駅隣の高城で降りる。
いつもの帰り道。いつもと変わらない景色。
今日は一段と冷える。
雪までは降らなさそうだが、まだ早いだろうと、冬物のアウターを着なかったことを後悔した。
去年、母親の美里が選んだものだ。
もう子供じゃないんだから自分のものくらい自分で選ばせてくれ。
いっぱしの口を叩いたあと、ついこの間まで、生活の殆どを母親の世話になっていながらと、妙に気恥ずかしさを覚えた。
その時の母親の、寂しいような、嬉しさの滲むような表情。
ハルトはふと、そんなことを思い出していた。
「マジで寒っ!」
こんな日はシチューだとありがたい。
そんな期待を胸に、ハルトは母親の手料理の待つ家路を足早に歩き出した。
※ ※ ※
いつも通り、鍵のかかっていない玄関ドアを開けると、廊下の向こう、扉の開いたリビングから、シチューの匂いが漂ってきた。
「ラッキー!」
期待通りの夕飯に、ただいまより先に喜びの声が口を突いて出た。
手洗いもそこそこに、ハルトは洗面所からシチュー目がけてキッチンへと向かった。
ガスコンロの上の鍋が目に入り、ハルトの口元がふっとゆるむ。
「ただいま!」
誰もいないリビングに、ハルトの声が響く。
ついたままのテレビからは、母親が毎週欠かさず見ているドラマが流れている。
確か先週、来週は最終回だからと楽しみな様子で言っていた。
シチューの匂いに混じって、むせ返るような苦い臭いがハルトの鼻をかすめた。
テーブル上の灰皿の端で、タバコが"まだ"煙をくすぶらせている。
——何かがおかしい。
それは帰宅直後、既に感じていたはずだった。
ハルトは玄関へ引き返した。
いつもそこにあるはずの母親の靴も、父親の靴も見当たらない。
得体の知れないざわめきが胸をよぎった。
ハルトはその場から動けずに、暫く立ち尽くしていた。
「こんな時間に……二人、で何を買い忘れ、たんだか」
ざわめきが心臓の鼓動をせき立てるのを、必死でとめようとする。
——ドンッ!
玄関ドアに何かがぶつかる音がした。
「——おかえり!」
呼吸をするのを思い出したかのように、ハルトは大きく息を吸い込んだ。
その息を吐き出しながら、玄関越しに話しかける。
「二人してどこに行って——」
ドアを開けようと押すが、動かない。
「?」
覗き穴から外を見るが、何も見えない。
次の瞬間ドアが開き、郁人の姿がそこにあった。
一瞬緩んだハルトの顔が、そのまま固まった。
立っているんじゃない。
立ち尽くしている。
虚な視線はどこにも焦点を結んでいない。
「……父さん? 母さん——」
「お母さんは……もう帰ってこない。きっと……」
郁人はその場に崩れ落ちるように、膝をついた。
「何? 何があったんだよ? どういうこと!?」
郁人の肩を両手で揺さぶるが、力無くされるがままだ。
これ以上、聞いても無駄だ。
そんな諦めより、聞くのが怖かった。
ハルトは背中越しにぽつりと呟く父親の言葉を拾おうともせず、テレビの音に吸い寄せられるように歩き出した。
後から思えばその呟きは、「ごめん」だったような、「お父さんのせいだ」だったような——。
途方もなく感じられた廊下の先で、テレビドラマの主人公とヒロインが抱き合って泣いている。
なんて陳腐な演出だと思いながら、ハルトは今になって気づいた。
——イヤ、思い出した。
この主人公が、いつか母親が親しげに話していた男と似ている、と。
だからなんだって言うんだ。
テレビから視線を外したハルトは、壁に掛かったカレンダーに目をやった。
太く大きな赤い○が描かれている。
季節が変わるごとに家族で訪れる、恒例となった大観峰へのドライブ。
予定は次の日曜だった。
意味を無くした赤い○が、食い入るようにこちらを見つめている。
テレビから流れている泣き声と、遠く玄関から聞こえてくる嗚咽とが混じり合う。
シチューの甘い匂いは変わらずだが、その温もりはとうに失われてるだろう。
ハルトは大観峰の石碑前で微笑む家族写真を、気が遠くなるような時間ただ見つめていた。
※ ※ ※
——11年間。
父と息子、二人で生きてきた。
いつからだろう。自分でも気づかぬ間に「お父さん」から呼び名が変わっていた。
オレが大人になったからか、それとも父親の白髪が目立つ様になり、心なしか肩が小さくなったが、その割に腹は出てきた。
そんな『オヤジ』と呼ぶに相応しい見た目になったからなのか、分からないが。
「俺も行ってみるかな。大観峰」
郁人が胡座を組み直して言う。
「来週にでもどうだ? ハルト」
「は? なんでオレとなんだよ」
「なんでって……なんでだ?」
「なんでだ? ってソレは——、イヤ、オレが聞いてんの!」
空になった郁人のお猪口に酒を注ぎながら、ハルトが続ける。
「居ないの? ……誰か」
「誰かって、誰が?」
「だから!!」
ハルトの思いも寄らぬ大声に、郁人は少々面食らった。
ハルトのグラスにビールを注ごうと、瓶に手を掛けた郁人だが、ハルトに取り上げられた。
宙に浮いた手の持って行きどころに困り、仕方なく頭を掻いてみせた。
ハルトは手酌のビールをぐいっと呑んだ。
「ずっと一人ってワケには……いかないだろ」
責めるでも、慰めるでもない口調で、伏し目がちにハルトは言う。
まるで独り言のように。
「ワッハッハ!」
ハルトはその豪快な笑い声に驚いて顔を上げた。
声の主は間違いなく郁人だった。
(そんな笑い方したことないだろ)
(酔うと人格変わるタイプだったか?)
そうじゃないことは理解している。
「ハルト。お前は知らないだろうが、こう見えて俺はなかなかモテるんだぞ。去年のバレンタインなんかにはチョコが三つ。三つだぞ!」
「経理のおつぼね、清掃員のバアさん、一つはうちの嫁。全部義理チョコじゃねーか」
新聞を広げた谷山が厨房から茶々を飛ばす。
「チッ」
小さく舌打ちして、郁人は谷山を一睨みした。
「とにかくだ。その気になればいつだって、その、"第二の人生"ってヤツを手に入れることは、ワケないんだよ」
11年間、やもめ暮らしの父親の淡々とした口調に、半ば苛立ちを覚える息子。
「もっと真剣に考えろよ」
つい、偉そうな言葉が口を突いて出た。
「……分かった、分かった。 この話は終いだ。それより、お前はどうなんだ? 彼女くらいいるんだろ? 会社の子か? まさか、水商売じゃないだろうな? やめとけよ——」
「オレの事はいいんだよ!!」
矢継ぎ早にまくしたてる郁人をハルトが遮った。
「……まぁ、そうか……。そうだよな、俺に似て男前だからな。お前は」
「……似てねーよ、オレは——オレはじいちゃん似だよ」
今でも鮮明に浮かび上がる母親の顔を、遠くへ追いやるように、ハルトは答えた。
親戚から、近所のおばさん達から、口々に言われてきた。
『本当にお母さん似だね』
残りのビールを飲み干して、ハルトはポツリと、だが想いを込めて言う。
「幸せになってもらいたいんだ」
正面からまっすぐ郁人の目を見た。
こんな眼差しを向けたのは、初めてかもしれない。
郁人にとってもそうだ。
ハルトの真剣な眼差しに、『親と子』という肩書きが揺らぐような感覚を覚えた。
一瞬、思わず視線を逸らしたが、すぐさまハルトに視線を戻した。
「……お前そんな、そんな台詞はアレだ、逆だろ! ふつうは親が子供に言うもんだろ」
上ずってしまう声に不甲斐なさを覚えながらも、郁人はどうにか威厳を保とうとした。
それすら見透かされてるように感じる息子の視線に、郁人はたじろぐしかない。
「オヤジには、幸せになってもらわなきゃ困るんだよ」
「……」
——ジタバタ劇も、ここまでだ——
「……親に向かって……幸せになって……生意気に」
郁人は目を閉じ、膝の上の左手で太ももをぐっと押し付ける。
喉の奥にせり上がる熱を、無理やり堪えるように。
次の瞬間、ドンッという音を立て、ハルトと郁人が囲む卓上に、一升瓶が置かれた。
ぐらついて倒れそうになる徳利を、慌ててハルトが掴んだ。
谷山だった。
先程まで厨房で煙草を吸っていたその谷山が、傍で目を潤ませて仁王立ちしている。
「呑むぞ!! 今夜はとことん呑み明かすぞ!」
しゃがれ声を張り上げ、ドカッと小上がりに座り込んだ谷山は、伏せてあったグラスに酒を注ぎはじめた。
「酒とイワシと親父と息子。 こんなめでてえ日があるか!」
「意味が分からんよ」
郁人が少し呆れたように笑う。
「しのごの言うな! ほら!」
谷山は残りのグラスに酒を注ぎ、郁人とハルトに差し出す。
「ヨシッ! 乾杯だ」
「——乾杯……しましょう!」
グラスを持つハルトに促され、郁人もグラスを手にした。
三つのグラスが合わさる軽やかな音が、ハルトの耳に微かな余韻を残した。
すっかりとばりが降りた店の外。
冷たい空気の中、店内から漏れる談笑の声が、夜空に吸い込まれていった。
———
シャッター音と共に、次々と表情、ポーズを変えていく夕凪。
「さながら、真紅のドレスを纏ったご令嬢ね」
「うん、うん。ピッタリだわ」
カメラマンの背後、スタジオに設置された大きな傘の脇で、アシスタント達からため息が漏れる。
「こんな田舎じゃ宝の持ち腐れだよ」
「イヤイヤ。そろそろ大手からスカウト来ちゃうんじゃない?」
「それ、断ったらしいよ。夕凪」
後ろから別のスタッフがヒョッコリ顔を覗かせた。
「うっそー!?」
「どうしてよ?」
「ん〜……、『真意の程は定かではない』なんだけど」
「なになに?? 勿体ぶって」
三人は身を寄せ合い、カメラマンと夕凪を盗み見るように視線を向けた。
更に声をひそめ、続ける。
「いつの間に!?」
「さぁね〜」
「でも、なんか分かるわ」
「?」
「?」
「夕凪ってさ……、よく言えばミステリアスだけど、何考えてんだかイマイチ……」
「まぁ、そうだけど。それがなんなのよ?」
「バカね! 男って意外とそういう謎めいた女に惹かれたりすんのよ」
「あっ! なるほどね〜。たぶらかされたってこと、佐伯さん」
「シッ! 聞こえちゃうじゃない」
「給料泥棒三姉妹! 仕事しなさい!」
パン、パンッ! と手を叩きながらモデル事務所社長の岩下が入ってきた。
「お疲れ様です!!」
三人は慌てて背筋を伸ばした。
「社長、私たち姉妹じゃありませんよ」
そう返した見習いに、先輩がすかさず被せる。
「アンタ! ほんとバカね」
岩下は柔らかい表情を浮かべ、眼鏡の赤いフレームをクイッと指で押し上げた。
そのレンズの奥で、夕凪を熱く見つめた後、視線をふっと緩めた。
「こっちが降りるしかない……か」
ため息混じりにこぼした。
「じゃあ宜しくね」
「アレ? 社長、もう行っちゃうんですか?」
「クライアントとお茶よ」
軽く手を上げ、踵を返して去っていく岩下。
その様はしなやかで、元モデルの面影を残していた。
三人は高揚のため息と共に、その後ろ姿を見送った。
「ね、今夜の合コン、そのミステリアス使えるかな?」
「誰でもってワケじゃないのよ。夕凪みたいな美人限定ね」
「アンタはいつものヒステリアスでいきなさい」
「ちょっと何よソレ!! 酷くない!?」
「ソレよソレ」
思いの外、大きく響いた笑い声に反応してか、カメラマンの佐伯が声を飛ばす。
「おーい! 次、ストロボ撮影いくから、照明落として。全部」
「全部?……ですか?」
その指示に少しの違和感を感じた1人が聞き返した。
「そうだ」
違和感は拭えないが、言われるがまま、全部の照明のスイッチをオフにした。
カチッという乾いた音と入れ替わりに、
ほとんどの視界を奪われた暗いスタジオ。
夕凪の身体が、瞬時に感覚を研ぎ澄ます。
次の瞬間、音も立てずに気配だけが、夕凪の前に立ち塞がった。
背筋を、スゥーッと水が滑り落ちるような、冷たい感覚が囚えた。
髪をアップにして露わになっているうなじに、明らかに意思をもって触れた感触。
——佐伯の指だ。
夕凪は咄嗟に身を交わした。
すぐに気配は消え、先ほどと同じ"適切な"距離で、声が天井に放られた。
「悪い! ここだけ戻して」
「あ、ハイ!」
再び、夕凪の頭上に照明が灯された。
訝しげに佐伯の顔を見る夕凪だが、その表情には、憤りや恐怖は微塵もない。
——まるで仮面のようだ。
「目線を少し右に」
ファインダー越しに夕凪を捕らえ、誘導する佐伯。
だが、夕凪は佐伯から視線を外さない。
「……どうした?」
佐伯の言葉を合図に、夕凪は視線を右に泳がせた。
※ ※ ※
「お疲れ様でしたー!」
スタッフ達が談笑しながら、散り散りに引けていく。
「ありがとうございました」
夕凪は軽い会釈をし、佐伯の横を通り過ぎようとした。
「夕凪! 悪いんだけど」
「——はい?」
「撮り忘れたアングルあってさ。時間取らせないから、頼む」
夕凪のうなじに、先程の感触が微かに再現された。
「……分かりました」
「じゃあ、カメラに背を向けて、両手で自分の肩を包み込むようにして。目線は遠くに」
指示通りにポーズをとる夕凪。
「そうだな。もっと……」
背後に近づく佐伯の声と気配。
「こう、寄せて——」
"あの指"が這うように、夕凪の背中の稜線をなぞった。
夕凪は咄嗟に振り向き様、佐伯の手を払った。
カメラが佐伯の手から滑り落ち、床に不穏な衝撃音を立てた。
——沈黙と静寂が、不協和音のように鳴り響いた——
「チッ!」
佐伯の目が、鋭く夕凪を刺す。
「要領の悪い女だな!
俺に委ねとくのが得策なんだよ!」
夕凪は佐伯から視線を逸らさないまま、静かに横を通り過ぎた。
「オマエ、この世界で上がってきたいんだろ?」
背後から、焦りを孕んだ声が投げかけられる。
夕凪は背中を向けたまま、軽く空を仰いだ。
夕凪の深く息を吸う音だけが、静まり返ったスタジオの空気を揺らす。
一呼吸置いて、
躊躇いもなく、夕凪は背中のジッパーを下ろした。
真っ赤なドレスの下、露わになった透き通るような白い肌。
「——!!」
佐伯の目が釘付けになる。
背中の広範囲に及ぶ、萎んだ花のように歪んだ痕。
「別に」
その一言が、夕凪の突きつけた終止符だった。
「お疲れ様でした」
夕凪は振り返ることなく、佐伯から遠ざかって行った。
扉を開け、次のステージへと進む。
そんな足取りで——。
———
——まだ灯りのついていない、JOE's BARの看板——
「オッパイちゃんと!?」
煌々と照明だけが灯る、BGMさえ流れていない店内に、
林田のすっとんきょうな声が響く。
「誰のせいだよ!?」
ハルトが林田を一睨みし、ため息混じりにこぼす。
「……んっとに。
酔ってこんなとこでつい口を滑らせたのが運の尽き……」
カウンターの端で、ハルトは両肘をつき、肩をすくめる。
「おいおい、君。今、『こんなとこ』っつったかね?」
カウンターの中で、咥え煙草の東海林がシャツの袖をめくりながら、突っ込む。
「あ、いえマスター。そーいうことじゃ——」
ハルトは慌てて取り繕う。
「そのまんまよ。ね?」
店の奥からカーテンをめくり、凛花が髪を結いながら、微笑混じりに声をかけた。
「今日もキレイっす! 凛花さん」
林田が、色目きたったように声を上げる。
「ありがとう」
余裕の笑みを浮かべる凛花。
「ところでその『おっぱいちゃん』と何かあったの? ハルトくん」
棚に陳列してある山崎のボトルに手を伸ばし、凛花が聞く。
「えっ? ……あ、ハイ、まぁ……」
「先輩、うちのテナントビルで噂の巨乳とデートしたんスよ」
「デートじゃない! だいたいオマエの軽口のせいで成り行き上、仕方なくだ」
「わざとじゃないんスよ。デカい独り言を喫煙所でつい漏らしたら、後ろにおっぱいちゃんが——」
「君達、お下品だね〜。 オッパイだのボインだの。
品行方正な僕からしたら、耳を塞ぎたくなるね」
煙草を灰皿に押し付けながら、東海林が言う。
「そのボインとばかり付き合ってきたのは、どこの誰かしらね」
ボトルを拭き上げながら、凛花が東海林を一蹴した。
「イヤ〜、そうとも限らないかと……」
凛花の上半身をジッと見る東海林。
「失礼ね」
手にしたアルコールスプレーの吹き出し口を、東海林に向ける凛花。
「やめなさい!」
凛花の威圧を両手で防御する東海林。
「で、先輩。どうでした?」
「何が?」
「大観峰までの密室にオッパイですよ?」
「変態か!? オマエは」
思わず立ち上がり、ハルトは声を荒げた。
「サイズ感は?」
気にも止めず、林田が聞く。
「知らん! オレの背中に聞いてくれ」
「背中? ……ハ?」
額に手を当てうなだれているハルトの背中に、林田が首を傾げながら手をあてた。
「ついでに聞きますけど、先輩」
「あん?」
「なんで未だに童貞なんスか?」
「あんっ!?」
ハルトは背後の林田を振り返り見る。
「イケメンがゆえに謎なんスよね」
訝しげにハルトを見る林田。
「まさか、そっちのけが——」
「ポリシーなんだよ。オレの」
背中に当てている林田の手を振りほどいて、ハルトは反論した。
「……ナニ言ってんスか。イミフっス」
「いーよ別に。オマエには分からなくて」
小さなため息と共に、ハルトは腰を下ろした。
「お前ら、バカ話もここまでだ。しっかり金落としてけよ〜」
腰を上げた東海林が、天然パーマの髪を整えながら言う。
「イヤな言い方。だから『こんなとこ』なのよ。
マスターもしっかり働いてちょうだいね』
「ハイ、ハイ。働きますとも」
腰に手を当て、首を左右にポキポキと傾けた東海林が、照明スイッチを操作する。
煌々とした明かりと入れ替わりに、琥珀色のダウンライトが灯された。
凛花の細い指先で、レコード盤に針がそっと落とされる。
ピアノ、ベース、ドラムの旋律が、しっとりと店内を満たしていく。
喧騒から逃れ、ひとときの非日常へと滑りこむ扉。
——看板に明かりが点き、JOE’s BARの夜が始まった——。
———
アパートの駐輪場で、ブルゾンにジーンズ姿の夕凪が、CBRを入念に点検していた。
ウインカー、ブレーキランプも異常なし。
シート上のヘルメットに手を伸ばしかけて、ハッとした表情を浮かべた。
その途端、夕凪はアパートニ階の自室へと引き返した。
再び戻ってきた彼女の腕には、もう一つのヘルメットが抱えられている。
そのヘルメットを、愛おしそうにポンポンと軽く叩いて、後部座席のボックスに仕舞った。
※ ※ ※
佐伯インターを降り、大入島の姿が見えてきた。
大分市内を出発した頃、雲が低く垂れ込めていた空は、南へ下るにつれてその様相を変えていった。
シールドを上げ、秋特有の高く澄んだ空を見上げた。
潮の香りが鼻腔をかすめる。
夕凪はアクセルを一気に開けて、海岸沿いの道を加速した。
※ ※ ※
昭和の面影を色濃く残した平屋。
その古風な佇まいから、『高橋』のタイル素材の表札だけが、浮いて出たように目を引いている。
引き戸の玄関の脇にある牛乳受け箱には、割り箸の先に固定した、ラミネートされたメッセージカードがある。
幼い子供の字で『いつもありがとうございます。』と書かれている。
玄関を挟んだ両脇に、派手さはないが、しっかりと手入れされた花壇があり、家主家族の温厚な人柄を滲ませているようだ。
低く唸る排気音と共に、夕凪のCBRが高橋宅の前に滑り込み、静かに停車した。
夕凪がヘルメットを脱ぐや否や、玄関の引き戸がガラッと勢いよく開き、駿が弾むような足取りで夕凪に駆け寄ってきた。
「夕凪ねえちゃん! 晴れるって言ったじゃん! ねっ」
二ヶ月前に会った時と変わらず、元気いっぱいに駿が言う。
駿は同じ小学五年の子供に比べて小柄で、やや幼い印象を与える。
以前、髙橋家を訪問してきた教育関係の営業マンに、『ぼくは三年生くらいかな?』と言われた時には、無言で戸をピシャリと閉め、鍵まで掛けたらしい。
「駿は『晴れ男』だもんね」
夕凪は黒くツヤツヤとした駿のおかっぱ頭を、くしゃくしゃと撫でたい衝動に駆られたが、抑えた。
最近の駿は『ぼく子供じゃないし』が口癖らしい。
先日、夕凪の伯母・孝子が電話口で言っていた。
「駿、これ着らんね!」
駿のジャンバーを手に、孝子がつっかけを履きながら声を掛けてきた。
「孝子おばちゃん、元気だった?」
「あん、あん。もうね〜、元気だけが取り柄の五十代よ」
そう言って、孝子はジャンバーを着せようと、駿の背中にまわった。
駿は慌てて孝子からジャンバーを奪い、自分で着た。
「あぁ、そうやったね」
孝子は少し困ったように笑ってみせた。玄関に戻り、土間に置いてある小さな風呂敷包みを手に取り、夕凪に手渡した。
「小腹の足しにね」
「ありがとう。孝子おばちゃん」
「夕凪ねえちゃん、行こっ!」
意気揚々とした駿の声に急かされ、夕凪はボックスからヘルメットを取り出し、駿に手渡した。
ヘルメットを被った駿は頭でっかちになって、さらに小柄な身体を際立たせた。
「宇宙人みたいやね」
孝子の呟きは、ヘルメットのお陰で駿の耳には届かなかったらしい。
夕凪だけがクスリと笑った。
ヘルメットのアゴ紐に手こずっている駿に代わって、夕凪が装着を終えた。
ヘルメットを前後左右に動かし、ズレがない事を確認して、「ヨシッ」と夕凪は宇宙人の頭をぽんっと一叩きした。
「行ってきます!」
飛び乗るようにしてリアシートに座り、孝子に手を振る駿。
「落ちんようにね」
孝子の言葉を合図に、夕凪はバイクを走らせた。
※ ※ ※
午後二時の波当津海岸。
夏の肌を焦がすような日差しと、人々の笑い声は泡沫となり、今はただ、寄せては返す波の音が静寂を際立たせている。
「海ーっ!」
波打ち際目掛けて走り寄る駿の甲高い声が、静けさの中を突き抜けていった。
人気はなく、風は微かに冷たいが、日差しは暖かい。
駿の明るい声に釣られ、夕凪もその空気に気づいた。
孝子にもらった包みを手に、夕凪はゆっくりと白い砂を踏みしめながら、駿の後に続いた。
腰を下ろした視線の先には、水平線と一体化したような群青の空。
その空の下、駿が波打ち際で追ったり追われたり、無邪気に波と戯れている。
そっと目を閉じると、あの頃と変わらない波音が、夕凪の遠い記憶を連れてくる——。
※ ※ ※
明るく笑う母が居た。父も居た。
夕凪が幼少の頃から、母親の生家のある佐伯のここ、波当津海岸に、三人でよく訪れていた。
どこにでも居る普通の家族。仲のいい夫婦だった。
そう思っていたのは、何も知らなかったのは、自分だけだったのだろうか。
"あの頃の"夕凪は、そんな堂々巡りの思考に押し潰されそうになりながら、日々を過ごしていた。
——突然だった。
高校二年だった夕凪が学校から帰宅すると、赤ん坊の駿が居た。
持ち運び用のベビーベッドの中、毛布に包まれスヤスヤと眠っている赤ん坊。
訳が分からず歩み寄った夕凪は、その愛らしい姿に胸がトクンとなり、微笑みが溢れた。
茶の間に視線を移すと、まるで金縛りにあったように項垂れている母親が居た。
片方の手は力無くだらんと垂れ下がり、もう片方のテーブルに置かれた手の横には、膨らみのある茶封筒と、便箋とが折り重なっている。
声をかけるのも躊躇われるような気配に、夕凪は自分の全身が凍りつくのを感じた。
——ふと、父親の顔が浮かんだ。
出張だと言い、一週間ほど前に家を出たきりの父。
いつも土産は何がいいかと聞いてくる父が、それを尋ねもせず、背中を向けたまま出ていった。
何故か遠くに感じたその背中を、夕凪は今になって思い出した。
スヤスヤと眠る駿の横に腰を下ろし、夕凪はその生命の尊さだけを真っ直ぐに見つめた。
他には何も考えないようにして——。
※ ※ ※
「夕凪ねえちゃん! 今の見た?」
海を指差しながら、嬉しそうに駿が夕凪を振り返る。
水面に投げた小石が、三回跳ねて沈んだところだった。
「——ごめん」
「もう……。見ててよ」
ガッカリした表情を一瞬見せたが、駿は新たに小石を探し、一つ、二つと拾い集めた。
「えいっ!」
小さな体を大きく後ろにそり返し、水面目がけて思いきり小石を投げた。
「あ〜……」
駿は何度も"水切り"をやってみせるが、上手くいかない。
その様子を、まるで夏の夕凪のような穏やかな表情で見つめる夕凪。
「うん。見てるよ。ずーっと——」
小さく呟いた。
※ ※ ※
太陽が西に傾き、一日の終わりを告げるように、柔らかな光が空と海を黄金色に染め始めた。
駿は海辺を散歩していたゴールデンレトリバーとひとしきり遊び、別れの手を振った。
その様子を見守る夕凪に呼応するように、駿も笑顔で歩み寄った。
夕凪の前で立ち止まり、その足元に何かを見つけて、駿はしゃがみ込んだ。
砂に埋もれかけていた、白い貝。それを拾い上げた。
「これ、海の音がするんだよ!」
夕凪を見上げ、自慢げに言う駿。
「そうなんだ——」
言いかけて、夕凪はハッとした。
あの男性——大観峰での一瞬の視線の交わり——と、駿とが重なった。
「ほら!」
耳に当てて、『海の音』を聞いていた駿が、夕凪に貝を手渡した。
「……うん」
夕凪も貝を耳に当ててみた。
サァ〜ッという波のような。
遠くで、何かが静かに引いていく、そしてまた、寄せてくるような。
その音を聴きながら、夕凪は目を閉じてみた。
風に運ばれてきたハットを、足元から拾い上げたあの顔、あの目が鮮明に思い出される。
あの瞬間。
ほんの刹那だったが、何故男から目が離せなかったのか。
駿を思い出したから?
夕凪は、その事に間違いはないと理解している。
でも、それだけではない気がする。
遠ざかって行く男と女。
その後ろ姿を見ながら、胸を撫でた名前のない感情は——。
「夕凪姉ちゃん?」
駿の呼びかけにハッと我に返った。
「——ほんとだ。海の音がする」
「……あげる!」
「え? いいよ。駿が持って帰りな」
「いいから、いいから」
「……うん。ありがと」
波打ち際へと、二つの影が長く伸びている。
振り返ると、夕陽が山の端に沈みかけようとしていた。
ふいに、駿が夕凪の手を取った。
夕凪はその小さな手を優しく握り返した。
眩しいオレンジの夕陽に向かって、二人は駐車場へと歩き出した。
※ ※ ※
浴室の立ち籠る湯気の中、夕凪はシャワーの、背中を叩く水音に耳を澄ませていた。
その背中には、まるで熱風に煽られて、一瞬で生命を奪われた花のような痕。
指で触れる度、『十一年前の記憶』が鮮烈に浮かび上がる。
夕凪は目を閉じた。
※ ※ ※
駿のミルクを作るために、沸かしていた湯が、やかんの中で音を立てていた。
突然の母の叫び声に振り向いた瞬間、やかんが宙を舞った。理由を考える暇はなかった。
視界の先に、駿がいた。
夕凪は、咄嗟に駿に覆い被さった。
背中を熱が、叩きつけた。
息が止まり、声が出なかった。
皮膚の奥まで焼き抜かれるような痛みが走り、それでも腕の中で、駿が泣いているのが分かった。
——生きている。
遠のいていく意識の中で、駿の泣き声と白い湯気だけが、はっきりと残っていた。
※ ※ ※
再び目を開けると、浴室内はシャワーの湯気で真っ白に覆われていた。
一瞬のフラッシュバックと同時に、背中に疼くような感覚が走った。
背中に伸ばした指を伝うおうとつが、「忘れるな」と囁くようにそこに存在し続けている。
背中の萎んだ花は、夕凪の体の一部として静かに、そして確かに息づいていた。
それは消えることのない過去の刻印であり、夕凪を形作る、誰にも触れさせない秘密の紋章だった。
※ ※ ※
飾り気はなく、整然としたリビングに、浴室の水音が微かに忍びこんでいる。
テーブルには白い貝がスマホと並んで置かれてある。
暗転していたスマホのディスプレイが点灯し、一通のメッセージを映し出した。
——会って話がしたいの。
JOE’s BARに居るわ——
執筆の狙い
現在、執筆中の連載です。
第一話〜第三話、第四話〜第六話と二回に分けて投稿させていただきました。
完結作品ではない為、読んでくださった方には読みづらさと消化不良な感じを与えてしまい、もう申し訳ありません。
今回、第十話まで書き上げましたので、第一話から第十話を投稿します。
単純に、続きを読みたいか、そうではないかのご意見だけでもお伺いしたいと思います。
長くなり、失礼しました。